小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3… 小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3月14日 - 1962年〈昭和37年〉10月21日)は、日本の数学者・数学史家・随筆家。大阪医科大学(現・大阪大学医学部)教授を歴任。山形県酒田市生まれ。 生家は酒田の回漕問屋。荘内中学校を経て、1905年(明治38年)に東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業。東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)化学選科に入学するが、家業を継ぐために中退し、山形に戻る。 林鶴一のもとで数学を学び、1911年(明治44年)東北帝国大学の助手となる。1916年(大正5年)に微分幾何の研究で、理学博士の学位を取得。 1917年(大正6年)から大阪医科大学(現・大阪大学医学部)塩見理化学研究所研究員。
勝部 謙造(かつべ けんぞう、1885年〈明治18年〉3月1… 勝部 謙造(かつべ けんぞう、1885年〈明治18年〉3月14日 - 1964年〈昭和39年〉12月16日)は、日本の哲学者である。 島根県に生まれ、京都帝国大学文科大学(京都大学大学院文学研究科・文学部)哲学科に入学する。1914年(大正3年)に卒業後は京都府立第一中学校(現在の京都府立洛北高等学校・附属中学校)で教鞭を執り、1921年(大正10年)には広島高等師範学校(現在の広島大学)の助教授をへて教授を務めた。1930年(昭和5年)には文部省における留学生としてドイツに渡り、ゲッティンゲン大学に留学しヴィルヘルム・ディルタイの哲学を研究する。 翌1931年(昭和6年)に帰国後は研究した成果をドイツ語で執筆したことで文学博士を取得し、後に広島文理科大学の教授となった。
岡田 信(おかだ まこと(通称:おかだ しん)、1885年(… 岡田 信(おかだ まこと(通称:おかだ しん)、1885年(明治18年)3月10日 - 1946年(昭和21年)8月15日)は、日本の大正・昭和期における大蔵省官僚・銀行家。大蔵省官僚としては主に特殊銀行・植民地金融を担当した。滋賀県出身。 1885年(明治18年)3月10日、滋賀県野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。 父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の三番目の妻・義子。八男七女の六男として誕生したが、長男・四男が夭折により対外的には四男と称す。 京都府立一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)より第四高等学校(1905年(明治38年)7月5日卒業)を経て、1909年(明治42年)7月10日東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。
中井 亮作(なかい りょうさく、1885年3月10日 - 1… 中井 亮作(なかい りょうさく、1885年3月10日 - 1951年8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 熊本県出身。1911年東京帝国大学造船科卒。鉄道管理局技手、逓信局技師、手野村議、天草郡農会長、熊本県購買販売組合、同信用組合各連合会長、同森林組合連合会理事、産業組合中央金庫評議員、所得税調査委員、人事調停委員、借地借家調停委員、北天草電気(株)監査役、熊本県木材(株)取締役となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では熊本2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本自由党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。追放解除から間もなく死去した。
田中 秀作(たなか しゅうさく、1885年3月6日 - 19… 田中 秀作(たなか しゅうさく、1885年3月6日 - 1963年11月23日)は、日本の地理学者。 山口県防府市生まれ。1906年山口県師範学校卒、1910年東京高等師範学校地理歴史部卒、鹿児島県女子師範学校教諭、1915年京都帝国大学文科大学史学科地理学卒、大学院をへて1916年同助手、1917年京都府立第三中学校講師、12月満鉄に入社、1923年彦根高等商業学校教授、27 - 29年文部省在外研究員としてドイツ国、米国、英国に滞在。32年文部省視学委員、1943年華北綜合調査研究所研究員、46年引き揚げ、1947年北海道第三師範学校講師、1949年北海道学芸大学教授、1952年大阪学芸大学教授。
