加藤 高明(かとう たかあき、安政7年1月3日(1860年1… 加藤 高明(かとう たかあき、安政7年1月3日(1860年1月25日) - 大正15年(1926年)1月28日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣(第16・19・26・28代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第24代)などを歴任した。
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加藤 高明(かとう たかあき、安政7年1月3日(1860年1… 加藤 高明(かとう たかあき、安政7年1月3日(1860年1月25日) - 大正15年(1926年)1月28日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣(第16・19・26・28代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第24代)などを歴任した。
八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1… 八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1月25日)- 昭和5年(1930年)6月30日)は明治~大正期の日本海軍軍人。政治家。海軍大将。男爵。愛知県犬山市出身。兄は衆議院議員の松山義根。
河田 繁穂(かわだ / かわた しげほ、1860年1月24日… 河田 繁穂(かわだ / かわた しげほ、1860年1月24日(安政7年1月2日)- 1925年(大正14年)10月3日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県苫田郡芳野村長。有弘(ゆうこう)に改名した。 美作国西西条郡吉原村(岡山県西西条郡芳野村、苫田郡芳野村を経て現鏡野町吉原)で、河田竹治の長男として生まれる。 1879年(明治12年)吉原村戸長に就任。以後、西西条郡書記、円宗寺村外5カ村戸長を歴任。1886年(明治19年)岡山県会議員に選出され通算6期、1919年(大正8年)まで在任。この間、同常置委員、同議長(1896年-1898年)も務めた。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(岡山県第6区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任。
二宮 邦次郎(にのみや くにじろう、安政7年1月2日(186… 二宮 邦次郎(にのみや くにじろう、安政7年1月2日(1860年1月24日) - 大正15年(1926年)9月7日)は明治・大正期の日本の牧師、教育者。 備中松山藩士の片貝正倫・ヨシの子として生まれ、藩医二宮英庵の養子となる。 1876年(明治9年)4月に岡山師範学校を卒業し、小学校教員をしながら自由民権運動の演説会などで活動していたが、新島襄や金森通倫の岡山伝道に接したことがきっかけで1880年(明治13年)に岡山教会で新島から洗礼を受け、さらに同志社の速成邦語神学科で学んだ。 1882年(明治15年)には高梁教会の設立に尽力したあと、美作落合教会の2代目牧師に就任する。さらに愛媛県の今治教会に転じ、横井時雄牧師を助けて松山伝道にも加わり、1885年(明治18年)に松山第一基督教会(現・日本基督教団松山教会)を設立した。
渡辺 忠三郎(わたなべ ちゅうざぶろう、1860年1月23日… 渡辺 忠三郎(わたなべ ちゅうざぶろう、1860年1月23日(安政7年1月1日) - 1940年(昭和15年)3月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 越前福井藩領南条郡府中町(福井県南条郡武生町、武生市を経て現越前市)出身。渡辺等の三男、渡辺洪基の弟としてのちの福井県に生まれる。1874年(明治7年)陸軍幼年学校に入ったのち、1877年(明治10年)陸軍士官学校に入学し(旧3期)、1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官する。日清戦争では大総督府兵站総監部附として従軍した。 1901年(明治34年)5月、駐米公使館附を経て、同年11月、大佐に進み、陸軍砲工学校教官に転じるが、日露戦争の勃発を受け1904年(明治37年)2月、大本営幕僚部勤務を拝命する。
中原 貞三郎(なかはら ていざぶろう、1859年2月16日(… 中原 貞三郎(なかはら ていざぶろう、1859年2月16日(安政6年1月14日) - 1927年(昭和2年)12月4日)は、明治から大正時代の土木技術者、農商務技師、内務技師、統監府技師。 中原宗作の三男として周防国玖珂郡岩国領(現・山口県岩国市)にて生まれ、1891年(明治24年)7月、家督を継ぐ。1882年(明治15年)7月、旧東京大学理学部卒業。翌月、陸軍省御用掛となり参謀本部測量課に配属される。陸軍技師・陸軍部測量班長心得を経て、1886年(明治19年)陸軍5等技師に進み、1888年(明治21年)より帝国大学工科大学講師を兼任し、戦前の陸測地図の基礎を固めた。 1891年(明治24年)熊本県4等技師を経て、土木監督署技師となり、1898年(明治31年)1月、内務省第7区(熊本、4月より福岡に移転)土木監督署長を発令される。
