大矢十四彦(おおや としひこ、 1940年- )は、新潟県長… 大矢十四彦(おおや としひこ、 1940年- )は、新潟県長岡市出身の日本画家。富貴蘭、芙蓉、花菖蒲、牡丹など花をモチーフとした作品を発表している。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術)。
新潟県 長岡市:209人
大矢十四彦(おおや としひこ、 1940年- )は、新潟県長… 大矢十四彦(おおや としひこ、 1940年- )は、新潟県長岡市出身の日本画家。富貴蘭、芙蓉、花菖蒲、牡丹など花をモチーフとした作品を発表している。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術)。
猪俣 博(いのまた ひろし、1938年12月4日 - )は、… 猪俣 博(いのまた ひろし、1938年12月4日 - )は、日本の技術者、実業家。日立メディコ代表取締役社長や、同社取締役会長、日本医療機器産業連合会副会長、日本画像医療システム工業会会長などを歴任した。 新潟県長岡市出身。1961年新潟大学工学部電気工学科卒業、日立製作所入社、那珂工場配属。1980年日立製作所那珂工場医用機器設計部長。1991年日立製作所那珂工場長。1995年日立製作所計測器事業部長。1997年日立製作所取締役計測器事業部長。1999年日立製作所上席常務取締役計測器グループ長&CEO。2001年日立メディコ代表取締役社長。2005年日立メディコ取締役会長。2006年日本画像医療システム工業会会長、日本医療機器産業連合会副会長。
井田 進也(いだ しんや、1938年 - 2016年11月2… 井田 進也(いだ しんや、1938年 - 2016年11月27日)は、日本の比較思想史研究家。大妻女子大学名誉教授。文学博士。新潟県長岡市生まれ、群馬県高崎市育ち。 『中江兆民全集』(岩波書店)の編集者の一人。福沢研究センター客員研究員。無署名論説認定方法を応用した『福澤諭吉全集』収録の「時事新報論説」執筆者再認定を実行している。 2016年12月27日死去。叙従四位、瑞宝小綬章追贈。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小林 達雄(こばやし たつお、1937年11月2日 - 20… 小林 達雄(こばやし たつお、1937年11月2日 - 2025年8月22日)は、日本の考古学者。國學院大學文学部名誉教授。新潟県立歴史博物館名誉館長。 1937年、新潟県長岡市生まれ。新潟県立長岡高等学校を卒業。その後、國學院大學文学部で学び、國學院大學大学院博士課程満期退学。 東京都教育庁文化課に入り、文化庁文化財調査官に転任。1978年に調査官を退任し、國學院大學文学部助教授に就いた。1985年に教授昇格。1994年、学位論文『縄文土器の研究』を國學院大學に提出して博士号を取得。2008年に國學院大學を定年退任し、名誉教授となった。2023年、アメリカ芸術科学アカデミーの会員に選出された。
溝上 恵(みぞうえ めぐみ、男性、1936年9月12日 - … 溝上 恵(みぞうえ めぐみ、男性、1936年9月12日 - 2010年1月4日)は、日本の地震学者。専門は地震計測。東京大学地震研究所教授を経て、同大学名誉教授。地震防災対策強化地域判定会会長・地震予知連絡会委員・中央防災会議委員などを歴任。新潟県長岡市出身。 微小地震の研究で知られ、地震予知の対象をプレスリップ(前兆すべり)に限定するなど前兆分析の分野で大きく貢献した。
大矢 紀(おおや のり、1936年2月11日 - )は、日本… 大矢 紀(おおや のり、1936年2月11日 - )は、日本画家。「生命の胎動」をテーマに、山、樹木、花鳥静物を描く。雪山や火山など壮大な自然、山岳風景また花を得意とする、日本画家である。 日本橋三越本店を始め、個展、グループ展多数。現在日本美術院評議員、NHK文化センター講師、川崎市文化財団理事、長岡市名誉市民、川崎市市民文化大使、五泉市観光大使。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
浅井 信雄(あさい のぶお、1935年6月23日 - 201… 浅井 信雄(あさい のぶお、1935年6月23日 - 2015年3月6日)は、日本の国際ジャーナリスト。三桂所属。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡高等学校、東京外国語大学インド・パーキスターン語学科卒。 1958年読売新聞社入社。海外特派員としてジャカルタ、ニューデリー、カイロ各特派員を経て、1978年から1981年までワシントン支局長。1981年に読売新聞社を退社。 その後はジョージタウン大学研究員、野村総合研究所在米コンサルタント、1983年に東京大学、東京外国語大学各講師、三菱総合研究所研究員、財団法人中東調査会理事を歴任。 1987年から1998年まで、神戸市外国語大学国際関係学科教授(国際政治学)。
