下位 春吉(しもい はるきち、1883年10月20日 - 1… 下位 春吉(しもい はるきち、1883年10月20日 - 1954年12月1日)は、日本の教育者、詩人、童話口演家。詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオやベニート・ムッソリーニと親交があり、イタリア軍に入隊してイタリア政府より勲章を授与され、帰国後イタリアのファシズム運動を日本に紹介した。 福岡県夜須郡秋月(現・福岡県朝倉市秋月)にて秋月藩士井上喜久蔵の四男として生まれる。井上家は維新後、没落士族となったため一家全員が炭鉱労働者として働かなければならないほど困窮していた。 旧制東筑中学を卒業後、一家とともに東京に上京し、1907年、東京高等師範学校英語科に入学した。同年、商人の下位嘉助の養子となる。
景山 圭一(かげやま けいいち、明治16年(1883年)10… 景山 圭一(かげやま けいいち、明治16年(1883年)10月18日 - 昭和32年(1957年)4月25日)は、日本の政治家。境町長(第15代)、境町会議員。鳥取県議会議員(議長、副議長)。 景山塾で名高い景山家の出身であり、景山粛の孫、景山龍造の甥にあたる。 鳥取県西伯郡境町(いまの境港市)出身。父は景山桂。 普通選挙法公布を前にして町村会選挙に初めて等級制がなくなった大正10年(1921年)の選挙で町会に進出、時代の波に乗った新勢力、革新派として境町政界に台頭した。 昭和2年(1927年)から20年間県会議員を務めた。町長職にあった昭和13年(1938年)から昭和14年(1939年)にかけては、第38代県会議長の要職にもあって町政、県政を股にかけ、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いであったという。
田中 邦治(たなか くにじ、1883年(明治16年)10月1… 田中 邦治(たなか くにじ、1883年(明治16年)10月18日 – 1960年(昭和35年)2月4日)は、衆議院議員(立憲民政党)。長野県須坂市長。 長野県上高井郡須坂町(現在の須坂市)出身。須坂町会議員、上高井郡会議員、同議長、長野県会議員、同参事会員、同副議長を歴任した。その他、長野県農会評議員、上高井郡農会長、長野電鉄株式会社監査役、長野温泉自動車株式会社監査役を務めた。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)にかけて須坂町長を務めた。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第20回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 戦後は第2代須坂市長を務めた。
三井 甲之(みつい こうし、1883年〈明治16年〉10月1… 三井 甲之(みつい こうし、1883年〈明治16年〉10月16日 - 1953年〈昭和28年〉4月3日)は、日本の歌人、文学者、右翼思想家。皇道歌人として知られる。原理日本社共同創立者。山梨県中巨摩郡敷島村出身。本名は甲之助。 山梨県中巨摩郡松島村(旧同郡敷島村及び敷島町、現・甲斐市大下条)出身。生家は地主の家庭。甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に入学したが校風になじめず、上京して京華中学校に転入。 1901年(明治34年)、第一高等学校第一部文科入学。文科の同級生に阿部次郎、岩波茂雄など。1902年(明治35年)に死去した正岡子規の短歌革新に共感する。三井の日記や手帳には子規句の書き抜きや、子規の死に際した追悼句が記されている。
上村 清太郎(うえむら せいたろう、1883年(明治16年)… 上村 清太郎(うえむら せいたろう、1883年(明治16年)10月15日 - 1947年(昭和22年)3月11日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 秋田県出身。1901年(明治34年)12月[要出典]、士官候補生(15期)として陸軍に入る。1903年(明治36年)陸軍士官学校を卒業し、翌年2月に陸軍砲兵少尉任官。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)卒業し、参謀本部要塞課に配属された。 陸軍重砲兵学校教導大隊長、同教育部長、横須賀重砲兵連隊長等を歴任し、1932年(昭和7年)8月、陸軍少将へ昇進。陸軍重砲兵学校幹事、野戦重砲兵第4旅団長、陸軍重砲兵学校長などを経て、1936年(昭和11年)4月、陸軍中将に進級。
窪田 駒吉(くぼた こまきち、1883年(明治16年)10月… 窪田 駒吉(くぼた こまきち、1883年(明治16年)10月15日 - 1935年(昭和10年)6月9日)は、日本の実業家。鈴木商店東京支店長を経て、日本製粉社長として同社の経営再建にあたった。 高知県長岡郡介良村(現高知市介良)の貧しい肴屋の子として生まれる。15歳で神戸に出て、阪神樟脳合資会社を経て、金子直吉の知遇を得て鈴木商店に入社。上海出張所詰や天津出張所詰を務めて、鈴木商店が東京進出を果たし1912年に東京支店が設立されると、支配人から東京支店長に就任した。1927年から鈴木商店傘下の日本製粉社長を務め、経営再建にあたった。鈴木商店破綻後、三井物産に支援を求め、1933年まで日本製粉相談役を務めた。