福島 美之助(ふくしま よしのすけ、1859年2月16日(安… 福島 美之助(ふくしま よしのすけ、1859年2月16日(安政6年1月14日) - 1920年(大正9年)11月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 後の鹿児島県曽於郡財部町(現曽於市)出身。鹿児島県農工銀行監査役となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1920年に死去した。
秋山 好古(あきやま よしふる、1859年2月9日〈安政6年… 秋山 好古(あきやま よしふる、1859年2月9日〈安政6年1月7日〉- 1930年〈昭和5年〉11月4日)は、日本の陸軍軍人・教育者。最終階級及び位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。通称は信三郎。予備役編入後は郷里の愛媛県松山市で私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)の校長を務めた。 陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞され、日本騎兵の父とも呼ばれている。 連合艦隊先任参謀として日本海海戦の勝利に貢献した秋山真之は実弟。 騎兵を選んだのは他の兵科より一年早く卒業でき、給金を受け取れるという理由だった。
吉松 茂太郎(よしまつ しげたろう/もたろう、1859年2月… 吉松 茂太郎(よしまつ しげたろう/もたろう、1859年2月9日〈安政6年1月7日〉- 1935年〈昭和10年〉1月2日)は、日本の海軍軍人。第6・7・8代連合艦隊司令長官。階級は海軍大将。 土佐中村藩士、のち裁判官となった吉松万弥の長男として生まれる。父が自邸に漢学塾を開いていたことから漢詩の素養があった。藩校致道館、開成学校を経て、1880年(明治13年)に海軍兵学校を卒業(7期生)し少尉候補生を経て、1883年(明治16年)に少尉任官。1885年(明治18年)、防護巡洋艦「浪速」の回航委員となりイギリスに出張し「浪速」分隊士となり翌年に帰国。1888年(明治21年)、フランスに留学し、フランス軍艦に実地研究のため乗り組んだり、造兵監督官としてイギリスなどに出張をして1893年(明治26年)に帰国した。
中野 初子(なかの はつね、安政6年1月5日(1859年2月… 中野 初子(なかの はつね、安政6年1月5日(1859年2月7日) - 1914年(大正3年)2月16日)は、明治時代の電気工学者。男性。佐賀県出身。 佐賀藩士中野卜斉の二男として肥前小城郡にて生まれる。1873年(明治6年)、工部省電信寮に出仕していた長兄の中野宗宏(後に外信局次長)を頼って上京し、佐賀出身の初代電信頭石丸安世の塾に入った。翌年工部省工部寮小学校に入学する。のち工部大学校(現:東京大学工学部)に進み、イギリスの電気工学者ウィリアム・エドワード・エアトンに師事し、在学中の1878年(明治11年)3月25日、藤岡市助、浅野応輔らと共に中央電信局開局祝宴にて日本初のアーク燈を灯した。
鎌田 大三郎(かまだ だいざぶろう、1859年2月5日〈安政… 鎌田 大三郎(かまだ だいざぶろう、1859年2月5日〈安政6年1月3日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、会社役員。族籍は香川県平民。 香川県平民・鎌田大三郎の長男。1875年、家督を相続する。清酒・生酢醸造業を営む。坂出銀行常務取締役、鎌田産業取締役などをつとめる。住所は香川県綾歌郡坂出町(現坂出市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月… 小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月4日) - 大正13年(1924年)5月9日)は日本の工学博士。第二高等中学校(現東北大学教養部)教授。旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て東京大学理学部(土木科)卒。土木学会会員。
大森 与三次(おおもり よそじ、1859年2月4日(安政6年… 大森 与三次(おおもり よそじ、1859年2月4日(安政6年1月2日) - 1922年(大正11年)6月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 播磨国飾東郡、のちの兵庫県飾磨郡花田村(現姫路市)出身。漢学を学ぶ。姫路市会議員、同副議長、同議長、兵庫県会議員、姫路市米穀取引所理事、同理事長、姫路市倉庫会社取締役となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において姫路市選挙区から憲政会公認で立候補したが落選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙では立憲国民党公認で立候補して当選する。1915年の第12回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年の第13回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙では兵庫2区から立候補したが落選した。
