佐藤 国司(さとう こくし、1875年〈明治8年〉5月2日 … 佐藤 国司(さとう こくし、1875年〈明治8年〉5月2日 - 1946年〈昭和21年〉7月1日 )は、大正から昭和時代前期の政治家、新聞経営者。北海道釧路市長。 千葉県匝瑳郡共興村(現・匝瑳市)出身。佐藤鉄之助の長男。明治法律学校を経て、1904年(明治37年)東京法学院を卒業する。1909年(明治42年)釧路実業新聞を創刊し、白石義郎らと共に釧路実業調査会を設立する。1910年(明治43年)釧路町会議員当選を皮切りに、水産組合議員、漁業組合議員、北海道会議員、北海道参事会員を経て、1922年(大正11年)から釧路市会議員に2期当選する。 1928年(昭和3年)推挙され釧路市長に就任し、同市会議員を経て、1936年(昭和11年)同市長に再選した。
冨田 斅純(とみた こうじゅん、1875年5月2日 - 19… 冨田 斅純(とみた こうじゅん、1875年5月2日 - 1955年7月22日)は、明治〜昭和期の日本の僧侶。真言宗豊山派管長および教育者。 「斅」が特殊文字であることから、ウェブ上では「富田学純」という代用表記も見られる。 長野県水内郡水内村(現・長野市信州新町)に生まれる。1897年、哲学館(現・東洋大学)卒業。1882年、長野県更府村長勝寺の冨田容純の従弟となる。1902年、哲学館の卒論を「新義真言宗史綱」として出版。1911年、真言宗豊山派宗務長、同派集議などを経て、1932年、同派管長となり、大僧正。 1914年より東京中野宝仙寺住職。一方1920年豊山大学長となり、1926年同大と大正大学合同で、大正大学教授となった。
橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4… 橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4月28日 - 1944年(昭和19年)1月18日)は、愛知県額田郡柱村(現・岡崎市柱)出身の技術者・実業家。 日産自動車、ダットサン、いすゞ自動車の前身である快進社の創立者。 1875年(明治8年)4月28日、愛知県額田郡柱村19番(現・岡崎市柱6丁目)に生まれた。父は橋本斧吉、母はくらであり、増治郎は次男だった。生家は「大橋本」と呼ばれる旧家であり、兄の橋本松次郎は岡崎村会議員や岡崎村長を務めている。 羽根小学校、額田郡高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業すると、1891年(明治24年)に東京工業学校(現・東京工業大学)に入学し、1895年(明治28年)に工芸部機械科を卒業した。
上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月… 上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月23日 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本画家。気品あふれる美人画を得意とした。1948年に女性として初めての文化勲章を受章。息子に日本画家の上村松篁。孫に上村淳之。 京都に生まれ育ち、本名は上村 津禰(うえむら つね)、常子(つねこ)と名乗っていたこともある。 1875年(明治8年)、京都府京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。父は上村太兵衛、母は仲子。松園の祖父・上村貞八は大塩平八郎の甥と言われる。父・太兵衛は松園が生まれる2ヶ月前に他界したが、仲子は再婚することなく女手一つで娘2人を育て上げた。
小林 久平(こばやし きゅうへい、1875年4月23日 - … 小林 久平(こばやし きゅうへい、1875年4月23日 - 1954年2月7日)は、明治-昭和期の日本の化学者。 新潟県に生まれる。東京帝国大学卒。同大学の講師、宝田石油技師を経て、1918年に早稲田大学教授となる。石油精製に使われる酸性白土の発見および研究で知られる。「酸性白土」の命名も小林が行っている。1935年工業化学会有功賞、1953年日本化学会功績賞受賞。 化学機械協会(現: 公益社団法人化学工学会)の初代会長(1936年-1938年)を務めた。
高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日… 高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日 - 1960年〈昭和35年〉2月28日)は、日本の数学者。学位は、理学博士。東京帝国大学名誉教授。第1回フィールズ賞選考委員。文化勲章受章者、文化功労者。 岐阜県大野郡数屋村(現:本巣市)に生まれる。岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)を経て第三高等中学校(現:京都大学)へ進学し、1894年(明治27年)に卒業。 帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)数学科へ進み、卒業後にドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。 代数的整数論の研究では類体論の確立に貢献し、特に高木の存在定理の証明で知られる。 ヒルベルトの23の問題のうち、第9問題と第12問題(に関連した世界的な難問)を肯定的に解決した。