阿刀田 高(あとうだ たかし、1935年1月13日 -)は、… 阿刀田 高(あとうだ たかし、1935年1月13日 -)は、日本の小説家。「奇妙な味」の短編で知られる。1993年から1997年まで日本推理作家協会会長、2007年から2011年まで日本ペンクラブ会長を務めた。文化功労者。山梨県立図書館名誉館長。 国会図書館司書を経て、『冷蔵庫より愛をこめて』(1978年)で作家に。『ナポレオン狂』(1979年)で直木賞を受賞。ブラックユーモアやミステリーを盛り込んだ短編の名手。ほかに『佐保姫伝説』(2009年)、『闇彦』(2010年)など。 東京生まれ。一人の兄と三人の姉の下で双子の兄として生まれるが、弟は1歳になる前に早世。両親は共に宮城県仙台市の出身だった。
杵渕 衛(きねふち まもる、1933年〈昭和8年〉9月25日… 杵渕 衛(きねふち まもる、1933年〈昭和8年〉9月25日 - 2020年〈令和2年〉1月18日)は、日本の政治家。元新潟県栃尾市(現・長岡市)長(4期)。 新潟県古志郡栃尾町(のち栃尾市を経て、長岡市)出身。新潟県立栃尾高等学校卒。1963年、栃尾市議会議員に初当選し、6期務め、副議長、議長を務める。1986年、栃尾市長に当選し、4期務める。2002年に落選した。
川口 敦子(かわぐち あつこ、1933年9月17日 - )は… 川口 敦子(かわぐち あつこ、1933年9月17日 - )は、日本の女優。本名、横森 敦子。 新潟県長岡市出身。青山学院女子短期大学卒業。劇団俳優座所属。 身長164cm、体重48kg、おとめ座。夫は俳優の横森久。 1954年、青学短大卒業後に俳優座養成所に入団。養成所時代『町人貴族』で初舞台。 俳優座養成所に6期生として入所する。同期には近藤洋介、宮部昭夫、大山のぶ代、阿部百合子、阿部六郎、佐伯赫哉、山本清がいた。1957年に劇団俳優座に入団後は、『ハムレット』、『小市民』、『幽霊はここにいる』などの舞台に出演。 映画では、『からみ合い』(1962年)、『悪党』(1965年)、『竹山ひとり旅』(1977年)などに出演。
山本 迪夫(やまもと みちお、1933年7月6日 - 200… 山本 迪夫(やまもと みちお、1933年7月6日 - 2004年8月23日)は、日本の映画監督。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡高等学校を経て早稲田大学卒業後、1956年に東宝に入社。岡本喜八の助監督を多く務め、1966年に『遊撃戦』でテレビドラマ監督としてデビュー。1969年には三橋達也主演のアクション映画『野獣の復活』で劇場用映画を初監督する。女性スリラー映画を得意とした。 代表作は、『幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形』(1970年)、『呪いの館 血を吸う眼』(1971年)、『血を吸う薔薇』(1974年)の3本からなる血を吸うシリーズ。日本の風土に吸血鬼ならびにヨーロッパのゴシック的ムードを大胆に導入し、さらに演出もハマー・フィルムを思わせるショッカー演出で、日本のホラー映画史でもひときわ異彩を放つものになっている。
大井 邦雄(おおい くにお、1933年3月19日 - 202… 大井 邦雄(おおい くにお、1933年3月19日 - 2020年1月20日)は、日本の英文学者、早稲田大学名誉教授。位階は正五位。 新潟県長岡市生まれ。1954年新潟県立長岡高等学校卒、1959年早大文学部英文科卒、1964年同大学院博士課程満期退学。早稲田大学文学部助教授を経て教授。2003年定年、名誉教授。2014年、瑞宝中綬章受章。正五位。 シェイクスピア、エリザベス朝演劇が専門。 2020年1月20日死去。86歳没。没後に正五位に追叙された。
平原 春好(ひらはら はるよし、1933年 - )は、日本の… 平原 春好(ひらはら はるよし、1933年 - )は、日本の教育学者。教育学博士(論文博士・1967年)(「「帝国憲法」下における教育行政原則の成立と批判の研究」)。神戸大学名誉教授。 長岡市生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。1967年、「「帝国憲法」下における教育行政原則の成立と批判の研究」で、教育学博士の学位を取得。 東京大学助手、神戸大学助教授を経て、教授。1996年、定年退官、名誉教授、工学院大学教授。のち帝京大学教授、2003年に退職。ハーバード大学共同研究員。日本教育法学会会長(1995-1997年、1999-2001年)。