山鹿 元次郎(やまが もとじろう、1859年2月2日〈安政5… 山鹿 元次郎(やまが もとじろう、1859年2月2日〈安政5年12月30日〉 - 1947年〈昭和22年〉12月31日)は、日本のメソジストの牧師、教育者。文筆家である。弘前教会牧師を長年務める。 津軽藩士の古田家の次男として江戸藩邸に生まれる。山鹿素行の後の津軽山鹿家の養子になり、別家を継いだ。帰郷し東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1875年(明治8年)10月3日にイングより洗礼を受ける。 養家の山鹿家の都合で新聞社経営に参加し、記者の筆禍事件の責を負って禁錮7ヶ月判決を受けた。獄中で聖書を読んで、献身の召命を受ける。1882年に本多庸一の勧めで、弘前教会内の女学校(弘前学院)の校長になる。
寺尾 亨(てらお とおる、1859年2月1日(安政5年12月… 寺尾 亨(てらお とおる、1859年2月1日(安政5年12月19日)- 1925年(大正14年)9月15日)は、明治・大正期の法学者・アジア主義者。天文学者寺尾寿の弟。商工省官僚寺尾進、女優東山千栄子の養父。
大場 長平(おおば ちょうへい、1859年1月28日(安政5… 大場 長平(おおば ちょうへい、1859年1月28日(安政5年12月25日)- 1916年(大正5年)8月10日)は、明治から大正初期の実業家・政治家。衆議院議員、香川県会議長。 讃岐国山田郡、のちの香川県山田郡林村(木田郡林村を経て現高松市)で、大場吉次郎の二男として生まれる。漢学を修めた。1889年(明治22年)6月、家督を相続した。 1889年、讃岐鉄道取締役に就任。その他、讃岐農工銀行頭取、韓国実業監査役、東讃電気軌道(現高松琴平電気鉄道)社長などを務めた。 政界では、六条村戸長、林村会議員、木田郡四ケ池普通水利組合常設議員などを務めた。香川県会議員に選出され、1899年(明治32年)10月21日、同議長に就任し同月27日まで7日間在任した。
杉田 雄(すぎた いさお/ゆう、安政5年12月22日(185… 杉田 雄(すぎた いさお/ゆう、安政5年12月22日(1859年1月25日) - 1906年(明治39年)7月31日)は、明治時代の兵庫県神戸市の外科医。県立神戸医学校教諭・神戸病院副院長、私立杉田病院長、神戸市医師組合初代組長。脊髄炎で早世した。号は春嵐。杉田玄白4世孫。 安政5年12月22日(1859年1月25日)江戸浜町山伏井戸(東京都中央区日本橋浜町二丁目)に杉田玄端の四男として生まれた。幼名は英吉/英吉郎。7歳で木村二梅に習字、高須某に漢学を学んだ。 明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い両親・弟杉田盛と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移り、沼津兵学校附属小学校に通いながら、相磯格堂にも漢籍を学んだ。
五十嵐 秀助(いがらし ひですけ、1859年1月25日(安政… 五十嵐 秀助(いがらし ひですけ、1859年1月25日(安政5年12月22日)- 1933年(昭和8年)2月11日)は、明治から大正時代の電信電話技術者。出羽米沢(山形県)出身。 安政5年(1858年)、旧米沢藩士・徳間久三郎の三男として生まれる。その後同藩士・五十嵐正和の養子となる。 1882年(明治15年)工部大学校電気科を卒業。工部省に入ったのち、逓信省技師に任ぜられる。1887年(明治20年)東京電信學校教授になり、1889年(明治22年)、電信電話事業視察のために私費で欧米各国を歴訪。 東京郵便電信局建築課長、東京電話交換局長、塞累逓信局工務部長などを歴任。東京、横浜等の電話工事の基礎を定める。
野坂 金治郎(のさか きんじろう、1859年1月24日〈安政… 野坂 金治郎(のさか きんじろう、1859年1月24日〈安政5年12月21日〉 - 1937年〈昭和12年〉2月2日)は、日本の醸造家、政治家。鳥取県会議員。鳥取県日野郡会議員。日野家畜、根雨銀行各取締役。中国貯蓄銀行監査役。日野酒造組合副組長。野坂家第9代。 伯耆国日野郡溝口宿(のち鳥取県日野郡溝口町、現伯耆町)出身。酒造業を営む。銘酒「玉の井」を醸造する。住所は日野郡溝口村大字溝口宿。 野坂家は天保年間から明治初年にかけて口日野郡の大庄屋、続いて区長・戸長などをつとめた。野坂金治郎の嗣子は野坂誠之。遺族は日野郡溝口町溝口の野坂和子。「野坂和子氏所蔵文書」は、大庄屋文書は藩からの到来書及び御用留、郡村役人同志との往復文書、構内各村からの嘆願書類がその主な内容である。
三谷 軌秀(みたに のりひで、1858年2月18日(安政5年… 三谷 軌秀(みたに のりひで、1858年2月18日(安政5年1月5日) - 1934年(昭和9年)3月8日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。幼名は五市。 1858年2月18日(安政5年1月5日)、土佐国長岡郡粟生村(現在の高知県大豊町)に生まれる。1886年(明治19年)に東京法学校(現在の法政大学)を卒業する。 1887年(明治20年)に公証人試験に合格するが、同年保安条例に触れ、三里以外の地に退去を命じられる。 1889年(明治22年)に大阪で公証人となり、1891年(明治24年)に大阪商業会議所の特別会員となる。 1893年(明治26年)に片岡直温らとともに帝國物産を設立し、その顧問に就任し、1894年(明治27年)に日本時計製造の設立に参加し、その監査役に就任する。
