北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治… 北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治元年11月16日〉- 1894年〈明治27年〉5月16日)は、日本の評論家・詩人。本名、北村 門太郎(きたむら もんたろう)。明治期に近代的な文芸評論をおこない、島崎藤村らに大きな影響を与えた。 相模国小田原(現:神奈川県小田原市浜町)に生まれた。幼少時代、両親から離れて厳格な祖父と愛情薄い継祖母に育てられ、のちに神経質な母親の束縛を受けたことが性情の形成に大きな影響を与えたといわれる。 1881年に東京数寄屋橋の近くに移住。東京専門学校(現:早稲田大学政治経済学部)政治科に入学し、東京の三多摩地方を放浪して壮士たちと交わるが、民権運動が過激になり離脱。
中原 岩三郎(なかはら いわさぶろう、1868年12月26日… 中原 岩三郎(なかはら いわさぶろう、1868年12月26日 - 1945年4月1日)は、明治から昭和時代前期の電気工学者、電気技師。 明治元年11月13日(グレゴリオ暦1868年12月26日)、吉敷毛利家の御家人であった中原衛人の三男として周防吉敷郡吉敷村(現・山口県山口市吉敷)に生まれる。幼少期に木から落ちて顔に傷が残り、そのことで勉学に打ち込むようになったという。1885年(明治18年)2月に上京し第一高等中学校に入学、工科を専攻し1889年(明治22年)7月に卒業した。1892年(明治25年)7月東京帝国大学電気工学科を卒業。 卒業後すぐ東京電燈に入社し、1897年(明治30年)5月には社命でベルリンに留学する。
伊藤 祐一(いとう すけかず、明治元年11月12日(1868… 伊藤 祐一(いとう すけかず、明治元年11月12日(1868年12月25日) - 大正6年(1917年)10月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→立憲同志会)。農商務官僚。 陸奥国弘前(青森県弘前市)出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学を卒業。林務官、農商務参事官、山林局事務官、札幌鉱山監督署長を歴任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
斎藤 二郎(さいとう じろう、明治元年11月10日(1868… 斎藤 二郎(さいとう じろう、明治元年11月10日(1868年12月23日) - 大正6年(1917年)7月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 片倉氏の家臣斎藤良知の二男として白石城下(現在の宮城県白石市)に生まれる。1886年(明治19年)、上京して英吉利法律学校(現在の中央大学)に入学し、1889年(明治22年)に卒業した。翌年、代言人試験に合格し、星亨の法律事務所で訴訟事務を扱った。1895年(明治28年)、星が李氏朝鮮の法律顧問官に就任すると、法部補佐官・法官養成所教授として招かれた。翌年に帰国してからは再び弁護士業務に従事し、星が駐米公使を務めている間はその事務所を預かり、のちに自らの事務所を開業した。
宮本 嘉楽(嘉樂、みやもと からく、1868年12月23日〈… 宮本 嘉楽(嘉樂、みやもと からく、1868年12月23日〈明治元年11月10日〉 - 1956年〈昭和31年〉10月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県大里郡長井村長。 武蔵国幡羅郡西野村(のち埼玉県大里郡長井村、現:熊谷市)で、大地主・宮本楽只の長男として生まれる。漢籍を修めた。 長井村収入役、同村長、大里郡会議員、埼玉県会議員、所得税調査委員などを務めた。 1904年3月、第9回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めて政界を引退した。 実業界では、埼玉実業銀行頭取、深谷商業銀行取締役などを務めた。 甲源一刀流の師範免状を授けられ、高野佐三郎に師事して小野派一刀流(一刀流中西派)の研鑽を積んだ。
浅山 正名(あさやま まさな、明治元年11月9日(1868年… 浅山 正名(あさやま まさな、明治元年11月9日(1868年12月22日) – 没年不詳)は、名古屋市助役、長崎市助役、東京市牛込区長。 陸奥国三戸郡八戸村(現在の青森県八戸市)出身。盛岡藩士・青森県会議員浅山正美の長男として生まれる。1897年(明治27年)、三戸郡書記となり、青森県属を経て、内務属となり、県治局や地方局に勤務。その間、和仏法律学校(現在の法政大学)で学んだ。1912年(大正12年)、北海道庁上川支庁長に就任した。 1917年(大正6年)、名古屋市助役に就任。その後、1923年(大正12年)には長崎市助役に選ばれた。さらに1927年(昭和2年)からは牛込区長を務めた。