加藤 武夫(かとう たけお、1883年10月14日 - 19… 加藤 武夫(かとう たけお、1883年10月14日 - 1949年4月23日)は、日本の鉱床学者・地球科学者。学位は、理学博士(1924年)。東京帝国大学名誉教授。帝国学士院会員。 東京生まれ。劇作家加藤道夫は子供、小説家加藤幸子は孫にあたる。 役人の四男として神奈川県小田原市で生まれ、山形の資産家の養子となる。 東京帝国大学地質学科を1907年に卒業、フライベルク鉱山大学に留学(1909年 - 1911年)。明治専門学校教授(1911年 - 1920年)を経て、東京帝国大学教授(1920年 - 1944年)。1943年帝大理学部長、1945年名誉教授となる。 1924年、柵原鉱床の研究で理学博士。
大藪 守治(おおやぶ もりじ、1883年(明治16年)10月… 大藪 守治(おおやぶ もりじ、1883年(明治16年)10月14日 - 1945年(昭和20年)10月15日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 福岡県久留米市苧扱川町(現:久留米市本町)で、実業家・大藪房次郎の三男として生まれる。両替町(現: 城南町)に分家した。早稲田大学を修了後、欧米に遊学した。 1909年(明治42年)以降、筑後水力電気社長、九州水力電気取締役、筑後電気取締役、昭和電灯取締役、九州電気協会評議員、久留米商工会議所顧問などを務めた。筑後水力電気が九州水力電気に合併した際に、その分配金について紛争が生じたが、他の重役よりも社員を優先する立場に立って処理を行った。
稲田 元長(いなだ げんちょう、明治16年(1883年)10… 稲田 元長(いなだ げんちょう、明治16年(1883年)10月11日 – 没年不明)は、日本の実業家。元稲田本店代表社員。 早大卒。明治43年(1910年)九州水力電気(株)入社、大正3年(1914年)家業酒、醤油醸造販売に従事、大正4年(1915年)(名)稲田本店と改称、現職に就任。 昭和28年(1953年)米子酒類販売(株)取締役、米子酒造組合副理事長兼任、山陰水産(株)取締役、米子商工会議所副会頭、松江銀行米子支店長、米子酒造組合理事、米子酒販組合理事を歴任。 趣味は書画、骨董。住所は鳥取県米子市久米町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐々木 望(ささき まどか、1883年(明治16年)10月1… 佐々木 望(ささき まどか、1883年(明治16年)10月10日 - 1927年(昭和2年)11月15日)は日本の動物学者、分類学者(男性)である。世界的な頭足類の研究者として知られている。 瀧・五十嵐 (1967)に基づく。 1883年(明治16年)10月10日、広島県広島市大手町(現、広島市中区大手町)に生まれる。ハンガリーにて亡くなり、著名なモノグラフは彼の死後、1929年に発表されている。 和名、学名は奥谷 (2015)による。 和名、学名はJAMSTECのBISMaLによる。
殿岡 利助(とのおか りすけ、1883年〈明治16年〉10月… 殿岡 利助(とのおか りすけ、1883年〈明治16年〉10月8日 - 1952年〈昭和27年〉12月26日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員。幼名・福三。 栃木県足利郡足利町栄町(現足利市)で、織物製造業(元織)、先代・殿岡利助の長男として生まれる。父の死去に伴い1893年(明治26年)家督を相続した。1897年(明治30年)東京日本橋の織物問屋・安田源蔵商店に奉公し6年間勤めた。その後、3年間兵役に就いて帰郷した。 帰郷後、利助を襲名し、家業の復興に尽くし、殿利織物工場に成長して有限会社となる。「足利銘仙」の開発改良に尽力し、1934年(昭和9年)足利織物同業組合組長に就任。また、足利市会議員、同参事会員、同議長、足利市消防団組頭、同警防団長、大政翼賛会栃木県支部常務などを務めた。
野田 清一郎(のだ せいいちろう、 1883年〈明治16年〉… 野田 清一郎(のだ せいいちろう、 1883年〈明治16年〉10月6日 - 1968年〈昭和43年〉5月10日)は、日本の電気工学者。大阪工業大学初代学長・名誉教授。京都帝国大学元助教授・工学博士。 専門は、電気回路・電気工学(特に電動機)、電力工学・電線力学、教育工学。 1883年、岡山県岡山市旭町に生まれる。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1906年(明治39年)9月に京都帝国大学理工科大学入学。「電気の鬼」と評された青柳栄司の指導のもと、電気工学の研究に打ち込んだ。1908年(明治41年)7月に同大学電気工学科を卒業するとともに講師に着任し、1910年(明治43年)には助教授となった。
右近 福次郎(うこん ふくじろう、1883年〈明治16年〉1… 右近 福次郎(うこん ふくじろう、1883年〈明治16年〉10月4日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家。族籍は福井県平民。 福井県・右近権左衛門の男。右近和作の養弟。1901年、大阪府立北野中学校卒業。慶應義塾に学ぶ(1927年に特選)。1918年、分家する。 日本海上保険常務、同専務取締役、朝鮮電気社長、右近商事、元山水力電気、南朝鮮水力電気各取締役、日海興業、大阪酸水素、和歌山紡績各監査役等をつとめる。 実業界に入り日本海上保険、朝鮮電気、元山水力電気等の重役だった。兵庫県在籍で、住所は神戸葺合町、武庫郡住吉村室ノ内(現・神戸市東灘区住吉本町)。