工藤 善助(くどう ぜんすけ、安政5年1月5日〈1858年2… 工藤 善助(くどう ぜんすけ、安政5年1月5日〈1858年2月18日〉 - 1938年〈昭和13年〉1月20日)は、明治から昭和戦前期にかけての日本の政治家・実業家。長野県小県郡丸子町(現・上田市)の人物で、政界では長野県会議員や衆議院議員(当選2回)などを歴任し、実業界では蚕種業・製糸業を営み銀行・鉄道会社にも関係した。 工藤善助は、安政5年1月5日(新暦:1858年2月18日)、信濃国小県郡上丸子村(後の小県郡丸子町、現・上田市)に工藤伝五郎の次男として生まれた。1874年(明治7年)12月に分家。1876年(明治9年)より宗家にならって蚕種の製造・販売業を始めた。蚕の繭を得る養蚕業ではなく蚕の卵(蚕卵紙)を製造・販売する蚕種業は幕末以降丸子地区で盛んであった。
三崎 亀之助(みさき かめのすけ、1858年2月15日(安政… 三崎 亀之助(みさき かめのすけ、1858年2月15日(安政5年1月2日) - 1906年(明治39年)3月16日)は、日本の政治家、官僚、銀行家。衆議院議員、貴族院議員、横浜正金銀行副頭取。 1858年(安政5年1月2日)2月15日、讃岐国丸亀に生まれる。東京大学法科を卒業し、忠愛社に入り、『明治日報』記者となる。1884年(明治17年)に外務省御用掛となり、外務省書記官として米国公使館駐在、さらに公使館書記官としてワシントン駐在、次いで外務省参事官を務める。 その後、京都で『中外電報』で論説を執筆、弁護士業などを経て、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙で香川県から出馬し、衆議院議員に当選する(以後4回連続当選)。
伊佐早 謙(いさはやけん、安政4年12月28日(1858年2… 伊佐早 謙(いさはやけん、安政4年12月28日(1858年2月11日) - 昭和5年(1930年)5月14日)は、旧米沢藩士で山形県の漢学者・歴史家・史料収集家。 米沢藩(山形県置賜地方)の藩士の子として誕生。米沢藩藩校の興譲館で漢学を修める。 旧米沢中学校(山形県立米沢興譲館高等学校)で教鞭を執り、明治14年(1881年)からは山形県師範学校(後の山形大学教育学部、現在は山形大学地域教育文化学部に改組)、明治23年(1890年)からは上杉家記録編纂所の総裁となる。 明治41年(1908年)に財団法人米沢図書館を設立、翌年に開館した(後の市立米沢図書館)。旧藩時代の文書や興譲館の蔵書などの貴重書保全に務めた。
水上 長次郎(みずかみ ちょうじろう、1858年2月10日(… 水上 長次郎(みずかみ ちょうじろう、1858年2月10日(安政4年12月27日)- 1936年(昭和11年)4月3日)は、日本の判事、検事、貴族院勅選議員。 近江国彦根出身。1884年(明治17年)、司法省法学校を卒業。徳島始審裁判所・大阪始審裁判所・大阪控訴院で判事を務め、京都地方裁判所部長・福井地方裁判所所長・岐阜地方裁判所所長を歴任した。1898年(明治31年)、大阪地方裁判所検事正となり、広島控訴院検事長・長崎控訴院検事長・大阪控訴院検事長を歴任した。その間、日露戦争の際には佐世保で捕獲審検所検察官を務めた。1913年(大正2年)、名古屋控訴院長に就任し、のち大阪控訴院長に転じた。1921年(大正10年)6月14日、貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属して死去するまで在任した。
鈴木 雅(すずき まさ、1858年2月9日〈安政4年12月2… 鈴木 雅(すずき まさ、1858年2月9日〈安政4年12月26日〉 - 1940年〈昭和15年〉6月11日)は、日本の看護師である。 旧姓は加藤。父は静岡県士族加藤信盛(1834年〈天保5年〉- 1902年〈明治35年〉12月22日没)、母は御留守居組田辺兵三郎の娘トヨ( - 1915年〈大正4年〉2月10日没)、妹テル(輝代子?)、弟保太郎( - 1924年〈大正13年〉5月24日没)。親類書では加藤千三郎(加藤信盛)が「倅、加藤雅太郎」と書いたものを二重線で抹消して「保太郎」と書き直してあることから、「まさ」ではなく、「雅」が正しいようだ。 加藤家の先祖代々の墓は浅草の成喜院にあったが、関東大震災と東京爆撃で墓地が倒壊して寺には記録が残っていない。