真島 一男(眞嶋 一男、まじま かずお、1932年(昭和7年… 真島 一男(眞嶋 一男、まじま かずお、1932年(昭和7年)10月28日 - 2001年(平成13年)11月22日)は、日本の政治家、官僚。位階は従四位勲二等、勲章は瑞宝章。参議院議員(通算3期)、通商産業政務次官、建設省大臣官房総務審議官、都市局長を歴任。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡工業高等学校卒業。中央大学法学部卒業後、一橋大学大学院法学研究科の田上穰治ゼミで学ぶ。旧司法試験合格。大学院修了後、1960年、建設省に入省。経済企画庁総合計画局計画官、近畿地方建設局総務部長、道路局路政課長、道路局道路総務課長、大臣官房文書課長、大臣官房審議官、都市局長、大臣官房総務審議官などを歴任。1990年、国際花と緑の博覧会の大会実行委員長を務めた。
近藤 秀樹(こんどう ひでき、1932年(昭和7年)4月16… 近藤 秀樹(こんどう ひでき、1932年(昭和7年)4月16日 - 1983年(昭和58年)10月16日)は、日本の歴史学者。新潟大学教授。専攻は中国近代史。 1932年、新潟県長岡市生まれ、または村松町(現・五泉市)生まれ。新潟県立長岡高等学校を経て、京都大学文学部史学科で東洋史を専攻して卒業。同大学院文学研究科修士課程、博士課程を修了。 卒業後はクラレチアン会立の高校教諭、大阪工業大学一般教育科の社会思想史担当を経て、1978年より新潟大学で中国史を教える。「范氏義荘の変遷」(『東洋史研究』21巻4号、1963年)は義荘研究の必読文献である。
起雲山 世志介(きうんざん よしすけ、1932年1月2日 -… 起雲山 世志介(きうんざん よしすけ、1932年1月2日 - 1977年6月8日)は、新潟県古志郡宮内町(現・同県長岡市宮内町)出身で追手風部屋に所属した大相撲力士。本名は小川 美輔(おがわ よしすけ)。最高位は東前頭19枚目(1957年1月場所)。現役当時の体格は180cm、81kg。得意手は左四つ、吊り、上手投げなど。 19歳の時、元大関・清水川が率いる追手風部屋へ入門し、1951年5月場所で初土俵。 同場所では番付外と新序でともに好成績を残したため、次の場所では序ノ口を飛び越して、いきなり序二段に付いた。なお、当初より四股名は、「起雲山」であった。 以来順調に番付を上げ、1955年1月場所で十両昇進、1956年3月場所で新入幕を果たした。
多田 雄幸(ただ ゆうこう、1930年4月10日 - 199… 多田 雄幸(ただ ゆうこう、1930年4月10日 - 1991年3月8日〈60歳没〉)は、日本のヨットマン。新潟県出身。 史上初の世界一周単独ヨットレース「アラウンド・アローン(BOCレース(英語版))」クラスIIの優勝者。 1930年、新潟県長岡市生まれ。 新潟県立長岡中学校時代、グライダー部に所属、3級滑空士の資格を得た。3年生のとき、志願して予科練に入るが、戦争は末期、飛行機も壊滅状態で飛行訓練もできなかった。戦後、解体中の焼夷弾の不発弾が爆発し、右手などを負傷。 旧制新潟高等学校に入学。絵画や陶器に親しむ。卒業後、実家の商売を手伝い、衣類の行商を行う。 上京し、世田谷交通のタクシー運転手を経て、個人タクシー運転手となる。
大橋 和夫(おおはし かずお、1928年(昭和3年)8月3日… 大橋 和夫(おおはし かずお、1928年(昭和3年)8月3日 - 2005年(平成17年)10月25日)は、日本の政治家。千葉県船橋市長。 新潟県長岡市出身。表町小学校、旧制長岡中学校、旧制新潟高等学校を経て、東京大学法学部卒業後、自治庁に入庁。外事広報課長、地方課長、衆議院議長秘書官、埼玉県財政課長等を歴任、1968年4月、千葉県へ赴任。企画部長を経て、1971年7月には千葉県教育長に就任、県立高校7校を新設開校したのをはじめ、若潮国体の開催、千葉県立美術館の開館等に尽力。後に川上紀一と千葉県知事の座を巡って争うが、知事選挙において川上に敗れる。 習志野文化ホール理事長を歴任後、1981年7月、公選制第6代の船橋市長に就任した。
大関 松三郎(おおぜき まつさぶろう、1926年9月7日 -… 大関 松三郎(おおぜき まつさぶろう、1926年9月7日 - 1944年12月19日)は、日本の詩人。新潟県出身。 1926年(大正15年)9月7日、古志郡黒条村下下条(現・長岡市下々条)に小作農・大関仁平次の三男(7人兄弟)として生まれた。古志郡黒条村黒条尋常高等小学校(現・長岡市立黒条小学校)在学中に、生活綴方運動に参加していた恩師・寒川道夫と出会い、生活詩の指導を受けた。小学校卒業直前に浄書・装幀し、詩集として纏めた。 黒条尋常高等小学校卒業後、1941年(昭和16年)に新潟鉄道教習所に入学。教習所卒業後は、機関助手として勤務した。その後、軍属を志し1943年(昭和18年)に山口県防府市に新設された海軍通信学校へ入学。