楠城 嘉一(くすき かいち、1883年〈明治16年〉10月3… 楠城 嘉一(くすき かいち、1883年〈明治16年〉10月3日 - 1942年〈昭和17年〉)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家。鳥取県鳥取市長。旧姓は西垣。 西垣新次郎の三男として鳥取県八頭郡隼村(現・八頭町)に生まれ、楠城勘太郎の養嗣子となる。1917年(大正6年)10月、鳥取市会議員に当選し、以来1927年(昭和2年)12月まで在職する。ほか、協立銀行取締役、鳥取市参事会員、鳥取市会議長などを歴任し、1927年(昭和2年)12月20日、鳥取市長に就任した。 市長在職中は、下水道の新設、鳥取市立病院の設置、市立高等女学校・青年学校の新設、鳥取放送局の設置などに尽力した。
保科 正昭(ほしな まさあき、1883年〈明治16年〉10月… 保科 正昭(ほしな まさあき、1883年〈明治16年〉10月1日 - 1947年〈昭和22年〉10月11日)は、明治から昭和期の技師、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・盛之助。 旧飯野藩主・保科正益の三男として生まれる。父の死去に伴い、1888年(明治21年)3月14日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学理科大学鉱物学科を卒業。同年10月、主猟官に就任。以後、朝鮮総督府技師、農商務技師、東京帝室博物館嘱託、帝室林野管理局御用掛、地質調査所鉱物陳列館主任、京城工業専門学校講師などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
松本 誠(まつもと まこと、1883年(明治16年)10月1… 松本 誠(まつもと まこと、1883年(明治16年)10月1日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区)出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格。朝鮮総督府属、内務部庶務課長、平安北道財務部長、同第二部長、慶尚北道第二部長、京畿道第二部長、忠清南道第一部長、同内務部長、全羅北道内務部長、京畿道内務部長を歴任した。さらに財務局理財課長、鉄道局理事、専売局長を務め、1931年(昭和6年)に京畿道知事に就任した。 1934年(昭和9年)に退官した後は、朝鮮製錬株式会社社長、朝鮮金融組合聯合会長などを務めた。 戦後、公職追放となった。
弓館 小鰐(ゆだて しょうがく、1883年(明治16年)9月… 弓館 小鰐(ゆだて しょうがく、1883年(明治16年)9月28日 - 1958年(昭和33年)8月1日)は日本の新聞記者、随筆家。毎日新聞で記者として活動した他、『西遊記』などの翻訳でも活動した。本名は芳夫(よしお)。本名での活動も多い。 ペンネームは、中学生時代に背が低かったことから「小学生」と呼ばれていたことによる。小鰐生、小鰐狂生、小鰐坊という名義も稀に使用した。 岩手県西磐井郡一関町(現・一関市)出身。1896年(明治29年)、岩手尋常中学(現・岩手県立盛岡第一高校)に入学。同学年には言語学者の金田一京助、作家の野村胡堂、政治家の田子一民がおり、2年下の後輩に歌人の石川啄木がいた。 1901年(明治34年)、東京専門学校(現・早稲田大学)の高等予科に入学。
奥田 譲(おくだ ゆずる、1883年(明治16年)9月28日… 奥田 譲(おくだ ゆずる、1883年(明治16年)9月28日 - 1979年(昭和54年)8月1日)は、大正から昭和時代の日本の水産化学者。 東京府・奥田格の次男として三重県に生まれる。1909年(明治42年)東京帝国大学農科大学農芸化学科を卒業し、大学院に進み、1912年(大正元年)同大助教授となり、1914年(大正3年)ジャルート環礁へ学術調査のため出張する。1918年(大正7年)農学博士。その後、生物化学研究のため欧米へ渡り、帰国後の1921年(大正10年)九州帝国大学助教授、翌年教授に進み、1945年(昭和20年)総長に就任した。のち1950年(昭和25年)福岡女子大学長。日本学士院会員。
丸山 鶴吉(まるやま つるきち、1883年〈明治16年〉9月… 丸山 鶴吉(まるやま つるきち、1883年〈明治16年〉9月27日 - 1956年〈昭和31年〉6月3日)は、日本の内務官僚、政治家、教育者。警視総監、宮城県知事、武蔵野美術学校校長。位階は従三位。広島県沼隈郡松永村(現・福山市松永町)生まれ。 1883年(明治16年)、松永下駄の創始者、丸山茂助の四男として生まれる。負けん気の強い少年で、5年生になる頃には学校を仕切った。広島県立福山中学(現・福山誠之館高校)、第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学政治学科に入学。卒業後1909年(明治42年)、内務省に入る。 香川県警部、警視庁特高課長、保安課長、静岡県内務部長を歴任。保安課長時代には私娼撲滅運動を展開した。
