貴山 幸次郎(きやま こうじろう、1865年4月27日(慶応… 貴山 幸次郎(きやま こうじろう、1865年4月27日(慶応元年4月3日) - 1940年(昭和15年)6月9日)は日本基督教会の牧師である。 1865年(慶応元年)伊予国吉田(現・愛媛県宇和島市)に生まれ、幼少期は吉田郷校(藩校文武館の後身)で学び、卒業後に同校の教師になる。1881年(明治14年)に宇和島に来た桜井昭悳の演説を聴いてキリスト教を知った。1885年(明治18年)に横井時雄の伝道説教を聞いてキリスト教信仰を持つ。 1885年に東京に移り津田仙の学農社で学び『農業雑誌』の編集を行う。植村正久の『真理一斑』を読んで信仰を強くし、1885年新栄教会で石原保太郎から洗礼を受ける。その後、献身し東京一致英和学校、東京一致神学校で学ぶ。
江口 定條(えぐち さだえ、元治2年4月1日(1865年4月… 江口 定條(えぐち さだえ、元治2年4月1日(1865年4月25日) - 昭和21年(1946年)3月14日)は、日本の実業家、政治家。 土佐国土佐郡高知城下本町(現・高知県高知市本町)出身。1887年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒、同校教諭に就任。その後、三菱合資会社入社。同社専務理事、監事等を経て1920年同社総理事。1925年社団法人如水会初代理事長。1931年6月、経営状態が悪化していた南満州鉄道(満鉄)の副総裁に就任し経営の実務に当たるが、就任直後に満州事変が発生。満鉄総裁の内田康哉が急進的な事変拡大派に転向し、満鉄が関東軍に協力する中で江口は事変拡大に反対し軍部に批判的な立場であり続けた。
森田 勇次郎(もりた ゆうじろう、1865年4月25日〈慶応… 森田 勇次郎(もりた ゆうじろう、1865年4月25日〈慶応元年4月1日〉 - 1920年〈大正9年〉11月10日)は、日本の新聞記者、政治家。衆議院議員(静岡県郡部選出、当選2回)。族籍は静岡県平民。 肥後国天草郡志岐村(現・熊本県天草郡苓北町)に生まれた。森田市郞次の三男。1885年、東京専門学校(現・早稲田大学)邦語政治科を卒業。 1889年、静岡大務新聞社に聘せられた。1891年、静岡民友新聞を創立し主筆となった。静岡商業会議所書記長、同特別議員となった。進歩党静岡支部幹事として党務に尽瘁した。 1903年の第8回衆議院議員総選挙と1908年の第10回衆議院議員総選挙で当選。進歩党、憲政本党、立憲国民党に所属した。
杉浦 義道(すぎうら よしみち、1864年5月20日〈元治元… 杉浦 義道(すぎうら よしみち、1864年5月20日〈元治元年4月15日〉 - 1930年11月7日)は、日本の聖職者、医療従事者、翻訳家。日本聖公会の聖職者として、労働者への伝道に力を注ぎ、労働者矯風会を興して貧者の更生に尽力したほか、サマリタン医院を創設して医療活動に従事した。旧名は悦太郎。 1864年、若狭国小浜(現・福井県小浜市)生まれ。父親は、米国聖公会の宣教師ヘンリー・D・ペイジから洗礼を受けた聖公会信徒。弟は立教大学元学長の杉浦貞二郎。 築地の立教学校(現・立教大学)に入学する。同校在学中の1881年(明治14年)にチャニング・ウィリアムズ主教(立教大学創設者)より感化を受けて洗礼を受ける。
吉田 東伍(よしだ とうご、元治元年4月14日〈1864年5… 吉田 東伍(よしだ とうご、元治元年4月14日〈1864年5月19日〉 - 大正7年〈1918年〉1月22日)は、日本の歴史学者、地理学者(歴史地理学)。新潟県出身。「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人。 元治元年(1864年)4月14日(4月10日とする資料もある)、越後国蒲原郡保田村(現:阿賀野市安田)の豪農旗野家の子(三男)としてに生まれる。吉田姓は養子先であり、1884年(明治17年)12月から名乗った。1874年(明治7年)に小学校を出たのち、近所の英国人について英語を4年間学び、村で英学者ともてはやされる。1875年(明治8年)、11歳の時から新潟学校(後の新潟英語学校)中学部を3年ほどで中退後、学校教育を受けずに独学で小学校教員となる。
五十野 譲(讓、いその ゆずる、1864年5月15日(元治元… 五十野 譲(讓、いその ゆずる、1864年5月15日(元治元年4月10日)- 1912年(明治45年)1月1日)は、明治期の酒造家・政治家。衆議院議員。 常陸国行方郡次木村(新治県行方郡次木村、茨城県行方郡次木村、武田村次木、北浦村次木、北浦町を経て現行方市次木)で酒造家の家に生まれた。漢学を修めた。幼くして父を失い家業を継承した。 武田村会議員に就任。1892年(明治25年)自由党に所属して茨城県会議員に選出され、1895年(明治28年)まで在任した。 1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(茨城県第1区、憲政党)で当選し、衆議院議員に1期在任。1904年(明治37年)3月、第9回総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)では落選した