川西 和露(かわにし わろ、1875年(明治8年)4月20日… 川西 和露(かわにし わろ、1875年(明治8年)4月20日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は日本の俳人、俳書収集家。本名は徳三郎。 兵庫県神戸市に生まれる。兵庫県立神戸商業高等学校卒業後、鉄材商を営む。俳句は河東碧梧桐に師事。俳誌「阿蘭陀渡」を創刊。句集に「和露句集」がある。碧梧桐主宰の俳誌『海紅』に創刊号から参画した。
森丘 覚平(もりおか かくへい、1874年〈明治7年〉5月1… 森丘 覚平(もりおか かくへい、1874年〈明治7年〉5月19日 - 1927年〈昭和2年〉12月1日)は、日本の政治家、富山県多額納税者。衆議院議員(憲政会)。富山県会議員、同議長。富山県政界元老。族籍は富山県平民。勲四等瑞宝章。 富山県下新川郡大布施村(現・黒部市)出身。先代・森丘覚平の長男。1877年、家督を相続した。慶応義塾に学び、1912年に特選。農業を営む。 明治中期から郡会議員、同副議長、次いで富山県会議員、同参事会員、議長を歴任した。1905年2月4日から1906年9月16日まで大布施村長に就任したのを経て、1912年以来衆院議員当選3回。桜庄銀行、生地銀行各取締役、魚津銀行、北陸人造肥料各監査役なども務めた。
板野 友造(いたの ともぞう、1874年(明治7年)5月18… 板野 友造(いたの ともぞう、1874年(明治7年)5月18日 - 1945年(昭和20年)12月12日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 岡山県吉備郡足守町(現在の岡山市北区)で生まれる。関西法律学校(現在の関西大学)を卒業後、明治法律学校(現在の明治大学)に学び、1901年に卒業した。同年、判検事試験に合格し、司法官試補として高松区裁判所に赴任するが、半年で辞した。1902年(明治35年)より大阪市で弁護士を開業。 1913年(大正2年)、大阪市会議員に選出され、副議長を務めた。1920年(大正9年)1月、衆議院に補欠当選。以後、当選回数は合計5回を数えた。当初は立憲国民党所属であったが、立憲国民党解党後は革新倶楽部を経て立憲政友会に参加した。
伊藤 道海(いとう どうかい、1874年5月18日 - 19… 伊藤 道海(いとう どうかい、1874年5月18日 - 1940年7月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶。最乗寺住職、曹洞宗管長、總持寺独住9世貫首。別名、無辺光照禅師。号は天祐。 新潟県生まれ。幼少から肺肋膜を病む。1882年(明治15年)新潟広大寺の横木卍元(まんげん)に師事して得度。闘病と仏道修行に励む。1893年能登の総持寺僧堂に掛錫し、杉本道山に師事。1895年卍元に嗣法。一雲水として修行中の1898年、寺が全焼。猛火の中を宝物や重要文書を運び出し、優れた功績をあげた。1900年26歳のとき、選ばれて曹洞宗大学林(現駒澤大学)に入学。1904年同大学林卒業。同年7月、山形県宝鏡寺住職となる。
緒方 惟一郎(おがた ゆいいちろう、1874年〈明治7年〉5… 緒方 惟一郎(おがた ゆいいちろう、1874年〈明治7年〉5月18日 - 1951年〈昭和26年〉10月21日)は、日本の内務・警察官僚。位階は正五位。官選青森県知事、警視庁消防部長。 熊本県出身。緒方夫門の長男として生まれる。第五高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1905年3月、内務省に入省し警視庁属兼警部となる。 1910年、警視庁警視・神田警察署長に就任。以後、浅草南元町警察署長、麻布鳥居坂警察署長などを経て、1915年、警視庁消防部長となり、9年間在任した。 1924年6月6日、青森県知事に発令されたが、在任18日後の6月24日に休職となる。その理由は不明である。
蒲原 久四郎(かんばら きゅうしろう、1874年(明治7年)… 蒲原 久四郎(かんばら きゅうしろう、1874年(明治7年)5月18日 - 1933年(昭和8年)1月29日)は、日本の逓信官僚。朝鮮総督府官僚。 佐賀県出身。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。通信事務官・東京郵便電信学校教授、神戸郵便局監理課長、横浜郵便局監理課長、鹿児島郵便局長、逓信書記官・経理局検査課長、新潟逓信管理局長、名古屋郵便局長、西部逓信局総務部長、通信局規画課長、臨時電信電話建設局広島出張所長、朝鮮総督府逓信局長を歴任した。 1933年(昭和8年)1月29日、糖尿病のため朝鮮京城府東四軒町(現大韓民国ソウル特別市中区奨忠洞)の自宅で死去、58歳。
内山 愚童(うちやま ぐどう、1874年〈明治7年〉5月17… 内山 愚童(うちやま ぐどう、1874年〈明治7年〉5月17日 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義運動家、仏教者。 僧侶として曹洞宗林泉寺の住職を務め、幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。 1874年(明治7年)5月17日 に新潟県北魚沼郡小千谷町(現:新潟県小千谷市)において、宮大工で木形職人であった父・直吉、母・カヅの長男として生まれる。幼名は慶吉で、1885年(明治18年)に小千谷市立小千谷小学校を卒業する。 1890年(明治23年)10月に父が死去すると、内山は長男として家業を継ぐはずだったが、1893年(明治26年)頃に小千谷を離れた。井上円了の住み込みもしていたとの説もある。