石川 重之(いしかわ しげゆき、1868年1月19日〈慶応3… 石川 重之(いしかわ しげゆき、1868年1月19日〈慶応3年12月25日〉 - 1950年〈昭和25年〉12月20日)は、日本の華族(旧常陸下館藩、子爵)。位階は正三位。幼名・重之助。 石川家の祖主殿頭忠総の二男播磨守総長2万石を分与され、後常州に移り、9世を経て総管に至る。重之は総管の長男である。学習院出身である。 1880年、家督を相続する。1884年、子爵を授けられる。1887年に都合により爵位を返上したが、1899年さらに華族に列し子爵を授けられる。 1899年、叙従五位。1917年、叙正四位。 1946年1月15日、数え80歳を迎えたことにより鈴木貫太郎・小笠原長生と共に御紋付木盃と酒肴料を下賜された。
鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応… 鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。歴代内閣総理大臣のなかで史上最高齢の77歳で就任した。 海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。さらに枢密顧問官も兼任した。 枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第62代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切ってポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終戦へと導いた。
鈴木 光愛(すずき こうあい、慶応3年12月20日(1868… 鈴木 光愛(すずき こうあい、慶応3年12月20日(1868年1月14日) - 昭和5年(1930年)4月9日)は、日本の教育者。 岡山藩士島村円造の二男として生まれ、鈴木光輝の養子となった。岡山中学校を経て、1889年(明治22年)に高等師範学校を卒業した。同訓導、女子高等師範学校助教諭、同助教授、東京府師範学校教諭・附属小学校主事を歴任した。1897年(明治30年)、台湾総督府国語学校教授となり、1899年(明治33年)に東京府師範学校首席教諭に戻った。1900年(明治33年)、栃木県師範学校校長に就任し、1906年(明治36年)に京都府師範学校校長に転じた。1909年(明治42年)からは東京府女子師範学校校長・東京府立第二高等女学校を務めた。
横川 唐陽(よこかわ とうよう、1868年1月14日(慶応3… 横川 唐陽(よこかわ とうよう、1868年1月14日(慶応3年12月20日) - 1929年(昭和4年)12月12日)は、日本の漢詩人、陸軍軍医。本名は徳郎。雅号は唐陽山人。 信濃国諏訪郡神戸村(→四賀村→現・長野県諏訪市四賀)に生まれる。第一高等中学校医学部(現・千葉大学医学部)を卒業後、陸軍軍医となる。日露戦争では第1師団衛生隊の医長として従軍、のち浜松衛戍病院長、善通寺衛戍病院長、第7師団軍医部長を歴任。また『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂にも従事。 漢詩は森槐南らに師事。落合東郭、野口寧斎、森川竹磎らと親しく交わり、陸軍軍医であった森鷗外とも漢詩を通じた交遊があった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
相島 勘次郎(あいしま かんじろう、慶応3年12月19日(1… 相島 勘次郎(あいしま かんじろう、慶応3年12月19日(1868年1月13日) - 昭和10年(1935年)4月4日)は、衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト。俳人としても活動し、虚吼と号した。 常陸国筑波郡小田村(現在の茨城県つくば市)出身。慶應義塾大学を卒業後、大阪毎日新聞社に入社。1900年(明治33年)から1902年(明治35年)までのアメリカ留学を経て、1906年(明治39年)に大阪毎日新聞社が東京に毎日電報社を創設すると副主幹となり、1911年(明治44年)に大阪毎日新聞社が東京日日新聞社を買収するとやはり副主幹として編集にあたった。 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
高橋 光威(たかはし みつたけ、1868年1月13日〈慶応3… 高橋 光威(たかはし みつたけ、1868年1月13日〈慶応3年12月19日〉- 1932年〈昭和7年〉4月9日)は、日本のジャーナリスト、政治家。立憲政友会所属の衆議院議員として活動した。 慶応3年12月19日(1868年1月13日)、越後国蒲原郡菅谷村(現在の新潟県新発田市菅谷)において、父・幾左衛門と母・ヨシとの四男として生まれる。幼名は富吉。知人に同行して上京し、1884年(明治17年)に慶應義塾に入学するものの、生活に困窮するなどして卒業は1889年(明治22年)となる。 1890年(明治23年)に開設された慶應義塾の大学部(法律科)に再び入学。在学中は、洋書の翻訳などで生計を立てるほか、菊代と結婚する。
山下 啓次郎(やました けいじろう、1868年1月12日〈慶… 山下 啓次郎(やました けいじろう、1868年1月12日〈慶応3年12月18日〉- 1931年〈昭和6年〉2月6日)は明治・大正期に司法省の建築家として五大監獄を設計した。族籍は鹿児島県士族。 妻の直子は「日本のミスコン優勝者第一号」の末弘ヒロ子の姉。孫(二男・啓輔の子)のジャズピアニスト山下洋輔は啓次郎の事跡を訪ね、小説『ドバラダ門』を書いた。 1868年(慶応3年)、薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(後の鹿児島市西田町)に、薩摩藩士・山下房親の次男として生まれる。1876年(明治9年)、上京。第一高等中学校を経て1892年(明治25年)、帝国大学工科大学造家学科(後の東京大学工学部)卒業。辰野金吾のもと建築を学んだ。
尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日(慶応3年… 尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日(慶応3年12月16日) - 1903年(明治36年)10月30日)は、日本の小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持つ。 帝国大学国文科中退。1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)、明治期の文壇に重きをなした。 泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。 俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称された。 1868年1月10日(慶応3年12月16日)、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の芝大門)に生まれる。
関野 貞(せきの ただし、1868年1月9日(慶応3年12月… 関野 貞(せきの ただし、1868年1月9日(慶応3年12月15日)- 1935年(昭和10年)7月29日)は、日本の建築史学者、建築家・美術史・考古学者。東京帝国大学名誉教授。 高田藩士関野峻節とヤエの次男として生まれた。旧制一高を経て、1895年に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業。卒業論文は平等院の研究であった。辰野金吾の指揮下に日本銀行の工事に参加する。古社寺保存法が立案された1896年に伊東忠太の勧めで内務省技師、奈良県技師となり、奈良の古建築を調査し、建築年代を判定していった。 1889年に平城宮址を発見した。1922年、国の史跡(のちに特別史跡・特別名勝)に指定された。
永松 達吾(ながまつ たつご、 1868年1月9日(慶応3年… 永松 達吾(ながまつ たつご、 1868年1月9日(慶応3年12月15日)- 没年不詳)は、明治期から大正期に活躍した日本の実業家、ジャーナリスト。玉川電気鉄道株式会社(現・東急株式会社)代表取締役、草津軽便鉄道創立委員総代、時事新報記者、西武軌道(後の都電杉並線)取締役、交詢社評議員。 豊前国宇佐郡、のちの駅館村(現大分県宇佐市)で永松貞民の長男として生まれた。大阪・英和学舎(現・立教大学)を経て、慶應義塾にて修学。 1891年(明治24年)、横浜の生糸問屋に勤務する傍ら『横浜蚕糸貿易事情』を出版。 その後、時事新報の記者となり、時事新報において『群馬県下の蚕業』などを執筆したのち、東京信託会社に務める。
千家尊弘(せんげ たかひろ/そんこう、明治元年(1868年)… 千家尊弘(せんげ たかひろ/そんこう、明治元年(1868年)1月8日 - 昭和15年(1940年)5月22日 。)は出雲大社東京分祠の神職・宗教家。幼名は房麿 。 明治元年1月8日、島根県簸川郡大社町(現出雲市)に生まれる。島根の武士の家の長男で、幼少期から聡明で学問を好み、平田町の漢学者・雨森精翁のもとで数年間学ぶ。その後上京して東京専門学校(後の早稲田大学)に入学し卒業。卒業後すぐに大社教東京分院長に任じられた 。 宗教者として数多くの国葬・葬儀を司り、伊藤博文・大山巌・松方正義などの国葬では斎主を務めた。また、乃木希典、大隈重信などの葬儀の斎主も務めている。さらに、明治天皇や各宮家、貴族の葬儀にも祭主または副祭主として参加し、幅広い信望を集めた 。
小松山 与三松(こまつやま よさまつ、慶応3年12月14日(… 小松山 与三松(こまつやま よさまつ、慶応3年12月14日(1868年1月8日) - 大正6年(1917年)5月17日)は、加賀国能美郡(現在の石川県小松市)出身で八角部屋に所属した大相撲力士。本名は本田 与三松(ほんだ よさまつ、旧姓:太田)。身長175cm、体重90kg。最高位は西前頭2枚目。養女の夫は元小結鶴ヶ濱(13代玉垣)。 1889年1月幕下附出しで初土俵。1893年1月十両昇進、1893年5月入幕。粘り強い足腰を生かして吊るか打っ棄る取り口。1897年5月横綱小錦を破り、1898年5月にも小錦と預かりの相撲をとる。朝汐に強く、1896年1月、1902年1月に引分、1901年1月、1903年1月に勝利している。
藤井 啓一(ふじい けいいち、1868年1月7日〈慶応3年1… 藤井 啓一(ふじい けいいち、1868年1月7日〈慶応3年12月13日〉 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(山口県第一区選出、当選3回)。 山口県厚狭郡厚東村(現在の宇部市)出身。山口県平民・藤井仁介の長男。初等学を寺子屋に学び、のち漢学を修める。 1890年(明治23年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。法学博士・江木衷の門下生となり、薫陶を受け、弁護士試験に合格。その後、下関市に事務所を開いた。弁護士の業務に従事。山口県弁護士会会長、山口県会議員、下関商業会議所特別議員・同顧問などに選ばれた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