越 寿三郎(こし じゅさぶろう、元治元年4月8日〈1864年… 越 寿三郎(こし じゅさぶろう、元治元年4月8日〈1864年5月13日〉 - 1932年〈昭和7年〉3月11日)は、明治から昭和戦前期にかけて活動した日本の実業家である。長野県上高井郡須坂町(現・須坂市)の人物で、「山丸組」の名で製糸業を経営したほか、同地の電力会社信濃電気や同社から派生した信越窒素肥料(現・信越化学工業)の社長を務めた。 越寿三郎は、元治元年4月8日(新暦:1864年5月13日)、信濃国高井郡須坂村(後の長野県上高井郡須坂町、現・須坂市)に豪農・小田切新蔵(3代目)の三男として生まれた。実家小田切家は曽祖父にあたる初代新蔵が宗家から分かれ起こした家で、屋号は「東糀屋」。父新造は1875年(明治8年)から製糸業(山三製糸所)を営み、1889年(明治22年)からは須坂町会議員を務めた。
竜野 周一郎(たつの しゅういちろう、元治元年4月7日(18… 竜野 周一郎(たつの しゅういちろう、元治元年4月7日(1864年5月12日) - 昭和3年(1928年)4月11日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、実業家。 信濃国小県郡石神村(現長野県上田市)出身。旧制上田中学などで学んだ。明治14年(1881年)、小県郡の教育家の知識交換のために集義社を設立。同年、益友社という政社をおこし、自由党に加入した。自由党の遊説員として北信地方を回ったが、政府から演説を禁止されてしまった。 そこで軍談師の免許を取得して先憂亭後楽と称し、政治講談によって自由民権思想を広めた。明治17年(1884年)の飯田事件に関係したとして検挙されたが証拠不十分として免訴となった。
田口 米作(たぐち べいさく、元治元年4月6日 (1864年… 田口 米作(たぐち べいさく、元治元年4月6日 (1864年5月11日) - 明治36年(1903年)1月18日)は、明治時代の版画家、浮世絵師。 小林清親の門人。姓は田口、名は米作。桜川と号す。元治元年(1864年)4月6日、下野国(現・栃木県)都賀郡野田村(現・足利市)に生まれる。明治6年(1873年)上京し、初めは中村晩山に師事、後に明治14年(1881年)頃小林清親に入門する。父親は芝西久保で米屋を営んだ。明治24年(1891年)、清親が赤坂桧町に開設になった東京絵画学校の教授となって絵手本を提供した際、米作自身は井上委山とともに助教授を務めている。明治28年(1895年)に芝桜川町に移転している。
岡野 喜太郎(おかの きたろう、1864年5月9日(元治元年… 岡野 喜太郎(おかの きたろう、1864年5月9日(元治元年4月4日) - 1965年(昭和40年)6月6日)は、日本の銀行家。 駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)出身。静岡県多額納税者。スルガ銀行創設者。沼津市名誉市民。静岡県屈指の実業家であった。 駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)に名主の長男として生まれた。岡野弥平太の長男。1879年(明治12年)に集成舎(後の静岡県立沼津中学校、現在の静岡県立沼津東高等学校)に入学。1885年(明治18年)には静岡県立豆陽中学校(現・静岡県立下田高等学校)に入学したが、故郷は1884年(明治17年)9月の暴風による飢饉にあえいでおり、結局師範科を中退して故郷で農業に専念した。
石本 鏆太郎(いしもと かんたろう、1864年5月9日(元治… 石本 鏆太郎(いしもと かんたろう、1864年5月9日(元治元年4月4日) - 1933年(昭和8年)12月30日)は、大正から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員。大連市長。台湾から関東州へアヘン専売制を持ち込み巨万の富を築き大連のアヘン王と呼ばれた。 土佐国長岡郡八幡村(高知県長岡郡岡豊村八幡を経て、現在の南国市)に生まれる。東京大学予備門に学ぶ。渡清し、上海でフランス語、中国語を学ぶ。北京にも留学した。西郷隆盛大使附通訳官を経て、日清、日露両戦役に陸軍通訳として従軍する。ついで台湾総督府専売局翻訳官、関東州民政署満州利源調査委員、関東都督府事務嘱託を経て、大連市長に就任する。ほか、大連高等女学校や奉天日々新聞を経営する傍ら、アヘン製造販売業に従事し巨万の富を得た。
池田 寅治郎(いけだ とらじろう、1864年5月8日(元治元… 池田 寅治郎(いけだ とらじろう、1864年5月8日(元治元年4月3日)- 1925年(大正14年)10月23日)は、明治後期から大正期の実業家、教育者、政治家。衆議院議員。 備中国後月郡井原村猪原(岡山県後月郡井原村、井原町を経て現井原市井原町)で、宮六の二男として生れた。興譲館長・坂田警軒に師事し、同志社英学校を経て、1890年(明治23年)慶應義塾を卒業した。 岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、慶應義塾で教師を務め、自由新聞記者となる。山陽鉄道を経て、村井兄弟商会に入り上海支店長、工業部長を歴任。1900年(明治33年)渡米してタバコ事情を視察。1901年(明治34年)に帰国し、煙草専売局技師、東京第二煙草製造所長に就任。
