物集 高見(もずめ たかみ、弘化4年5月28日(1847年7… 物集 高見(もずめ たかみ、弘化4年5月28日(1847年7月10日) - 昭和3年(1928年)6月23日)は、明治から大正に活動した国学者。 豊後国速見郡杵築(現・大分県杵築市)に生まれる。父は国学者の物集高世で、高見はその二男三女の長男であった。幼名素太郎、後に善五郎と改める。鶯谷・菫園または埋書居士と号する。 少年時代、故郷で漢学と国学を修める。慶応元年(1866年)、長崎に出て蘭学を修める。慶応2年(1867年)に京都へ出て、玉松操に師事して国書を修める。 明治2年(1869年)に父と上京。明治3年(1870年)5月、平田銕胤の門に入り国学を修めたほか、神祇官職員の東条琴台に師事して漢学を修める。
知花 朝章 (ちばな ちょうしょう、1847年7月9日(尚育… 知花 朝章 (ちばな ちょうしょう、1847年7月9日(尚育13年5月27日) - 1929年(昭和4年)5月18日)は、琉球王国時代から大正にかけての沖縄県の唐手家、実業家、政治家。 琉球藩時代は砂糖奉行等を務め、廃藩後は尚家経営の沖縄広運(株)社長。1908年には初の民選首里区長に選ばれた。 唐手は松村宗棍に師事した。 1847年、首里当蔵町(しゅりとうのくら)に生まれる。知花家は尚質王の第五王子、東風平王子朝春(こちんだあんじちょうしゅん)を始祖とする勝連御殿(かちれんうどぅん)から分家した首里士族であり、琉球王国時代は知花殿内(ちばなどぅんち)と呼ばれた名家であった。小林流開祖の知花朝信は甥に当たる。
工藤 則勝(くどう のりかつ、弘化4年5月17日〈1847年… 工藤 則勝(くどう のりかつ、弘化4年5月17日〈1847年6月29日〉 - 1916年〈大正5年〉1月11日)は、明治時代の司法官。大審院検事。 工藤勇蔵の長男として陸奥弘前(現青森県弘前市)に生まれる。弘前藩藩校稽古館で学ぶ。1871年(明治4年)司法省に奉職し検事となり、1878年(明治11年)判事に転じる。1880年(明治13年)岩手重罪裁判長兼控訴院評定官となり、1889年(明治22年)宇都宮予審裁判所長、1892年(明治25年)東京地方裁判所検事正、1898年(明治31年)函館控訴院検事長を経て、1903年(明治36年)大審院検事に進んだ。
立石 岐(たていし ちまた、1847年6月25日(弘化4年5… 立石 岐(たていし ちまた、1847年6月25日(弘化4年5月13日)- 1929年(昭和4年)4月4日)は、明治時代の政治家、養蚕家。自由民権運動家。衆議院議員(3期)。旧姓は小野。 備中国浅口郡船穂村(現・倉敷市船穂町船穂)の豪農・小野市太夫の4男として生まれる。幼少期に小野春発に学んだのち森田節斎の門に入り、さらに中原某に武術を学んだ。1866年(慶応2年)10月、19歳の時に美作国津山藩領西西条郡二宮村(苫田郡二宮村を経て、現在の津山市二宮)の大庄屋・立石正介の養嗣子となった。父の正介は大橋敬之助(立石孫一郎)とともに尊王攘夷に奔走し、遂には終身禁固に処され獄死した。 1878年(明治11年)4月、中島衛らと共に共之社を結成。
小林 乾一郎(こばやし けんいちろう、弘化2年6月15日(1… 小林 乾一郎(こばやし けんいちろう、弘化2年6月15日(1845年7月19日) - 昭和4年(1929年)1月2日)は、日本の教育家、政治家。後の延岡市長鈴木憲太郎の実父。 明治時代の延岡を代表する教育者、政治家。衆議院議員として、明治期の宮崎県の発展に寄与した。また、延岡の女子教育に大きく貢献した「女児教舎」の提唱者であり、その総監督を務めた。民有林の国有化に反対し、「県北民有林と林業の父」とも称される。 1845年(弘化2年)、日向国延岡(現・宮崎県延岡市)生まれ。藩校廣業館で学んだ後長崎に遊学し、その後東京の大学南校に学ぶ。横浜修文館の英語教師を勤めた後、1873年(明治6年)に帰郷、延岡社学(亮天社)の英語教師となる。
谷口 清八(たにぐち せいはち、1845年7月16日(弘化2… 谷口 清八(たにぐち せいはち、1845年7月16日(弘化2年6月12日) - 1911年(明治44年)8月8日)は、日本の鋳物師、実業家。幼名は敬次郎。東谷口家11代目当主谷口清左衛門。俗称、鉄管王。 1845年(弘化2年)、 佐賀藩藩主鍋島家に、代々仕えてきた鋳物師谷口家の10代目当主(東谷口)の長男として、長瀬町に生まれる。幼名は敬次郎、1872年(明治4年)に11代目当主清左衛門を清八と改める。 先代と共に、反射炉の築城や鉄製大砲鋳造に尽力した後、1883年(明治16年)、谷口鉄工場を設立。1892年(明治25年)、鋳鉄管製造に成功、外国製品よりも品質がよいと評価され、「鉄管王」と称せられた。
長谷川 敬一郎(はせがわ けいいちろう、1845年7月14日… 長谷川 敬一郎(はせがわ けいいちろう、1845年7月14日(弘化2年6月10日)- 1918年(大正7年)9月28日)は、幕末から大正期の村役人、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)、佐賀県会議長。 肥前国松浦郡久里村(佐賀県東松浦郡久里村大字久里を経て現唐津市久里)で、大庄屋・長谷川正平の長男として生まれる。15歳で平野組庄屋を務め、その後、久里村大庄屋となった。 1881年(明治14年)長崎県会議員に選出され、1883年(明治16年)5月に佐賀県が分離成立すると佐賀県会議員となり、県会議員に34年間在任し、同常置委員、同参事会員、同議長、東松浦郡町村組合議長なども務めた。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙で佐賀県第2区から自由党所属で立候補したが次点で落選。
