岡元 行人(おかもと ゆきと、1964年〈昭和39年〉4月1… 岡元 行人(おかもと ゆきと、1964年〈昭和39年〉4月19日 - )は、青森県の政治家、社会企業家。一般財団法人地域社会課題解決研究所、代表理事。 1964年4月19日、青森県弘前市に生まれる。弘前市立第二中学校では野球部に所属し、青森県立弘前実業高等学校商業科に進学後は生徒会長を務める。卒業後は家業の木材業に従事しつつ、地域の青年活動にも関わり、地域社会や行政への関心を深めた。28歳頃、青年活動を通じて若者の意見が行政に反映されにくいことに疑問を感じ、自らがその役割を担うことを決意し、政治に関心を抱くようになった。 1995年、31歳の時に弘前市議会議員選挙に出馬し、2803票を獲得して7位で初当選。
櫻田 宏(さくらだ ひろし、1959年(昭和34年)6月3日… 櫻田 宏(さくらだ ひろし、1959年(昭和34年)6月3日 - )は、日本の政治家。元青森県弘前市長(2期)。 青森県弘前市生まれ。元弘前市長の櫻田清芽は祖父。弘前市立桔梗野小学校、弘前市立第四中学校、青森県立弘前高等学校卒業。1年浪人後、弘前大学人文学部経済学科に入学。1983年3月、同大学卒業。同年4月、弘前市役所に入庁、弘前市観光振興部長。 2018年4月8日に行われた弘前市長選挙に、市職員労組連合会の推薦を得て立候補。3選を目指す現職の葛西憲之は地元青森3区選出の木村次郎衆議院議員に再三にわたり応援依頼をするが、木村は「中立」を貫いた。櫻田は、葛西の進める「箱物行政」への批判票を取り込み、初当選を果たした。
葛西 憲之(かさい のりゆき、1946年(昭和21年)11月… 葛西 憲之(かさい のりゆき、1946年(昭和21年)11月3日 - )は、日本の政治家。元青森県弘前市長(2期)。 青森県弘前市にて出生。弘前市立和徳小学校、弘前市立第一中学校卒業。1967年(昭和42年)3月、函館工業高等専門学校土木工学科卒業。1970年(昭和45年)4月、青森県庁に入庁。 2002年(平成14年)4月、県土整備部道路課長に就任。2004年(平成16年)4月、弘前県土整備事務所長に就任。2006年(平成18年)7月、県土整備部長に就任。2007年(平成19年)3月、県庁を退職。 2007年(平成19年)7月、道路公社、土地開発公社、住宅供給公社理事長に就任。同年12月、弘前市副市長就任。
下田 敦子(しもだ あつこ、1940年8月5日 - )は日本… 下田 敦子(しもだ あつこ、1940年8月5日 - )は日本の政治家。参議院議員(1期)、青森県議会議員(3期)、学校法人城東学園理事長を務めた。 青森県弘前市出身。弘前中央高校を経て秋田短期大学家政学科卒業。 学校法人城東学園理事長として、弘前医療福祉大学・弘前医療福祉大学短期大学部を運営する。1991年には青森県議会議員選挙に無所属で出馬し当選。2003年まで3期務めた後、2004年2月の弘前市長選に出馬。現職の金沢隆に対し互角に戦ったが、180票の僅差で落選した。2004年7月の第20回参議院議員通常選挙では、民主党公認で比例区より出馬。党の東北ブロック重点候補となり、初当選。 2010年7月の第22回参議院議員通常選挙では再選を目指し、民主党の比例区から出馬するが落選。
三上 隆雄(みかみ たかお、1933年11月2日-)は、日本… 三上 隆雄(みかみ たかお、1933年11月2日-)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、青森県議会議員(3期)、相馬村議(5期)を務めた。 青森県中津軽郡相馬村のリンゴ農家出身。青森県立弘前高等学校中退。1971年、相馬村議会議員、同議長を経て、1989年の第15回参議院議員通常選挙青森県選挙区で、反核燃料を掲げ無所属で立候補し現職の松尾官平を破り、初当選。1995年の第17回参議院議員通常選挙で落選。1999年の青森県議会議員選挙弘前選挙区に出馬し、初当選。以後3期務める。2008年、民主党会派に入る。2009年の第45回衆議院議員総選挙で青森4区の津島恭一の選対本部長を務める。2011年4月、民主党公認で立候補した青森県議会議員選挙で落選。