大塚 惟明(おおつか これあき、1864年5月7日(元治元年… 大塚 惟明(おおつか これあき、1864年5月7日(元治元年4月2日) - 1928年(昭和3年)12月28日)は、日本の実業家、政治家。南海電気鉄道株式会社元社長、讃岐電気軌道株式会社元取締役、大阪電球株式会社元取締役、阪神土地建物株式会社元取締役、元大阪市議。斬新な旅客サービスと電化推進で日本初の純民間鉄道を育てた。 1864年5月7日(元治元年4月2日)、肥後国(熊本県)の士族、大塚磨の長男として生まれる。父・大塚磨は、大阪に出て大阪商船社長、山陽鉄道取締役を務めた人物。惟明は北里柴三郎とは同郷で従兄弟関係にある。 1878年(明治11年)14歳で上京し東京府立第一中学校から大学予備門に進むが、キリスト教の影響を受け、大阪の英和学舎(立教大学の前身の一つ)、立教学校(立教大学の前身の一つ)、東京三一神学校(現・聖公会神学院)で学ぶ。
野澤 源次郎(のざわ げんじろう、(1864年(元治元年)5… 野澤 源次郎(のざわ げんじろう、(1864年(元治元年)5月6日 - 1955年(昭和30年))は、日本の実業家。貿易商社・野澤組の2代目。 長野県北佐久郡軽井沢町で大規模な別荘地開墾事業を行い、現在の旧軽井沢の風景を創り上げた人物として知られる。 1864年(元治元年)5月6日、東京府士族・野澤卯之吉の長男として生まれる。1882年(明治15年)、慶應義塾大学を卒業。父が設立した会社・野澤組に加わり、貿易商として本格化させる。 1883年(明治16年)、後に日本初の洋式国産リボンの製造を行うことになる実業家・岩橋謹次郎の妹・貞子と結婚する。 1895年(明治28年)、海外視察から帰国したのを機に、父・卯之吉とともに製帽会社「初音合資会社」を谷中初音町に設立。
白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - … 白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - 1915年4月11日)は、日本の政治家 、教育者。 白鳥家は、代々庄屋を務め、弘前藩主津軽家から苗字帯刀を許された家柄であった。2代藩主津軽信枚の生母・栄源院(津軽為信の側室。白鳥長久の娘とも。堀越城代・白取伊右衛門の妹。弘前藩家老職・白取瀬兵衛信次は甥にあたる)の生家の分家で、白鳥長久の末裔 という。白鳥氏は津軽家に仕えた後、「白鳥」を「白取」と改め、明治維新後に再び「白鳥」と改めた。 白鳥鴻彰は元治元年3月25日に津軽郡荒川村(現:青森市荒川)に、 白鳥慶一・いそ夫妻の長男として生まれる。幼名は初太郎または八太郎。 父・慶一は明治11年(1878年)に府県会規則が公布され、明治12年(1879年)3月県会の開催が決まると第1回の青森県会議員選挙に立候補、当選。
仙頭 武央(せんとう たけなか/たけてる、1864年4月30… 仙頭 武央(せんとう たけなか/たけてる、1864年4月30日(元治元年3月25日) - 1919年(大正8年)12月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。幼名、外太郎。 1864年(元治元年)、土佐国安芸郡穴内村(現在の高知県安芸市)に生まれた。父、武英は旧藩時代の安芸町寄役。申議学舎で船本楠吉に学び、1883年(明治16年)10月、海軍兵学校(10期)を卒業し海軍少尉補となる。1886年(明治19年)4月、海軍少尉任官。 日清戦争には「千代田」分隊長として出征。1896年(明治29年)7月、「鎮遠」砲術長となり、「平遠」副長を経て、1897年(明治30年)12月、海軍少佐に昇進し「浅間」回航委員に発令されイギリスに出張。
亀井 英三郎(かめい えいざぶろう、1864年4月29日(元… 亀井 英三郎(かめい えいざぶろう、1864年4月29日(元治元年3月24日) - 1913年(大正2年)2月26日)は、日本の法制・内務官僚、政治家。貴族院議員。肥後国(現熊本県)出身。 熊本藩士・亀井忠左衛門の三男として生まれる。1888年(明治21年)、帝国大学法科大学(現東京大学法学部)卒業。同年12月、高等試験に合格し法制局試補となる。1890年(明治23年)、法制局参事官に就任。 1902年(明治35年)2月、徳島県知事に就任。その後、1904年(明治37年)1月に静岡県知事、1905年(明治38年)12月、宮城県知事に就任。 1908年(明治41年)の第2次桂内閣の際に警視総監に就任。
奥村 三策(おくむら さんさく、1864年4月27日(元治元… 奥村 三策(おくむら さんさく、1864年4月27日(元治元年3月22日) - 1912年(明治45年)1月2日)は、日本の盲目の盲学校教師。盲学校の職業教育に理療を確立させた。 1864年、加賀国(現在の石川県金沢市)で生まれる。3歳のときに失明した。8歳から加賀藩医久保三柳について鍼灸・按摩術を学んだ。研究意欲が旺盛で、西洋医学を学ぶことの必要を感じ、金沢医学専門学校の教師や学生について解剖・生理・病理などを学び、鍼灸・按摩術の研究をする。上京してさらに研鑽を積みたいという志を持つが、父親は盲人の一人旅に強く反対していた。その父親が亡くなったことから、1886年(明治19年)に上京し、築地の訓盲唖院に入学する。
三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治… 三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治元年3月21日) - 1950年(昭和25年)10月11日)は、日本の医学者(内科学)。東京帝国大学名誉教授。外人教師依存から独立した日本人による内科学を確立した。仏医学を日本に紹介した。神経学を主に、生化学、寄生虫学、脚気など多彩な研究を行った。日本神経学会(1903年)、日本内科学会(1904年)の創立に寄与した。1906年学士院会員、1949年文化勲章。 陸奥国伊達郡高成田村(現・福島県伊達市)生まれ。1877年に上京外国語学校ドイツ語科を経て、1878年東京帝国大学医科大学予科入学。1883年本科に進学。1887年に東京大学医学部本科を卒業し、エルヴィン・フォン・ベルツの助手となる。