大川 錠吉(おおかわ じょうきち、弘化3年6月9日(1845… 大川 錠吉(おおかわ じょうきち、弘化3年6月9日(1845年7月13日) - 大正15年(1926年)3月6日)は、明治時代から大正時代にかけての書籍商、出版者。聚栄堂と号し、のちに大川屋書店となる。 弘化3年(1846年)に武蔵国入間郡横沼村(埼玉県入間郡三芳野村を経て現坂戸市)に生まれた。幼時に父に従って江戸に出て、八代目朝倉屋久兵衛に奉公した後、慶応4年(1868年)8月に独立し、深川西町において貸本業を営んだ。明治2年(1869年)に浅草区三好町7番地に移った。貸本業を明治27~28年(1894~1895年)まで継続しながら、並行して書籍の出版・取次・販売業を開始する。大川の出版物のほとんどは求版と相版で、自ら出版したものはわずかしかない。
水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年… 水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年5月25日)- 1922年(大正11年)4月11日)は、明治期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・佐藤。 豊前国宇佐郡日足村(大分県宇佐郡北馬城村、宇佐町を経て現宇佐市)に佐藤継信(楽山)の五男として生まれ、1856年6月(安政3年5月)に宇佐郡水崎村(宇佐郡封戸村を経て現豊後高田市)の素封家・水之江家43代・久衛(号・奇峰)の婿養子となる。1871年(明治4年7月)家督を相続した。 家業の製塩業を営む。養父の遺志を継いで溜池の築造を継続して耕地の拡大に尽力。また、小学校校舎の建築、道路・橋梁の整備などにも多額の寄付を行った。
五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、1844年… 五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、1844年7月18日(天保15年6月4日)- 1903年(明治36年)2月18日)は、明治時代に活躍した歌舞伎役者。本名は寺島 清(てらじま きよし)。 尾上菊五郎としての屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に梅幸。 市村羽左衛門としての屋号は菊屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に家橘。 九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築いた。 寺島清は十二代目市村羽左衛門を父に、三代目尾上菊五郎の次女を母に、江戸の芝居町猿若町二丁目に生まれた。嘉永2年(1849年)11月市村座で二代目市村九郎右衛門を襲名して初舞台。
佐治 儀助(さじ ぎすけ、弘化元年5月15日〈1844年6月… 佐治 儀助(さじ ぎすけ、弘化元年5月15日〈1844年6月30日〉- 1917年〈大正6年〉7月26日)は、明治から大正にかけて愛知県名古屋市で活動した実業家である。大須旭廓「寿楼(壽樓)」の営業主で、名古屋電灯の取締役や名古屋劇場常務取締役も務めた。 尾張国中島郡大里村(現在の愛知県稲沢市)の出身。弘化元年5月15日(1844年6月30日)、佐治儀右衛門の長男として生まれる。明治2年8月(1869年)に分家した。 佐治は名古屋市大須にあった旭廓(1923年に大須から移転し中村遊廓となる)の「寿楼」の営業主であった。その旭廓では、1892年(明治25年)3月、大須観音境内を火元とする大須大火に巻き込まれ、廓内を焼失するという事件があった。
海野 勝珉(うんの しょうみん、天保15年5月15日(184… 海野 勝珉(うんの しょうみん、天保15年5月15日(1844年6月30日) - 大正4年(1915年)10月6日)は、日本の彫金家。幼名・竹次郎。別号は東華斎、芳州。 常陸国・水戸にて、伝右衛門の四男として生まれる。叔父にあたり水戸藩士だった初代・海野美盛に金属彫刻を学ぶ。更に美盛の紹介で、当時水戸彫金界の泰斗だった同藩士・萩谷勝平から金属工芸の諸技術を収めて、基平と名乗った。「勝珉」の名は、師・萩谷勝平の「勝」と江戸時代の名彫金家・横谷宗珉の「珉」を合わせ後に名乗ったものと考えられる。また水戸時代には、安達梅渓に絵を、武庄次郎に漢籍も学び、高い教養も身につけている。 明治初年上京、明治9年(1876年)駒込千駄木町で開業した。
朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(… 朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(天保14年6月15日)– 1901年(明治34年)5月9日)は、幕末の岡藩士、明治期の公吏・政治家・実業家。衆議院議員。 豊後国直入郡下木村(大分県直入郡会々村、豊岡村、竹田町、豊岡村(第二次)を経て現竹田市)で、岡藩士・朝倉親安の長男として生まれる。吟味見習を経て1865年(慶応元年)地方吟味役兼山林奉行となる。1869年(明治2年)岡藩租税司に就任。さらに郡尹補助、郡宰介、神社執事、刑法局管事、副検地司、山林司、少属などを務めた。廃藩置県により岡県が設置され、さらに大分県となり従前の事務取扱に任じられ、1872年(明治5年)大分県十四等出仕となる。