藤田 外次郎(ふじた がいじろう、1874年(明治7年)5月… 藤田 外次郎(ふじた がいじろう、1874年(明治7年)5月15日 - 没年不明)は日本の陸軍教授、教育者、数学者。 石川県士族の家に生まれる。1891年(明治25年)7月に予科を卒業し、9月に第四高等中学校の特待生を勝ち取った。1894年、(明治28年)7月、第四高等学校第二部理科を卒業。1898年(明治31年)7月、東京帝国大学を卒業。8月12日、高等官八等を以て陸軍教授に就任し、8月13日に陸軍砲工学校附を命じられた。8月19日、東京帝国大学大学院に入学し、帰納幾何学を専攻。学士会にも参加している。1903年(明治36年)12月1日より砲工学校に復職。1904年(明治37年)10月28日、歩兵少尉に任命され従軍、翌1905年(明治38年)12月30日に退役した。
塚口 慶三郎(つかぐち けいざぶろう、1874年〈明治7年〉… 塚口 慶三郎(つかぐち けいざぶろう、1874年〈明治7年〉5月11日 - 1925年〈大正14年〉10月30日)は、日本の実業家。北海道鉄道専務取締役、東亜紡織発起人、秩父セメント取締役、日本フエルト取締役などを歴任した。 和歌山県海草郡黒江町生まれ。旧制中学校卒業後、1896年高等商業学校(のちの一橋大学)卒業、日本鉄道入社。同社倉庫課で2年間勤務した。 川崎銀行庶務部長を経て、1918年に同行から鈴木商店(のちの味の素)に取締役として派遣されたが、1920年の戦後恐慌の際に経営危機に陥り引責辞任した。 同年東亜紡織発起人。1921年東京煉瓦監査役。1922年に中央毛糸紡績が設立されると同社取締役に就任。
河井 醉茗(かわい すいめい、1874年〈明治7年〉5月7日… 河井 醉茗(かわい すいめい、1874年〈明治7年〉5月7日 - 1965年〈昭和40年〉1月17日)は、日本の詩人。本名、又平。大阪府堺市生まれ。 「文庫」の記者として詩欄を担当し、多くの詩人を育てる。また雑誌「女性時代」「詩人」を刊行するなどして口語自由詩を提唱した。詩集に『無弦弓』『塔影』など。 1874年5月4日、大阪府堺市北旅籠町に生れた。父は又平、母はせいで、呉服商を営んでいた。幼名は幸三郎。1881年錦西小学校入学。東京専門学校中退。18歳で「少年文庫」などに詩などの投稿を重ねる。20歳のときに詩「亡き弟」が初めて「少年文庫」に掲載され、以後「文庫」(「少年文庫」改題)の記者として、1907年に退くまで詩欄を担当し、北原白秋、島木赤彦らを世に送った。
木村 重治(きむら しげはる、1874年5月4日 - 196… 木村 重治(きむら しげはる、1874年5月4日 - 1967年7月18日)は、日本の西洋史学者、教育者。立教大学元学長、立教大学経済学部元教授・学部長、長崎高等商業学校(現・長崎大学)元校長、東京商科大学(現・一橋大学)元教授、慶應義塾大学元教授、台湾協会学校(現・拓殖大学)元教授、山口高等商業学校(現・山口大学)元教授、啓明学園学園長。 1874年(明治7年)5月4日、奈良県で木村芳三郞の二男として生まれる。 1892年(明治25年)7月、立教大学の姉妹校である聖公会の奈良英和学校に入学。同校が中学校制に改め廃校となると、東京の立教学校(現・立教大学)に転学。1894年(明治27年)6月、立教学校卒業。
石坂 豊一(石坂 豐一、いしさか とよかず、1874年〈明治… 石坂 豊一(石坂 豐一、いしさか とよかず、1874年〈明治7年〉5月3日 - 1970年〈昭和45年〉5月5日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。富山市長、衆議院議員(5期)、参議院議員(2期)。 1874年富山県新川郡大崎野村(上新川郡東加積村、中新川郡東加積村、滑川町を経て現・滑川市大崎野)に10人兄弟の末っ子として生まれる。中学進学は家計上困難だったが、姉の力添えで1892年に富山県尋常中学校(現・富山県立富山高等学校)を卒業。同期に山田孝雄。税関監吏補試験に合格して神戸税関に勤務しながら京都の同志社で学ぶ。1897年に中退して帰郷し、郡書記、富山県属、婦負郡長などを務め、上司だった永井金次郎が樺太庁長官に就任したのを機に招聘され、樺太庁長官官房主事兼地方課長を歴任する。
永井 金次郎(ながい きんじろう、1874年(明治7年)5月… 永井 金次郎(ながい きんじろう、1874年(明治7年)5月3日 - 1927年(昭和2年)4月3日)は、日本の内務官僚。政友会系官選高知県知事、樺太庁長官。 新潟県出身。1897年、東京法学院(現:中央大学)を卒業。同年、判事検事登用試験に合格し司法官試補となる。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1898年、内務省に転じ青森県在勤となる。 以後、青森県参事官、千葉県参事官、広島県事務官、富山県事務官・第一部長兼第三部長、同内務部長などを歴任。 第1次山本内閣により1913年6月、高知県知事に任命された。県財政の積極的拡大を図った。1914年6月に休職となった。1917年1月、小樽区長に就任。
高橋 武太郎(たかはし たけたろう、1874年〈明治7年〉5… 高橋 武太郎(たかはし たけたろう、1874年〈明治7年〉5月1日 - 1951年〈昭和26年〉4月18日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。長野県の電力会社信濃電気で常務取締役を務めたのち独立し研削材メーカーの信濃電気製錬(旧・大正電気製錬所)を起業した。岡山県出身。 岡山県民・山形和吉の六男として1874年(明治7年)5月1日に生まれる。出身地は岡山県苫田郡津山町(現・津山市)。1878年(明治11年)2月高橋家に養子入りし家を継いだ。山口県立山口中学校を経て山口高等学校に入り、1896年(明治29年)7月に卒業。次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。