田中 延次郎 (たなか のぶじろう、旧姓 市川、1864年4… 田中 延次郎 (たなか のぶじろう、旧姓 市川、1864年4月21日(元治元年3月16日) - 1905年(明治38年)6月21日)は、日本の菌類学者である。日本における最初の近代菌類学書、『日本菌類図説』を執筆した。植物病理学の分野でも桑樹萎縮病の対策に貢献した。 江戸・千住南組の酒問屋の長男に生まれた。 東京帝国大学理科大学植物学科を1889年に卒業した。高等菌類、植物寄生菌など、広い分野に関心を持った。在学中に『植物学雑誌』の発行を提唱し、自らもハツタケなどキノコの2新種の記載論文を発表し、日本人による菌類の新種の初記載論文とされ、イギリスの雑誌に転載された。後に田中の与えた学名、Lactarius hatsudake はイギリスのマイルズ・ジョセフ・バークリーによって命名された種、Lactarius lividatusのシノニムとなった。
中村 静興(なかむら せいこう、1864年4月21日(元治元… 中村 静興(なかむら せいこう、1864年4月21日(元治元年3月16日) - 1927年(昭和2年)4月22日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出水郡阿久根村(後の阿久根町、阿久根市)。1890年、第五高等中学校医学部(のち長崎医学専門学校→長崎医科大学、現・長崎大学医学部)、1893年、東京帝国大学専科、1900年、伝染病研究所(のち東京大学医科学研究所)研究科卒。医師を開業する。阿久根村で温泉を経営し、阿久根村会議員、出水郡会議員、出水郡医師会長、鹿児島県医師会代議員、日本医師会代議員となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から無所属で立候補して当選した。
戸田 恒太郎(とだ こうたろう、1864年4月20日(元治元… 戸田 恒太郎(とだ こうたろう、1864年4月20日(元治元年3月15日) - 1934年(昭和9年)12月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選宮崎県知事、行政裁判所評定官。 長門国萩出身。長州藩士・戸田雅喬の長男として生まれる。1886年、帝国大学文科大学を卒業した。 1890年10月、石川県参事官に就任。以後、長野県参事官、長野県警部長、高知県警部長、青森県書記官、福井県書記官、茨城県書記官、静岡県書記官、同事務官・第一部長などを歴任。 1905年12月、宮崎県知事に就任。1906年7月に休職。1907年4月、行政裁判所評定官に就任。1913年6月に休職し、1924年11月に退官した。
町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年… 町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年5月17日) - 昭和21年(1946年)11月12日)は、明治から昭和期の政治家、実業家、ジャーナリスト。 衆議院議員(当選10回)。立憲民政党・日本進歩党総裁、農林大臣・商工大臣・大蔵大臣(兼任)などを歴任したが最晩年は公職追放された。正三位勲一等。号は幾堂。愛称はノンキナトウサン。 出羽国秋田郡久保田城下の秋田保戸野八丁新田上丁(現秋田県秋田市保戸野八丁)に秋田藩士・町田伝治の四男として誕生。父伝治は3歳の時に亡くなったため、祖父町田平治と母シン子によって育てられた。大正期の『中央公論』編集長・滝田樗陰は甥にあたる。 1875年(明治8年)に叔母町田直の養子となり、家督を継いだ。
梅田 ミト(うめだ ミト、1863年5月14日 (文久3年3… 梅田 ミト(うめだ ミト、1863年5月14日 (文久3年3月27日)- 1975年5月31日)は、長寿日本一及び長寿世界一であった熊本県託麻郡供合村生まれの女性。 1863年、熊本県託麻郡供合村の農家の長女として生まれる。1900年、3回目の結婚を梅田弥次郎と行い、一男一女をもうける。梅田自身には3回の結婚で合計5人の子供がいた。 1973年10月31日、110歳235日だったイギリスのエリザベス・ワトキンスの死去により、長寿世界一となった。 長寿世界一を1年以上に渡って守った後、1975年5月31日に老衰のため死去。112歳17日没。梅田の死去に伴い、河本にわが長寿日本一および世界一の座を引き継いだ。
上村 杢左衛門(うえむら もくざえもん、1863年〈文久3年… 上村 杢左衛門(うえむら もくざえもん、1863年〈文久3年〉5月10日 - 1940年〈昭和15年〉11月16日)は、三河国渥美郡畠村(現在の愛知県田原市福江町)出身の実業家。東三河地方では指折りの事業家であるとされる。渥美半島における様々な企業の創業に関与し、海運業、電気事業、陸運業、金融業などで半島の発展に寄与した。衆議院議員の上村千一郎は孫。 1863年(文久3年)5月10日、三河国渥美郡畠村614番地(現在の愛知県田原市福江町)に生まれた。上村家は畠村の庄屋を務めていた家である。父は上村杢八、母はもとであり、母は知多郡師崎村(現在の南知多町)出身だった。杢左衛門は長男である。1867年(慶応3年)には父の杢八が死去し、4歳にして杢左衛門が上村家を相続した。