吉村 午良(よしむら ごろう、1926年(大正15年)2月1… 吉村 午良(よしむら ごろう、1926年(大正15年)2月13日 - 2007年(平成19年)5月7日)は日本の政治家・官僚。元長野県知事(在職期間:1980年(昭和55年) - 2000年(平成12年))。旧名は吾朗であり、改名は姓名判断に凝っている夫人の勧めで行われた。 新潟県長岡市生まれ。長野市立鍋屋田尋常小学校(現:長野市立鍋屋田小学校)、旧制長野中学校(現:長野県長野高等学校)、東京大学法学部を卒業後、自治省(現:総務省)へ入省。1948年(昭和23年)に長野県厚生課に出向し、児童課、林政課、振興課、厚生課の各課長を経て、1957年(同32年)宮城県庁に転じ、1961年(同36年)自治省会計課長補佐、1962年(同37年)総理府統計局経済課長となり、1965年(同40年)自治大臣官房調査官から、長野県総務部長に再出向した。
高鳥 正夫(たかとり まさお、大正11年(1922年)11月… 高鳥 正夫(たかとり まさお、大正11年(1922年)11月3日 - 平成11年(1999年)12月31日)は、日本の法律学者。短期大学基準協会会長、東横学園女子短期大学学長等を歴任。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 新潟県長岡市生まれ。 昭和22年(1947年)に慶應義塾大学法学部法律学科卒業後、助手、助教授を経て、1957年(昭和32年)から1986年(昭和61年)まで教授。専攻は商法だが、証券取引法及び経済法など研究業績の幅が広い。津田利治が創設した慶應義塾大学商法研究会を継承した。 法務省法制審議会商法部会委員、大蔵省公認会計士審査会委員、大蔵省企業会計審議会委員などを歴任し、昭和57年まで慶應義塾図書館長、慶應義塾研究・教育情報研究センターの立ち上げを主導した。
谷崎 義衛(たにざき よしえ、1922年4月16日 - 20… 谷崎 義衛(たにざき よしえ、1922年4月16日 - 2023年7月16日)は、日本の物理化学者。工学博士。東京工業大学、長岡技術科学大学名誉教授。新潟県長岡市出身。 延伸高分子膜法による偏光吸収スペクトルの測定技術の確立およびその結果の理論的解析のパイオニア。 主な著書に化学の話シリーズ4「気体の話」など。 1950年、東京工業大学理学部化学科卒業。 1959年、東京工業大学助手。 1961年、東京工業大学工学博士。 1963年、東京工業大学助教授。 1969年、東京工業大学教授。 1978年、長岡技術科学大学教授。 1988年、長岡技術科学大学名誉教授。 1991年、東京工業大学名誉教授。
嘉瀬 誠次(かせ せいじ、1922年〈大正11年〉3月13日… 嘉瀬 誠次(かせ せいじ、1922年〈大正11年〉3月13日 - 2023年〈令和5年〉12月14日は、日本の花火師。 戦時中途絶えていた長岡大花火大会の復興に尽力し、また海外活動を積極的に行った。第50回吉川英治文化賞受賞など。 現・新潟県長岡市に生まれる。父・嘉瀬誠喜、祖父・亀吉も花火製造に携わっており、煙火業として三代目にあたる(亀吉は農業との兼業)。 1943年 (昭和18年) 4月10日、新発田歩兵第158連隊に入隊。同連隊は第42師団に編入され 、翌1944年 (昭和19年) 3月3日に松輪島上陸、同島防衛の任に就く。 終戦後、シベリア抑留を経て1948年 (昭和23年) 復員。
宗田 一(そうだ はじめ、1921年3月1日 - 1996年… 宗田 一(そうだ はじめ、1921年3月1日 - 1996年7月7日)は、新潟県寺泊(現長岡市)出身の医史学者。 1941年(旧制)官立金沢医科大学薬学専門部(現在の金沢大学医薬保健学域薬学類)を卒業。薬学史、医史学の硏究。日本医史学会常任理事、野間科学医学研究資料館理事。 国際日本文化研究センター所蔵の宗田文庫は、宗田一が収集した、医学史・薬学史に関する書籍、図版資料などを中心とする日本医療文化史の資料コレクションで、目録が作成されており、国際日本文化研究センターサイトでも検索できる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鳴海 四郎(なるみ しろう、1917年9月3日 - 2004… 鳴海 四郎(なるみ しろう、1917年9月3日 - 2004年10月7日)は、日本の英文学者、英米演劇研究家、翻訳家。本名は鳴海 弘。 テネシー・ウィリアムズ、エドワード・オールビー、ニール・サイモンの戯曲やアガサ・クリスティなどの小説を翻訳した。文学座座友。 1919年新潟県長岡市に、1922年に東京市に移り関東大震災に遭う。東京府立第五中学校、東京商科大学予科を経て、1940年に東京商科大学(現・一橋大学)卒業。会社員となるがアマチュア演劇団体に所属。 1944年弘前市歩兵連隊に応召。敗戦後、田舎にこもる。1949年帰京。1951年慶應義塾高校教諭、コロンビア大学に留学。1952年帰国、文学座の文芸演出部員となる。
本間 正義(ほんま まさよし、1916年12月25日 - 2… 本間 正義(ほんま まさよし、1916年12月25日 - 2001年10月10日)は、日本の美術評論家。 新潟県長岡市出身。旧制長岡中学、旧制二高、東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。東京国立近代美術館次長を経て、1975年(昭和50年)大阪国立国際美術館長、1982年(昭和57年)埼玉県立近代美術館長。 サンパウロビエンナーレ、現代日本美術展など、国内外の主要美術展の審査員としても活躍した。専門の近代彫刻のほか、美術館運営や企画、国際展の審査などで活躍。ユニークな展覧会を企画する名物館長として知られた。美術評論家連盟会長。オーボエ奏者で古楽研究者であった本間正史(1947-2016)は子息。