紀平 正美(きひら ただよし、1874年4月30日 - 19… 紀平 正美(きひら ただよし、1874年4月30日 - 1949年9月19日)は、日本の哲学者。文学博士。学習院教授、国民精神文化研究所哲学科所員。帝大七生社代表。 日本におけるヘーゲル哲学研究の先駆者。主著に『行の哲学』、『日本精神』など。三重県出身。 1874年、三重県で生まれた。第四高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に進学。1900年に卒業。 1905年より小田切良太郎と共にゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『哲学体系』を翻訳して掲載し、日本への紹介を始めた。ヘーゲルの『哲學大辭書』(1912年)の編纂においては論理学・認識論に関する記事の執筆を担当した。國學院大學・東洋大学などでの講師を経て、1919年に学習院教授に就任。
吉江 琢兒(よしえ たくじ、1874年4月29日 - 194… 吉江 琢兒(よしえ たくじ、1874年4月29日 - 1947年12月26日)は、日本の数学者。東京帝国大学名誉教授。専門は微分方程式論。高木貞治とともに日本で最初の数学科出身の数学者。 東宮御学問所御用掛として皇太子時代の昭和天皇に数学を進講している。 1874年4月、山形県上山生まれ。誕生の翌年、元上山藩士の父・磨磋記が県庁勤務から東京の陸軍省会計課勤務となり、東京に移住。芝小学校に入学。10歳の時に父の転勤に伴い広島の小学校に転校、広島県尋常中学校を経て、1891年第三高等中学校に入学。同級に高木貞治、一級上に林鶴一がいた。三高では河合十太郎に数学を学び、リヒャルト・デーデキントの「連続性と無理数」を強制的に読まされたという。
三井 米松(みつい よねまつ、1874年(明治7年)4月27… 三井 米松(みつい よねまつ、1874年(明治7年)4月27日 – 1953年(昭和28年)4月15日)は、農商務官僚、商工官僚。実業家。 旧対馬藩士佐伯雲平の二男として佐賀県(後に三潴県、長崎県となる)下県郡厳原に生まれ(兄は教育者の佐伯小弥太)、後に福山藩士三井豊次郎の養子となった。第五高等学校を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業した。さらに同大学法科大学に入り、1906年(明治39年)に英法科を卒業した。翌年に農商務省に入省。水産局属。水産講習所教授、水産局書記官、農商務書記官、福岡鉱務署長、東京鉱務署長、農商務省水産局長、商工省鉱山局長、社会局参与などを歴任した。
松城 兵作(まつしろ ひょうさく、1874年(明治7年)4月… 松城 兵作(まつしろ ひょうさく、1874年(明治7年)4月26日 - 1942年(昭和17年)2月8日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 静岡県田方郡戸田村(現沼津市)出身。先代松城兵作の長男として生まれ、1892年(明治25年)1月、家督を相続する。 農業を営む傍ら、静岡県会議員、地方森林会議員、静岡県山林会常議員、同水産会、同漁業連合会各顧問を歴任した。財界では、松崎水力電気取締役、沼津回漕店取締役社長を務めた。1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
濱口 梧洞(はまぐち ごとう)または10代目 濱口 儀兵衛(… 濱口 梧洞(はまぐち ごとう)または10代目 濱口 儀兵衛(じゅうだいめ はまぐち ぎへえ、1874年(明治7年)4月24日 - 1962年(昭和37年)1月31日)は、和歌山県出身の実業家・貴族院議員。明治後期から昭和戦前期にかけて、ヤマサ醤油株式会社を経営する濱口儀兵衛家の当主を務めた。「醤油王」と謳われた。銚子市名誉市民。 1874年(明治7年)、4月24日、和歌山県有田郡広村大字広(現在の和歌山県有田郡広川町)に、ヤマサの屋号で知られる濱口儀兵衛家の8代濱口儀兵衞の二男として生まれた。出生名は濱口慶次。1895年(明治28年)、立教学校(現・立教大学)卒業。その後、帝国大学理科に進み、イギリスに留学して化学を専攻した。
神田 重雄(かんだ しげお、1874年(明治7年)4月22日… 神田 重雄(かんだ しげお、1874年(明治7年)4月22日 - 1947年(昭和22年)12月6日)は、日本の政治家。青森県八戸市の2代目~4代目市長。八戸港の修築に尽力した。八戸市では岩岡徳兵衛と並んで名市長と讃えられる。 実弟に、毎日新聞社の主筆や東京本社代表取締役を務めた神田五雄がいる。 三戸郡湊村(現在の八戸市)に移住した斗南藩士の家に生まれる。 16歳から20歳までの間、郵便局を経営していた伯父を頼って根室に移り住み、学問を修め、伯父の下で働いた。 1894年に地元へ戻った後は湊尋常小学校教員を経て、1896年に湊村役場に勤め始める。1897年9月神戸で開かれた水産博覧会で、漁網の出展に携わったことをきっかけに長谷川藤次郎の影響を受けて、本格的に漁業に携わるようになった。
桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年〈明治6年〉5月2… 桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年〈明治6年〉5月20日 - 1941年〈昭和16年〉9月10日)は、石川県出身のジャーナリスト、評論家。本名は桐生 政次(きりゅう まさじ)。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」は、当時にあって日本の都市防空の脆弱性を正確に指摘したことで知られる。 金沢市にて、貧しい旧加賀藩士の三男として生まれる。旧制第四高等学校では小学校以来の同級生徳田秋声と親交を深め、1892年(明治25年)には小説家を志して共に退学・上京するなどもあったが失敗し帰郷、1895年(明治28年)にあらためて東京法科大学政治学科(現在の東大法学部)に入学、穂積八束、一木喜徳郎に学ぶ。
庄司 乙吉(しょうじ おときち、1873年〈明治6年〉5月1… 庄司 乙吉(しょうじ おときち、1873年〈明治6年〉5月18日 - 1944年〈昭和19年〉11月10日)は、日本の実業家である。東洋紡績の社長を務めた。 秋田県の生まれ。1897年(明治30年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒業後、大日本綿糸紡績同業連合会に入りインドのボンベイ(現在のムンバイ)駐在員や書記長を歴任した。1912年(大正元年)には大阪紡績に転勤し支配人を務め、1917年(大正6年)からは東洋紡績に社名変更し取締役や副社長も務める。1919年(大正8年)には第1回国際労働会議に出席したカネボウ(現在のクラシエホールディングス)の社長を務めた武藤山治の顧問を務めるために渡米したが、帰国後の1923年(大正12年)にアナキズム運動に関わった「ギロチン団」に狙撃される。
三室戸 敬光(みむろど ゆきみつ、1873年(明治6年)5月… 三室戸 敬光(みむろど ゆきみつ、1873年(明治6年)5月18日 - 1956年(昭和31年)10月31日)は、日本の華族、宮内官、政治家。明治法律学校(現:明治大学)卒業。子爵。1925年(大正14年)から貴族院議員(会派は研究会)に互選。宮中顧問官。三室戸家9代当主。 京都で三室戸治光の子として誕生。1898年(明治31年)7月、明治法律学校を卒業し、宮内省へ奉職。1904年(明治37年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、宮内属に任官し、帝室会計審査官、内匠寮主事、内匠寮工務課長、皇后宮主事・会計課長、主猟頭などを歴任し、1921年(大正10年)10月、宮中顧問官に就任した。
石井 露月(いしい ろげつ、1873年(明治6年)5月17日… 石井 露月(いしい ろげつ、1873年(明治6年)5月17日) - 1928年(昭和3年)9月18日)は、日本の俳人。本名は祐治。 秋田県河辺郡女米木(めめき)の農家石井常吉の二男として生まれる。幼時に祖父与惣右衛門から実語教を口伝で習って覚えた。祖父はまた発句もよくしたので、それも覚えた。少年時代はとにかく読書欲旺盛で、川向かいの村落に小舟で渡り本を借りてきて読んでいたという。高麓小学校では成績優秀で、文部省から賞品に論語の本を贈られるほどであった。また、12歳頃から既に盤虎・李花園・雲城・芥郎などと号して文筆に親しんでいた。 1888年(明治21年)秋田中学校に入学。中学時代は江帾澹園に漢詩漢籍を習い創作の添削指導も受けるなどしていたが、脚気を患い3年で退学。
橋本 正治(はしもと まさはる、1873年(明治6年)5月1… 橋本 正治(はしもと まさはる、1873年(明治6年)5月17日 - 1956年(昭和31年)10月8日)は、日本の内務官僚、政治家。北海道札幌市長、山口県知事、鹿児島県知事、呉市長、札幌観光協会長。札幌市栄誉市民。旧姓・吉田。 福井県吉田郡円山西村(現在の福井市)出身。吉田伝七の二男として生まれ、のち橋本久と結婚し橋本と改姓。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。高等文官試験に合格して内務省に入省。北海道勧業部長、山口県知事、鹿児島県知事などを経て1927年、札幌市長に就任。1937年、札幌市長を退任した。後任は三沢寛一。 市長在任中は上下水道事業の推進、札幌市営バスの運行開始などを行った。
属 最吉(さっか さいきち、旧姓・井上、1873年〈明治6年… 属 最吉(さっか さいきち、旧姓・井上、1873年〈明治6年〉5月15日 - 1965年〈昭和40年〉12月24日)は、日本の実業家。三井鉱山(現・日本コークス工業)元取締役。日本石油監査役。族籍は山口県士族。宇部興産元副社長の俵田寛夫は次男、衆議院議員の林芳正は曽孫にあたる。 山口県吉敷郡東岐波村(現・宇部市)出身。井上哲蔵の二男。1895年、山口高等学校を卒業した。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。 三井鉱山会社に入り総務部長、三池鉱業所長、三池染料工業所長を経て三井鉱山取締役。また小倉石油、三井化学、東洋高圧各取締役、日本石油、三池窒素工業、東洋高圧工業、日本亜鉛工業各監査役などをつとめた。
