八木 治郎(やぎ じろう、1925年〈大正14年〉4月20日… 八木 治郎(やぎ じろう、1925年〈大正14年〉4月20日 - 1983年〈昭和58年〉4月18日)は、日本のアナウンサー、テレビ番組司会者。元NHKアナウンサーを経てフリー。 東京生まれ。幼・少年期を現在の千葉県香取市で過ごした。旧制千葉県立佐原中学校(現在の千葉県立佐原高等学校)から陸軍士官学校予科→陸軍航空士官学校を経て1949年、東京大学文学部中国文学科卒業。 同年NHK(日本放送協会)に入局。同期入局には小川宏、大塚利兵衛、福島幸雄、穂坂俊明らがいる。熊本、長崎勤務を経て、1953年にラジオの『音楽夢くらべ』で本格的にアナウンサーを開始。報道・芸能・社会番組などを担当。人気クイズ番組『私の秘密』では高橋圭三がNHKを退局しフリーになってからは、後任として1962年から4年間司会を務めた。
本田 寿賀(ほんだ すが、結婚後の姓は陸奥(むつ)、1925… 本田 寿賀(ほんだ すが、結婚後の姓は陸奥(むつ)、1925年(大正14年)1月28日 - 1985年(昭和60年)6月12日)は、元NHKアナウンサー。 千葉県君津郡生まれ。日本女子大学卒業。1946年、NHKに一般職員として入社後、同年戦後初のアナウンサー試験に合格、17期アナウンサーとなる。同期は野村泰治、のちに橋本登美三郎夫人となった後藤美也など。1953年1月2日放送の『第3回NHK紅白歌合戦』では、朗読の実績を買われて紅組司会に起用された。『NHK紅白歌合戦』でNHKアナウンサーが紅組司会を務めるのは本田が初めてだった。1956年7月から1961年8月まで大阪中央放送局勤務を経て再び東京勤務に戻る。
鈴木 文彌(すずき ぶんや、1925年1月4日 - 2013… 鈴木 文彌(すずき ぶんや、1925年1月4日 - 2013年1月20日)は、日本のフリーアナウンサー、スポーツ評論家。「鈴木文弥」と新字体による表記が用いられる場合もある。 東京府(現:東京都)出身。東京府立第一商業学校を経て早稲田大学卒業。1948年にNHKに入局し、広島中央放送局・大阪中央放送局を経て、1958年より本部編成局アナウンス部に配属され、アナウンサーとして長年に亘り、スポーツ中継の実況担当で活躍。その後一時期、大阪中央放送局のチーフも務めた。 特にオリンピックでは、1964年の東京オリンピックの開会式(ラジオ。市川崑が監督を務めた記録映画で、開会式の場面で流される実況音声は鈴木のものである)や、バレーボール日本女子代表が金メダルを獲得した試合の実況を担当。
宮本 高志(みやもと たかし、1925年 - )は元南海放送… 宮本 高志(みやもと たかし、1925年 - )は元南海放送・テレビ東京(旧:東京12チャンネル)のアナウンサー。 中国北平育ち、大阪外国語大学中国語学科卒業後、南海放送を経て、1962年に東京12チャンネルに入社。東京12チャンネル、テレビ東京時代はアナウンス部長・国際課長(1980年頃)も務めた。 宮本高志(1980年時点、国際課長兼務) / 高田晃 / 金子勝彦 / 近藤隆雄 / 久保田麻三留(2005年7月 - 2009年) / 板坂裕之(2009年 - 2011年3月) / 大岡優一郎(2011年4月 - 2015年3月) / 斉藤一也(2015年4月 - 2019年12月) / 柳川雅彦(2020年1月 - 2022年6月、総合編成局専任部長兼務) / 西山麻衣子(2022年6月 - 2024年3月、コンテンツ戦略局次長兼務) / 小高亮(2024年4月 - 、コンテンツ戦略局次長兼務) この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。
鈴木 千秋(すずき ちあき、1925年〈大正14年〉生 - … 鈴木 千秋(すずき ちあき、1925年〈大正14年〉生 - 2006年〈平成18年〉10月19日)は、元ラジオ東京(現:TBS)アナウンサー、ナレーター、ラジオパーソナリティ。東京府(1943年7月以後の東京都)文京区出身。 (出典:本人による「東京放送社史」への加筆メモに基づく) すべてナレーション。 1980年代は東京放送(現・TBSテレビ)で放送する番組のCMナレーションを担当したこともあった。主な番組は以下のとおり。 上記のほか、ラジオCM・全日空機内BGM用番組・学校向け教育映画などでもナレーションを務めている。
近江 正俊(おうみ まさとし、1925年 - 1984年10… 近江 正俊(おうみ まさとし、1925年 - 1984年10月24日)は、日本のアナウンサー。 東京都出身。開成中学校を経て拓殖大学南洋語学科卒業(1946年)。父は日蓮宗僧職。 幼少期から他民族の地・マレー半島での労働とマレーのハリマオや南十字星に単純に憧れてゴム園での労働と異民族の近江自身が加わって「善意に満ちた東亜協栄体」を作りたくて開成中学校を経て拓殖大学に入学。マレー語の取得に最適した頭の柔い時期が、戦争の真最中で、敵性語の時代となり大学は勤労動員ばかりとなり、陸軍戦車二等兵で本土用決戦場の穴掘り中に敗戦を迎える。 1950年、日本放送協会(NHK)に入局(同期には酒井広、鶴田全夫)、名古屋中央放送局で勤務の後、1952年3月にラジオ東京(KR→KRT。