福士 文知(ふくし ぶんち、1913年(大正2年)8月16日… 福士 文知(ふくし ぶんち、1913年(大正2年)8月16日 - 2003年(平成15年)5月1日)は、昭和から平成時代の政治家。医師。青森県弘前市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。曾祖父は、尾上銀行頭取清藤盛美。 弘前市出身。1966年(昭和41年)岩手医学専門学校卒業。1975年(昭和50年)弘前市医師会長を経て、1976年(昭和51年)から市長に4選。1992年(平成4年)2月に引退した。 2003年(平成15年)5月1日、急性肺炎のため弘前市の病院で死去した。
島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年… 島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年〉1月15日 - 1968年〈昭和43年〉3月17日)は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 青森県弘前市で生まれる。小学校卒業後、市内のタンス店に職工として勤め、その後、無産運動に加わる。1932年、全農青年部青森県連合会執行委員に就任。1934年、日本共産党に入党したが、同年に検挙され懲役3年となり服役した。 戦後、日農の再建に尽力し、また日本社会党の結成に加わり、同青森県連選挙対策部長、同書記長、同委員長、弘前市議会議員、青森県議会議員などを務めた。 1958年5月、第28回衆議院議員総選挙に青森県第二区から出馬して当選。
藤森 睿(ふじもり さとる、1903年 〈明治36年〉12月… 藤森 睿(ふじもり さとる、1903年 〈明治36年〉12月8日 - 1984年〈昭和59年〉8月30日)は日本の政治家。青森県弘前市長。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 青森県弘前市出身。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、東洋大学倫理学東洋文学科卒。卒業後は青森県立青森高等女学校(現・青森県立青森高等学校)、青森県女子師範学校(現・弘前大学)、青森県立五所川原高等女学校(現・青森県立五所川原高等学校)の各教諭となり、五所川原高等女学校、青森高等女学校の各校長となる。1946年に青森県庁に入り、県視学官、教育、人事の各課長、民生部長を歴任し、1954年、弘前高校校長となり、教育現場に復帰した。
岩淵 勉(いわぶち つとむ、1888年〈明治21年〉2月 -… 岩淵 勉(いわぶち つとむ、1888年〈明治21年〉2月 - 1956年〈昭和31年〉1月14日)は、日本の実業家、政治家。青森県弘前市長。位階は従六位。勲六等瑞宝章。 青森県中津軽郡弘前に生まれる。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、慶應義塾大学部理財科卒。卒業後は弘前電燈株式会社に就職し、会社支配人となる。その後、陸奥鉄道支配人、津軽鉄道常務となった。 1945年暮れに弘前市長の葛原運次郎が死去、1946年1月にその後任の市長に就任した。翌1947年、弘前市長選挙に立候補して当選した。4年後の市長選挙には不出馬、1955年の市長選挙に立候補して市長に返り咲いた。しかし、病気に倒れ、1956年、在職中のまま死去。
乳井 英夫(にゅうい ひでお、1886年(明治19年)8月1… 乳井 英夫(にゅうい ひでお、1886年(明治19年)8月10日 - 1977年(昭和52年))は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県弘前市長。 青森県弘前市出身。1906年(明治39年)3月、青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を卒業後、南津軽郡注目小学校の教員となる。1912年(明治45年)6月、官界に転じ、青森県属となり、ついで福島県書記、栃木県属、栃木県警部、秘書課長、地方事務官学務部教育課長、知事官房主事を経て、1929年(昭和4年)7月に休職。 1931年(昭和6年)9月に弘前市助役に就任。翌年1月に辞任後、宇都宮市主事、社会課長、職業紹介所長、水道課長などを経て、1936年(昭和11年)2月に再度弘前市助役に就任した。