宮 栄二(みや えいじ、1916年8月26日 - 1986年… 宮 栄二(みや えいじ、1916年8月26日 - 1986年11月27日)は、新潟県の地方史研究者。 新潟県長岡市出身。1939年東京帝国大学文学部国史学科卒。内務省、北方文化博物館、新潟県教育長などをへて、新潟大学講師。県文化財保護審議委員、良寛会常任委員長。
長田 正松(おさだ しょうまつ、1915年〈大正4年〉5月1… 長田 正松(おさだ しょうまつ、1915年〈大正4年〉5月1日 - 2003年〈平成15年〉12月25日)は、日本の実業家。有限会社つかれ酢本舗創業者。政治運動家。 以下は総て自費出版である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
近衛 十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 -… 近衛 十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 - 1977年5月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した時代劇俳優。数多くの時代劇ファンを魅了する殺陣は「日本映画史上最も殺陣の上手い役者」「古今東西ナンバー1」と評される。本名、目黒 寅彦(出生名は寅一、のち改名)。新潟県長岡市出身。 新潟県長岡市西新町で、父・目黒多七、母・ミカの長男として生まれる(姉と妹に挟まれた長男だが、実の長男は早世しており正確には次男)。13歳で父を亡くし、その後は母によって育てられる。 長岡工業学校卒業後、映画俳優を目指し、1932年市川右太衛門プロダクションに研究生として入団する。最初の芸名は長岡秀樹だった。
高橋 静之助(たかはし せいのすけ、1911年6月19日 -… 高橋 静之助(たかはし せいのすけ、1911年6月19日 - 1991年6月26日 )は、日本の経営者。北越銀行頭取を務めた。 新潟県長岡市出身。1932年に名古屋高等商業学校を卒業し、1933年4月に六十九銀行(のちの北越銀行)に入行。1963年5月に取締役に就任し、1965年11月に常務、1970年11月に専務を経て、1972年11月には頭取に就任。1977年6月から1981年6月までに取締役相談役を務めた。長岡商工会議所会頭、長岡市教育委員長なども歴任。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1991年6月26日、心不全のために死去。80歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
大野 市郎(おおの いちろう、1910年(明治43年)11月… 大野 市郎(おおの いちろう、1910年(明治43年)11月25日 - 1988年(昭和63年)2月9日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(7期)。 新潟県長岡市で大野屋旅館主・大野甚松の孫として生まれた。新潟県立長岡中学校[要出典]を経て1932年(昭和7年)兵庫県立神戸高等商業学校卒業。箱根富士屋ホテルに勤めた。 1936年(昭和11年)静岡県熱海市でホテル大野屋を開業した。1940年(昭和15年)父から大野屋本店社長を継承した。熱海市会議員を務め、1950年(昭和25)熱海商工会議所会頭に就任した。日本温泉協会会長などの役職も務めた[要出典]。 佐藤栄作の秘書を経て1952年(昭和27年)自由党から第25回衆議院議員総選挙に旧新潟3区から出馬して初当選。
小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日… 小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日 - 1997年(平成9年)8月6日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県三島郡寺泊町(現・長岡市)に生まれる。1928年(昭和3年)北海中学校卒業。1935年(昭和10年)中央大学法学部卒業。 中央大学卒業後、東京倉庫運輸株式会社入社。その後、幹部候補生の教育を受けて、陸軍主計大尉として終戦を迎えた。 第二次世界大戦敗戦のショックを経て「これからは余生だ」「人の役に立ちたい」と立候補を決意。1946年(昭和21年)平野力三の自宅を訪れ政治への熱意を語るが、当時新潟には戦前からの有力社会党派閥が既存しており、実績のない小林の入党は断わられる。