山根 正次(やまね まさつぐ、安政4年12月23日 (185… 山根 正次(やまね まさつぐ、安政4年12月23日 (1858年2月6日) - 大正14年(1925年)8月29日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→大同倶楽部→立憲同志会)、医学者。 長門国阿武郡椿郷東分村(現在の山口県萩市)出身。長州藩の医学館であった好生堂で蘭学を、中学校でドイツ人教師からドイツ語を学んだ。東京大学医学部を卒業し、長崎医学校一等教諭に任じられた。1885年(明治18年)、長崎でコレラが大流行すると、検疫委員として防疫に尽力した。 1887年(明治20年)よりドイツ・オーストリアに留学し、法医学を学んだ。帰国後は、警察医長、医務局長、警視庁第三部長を歴任した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日〈安政… 山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日〈安政4年12月23日〉- 1927年〈昭和2年〉9月24日)は、日本の官僚。元老山縣有朋の養子で公爵を継いだ。旧姓は勝津。妻は加藤弘之の娘の隆子。息子は有道、三郎と養子の有光。 長州藩藩士勝津兼亮と山縣有朋の姉・壽子の間に次男として生まれる。明治維新の立役者の一人であった有朋には三男四女があったが、次女以外夭折して山縣家を継ぐべき子供がいなかったため、甥である伊三郎を養子とした。 ドイツ留学後、内務官僚として徳島県知事、三重県知事、内務省地方局長、内務次官などを歴任した。1906年(明治39年)に第1次西園寺内閣で逓信大臣として入閣。しかし、鉄道建設に関する予算問題をめぐって大蔵大臣の阪谷芳郎と対立した末、1908年(明治41年)1月に逓相を辞任している。
大矢 四郎兵衛(おおや しろべえ、1858年2月2日(安政4… 大矢 四郎兵衛(おおや しろべえ、1858年2月2日(安政4年12月19日) - 1930年(昭和5年)9月25日)は、日本の富山県出身の実業家、政治家。衆議院議員。 礪波郡鷹栖村(現・砺波市)の大地主の家庭に次男として生まれる。父と兄を早くに失い、14歳で家督を相続する。金沢の私塾「竹下塾」に遊学ののち、帰郷して1885年(明治18年)、富山県会議員に当選した。1892年に落選後、1894年に鷹栖村長となり、1895年に県会議員に再度当選し、議長に就任している。 1898年(明治31年)の第6回衆議院議員総選挙に憲政本党より富山県第4区から立候補して当選し、1903年まで3期務めた(選挙区は、第7回総選挙では富山県郡部第5区、第8回総選挙では富山県郡部第2区)。
伊藤 鶴吉(いとう つるきち、1858年1月31日(安政4年… 伊藤 鶴吉(いとう つるきち、1858年1月31日(安政4年12月17日) - 1913年(大正2年)1月6日)は、明治時代に活躍した日本の英語通訳者。死去時の新聞報道では「通弁の元勲」と評されている。 相模国三浦郡菊名村(現・神奈川県三浦市)の生まれ。横浜で外国人から英語を学び、1877年より横浜で通訳業を始める。 1905年、アメリカの実業家エドワード・ヘンリー・ハリマン来日の際(このとき桂・ハリマン協定が結ばれた)に通訳を務め、その働きぶりからハリマンが経営する鉄道・汽船の一等乗車券をプレゼントされた。またマイソール王国王子、バローダ王国国王、植物学者チャールズ・マリーズなどが来日した際も通訳を務めた。
藤野 辰次郎(ふじの たつじろう、1858年1月23日(安政… 藤野 辰次郎(ふじの たつじろう、1858年1月23日(安政4年12月9日)- 1909年(明治42年)7月29日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 近江国愛知郡下枝村(滋賀県愛知郡下枝村、日枝村大字下枝、犬上郡豊郷村を経て現豊郷町)で、豪農・7代藤野四郎兵衛良久の二男として生まれた。神戸高等商業学校、東京高等商業学校専攻部を卒業した。他店で経験を積み、その後、藤野店を担当した。 1876年(明治9年)6月、大阪第三区大区二等戸長兼学区取締に就任。その後、大阪府会議員に選出された。1885年(明治18年)滋賀県会議員にも選ばれた。その他、破産管財人、神崎愛知郡所得税調査委員、愛知郡所得税取調委員なども務めた。
2代 若尾 幾造(わかお いくぞう、1858年1月22日(安… 2代 若尾 幾造(わかお いくぞう、1858年1月22日(安政4年12月8日)- 1928年(昭和3年)4月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。幼名は隣之助、旧名・林平。 甲斐国巨摩郡在家塚村(のち山梨県中巨摩郡、現南アルプス市在家塚)で、初代若尾幾造の長男として生まれる。 家業の生糸貿易業に従事し、1896年(明治29年)に家督を相続し幾造(2代)と改名した。神奈川県高座郡藤沢町(現藤沢市)と埼玉県児玉郡本庄町(現本庄市)に生繭乾燥所を、また、高座郡鵠沼村(現:藤沢市)に製糸機械場、同郡明治村(現:藤沢市)に第二製糸場を設置して良質の生糸を製造し、海外に本邦蚕糸の優秀性を示して輸出の拡大に貢献した。
小山 正太郎(こやま しょうたろう、安政4年1月21日(18… 小山 正太郎(こやま しょうたろう、安政4年1月21日(1857年2月15日) - 大正5年(1916年)1月7日)は、明治時代の日本の武士、洋画家。実作者としてよりも教育者として名高い。小山善元の長男であり、小山觀翁の大伯父にあたる。 越後国長岡藩・藩医の惣領。明治2年(1869年)家督相続をして、長岡藩士として出仕(高100石)。廃藩後に地元の長岡洋学校で学ぶ。明治4年(1871年)政治家を志して上京するが、翌年、川上冬崖の画塾「聴香読画館」に入り、まもなく塾頭になる。同6年、陸軍兵学寮に入り,翌年陸軍士官学校図画教授掛となって、陸軍省に招聘されていたフランス人教官アベル・ゲリノー(Abel Guérineau)から水彩画法などを学んだ。