稲川 英雄(いながわ ひでお、1924年12月31日 - 2… 稲川 英雄(いながわ ひでお、1924年12月31日 - 2004年3月5日)は、日本のアナウンサー。 日本橋生まれ。『テレビ演芸会』『素人うた合戦』等を担当。更に、1953年12月、三原山大爆発リポートを担当。1966年1月にラジオ営業局JRN業務部、1967年2月にラジオ局放送部、1967年7月に第一制作部、1968年9月に第二制作部に所属、ラジオ交通情報の初代ヘリリポーターを務める。1969年3月にはテレビ制作局第二制作部兼テレビ編成局放送部、1970年3月にはテレビ本部編成局放送部、1970年9月には開発室に在籍した後、1972年12月に審議室委員に。1973年11月には調査局審査部、1974年2月には人事室開発センターに在籍した後、1974年3月、福島テレビに出向し、FTVテレポートのキャスターを担当した。
水庭 進(みずにわ すすむ、1924年3月21日-2017年… 水庭 進(みずにわ すすむ、1924年3月21日-2017年6月14日)は、戦前・戦後に活躍したアナウンサー、教育者、文筆家、俳人。 東京生まれ。東京外国語学校英語科卒。日本放送協会の国際放送の英語アナウンサーを務めた。俳人協会会員。 巣鴨学園を経て東京外国語学校(現・東京外国語大学)、英米科3年生在学時の1944年、学生アルバイトとして英語アナウンサーとなり、その後1946年に職員として入局。 戦後の国際放送再開以降も英語アナウンサーとしてニュースや朗読番組などで活躍し、1967年の吉田茂国葬の実況生中継も行った。チーフアナウンサー、アジア部長、欧米部長、国際局次長などを務め、1980年に定年退職。
中島 司有(なかじま しゆう、1924年〈大正13年〉3月7… 中島 司有(なかじま しゆう、1924年〈大正13年〉3月7日 - 2002年〈平成14年〉7月5日)は、日本の書家、書道教育者、元NHKアナウンサー。文学博士。國學院大學名誉教授。現代書道研究所創設者。本名は中島壌治。 東京都神田区(現千代田区)出身。小学校時代に左利きを矯正するために書を習い始め、栄田有宏に師事。1948年(昭和23年)に21歳で毎日展かな部で最高賞、翌年の日書展では最高賞、文部大臣賞を受賞し名を広めた。 京華商業高校、國學院大學国文科を卒業後、NHKに入局。主にアナウンサーを6年、演出を7年、計13年徳島・松山局などで勤め、1965年(昭和40年)より母校である國學院大學の教員を開始(のちに名誉教授となる)。
来栖 琴子(くるす きんこ、1924年2月29日 - )は、… 来栖 琴子(くるす きんこ、1924年2月29日 - )は、日本のアナウンサー、著作家、ジャーナリスト。本名、粟屋 琴子(あわや きんこ)。旧姓、来栖(くるす)。 満州安東県(現・丹東市)出身。相模女子大学(帝国女子大学専門学校国文科)卒業。アナウンサーとしてはNHKとTBSで活躍。声質は澄んだアルトからソプラノ。 幼少期から人前で話すのがとても好きで、帝国女子専門学校国文科の上級生にNHKのアナウンサーがいて刺激になり、また当時女性アナウンサーは少数で収入も大変良いと聞いたので自分もアナウンサーになることを決めた。しかし、収入の良さは、就職してから間違っていたことが分かったという。 1942年、NHKの詩の朗読番組に一般出演者に応募し合格。
池谷 三郎(、1923年〈大正12年〉8月19日 - 200… 池谷 三郎(、1923年〈大正12年〉8月19日 - 2002年〈平成14年〉10月19日)は、日本のアナウンサー、俳優。 東京都中央区日本橋出身。青山学院専門部を経て慶應義塾大学文学部卒業。 1951年10月、開局を控えたラジオ東京(KRT。後のTBS)にアナウンサー第1期生として入社。入社1年目に駅伝中継を担当。 『浪曲天狗道場』では1954年10月の第1回から司会を担当。ラジオ番組においてトップレベルの聴収率を上げる功績を残す。池谷も『浪曲天狗道場』を始めるまでは、浪曲のことは全く何も知らず、「広沢虎造の『次郎長伝』といっても、大政も知らなければ小政も知らなかった」という。 1966年1月、ラジオ局放送部兼テレビ編成局アナウンス部。
志摩 夕起夫(しま ゆきお、1923年6月14日 - 199… 志摩 夕起夫(しま ゆきお、1923年6月14日 - 1999年6月27日)は、日本のアナウンサー、音楽評論家である。本名は小島幸雄。東京府東京市京橋区生まれ。 東京・京橋の写真館に生まれる。専修大学を卒業。1952年(昭和27年)、開局直後のラジオ東京(現・TBSラジオ)の嘱託アナウンサーとなり、局内の「シマさん」の愛称から志摩夕起夫を名乗る。4月1日に放送開始となったラジオ東京の深夜番組「イングリッシュ・アワー」を三國一朗などと担当。同番組は1962年6月9日まで10年間続けられた。これにより、日本でのディスクジョッキーの草分けとして、音楽と自由なおしゃべりで進行するラジオ番組の原型を作り上げた。