小堀 誠(こぼり まこと、1885年3月6日 - 1957年… 小堀 誠(こぼり まこと、1885年3月6日 - 1957年3月5日)は、日本の俳優である。本名は堀江 鎌太郎(ほりえ けんたろう)。旧芸名は小堀 銈作(こぼり けいさく)。同じく俳優の小堀阿吉雄は長男。 1885年(明治18年)3月6日、東京府荏原郡品川町(現在の東京都品川区)に生まれる。 1908年(明治41年)、小堀銈作名義で伊井蓉峰門下である新宿の新富座の『己が罪』で初舞台。1910年(明治43年)11月、井上正夫、桝本清らの新派俳優として本郷座の舞台に立ち、後に幹部となる。ただし、ほとんどの資料では同年、井上正夫が有楽座と契約して新時代劇協会を結成し、小堀も参加したとしている。1916年(大正5年)、深川座で一座を結成し、新派の一方の旗頭として浅草の御国座を本拠とする。
佐々木 積(ささき つもる、本名は同読で百千万億、1885年… 佐々木 積(ささき つもる、本名は同読で百千万億、1885年3月3日 - 1945年1月2日)は、日本の俳優である。坪内逍遥、島村抱月の「文芸協会」で「日本の女優第一号」こと松井須磨子の同期として新劇俳優を始め、「舞台協会」を設立、また日活や東亜キネマの無声映画にも出演した。のちのスター女優夏川静江、おなじくのちの俳優夏川大二郎は妻の連れ子である。 本名の「佐々木 百千万億」は珍名である。早稲田大学文学部露文科卒業。1909年(明治42年)4月、24歳のときに、坪内逍遥、島村抱月の「文芸協会」が設立した「文芸協会演劇研究所」に入学する。同期生は、武田正憲、林和、柳下富司、伊藤理基、掬月晴臣、日高清、久里四郎、志田徳三、松井須磨子、三田千栄子(のちの山川浦路、上山草人の妻)、五十嵐吉野の11名であった。
小笠原 長幹(おがさわら ながよし、1885年(明治18年)… 小笠原 長幹(おがさわら ながよし、1885年(明治18年)3月2日 - 1935年(昭和10年)2月9日)は、日本の政治家、華族。位階・爵位は従三位伯爵。小笠原宗家30代当主。 最後の小倉藩主だった華族の小笠原忠忱伯爵の長男。1897年(明治30年)3月、家督を相続する。学習院卒業後、イギリスのケンブリッジ大学に留学。帰国後に宮内省に入り式部官となり、1918年(大正7年)7月10日、貴族院議員となる。1920年(大正9年)に陸軍省参事官、1922年(大正11年)に国勢院総裁、その後、行政制度審議会委員などを歴任する。東京浅草の海禅寺に葬られたが、のちに多磨霊園に改葬。 1927年(昭和2年)、小倉藩下屋敷跡に建てられたスペイン風の邸宅(小笠原伯爵邸、新宿区河田町)は、東京都選定歴史的建造物第66号に指定され、2002年(平成14年)6月、民間によって修復され、結婚披露宴も行われるレストランとして利用されている。
川上 嘉市(かわかみ かいち、1885年(明治18年)3月1… 川上 嘉市(かわかみ かいち、1885年(明治18年)3月1日 - 1964年(昭和39年)4月6日)は、大正・昭和期の日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員(1期)、参議院議員(1期)。 静岡県浜松市浜北区内野小島出身。1909年(明治42年)東京帝国大学工科大学を首席で卒業。 東京瓦斯へ入社後、1910年(明治43年)に住友電線製造所(現在の住友電工)に転職。1914年(大正3年)にオーストリア・グラーツにゴム化学の研究の為に留学。同年7月に第一次世界大戦が開戦したことからベルリン経由でイギリスに脱出した。1925年(大正14年)から住友電線取締役を務めた。1927年(昭和2年)に労働争議で経営不振となった日本楽器製造(現在のヤマハ)の社長に就任。
田中 肥後太郎(たなか ひごたろう、明治18年(1885年)… 田中 肥後太郎(たなか ひごたろう、明治18年(1885年)3月1日 - 昭和24年(1949年)1月31日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。海軍医学校校長、海軍省医務局長を歴任する。熊本県出身。 明治18年(1885年)2月、熊本県で生れる。大正2年(1913年)東京帝国大学医学部を卒業する。その後、大正15年(1926年)欧米出張を行い、昭和2年(1927年)に帰国する。帰国後、霞ケ浦空軍医長となり、当職を兼務しながら軍医校教官も務める。昭和12年(1937年)12月1日に海軍軍医校教頭となり、佐世保病院長を経て、昭和14年(1939年)11月15日、海軍医学校校長と海軍中将に就任する。
東郷 彪(とうごう ひょう、1885年〈明治18年〉2月28… 東郷 彪(とうごう ひょう、1885年〈明治18年〉2月28日 - 1969年〈昭和44年〉6月5日)は、日本の農商務官僚、宮内官僚、政治家。爵位は侯爵。東郷平八郎の子。宮内省内匠寮御用掛、貴族院議員などを歴任した。 温厚な人柄、恬淡とした性格で我が道を進み、新宿御苑で菊栽培などを手がけ、菊づくりの拡充強化に大きく貢献した。 東郷平八郎の長男として、1885年(明治18年)鹿児島県に生まれた。学習院に入るがその後中学済々黌を経て、1911年(明治44年)、東京高等農学校(現東京農業大学)を卒業した。卒業後は、農商務省の農事試験場興津園芸試験場(現在の農研機構果樹研究所·カンキツ研究興津拠点)に勤務した。