野中 到(のなか いたる、1910年2月1日 - 1989年… 野中 到(のなか いたる、1910年2月1日 - 1989年7月22日)は、日本の原子物理学者で、東京大学の原子核研究所長も務めた。 新潟県長岡市出身。1933年東京帝国大学理学部物理学科卒業。1944年「速い中性子の散乱について(英文)」で東大理学博士。東芝電気中央研究所、1950年九州大学理学部助教授、教授、1961年東京大学教授兼原子核研究所長。1971年定年退官、名誉教授、千葉大学教授。1975年定年退官。原子核やX線の研究をした。1982年勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
近藤 敬四郎(こんどう けいしろう、1910年 <明治43年… 近藤 敬四郎(こんどう けいしろう、1910年 <明治43年> 1月2日 - 1991年 <平成3年> 4月2日)は、日本の経営者、銀行家。新潟県長岡市出身。位階は従五位。 1936年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に六十九銀行(のちの北越銀行)に入行。 1965年11月に取締役に就任し、1968年12月に常務、1972年11月に専務を経て、1977年6月には頭取に就任。1981年6月には相談役に就任。 1982年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1991年4月2日心不全のために死去。81歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
伊東 多三郎(いとう たさぶろう、1909年2月10日 - … 伊東 多三郎(いとう たさぶろう、1909年2月10日 - 1984年10月29日)は、日本史学者、東京大学名誉教授。専門は日本近世史。研究分野は、近世の文化史・社会史から政治史に、そして経済史にまで及ぶ広範囲なものであった。この他、自治体史編纂にも積極的に取り組み、『水戸市史』『小千谷市史』『新潟県史』の編纂に関わった。 新潟県古志郡富曽亀村亀貝(のち長岡市亀貝町)に伊東三次郎の長男として生まれた。1921年旧制長岡中学入学、1925年旧制新潟高等学校文科乙類入学、1928年卒業。1931年東京帝国大学文学部国史科卒業、大倉精神文化研究所の嘱託となる。翌1932年に卒業論文『国学の史的考察』(大岡山書店、1932年)を刊行し、東京帝国大学文学部史料編纂所嘱託。
星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 199… 星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 1998年12月17日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。 新潟県長岡市生まれ。旧制新潟県立長岡中学校、旧制新潟高等学校を経て、1932年東京帝国大学文学部独逸文学科卒業。旧制成城高等学校教授、埼玉大学文学部教授、東京教育大学教授。1961年「ライナー・マリア・リルケの伝記的研究」により東京大学文学博士。1971年頃教育大を定年後、南山大学教授を務め、1991年長岡市史編集委員長。1998年、89歳で没。1999年、星野の蔵書が長岡市立中央図書館に寄贈され、星野慎一文庫と名付けられた。 リルケなどドイツの詩を翻訳研究するほか、短歌、俳句にも関心が深かった。
小林 孝平(こばやし こうへい、1908年(明治41年)7月… 小林 孝平(こばやし こうへい、1908年(明治41年)7月15日 - 1991年(平成3年)4月13日)は、日本の政治家、官僚。参議院議員(2期)、長岡市長(5期18年)。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校、旧制第四高等学校を経て、東京帝国大学農学部卒業。農林省官僚となるが、同省の先輩に当たる和田博雄の勧めにより辞職。1950年6月に行われた第2回参議院議員通常選挙に全国区から日本社会党公認で立候補し初当選を果たした。議員在職中は安保条約やベトナム賠償問題などで、政府の姿勢を厳しく質したことから「マムシの孝平」と渾名される。1956年、再選。 その後社会党を離党し、革新系無所属として1961年の新潟県知事選挙に挑み落選(当選は自民党推薦の塚田十一郎)。
関 守三郎(せき もりさぶろう、1908年(明治41年)7月… 関 守三郎(せき もりさぶろう、1908年(明治41年)7月 - 1990年(平成2年)8月7日)は、日本の外交官。外務省経済局長、駐スペイン特命全権大使、駐メキシコ特命全権大使、アジア生産性機構事務総長、外務省顧問。 新潟県長岡市出身。1926年第四高等学校理科乙類入学許可取消。1929年東京商科大学(現一橋大学)予科修了。1932年同大学本科卒業。山岳部出身。 在英国大使館外務書記生、在ドイツ大使館外交官補、外務省通商局事務官、在中華民国大使館三等書記官、上海領事兼支那派遣軍渉外審判所検察官、徐州総領事等を経て、1945年中華民国三級同光勲章受章。同年外務省政務局第三課長。1946年終戦連絡中央事務局第二部第二課長。