植木 枝盛(うえき えもり、1857年2月14日〈安政4年1… 植木 枝盛(うえき えもり、1857年2月14日〈安政4年1月20日〉 - 1892年〈明治25年〉1月23日)は、日本の思想家、政治家。自由民権運動家。 土佐藩士・植木直枝(小姓組格、4人扶持24石)の嫡男として、土佐国土佐郡井口村(高知県土佐郡石井村、旭村を経て高知市中須賀町)に生まれる。8歳から習字を学ぶ。藩校致道館に学び、明治6年(1873年)には土佐藩海南私塾の生徒として抜擢されるが、9月に退学し帰郷する。 明治六年政変(征韓論政変)に触発されて上京を決意し、傍らキリスト教関係書物『天道溯原』を読む。明治8年(1875年)、19歳で上京し慶應義塾内や三田演説館の「三田演説会」に頻繁に通い、明六社に参加し、福澤諭吉に師事して学ぶ。
山本 六彦(やまもと ろくひこ、1857年2月12日(安政4… 山本 六彦(やまもと ろくひこ、1857年2月12日(安政4年1月18日)- 1899年(明治32年)6月25日)は、日本の地主、政治家、衆議院議員(1期)。 周防国玖珂郡(山口県玖珂郡高森村、高森町、周東町を経て現岩国市)生まれ。農業を営む。第四大区第十小区戸長となり、1889年(明治22年)6月から1891年(明治24年)7月まで初代高森村長を務めた。 1895年、小田伴輔辞職に伴う衆議院山口5区の補欠選挙に立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1899年に死去した。
鮫島 相政(さめしま すけまさ、安政4年1月18日(1857… 鮫島 相政(さめしま すけまさ、安政4年1月18日(1857年2月12日) - 明治44年(1911年)12月12日)は、日本の衆議院議員(同志倶楽部→立憲政友会)、弁護士、検事。 薩摩国揖宿郡頴娃村(現在の鹿児島県南九州市)出身。1877年(明治10年)、警視局(のち警視庁)警部補として出仕し、山梨県と石川県で警部を務めた。1884年(明治17年)、代言人免許を取得し、弁護士として活動した。 1892年(明治25年)、鹿児島県会議員に当選し、4期務めた。その間、2回議長に選出された。1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第6回・第7回と当選を重ねた。議員引退後は検事として活動した。
今村 千代太(いまむら ちよた、1857年2月7日(安政4年… 今村 千代太(いまむら ちよた、1857年2月7日(安政4年1月13日)- 1916年(大正5年)1月15日)は、明治期の教育者・銀行家・政治家。衆議院議員。 肥前国彼杵郡大村(長崎県東彼杵郡西大村、大村町を経て現大村市)の農家に生まれる。小学校卒業後、長崎県師範学校を卒業した。 小学校訓導、小学校長、中学校教員、学務委員、戸長、郡書記などを歴任した。 政界では長崎県会議員に選出された。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(長崎県第2区、進歩党)で当選し、同年8月の第6回総選挙(長崎県第2区、憲政本党でも再選され、最後は三四倶楽部に所属して衆議院議員に連続2期在任した。 その他、玖島銀行頭取を務めた。
初代 板谷 宮吉(いたや みやきち、1857年2月4日(安政… 初代 板谷 宮吉(いたや みやきち、1857年2月4日(安政4年1月10日) - 1924年(大正13年)5月13日)は、日本の実業家、政治家。北海道の海運王と呼ばれた。 越後国刈羽郡宮川村(のち新潟県刈羽郡高浜町大字宮川、現柏崎市)で板谷善左衛門の四男として生まれ、兄・常太の養嗣子となる。 明治3年(1870年)北海道渡島国松前に渡り、1875年、小樽に移って海産物商に奉公した。1882年に独立して米穀雑貨の販売業を営む。1893年、小型汽船を購入し、これが海運業を営むきっかけとなった。1899年、兄・常太と板谷合名を創立し、物産販売、倉庫業、醸造業、海運業、鉱業、農業、漁業を営んだ。1912年、板谷合名を板谷商船に改組した。
平野 友輔(ひらの ともすけ、1857年2月3日〈安政4年1… 平野 友輔(ひらの ともすけ、1857年2月3日〈安政4年1月9日〉 - 1928年〈昭和3年〉4月3日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。 相模国高座郡藤沢宿(のち神奈川県高座郡藤沢大坂町、現:藤沢市)で、薬種商・平野六三郎、ツル夫妻の長男として生まれる。読書院(後の耕余塾)に通い小笠原東陽に漢学を学んだ。1875年(明治8年)10月、第十八大区小学校(現藤沢市立藤沢小学校)の代用教員となる。1880年頃から自由民権運動に加わる。1883年8月、東京大学医学部別課を卒業した。 1884年、神奈川県南多摩郡八王子に移住し医院を開業して、診療は午前のみで、午後には民権運動の活動を行う。八王子でキリスト教に入信。