笹森 順造(ささもり じゅんぞう、1886年〈明治19年〉5… 笹森 順造(ささもり じゅんぞう、1886年〈明治19年〉5月18日 - 1976年〈昭和51年〉2月13日)は、日本の政治家、教育者、剣道家。位階勲等は正三位勲一等瑞宝章。称号は政治学士、剣道範士。東奥義塾塾長、青山学院院長、衆議院議員(4期)、参議院議員(3期)、復員庁総裁、賠償庁長官、全日本剣道連盟最高顧問などを歴任した。 青森県中津軽郡弘前町弘前若党町(現:弘前市若党町)に旧弘前藩藩士・笹森要蔵の六男として誕生。8歳で北辰堂道場に入門し、小野派一刀流剣術を学ぶ。14歳のときキリスト教の洗礼を受ける。 1910年、早稲田大学政治経済科を卒業後、雑誌『新公論』記者を経て1912年に渡米し、コロラド州デンバー大学大学院を修了。
櫻田 清芽(さくらだ きよめ、1885年(明治18年) - … 櫻田 清芽(さくらだ きよめ、1885年(明治18年) - 1958年(昭和33年)12月31日)は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県弘前市長。 青森県津軽郡弘前植田町(中津軽郡弘前植田町を経て現:弘前市植田町)に生まれる。弘前中学校を卒業後、明治大学予科に学ぶ。帰郷後は教員などを経て、1910年(明治43年)陸奥日報社に入社し、編集長、弘前新聞主筆兼社長を歴任する。 その間、弘前市会議員を26年、青森県会議員を20年務め、1951年(昭和26年)4月、弘前市長に就任した。中津軽郡11箇村との合併などを実現し、1955年(昭和30年)4月に満期退官。その後は、1957年(昭和32年)より県公安委員長を務めたが、任期中に急逝した。
工藤 十三雄(くどう とさお、1880年(明治13年)5月1… 工藤 十三雄(くどう とさお、1880年(明治13年)5月16日 – 1950年(昭和25年)12月17日)は、衆議院議員(政友本党→立憲政友会)、ジャーナリスト。 弘前市出身。東京帝国大学法科大学独法科を中退後、時事新報の記者となった。東洋拓殖株式会社嘱託を経て、郷里で陸奥日報社や弘前新聞社の経営にあたった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。6期連続当選を果たした。その間、平沼内閣で鉄道政務次官を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。 その他、石川島飛行機製作所顧問を務めた。
菊池 良一(きくち りょういち、1879年(明治12年)10… 菊池 良一(きくち りょういち、1879年(明治12年)10月1日 - 1945年(昭和20年)2月25日)は、大正から昭和前期の日本の実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。中国通(支那通)として知られた。天文学者・一戸直蔵の義弟。 青森県中津軽郡弘前城下(現弘前市)で、旧弘前藩士の政治家・菊池九郎、久満子の長男として生まれる。東奥義塾、第二高等学校を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業した。 青年時代から中国問題に関心を持ち、中国で貿易商を営み、日支商事会社長、山口商事取締役、東海漁業取締役などを務めた。その後、新聞記者、弁護士となる。また、合資会社ボルネオ物産商会代表者に就任した。
中野 浩(なかの こう、1876年(明治9年)6月3日 -… 中野 浩(なかの こう、1876年(明治9年)6月3日 - 没年不明)は日本の政治家。青森県青森市長。 青森県中津軽郡弘前に生まれる。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、明治大学法科を卒業する。卒業後は台湾総督府官吏となったが、風土病により短期間で辞職した。その後は、時事新報、東京毎日新聞の各記者を経て、東京市に入り、赤坂(1920年4月から1925年8月まで)、深川(1925年8月1日から1926年8月7日まで)の各区長を務めた。 1926年、青森市長に就任。在任中に東津軽郡滝内村と造道村の一部を編入。練兵場の移転と青森港の拡張問題には苦慮した。1930年に市長を退任。東京に戻り、碑衾町最後の町長(1931年10月17日から1932年9月30日まで)を務めた後に淀橋(1932年10月1日から1933年11月2日まで)、板橋(1933年11月から1934年6月まで)の各区長を務めた。