宇井 昇(うい のぼる、1923年4月28日 - 2008年… 宇井 昇(うい のぼる、1923年4月28日 - 2008年3月18日)は、元中部日本放送(CBC)アナウンサー。日本の民間放送(本放送)で第一声を発した人物でもあった。 東京都墨田区出身。東京工業大学卒業後、大蔵省に入省する。1951年、同省を退職し、開局直前の中部日本放送に入社。プロ野球・中日ドラゴンズ戦や大相撲の実況中継、クイズ番組の司会などで活躍。1959年、同社を退社しフリーに。主に日本短波放送・ラジオ関東で活躍。1981年から2002年まで、リクルートで企業の社員研修を行うトレーナーを勤める。 晩年は東京都江戸川区に住み、出身地の墨田区でボランティア活動を行う特定非営利活動法人「てーねん・どすこい倶楽部」の理事を務めながら余生を送っていた。
平光 淳之助(ひらみつ じゅんのすけ、1923年〈大正12年… 平光 淳之助(ひらみつ じゅんのすけ、1923年〈大正12年〉4月10日 - 2017年〈平成29年〉3月17日 )は、フリーアナウンサーで、元NHKアナウンサー。本名同じ。 東京府出身。旧制青山学院高等部卒業、青山学院大学文学部英米文学科出身。三菱商事、リーダーズ・ダイジェスト社を経て1951年にNHK入局。秋田放送局、仙台放送局を経て1954年から東京勤務。1959年には皇太子明仁親王と美智子妃の御成婚パレードの実況放送を担当。1960年からワシントンVOA局に日本語放送アナウンサーとして派遣、1962年に帰国。1981年にNHK退職後はテレビ東京(1981年9月まで「東京12チャンネル」)の局契約を経てフリー。
北出 清五郎(きたで せいごろう、1922年12月5日 - … 北出 清五郎(きたで せいごろう、1922年12月5日 - 2003年1月19日)は東京都出身の元NHKアナウンサー。 中央大学を卒業後、1947年NHK入局。1980年に退職した。 戦時中、予備学生・中尉として、空母千歳に乗り組む。同艦は比島沖海戦(レイテ沖海戦)の小沢囮艦隊として参加し沈没。三時間半漂流後、駆逐艦霜月に救助される。以後、軽巡酒匂に乗り組み、呉から沖縄へ特攻する大和、矢矧を見送る。 大相撲中継はテレビ放送が始まった1953年夏場所から担当し、「相撲の北出」として知られた。正確な描写と徹底した取材に基づいたデータを駆使してテレビアナウンスの基礎を作り出した。定年退職後もアナウンス顧問や解説者として長年にわたり出演した。
野村 泰治(のむら たいじ、1922年〈大正11年〉11月2… 野村 泰治(のむら たいじ、1922年〈大正11年〉11月20日 - 2002年〈平成14年〉8月4日)は、日本放送協会(NHK)、及び東京放送(TBSテレビ = 局契約)アナウンサー。 中央大学法学部在学中の1943年(昭和18年)12月、学徒出陣で海軍に入る。第14期予備学生。1944年(昭和19年)、第六五三海軍航空隊戦闘一六六飛行隊付。捷一号作戦で空母「瑞鶴」に配乗し、比島沖海戦に参加。3時間半の漂流後に救助。上海の中支空で終戦。海軍中尉。復員。 1946年(昭和21年)に中央大学を卒業、NHKに入局。戦後初のアナウンサーとなり、プロ野球中継を担当。1964年東京オリンピックの総合司会や『それは私です』『スタジオ102』『連想ゲーム』などの司会も務めた。
大塚 利兵衛(おおつか りへえ、1922年 〈大正11年〉1… 大塚 利兵衛(おおつか りへえ、1922年 〈大正11年〉10月31日 - 2021年〈令和3年〉1月6日)は、日本のアナウンサー、フリージャーナリスト。 静岡県藤枝市出身。中央大学時代、学徒動員のためマレーシアにおり、終戦後は同国の刑務所で捕虜となった。 1947年に復員帰国して中央大学に復学後、「アナウンサー募集」の広告を見つけて応募し、日本放送協会入局を果たす。同時期入局は小川宏、八木治郎、木島則夫、野村泰治らがおり。入局後はアナウンス職に配属されてNHK釧路放送局、NHK札幌放送局に勤務して東京アナウンス室に異動。東京アナウンス室時代は報道番組を専門としてアナウンスを担当。 アナウンサーとして数々の歴史的事件や場面に遭遇したことでも知られ、自ら現場に向かってその一部始終をくまなくリポートしたことでも知られる。
江本 三千年(えもと みちとし、1922年 - 1987年7… 江本 三千年(えもと みちとし、1922年 - 1987年7月30日)は、日本のアナウンサー。 青山学院専門部(現在の青山学院大学)在学中に、陸上競技の選手として活躍。同校にとって初めての箱根駅伝であった1943年の第22回大会(「靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」として開催)では、5区の走者に起用されると、1時間47分53秒というタイム(出場11校中区間8位)を記録した。 1951年に新日本放送(NJB。1958年より毎日放送=MBS)へ第1期生として入社したが、1953年に日本テレビ(NTV)へ第1期生として移籍。移籍後は、主にスポーツ中継の実況を担当した。1955年には、東宝の配給で公開された野球映画『不滅の熱球』へ、同僚アナウンサーの茂木太郎・大平和夫・越智正典とともに出演した。