矢島 悦太郎(やじま えつたろう、1906年3月6日 - 2… 矢島 悦太郎(やじま えつたろう、1906年3月6日 - 2001年2月22日)は、日本の社会政策学者。中央大学名誉教授。中央大学経済学部長や、社会政策学会代表幹事を務めた。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)を経て、1931年東京商科大学(現一橋大学)学部卒業。井藤半彌ゼミ出身。1958年から1960年まで第5期社会政策学会代表幹事。1963年から1967年まで中央大学経済学部長。1970年から1972年まで第11期社会政策学会代表幹事。中央大学バドミントン部部長なども務めた。中央大学定年後、1986年まで亜細亜大学教授。2001年2月22日、急性肺炎のため死去。
佐藤 保三郎(さとう やすさぶろう、1906年2月28日 -… 佐藤 保三郎(さとう やすさぶろう、1906年2月28日 - 1998年8月6日)は、日本の経営者。キリンビール社長、会長を務めた。新潟県長岡市出身。 1926年に福島高等商業学校を卒業し、明治屋での勤務を経て、1927年にキリンビールに入社した。1965年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1973年に社長に就任した。1978年に会長に就任し、1981年から相談役を務めた。 1978年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1998年8月6日肺炎のために死去。92歳没。
今泉省三(いまいずみ せいぞう、1905年10月4日 - 1… 今泉省三(いまいずみ せいぞう、1905年10月4日 - 1978年12月14日)は、日本の歴史家。 新潟県長岡市生まれ。1929年、明治大学政治経済科専門部卒業。長岡市役所に勤務し、厚生課長、秘書課長等を務める傍ら、長岡地方の郷土史研究を行い、『長岡の歴史』の執筆や資料集『越佐叢書』の編纂を行う。1955年には長岡市立互尊文庫館長となり、1965年退職。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 19… 熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 1992年11月11日)は、昭和・平成期の医師、薬理学者。 東京大学医学部教授。東京大学医学部長。日本医師会副会長。日本医学界会長。東京大学薬学科薬品作用学教室の初代教授。医学界や薬理学界の多くの人材を育てた。旧姓 瀬水。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校卒。旧制新潟高校卒業。1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部医学科卒業。1943年(昭和18年)薬理学教室講師のままジャカルタに赴任し、日本占領下のオランダ領東インド・ジャカルタの医科大学(ジャワ高等医学校)で医学の教授にあたる。1946年(昭和21年)復員、同年から1957年(昭和32年)まで東京大学医学部薬学科薬品作用学教室の初代教授を兼任。
駒形 作次(こまがた さくじ、1904年2月6日 - 197… 駒形 作次(こまがた さくじ、1904年2月6日 - 1970年7月11日)は、昭和の電気工学研究者、半導体研究者。原子力研究者。 逓信省電気試験所所長。通商産業省工業技術院長。日本原子力研究所理事長。原子力委員。三菱原子力工業顧問。 界面動電現象や東北帝国大学渡辺寧とともに日本で最初に半導体(トランジスタ)の研究を行いその後、原子力開発に携わった。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校卒業(旧制)。旧制新潟高校卒業。東京帝国大学電気工学科卒。1937年(昭和12年)工学博士。 1927年(昭和2年)逓信省電気試験所に入所。1952年(昭和27年)通商産業省工業技術院長となる。1948年アメリカのベル研究所でショックレー、ブラッタン、バーディーンによって半導体であるゲルマニウムを用いたトランジスタが発明され、GHQからもたらされたトランジスタの論文を翻訳し「トランジスタ勉強会」を発足させる。
大藤 時彦(おおとう ときひこ、1902年7月16日 - 1… 大藤 時彦(おおとう ときひこ、1902年7月16日 - 1990年5月18日)は、日本の民俗学者。 1902年、山口県生まれ。新潟県古志郡長岡町(現・長岡市)育ち。 早稲田大学文学部を中退。柳田國男に師事し、日本民俗学会を設立し、代表も務めた。大橋図書館に司書として勤務したほか、成城大学教授として教鞭をとり、1973年定年退職し、名誉教授となった。