増田 淳(ますだ じゅん、1883年〈明治16年〉9月25日… 増田 淳(ますだ じゅん、1883年〈明治16年〉9月25日 - 1947年〈昭和22年〉7月26日)は、日本の橋梁技術者。全国各地で多数の橋梁を設計した。 当時の橋梁設計は主に内務省や鉄道省などの組織の内部で行っていた。一方で米国で約15年間、設計技術を学んだ増田は、東京に設計事務所を開設し、自治体の嘱託として橋梁を設計する。事務所での約20年間に設計した橋は約80橋である。また、桁橋、トラス橋、アーチ橋、吊り橋など、様々な形式の橋を設計している。 昭和初期、戦時色が強まり橋梁建設事業も少なくなると、ドック、水門、地下鉄などの設計も手がけていたようだがその後の活動は不詳。 増田が手がけた代表的な橋は、信夫橋(福島県)、荒川橋(埼玉県)、白鬚橋(東京都)、伊勢大橋(三重県)、鳥羽大橋(京都府)、十三大橋(大阪府)、武庫大橋(兵庫県)、霞橋(岡山県)、吉野川橋(徳島県)、長浜大橋(愛媛県)、美々津橋(宮崎県)など全国各地に及ぶ。
嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9… 嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9月24日 - 1976年〈昭和51年〉6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍大将正三位勲一等功二級。 海兵32期・海大13期。海軍大臣(第22代)。軍令部総長(第17代)。A級戦犯として終身刑。 1883年(明治16年)9月24日、東京浅草に旧幕臣で神官の嶋田命周の長男として生まれる。実家が神官の家系であることから敬神家であり、毎朝の神社参拝を日課とし、日々の職務を規則正しくこなす、他の軍人に見られるような我の強さが無い、酒も飲まない、政財界との付き合いも一切無い、といった質素で非常に生真面目な人柄だったとも言われる。 東京中学を経て、1904年(明治37年)海軍兵学校32期を191人中27番の成績で卒業。
河田 烈(かわだ いさお、1883年(明治16年)9月24日… 河田 烈(かわだ いさお、1883年(明治16年)9月24日 - 1963年(昭和38年)9月27日)は、日本の大蔵官僚、大蔵大臣。
有地 十五郎(ありち じゅうごろう、1882年10月22日 … 有地 十五郎(ありち じゅうごろう、1882年10月22日 - 1947年11月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 海軍中将有地品之允の三男として東京に生まれる。 1900年(明治33年)3月、高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1905年(明治38年)11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。 1915年(大正4年)5月26日、駆逐艦「夕暮」駆逐艦長に就任。1917年(大正6年)11月、海軍大学校(甲種第15期)を卒業し海軍少佐に昇進した。 1918年(大正7年)1月、「槇」艦長となり、第二特務艦隊司令部付、「柏」駆逐艦長などを歴任し、1919年(大正8年)9月15日、第2水雷戦隊参謀に就任。
寺部 だい(てらべ だい、女性、1882年10月20日 - … 寺部 だい(てらべ だい、女性、1882年10月20日 - 1966年5月18日)は、愛知県碧海郡桜井村(現・安城市桜井町)出身の教育者。学校法人安城学園の創立者。藍綬褒章受章(1958年)。安城市名誉市民(1962年)。 1882年(明治15年)10月20日、愛知県碧海郡桜井村(現・安城市桜井町)出身。5歳の時には母親とともに、2か月かけて長野の善光寺参りを行っている。母親は道標に刻まれた文字を苦労して読んでおり、女子教育の大切さを痛感した母親はだいを学校に通わせる決心をした。6歳から13歳までは長谷部某の漢学塾に通い、だいは塾内で男子にもまれる悦びを知った。19歳で東京裁縫女学校(現・東京家政大学)に入学すると、自身で生活費を稼ぎながら夜間には教員養成所に通った。
角田 政之助(つのだ まさのすけ、1882年〈明治15年〉1… 角田 政之助(つのだ まさのすけ、1882年〈明治15年〉10月18日 - 1974年〈昭和49年〉1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 群馬県北勢多郡青木村(利根郡利根村青木を経て現・沼田市利根町青木)出身。群馬県尋常中学校利根分校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。日露戦争では連隊旗手を務め負傷する。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を優等で卒業した。陸大同期には畑俊六、杉山元両元帥、小磯國昭、二宮治重らがいる。 インド駐箚武官、参謀本部欧米課英国班長などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第79連隊長に就任。