中村 信子(なかむら のぶこ、1922年 - 2022年5月… 中村 信子(なかむら のぶこ、1922年 - 2022年5月10日)は、ベトナムのラジオ放送局の元アナウンサー。1975年4月30日、ベトナム戦争を共産主義勢力の勝利で終結させたサイゴン陥落を世界に伝えた。 長崎県佐世保市生まれ。太平洋戦争終結直後の1945年10月、九州大学農学部に留学中だったベトナム人農学博士、ルオン・ディン・クア(ベトナム語版)と出会い結婚した。第1次インドシナ戦争中の1952年に北ベトナムへ移住した。1963年からハノイのラジオ局「ベトナムの声」で日本語放送のアナウンサーを務め、1975年4月30日には北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の進軍に伴い「サイゴン市は完全に解放されました」とサイゴン陥落を伝えた。
宮田 輝(みやた てる、1921年12月25日 - 1990… 宮田 輝(みやた てる、1921年12月25日 - 1990年7月15日)は、日本のアナウンサー、政治家。参議院議員(3期)。本名、宮田 輝(みやた あきら)。妻は声優の河口恵美子。 東京都足立区出身。血液型B型。明治大学専門部商科卒業。1942年にNHKに入局。NHKにおいて、高橋圭三や青木一雄らと同じく、「芸能番組向けアナウンサー」の先鞭を付けた人物の一人に数えられる。1974年に同局退職後、参議院議員(3期)を務めながらフリーアナウンサーとしても活躍。1990年、議員在職中に死去。 1942年9月に明治大学専門部商科卒業。同年NHKに入局。同期に高橋圭三がいる。1948年10月21日に東京放送劇団の団員であった河口恵美子と結婚。
下山 順一(しもやま じゅんいち、1921年11月15日 -… 下山 順一(しもやま じゅんいち、1921年11月15日 - 2014年10月26日)は、日本のアナウンサー。 大正10年(1921年)11月15日、東京市下谷区下根岸に生まれる。早稲田大学卒業後、昭和24年(1949年)日本放送協会(NHK)にアナウンサーとして入局。名古屋中央放送局、静岡放送局、新潟放送局、大阪中央放送局でアナウンス業務に従事した。特にスポーツ実況中継に多く携わり、大相撲、高校野球、プロ野球、ラグビー、国民体育大会等の幅広い種目で、ラジオ実況さらに放送が開始されたテレビでの実況中継を担当した。昭和33年12月、民間放送テレビ局の1社として新たに開局した名古屋市東区に本社を置く東海テレビ放送(THK)にアナウンス室長として移籍。
糸居 五郎(いとい ごろう、1921年〈大正10年〉1月17… 糸居 五郎(いとい ごろう、1921年〈大正10年〉1月17日 - 1984年〈昭和59年〉12月28日)は、日本のアナウンサー、ラジオ・ディスクジョッキー(DJ)。 日本のラジオDJの草分け的存在として、ラジオの深夜放送で活躍した。 命日の12月28日は、上野修の提唱により糸居の功績をたたえる記念日として「ディスクジョッキーの日」と定められている。 ジャーナリストで、地域向け新聞『小石川新聞』の編集・発行を手掛けていた糸居銀一郎の五男(末子)として、東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)音羽に生まれる。本人は、父に鉱石ラジオのレシーバーを頭にかぶらされて聴いていたと、その自分の子供時代を語っている。
岡田 実(おかだ みのる、1919年11月5日 - 1989… 岡田 実(おかだ みのる、1919年11月5日 - 1989年3月11日)はNHKの元アナウンサー。 ミュージシャンの岡田徹は息子。 神奈川県横浜市出身。早稲田大学政治経済学部卒業。1944年、NHKにアナウンサーとして入局。スポーツアナウンサーの大御所であった志村正順のもとでスポーツ実況の訓練を受ける。当時、志村のもとで訓練を受けた若手アナウンサーに宮田輝、高橋圭三、鈴木文彌、北出清五郎、斎藤正男、松本憲夫らがいる。岡田自身もその後、若手アナウンサー育成に寄与した。 主にプロ野球中継で活躍したほか、ラグビー、テニス、大相撲、オリンピック中継も担当している。明朗な声で歯切れもよく、正確な描写、試合の確信を突く分析力が受け、アナウンサー志望者に多大な影響を与えた。
芥川 隆行(あくたがわ たかゆき、1919年〈大正8年〉3月… 芥川 隆行(あくたがわ たかゆき、1919年〈大正8年〉3月6日 - 1990年〈平成2年〉10月2日)は、日本の元アナウンサー、ナレーター、司会者。本名は同じ。東京府(現・東京都)出身。 1951年10月にラジオ東京(現TBS)にアナウンサー第1期生として入社。1959年12月にラジオ東京を退社。1960年1月にフリーとなり芥川企画を設立し司会者・ナレーターとしても活躍した。日本におけるナレーターの草分け的存在でもあり、時代劇、演歌番組において、芥川節と呼ばれるめりはりのきいた渋い語り口で活躍。代表作には『木枯し紋次郎』、『必殺シリーズ』、『西遊記』、『水戸黄門』等。顔のない名優といわれた。妻はラジオ東京アナウンサー第1期生の本田節子。