萩原 鐐太郎(はぎわら / はぎはら りょうたろう、1843… 萩原 鐐太郎(はぎわら / はぎはら りょうたろう、1843年7月2日(天保14年6月5日)- 1916年(大正5年)7月31日)は、明治から大正初期の養蚕家、篤農家、政治家。衆議院議員。 上野国碓氷郡東上磯部村(群馬県碓氷郡東上磯部村、磯部村東上磯部、磯部町、安中町を経て現安中市)で、豪農・萩原四郎左衛門、とま子の第二子(二男)として生れた。母が出産直後に死去したため、代々里正を務める家の叔父・萩原弥左衛門の養子となる。佐々木愚山に師事し和漢の群書を学び、山口藤十郎に剣術を、水戸藩士・黒田健之助に柔術・居合を学んだ。 1858年(安政5年)養父の死去に伴い家督を相続し、同年7月11日(6月1日)里正に就任した。
岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈184… 岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈1843年6月22日〉 - 1915年〈大正4年〉2月21日)は、幕末期の桑名藩士、明治時代の司法官僚、大審院判事。 越後国山室(現在の新潟県柏崎市)に、行田常冶改め常左衛門の次男として生まれ、まもなく山室の庄屋岡村家第14代権之丞の娘と入婿して岡村家を継ぐ。14歳で庄屋見習。慶応3年(1867年)桑名藩柏崎陣屋から郡中取締役を申し付けられ、その年の6月には一代苗字帯刀を許され武士となる。桑名藩が戊辰戦争で鯨波戦争を最後に敗走し、新政府が柏崎民政局を置くと、民政局御用掛となり、敗戦処理の経験を買われて会津戦争の戦後処理のため、若松県に2年出向。
香月 恕経(かつき じょけい / ゆきつね、1842年7月2… 香月 恕経(かつき じょけい / ゆきつね、1842年7月21日(天保13年6月14日)- 1894年(明治27年)5月18日)は、幕末の医師、明治期の政治家、教育者。衆議院議員。玄洋社社員。幼名・恕吉郎、字・子貫。号・晦処、晦洞。 筑前国夜須郡下浦村(現福岡県朝倉市下浦)で、医師・香月春庵の長男として生まれる。佐野東庵(甘木高原町)の私塾梅西舎で漢籍を、医師・深水玄門(熊本)に漢方内科医術を、玉井養純(筑後国生葉郡)に漢学・医術をそれぞれ師事した。文久2年(1862年)父の死去により家督を相続し医業を開業し、幕末には国事に奔走した。 明治2年3月13日(1869年4月24日)秋月藩に同藩の情報を久留米藩に提供したとして捕らえられたが、同月17日に釈放された。
小幡 篤次郎(おばた とくじろう、1842年7月15日(天保… 小幡 篤次郎(おばた とくじろう、1842年7月15日(天保13年6月8日) - 1905年(明治38年)4月16日)は、幕末の中津藩士。明治時代の政治家(貴族院議員)・教育者・思想家。慶應義塾長。小幡甚三郎の兄。号は箕田。 1842年(天保13年)、豊前国中津藩殿町(現在の大分県中津市殿町)に、中津藩家老・小幡氏の中津藩士で、供番・元締兼郡奉行を務める小幡篤蔵の次男として生まれる。幼時から父に四書五経を習い、中津藩の藩校・進脩館(しんしゅうかん) で藩儒・野本真城、野本三太郎、藩士・古宇田姑山らに就き漢学を学び、教頭となるが、1864年(元治元年)、福澤諭吉が欧州から帰朝後、中津に帰省中に中津藩士の次男・三男で家事に係累のない優秀な子弟を物色して江戸に伴って行こうと考え野本三太郎に相談したところ篤次郎を推薦したため、説得されて江戸に出ることになった。
樋口 杏斎(ひぐち きょうさい、天保13年6月7日(1842… 樋口 杏斎(ひぐち きょうさい、天保13年6月7日(1842年7月14日) - 1917年(大正6年)11月11日)は、幕末、明治時代の徳島県の教育者。名は健三。元治元年(1864年)、櫛淵村(小松島市櫛渕町)の自宅に寺子屋敬義斎を開き、1874年(明治7年)に櫛渕小学校(現小松島市立櫛渕小学校)に改組、1906年(明治39年)に退職するまで長く初等教育に携わった。日本史学者・喜田貞吉の恩師。 天保13年(1842年)6月7日、阿波国那賀郡櫛淵村に医者・樋口才庵の長男として生まれた。 嘉永元年(1848年)1月から父・才庵より習字、素読を習い、安政4年(1857年)1月から名東郡富田浦の櫛淵駒蔵、安政6年(1859年)4月から富田幟町の湯浅道輔に漢学を学び、岡本斯文に経史学を学んだ。
鈴木 大亮(すずき だいすけ、1842年6月26日(天保13… 鈴木 大亮(すずき だいすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日) - 1907年(明治40年)2月1日)は、日本の政治家、農商務官僚。貴族院議員、官選県知事、錦鶏間祗候、男爵。幼名・篤敬。 陸奥国遠田郡中埣村(現:美里町)で仙台藩士・鈴木雄三郎の長男として生まれる。文久3年(1863年)、江戸で江川塾において砲術を学び、黒田清隆と知り合う。戊辰戦争に従軍した。 明治4年(1871年)11月、黒田清隆の推薦で開拓使十二等出仕となる。以後、開拓少主典、同主典、同権大主典、同大主典、開拓権少書記官、同権大書記官などを歴任。1882年2月、開拓使が廃止され農商務省に移り大書記官に就任。以後、兼大蔵大書記官、北海道庁理事官、農商務省水産局長などを務めた。