田部井 勝蔵(ためがい かつぞう、1868年1月6日(慶応3… 田部井 勝蔵(ためがい かつぞう、1868年1月6日(慶応3年12月12日) - 1935年(昭和10年)3月30日)は、三河碧海郡逢妻村(現・愛知県刈谷市)出身の教育者・実業家・政治家。第8代豊橋市長(1926年-1930年)。教育者の田部井鉚太郎は兄。 出生地は江戸赤坂の刈谷藩藩邸。刈谷藩士である田部井清蔵の二男である。出身地は三河碧海郡逢妻村(現・愛知県刈谷市)であるとされる。兄の田部井鉚太郎は教育者となり、愛知県内の学校の訓導や校長、富山県視学などを務めている。 兄と同じように愛知県師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)を卒業し、1891年(明治24年)に愛知県師範学校の訓導となった。その後愛知県師範学校の助教諭となり、1898年(明治31年)4月には額田郡視学となった。
瀬戸山 清彦(せとやま きよひこ、1867年12月30日(慶… 瀬戸山 清彦(せとやま きよひこ、1867年12月30日(慶応3年12月5日)- 1944年(昭和19年)6月30日)は、日本の医師、政治家、衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡、のちの宮崎県西諸県郡加久藤町(現えびの市)で生まれた。1890年(明治23年)第三高等中学校医学部(現:京都大学医学部)卒。陸軍一等軍医(大尉相当官)となり、日清、日露の両戦争に従軍する。その後は医業に従事し、日向銀行頭取を務めた。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙において宮崎県から立憲政友会公認で立候補したが落選した。8月に塚本常弥の死去により繰り上げ当選となった。衆議院議員を1期務め、1915年(大正4年)第12回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
三橋 四郎(みつはし しろう、1867年12月27日(慶応3… 三橋 四郎(みつはし しろう、1867年12月27日(慶応3年12月2日) - 1915年(大正4年)11月5日)は、明治期から大正初期の日本の建築家。領事館をはじめとする多くの官庁建築の設計に携わるとともに、鉄網コンクリート工法を考案したことで知られる。 幕臣鈴木庸正の四男として、江戸に生まれる。 1893年、帝国大学工科大学造家学科(後の建築学科)を卒業、陸軍省に入る。 1898年に逓信省技師となり、郵便局舎の建築にあたった。 1906年、東京市技師となり、営繕課長となる。しかし2年後の1908年には東京市を退職し、三橋建築事務所を東京に開設した。以後、外務省の嘱託として、中国東北部やロシア極東部において多くの領事館を設計した。
忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん、慶応3年12月1日(186… 忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん、慶応3年12月1日(1867年12月26日) - 1934年7月11日)は、戦前日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶、文学博士。道号は仏山。 古代禅学及び東洋禅学思想史を研究し、禅仏教を内省主観主義として捉えた「忽滑谷禅学(忽滑谷派)」と呼ばれる禅道思想を確立した。大正天皇の御大礼仏教雑誌『星華』、『達磨禅』創刊者。 曹洞宗大学が大学昇格時に駒澤大学に改まると、初代学長に就任。駒澤大学の建学の理念「行学一如」、その実践項目としての「信誠敬愛」を打ち立てた。 武蔵国入間郡古谷村(現・埼玉県川越市)の善長寺従弟、多摩郡東村山久米川(現・東京都東村山市)に遠藤太郎左衛門の4男として生まれる。
林 市蔵(はやし いちぞう、1867年12月23日(慶応3年… 林 市蔵(はやし いちぞう、1867年12月23日(慶応3年11月28日) - 1952年(昭和27年)2月17日)は、日本の内務官僚、銀行家。府県知事、日本信託銀行頭取。 熊本藩士・林慎蔵の長男として生まれる。五歳で父が死去し、母・亀寿により育てられ、苦学して中学済々黌、第五高等学校を経て、1896年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。拓殖務省に入り拓殖務属となる。1897年7月、拓殖務省の廃止に伴い内務省に移り内務属として北海道局に配属された。1898年12月、文官高等試験行政科試験に合格。 1899年5月、警察監獄学校教授に就任。以後、兼内務省参事官、山口県書記官、同県第一部長、広島県事務官・第一部長兼第三部長、新潟県内務部長などを歴任。