高橋 圭三(たかはし けいぞう、1918年9月9日 - 20… 高橋 圭三(たかはし けいぞう、1918年9月9日 - 2002年4月11日)は、日本のアナウンサー、政治家、参議院議員(1期)。位階は正五位。 呉服店の三男として生まれる。作家の宮沢賢治とは遠縁にあたる。幼い頃は病弱な子供であったという。花城尋常小学校(1931年3月)、組合立花巻中学校(1938年3月)、高千穂高等商業学校を卒業後、富士電機へ就職。 1942年10月、アナウンサー募集の新聞広告に目が止まったのがきっかけでNHKに入局。入社試験面接官・養成所校長は和田信賢(後に『話の泉』の和田の後任を引き受けた)。1944年5月27日、結婚。1948年1月19日、長女・光が誕生。1950年1月から1954年9月まで慶應義塾大学病院で療養。
小坂 秀二(こさか ひでじ、1918年3月16日 - 200… 小坂 秀二(こさか ひでじ、1918年3月16日 - 2003年4月6日)は、日本の歯科医、相撲評論家、著作家、アナウンサー。 太平洋戦争で軍医として徴用され終戦まで中国の陸軍病院に勤務。その後NHK・TBSで相撲等でスポーツアナウンサーとして活躍。1974年にアナウンサーを引退。1975年に歯科医に復帰後は、相撲評論家・著作家としても活動し、「柏鵬時代」の命名者でも知られる。 東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)出身。幼年期から相撲になじみ、学生時代が双葉山の全盛と重なっていたこともあって、さらに没頭する。 東京高等歯科医学校卒業。卒業後、歯科医となる。 東京高等歯科医学校時代、翌日に解剖学の大事な卒業試験を控え猛勉強中に「双葉山70連勝ならず!」の一報が入り、その衝撃で試験のことが頭に入らなくなり、翌日、追試験覚悟で臨んだところ、厳格で知られる試験官の藤田恒太郎教授が相撲好きの人で、「小坂君、双葉山負けたね!」といきなり話をふられた。
青木 一雄(あおき かずお、1917年〈大正6年〉2月20日… 青木 一雄(あおき かずお、1917年〈大正6年〉2月20日 - 2001年〈平成13年〉7月13日)は、元NHKアナウンサー。 青木一雄1968 / 野村泰治1968-1973 / 中江陽三1973-1976.3 / 加治章1976.4-1978.3 / 川野一宇1978.4-1981.3 / 松平定知1981.4-1984.3 / 吉川精一1984.4-1987.3 / 佐藤充宏1987.4-1988.3 / 徳田章1988.4-1989.3 / 佐藤充宏(再)1989.4-1990.3 / 徳田章(再)1990.4-1991.3
藤倉 修一(ふじくら しゅういち、1914年〈大正3年〉3月… 藤倉 修一(ふじくら しゅういち、1914年〈大正3年〉3月12日 - 2008年〈平成20年〉1月11日)は、日本のアナウンサー、放送評論家。 昭和中期のラジオ全盛期にNHKに勤務し、第1回NHK紅白歌合戦の白組司会を務めたことで知られる。 現在の東京都大田区出身。家は御徒町で綿布問屋を営んでいた。常陸山谷右エ門を親類に持ち、幼時から相撲を愛好して育つ。法政大学卒業後の1940年、奢侈品等製造販売制限規則が公布されたため綿布問屋を継ぐことを諦め、NHKに放送員(アナウンサー。ただし、当時のアナウンサーは取材や企画などの担当を兼任していた)として入局。東京中央放送局を経て、1941年から1943年にかけて福島放送局に勤務。
高橋 博(たかはし ひろし、1913年10月11日 - 19… 高橋 博(たかはし ひろし、1913年10月11日 - 1982年10月1日)は、芸能評論家、話芸家、アナウンサー。日本演劇協会会員、日本大学芸術学部講師。愛称は、博さん(はくさん)。 銀座生まれ浅草育ち。1936年にNHK入局(同期に志村正順等)。 学生時代から芝居好きで、脚本なども書き、芝居の世界との付き合いもあったせいもあり、主に舞台中継、朗読を担当。抑制した口調と独特の間の置き方で「語り」の世界を作り上げた。 敗戦後、戦意高揚に関わった責任を取ってNHKを辞職。1954年にニッポン放送へ移籍。同時期に坂本荘、中村要輔(両名ともNHKの後輩。当時はラジオ東京)とともに東北放送で教育も行った。
志村 正順(しむら せいじゅん 本名:表記同じく「しむら ま… 志村 正順(しむら せいじゅん 本名:表記同じく「しむら まさより」、1913年10月2日 - 2007年12月1日)は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。NHKで主に大相撲、プロ野球等のスポーツ実況中継を担当した。 東京府北豊島郡南千住町(現・東京都荒川区南千住)の乾物・雑穀商「川萬商店」に生まれる。出生時の名は「正二」。日大付属中卒業後の1931年、一時僧侶を志し、大正大学予科に通うかたわら、滋賀県甲賀郡大原村(現・甲賀市)の親類の寺院で得度し、「正順」と改名するが、明治大学政治経済学部進学のため還俗している(のちも名を正二に戻さず、「まさより」ないし「せいじゅん」で通した)。 明大卒業後の1936年、ミシンの外交販売員を経て、NHKのアナウンサー採用試験に合格し、入局。
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 200… 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 200… 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。