河村 勝次郎(かわむら かつじろう。1857年1月30日(安… 河村 勝次郎(かわむら かつじろう。1857年1月30日(安政4年1月5日) - 1933年(昭和8年)1月10日)は、横浜、静岡を拠点として明治から昭和にかけて活躍した日本の茶商。 勝次郎は安政4年(1857年)岐阜県(美濃国)安八郡藤江村(現大垣市)において、父河村源四郎、母コウの三男として生まれた。戸主は源四郎の兄河村仁三郎であり、また族籍は士族であったと子孫に伝わる。仁三郎一家の明治19年式戸籍が滅失しているため、仁三郎の両親、兄弟、子孫の情報が得られないが、これは昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲による消失ではなかったかと推察される。 仁三郎は大垣藩医江馬活堂の隣人(安八郡藤江村)で「本舗調合所」を営業、活堂から「健胃湯」処方の教示を受け、明治13年(1880年)1月14日内務省免許を得て製造販売を始め、江馬家へと納入していた。
久松 定弘(ひさまつ さだひろ、1857年1月27日(安政4… 久松 定弘(ひさまつ さだひろ、1857年1月27日(安政4年1月2日)- 1913年(大正2年)7月7日)は、明治期の哲学者、官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・弘太郎。 父は上総大多喜藩主・松平正義の長男正晴で、その長男として上総国大多喜で生まれる。明治4年12月27日(1872年2月5日)旧伊予今治藩主・久松定法の養子となる。明治5年8月7日(1872年9月9日)養父の隠居に伴い家督を継承。1884年7月8日、子爵を叙爵した。 漢学を島田篁村、英語を河津祐之、ドイツ語及び普通学(一般教養科目)を司馬凌海、エルヴィン・クニッピング、ルドルフ・レーマンらに学んだ。1874年11月10日、留学のためドイツ帝国へ出発し、オイゲン・デューリングなどに師事し哲学と文学について学んだ。
上田 実(實、うえだ みのる、1857年1月27日(安政4年… 上田 実(實、うえだ みのる、1857年1月27日(安政4年1月2日) - 1929年(昭和4年)4月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 周防国吉敷郡、のちの山口県吉敷郡大道村(現防府市)出身。漢学と政治経済学を学ぶ。戸長、協同会社赤間関支店長、大道村会議員、同村長、吉敷郡会議員、同参事会員、山口県会議員、同参事会員、所得税調査委員、学務委員、破産管財人、地方森林会議員となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補して初当選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙では政友倶楽部から出馬して再選。衆議院議員を2期務め、1904年の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。
梅野 初実(初實、うめの はつみ、1857年1月26日(安政… 梅野 初実(初實、うめの はつみ、1857年1月26日(安政4年1月1日)- 1938年(昭和13年)11月3日)は、明治期の政治家。衆議院議員。 対馬国下県郡曽村(長崎県下県郡曽村、仁位村、豊玉村、豊玉町を経て現対馬市豊玉町曽)で、対馬府中藩士・梅野益太郎の長男として生まれる。漢籍を修めた。農業を営み、数年間、教育に従事した。 1885年(明治18年)上県下県両郡総町村連合会議員に就任し、同議長、徴兵参事員を務めた。その他、村会議員、同議長にも在任。1889年(明治22年)対馬民党を組織し、同年、長崎県会議員に選出され6期在任した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に長崎県対馬から憲政本党所属で出馬して初当選。
一ノ倉 貫一(いちのくら かんいち、1857年1月23日(安… 一ノ倉 貫一(いちのくら かんいち、1857年1月23日(安政3年12月28日)- 1922年(大正11年)12月11日)は、明治から大正期の大地主、教育者、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国和賀郡、のちの岩手県東和賀郡小山田村(和賀郡小山田村、東和町を経て現花巻市)で、一ノ倉家に生まれ、一ノ倉宇兵衛の養子となり1893年(明治26年)8月に家督を相続した。 1878年(明治11年)宮城師範学校を卒業。仙台市小学校訓導、宮城県師範学校教員、岩手県属、岩手県獣医学校長、郡長などを歴任した。その他、徴兵事務官、勧業諮問会員、市町村制実施法取調委員、府県制郡制実施法取調委員、日本赤十字社特別社員なども務めた。
向坂 弘(さきさか ひろむ、1856年2月15日(安政3年1… 向坂 弘(さきさか ひろむ、1856年2月15日(安政3年1月10日) - 1925年(大正14年)4月24日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 出雲国松江(現在の島根県松江市)出身。松江藩藩校の修道館で学び、1874年(明治7年)より小学校教員を務めた。1881年(明治14年)より代言人の職に従事し、松江弁護士会副会長、同会長を歴任した。1889年(明治22年)、松江市会議員となり、議長に選ばれた。1898年(明治31年)、島根県会議員に選ばれ、同参事会員も務めた。 1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第9回、第10回でも再選された。