野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13… 野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日)- 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。 1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。 1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。
藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保1… 藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保12年5月15日) - 1912年(明治45年)3月30日)は、日本の商人、実業家、華族。明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田組(後の藤田財閥、現・DOWAホールディングス)の創始者。男爵。 建設、土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた。また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても名高い。号を香雪と称す。現在の山口県萩市出身。元奇兵隊士だとされるが詳細は不詳。 長州藩の萩(現・山口県萩市)で醸造業を営む藤田半右衛門常徳の四男に生まれる。家業は醸造業の他、藩の下級武士に融資を行う掛屋を兼営していた。
船越 衛(ふなこし まもる、天保11年6月15日(1840年… 船越 衛(ふなこし まもる、天保11年6月15日(1840年7月13日) - 大正2年(1913年)12月23日)は、広島藩出身の明治期の官僚・貴族院議員。男爵。父は広島藩の財務官僚として名高かった船越昌隆(八百十郎)。幼名は洋之助。号は松窓(松操、しょうそう)。子に船越光之丞、弟に加藤隆義がいる。
岩村 通俊(いわむら みちとし、1840年7月8日〈天保11… 岩村 通俊(いわむら みちとし、1840年7月8日〈天保11年6月10日〉- 1915年〈大正4年〉2月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。鹿児島県令や初代北海道庁長官などを務めた。貫堂と号し、素水を俳号とする。栄典は正二位勲一等男爵。 明治時代に農商務大臣、宮中顧問官、北海道庁長官を務める。開拓官僚として赴任した北海道を調査し、北海道庁設置の必要性を政府に働き掛け、初代北海道庁長官となる。 土佐藩陪臣・岩村英俊を父に、長男として土佐国(現在の高知県)宿毛で生まれた通俊は、酒井南嶺の下で学問を学び岡田以蔵の下で剣術を学んだ。1869年(明治2年)には政府に出仕し聴訟司判事、箱館府権判事開拓判官を務める。
池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840… 池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840年6月25日〉 - 大正元年〈1912年〉10月11日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、実業家。 三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬は長男。 出羽米沢藩士五十騎組香坂昌邦の三男として生まれ、1864年(元治元年)に同じく藩士の五十騎組池田峰蔵の養子となった。 初め、貞吉、丈八と改め、のちに新次郎、さらに成章と改めた。 藩校興譲館で書・文学を学び、上杉茂憲の小姓となる。町奉行[要出典]、江戸留守居役を歴任。茂憲の側役として麻布邸に起居し、甘糟継成と行動を共にし、ここで慶應義塾の福澤諭吉や小幡篤次郎、シーボルトを初めとする人物らと知己を得た。
藤田 吉亨(ふじた よしはる / よしゆき、1839年7月1… 藤田 吉亨(ふじた よしはる / よしゆき、1839年7月18日(天保10年6月8日)- 1923年(大正12年)9月27日)は、幕末の大田原藩士、明治期の公吏・政治家。衆議院議員、栃木県那須郡大田原町長。旧姓・伊藤。幼名・銀之助。 下野国那須郡大田原城下(栃木県那須那大田原宿、大田原町を経て現大田原市)で、大田原藩士・伊藤買山(長貫)の末男(第五子)として生れ、同藩士・藤田六郎(吉一)の養子となる。大田原藩校で学んだ。同藩留守居添役、使番兼兼徒士頭、物頭兼寺社奉行を歴任。戊辰戦争で旧幕府方と戦闘を行う。その後、参政、少参事を務めた。 1871年(明治4年2月)神祇官に出仕し宣教使に就任。以後、宇都宮県学区取締、同県第五大区二小区戸長兼学校掛、栃木県第三大区一小区戸長を務めて帰郷。