倉富 鈞(くらとみ ひとし、1885年〈明治18年〉2月28… 倉富 鈞(くらとみ ひとし、1885年〈明治18年〉2月28日 - 1977年〈昭和52年〉4月5日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。位階は従四位。 司法官僚・倉富勇三郎の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1936年(昭和11年)6月1日、男爵を襲爵した。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1928年(昭和3年)朝鮮銀行秘書課長兼国庫課長に就任。その後、同検査役、産業組合中央金庫参事・貸付課長、同理事、農地開発営団理事などを務めた。 1941年(昭和16年)9月6日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
窪田 忠彦(くぼた ただひこ、明治18年(1885年)2月2… 窪田 忠彦(くぼた ただひこ、明治18年(1885年)2月27日 - 昭和27年(1952年)10月31日)は、日本の数学者。東北帝国大学教授。統計数理研究所三代目所長。
青木 得三 (あおき とくぞう、1885年2月26日 - 1… 青木 得三 (あおき とくぞう、1885年2月26日 - 1968年7月31日) は、日本の大蔵官僚・経済学者。専門は財政学。経済学博士(1957年)。秋田県南秋田郡秋田町(現・秋田市)生まれ、東京帝国大学法科大学首席卒業。 1885年(明治18年)2月26日 (戸籍上は3月26日)、秋田県南秋田郡秋田町中島中丁にて出生。父青木定謙は角館町出身の官吏で、少年時代は父の転勤に伴って転居を繰り返した。旧制和歌山中学(現 和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)から旧制新潟中学校(現 新潟県立新潟高等学校)に転入し、 旧制第一高等学校(旧制一高)を経て1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学を首席で卒業した。
西村 茂生(にしむら しげお、1885年2月24日 - 19… 西村 茂生(にしむら しげお、1885年2月24日 - 1966年7月18日)は、日本の政治家、位階は従三位。 衆議院議員(7期)。岩国市長。岩国市名誉市民。 山口県玖珂郡岩国町(現・同県岩国市)出身。農商務省附属水産講習所(現・東京海洋大学)及び東京帝国大学理科大学卒業。20代から岩国町会議員・玖珂郡会議員・山口県会議員を歴任、山口県会においては県会副議長を務めた。1928年の普通選挙による最初の総選挙で旧山口2区から立憲政友会公認で立候補して当選、中央政界に入った。その後通算7回衆議院議員総選挙に当選した。1931年犬養内閣の海軍参与官に就任。政友会内では同じく山口県出身・選出の久原房之助と行動をともにし、1939年の政友会分裂に際しては久原や鳩山一郎とともに正統派に所属した。
内田 祥三(うちだ よしかず、1885年2月23日 - 19… 内田 祥三(うちだ よしかず、1885年2月23日 - 1972年12月14日)は、日本の建築学者、建築家。元東京帝国大学総長。
濃畑 三郎(のうはた さぶろう、1885年(明治18年)2月… 濃畑 三郎(のうはた さぶろう、1885年(明治18年)2月22日 - 1943年(昭和18年))は、日本の実業家、政治家。 宮市大丸(現在の大和)常務取締役、みくに新聞社社長、福井県会議員を務めた。 北海道朝田庄次郎の三男として福井県坂井郡三国町(現在の坂井市)に生まれ、その後先代・安吉の養子となる。濃畑家は三国町で金銀箔も扱う紙問屋・四日市屋で、「四の三(しのさん)」と呼ばれていた。『茶の本』『東洋の理想』等の著書で知られる日本美学界の泰斗・岡倉天心の母・この(旧姓:濃畑(野畑))とも関係があったという。 1922年(大正11年)、家督を相続する。明治大学修業、内務省勤務を経て福井県会議員や宮市大丸常務取締役を歴任した。
川本 増雄(かわもと ますお、1885年〈明治18年〉2月2… 川本 増雄(かわもと ますお、1885年〈明治18年〉2月21日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。郡山信用金庫専務理事。華道衡山流家元。号は見真斉一舟(けんしんさいいっしゅう)。 奈良県生駒郡郡山町大字洞泉寺町(現・大和郡山市洞泉寺町)に生まれる。川本増蔵の長男。郡山中学校を卒業する。貸座敷業を営む。遊廓改善等に奮闘努力する。 郡山町会議員に7回当選する。郡山信用金庫専務理事、奈良地裁調停委員、司法保護委員、郡山町農業会長をつとめる。 青年時代、非常な運動家で、特に野球の選手として活躍した。趣味は書画、骨董、読書。住所は奈良県生駒郡郡山町大字洞泉寺(現・大和郡山市洞泉寺町)。
小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月… 小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月19日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。国務大臣。栄典は、正四位・勲一等(昭和20年8月19日時点)。本籍高知県。 いわゆる皇道派の中心人物とされる。同じ陸軍士官学校16期生である岡村寧次、永田鉄山と共に陸軍三羽烏の一人とされている。妻は第24代衆議院議長元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。 東京府麴町区上六番町で、男爵小畑美稲の四男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎、小畑厳三郎(陸軍少将)。京都府立第一中学校、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。