岡田 機外(おかだ きがい、明治6年(1873年)5月15日… 岡田 機外(おかだ きがい、明治6年(1873年)5月15日 - 昭和24年(1949年)5月)は、日本の俳人。本名は鉄蔵。 鳥取県法美郡宇倍野村奥谷(現鳥取市国府町奥谷)に、秋田治三郎の二男として生まれる。 明治20年(1887年)、気多郡鷲峰村(現鳥取市鹿野町鷲峰)の岡田権九郎の養子となる。 明治21年(1888年)から俳句を始め、明治24年(1891年)に俳誌「鹿野苑」を創刊。明治25年(1892年)には上京し、阿心庵永機に師事して華峰庵機外と号した。 明治27年(1894年)に立机を許され、その後、俳誌「稲葉の光」を創刊したり、鷲峰吟社を主催するなど、数多くの俳誌の選者として全国的に活躍した。
伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14… 伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14日 - 1951年(昭和26年)9月15日)は、明治後期から昭和前期の海軍軍人、政治家、華族。海軍造機少将、貴族院男爵議員。 東京府出身。海軍士官・伊藤雋吉の長男として生まれる。父・雋吉の死去に伴い、1921年(大正10年)5月10日、家督を相続し男爵を襲爵した。 1898年(明治31年)10月、海軍造船学生となり、1899年(明治32年)6月、東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。同年6月、海軍造船中技士に任官し横須賀海軍造船廠造機科主幹に就任。以後、艦政本部部員、造船監督官、舞鶴海軍工廠造機部長、艦政局第三課長などを歴任し、1917年(大正6年)6月、横須賀海軍工廠造機部長に就任。
池田 泰親(いけだ やすちか、1873年(明治6年)5月10… 池田 泰親(いけだ やすちか、1873年(明治6年)5月10日 – 1943年(昭和18年)10月15日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)。 熊本県天草郡富岡町(現在の苓北町)に桜井勝九郎の三男として生まれ、池田泰之の養子となった。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、一年志願兵として陸軍歩兵少尉となった。御領村長、同村会議員、天草郡会議員、同参事会員、熊本県会議員を歴任し、九州実業新聞社社長、九州新聞社副社長を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他大谷石材株式会社社長、中国稲荷山鋼索鉄道株式会社社長、苓州銀行取締役を務めた。
秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)… 秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)5月8日 - 昭和13年(1938年)3月6日)は、電気通信技術の専門家。勲五等(明治39年(1906年))。学資を稼ぎながら苦学して大成した後もつね子夫人とともに勤倹に努め、昭和11年(1936年)「郷里の教育基金に」と、米沢市に20万円を寄付した(当時の米沢市年間予算が39万円)。苦学力行の士として知られる。 置賜県米沢館山口町(現山形県米沢市)にて米沢藩御細工組(中士階級)秋山秀之助の長男として生まる。今村信次郎海軍中将は従弟、妻つねは岡田文次の義妹である。明治19年(1886年)米沢中学校入学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、山形尋常中学校(現山形県立山形東高等学校)、第二高等中学校を経て、明治32年(1899年)東京帝国大学工科大学卒業。
美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年〈明治6年〉5月7… 美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年〈明治6年〉5月7日 - 1948年〈昭和23年〉5月23日)は、日本の法学者、憲法学者、政治家。東京帝国大学名誉教授。天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和期には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)には勲一等旭日大綬章を受章。一木喜徳郎門下。弟子に清宮四郎、宮沢俊義、柳瀬良幹、田中二郎、鵜飼信成、田上穣治など。 1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)の漢方医・美濃部秀芳(美濃部秀軒の子。)の次男として生まれた。高砂小学校、小野中学校(現:兵庫県立小野高校)、第一高等中学校を経て、1894年(明治27年)、帝国大学法科大学政治学科(現・東京大学法学部)に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。
桝田 八次郎(ますだ やじろう、1873年〈明治6年〉5月7… 桝田 八次郎(ますだ やじろう、1873年〈明治6年〉5月7日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服商)、鳥取市収入役。旧姓・池原。 鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)、池原茂兵衛の二男として生まれる。小学校中等科卒業後農業に従事する。1895年に八村八次郎の養子となり、同年桝田の絶家再興をおこない、元魚町1丁目で呉服商を経営する。一時は智頭街道筋で呉服商を営む。 1900年に旧名・房吉を八次郎と改名し、京都呉服同業組合繁盛会地方幹事を嘱託され、1912年に廃業の居を東町に移し、1915年8月に鳥取市収入役となる。 1934年、自治功労者表彰を受ける。 1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、桝田八次郎の地価所有高は「839円40銭」である。