根岸 武香(ねぎし たけか、天保10年5月15日(1839年… 根岸 武香(ねぎし たけか、天保10年5月15日(1839年6月25日) - 明治35年(1902年)12月3日)は、武蔵国大里郡冑山村(現在の熊谷市)出身の政治家、郷土史家。 幼名「新吉」、後に「伴七」と改めた。父は根岸友山。孫 根岸憲助の妻は横川重次妹。娘の岳父は雨宮敬次郎。 剣道を千葉周作、和漢学を寺門静軒、安藤野雁に学ぶ。明治12年(1879年)に埼玉県会開設と共に同議員に選出されて副議長となり、翌明治13年(1880年)から14年(1881年)まで第2代議長、明治23年(1890年)から25年(1892年)まで第10代議長を務め、明治27年(1894年)10月10日には補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、1897年(明治30年)9月28日まで在任した。
広瀬 久光(ひろせ ひさみつ、天保10年5月13日(1839… 広瀬 久光(ひろせ ひさみつ、天保10年5月13日(1839年6月23日) - 明治43年(1910年)8月11日)は山梨県の名望家、戸長、県会議員。 地域の戸長、区長などを歴任、また東山梨郡書記に任用されるなど、地方自治や農政の進展に貢献した。明治13年(1880年)から二期4年間、県会議員に在任活躍し、特に青梅街道の開発に最も力を注いでいた。また、自家の屋敷は「於曽屋敷」として昭和38年(1963年)9月9日に山梨県指定の史跡に指定されている。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7… 上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7月6日) - 1919年(大正8年))は明治時代の札幌開拓者。信濃国諏訪藩出身。江戸に出て商家に奉公し、行商人、測量師を経て北海道に渡り、札幌で初めて水田稲作に成功、東皐園で花菖蒲等の栽培を行った。 天保9年(1838年)5月15日信濃国諏訪郡南真志野村(長野県諏訪市湖南南真志野)に諏訪藩普請奉行上島幸右衛門の子として生まれた。幼名は源吉で、家督相続後、正と改めた。9歳から17歳まで生之堂鏡湖に書画を学び、画家を志したが、画家は妻帯できないと父に言われ、断念した。 安政2年(1855年)父の命で江戸に出て、森備中守屋敷富木衛門七方に奉公したが、半年後、武家社会を見限り、町家に奉公した。
黒須 喜兵衛(くろす きへえ、1837年7月22日 - 18… 黒須 喜兵衛(くろす きへえ、1837年7月22日 - 1887年10月12日)は、日本の実業家。江戸時代末期から明治時代初期にかけて埼玉県川越を中心に活動した。第八十五国立銀行初代頭取を務めた。 天保8年6月20日(グレゴリオ暦1837年7月22日)、武蔵国川越で呉服商「松屋」を営んでいた先代黒須喜兵衛の長男として誕生。 明治に入り、政府が国立銀行条例を制定すると、同じく川越の商家であった綾部利右衛門、横田五郎兵衛、山崎嘉七らとともに明治11年(1878年)に銀行創立願を提出、第八十五国立銀行として認可された。同年の株主総会において喜兵衛は頭取に選任された。 明治20年(1887年)10月12日、病気のため数え51で死去。
西 成度(にし なりのり / なりたき / しげのり、183… 西 成度(にし なりのり / なりたき / しげのり、1835年7月17日(天保6年6月22日)- 1891年(明治24年)4月5日)は、幕末の阿蘭陀通詞・幕臣・静岡藩士、明治期の司法官。大審院長、東京控訴院長。通称・吉十郎、幼名・松十郎。 肥前国長崎平戸町(現長崎市江戸町)で西家第11代・阿蘭陀通詞の西吉兵衛成量、登美夫妻の長男として生まれる。天保10年8月7日(1839年9月14日)数え5歳で稽古通詞を申し付けられる。以後、小通詞末席、小通詞並、小通詞助、小通詞と昇進。嘉永3年9月(1850年10月)幕府より阿蘭陀通詞に英和辞典編纂の命が下され、『エゲレス語辞書和解』(未完)の編纂者の一人となる。
福島 大順(ふくしま だいじゅん、天保4年5月29日〈183… 福島 大順(ふくしま だいじゅん、天保4年5月29日〈1833年7月16日〉 - 大正3年〈1914年〉2月22日)は、広島県出身の浄土真宗の僧侶、教育者。浄土真宗本願寺派明円寺11世住職。 広島市の『佐東町史』(1980年3月)[要ページ番号]によれば、天保4年(1833年)5月29日安芸国沼田郡中調子村(現在の広島市安佐南区川内)の浄土真宗本願寺派明円寺第10世住職福島大乗の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)5月、大順が16歳の時に旧豊田郡川尻町(現呉市)の光明寺の訶提の門に入り、嘉永4年(1851年)12月までの2年7か月間で仏学の基礎を学んだ。嘉永5年(1852年)2月に本願寺学林(京都、現龍谷大学)に入り、安政元年(1854年)7月まで学んだのちに帰郷した。
清瀬 善三(きよせ ぜんぞう、1833年6月26日(天保4年… 清瀬 善三(きよせ ぜんぞう、1833年6月26日(天保4年5月9日 )- 1912年(明治45年)7月4日)は、明治期の醸造家・銀行家・政治家・慈善家。貴族院多額納税者議員。幼名・秀吉。慈善事業にも資金を提供した。 豊前国宇佐郡四日市村(大分県宇佐郡四日市村、四日市町を経て現宇佐市四日市)で醸造業・清瀬亀助の六男として生まれた。敷田年治(吉松伊勢守)から読書算術習字などを学んだ。父からその優れた資質を見込まれ、1855年(安政2年6月)に家督を相続した。 1856年(安政3年)四日市の宿役に就任。その後、里掌、四日市村戸長を務め、1879年(明治12年)四日市村会議員に選出され、同町会議員、宇佐郡会議員なども務めた。