近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治1… 近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治17年(1884年)3月20日 - 昭和37年(1962年)4月27日)は、日本の水墨画家・漫画家。明治初期の実業家。教育者である近藤喜則は祖父にあたる。建築家の白井晟一は義弟にあたる。 山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた家柄で、父は浩一路の幼少時に病没しているが、祖父の喜則は初代県会議長を務めたほか地元で私塾を営んでおり、裕福な家庭に育つ。父の療養のため幼少時には静岡県庵原郡岩渕村で過ごし、富士川小学校を経て1902年(明治35年)に韮山中学(静岡県立韮山高校)を卒業すると上京する。 祖父からは医者になることを期待され英語学校や予備校へも通うが、文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中し、1904年(明治37年)には画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属し、同年9月には東京美術学校西洋画科へ入学する。
佐藤 徳重(さとう とくしげ、1884年(明治17年)3月2… 佐藤 徳重(さとう とくしげ、1884年(明治17年)3月20日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。群山府尹。平壌府尹。 佐藤健造の四男として、大分県大分郡、のちの南庄内村(庄内村、庄内町を経て現由布市)に生まれる。1903年(明治36年)陸軍士官候補生に合格し、歩兵第47連隊に入隊する。陸軍二等計手に進んだのち、1909年(明治42年)1月、陸軍判任文官試験に合格し、1911年(明治44年)5月、朝鮮総督府道書記に就任する。1919年(大正8年)4月、退官し東洋拓殖に入社。1921年(大正10年)4月、再び任官し、同年10月に忠清北道税務課長に就任した。 ついで平壌府内務課長、大邱府内務課長、統営郡守を経て、1931年(昭和6年)4月30日、群山府尹に就任した。
一柳 満喜子(ひとつやなぎ まきこ、1884年(明治17年)… 一柳 満喜子(ひとつやなぎ まきこ、1884年(明治17年)3月18日 - 1969年(昭和44年)9月7日)は、キリスト教教育者。近江兄弟社で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻で、近江兄弟社学園の学園長を務めた。 兵庫県加東郡小野町(現・兵庫県小野市)の元播磨小野藩主、明治維新後は貴族院議員となった一柳末徳子爵の三女として誕生。神戸女学院音楽部卒。単身で渡米する旅の途中でハワイ・オハウ大学長のグリフィス[要出典]の勧めもあり、日本で最初の女子留学生・津田梅子が卒業し東洋女性のための奨学金制度を持っていたペンシルベニア州の名門校ブリンマー大学に学ぶ。その後アリス・ベーコンの教育実践活動に参加した。
小林 秀三(こばやし ひでぞう、1884年3月15日 - 1… 小林 秀三(こばやし ひでぞう、1884年3月15日 - 1904年9月21日または9月22日)は、明治時代の日本の教員。田山花袋の小説『田舎教師』のモデルになったことで知られる。 栃木県足利郡小俣村(現・足利市)に生まれる。父の家業が不振となったため、9歳だった1893年6月に埼玉県熊谷町に転居した。 埼玉県第二尋常中学校(のちの埼玉県立熊谷中学校、現・埼玉県立熊谷高等学校)に進学した。家庭の貧窮がさらに進んだため、中学在学中の1900年の冬に北埼玉郡忍町(現・行田市)に再度転居している。中学卒業時には弘中又一(夏目漱石の小説『坊っちゃん』のモデル)が教員におり、弘中赴任後の最初の卒業生でもあった。
矢野 宗幹(やの むねもと、1884年3月15日 - 197… 矢野 宗幹(やの むねもと、1884年3月15日 - 1970年12月31日)は、日本の昆虫学者。 福岡県出身。旧制東筑中学(後の福岡県立東筑高等学校)、東京帝国大学卒業。1909年(明治42年)、林業試験場技師となり、のち東京帝国大学、京都帝国大学の講師をかねた。1917年(大正6年)、東京昆虫学会(現日本昆虫学会)を創立。日本昆虫学会会長、日本応用昆虫学会長を歴任。
西 勝造(にし かつぞう、1884年3月15日 - 1959… 西 勝造(にし かつぞう、1884年3月15日 - 1959年11月21日)は、西式健康法の創始者。 神奈川県高座郡下鶴間村生まれ。16歳の時、医者から20歳まで生きられないと言われ、さまざまな健康法を実行。やがて健康を取り戻す。1904年西洋医学の逆をゆく健康法をあみだす。コロンビア大学でトンネル工学や橋梁工学を学ぶ。1927年「医学の革命」として、独特の医学を体系化し公表、西式健康法として知られた。東京都第4区 (中選挙区)から1948年第23回衆議院議員総選挙に無所属で、1949年第24回衆議院議員総選挙に国民協同党から出馬し落選。息子の西大助(おおすけ、1921-97)が後を継いだ。