岡村 司(おかむら つかさ、慶応2年12月14日〈1867年… 岡村 司(おかむら つかさ、慶応2年12月14日〈1867年1月19日〉 - 1922年〈大正11年〉3月23日)は、明治・大正期の法学者・弁護士。子に数学者の岡村博がいる。 下総国猿島郡古河町(現:茨城県古河市)に古河藩家臣・岡村忠右衛門の次男として生まれた。二松学舎で漢学を学んだ後、帝国大学でフランス法を専攻する。1892年(明治25年)に大学を卒業し、陸軍経理学校教授などを経て1899年(明治32年)に京都帝国大学法学部助教授となりフランスに留学、3年後に帰国して教授になった。同じころの留学生に坪井玄道、谷本富、大村仁太郎、森岡常蔵らがいる。1900年(明治33年)には中川小十郎が設立した京都法政学校講師に就任。
高柳 広蔵(たかやなぎ ひろぞう、1867年1月18日(慶応… 高柳 広蔵(たかやなぎ ひろぞう、1867年1月18日(慶応2年12月13日) - 1947年(昭和22年)2月14日)は、日本の政治家。北海道岩見沢の村長・町長・市長を務めた。 1867年(慶応2年)1月、上野国(後の群馬県佐波郡豊受村、現伊勢崎市)に高柳家の四男として生まれる。東京法学院(現・中央大学)を卒業。その後、英語教師を経て、岩見沢に入植した。1895年(明治28年)7月、岩見沢村毛陽に入植し200町歩の開墾に従事。 1901年(明治34年)7月10日、同年6月11日に今井勇吉が辞職したため、村会の村長選挙により2代目岩見沢村長に選出され、就任。以来、39年間にわたり村長・町長・市長を務めた。
富永 孝太郎(とみなが こうたろう、1867年1月18日(慶… 富永 孝太郎(とみなが こうたろう、1867年1月18日(慶応2年12月13日)- 1945年(昭和20年)10月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡美守村(三和村を経て現上越市)出身。東京英和学校で学ぶ。アメリカに渡り、イリノイ大学で学ぶ。帰国後、新潟地方森林会議員、中頸城郡農会長、新潟県農友会長、美守村議、同村長、産業組合中央会監事、同新潟支会長、至誠信用組合長、県信用組合連合会会長、百三十九銀行、新潟貯蓄銀行各取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において新潟12区から立憲国民党公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では革新倶楽部公認で立候補して再選した。
永瀧 久吉(えいたき ひさきち、1867年1月17日(慶應2… 永瀧 久吉(えいたき ひさきち、1867年1月17日(慶應2年12月12日) - 1942年(昭和17年)10月20日)は、日本の外交官、実業家。上海総領事、ホノルル総領事を経て退官後、安田保善社参事や、東京建物常務取締役、満州興業社長等を歴任した。 越後国刈羽郡野田村(現柏崎市)生まれ。元野田村戸長の永瀧治助は祖父。新潟県立新潟中学校(現新潟県立新潟高等学校)を経て、1889年英吉利法律学校(現中央大学)及び専修学校(現専修大学)法律科卒業。専修学校創設者田尻稲次郎などに師事。1890年代言人試験及文官高等試験合格。1891年司法省入省、東京地方裁判所司法官試補。同年外務省入省、取調局配属。 1893年釜山領事官補。
大幸 勇吉(おおさか ゆうきち、1867年1月17日(慶応2… 大幸 勇吉(おおさか ゆうきち、1867年1月17日(慶応2年12月12日)- 1950年(昭和25年)9月9日)は、日本の化学者。京都帝国大学名誉教授。 物理化学の基礎を池田菊苗と共に生み出したことで知られている。 士族であった雨夜平八の次男として加賀に生まれる。東京帝国大学に入学し櫻井錠二から理論化学を学ぶ。1892年(明治25年)に卒業後、第五高等学校を経て東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)にて教鞭を執った。 1899年(明治32年)には親交のあった池田と共にドイツに研究のため留学した。ライプツィヒ大学に入学し、同大学の教授であったヴィルヘルム・オストヴァルトから触媒作用研究に携わり、後に転校しゲッティンゲン大学にてヴァルター・ネルンストから電気化学を学ぶ。
勝本 勘三郎(かつもと かんざぶろう、1867年1月17日(… 勝本 勘三郎(かつもと かんざぶろう、1867年1月17日(慶応2年12月12日) - 1923年(大正12年)12月17日)は、日本の法学者(刑法)・検察官・弁護士。京都帝国大学などを歴任。財団法人立命館初代協議員。 フランス刑法が通説的地位を支配していた旧刑法時代に、ドイツにおける旧派と新派の学派争いを日本に紹介した人物であり、基本的立場は、新派刑法理論に立つが、その犯罪理論は、不能犯において客観説をとるなどむしろ主観主義的色彩の薄いものであった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
伊丹 弥太郎(伊丹 彌太郎、いたみ やたろう、慶応2年12月… 伊丹 弥太郎(伊丹 彌太郎、いたみ やたろう、慶応2年12月12日(1867年1月17日) - 1933年(昭和8年)10月3日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。 現在の佐賀県佐賀市出身。父の事業を継いで佐賀の栄銀行(佐賀銀行の前身の一つ)頭取を務め、同行を中心に多数の企業に関係して「佐賀財閥」と呼ばれる地方財閥を築いた。また佐賀県下有数の地主でもあり、佐賀県多額納税者として貴族院議員を1期7年務めている。 佐賀県外では電気事業や鉄道事業にかかわり、九州電灯鉄道・東邦電力社長、九州鉄道(現・西日本鉄道)初代社長を歴任した。 伊丹弥太郎は慶応2年12月12日(1867年1月17日)、佐賀県士族伊丹文右衛門の長男として生まれた。