菊池 武徳(きくち たけのり、1867年8月22日(慶応3年… 菊池 武徳(きくち たけのり、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1946年(昭和21年)2月11日)は、ジャーナリスト、政治家。息子はジャズピアニストの菊池滋弥。 1887年(明治20年)4月に慶應義塾別科を卒業。ただちに『時事新報』の記者となり、1892年(明治25年)に『朝野新聞』に移りのちに社長。次いで雑誌『演芸画報』『新世紀』社長に就任し、自然主義派の小説家を排して村井弦斎の小説を掲載。1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙に青森県弘前市から出馬し、1915年(大正4年)まで、第10回総選挙を除き衆議院議員(4期)。 又新会の創立に参加し、代表幹事。のちに立憲政友会に移る。
石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(18… 石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(1863年9月13日) – 昭和13年(1938年)9月12日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 弘前に生まれ、東奥義塾を卒業した。1889年(明治22年)、弘前市会議員となり、1891年(明治24年)には中津軽郡会議員となった。1896年(明治29年)、青森県会議員に選出され、1903年(明治36年)には議長に就任した。1907年(明治40年)、県会議長に再選され、弘前市会議長も兼ねた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1期務めた。1913年(大正2年)、再び市会議員となり、さらに1918年(大正7年)・1922年(大正11年)・1934年(昭和9年)の3度、弘前市長に選出された。
松下 賢之進(まつした けんのしん、1860年(万延元年) … 松下 賢之進(まつした けんのしん、1860年(万延元年) - 1930年(昭和5年))は日本の政治家。青森県弘前市長。 陸奥国津軽郡弘前に工藤秀三郎の次男に生まれる。後に松下長右衛門家を再興するため松下姓となる。青森県巡査から警部に進み、青森警察署長、警察部保安、衛生、警察の各課長を歴任。1899年、静岡県に移り警察に勤務し、間もなく山梨県の警察に勤務する。その後、山梨県北巨摩郡長となり、後に帰郷し、中津軽、三戸、南津軽の各郡長を務める。1921年、北海道に渡り、網走町長となった。1926年、憲政会から推されて弘前市長に就任した。市長は1930年まで務めた。
竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年… 竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年3月21日) - 1929年(昭和4年)12月24日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、新聞経営者。衆議院議員(1期)。 弘前藩士・竹内多作の長男として弘前城下(現青森県弘前市)に生まれる。廃藩後、一家は南津軽郡浅瀬石村(現黒石市)へ移住する。ついで黒石町に住んだ。1877年(明治10年)召募巡査として西南戦争に参加し、その帰郷の際に政治家を志した。1886年(明治19年)黒石の政治結社益友会の常任書記に任じた。ほか、東津軽郡書記、戸長、山形村長、南津軽郡会議員、同参事会員などを歴任した。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では青森県郡部から出馬し当選。
伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9… 伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9月9日) - 1926年(大正15年)8月5日)は、日本の明治より大正期にかけての医師・政治家・思想家。現在の青森県出身で、青森県医師会会長や弘前市長、衆議院議員を歴任した。今東光の母方の伯父にあたる。 1857年(安政4年)旧暦9月9日の重陽節句の日に、現在の弘前市元長町において、津軽藩典医伊東家久・もと夫妻の次男として生まれる。幼名は滝次郎と称した。 1865年(慶応元年)、原子塾に入塾。後に黒滝学校に転じ、1868年(明治元年)藩校稽古館に入学。1871年(明治4年)藩命により英学修行を命じられ、英学塾(翌年東奥義塾と改名)に入塾。