小宮山 常吉(こみやま つねきち、1882年(明治15年)1… 小宮山 常吉(こみやま つねきち、1882年(明治15年)10月18日 - 1974年(昭和49年)4月24日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県西山梨郡甲府若松町(現甲府市若松町)で小宮山栄兵衛の長男として生まれる。甲府市立小学校高等科を卒業。甲府市内の河内屋古着店に勤める。1902年(明治35年)に上京し家具販売業を創業し、のち鉄鋼原料商を営んだ。1928年(昭和3年)[要出典]に長男英蔵が屑鉄・スクラップ業の小宮山商店を創業し、英蔵は常務取締役として、のちの平和相互銀行を中心とする「小宮山コンツェルン」の基礎を築いた[要出典]。 機械製造販売業も営み、足立鋼管社長、足立産業社長、昭和鋼管社長、協同証券重役、小島特殊機械製作所重役、大洋観光重役、京浜ホテル重役、日本金銀糸工業重役などを務めた。
林 久治郎(はやし きゅうじろう、1882年〈明治15年〉1… 林 久治郎(はやし きゅうじろう、1882年〈明治15年〉10月17日 - 1964年〈昭和39年〉7月23日)は、日本の外交官。駐ブラジル大使、南洋協会理事長。 栃木県下都賀郡壬生町生まれ。同期11名中9位の成績で外務省に入省。同期に吉田茂(のちに内閣総理大臣)、広田弘毅(のちに外務大臣)、武者小路公共(のちに駐ドイツ大使)、池邊龍一(のちに東洋拓殖総裁)、平田知夫(第一次世界大戦でモスクワ総領事在任中、39歳で夭逝)、尾崎洵盛(のちに男爵)ら。 奉天総領事着任直後に関東軍の謀略により張作霖爆殺事件が起こると、当時外相であった幣原喜重郎に関東軍が陰謀を目論んでいる旨の電報を打電するなど、軍部の行動を批判し平和的解決に努めた。
室木 弥次郎(むろき やじろう、1882年(明治15年)10… 室木 弥次郎(むろき やじろう、1882年(明治15年)10月16日 – 1973年(昭和48年)10月30日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)。弁護士。弁理士。 石川県鹿島郡西岸村(現在の七尾市)に衆議院議員室木弥八郎の二男として生まれる。1905年(明治38年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補、大阪区裁判所判事、大阪地方裁判所判事、大阪控訴院判事代理を歴任した。1913年(大正2年)、官を辞して弁護士を開業した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回衆議院議員総選挙で再選を果たした。 その他、熊木銀行取締役、能登銀行監査役、小田製糸株式会社社長を務めた。
高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年〈明治15… 高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年〈明治15年〉10月16日 - 1964年〈昭和39年〉11月17日)は、日本の実業家、政治家、著述家、詐欺師。筆名に高柳 曲水(-きょくすい)、翠崖(-すいがい)、鬼外(-きがい)などがある。 実業家としては「鉄道に賭けた男」、「通販史上に輝く巨星」、「今でいう企業再生ファンドのような・・・」などと、その創造力や先見性が注目された。その一方で、蓄財書を出版して投資家を集めるなか池上電気鉄道事業で詐欺・横領などの容疑で逮捕され、「貯金魔」「虚業家」などと呼ばれた。 1882年(明治15年)、茨城県行方郡要村(現在の行方市小幡)に生まれる。同村の旧制要小学校(後の行方市立要小学校)を卒業し、茨城県立尋常中学校(旧制茨城県立水戸中学校→茨城県立水戸第一高等学校)に入学。
野村 胡堂(のむら こどう、1882年(明治15年)10月1… 野村 胡堂(のむら こどう、1882年(明治15年)10月15日 - 1963年(昭和38年)4月14日)は、日本の小説家・人物評論家。『銭形平次捕物控』の作者として知られる。音楽評論家としての筆名はあらえびす、野村あらえびすとも。本名:野村 長一(のむら おさかず)。娘は作家の松田瓊子。 1938年発行の『レコード音楽』昭和13年3月号に、読者からの投書に答える形で、次のように述べている。 「ところで震災の前の年から私は美術と音楽のことも書くやうになつた。さうなると胡堂といふ名では少々堅苦しい感じがあるので、何か他の名を考へることにしたのが抑々あらえびすの名の出来るきつかけだつた。有名な浄瑠璃の「袖萩祭文」の中で「奥州のあらゑびす……」云々と阿倍貞任が威張るくだりがあるが、胡堂の胡がそのあらゑびすに相当するので(ゑびすに「にぎゑびす」即ち熟蛮と「あらゑびす」即ち生蛮の二種がある、その荒つぽい方なのである)ゑはえに変えて、斯くして茲にあらえびすの名が誕生を見た次第だ。
半田 神来(はんだ しんらい、1882年〈明治15年〉10月… 半田 神来(はんだ しんらい、1882年〈明治15年〉10月15日 - 1956年〈昭和31年〉)は日本の書家。本名は半田時之進。 半田丑松とチイの長男として[独自研究?]、栃木県河内郡野澤村(現・宇都宮市野沢)に生まれる。旧制宇都宮中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)を卒業。 旧制宇都宮商業、佐野中学校、花巻高等女学校に在職。1926年(大正15年)群馬師範学校に転任し1932年(昭和7年)まで勤務。退職後は桐生に在住し、晩年に郷里宇都宮に戻った。叙従七位。 書は岩田鶴皐、近藤雪竹、比田井天来に学ぶ。天来の書学院教授も務めた。天来の死去の際は、葬儀委員長を仰せつかっている。月刊誌『大成』を刊行して後進を指導した。