中島 駒次(なかじま こまじ、1867年1月17日(慶応2年… 中島 駒次(なかじま こまじ、1867年1月17日(慶応2年12月12日)- 1950年(昭和25年)1月16日)は、日本の篤農家。明治期の豊橋地域において温室栽培を始めた人物。 三河国渥美郡野田村の農家中島市兵衛の次男として生を受ける。当時の義務教育である小学校4年を修業したのち、1880年(明治13年)からは夜学に5年間通いつつ、家業である農業を手伝う。稲作や麦作にかわる現金収入となる作物の研究を行い、1887年(明治20年)ごろにはタマネギや桃といった園芸作物の栽培、さらには温室栽培を試みるようになった。 1901年(明治34年)には自宅の風呂場横に5坪のガラス温室を新設し、山椒の栽培を始める。
関田 英穂(せきだ ?、1867年(慶應3年)1月17日 -… 関田 英穂(せきだ ?、1867年(慶應3年)1月17日 - 1943年(昭和19年)10月27日)は、高知県長岡郡大篠村大そね254番屋敷に生まれた高知県人。大篠村村長やその他地方自治に尽力した。 土佐国長岡郡大篠村大そね関部落に生まれる。(現・南国市大そね)1867年(慶応3年)1月17日に、関田為三郎と登良の長男として生まれる。初名は駒太郎。明治27年2月15日英穂に改名願。幼少のころは、琴平神社宮地氏のもとで漢籍を学んだ。性格は温厚篤実であり、郷党信望していた。 明治38年、大篠村助役になった後、続けて大篠村村長に推薦されて4期にわたり村長を勤めた。歴代村長には、溝淵静閑や岡上忠兵衛、島崎清美や関田為平などがいる。
戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応… 戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応2年12月10日)– 1955年(昭和30年))は、日本の教育者。三重県四日市市長。 丹後田辺藩儒戸野周太郎の二男として舞鶴に生まれる。京都府師範学校を卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)を経て、1891年(明治24年)に東京高等師範学校文科を卒業。青森県師範学校校長、長野県視学、東京高等師範学校を歴任した。1902年(明治35年)、湖北師範学堂に総教習・学務顧問として招かれ、清に渡った。1904年(明治37年)に帰国した後は東京市教育課長に任じられた。1914年(大正3年)からは下谷区長を務め、1919年(大正8年)には東京市助役に就任した。
岡本 廣太郎(おかもと こうたろう、岡本広太郎、1867年1… 岡本 廣太郎(おかもと こうたろう、岡本広太郎、1867年1月13日(慶応2年12月8日) - 1923年(大正12年)3月29日)は、三河国碧海郡刈谷(現愛知県刈谷市)出身の酒造家・刈谷町長。 慶応2年12月8日(1867年1月13日)、三河国碧海郡刈谷(現愛知県刈谷市)に生まれた。父は岡本瀧三郎。岡本家は庄屋を務めていた家であり、酒造業を生業としていた。 1911年(明治44年)9月から1912年(大正元年)7月まで刈谷町会議員を務めた。1915年(大正4年)6月には刈谷町長に推されて就任した。1919年(大正8年)9月には5代目藤井清七が岡本の後任の刈谷町長に就任したが、1921年(大正10年)7月には岡本が再び刈谷町長に就任した。
石井 研二(いしい けんじ、1867年1月12日(慶応2年1… 石井 研二(いしい けんじ、1867年1月12日(慶応2年12月7日) - 1936年(昭和11年)4月3日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 伊豆国賀茂郡、のちの静岡県賀茂郡中大見村(田方郡中大見村、中伊豆町を経て現伊豆市)に生まれる。慶應義塾に学ぶ。韮山村会議員、君沢・田方二郡連合会議員、静岡県会議員、同参事委員を歴任した。財界では、三島乾燥、沼津委託倉庫各社長、東海起業取締役を務めた。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙では静岡県第10区から憲政会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
松尾 広吉(松尾 廣吉、まつお こうきち / ひろきち、18… 松尾 広吉(松尾 廣吉、まつお こうきち / ひろきち、1867年1月8日〈慶応2年12月3日〉- 1937年〈昭和12年〉1月16日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、佐賀県西松浦郡伊万里町長。 肥前国松浦郡伊万里町(現佐賀県伊万里市伊万里町)で、素封家・松尾貞吉の長男として生まれる。漢学を修める。 1904年(明治37年)、陸海軍の諸機械器具製造を行う松尾鉄工所を設立。家業をたばこ専売のほかに郡内の「煙草元売捌所」を開業して拡大。その他、伊万里銀行監査役、伊万里鉄道監査役、魚市 (名) 社長、東洋油脂工業取締役などを務めた。 政界では、伊万里町会議員、西松浦郡会議員などを務め、1911年(明治44年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し、一期務めて1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