芹川 得一(せりかわ とくいち、1857年(安政4年) - … 芹川 得一(せりかわ とくいち、1857年(安政4年) - 1923年(大正12年)2月)は日本の政治家。青森県青森市長。 陸奥国津軽郡弘前で津軽藩士芹川高正の家に生まれる。東奥義塾に入り、キリスト教に入信する。卒業後は同塾の教師となった。1889年、弘前市発足後の弘前市会議員選挙に出馬して当選する。2年後の1891年の府県制施行後の青森県会議員選挙に出馬して当選し、連続5期務める。この間、県参事員も務めた。 1904年1月に青森市長に就任。在任中に青森港の外国貿易特別輸出港の指定に尽力、それが実現した。また、1908年に青森を発着とする青函連絡船が就航した。さらに上水道整備に着手した。 市長は1908年まで務め、退任後は第五十九銀行頭取に就任した。
小山内 鉄弥(おさない てつや、嘉永6年7月3日(1853年… 小山内 鉄弥(おさない てつや、嘉永6年7月3日(1853年8月7日) – 明治44年(1911年)11月23日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 津軽藩士小山内連司の子として弘前に生まれる。1868年(慶応4年)2月、海岸警備のため平舘に派遣され、翌年には箱館戦争に参加し、旧幕府軍と戦った。1877年(明治10年)、警視局に出仕し、三等少警部心得、警部補、二等警部を歴任したが、ほどなくして辞職した。辞職後は郷里に帰り、北津軽郡相内村に協就社という牧場を開いた。 1884年(明治17年)、県会議員に当選し、1889年(明治22年)には議長に就任した。日清戦争の際には第1師団司令部に属して視察に赴き、実際に戦闘にも参加した。
4代 松木 彦右衛門(まつき ひこえもん、1851年(嘉永4… 4代 松木 彦右衛門(まつき ひこえもん、1851年(嘉永4年11月) - 1921年(大正10年)1月9日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 弘前城下松森町(弘前松森町を経て現弘前市松森町)で酒造業・松木家に生まれる。1867年(慶応3年)以降、弘前藩御用達となり、ついで松前商社頭取となった。1894年(明治27年)弘前両益銀行を創立し頭取に就任。1898年(明治31年)弘前銀行取締役を経て、のち第4代頭取となる。 そののち弘前電燈発起人筆頭を経て、1899年(明治32年)10月、青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年11月21日から務め、任期途中の1902年(明治35年)6月13日に辞職して、宮本甚兵衛にその職を譲った。
寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年… 寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年5月9日)- 1917年(大正6年)11月17日)は、明治期の教育者・政治家(立憲政友会所属)。勲四等。 弘前藩士の子。藩校「稽古館」で国学漢学を修めたのち、藩命により箱館でロシア正教会伝道者ニコライよりロシア語を学び、1869年(明治2年)には慶應義塾で政治学・法律学を修める。南部盛岡藩征討、箱館の乱、賊徒追討で軍功を挙げ藩主より金百を賜る。 その後、教育者として弘前英漢学校英学係、一等教授兼幹事、小学校教員、同校長を務める。また。政治家として土手町会議員、同学区会議員、郡町村連合会議員、同副議長、青森県会議員、同副議長、議長などを歴任。
本多 庸一(ほんだ よういつ、1849年1月7日(嘉永元年1… 本多 庸一(ほんだ よういつ、1849年1月7日(嘉永元年12月13日) - 1912年(明治45年)3月26日)は、日本のキリスト教伝道者・牧師・教育者・政治家。日本メソヂスト教会の初代監督。青森県弘前市生まれ。新島襄、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。 本多の先祖は、徳川家譜代の本多氏の流れを汲む。 弘前藩士、石高300石の本多八郎左衛門久元(1823年-1896年)と本多トモの長男として1848年(嘉永元年)に弘前城下在府町に生まれる。幼名を徳蔵と言った。祖父、東作久貞は藩の要職を歴任した人物であった。 1858年、10歳より弘前藩の藩校稽古館で漢書の素読、儒学を学んだ。