永田 仁助(ながた にすけ[要出典] / じんすけ、1863… 永田 仁助(ながた にすけ[要出典] / じんすけ、1863年5月9日(文久3年3月22日)- 1927年(昭和2年)3月10日)は、明治・大正期の実業家、政治家。浪速銀行頭取、貴族院勅選議員。 摂津国西成郡(後の大阪市南区高津町四番丁。現在の大阪市中央区高津)で、米穀商・永田仁左衛門の長男として生まれる。藤沢南岳の泊園書院(現在の関西大学)で漢籍を学んだ。その後、家業を廃し、1889年(明治22年)第1回大阪市会議員選挙で当選。その後、大阪府会議員にも選出された。 その後、大阪の経済発展の必要性を考え、1894年(明治27年)8月、大阪明治銀行の設立に際して取締役に就任。その後、大阪市中銀行の合同の計画を推進し、1898年(明治31年)に浪速銀行が設立されると常務取締役となり、1908年(明治41年)第3代頭取に就任し、1913年(大正2年)まで在任した。
恩田 峰次郎(恩田 峯次郎、おんだ みねじろう、1863年5… 恩田 峰次郎(恩田 峯次郎、おんだ みねじろう、1863年5月7日〈文久3年3月20日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、地主、家主。 東京府北豊島郡池袋村・恩田権十郎の二男。1882年、家督を相続する。農業を営む。池袋村会議員となる。公徳会を組織し、会長をつとめる。北豊島郡長崎村第一耕地整理組合評議員である。住所は東京市豊島区池袋2丁目。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
寄藤 好実(よりふじ よしざね、文久3年3月14日(1863… 寄藤 好実(よりふじ よしざね、文久3年3月14日(1863年5月1日) - 昭和3年(1928年)5月21日)は、日本の教育者。幼名は銀吉。号は紫軒。 信濃国松本城下に松本藩士寄藤武八郎義弘の長男として生まれる。明治元年(1868年)藩校崇教館に学ぶ。廃藩による秩禄処分により、同7年(1874年)一家を挙げて安曇郡東穂高村(現長野県安曇野市)に移り、高橋白山の矢原研成学校に学ぶ。生活は困窮したが、苦学の末、同16年(1883年)長野県師範学校を卒業。南安曇郡穂高尋常小学校訓導、東筑摩郡小学督業、同郡堀之内尋常小学校校長を経て、同22年(1889年)松本尋常小学校(後の旧開智学校)校長兼訓導に転任し、同25年(1892年)同高等小学校校長兼訓導に任命された。
肥後 幸盛(ひご ゆきもり、1863年4月25日〈文久3年3… 肥後 幸盛(ひご ゆきもり、1863年4月25日〈文久3年3月8日〉 - 1922年〈大正11年〉10月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 鹿児島県肝属郡垂水村(現・垂水市)生まれ。1881年、鹿児島県師範学校卒。鹿児島県会議員となる。また、鹿児島県蚕糸組合長、県生糸検査所長、県授産所長、鹿児島県農工銀行監査役、鹿児島郵船、大隅鉄道各(株)社長、鹿児島共同倉庫(資)代表社員を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務め、1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1922年死去。
三田 俊次郎(みた しゅんじろう、1863年4月20日(文久… 三田 俊次郎(みた しゅんじろう、1863年4月20日(文久3年3月3日) - 1942年(昭和17年)9月13日)は、岩手県南岩手郡加賀野村磧町(現盛岡市加賀野)出身の医師、教育者、政治家である。
佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3… 佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3月3日〉 - 1958年〈昭和33年〉9月25日)は、日本の技術者・実業家。広島県東広島市出身。 サタケ創業者。日本で初めて動力式精米機を開発する。また竪型精米機も開発しこれが吟醸酒誕生につながるなど、日本の酒造りに貢献した。 1863年(文久3年)、安芸国賀茂郡寺家村(現・広島県東広島市西条町)で代々農業を営む家系の長男として生まれる。5歳のときに叔父から算数を学び、のち独学で進め、幼少期より神童と謳われた。10歳のとき、父親を亡くす。1875年(明治8年)13歳のとき寺家村長と地区の名士だった木村和平(のちの賀茂鶴酒造)から任され地租改正に伴う測量業務・地積計算に2年間従事した。
有本 楠太郎(ありもと くすたろう、1862年5月19日〈文… 有本 楠太郎(ありもと くすたろう、1862年5月19日〈文久2年4月21日〉 - 没年不明)は、日本の商人(皮革貿易商)・政治家・慈善家。有本商店店主。大阪市南区会議員。 和歌山県有田郡御霊村字庄(のち吉備町、現・有田川町)の農家に生まれる。15歳の時に大阪に出て、奉公先に住み込み、25歳の春までよく主家に勤める。独立して皮革貿易店を開業する。 家業に精励し成功する。博愛慈善に傾倒する。1892年に赤十字社終身社員に加入し、1905年に金200円を寄付し特別社員に推薦される。赤十字社特別社員としてよく奉公の義務を尽くす。日露戦役に際して殊に恤兵の事に意を用いて各種の公共的団体に金品を投じる。 中国及び朝鮮と特約貿易を行い、仁川、木浦、群山、京城、馬山等より原料を輸入し、これを精製して南北清の各要地、即ち天津、大連、上海、営口、香港等に取引を開始する。