床次 竹二郎(とこなみ たけじろう、1867年1月6日〈慶応… 床次 竹二郎(とこなみ たけじろう、1867年1月6日〈慶応2年12月1日〉- 1935年〈昭和10年〉9月8日)は、日本の官僚、政治家(衆議院議員)。内務大臣、鉄道大臣、逓信大臣を歴任し、政友本党総裁も務めた。鹿児島県士族。「床次竹次郎」は誤りである。 慶応2年12月1日(1867年1月6日)、薩摩藩士の床次正精・友子の長男として、現在の鹿児島県鹿児島市新照院町に生まれる。幼名は竹熊。1872年(明治5年)に父の正精は上京して検事を務めていたが、6歳の竹二郎を含む家族は薩摩に残った。1877年(明治10年)に勃発した西南戦争では西郷死後に大久保利通の留守宅(空き家)を友人と叩き壊した。戦争で家や学校が焼かれたため、父の招きにより上京し、以後東京で教育を受けることとなった。
松実 喜代太(まつみ きよた、1867年1月3日(慶応2年1… 松実 喜代太(まつみ きよた、1867年1月3日(慶応2年11月28日) - 1953年(昭和28年)5月2日)は、日本の政治家、地主。衆議院議員(当選5回、立憲政友会所属)、新十津川村長。参議院議員橋本聖子の大叔父にあたる。 大和国吉野郡南十津川村(現在の奈良県吉野郡十津川村)出身。奈良県士族・松実漏器の長男。 1884年(明治17年)に上京し、成城学校、慶應義塾で学ぶ。東京時代には三田の下宿で血脇守之助、矢野文雄、藤田茂吉らと政談を闘わせた。1890年(明治23年)に横浜商業学校を卒業した。その前年に十津川大水害があったのをきっかけに、十津川村民とともに北海道樺戸郡に移住し、新十津川村を開いた。
氏家 謙曹(うじいえ けんそう、1866年12月30日(慶応… 氏家 謙曹(うじいえ けんそう、1866年12月30日(慶応2年11月24日) - 1939年10月25日)は、日本、清国の教育者。 氏家作造の長男として岩手県水沢に生まれる。1893年東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。 1893年福岡県立尋常中学修猷館教諭を皮切りに、山口高等中学校教授、第二高等学校教授、宮城県立仙台第一中学校校長を歴任し、1904年再び第二高等学校教授となる。 1904年、在官のまま、清国政府の招聘に応じて京師大学堂(現・北京大学)師範館教習に就任し、1909年帰国したが、官を辞し、再び清国政府の招聘に応じて河南省開封府の優級師範学堂教習となる。 1911年早稲田大学理工科教授および評議員に就任し、早稲田高等学院教授・理科主任も務め、物理学を講じた。
吉田 増蔵(よしだ ますぞう、1866年12月29日〈慶応2… 吉田 増蔵(よしだ ますぞう、1866年12月29日〈慶応2年11月23日〉 - 1941年〈昭和16年〉12月19日)は明治~昭和時代の漢学者。昭和の元号の考案者である。号は「学軒」。 1866年(慶応2年)、福岡県京都郡勝山町(現:みやこ町勝山)で生まれた。村上仏山(村上彦左衛門)の漢学塾・水哉園で学び、漢詩文に抜群の才能を示した。京都帝国大学に入学して支那哲学を専攻。卒業後、英語を学ぶためにアメリカに渡った。 帰国後は、更に漢学・漢詩研鑽に力を注ぎ、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)、山口県立豊浦中学校(現豊浦高等学校)で教職に就いた。奈良時代に、宮内省帝室博物館が管理する正倉院に出張してきた帝室博物館総長兼図書頭の文豪・森鷗外と知り合う。
山科 慎次郎(やましな しんじろう、慶応2年11月23日(1… 山科 慎次郎(やましな しんじろう、慶応2年11月23日(1866年12月29日) - 昭和10年(1935年)5月5日)は、日本の衆議院議員。弁護士。 備後国御調郡三原(現在の広島県三原市)出身。1893年(明治26年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業した。1894年(明治27年)、弁護士試験に合格し、翌年から尾道市に事務所を開いた。1901年(明治34年)より尾道市会議員に選ばれ、1913年(大正2年)には議長に就任した。その他、尾道商業会議所特別議員を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(… 西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(慶応2年11月21日)- 1925年(大正14年)7月24日)は、明治から大正期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員、大阪府三島郡玉櫛村長。 摂津国島下郡内瀬村(大阪府島下郡玉櫛村大字内瀬、三島郡玉櫛村大字内瀬を経て現茨木市)で、西田為三郎の息子として生まれる。1888年(明治21年)7月、大阪府師範学校を卒業した。 大阪市内の東区高等小学校の校長代(1893年)、首座教員(1894年)を務め、1895年(明治28年)10月から1906年(明治39年)まで船場尋常小学校で訓導・校長に在任した。 その後、帰郷して父の跡を継ぎ、玉櫛村会議員に選出された。