初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天… 初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天保4年5月5日〉 - 1921年〈大正10年〉6月6日)は、日本の政治家・貴族院議員・北海道多額納税者・資産家・実業家・慈善家。函館貯蓄銀行頭取。相馬合名代表社員。族籍は北海道平民。北海道屈指の豪商だった。多くの公共施設や神社仏閣、凶作救済資金などに多額の私財を寄付した。 越後国蒲原郡荒井浜(のち新潟県北蒲原郡乙村大字荒井浜、現胎内市)で、相馬熊次郎の二男として生まれる。生家は木造和船を一艘所有した回漕業と綿屋の兼業で生計を立てていた。家計が豊かでなかったので、少年時代から「何か腕に芸を覚えよう」と考えていた。 文久元年(1861年)、28歳で箱館に移り、岩船屋春蔵宅で奉公(住み込み労働)。
長谷川 直則(はせがわ なおのり、1833年6月22日(天保… 長谷川 直則(はせがわ なおのり、1833年6月22日(天保4年5月5日) - 1896年(明治29年)5月4日)は、幕末から明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 豪商・佐藤伊兵衛の四男として出羽国村山郡天童(山形県東村山郡天童町を経て現天童市)に生まれ、のち長谷川吉内の養子となる。山形藩主秋元家に仕えたのち、実業界に入り、1888年(明治21年)7月には第八十一国立銀行頭取に就任した。ついで翌年5月、山形市会議員に当選し、所得税調査委員、山形興業幹事を経て、1890年(明治23年)山形県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1895年(明治28年)12月7日まで在任した。
井上 高格(いのうえ たかのり/こうかく、1831年7月19… 井上 高格(いのうえ たかのり/こうかく、1831年7月19日(天保2年6月11日) - 1893年(明治26年)4月24日)は、日本の政治家。初代徳島市長。徳島藩士。阿波国名東郡徳島(現・徳島県徳島市大岡本町・渭北地区)出身。次男は英語学者の井上十吉。玄孫は歌手の井上真紀。 1831年に徳島藩士である井上高超の嫡子として生まれる。その後、家督を相続、徳島藩の目付を務める。そのすぐ後に京都にて長州藩士らと交わり、尊王攘夷運動に参加。徳島に戻り、14代藩主である蜂須賀茂韶の下で力を発揮する。 1871年に徳島県の大参事に抜擢。1874年に後の徳島市長である一坂俊太郎らと共に自由民権運動を訴える「自助社」を結成し代表となる。
入沢 恭平(いりさわ きょうへい、旧字体: 入澤 恭平 18… 入沢 恭平(いりさわ きょうへい、旧字体: 入澤 恭平 1831年7月18日(天保2年6月10日) - 1874年(明治7年)1月10日)は、幕末・明治初期の在野の洋方医教育者、陸軍軍医。 幼名は恭助、字は尊典、号は松塢。初代東京帝国大学医学部綜理(初代の東京大学医学部長に相当)である池田謙齊の兄。入沢達吉は息子。 越後国蒲原郡中之島村西野(現・新潟県長岡市)に生まれる。蘭方医学者が縁戚に複数いたことで医学を志した(弟の池田謙斎も同様)。江戸に出て蘭医学者の戸塚静海と土生玄昌に教えを受ける。その後、万延元年(1860年)に長崎に赴いて、ポンペから医学を教授された。この長崎滞在中に記した日記が残されている。
佐藤 国彦(國彦、さとう くにひこ、1828年7月19日(文… 佐藤 国彦(國彦、さとう くにひこ、1828年7月19日(文政11年6月8日)- 1911年(明治44年)2月19日)は、明治期の農業経営者、政治家。貴族院多額納税者議員。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡北馬城村(宇佐町を経て現宇佐市)で、佐藤楽山の長男として生まれる。1843年7月5日(天保14年6月8日)父の隠居に伴い家督を相続し農業を営む。 1874年(明治7年)第6小区戸長に就任し1878年(明治11年)まで在任。1884年(明治17年)大分県岩崎村ほか九カ村戸長となった。 1899年(明治32年)6月4日、大分県多額納税者として貴族院多額納税者議員補欠選挙で互選され、同年7月3日に就任し、1904年(明治37年)9月28日まで1期在任した。
小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827… 小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827年7月16日〉 - 慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉)は、幕末期の日本の武士(幕臣)。 通称は又一で、この通称は小栗家当主が代々名乗っていた。安政6年(1859年)、従五位下・豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介に遷任した。三河小栗氏第12代当主。 勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した。 安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