若尾 幾太郎(わかお いくたろう、1884年(明治17年)3… 若尾 幾太郎(わかお いくたろう、1884年(明治17年)3月14日 - 1938年(昭和13年)12月23日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 神奈川県横浜区(現横浜市)で、二代若尾幾造の長男として生まれる。1903年、横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)を卒業した。 父の事業を補佐して生糸貿易業などに従事。1916年、横浜連合青年会会頭に就任。1922年、家督を相続。若尾合名会社社長、若尾銀行頭取、帝国ホテル取締役、湘南電気鉄道取締役、富士山麓電気鉄道取締役、日本土地証券取締役、ホテルニューグランド取締役、横浜火災海上保険取締役、帝国蚕糸監査役、横浜桟橋倉庫監査役、三ッ引商事監査役などを務めた。
石黒 英一(いしぐろ えいいち、1884年3月12日 - 1… 石黒 英一(いしぐろ えいいち、1884年3月12日 - 1973年12月29日)は、日本の経営者。愛知県出身。 1910年に大阪高等工業学校を卒業し、同年に名古屋ガス(のちの東邦ガス)に入社。1936年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1960年8月に社長に就任。1964年8月から相談役を務めた。 1958年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1973年12月29日老衰のために死去。89歳没。
原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月… 原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月10日 - 1982年(昭和57年)10月21日)は日本の実業家。日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(現・セコム損害保険)初代会長、日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。徳島県徳島市生まれ。生家は江戸時代、蜂須賀家の家臣。徳島市名誉市民。娘婿は、坂野常和(元大蔵省証券局長、元日本化薬会長)。 1950年(昭和25年)、電波監理委員会はラジオ民間放送への門戸開放に際し、東京の新設放送局は二局に限ることを決定した。しかし既に民間放送開始に向けて新聞会社を母体とする朝日放送(朝日新聞系)、ラジオ日本(毎日新聞系)、読売放送(読売新聞系)、東京放送(電通系)が準備を進めており、どの新聞社系の会社が免許を取得しても軋轢が生じることが不可避となった。
小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7… 小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7日 - 1966年〈昭和41年〉5月3日)は、日本の独文学者・文芸評論家・演劇評論家。東北大学名誉教授。日本学士院会員。 福岡県仲津郡久富村(現・京都郡みやこ町)に生まれる。少年期に父を失うが、祖母と母のもと裕福な家庭で育つ。旧制の福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館高等学校)を経て第一高等学校 (旧制)(現・東京大学教養学部)に進む。同期に安倍能成、中勘助、藤村操、尾崎放哉、岩波茂雄がいた。 1905年(明治38年)東京帝国大学文科大学独文科に入学。大学時代に夏目漱石の門下(木曜会)となり、寺田寅彦、森田草平、芥川龍之介、内田百閒、鈴木三重吉、久米正雄、松岡譲、野上豊一郎、津田青楓たちと交際。
後藤 文夫(ごとう ふみお、1884年(明治17年)3月7日… 後藤 文夫(ごとう ふみお、1884年(明治17年)3月7日 - 1980年(昭和55年)5月13日)は大正・昭和の官僚・政治家。「天皇陛下の警察官」を自称し、新官僚の代表と見られた。戦後、日本の原子力発電導入に尽力した。
豊田 利三郎(とよだ りさぶろう、1884年(明治17年)3… 豊田 利三郎(とよだ りさぶろう、1884年(明治17年)3月5日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、日本の実業家。位階は従五位。勲等は勲四等。 株式会社豊田自動織機製作所社長(初代)、豊田紡織株式会社社長(第3代)、トヨタ自動車工業株式会社社長(初代)、豊田工機株式会社社長(初代)などを歴任した。 豊田佐吉の婿養子(長女愛子の夫)で、豊田自動織機製作所及びトヨタ自動車工業の初代社長である。ただし、トヨタ自動車工業の実質的な創業者は、佐吉の実子で利三郎の義弟にあたる豊田喜一郎であるとされる。利三郎は元々は車作りに反対していたが、喜一郎の細かい計画や上海自動縫の西川からの資金援助で豊田自動車(後のトヨタ自動車)を設立した。