大喜多 寅之助(おおきた とらのすけ、慶応2年11月20日(… 大喜多 寅之助(おおきた とらのすけ、慶応2年11月20日(1866年12月26日) - 1961年(昭和36年)2月13日)は、名古屋市長。弁護士。 美濃国大垣出身。1866年に父・次助と母・幸の第6子(五男)として生まれる。大垣小学校、岐阜華陽学校大垣分校、大学予備門、第一高等中学校を経て、1888年(明治21年)に東京帝国大学法科大学に入学した。1892年(明治25年)に卒業した後は名古屋市で弁護士事務所を開業した。弁護士業務のかたわら、愛知法律学校を創設して校長に就任し、また『金城新報』の編集監督も務めた。1896年(明治29年)には名古屋弁護士会長に選出された。 名古屋市会議員、同参事会員、名古屋市会議長に選出され、1921年(大正10年)には名古屋市長に就任した。
宮崎 敬介(みやざき けいすけ、1866年12月23日〈慶應… 宮崎 敬介(みやざき けいすけ、1866年12月23日〈慶應2年11月17日〉 - 1928年〈昭和3年〉10月17日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した大阪の実業家。大阪堂島米穀取引所理事長、神戸商品取引所理事長、大阪電灯社長、大同電力副社長を歴任し、大阪土地建物や門司築港を創設するなど、関西実業界の重鎮として活躍した。旧姓は角中、別名は主一郎。 宮崎敬介は、慶應2年11月17日(1866年12月23日)、角中豊平の四男として生まれた。出身は熊本県天草郡・天草上島の島子村(有明町を経て現・天草市)。生まれは東京、または大阪ともされる。熊本県人・宮崎勇太郎の養子となり宮崎姓を称し、1895年(明治28年)に分家した。
九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2… 九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2年11月16日)- 1943年(昭和18年)7月25日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 美作勝山藩(現・岡山県真庭市)出身。1889年(明治22年)4月、海軍兵学校(15期)を卒業し、少尉候補生として「金剛」(金剛型コルベット一番艦)に乗組む。1894年(明治27年)4月、「鳥海」航海士となり日清戦争に出征した。その後、佐世保水雷団水雷艇隊艇長、「吉野」航海長、駆逐艦「曙」艦長などを経て、日露戦争に出征。 日本海海戦では第1艦隊第1駆逐隊・駆逐艦「有明」艦長として参加。海軍大佐となり、1910年(明治43年)、「葛城」艦長に就任。
矢野 恒太(やの つねた、慶応元年12月2日(1866年1月… 矢野 恒太(やの つねた、慶応元年12月2日(1866年1月18日) - 昭和26年(1951年)9月23日)は、明治期から大正期に生命保険業界の基礎を築いた実業家。第一生命保険創業者。医師。日本アクチュアリー会初代代表。「相互会社の産みの親」と呼ばれ、「蒼梧」と号した。 備前国上道郡角山村(現・岡山県岡山市東区)で生まれる。播磨国赤穂郡砂野庄矢野(現・兵庫県相生市北部)を本貫とした清和源氏山県氏流矢野氏の末裔と称した。 1889年、第三高等中学校医学部(後の岡山医専、現・岡山大学)を卒業、日本生命に診査医として就職する。 しかし、1892年に経営陣との対立から退社し、安田生命(現・明治安田生命保険)の前身である共済生命保険の設立に関わり、その後、支配役となる。
木村 久寿弥太(きむら くすやた、1866年1月18日(慶応… 木村 久寿弥太(きむら くすやた、1866年1月18日(慶応元年12月2日) - 1935年(昭和10年)11月23日)は、日本の実業家。三菱財閥の総理大臣と言われた。 土佐国土佐郡石立村(現・高知県高知市内)の出身。土佐藩の下級武士である田岡亨一の二男に生まれる。もともとは農民の出だが、祖父の代に家老の家に出仕し、武士の身分を得た。藩校の致道館教授も務めた叔父の養子となり、木村家を継ぐ。16歳の時に叔父が大阪で役人になると大阪へ出て、のちに模範中学と改称された専門学校に通い、19歳の時に東京へ出て、大学予備門を経て、帝国大学法科大学政治科へ入学する。学生時代に桐島像一が監督していた岩崎弥之助の息子と一緒に熱海の別荘に避寒すると、豊川良平から岩崎小弥太の監督を頼まれ、卒業まで三菱の寄宿舎から大学へ通った。
近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元… 近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元年12月1日) - 1944年(昭和19年)3月4日)は、日本の明治から昭和期における医学博士・外科医。東京帝国大学医学部教授・病院長。日本で最初に胃がんの手術を成功させた外科医である。。
松方 幸次郎(まつかた こうじろう、1866年1月17日(慶… 松方 幸次郎(まつかた こうじろう、1866年1月17日(慶応元年12月1日) - 1950年(昭和25年)6月24日)は、日本の実業家、政治家。川崎造船所社長、衆議院議員(日本進歩党)、美術収集家。エール大学、ソルボンヌ大学卒業。