河原 武雄(かわはら たけお、1913年2月27日 - 20… 河原 武雄(かわはら たけお、1913年2月27日 - 2012年1月20日)はNHKの元アナウンサー。 長野県出身。長野商業学校、旧制松本高等学校文科乙類を1933年に卒業。兄の広三が思想事件で連座したことより進学を断念し、1939年NHK入局。 スポーツアナウンサーとして活躍。ラジオを中心に、栃若時代の大相撲実況や箱根駅伝などの名調子で親しまれる。1952年ヘルシンキオリンピックなどオリンピック中継でも実況を務めた。 退職後は相撲雑誌『別冊グラフNHK大相撲特集』(『別冊NHKウィークリー・ステラ大相撲特集』)の編集長も務めた。 2012年1月20日、呼吸不全のため町田市の病院で死去。98歳没。
今福 祝(いまふく はじめ、1912年〈大正元年〉11月14… 今福 祝(いまふく はじめ、1912年〈大正元年〉11月14日 - 1978年〈昭和53年〉6月8日)はNHKの元アナウンサー。 東京都生まれ。神奈川県育ち。1934年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業後、損害保険会社勤務を経て日本放送協会の仙台局へ入局。アナウンサーとしての最初の仕事は、宝塚歌劇団の紹介だった。 その後は東京アナウンス室へ移り、戦前は東部軍管区情報、東京大空襲を含む空襲警報、各所の玉砕のニュース、広島への原爆投下。戦後はスターリン死去、安保闘争、新潟地震、連続航空機事故(全日空羽田沖墜落事故、カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故、英国海外航空機空中分解事故)等、後年に語られるニュースを伝える。
和田 信賢(わだ のぶかた、1912年〈明治45年〉6月19… 和田 信賢(わだ のぶかた、1912年〈明治45年〉6月19日 - 1952年〈昭和27年〉8月14日)は、戦前から戦後にかけて活動したNHKのアナウンサー。妻は後輩アナウンサーの大島(旧姓)実枝子(1918年(大正7年)- 2016年(平成28年)、1939年入局)。 東京府に生まれ、東京府立第五中学校、第二早稲田高等学院を経て早稲田大学に進学するも中退した。1934年に日本放送協会(当時は社団法人)へ第1期アナウンサーとして入局した。 和田が一躍有名になった場面は、1939年の大相撲1月場所の実況中継である。和田はこの場所の実況中継を初日から4日目まで担当したが、4日目(1月15日・日曜日)に70連勝を目指していた双葉山定次が、結びの一番で安藝ノ海節男に外掛けで敗れ、連勝が69で止まった。
竹脇 昌作(たけわき しょうさく、1910年9月5日 - 1… 竹脇 昌作(たけわき しょうさく、1910年9月5日 - 1959年11月9日)は、日本のアナウンサー。 新潟県出身とされる一方、戸籍謄本には「富山県射水郡作道村大字殿村津幡江村(現在の射水市殿村)生まれ」と記載されている。 もし新潟県生まれだった場合、同県生まれ初のNHKアナウンサーである可能性が極めて高い。 青山学院大学英文科卒業。子供のころから美声として評判で、1934年にNHKが初めて行った全国規模のアナウンサー採用試験に合格し、同期25名の一員として4月に入局したが、わずか1か月後の養成期間中に退職した。退職理由はNHKが解雇したもので、竹脇のアナウンサーとしての能力を認める同期のアナウンサーたちは、解雇の話を聞いて抗議しようとしたが、竹脇が「解雇理由は分かっている。
松澤 知恵(まつざわ ちえ、1909年(明治42年) - 2… 松澤 知恵(まつざわ ちえ、1909年(明治42年) - 2006年(平成18年))は、昭和初期の社団法人日本放送協会東京中央放送局の女性アナウンサー。 群馬県桐生市出身。7人姉弟の2番目として生まれる。桐生で生まれた後、すぐ京都へ移り、小学校入学の時に東京へ転居。女学校時代は再び桐生へ戻り、その後大阪へ移る。大阪府女子専門学校(後の大阪女子大学 → 現・大阪府立大学)国文科卒業。学生時代の1930年2月に大阪放送局にて童話の放送への出演を経験している。最初、学校を卒業した後は国語の教員になろうと思っていた。学校を卒業した後、父の転勤により東京へ移り住む。長姉が嫁いだ後に、当人については「良い働き口があれば、働きに出したい」と方針が変わり、1932年に東京中央放送局がアナウンサーを募集した際、親がたまたまラジオを聴いていてそのアナウンサー募集を知り、アナウンサー受験を勧めて叔母の家へ手伝いに行っていた先の桐生から東京へ戻る。
高野 国本(こうの くにもと、1908年 - 1987年12… 高野 国本(こうの くにもと、1908年 - 1987年12月11日)は、元NHKのアナウンサーで、昭和初期のスポーツ中継放送黎明期におけるスポーツアナウンサー。特に1933年の中京商対明石中延長25回試合の実況中継を担当した事で知られる。 青山学院大学卒業、大学では子供好きだったため童話部に所属し、毎週土曜日の午後、大学の近所の子供達を集めて童話を語って聞かせていた。時々童話作家の久留島武彦や安倍季雄が姿を見せて指導を受けた。 毎年2回、大学の講堂で二千人の子供達を集め、マイク無しで話して声を鍛える。 1931年5月、JOBK(現:NHK大阪放送局)に入局、同年のJOBKの新人アナウンサーは高野を含めて6名。