松村 任三(まつむら じんぞう、1856年2月14日〔安政3… 松村 任三(まつむら じんぞう、1856年2月14日〔安政3年1月9日〕- 1928年5月4日)は、日本の植物学者。 東京帝国大学理学部植物学教室教授、附属小石川植物園の初代園長。多くの植物標本を採取しソメイヨシノやワサビなど150種以上の植物に学名を付け、それまでの本草学と近代の植物学の橋渡しをした。また、植物の分類のための植物解剖(形態)学という新しい学問を広めた。門下生に牧野富太郎がいる。だが次第に牧野を憎むようになり、講師であった牧野の免職をたびたび画策した。位階勲等は正三位勲一等。現在の茨城県高萩市出身。同市にあるかやぶきの生家は2012年12月10日の火災によって全焼した。 松村の著作の多くは植物学に関するものであるが、幼少から四書五経をそらんじたといわれるなど国文学・言語学の素養もあり、晩年にはその方面の著作も残している。
平瀬 作五郎(ひらせ さくごろう、安政3年1月7日(1856… 平瀬 作五郎(ひらせ さくごろう、安政3年1月7日(1856年2月12日) - 大正14年(1925年)1月4日)は、明治・大正期の植物学者。 1856年、福井市日之出町にて、福井藩士平瀬儀作の長男として生まれる。1872年、福井藩中学校(現・福井県立藤島高等学校)に入学、加賀野井成是に油絵を学ぶ。卒業後、同校の中進業生図画教授助手を拝命。1873年、山田成章の写実派油絵を学ぶために上京。 1875年、東京での油絵留学から帰郷し、岐阜県の中学・遷喬館(現・岐阜県立岐阜高等学校)に図画教員として就職した。1887年に退職するまでの13 年の教員生活の間に、図画教科書として『画学初歩』、『用器画法』、『図画指要』、『小学用器画法』を出版するなど、製図・図画の教育や普及への貢献も顕著である。
田中 稲城(たなか いなぎ、1856年2月11日(安政3年1… 田中 稲城(たなか いなぎ、1856年2月11日(安政3年1月6日) - 1925年(大正14年)2月22日)は明治時代から大正時代にかけての日本の官僚、図書館学者。 帝国図書館(国立国会図書館の前身)初代館長、日本文庫協会(日本図書館協会の前身)初代会長。「図書館の父」と称される。 幕末に周防国で岩国藩士末永家の三男として生まれた。幼名は辰之助。田中家の養子に入って田中林蔵、のち稲城と改名する。藩校で漢学、英語学校で英語を学んだのち、1875年に東京開成学校に入学。1881年に東京大学文学部(帝国大学文科大学の前身)和漢文学科を卒業するとともに、東京大学文学部・法学部准講師に任ぜられた。1882年には助教授に昇進するが、1886年に文部一等属に任命され、文部省の本省に転属。
松本 鼎(まつもと かなえ、1856年2月10日(安政3年1… 松本 鼎(まつもと かなえ、1856年2月10日(安政3年1月5日) - 1928年1月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。位階は正四位・勲等は勲二等・軍功は功三級。 島根県簸川郡大社町で、出雲国造・千家家と北島家に仕える士族松本礼次郎の長男として生まれる。父は美保関町森山出身の志士・松本古堂(巌)の門人で、以前は寺本易直と名乗っていたが、養子に入り礼次郎となった。 1878年(明治11年)12月、陸軍士官学校(旧2期)を卒業し、翌年2月、砲兵少尉任官。1901年(明治34年)2月、野戦砲兵第12連隊長に就任。1902年(明治35年)11月、砲兵大佐に昇進した。 1903年(明治36年)5月、陸軍野戦砲兵射撃学校長となり、1904年(明治37年)2月、第1軍砲兵部長に発令され日露戦争に出征。
永井 謙蔵(ながい けんぞう、1856年2月10日〈安政3年… 永井 謙蔵(ながい けんぞう、1856年2月10日〈安政3年1月5日〉 - 1914年〈大正3年〉5月7日)は、明治期の政治家、実業家。衆議院議員、千葉電灯会社創立者。 安房国長狭郡、後の千葉県安房郡吉尾村(現鴨川市)生まれ。村塾に学び、1877年(明治10年)慶應義塾を卒業。千葉県師範学校講師となり、1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙に千葉県第7区から進歩党所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。 1901年(明治34年)、日本赤十字社の嘱託を受けて千葉支部主事となり閑院宮載仁親王より有功章を受ける。1906年(明治39年)、千葉電灯会社を創立し、取締役となる。 その他、千葉県属、同警部、同農商課長、天羽郡長、千葉県農会議員、同県教育会議員、同県会議員などを務めた。
谷口 謙(たにぐち けん、1856年2月7日(安政3年1月2… 谷口 謙(たにぐち けん、1856年2月7日(安政3年1月2日) - 1929年(昭和4年)9月21日)は、日本の明治期の陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医監(少将相当官)。位階勲等は正四位・勲二等・功三級。医学博士。 東京大学医学部の同期に小説家の森鷗外がいる。 1856年2月7日(安政3年1月2日)、美作勝山藩(現・岡山県北東部)藩士・谷口有年の長子として江戸の藩邸(現・東京都千代田区霞が関3丁目:東京メトロ銀座線虎ノ門駅付近)に誕生した。武家の子として幼い頃から武芸を習い、13歳頃からは国文や漢文を、その翌年からはスイス人のもとでドイツ語を2年間学んだ。 1873年(明治6年)大学東校(現・東京大学医学部)に入学、1881年(明治14年)に卒業した。