玉井 幸助(たまい こうすけ、1882年10月15日 - 1… 玉井 幸助(たまい こうすけ、1882年10月15日 - 1969年1月11日)は、日本の国文学者。 1905年、新潟師範学校卒、1909年、東京高等師範学校国語漢文科卒。 1950年、「更級日記錯簡考」で東洋大学・文学博士。 1910年、東京高等師範学校助教諭兼訓導、1915年同校教諭、1925年教授。1946年定年退官し、日本女子専門学校教授、1962年昭和女子大学長に就任。 専門は、平安鎌倉女流日記文学。
東恩納 寛惇(ひがおんな かんじゅん、1882年10月14日… 東恩納 寛惇(ひがおんな かんじゅん、1882年10月14日 - 1963年1月24日)は、沖縄の歴史学者・郷土史家・沖縄史家。東京帝国大学卒業。旧制府立高等学校、法政大学、拓殖大学各教授、拓殖大学図書館長、拓殖大学第一高等学校四代校長。沖縄県那覇出身。 1882年10月14日、新参慎氏の父東恩納寛裕母真呉勢の四男として沖縄県那覇東町に生まれる。沖縄県中学校(現・沖縄県立首里高等学校)、第五高等学校文科(現・熊本大学)を経て、1908年に東京帝国大学文科大学史学科卒業。東京府立一中教諭、高千穂高等商業学校(現高千穂大学)教員、府立高等学校や法政大学、拓殖大学等の教授を務めた。死後、琉球新報社によって「東恩納寛惇賞」が創設された。
大平 得三(おおひら とくぞう、1882年10月12日 - … 大平 得三(おおひら とくぞう、1882年10月12日 - 1962年1月15日)は、日本の医学者、衛生学者。九州大学名誉教授、鹿児島県立大学初代医学部長・初代学長・名誉教授、医学博士。 山形県飽海郡酒田町(後の酒田市)本町生まれ。医師大平楨作(山形県済生館医学校元教授)の長男。1900年に旧制荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校および山形県立致道館中学校・高等学校の前身)を卒業。1904年に旧制第一高等学校(東京大学教養学部前期課程の前身)から、京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学医科大学、九州帝国大学医学部、九州大学医学部)に2期生として入学。1908年12月に京都帝国大学福岡医科大学を卒業し、衛生学教室の助手となる。
水谷 竹紫(みずたに ちくし、1882年(明治15年)10月… 水谷 竹紫(みずたに ちくし、1882年(明治15年)10月8日 - 1935年(昭和10年)9月14日)は日本の劇作家、演出家、編集者。第2次芸術座の中心人物として活動した。 女優の水谷八重子は義妹。 長崎県長崎区(現・長崎市)出身。岡山尋常中学(現・岡山県立朝日高等学校)、県立大村中学(現・長崎県立大村高等学校)を経て、1901年(明治34年)、東京専門学校(現・早稲田大学)予科に入学。本科では早稲田大学文学部哲学科。同級に詩人の相馬御風が居た。 1906年(明治39年)、早稲田大学を卒業し、姫路連隊に一年志願兵として入隊。翌年には神楽坂の名妓と結婚するが、この夫人の妹が後の水谷八重子である。
田口 弼一(たぐち すけいち、1882年(明治15年)10月… 田口 弼一(たぐち すけいち、1882年(明治15年)10月8日 - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の官僚、政治家。法学博士。 昭和前期に1930年から8年にわたり衆議院書記官長を務め、藤沢幾之輔、中村啓次郎、秋田清、浜田国松、冨田幸次郎、小山松寿の6代の議長を補佐し、議会振粛のために尽力した。この期間は、濱口内閣から第1次近衛内閣までに当たり、民政党・政友会の二大政党による政党内閣とその終焉(五・一五事件、1932年)、満洲事変・満州国建国(1931年~1933年)、二・二六事件(1936年)、斎藤隆夫の粛軍演説(1936年5月7日)、帝国議会議事堂の竣工(1936年11月7日)、日中戦争の勃発(1937年)があった時期である。
大曲 駒村(おおまがり くそん、1882年10月8日 - 1… 大曲 駒村(おおまがり くそん、1882年10月8日 - 1943年3月24日)は、日本の美術評論家、川柳研究家。本名・省三。 福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)に生まれる。1892年、小高小学校を卒業し、福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)へ入学するも病気退学。 1900年、小高銀行に就職。1901年、友人の鈴木余生と俳句グループ「渋茶会」を結成し、俳句を始める。1906年、余生が死ぬと新たに「浮舟会」を結成し、明治20年から30年代に正岡子規と一門らが始めた俳句・短歌の一大革新運動にも参加。1911年、福島県に関連する句を選び出した『雙巌集』を刊行。小高俳壇草創期のリーダーであった。 1917年、小高銀行が倒産して失職する。