宮本 甚兵衛(みやもと じんべい、1848年(嘉永元年8月)… 宮本 甚兵衛(みやもと じんべい、1848年(嘉永元年8月) - 1932年(昭和7年)1月9日)は、明治から昭和時代初期の政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・小野。 小野七郎の長男として弘前城下桶屋町(弘前桶屋町を経て現弘前市桶屋町)に生まれ、のち先代宮本甚兵衛の養嗣子となる。幼少期は下学校に通い、13歳から17歳までは弘前東長町の丸金、荒関小間物店で見習奉公する。17歳の時独立し、弘前土手町に小間物店を開業。東京から品物を仕入れ、数年のうちに業績を大きく伸ばした。弘前市が発足すると第1回市会議員選挙に当選。ほか、中津軽郡町村連合会議員、弘前市参事会員、同市第4区会議員、同市所得税調査委員などを歴任した。
菊池 九郎(きくち くろう、1847年10月26日(弘化4年… 菊池 九郎(きくち くろう、1847年10月26日(弘化4年9月18日) - 1926年(大正15年)1月1日)は、日本の武士(弘前藩士)、教育者、官吏、政治家。東奥義塾創立者。新聞『東奥日報』創刊者。東津軽郡郡長、初代・第7代弘前市長、山形県知事、農商務省農務局長、衆議院全院委員長等を歴任。諱は武行。 「東奥の西郷隆盛」と言われ絶賛された。正五位勲四等旭日小綬章。 弘前藩(津軽藩士)・菊池新太郎の長男として弘前城下に生まれる。幼名は喜代太郎。 藩校・稽古館に学び、皇漢の学を修め、1864年(元治元年)より藩の勤務。藩校・稽古館で司監を務める。戊辰戦争に際して藩論が新政府支待に傾くと脱藩して庄内藩に向かう。
笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年… 笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年3月3日) - 大正4年(1915年)9月29日)は日本の探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代青森市長も務めている。 また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。 1845年(弘化2年)、陸奥国弘前在府町(現・青森県弘前市在府町)に、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれる。藩校稽古館(現・東奥義塾高等学校)で学んだ後、弘前藩・青森県に勤め、中津軽郡長も務めるなどしたが、1881年(明治14年)に辞職。
工藤 行幹(くどう ゆきもと、天保12年12月28日(184… 工藤 行幹(くどう ゆきもと、天保12年12月28日(1842年2月8日) – 明治37年(1904年)4月21日)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党)。 弘前藩士櫛引儀三郎(錯斎)の子として生まれ、幼名を峯次郎といった。19歳で同藩士工藤秀四郎の養子となり、姓名を改めた。戊辰戦争の際には、奥羽越列藩同盟のために奥羽諸藩を奔走したが、弘前藩が新政府軍に帰順すると、禁錮となった。しかしすぐに赦免され、参軍助役として秋田や水沢口で盛岡藩と戦い、盛岡に入城し、さらに箱館にも出陣した。 1869年(明治2年)、公議所書記に選ばれて上京。さらに民部省土木権少祐に任ぜられ、各地の河川の調査に赴き、土木権少祐、土木中属に昇進した。
対馬 嘉三郎(つしま かさぶろう、1836年12月14日(天… 対馬 嘉三郎(つしま かさぶろう、1836年12月14日(天保7年11月7日)- 1914年(大正3年)12月24日)は、幕末の弘前藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員(1期)、初代札幌区長。 陸奥国津軽郡弘前城下代官町(現弘前市)で弘前藩士・対馬利助の息子として生まれる。箱館戦争に従軍。弘前藩公用人を経て、明治4年7月(1871年)青森県に出仕。明治5年4月(1872年)開拓使に転じ十一等出仕となり、同年11月(12月)開拓中主典に昇進。会計整理、教育、衛生普及、商工業振興などを担当し、1878年7月に退官した。 その後、実業界に転じ、開拓使経営の醸造場の払下げを受けて酒造業を経営。また、元開拓使官吏・堀基らと共に札幌の商社の嚆矢である「大有社」を創設し、米穀雑貨輸入販売、海産物輸入業を営んだ。
岡田 華子 は、日本の政治家、弁護士。元衆議院議員(1期)。