真田 秀吉(さなだ ひできち、1873年(明治6年)5月5日… 真田 秀吉(さなだ ひできち、1873年(明治6年)5月5日 - 1960年(昭和35年)1月20日)は、明治時代後期から昭和時代の土木工学者、内務官僚。 広島県に生まれる。1898年(明治31年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に出仕する。第五区(大阪)土木監督署に入り、淀川改修に1911年(明治44年)まで従事した。淀川改修では主任技師として大規模な機械化施工を推し進めた。同年東京土木出張所に転じ、1921年(大正10年)まで利根川第三期改修工事に従事。淀川改修で確立した施工技術を応用してパナマ運河を凌ぐ大土木工事に尽力した。この間、1914年(大正3年)に欧米に出張した。 同年、東京土木出張所工務部長兼庶務部長になり、関東大震災後には管内の河川構造物の復旧工事を担当した。
武村 貞一郎(たけむら ていいちろう、1873年(明治6年)… 武村 貞一郎(たけむら ていいちろう、1873年(明治6年)5月4日 - 1936年(昭和11年)8月17日) は、日本の実業家。元東神倉庫会長。東洋レーヨン発起人。 東京府士族。1893年に高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三井物産でドイツ帝国ハンブルクの開拓にあたり、三井物産大阪支店長、三井物産神戸支店長、三井物産機械部長、三井物産取締役、東洋棉花取締役、日本レイヨン取締役などを務めた。1918年には安川雄之助、南条金雄とともに三井物産常務取締役に就任し、財務を統括した。1925年東洋レーヨン発起人。1935年から東神倉庫会長を務めたが、翌年死去した。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
飯田 延太郎(いいだ のぶたろう、1873年〈明治6年〉5月… 飯田 延太郎(いいだ のぶたろう、1873年〈明治6年〉5月2日 - 没年不詳)は、日本の実業家。 飯田久助の長男として、福岡県穂波郡、のちの嘉穂郡桂川村(現桂川町)で生まれた。1896年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1898年中央大学を卒業。 1899年弁護士試験に合格し、東京地方裁判所所属弁護士を経て、独立開業する。 1910年弁護士を廃業して玄洋社に入り、鉱山業に従事。1911年北海道炭山を三井鉱山に、次いで1915年美唄炭山を三菱合資に売却して、巨利を得て実業界に進出。南満洲太興を設立して代表社員となり、天図軽便鉄路、図們鉄道、弓張嶺鉄山、天宝山銀銅鉱などの事業を経営。新登川炭鉱社長、神国生命保険社長、有隣生命保険社長、萬朝報社長なども務めた。
熊澤 泰禅(くまざわ たいぜん、1873年5月1日 - 19… 熊澤 泰禅(くまざわ たいぜん、1873年5月1日 - 1968年1月7日)は、日本の仏教学者、僧侶。曹洞宗大学林(現駒澤大学)教授。曹洞宗總持寺独住16世貫首、永平寺73世貫首。道号は祖学。諡号は大光円心禅師。 明治6年愛知県丹羽郡丹陽村(現一宮市)生まれ。1880年郷里の文殊院石原泰豊師について出家、1886年滋賀県慈眼院諏訪周禅師につき得度、1891年同師より嗣法。1892年永平寺に転じる。1901年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。1902年宗門内地留学生となり、京都浄土宗専門学院(現学校法人佛教教育学園)に入り、唯識学を研究した。1905年師席を継ぎ慈眼院住職、1908年母校の曹洞宗大学林教授に就任。
2代五十嵐 甚蔵(いがらし じんぞう、1873年(明治6年)… 2代五十嵐 甚蔵(いがらし じんぞう、1873年(明治6年)4月27日 - 1935年(昭和10年)6月28日)は、明治後期から昭和初期の銀行家、農業経営者。貴族院多額納税者議員、勲四等。 新潟県笹岡村(現・阿賀野市)の地主の家系で代々五十嵐甚蔵を名乗った。初名は直彦。1894年(明治27年)に慶應義塾を卒業後、1908年(明治41年)に新発田銀行取締役、同頭取、第四銀行取締役、榎並銅鉄株式会社取締役、新発田倉庫監査役、新潟新聞監査役、新潟県地主協会会長等となる。 品川弥二郎にじかに小作奨励を勧められ、1893年(明治26年)から蔵米品評会を実施した。 1925年(大正14年)新潟県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属して1932年(昭和7年)9月28日まで在任した。
小西 和(こにし かなう、1873年〈明治6年〉4月26日 … 小西 和(こにし かなう、1873年〈明治6年〉4月26日 - 1947年〈昭和22年〉11月30日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→中正会→憲政会→立憲民政党)、実業家。 名東県寒川郡長尾名村(現在の香川県さぬき市長尾名)出身。札幌農学校で植物学を専攻した。東京朝日新聞に入社して、博物方面の記事を担当し、『日本の高山植物』(二松堂、1906年)を著した。また日本海洋会の理事となり、『瀬戸内海論』(文会堂、1911年)を著した。 実業方面では、南満州製糖株式会社・亜細亜煙草株式会社・中国葉煙草株式会社・東亜拓殖興業株式会社の取締役を歴任した。 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