服部 逸郎(はっとり いつろう、1907年12月3日 - 1… 服部 逸郎(はっとり いつろう、1907年12月3日 - 1973年8月5日)は、昭和期の日本の作曲家、歌手、作詞家、元アナウンサーである。別名をレイモンド服部、服部レイモンド、服部ヘンリー。なお、同姓の服部良一や服部正との血縁関係はない。 1907年(明治40年)12月3日、神奈川県横浜市出身。若い頃にキリスト教に入信した為、洗礼名をレイモンドという。 1931年(昭和6年)慶應義塾大学文学部卒業後に作曲家としての活動を開始。ハワイへの音楽留学から帰国した1934年(昭和9年)1月に、NHKが初めて行った全国規模でのアナウンサー採用試験に応募し、応募者728名中25名の合格者の1人として入局。
稲蔭 千代子(いなかげ ちよこ、1906年(明治39年)2月… 稲蔭 千代子(いなかげ ちよこ、1906年(明治39年)2月11日 - 1980年(昭和55年)10月19日)は、日本の女性アナウンサー。民放初の女性アナウンサー。 1906年(明治39年)2月11日、愛知県碧海郡高浜町(のち高浜市)において長女の林千代子として生を受ける。5歳で中西家に養子に出され、中西千代子となる。中西家は叔母の家にあたる。 1922年(大正11年)愛知県立第一高等女学校本科(のちの愛知県立明和高等学校)を卒業し、同校専攻科英語科に進む。しかし、養父が事業に失敗したことから学校を中退し、養家のためになればと、偶然新聞広告で見かけたという名古屋中央放送局の女子アナウンサーに応募した。
森 シノ(もり シノ、1903年〈明治36年〉11月9日 -… 森 シノ(もり シノ、1903年〈明治36年〉11月9日 - 2015年〈平成27年〉8月23日)は、インターネット放送局・天草テレビのアナウンサー。世界最高齢の女子アナウンサーとして知られた。 熊本県、現在の上天草市松島町で、8人兄弟の3女として生まれた。24歳の時に2歳年上の、地元の男性・森秋義と結婚し、5人の子供をもうけたが、32歳の時に夫は病死する。夫の死後は農業を営みながら、女手一つで子供達を育てた。 2006年(平成18年)6月、102歳で天草テレビの3代目女子アナとしてデビュー。お天気コーナーなどを担当した。2008年(平成20年)12月には麻生太郎首相(当時)と対談も行っている。
金 晋燮(キム・ジンソプ、朝鮮語: 김진섭/金晉燮、1903… 金 晋燮(キム・ジンソプ、朝鮮語: 김진섭/金晉燮、1903年8月24日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の評論家、随筆家、詩人、作家、ドイツ文学者、アナウンサー。 号は聴川(チョンチョン、청천/聽川)。 全羅南道木浦に生まれ。幼少期いっとき慶尚南道安東で過ごす。1927年に法政大学文学部独文科卒。1925年に文学評論家として登壇、以後随筆の大家として名を鳴らした。 解放後は京城放送局員、ソウル大学校中央図書館長、ソウル大学校・成均館大学校教授を歴任したが、自宅にいた際に北朝鮮に拉致され、以後消息不明。
山本 照(やまもと てる、1902年11月18日 - 199… 山本 照(やまもと てる、1902年11月18日 - 1998年10月27日)は、愛知県出身のNHKアナウンサーである。日本の相撲中継において、松内則三に続く2人目のアナウンサーであった。 4人兄妹の三男。少年時代に地元の草相撲を見て以来の相撲好きであった。愛知県立第四中学校(後の時習館高校)では相撲部に所属、身体は小さかったが腕力は強く、右四つからの上手投げが得意で県下の中学校対抗相撲大会にも出場した。東京外国語学校(後の東京外国語大学)時代、大相撲の本場所の時期に語学以外の授業をサボっては国技館に通い詰め、学友からは「角狂」と呼ばれるほどであった。 東京外国語学校スペイン語科を卒業後、1925年4月に萬朝報に入社、1927年10月には國民新聞に移り相撲記者として活躍。
薄田 太郎(すすきだ たろう、1902年11月1日 - 19… 薄田 太郎(すすきだ たろう、1902年11月1日 - 1967年4月23日)はNHKの元アナウンサー、郷土史家、大衆芸能評論家。 NHK広島局の初代アナウンサーであり、戦前の広島市の大衆文化史を記録した『がんす横丁』の著者として知られる。 広島市に生まれ、1908年創立されたばかりの広島市立竹屋小学校に入学。卒業後、県立広島商業学校(現在の県立広島商業高校)に入学し、学生野球の応援団長として名を馳せた。その後、素人劇団「広島十一人座」の同人となり、1928年の広島放送局の開局とともに初代アナウンサーの一人となり、特にスポーツ実況で知られた。敗戦前後は南方にいたため原爆には被災せず、翌1946年夏に引揚船により帰国。