加納 宗七(かのう そうしち、1827年7月16日(文政10… 加納 宗七(かのう そうしち、1827年7月16日(文政10年6月23日) - 1887年(明治20年)5月5日)は、江戸・明治期に活動した日本の商人。 文政10年6月23日(1827年7月16日)、和歌山城城下町の北ノ新地分銅町(現在の和歌山市北ノ新地分銅町)に生まれる。生家は紀州藩の御用商人宮本家で、酒造業や廻船業を営んでいた。結婚後、宗七は姓を加納と改めた。宗七は倒幕運動に参加し、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬が暗殺されると、三浦休太郎が坂本龍馬殺害に関与したとの情報を海援隊にもたらし、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、陸奥宗光らとともに三浦を襲撃(天満屋事件)。
千本 久信(せんもと ひさのぶ、1827年7月13日(文政1… 千本 久信(せんもと ひさのぶ、1827年7月13日(文政10年6月20日) - 1885年(明治18年)10月15日)は、幕末の福井藩士、明治期の官僚・実業家。広島県権参事(未赴任)。初名・弥三郎。 越前国足羽郡福井下江戸町(現:福井県福井市)で、福井藩士・千本久備の長男として生まれる。天保2年4月5日(1831年5月16日)実父・久備の危篤に伴い、千本家は養父として小林久達(藤左衛門、東岫)を迎える。嘉永6年7月20日(1853年8月24日)江戸での砲術調練修行を命ぜられ、その後、兵科懸り、兵科局詰、兵科取調方などを務める。文久2年3月29日(1862年4月27日)書院番格として江戸詰となり、以後、松平春嶽の側近として活躍。
川上 冬崖(かわかみ とうがい、文政10年6月11日〈182… 川上 冬崖(かわかみ とうがい、文政10年6月11日〈1827年7月4日〉 - 明治14年〈1881年〉5月3日)は、幕末から明治前期にかけて活躍した南画家、洋風画家、図画教育者である。諱は寛(ひろし)、幼名は斧松、字は子栗、通称は万之丞。 文政10年(1827年、文政11年〈1828年〉生まれとも言われる)、信濃国高井郡松代藩領福島新田村(現長野県長野市)に山岸瀬左衛門の末子として生まれる。母の実家である墨坂神社宮司方から須坂藩藩校立政館に学ぶ。弘化元年(1844年)江戸に出て上野寛永寺東叡院の小従となり、同院に出入れしていた円山四条派の絵師大西椿年に写生画を学んだ。嘉永4年(1851年)に幕府御家人株を購入、川上仙之助の養子となり、以後川上姓を名乗る。
丸岡 南陔(まるおか なんがい、文政8年6月6日(1825年… 丸岡 南陔(まるおか なんがい、文政8年6月6日(1825年7月21日) - 明治19年(1886年)1月8日)は江戸時代から明治にかけての学者、漢詩人。佐渡国雑太郡折戸村名主、佐渡奉行所修教館教授を務め、明治維新後も相川県漢学局、雑太郡学区、公立佐渡中学校で教育に携わった。 文政8年(1825年)6月6日に生まれた。家は代々佐渡国雑太郡折戸町名主、佐渡奉行所官庫出納掾を兼ね、醤油醸造を行っていた。幼少より書を好み、特定の師は持たなかったものの、甲賀達斎等に兄事し、詩を藤木竹窓に学び、間もなく天野恥堂兄弟、万歳東所、西村滄州、大平菰塘、岡崎棟庵、謙亭、棟斎等と交流を持ち、廉社を結び毎月詩筵を開いた。
大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8… 大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8年5月7日) - 1896年(明治29年)4月27日)は、幕末の薩摩藩士、明治の官僚・政治家。元老院議官、貴族院議員、子爵。 薩摩国鹿児島城下平之町に薩摩藩士・山之内立幹の四男として生まれ、大迫貞邦の養子となる。万延元年(1860年)から京都警備に従事。戊辰戦争では、二番遊撃隊隊長、そして東山道先鋒総督本営付として従軍した。 明治に入り薩摩藩の藩政改革に参政、権大参事として取り組む。明治5年(1872年)に陸軍少佐に任官し、中佐まで進み第1経営部司令官に就任。1874年(明治7年)1月に静岡県令に転じ、以後、文官として歩んだ。 1883年(明治16年)12月、警視総監に就任し、1885年(明治18年)12月、元老院議官を兼務した。
本木 昌造(もとき しょうぞう/もとぎ しょうぞう、文政7年… 本木 昌造(もとき しょうぞう/もとぎ しょうぞう、文政7年6月9日〈1824年7月5日〉 - 1875年〈明治8年〉9月3日)は江戸幕府のオランダ(蘭)通詞、教育者であり、日本における活版印刷の先駆者として知られる。諱は永久(ながひさ)、幼名作之助または元吉。異表記に昌三、笑三(あるいは号とも〈曲田(1894)〉)、咲三。 通詞の家系へ養子に入り、幕府の通詞をする傍ら、西洋への興味から操船、造船、製鉄、活字製造などに関わった。明治維新後、職をなくした武士への授産施設として私塾を開き、そこの一事業であった活字製造は、のちに独立して「新街活版所」となり、門下生らによって東京築地活版製造所などへとつながった。