松室 重光(まつむろ しげみつ、1873年〈明治6年〉4月2… 松室 重光(まつむろ しげみつ、1873年〈明治6年〉4月26日 - 1937年〈昭和12年〉1月30日)は、京都を中心に多くの建築物の設計を手がけた建築家。ネオ・ルネサンス様式の名建築として知られる京都府庁舎旧本館や、京都ハリストス正教会聖堂などの設計などで知られる。 京都府技師として新築設計を手がける一方で、京都の社寺建築の修復・保存にも実績を残したが、部下の汚職に連座したとして官職を辞す。その後は九州鉄道技師を経て、恩師・辰野金吾の推薦により関東州(旅順・大連地域)の行政機関である関東都督府民政部に着任した。1908年3月の着任から近藤伊三郎が部下となる1916年8月までの8年間は、民政部土木課の唯一人の建築技師だった。
安宅 弥吉(あたか やきち、1873年(明治6年)4月25日… 安宅 弥吉(あたか やきち、1873年(明治6年)4月25日 - 1949年(昭和24年)2月5日)は、石川県金沢市金石生まれの実業家。安宅産業や学校法人甲南女子学園の創設者。大阪商工会議所会頭。鈴木大拙のパトロン的存在としても知られる。 長男の安宅英一(神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒業)は後に安宅産業会長となり、次男の安宅重雄(京都帝国大学文学部哲学科卒業)も安宅産業社長となった。娘の安宅登美子は1925年・1926年の全日本テニス選手権女子ダブルス優勝者になったテニス選手である。登美子と結婚した娘婿の長谷川周重は、後に住友化学工業の社長となった。 弥吉の創業した安宅産業は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、ニチメン、兼松江商に次ぐほどまで成長し、「10大総合商社の一角」とされていた。
金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 19… 金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 1933年6月6日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
佐々木 平次郎(ささき へいじろう、1873年(明治6年)4… 佐々木 平次郎(ささき へいじろう、1873年(明治6年)4月22日 - 1935年(昭和10年)4月21日)は、日本の漁業家、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・北能。 秋田県由利郡、後の金浦町(現:にかほ市)で北能喜吉の二男として生まれる。1895年2月、由利郡塩越村(現:にかほ市)の呉服商・佐々木小治郎の養子となる。1897年にロシア帝国沿海州を視察し、その地の漁業の有望なことを見極め、樺太を含めた同地方での漁業を経営。函館に根拠を置き、倉庫業、船舶業、米穀海産物委託問屋なども営んだ。函館区会議員、函館商業会議所特別議員、樺太建網漁業水産組合組長、露領水産組合評議員、函館慈恵院監事、北日本汽船重役、北海道鉄道重役、樺太漁業社長、佐々木倉庫社長、寿都鉄道社長などを務めた。
有川 鷹一(ありかわ たかいち、1873年(明治6年)4月2… 有川 鷹一(ありかわ たかいち、1873年(明治6年)4月21日 - 1955年(昭和30年)1月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県豊浦郡、のちの長府町字金屋浜(現下関市)出身。旧長府藩士・有川常友の長男として生れる。山口高等中学校中退を経て、1895年(明治28年)2月、陸軍士官学校(6期)を卒業。同年5月、工兵少尉に任官し工兵第5大隊付となる。1898年(明治31年)12月、陸軍砲工学校高等科(6期)を優等で卒業し陸軍築城部本部付となる。 1899年(明治32年)8月、ドイツ駐在となり、砲工学校教官を経て、1904年(明治37年)6月、第8師団兵站電信部長に就任して、同年10月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征し、この間、第3軍司令部付(兵站電信部長)を務めた。
春日 俊文(かすが としふみ、1873年(明治6年)4月20… 春日 俊文(かすが としふみ、1873年(明治6年)4月20日 - 1937年(昭和12年)6月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会)(2期)。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)に生まれる。1895年(明治28年)に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。1900年(明治33年)中国に留学し、1903年(明治36年)からアメリカに留学する。1906年(明治39年)帰国。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に当選する。また、東亜耐火工業の専務取締役などを務めた。1937年(昭和12年)6月9日に死去。 鉄道大臣などを務めた小川平吉の側近で、いわゆる五私鉄疑獄事件によって小川とともに逮捕。