中山 文樹(なかやま ふみき/ぶんじゅ、1862年5月13日… 中山 文樹(なかやま ふみき/ぶんじゅ、1862年5月13日(文久2年4月15日) - 1923年(大正12年)12月21日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。醸造家。大地主。貴族院多額納税者議員。 中山好樹の長子として、肥前国南高来郡島原城下(長崎県南高来郡島原町を経て現島原市)に生まれ、10歳にして家督を相続する。旧島原藩儒の白井嘉氏に文学を学ぶ。 1871年(明治4年)清酒醸造業を始める。1891年(明治24年)島原銀行、ついで島原貯金銀行を創立し各頭取を務めた。ほか、所得税調査委員、1889年(明治22年)4月、島原町会議員、南高来郡会議員、長崎県農工銀行設立委員、同農工銀行取締役、日本赤十字社特別社員を歴任した。
本田 恒之(ほんだ つねゆき、文久2年4月14日(1862年… 本田 恒之(ほんだ つねゆき、文久2年4月14日(1862年5月12日) - 昭和9年(1934年)2月4日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、弁護士。 肥前国高来郡島原町に下田寛平の三男として生まれる。1882年(明治15年)、本多源吉の養子となった。専修学校(現在の専修大学)法律経済科を卒業し、弁護士となった。初めは東京市日本橋区に開業したが、後に長崎市に移った。長崎市会議員、長崎県会議員を経て、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後7回当選を重ねた。 加藤高明内閣・第1次若槻内閣で司法政務次官を務めた。
森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年… 森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年4月13日)- 1927年(昭和2年)2月10日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。号・得堂。 志摩国英虞郡、のちの三重県志摩郡鵜方村(鵜方町、阿児町を経て現志摩市阿児町鵜方)で、大地主・森本佐左衛門、なつ の長男として生まれる。1877年(明治10年)三重県師範学校を卒業。さらに同人社英学科及び漢学科を卒業し、専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。帰郷して、しばらく著作業に従事した。 1891年(明治24年)3月、家督を相続して農業を営み、三重県会議員に選出され、同常置委員も務めた。また、三重県農工銀行取締役、同頭取、三重銀行取締役、津商業会議所特別議員などに在任した。
小林 勝民(こばやし かつたみ、文久2年4月5日(1862年… 小林 勝民(こばやし かつたみ、文久2年4月5日(1862年5月3日) – 昭和18年(1943年)7月7日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。ジャーナリスト。弁護士。 駿河国益津郡藤枝(現在の静岡県藤枝市)出身。和漢学、英学、法学を学んだ。『朝野新聞』記者、『日刊民報』記者、『静岡民友新聞』主筆、『台湾民報』主筆、雑誌『国士』主筆、雑誌『大亜細亜』主筆などを務めた。また台北市に弁護士事務所を開いた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他、台湾物産株式会社取締役、台湾石鹸株式会社監査役などを務めた。
川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年… 川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年4月1日) - 1929年(昭和4年)2月23日)は、日本の宗教家、神道家。禊の行法を体系化し、組織的に行なった。現在の神社神道における禊作法は、戦前に川面が行っていたものに基づいている。名は恒次(つねじ)、字は吉光。号は殿山(でんざん)。 豊前国(のち大分県宇佐郡両川村小坂、現宇佐市)に、酒造業を営む家の次男として生まれる。神職をしていた父の義弟の溝口千秋に教育のため預けられる。千秋は宇佐神社に参詣する全国各地の神道家や勤王の志士と交流があり、川面はその中のひとり、豊前の儒者・恒遠翁に漢籍を学ぶ。13歳のときに近くの霊山・馬城山(まきさん)に籠り、童仙・蓮池貞澄から仙道を学ぶ。
山宮 藤吉(やまみや とうきち、文久2年3月29日〈1862… 山宮 藤吉(やまみや とうきち、文久2年3月29日〈1862年4月27日〉 - 1933年〈昭和8年〉1月4日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(3期)。号に鶴園。 山宮元右衛門の長男として、相模国高座郡萩園村(神奈川県高座郡鶴嶺村、茅ヶ崎町を経て現茅ヶ崎市)に生まれる。1882年(明治15年)3月、家督を相続する。江陽銀行取締役を務める傍ら、1893年(明治26年)鶴嶺村長に就任した。同郷の菊池小兵衛と共に1895年(明治28年)の改進党県支部創立に参加。1899年(明治32年)から1903年(明治36年)まで神奈川県会議員を務めた。この間、1900年(明治33年)県立第三中学校の藤沢への設置に尽くすも失敗。