堀 豁(ほり とおる、1902年2月20日 - 1996年1… 堀 豁(ほり とおる、1902年2月20日 - 1996年1月10日)は、日本の経営者。新潟県長岡市出身。 1925年に九州帝国大学工学部電気科を卒業し、同年に北越水力電気に入社。1942年に東北配電(のちの東北電力)に転じ、1946年9月に常務に就任し、1949年11月に副社長を経て、1960年5月に社長に就任し、1962年12月までに務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1972年に勲二等瑞宝章を受章。 1996年1月10日老衰のために死去。93歳没。
布川 角左衛門(ぬのかわ かくざえもん、1901年10月13… 布川 角左衛門(ぬのかわ かくざえもん、1901年10月13日 - 1996年1月29日)は日本の編集者、実業家。栗田出版販売会長、筑摩書房代表取締役、普連土学園理事長。 新潟県長岡市生まれ。父母の離婚後、父に引き取られ、小学校1年から静岡県沼津市にて義母に育てられる。 旧制沼津中学校(静岡県立沼津東高等学校)を経て法政大学文学部哲学科に進み、野上豊一郎や安倍能成に師事する。 1928年、岩波書店編集部に入社し、岩波文庫、岩波全書などの編集にあたる。1945年、終戦後、東京拘置所から三木清の遺体を東畑精一と引き取り、荷車を借りて東畑邸まで運ぶ。1956年、編集部長を最後に55歳で定年退職した後、63歳で栗田出版販売の社長に就任。
柏山 大五郎(かしわやま だいごろう、1901年4月12日 … 柏山 大五郎(かしわやま だいごろう、1901年4月12日 - 1979年1月20日)は、新潟県古志郡(現在の長岡市)出身で山科部屋に所属した大相撲力士。本名は青柳 政一。身長174cm、体重86kg。関脇まで昇進したが、現役引退後は廃業してしまった。 最盛期でも86キログラムという軽量だったので、最初は新弟子検査にも通らなかったが、増量して合格、山科部屋から1917年1月場所に初土俵を踏んだ。昇進は順調で、1921年5月場所には新十両、1922年5月に入幕した。出足を利用しての吊り技が得意であった。新入幕の場所に7勝2敗1預と健闘し、幕内上位に進出。新小結となった1924年5月場所には、横綱西ノ海と預りの熱戦を含め7勝3敗1預の好成績をあげ、翌1925年1月場所には関脇に昇進した。
駒形 十吉(こまがた じゅうきち、1901年(明治34年)2… 駒形 十吉(こまがた じゅうきち、1901年(明治34年)2月4日 - 1999年(平成11年)2月7日)は、日本の実業家。大光相互銀行社長、新潟総合テレビ(現・NST新潟総合テレビ)社長、新潟日報社監査役。新潟県長岡市出身。 長岡の米穀・味噌醤油醸造を営んでいた駒形宇多七の三男(11人兄弟の10番目)として生まれる。新潟県立長岡中学校卒業後、旧制新潟高等学校に進むが中退。大阪の株式取引商で実務経験を積んだ。 1922年(大正11年)父の死去に伴い、帰郷し家業に従事する。1928年(昭和3年)に北陸産業無尽の設立に参画し支配人、1941年(昭和16年)に社長となる。翌1942年(昭和17年)3月には国民無尽商会と合併し、大光無尽に商号を変更し、1951年(昭和26年)に大光相互銀行に改組した。
渡辺 俊雄(渡邊 俊雄、わたなべ としお、1899年(明治3… 渡辺 俊雄(渡邊 俊雄、わたなべ としお、1899年(明治32年)9月9日 - 没年不明)は、日本の実業家。渡邊工業社長。名古屋螺子製作所(現:メイラ株式会社)創業者。息子は作曲家の渡辺宙明。孫は、映画・ドラマ・アニメ等の音楽やさだまさしのアレンジャーとして知られる渡辺俊幸。曽孫(俊幸の娘)は芸術家アイドルとして活動するマコ・プリンシパル(渡辺真子)。 新潟県長岡市出身。旧家・渡邊毅夫の長男として生まれる。父・毅夫は教育界で活躍し、女学校校長や渡邊工業取締役を務めた。 長岡中学を卒業後、九州の明治専門学校機械科に入学。1923年(大正12年)首席で同校を卒業後、豊国セメント株式会社に入社し、名古屋工場に勤務する。
西川 弥平治(彌平治、さいかわ やへいじ、1898年〈明治3… 西川 弥平治(彌平治、さいかわ やへいじ、1898年〈明治31年〉12月18日 - 1958年〈昭和33年〉12月16日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、新潟県議会議長。旧姓は中林。 新潟県北魚沼郡川口村(川口町を経て現長岡市)で、素封家・中林茂吉、ヒデの四男として生まれた。1916年(大正5年)3月、新潟県立工業学校(現新潟県立長岡工業高等学校)機械科を卒業した。 1916年、新潟鐵工所柏崎工場に入社。1921年(大正10年)刈羽郡枇杷島村(柏崎町枇杷島を経て現柏崎市枇杷島)の西川藤助に強く望まれて西川商店鉄工部に入った。1923年(大正12年)藤助の父・西川善之助の養子となる。