島田 勝之助(しまだ かつのすけ、1884年(明治17年)3… 島田 勝之助(しまだ かつのすけ、1884年(明治17年)3月5日 - 1960年(昭和35年)2月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。北海道炭礦汽船会長、貴族院勅選議員。 東京府で島田慶助の三男として生まれる。1903年(明治36年)東京外国語学校仏語科を卒業した。 卒業後、三井物産に入社した。1931年(昭和6年)ロンドン支店長に就任し、1934年(昭和9年)取締役となる。1935年(昭和10年)三井合名に転じて理事に就任。1936年(昭和11年)常務理事となり、北海道炭礦汽船取締役、三井鉱山取締役、三井農林会長を兼務した。1939年(昭和14年)三井合名、三井鉱山の役員を辞して北海道炭礦汽船取締役会長に就任した。
桑島 主計(くわしま かずえ、1884年〈明治17年〉3月4… 桑島 主計(くわしま かずえ、1884年〈明治17年〉3月4日 - 1958年〈昭和33年〉9月24日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、ブラジル大使。 香川県出身。1906年(明治39年)に早稲田大学政治科を卒業し、外務書記生試験に合格した。清国に在勤し、1908年(明治41年)に高等文官試験に合格し、外務属となった。1911年(明治44年)、外交官及領事官試験に合格し、領事官補、領事、外務書記官・帝都復興院書記官、大使館一等書記官を歴任し、その間に奉天、漢口、サンフランシスコ、バンクーバー、シカゴ、ワシントンD.C.に勤務した。さらにホノルル総領事、漢口総領事、大使館参事官、天津総領事、外務省亜細亜局長、同東亜局長を務めた。
早瀬 太郎三郎(はやせ たろさぶろう、旧字体: 早瀨 太郞三… 早瀬 太郎三郎(はやせ たろさぶろう、旧字体: 早瀨 太郞三郞、前名:為治郎・為次郎、1884年〈明治17年〉3月4日 - 1968年〈昭和43年〉5月30日)は、日本の商人(質商)、大阪府多額納税者、資産家、地主、実業家。 大阪府大阪市東区横堀五丁目生まれ。早瀬太郎三郎の長男。大阪府立堂島中学校に入り、1902年に卒業、先代太郎三郎の病没により、家督を相続し、前名・為次郎を改め襲名した。1907年、早稲田大学商科卒業。1年志願兵となり、除隊後所有土地の経営に従う。 「今木屋」と称し、貸地業を営み、傍ら会社の重役であった。桐花興業社長、大阪土地協会会長、大神中央土地、木津川土地運河、八馬汽船各取締役、東北興業、九州石炭鉱業、早瀬塗料店、東洋ベアリング、呉羽紡績各監査役、早稲田大学評議員などをつとめた。
比佐 昌平(ひさ しょうへい、1884年(明治17年)3月3… 比佐 昌平(ひさ しょうへい、1884年(明治17年)3月3日 - 1941年(昭和16年)11月23日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。 福島県石城郡湯本村(常磐市を経て、現在のいわき市)出身。早稲田大学政治経済科卒業。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬。対立候補は星製薬社長の星一(立憲政友会)であったが、「薬は星、政治は比佐」のキャッチフレーズで勝利を収めた。 以後、当選回数は6回を数え、第2次若槻内閣と第1次近衛内閣で陸軍参与官を務めた。 1941年(昭和16年)現職のまま死去。戦後、『公職追放に関する覚書該当者名簿』に公職追放者として掲載された(追放理由は「陸軍政務官」)。
千葉 了(ちば りょう、1884年(明治17年)3月2日 -… 千葉 了(ちば りょう、1884年(明治17年)3月2日 - 1963年(昭和38年)11月8日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事。
山口 剛(やまぐち たけし、1884年(明治17年)3月1日… 山口 剛(やまぐち たけし、1884年(明治17年)3月1日 - 1932年(昭和7年)10月8日)は、日本の国文学者・中国文学者。早稲田大学教授。号は、聾阿弥・聾不言・不言斉主人など。 山口常太郎・なか夫妻の長男として、1885年(明治18年)茨城県新治郡土浦町(現:土浦市)に生まれた。父・常太郎は土浦小学校の校長を務め、退職後は代言人の傍ら俳句・新体詩を指導していた。 剛も土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)から早稲田大学高等師範部卒業(現:早稲田大学教育学部)へと進学し、1912年(大正元年)に早稲田大学講師。更に、早稲田大学高等学院教授(1920年 / 大正9年)・早稲田大学高等師範部・文学部教授(1924年/大正13年)を歴任。