小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月2… 小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月27日〈1862年4月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉9月2日)は、日本の政治家(群馬県邑楽郡会議員、館林町会議員)、商人(砂糖商)、実業家。館林貯蓄銀行、四十銀行、八十一銀行、東海銀行各取締役。上毛モスリン監査役。族籍は群馬県平民。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に生まれた。小室良之助の長男。幼名は彦次郎。家は代々砂糖販売を営み、彦次郎は第3代に当たる。「砂糖小室」の名は遠近に聞こえていた。 善導寺住職・満成和尚に漢学や書を学んだ。1883年12月、家督を相続し家業の砂糖商を継いだ。1886年10月、襲名して良七と改めた。 1889年、新町村制が実施され、4月に町会議員の選挙が行われた。
徳増 源太郎(とくます げんたろう、1861年5月17日(文… 徳増 源太郎(とくます げんたろう、1861年5月17日(文久元年4月8日) - 1900年(明治33年)3月26日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員。 徳増七右衛門の長男として相模国鎌倉郡笛田村(神奈川県鎌倉郡深沢村を経て現鎌倉市)に生まれ、1880年(明治13年)1月、家督を相続する。若くして村役人を務め、1884年(明治17年)神奈川県自由党に入党。1890年(明治23年)深沢村会議員となり、ついで神奈川県会議員を務めた。神奈川県立師範学校の鎌倉への移転に尽力した。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では神奈川県第4区から出馬し当選。つづく第5回、第6回総選挙でも当選した。
三木 愛花(みき あいか、1861年5月14日(文久元年4月… 三木 愛花(みき あいか、1861年5月14日(文久元年4月5日) - 1933年(昭和8年)2月6日)は、明治・大正期の新聞記者、ジャーナリスト。本名、三木貞一。 1861年(文久元年)、上総国大網町(現在の千葉県大網白里市)生まれ。田中従吾軒の門下で「朝野新聞」「東京公論」記者などを経て、1893年(明治26年)に萬朝報に入社、1923年(大正12年)まで活動した。相撲通として知られ相撲雑誌に記事を執筆するなど相撲記者の先駆けでもあった。 将棋通でもあり、初めて新聞に「将棋欄」を設けたことでも知られる。「萬朝報」1898年(明治31年)1月1日付に指し将棋の棋譜を初めて新聞に掲載した。また三木の発案により、おなじく「萬朝報」において棋戦が初めて企画され、1908年(明治41年)9月11日付から「高段名手勝継将棊」が掲載された。
舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久… 舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久元年3月30日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月1日)は、日本の医師、医学者(生理学)。位階は正五位。勲等は勲五等。学位は医学博士(1908年)。 第三高等学校医学部教授、岡山医学専門学校教授、岡山医学専門学校校長事務取扱、岡山医科大学医学部教授などを歴任した。 1861年5月9日(旧暦文久元年3月30日)、武蔵国にて舟岡周介の長男として生まれた。周介は武士であったが、明治維新後は士族となった。英之助は医学の道を志し、帝国大学に進学し医科大学にて学んだ。当時の帝国大学は分科大学制を採用しており、学内に文科大学、法科大学、理科大学といった分科大学が設置されており、医科大学もその一つであった。
14代 西村 治兵衞(治兵衞、にしむら じへえ、1861年5… 14代 西村 治兵衞(治兵衞、にしむら じへえ、1861年5月4日(文久元年3月25日)- 1910年(明治43年)12月14日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、京都市会議長、千切屋治兵衛家14代当主(貞規)。旧姓・矢田。 丹波国桑田郡、のちの京都府南桑田郡亀岡町(現亀岡市)で、素封家・矢田勘助の二男として生まれる。丹波亀山藩儒・吉田大年、三上忠六らに師事し漢学、仏法典を修めた。1880年(明治13年)京都の呉服商・13代西村治兵衛貞慶の養嗣子となる。1884年(明治17年)養父の死去に伴い家督を継承し14代治兵衛を襲名した。 家業を継承しその発展に尽力。西陣織物商組合組長、京都染呉服商組合長を務めた。