滋野 清武(しげの きよたけ、1882年10月6日 - 19… 滋野 清武(しげの きよたけ、1882年10月6日 - 1924年10月13日)は、明治・大正期の飛行家である。父・滋野清彦の男爵を襲爵。「欧州の空で戦った侍飛行家」とも評され、フランス陸軍航空隊のエース部隊のパイロットとして活躍しレジオン・ドヌール勲章、クロワ・ドゥ・ゲール勲章を受勲。通称をバロン滋野。 1882年10月6日、男爵滋野清彦の三男として名古屋に生まれた(東京生まれとも)。1896年に父を亡くし13歳で襲爵。父の軍功に応えるべく、学習院を中退して広島陸軍地方幼年学校に入学するが、生来芸術家肌であったために神経衰弱を患って中退する。千葉県安房郡館山町上須賀の別荘で遊興したのち、家庭教師だった山田耕筰の勧めで上野の東京音楽学校予科に入学し、本科器楽科でコルネットを習得した。
原 志免太郎(はら しめたろう、1882年〈明治15年〉10… 原 志免太郎(はら しめたろう、1882年〈明治15年〉10月4日 - 1991年〈平成3年〉6月18日)は、日本の医師。100歳で『新しい灸学』を出版し、104歳まで聴診器を持ち、108歳で死去した時点では男性長寿日本一だった。 1882年10月4日に、原田種紀・トエの四男として生まれ、父は黒田藩に仕える武士であったが明治維新を体験、県庁の役人、しかし失業と不遇の中、これ以上「子」はいらぬと「締め」、志免太と名づけたが戸籍係の間違いか「郎」が足され「志免太郎」になった。 高等小学校卒業後、親元を離れ福岡市大浜三丁目(現・博多区大博町)の原三信の医学生となり、独学。(後に原一族の女婿となる。)検定資格を取り京都府立医専(現・京都府立医科大学)に入り、卒業。
江原 小弥太(えはら こやた、1882年10月4日〜1978… 江原 小弥太(えはら こやた、1882年10月4日〜1978年4月2日)は、作家。新潟県柏崎生まれ。1900年新潟県立高田師範学校卒。小学校教員ののち、1903年東京物理学校入学。キリスト教に接近し、江原書店を経営するなどしたのち、1921年『新約』を刊行しベストセラーとなる。以後戦時下まで作家として活動。
片岡 敏郎(かたおか としろう、1882年10月3日 - 1… 片岡 敏郎(かたおか としろう、1882年10月3日 - 1945年1月31日)は、戦前の広告業界で活躍したコピーライター(当時の呼び名で「アドライター」)の第一人者。「天才」と謳われた。静岡県焼津市出身。 旧制開成中学校卒業[要出典]後、海軍兵学校を目指すも叶わず、静岡中学校を卒業。泉鏡花に師事して文筆家を目指すが挫折。1906年、シャム公使館に勤務。1909年から1912年まで渡航。広告業界に足を踏み入れるきっかけは本人曰く「たまたま見た森永(製菓)の広告がまるでダメで、これなら俺の方がよいものができる」と思ったからだという。帰国後の1913年、日本電報通信社(現・電通)に入社するも、翌年には、その森永製菓に広告部長として招かれ、ヒット広告を次々と打ち出す。
室谷 藤七(むろたに とうしち、前名・藤太郎、1882年〈明… 室谷 藤七(むろたに とうしち、前名・藤太郎、1882年〈明治15年〉10月3日 - 没年不明)は、日本の商人(材木商)、アマチュアゴルファー、実業家、兵庫県多額納税者、神戸商工会議所議員。 兵庫県人・先代藤七の長男。1906年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1912年、家督を相続し前名・藤太郎を改め襲名した。竹木材商、材木問屋、製竹輸出業、クレー製造業を営む。 会社の重役であり、室谷商店社長、室谷工業会長、大平鉱山会長、太平鉱山社長、神戸果実青物市場取締役、廣野ゴルフ倶楽部、大日本塩業各監査役などをつとめた。 アマチュアゴルファーとしても知られた。趣味は武道、ゴルフ。宗教は浄土宗。兵庫県神戸市須磨区在籍で、住所は神戸市須磨区離宮前、同区大黒町。
中島 覚之(なかじま さだゆき、1882年(明治15年)10… 中島 覚之(なかじま さだゆき、1882年(明治15年)10月1日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚・台湾総督府官僚。旧名は秀太郎。 佐賀県藤津郡八本木村(現在の鹿島市)出身。第五高等学校を経て、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。司法官試補・釜山地方法院在勤、京城地方法院判事、税関監視官・事務官・仁川税関監視課長・税務課長、平安北道財務部長、仁川府尹、専売局事務官・大邱専売支局長、全州専売支局長などを歴任した。 1927年(昭和2年)、台湾総督府に転じ、専売局参事・煙草課長、高雄州内務部長、新竹州内務部長を務めた。
内藤 伸(ないとう しん、1882年10月1日 - 1967… 内藤 伸(ないとう しん、1882年10月1日 - 1967年8月21日)は、彫刻家・日本芸術院会員。 1882年(明治15年)、島根県飯石郡吉田村(現・雲南市)に生まれる。上京して高村光雲に師事、1904年(明治37年)、東京美術学校選科卒。文展出品ののち、1914年(大正3年)、日本美術院同人、1915年、再興院展に出品、1919年、脱退。1921年(大正10年)、帝展審査委員、1927年(昭和2年)、帝国美術院会員、1929年(昭和4年)、日本木彫会を設立し主宰する。戦後は日展に出品し日本芸術院会員。1952年(昭和27年)、日本木彫会再興、1958年(昭和33年)、日展顧問、1965年(昭和40年)、勲三等瑞宝章受章。