小田島孤舟(おだしま こしゅう、1884年3月1日 - 19… 小田島孤舟(おだしま こしゅう、1884年3月1日 - 1955年12月4日)は、岩手県和賀郡小山田村(現花巻市)出身の歌人・教育家・書道家。「岩手歌壇の父」と言われる。本名は小田島理平治。旧姓は佐々木。 1884年3月、和賀郡小山田町の農家の二男として生まれる。1902年、19歳で「小国民」懸賞小説に二等当選。同年4月、岩手師範学校本科に入学。1904年、同校文芸同人誌『花摺草』に短歌、俳句、美文「わが罪」を発表。1905年7月、石川啄木を訪問し交際が始まる。[要出典] 与謝野鉄幹は、「君は短歌より長詩の方が優る」と手紙でいさめたが、結果的には石川啄木が小田島にあてた書面「和歌は現代に新価値あり」に動かされ、歌人を目指すことになった。
平瀬 信太郎(ひらせ しんたろう、1884年(明治17年)2… 平瀬 信太郎(ひらせ しんたろう、1884年(明治17年)2月28日 - 1939年(昭和14年)9月9日)は、日本の貝類学者。父の平瀬與一郎や同年代の黒田徳米らとともに、日本における貝類学の発展に寄与した学者の一人である。 ニシキウズガイ科の巻貝の一種 ヒラセギンエビス Ginebis argenteonitens hirasei Otsuka et Taki,1943 は、平瀬の功績を記念した献名がなされている。 1884年(明治17年)、平瀬與一郎の長男として淡路島福良(現 : 南あわじ市)に生まれた。旧制の京都府立第一中学校(現 : 京都府立洛北高等学校)、第三高等学校、京都帝国大学文学部(現 : 京都大学)を卒業した。
市村 慶三(いちむら けいぞう、1884年(明治17年)2月… 市村 慶三(いちむら けいぞう、1884年(明治17年)2月28日 - 1959年(昭和34年)1月8日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、京都市長。旧姓・古川。 京都府出身。古川専太郎の三男として生まれ、市村貞蔵の養子となる。第三高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り北海道庁属となる。 以後、北海道庁警視、神奈川県橘樹郡長、千葉県・兵庫県の各理事官、奈良県警察部長、皇宮警察長、内務省参事官兼宮内事務官、神奈川県書記官・内務部長、警視庁書記官・官房主事などを歴任。 1926年8月、福井県知事に就任。以後、愛媛県・三重県の各知事を経て、1931年11月、鹿児島県知事に就任。
小野 弥一(おの やいち、1884年(明治17年)2月26日… 小野 弥一(おの やいち、1884年(明治17年)2月26日 - 1939年(昭和14年)4月6日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校33期。最終階級は海軍中将。 山口県玖珂郡玖珂町(現岩国市)出身。小野友蔵長男。岩国中学校を経て、1905年11月海軍兵学校(33期)を卒業。1906年12月に海軍少尉任官。1912年に海軍大学校乙種及び海軍大学校専修を卒業した後、音羽、韓崎の航海長を経て、1915年軍艦政本部艤装員として英国で建造中だった駆逐艦江風の艤装に従事する。 1916年海軍少佐任官。浅間、鞍馬、霧島、比叡の航海長を歴任し、1920年富士(運用術練習艦)教官兼海軍大学校教官に就任。1921年に海軍中佐に任官、海軍大学校教官専任となる。
猪股 松之助(いのまた まつのすけ、1884年(明治17年)… 猪股 松之助(いのまた まつのすけ、1884年(明治17年)2月26日 - 1939年(昭和14年)6月7日)は、台湾総督府官僚。 秋田県由利郡石沢村(現在の由利本荘市)出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。1915年(大正4年)、同法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。台湾総督府属、嘉義支庁事務官、台南支庁事務官、台北州警務部長、台南州警務部長、台中州内務部長、花蓮港庁長を歴任し、1931年(昭和6年)に新竹州知事に就任した。 1932年(昭和7年)に退官した後は、台湾青果株式会社常任監査役、同常務取締役を務めた。
寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 19… 寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 1958年12月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 島根県出身。神戸一中を経て、1905年(明治38年)11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年(明治39年)12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍砲術学校高等科で学ぶ。1911年(明治44年)12月、「筑波」分隊長となり、「三笠」「周防」の各分隊長、砲術学校教官兼分隊長兼海軍機関学校教官、「橋立」分隊長兼砲術学校教官などを経て、1917年(大正6年)11月、海大(甲種15期)を卒業した。 1917年12月、海軍少佐に昇進し海軍省人事局局員(第1課)に就任。1920年(大正9年)12月、「伊勢」砲術長となり、軍令部参謀兼サガレン州派遣軍司令部付に転じ、1921年(大正10年)12月、海軍中佐に進級。