白根 多助(しらね たすけ、文政2年5月6日〈1819年6月… 白根 多助(しらね たすけ、文政2年5月6日〈1819年6月27日〉 - 1882年〈明治15年〉3月15日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚。埼玉県令。旧姓・太田、諱・翼、通称・多助、変名・大田翼、号・梅園。 周防国吉敷郡吉敷村佐畑(現山口県山口市)で、長州藩士・太田直猷の七男として生まれ、白根兼清の養子となる。藩では美禰郡宰として出仕し、さらに大坂藩邸で勤務した。文久3年(1863年)3月、中山忠光らの長州移送に尽力した。文久4年(1864年)正月、帰藩後に所帯方役に就任し会計を担当。以後、会計庶務方、美禰部署管事(代官)、山口藩会計大属などを歴任し、藩財政の維持に尽力した。 明治政府に出仕し、明治4年(1871年)11月、埼玉県権参事に就任。
浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年… 浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年7月3日〉 - 1880年〈明治13年〉2月17日)は、江戸時代末期(幕末)、明治時代の幕臣(旗本)、蔵書家、書画家、芸術鑑定家。字は胤卿、通称は金之丞、号の梅堂で知られる。官途は中務少輔、和泉守、備前守など。他に池香、蔣潭、蝦侶斎漱芳閣、楽是幽居、柏洪楼とも名乗った。 文化13年(1816年)、江戸飯田町(現・千代田区)で旗本浅野長泰(号は金谷)の子として生まれる。家系は播磨赤穂藩浅野家の支族(家原浅野家)で、家禄3500石の上級旗本であった。幼少より父から漢詩・和歌・俳句等を学び、書画をよくした。出羽亀田藩主岩城隆喜の3女直子と結婚。
大原 其戎(おおはら きじゅう、四時園其戎、文化9年5月18… 大原 其戎(おおはら きじゅう、四時園其戎、文化9年5月18日(1812年6月26日) - 明治22年(1889年)3月31日)は、伊予松山の俳人。通称は熊太郎、沢右衛門。 青年期の正岡子規が俳句の指導を受けた人物である。 伊予国(現・愛媛県)の三津浜に生まれた。父親は綿・麻織物を扱う太物商で俳人の其沢である。万延元年(1860年)、京都に出て七世桜井梅室に入門し、二条家から宗匠の免許を受けた。その後、故郷に戻り俳諧結社の明栄社を興し、明治13年(1880年)に月刊俳誌『真砂の志良辺』を創刊した。同誌に投稿した俳人は800人に達した。 上京後、俳句に興味を持った正岡子規が、明治20年(1887年)の2度目の帰郷の際、友人の勝田主計の勧めで其戎のもとを訪ね、句稿を見せて批評を仰いだ。
松尾 多勢子(まつお たせこ、文化8年5月25日(1811年… 松尾 多勢子(まつお たせこ、文化8年5月25日(1811年7月15日) - 明治27年(1894年)6月10日)は、幕末期の尊皇派女性志士。島崎藤村の「夜明け前」にも活写されている。彼女の名前は本来「(お)多勢」と表記されたが、明治時代以降、女性の名前には「・子」を付ける慣習に従って表記されるようになった。 信濃国伊那郡山本村(現在の長野県飯田市)の豪農・竹村常盈の長女として生まれた。19歳で伴野村(現・豊丘村)の旧家・松尾佐次右衛門淳斎に嫁いだ。夫婦仲は良く7人の子を育てながら、家業の傍らともに和歌や平田派国学などを夫ともに学んだりした。 文久2年(1862年)に、病身の夫から許しを得て51歳で上洛し、尊皇攘夷運動に参加、公家の白川家、大原家に出入りするようになった。
勝元 鈍穴(かつもと どんけつ、文化7年6月15日(1810… 勝元 鈍穴(かつもと どんけつ、文化7年6月15日(1810年7月16日) - 明治22年(1889年)4月9日)は、幕末から明治前期の作庭家。近江国出身。 文化7年(1810年)近江坂田郡勝村(現滋賀県長浜市勝町)に生まれ、字は子接、通称は源吾と称した。勝村は勝海舟の勝家発祥の地とされる。茶道遠州流中興の立役者と言われる坂田郡国友村の辻宗範の門人となり、茶道・南画・和歌・築庭などを学んだ。茶道では宗益、南画では蘭谷または蘭岳、築庭では鈍穴と号し、茶道・南画・俳句・和歌・狂歌・華道・礼法・築庭から医術に至るまで諸道に通じ、人格高潔で、また芸術的天才の面を大いに発揮したと伝えられている。中でも、特に築庭に才を発揮した。
笠原 良策(かさはら りょうさく、文化6年5月10日(180… 笠原 良策(かさはら りょうさく、文化6年5月10日(1809年6月22日) - 明治13年(1880年)8月23日)は、江戸時代末期(幕末)の蘭方医。名は良、字(あざな)は子馬、号は鉄仏無涯堂、天香楼、桂窓、白翁。福井藩の町医。越前国足羽郡深見村(現・福井市)生まれ。父は福井城下の町医笠原龍斎。種痘の継続に尽力し、領内諸地域や北陸の近隣諸藩(府中・鯖江・大野・敦賀・大聖寺・金沢・富山)に種痘を広めた。 15、6歳の頃から福井藩の医学所へ通い、妻木陸叟から本草学を学んだ。文政12年(1829年)から天保3年(1832年)にかけて江戸に出て磯野公道(漢方)に入門し、その後福井城下木田中町で開業。天保7・8年(1836年-1837年)頃、湯治に出かけた山中温泉で蘭方医の大武了玄(藤林普山、小石元瑞に学んだ大聖寺藩町医)に出会い、蘭方医学に興味を持ち入門した。