小林 橘川(こばやし きっせん、1882年〈明治15年〉10… 小林 橘川(こばやし きっせん、1882年〈明治15年〉10月1日 - 1961年〈昭和36年〉3月16日)は、日本のジャーナリスト、政治家。名古屋市長を3期務めた。 滋賀県野洲郡守山町(現・守山市)にて漢方薬商、山本藤右衛門の三男として生まれた。幼名は音次郎。1884年(明治17年)、滋賀県野洲市北桜の浄土宗多門寺の小林麗海の養子となり海音と改名した。その後、浄土宗高等学院(現大正大学)入学するが中退。小学校教員、京都府内の極楽寺住職を経て、ジャーナリストとしての才覚を発揮し1905年(明治38年)には「近江新報」主筆となり、県政批判の筆を揮った。1911年(明治44年)名古屋新聞に転じ1914年(大正3年)より「名古屋新聞」主筆を経て、1942年(昭和17年)政府の指導で「新愛知新聞」と合併した「中部日本新聞(現中日新聞)」の取締役となった。
本野 精吾(もとの せいご、1882年(明治15年)9月30… 本野 精吾(もとの せいご、1882年(明治15年)9月30日 - 1944年(昭和19年)8月26日)は、大正期から昭和初期にかけて京都を中心に活躍した建築家。日本におけるモダニズム建築の先駆者のひとり。
鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年〈明治15年〉9月… 鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年〈明治15年〉9月29日 - 1936年〈昭和11年〉6月27日)は、広島県広島市出身の小説家、児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。 1882年(明治15年)9月29日、広島県広島市猿楽町(現、中区紙屋町、現在エディオン広島本店 本館がある地)に、父悦二、母ふさの三男として生まれる。 1889年(明治22年)本川小学校に入学。1891年(明治24年)三重吉が9歳の時に、母ふさが亡くなる。1893年(明治26年)11歳の時に、第一高等小学校に入学。1896年(明治29年)広島県広島尋常中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)に入学。1897年(明治30年)、三重吉が15歳の時に書いた『亡母を慕ふ』が、「少年倶楽部」4月号に、『天長節の記』が「小国民」9年2号(どちらの雑誌も北隆館)に掲載される。
片岡 直方(かたおか なおまさ、1882年(明治15年)9月… 片岡 直方(かたおか なおまさ、1882年(明治15年)9月26日 - 1949年(昭和24年)3月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。 東京府神田駿河台(現:東京都千代田区)で海軍主計官・片岡直輝の長男として生まれる。1893年(明治26年)父の大阪府書記官就任に伴い大阪に移住。大阪府第一中学校、第七高等学校造士館を卒業。東京帝国大学法科大学に入学したが、京都帝国大学法科大学に転じ、1910年(明治43年)7月、同大学を卒業した。 卒業後、父が役員を務めていた阪堺電気軌道に入社し、一社員として現場での働きを経験して庶務課長に昇進。3年ほど務め、今後の経営者としての働きのため金融の経験が不可欠と考え、近江銀行に転じた。
釈 瓢斎(しゃく ひょうさい、1882年9月26日 - 19… 釈 瓢斎(しゃく ひょうさい、1882年9月26日 - 1945年8月6日)は、日本の作家・新聞記者である。本名永井栄蔵。別号として永井瓢斎がある。 1882年(明治14年)9月26日、島根県安来町西灘に生まれる。父親は永井彦衛門。永井家は雲伯で産出する砂鉄鋼を集出荷する鉄問屋であり、酒造業も営む地域の素封家であった。しかし、瓢斎が生まれた頃には、家運は下向き気味となっていた。松江中学校に入学したのち、万寿寺の勝平宗潤の会下に参じる。中学時代より、瓢斎の号を用いるようになる。卒業後は早稲田大学に進学するが、同郷の開業医である足立健三郎の援助を受け、第三高等学校に転学する。同校で「賄征伐の歌」を作曲。
寺島 健(てらしま けん、1882年(明治15年)9月23日… 寺島 健(てらしま けん、1882年(明治15年)9月23日 - 1972年(昭和47年)10月30日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍中将で予備役となったのち、東條内閣で逓信大臣、鉄道大臣を務めた。 戦国時代は武田信虎に仕え、江戸時代中期以降、紀州徳川家御付家老安藤家家中であった。父寺島良業は和歌山県庁に勤務し、寺島はその四男である。妻は尾本知道の四女悦子 。 和歌山中学に進んだ寺島は、中学の先輩で海軍兵学校に在籍していた岡本米次郎、野村吉三郎の生徒服姿に憧れ、海軍兵学校への進学を決めた。志願者1374名中合格者は200名で、中学四年修了で受験した寺島の席次は16番であった。寺島は学年が進むとともに席次を上げ、卒業席次は4番である。