平川 唯一(ひらかわ ただいち、1902年2月13日 - 1… 平川 唯一(ひらかわ ただいち、1902年2月13日 - 1993年8月25日)は、日本放送協会(NHK)アナウンサー・ラジオ英語会話講師を務めた人物。通称「カムカムおじさん」。 ラジオ番組『英語会話』講師を1946年から1951年まで務め人気を博す(番組は『カムカム英語』という別名で知られる)。岡山県上房郡津川村(現・高梁市)出身。次男の洌も英会話講師であるほか、ウクレレ奏者でもあり、その第一人者である。 1902年、岡山県上房郡津川村(現・高梁市)の農家の次男に生まれた。1916年に津川尋常高等小学校高等科2年を修了し農作業の手伝いをしていたが、1918年の16歳のときABCも知らないで、数年前からアメリカに出稼ぎに行っていた父を追って兄と渡米し、ポートランドで半年ほど線路工夫などに従事し、その後シアトルに移って古屋政次郎(英語版)が経営する商店の店員として半年間勤務する。
中村 茂(なかむら しげる、明治34年(1901年)4月2日… 中村 茂(なかむら しげる、明治34年(1901年)4月2日 - 昭和53年(1978年)2月6日)は、NHKのアナウンサー。 東京府出身。1923年東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部卒業、日蘭貿易入社。NHKラジオが放送開始された1925年にNHK入局。二・二六事件で「兵に告ぐ」を担当。NHK業務局告知課長として「淡々調アナウンス」を主導。 NHK国際局亜州部長、理事兼札幌中央放送局長を経て、1950年NHK放送文化研究所所長。1956年に退職後、電波タイムス社社長。1962年藍綬褒章受章。1971年勲四等瑞宝章受章(放送事業功労)。1978年に老衰のため死去し、従五位に叙された。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。
松田 義郎(まつだ よしろう、1898年 - 没年不詳)は、… 松田 義郎(まつだ よしろう、1898年 - 没年不詳)は、日本のアナウンサー。ラジオ創生期の日本放送協会で活動した。 生家は味噌・醤油醸造業の「松田屋」(松田甚兵衛参照)。旧制東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校・附属中学校)、旧制官立第四高等学校、早稲田大学政治経済学科を経て、兄とともに家業を手伝ったのち、1926年2月、社団法人東京放送局(のちの日本放送協会東京放送局)に入局。 株式市況、ニュース、天気予報の読み上げを担当したほか、肉声で時報を担当し、1932年末の自動化まで務めた[要出典]。 政府による各種式典の音声中継に、スタジオで予定稿とブザーによる合図を使ってアナウンスを追加する、「式典放送」と呼ばれる疑似実況放送を得意とした。
松内 則三(まつうち のりぞう、1890年7月28日 - 1… 松内 則三(まつうち のりぞう、1890年7月28日 - 1972年1月31日)は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。日本におけるスポーツ中継の実況アナウンサーの草分け。大相撲、東京六大学野球、職業野球、競馬などのスポーツ中継の実況アナウンスで人気となった。 松内則定の三男として、東京市本所区(現:東京都墨田区)で生まれる(兵庫県士族の家系であったため、兵庫県出身と書かれた資料もある)。大阪府立北野中学校(旧制)から慶應義塾大学部理財科(現:慶應義塾大学経済学部)を経て日本電燈へ入社するが、1925年にNHKへ入局してアナウンサーに転職。東京放送局に赴任した。 野球中継においては、「ピッチャー振りかぶりました」「打ちも打ったり取りも取ったり」というような、動作を表現する典型を数多く創造した。
翠川 秋子(みどりかわ あきこ、1889年(明治22年)9月… 翠川 秋子(みどりかわ あきこ、1889年(明治22年)9月 - 1935年(昭和10年)8月20日〈遺体発見日〉)はアナウンサー。日本初の女性アナウンサー。 東京日本橋亀島町で、明治維新前には与力を務め荻野流砲術師範であった武士の家に生まれる。女子美術学校(現在の女子美術大学)を卒業。銀行員と結婚して養子に迎え、2男1女をもうけるが、1922年(大正11年)に死別。 その後、開局に向けて準備を進めていた社団法人東京放送局(NHK首都圏局の前身)総裁だった後藤新平の目に止まり、後藤の推薦によって1925年(大正14年)6月に社団法人東京放送局入り。当初は放送係として家庭講座を担当していたが、採用試験の際に琵琶を披露して豊かな声量を認められていたため、アナウンサーを兼任するようになる。
京田 武男(きょうだ たけお、1889年1月2日 - 194… 京田 武男(きょうだ たけお、1889年1月2日 - 1940年5月26日)は、日本のアナウンサー、水泳家。 東京出身。早稲田大学政治科卒。雄弁会、水泳部に属して活躍した。卒業後、「二六新報」記者、「国民新聞」記者、「東京日日新聞」記者を経て、1925年、東京放送局(現在のNHK首都圏局)が開設されると初代アナウンサーとなり、第一声を発した。1935年、日本歯科医学専門学校(現在の日本歯科大学)主事となり、水泳でも活躍した。