石井 筆子(いしい ふでこ、文久元年4月27日(1861年4… 石井 筆子(いしい ふでこ、文久元年4月27日(1861年4月27日) - 昭和19年(1944年)1月24日)は、日本の教育者、社会福祉家。日本の近代女子教育者の一人であり、日本初の知的障害者福祉の創始者の一人である。男爵渡辺清の娘。別名・渡辺筆、小鹿島筆。滝乃川学園第2代学園長。 肥前国大村藩士の渡辺清・ゲンの長女として生まれる。父の清は弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として中央で忙しく、筆子は故郷で祖母、母らと暮らした。1872年(明治5年)に上京し、大村藩邸に寄宿し、1873年(明治6年)に東京女学校に入学し、同級生に穂積歌子(渋沢栄一の長女)、鳩山春子(共立女子大学創立者の一人)がいた。
宇都宮 太郎(うつのみや たろう、1861年4月27日〈文久… 宇都宮 太郎(うつのみや たろう、1861年4月27日〈文久元年3月18日〉- 1922年〈大正11年〉2月15日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍大将、位階・勲等は正三位勲一等功三級。 イギリス大使館付武官、参謀本部第二部長、第7師団長、第4師団長、三・一運動時の朝鮮軍司令官、軍事参議官を歴任した。桂太郎、仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれる。最近15年分の日記を遺族が公開し、2007年(平成19年)4月から11月にかけて出版された。いわゆる「佐賀の左肩党」の盟主で、皇道派の荒木貞夫・真崎甚三郎の庇護者でもあった。子息にミノファーゲン社長・衆議院議員の宇都宮徳馬。 佐賀鍋島藩士、亀川貞一の四男として生まれる。
三輪 桓一郎(みわ かんいちろう、1861年4月21日(文久… 三輪 桓一郎(みわ かんいちろう、1861年4月21日(文久元年3月12日) - 1920年(大正9年)2月1日)は、理学博士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 墓標は、谷中霊園内の寛永寺霊園に所在。
牧野 元(まきの はじめ、文久元年3月12日(1861年4月… 牧野 元(まきの はじめ、文久元年3月12日(1861年4月21日) - 大正10年(1921年)1月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、長野市長。 信濃国伊那郡鼎村(現在の長野県飯田市)出身。漢学を学び、1882年(明治15年)に下伊那郡全部町村聯合会議員に、1884年(明治15年)に鼎村戸長に就任した。1890年(明治23年)より長野県会議員を務め、1893年(明治26年)には県参事会員に、1899年(明治32年)に県会副議長に選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第8回、第9回と連続当選を果たした。 1910年(明治43年)、長野市助役に就任。
横山 通英(よこやま みちひで、1859年5月18日(安政6… 横山 通英(よこやま みちひで、1859年5月18日(安政6年4月16日)- 1916年(大正5年)12月5日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、宮崎県西諸県郡小林村長。 日向国諸県郡小林郷細野村(鹿児島県諸県郡、宮崎県北諸県郡、西諸県郡小林郷細野村、小林村大字細野、小林町を経て現小林市細野)で、農業・横山通章、タメの長男として生まれた。赤木通園、谷山照方に師事し漢学を修めた。小林小学校、都城学校、宮崎学校で学んだ。1875年(明治8年)12月、宮崎学校師範学科(のち宮崎師範学校)を卒業し、1876年(明治9年)1月から1881年(明治14年)1月まで小林小学校訓導を務めた。また岡千仭に師事して漢学の学びを深めた。
難波 正(なんば まさし、1859年5月14日(安政6年4月… 難波 正(なんば まさし、1859年5月14日(安政6年4月12日) - 1920年(大正9年)12月22日)は、元電気学会会長の工学博士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。京都の疏水を利用した発電法の考案のほか、蓄電池の研究・開発を行った。 長男の難波幸一は九州帝国大学電気工学科卒、同大学名誉教授、次男の難波勝二は京都帝国大学法学部卒業後、横浜正金銀行を経て東洋大学名誉教授、五男の難波捷吾は国際電気通信技師、次女・春江の夫は住友原子力工業取締役・高州紀雄、三女・環の夫は京福電気鉄道専務・石川敬介(同社会長石川芳次郎長男)。
喜多川 孝経(孝經、きたがわ たかつね、1859年5月7日(… 喜多川 孝経(孝經、きたがわ たかつね、1859年5月7日(安政6年4月5日)- 1930年(昭和5年)11月2日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。幼名・奈良蔵。 山城国綴喜郡田辺村沓脱(京都府綴喜郡田辺村大字田辺小字沓脱、田辺町を経て現京田辺市田辺沓脱)で、南山郷士、庄屋、農業・喜多川喜右衛門の長男として生まれる。沢辺正脩、大亦俊に師事し、皇学、漢学、詩文を修めた。農業を営む。 1881年(明治14年)7月、有志と南山義塾を設立し、同年10月、初代副社長となり、1883年(明治16年)4月、伊東熊夫の後継社長に就任し1884年(明治17年)3月まで在任。のち同塾の組織を改編して京都府立三山木中学校を設立する際にも尽力した。