山川 章太郎(やまかわ しょうたろう、1884年(明治17年… 山川 章太郎(やまかわ しょうたろう、1884年(明治17年)2月25日 - 1941年(昭和16年)2月4日)は、内科学者。位階および勲等は正三位・勲二等瑞宝章。専門は糖質代謝、消化器。ぶどう糖、脂肪の非経口的栄養(静脈内投与)の創始者、特に脂肪乳剤ヤノールの臨床応用が重要。 長男は山川邦夫(順天堂大学医学部教授)。次男は山川民夫(東京大学名誉教授)。孫は大熊由紀子(科学ジャーナリスト)。 香川県高松市に、山川慎蔵(儒者、和算家)の長男として生まれる。祖父の山川孫水も大坂出身の儒者および和算家で、私塾を開いたのち高松藩の郷校の校長を務めている。 米国留学中、野口英世の協力を得て、血清プロテアーゼの研究を行った(追悼録)。
橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月… 橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月25日 - 1954年(昭和29年)1月19日)は、国文学者。 東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座)生まれ。児島喜三郎の五男。橘守部直系の家へ養子に入る。第二高等学校、1909年東京帝国大学文学部国文科卒。同助手、13年府立第五中学校教諭、21年『橘守部全集』を編集刊行。25年退職、各学校講師をしながら著述生活。36年国語解釈学会を創立、雑誌『国語解釈』を創刊。41年陸軍士官学校教官、50年跡見学園短期大学教授。没後、二松学舎大学名誉教授の称号を追贈。 1938年、小学校教科書に掲載された『源氏物語』について、不敬の書であるから削除すべしと主張した。
安井 武雄(やすい たけお、1884年2月25日 - 195… 安井 武雄(やすい たけお、1884年2月25日 - 1955年5月23日)は、大阪を中心に活躍した日本の建築家。昭和初期のモダニズム建築を代表する建築として名高い大阪ガスビルディングなどを設計したことで知られる。
小池 正晁(こいけ まさあき、1884年(明治17年)2月2… 小池 正晁(こいけ まさあき、1884年(明治17年)2月23日 - 1941年(昭和16年)6月18日)は、日本陸軍の軍人、政治家。貴族院議員・陸軍軍医総監・正三位・勲二等・医学博士・男爵。男爵・小池正直の長男。東京市小石川(現・東京都文京区小石川)出身。 日本陸軍軍医・小池正直の長男として朝鮮釜山に生れる。1902年(明治35年)第一高等学校を首席で卒業する。1909年(明治42年)12月、京都帝国大学の分科大学である福岡医科大学(現・九州大学医学部)を卒業。 歩兵第3連隊(麻布三連隊)に入営。1910年(明治43年)6月、二等軍医となり、近衛歩兵第2連隊に配属された。1912年(明治45年)1月、東京帝国大学大学院に入学した。
泉 芳璟(いずみ ほうけい、1884年2月23日 - 194… 泉 芳璟(いずみ ほうけい、1884年2月23日 - 1947年12月28日)は、浄土真宗の僧、仏教学・サンスクリット学者。 三重県津市安濃町安部の円称寺(真宗大谷派)に生まれる。1907年真宗大学卒。1918-19年インド、ヨーロッパに学ぶ。真宗大学教授、大谷大学教授、同図書館長。真宗大谷派学僧。
三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日… 三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日)は、東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)出身の日本の女性歌手。 出生名:柴田 環(しばた たまき)。日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手として知られる。十八番だったジャコモ・プッチーニの「蝶々夫人」にある“蝶々さん”と重ね合わされて「マダム・バタフライ」と称され、国際的に広く知られた。 1884年(明治17年)2月22日に東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)で生まれる。父親は静岡県城東郡下朝比奈村(現:御前崎市)出身で公証人である柴田孟甫(本名:熊太郎)、母は城東郡小沢村(現:菊川市)出身の永田登波で、3歳から日本舞踊を、6歳から長唄と箏を習い始める。
大類 伸(おおるい のぶる、1884年(明治17年)2月22… 大類 伸(おおるい のぶる、1884年(明治17年)2月22日 - 1975年(昭和50年)12月27日)は、日本の西洋史学者。東北帝国大学教授、帝国学士院会員、日本学士院会員。 1884年、東京市日本橋区生まれ。神田練塀小学校から東京開成中学校、第一高等学校を経て、1906年東京帝国大学文科大学史学科を卒業。 1921年、東京帝国大学文学部助教授に採用される。1915年に東京帝国大学に日本城郭史の研究を提出して文学博士の学位を授与された。1937年5月8日、帝国学士院会員に選出。1924年、東北帝国大学教授に転任。ヤーコプ・ブルクハルトを学んで西洋中世史、ルネッサンス史に先駆的業績をあげた。1944年に東北帝国大学を退官し、日本女子大学教授となった。