井手 三千男(いで みちお、1941年5月9日 - 2006… 井手 三千男(いで みちお、1941年5月9日 - 2006年6月26日)は、日本の写真家。 広島市安佐北区安佐町出身。多摩芸術学園(現 多摩美術大学)写真科卒業。 4歳の夏(1945年8月6日)、自宅から広島市に投下された原子爆弾のキノコ雲を見る。多摩美大卒業後、広島市で広告会社に勤務していたが、1968年写真家として独立。 広島市や原爆資料館が刊行した出版物の編集の大半に関わり、被爆の記憶を印画紙に残した。『図説戦後広島市史』ではB-29が原爆投下直後にキノコ雲を撮影した6,000m上空からの撮影に挑んだ。また、広島県の文化財の出版にも携わり、多くの文化財を空撮などの様々な手法で撮影した。原爆ドームと厳島神社の世界遺産登録時には公式写真も撮影している。
長濱 治(ながはま おさむ、1941年(昭和16年)4月24… 長濱 治(ながはま おさむ、1941年(昭和16年)4月24日 - )は、日本の写真家。 1941年名古屋市生まれ。多摩美術大学彫刻科で彫刻や絵画を学んでいたが、大学卒業後、将来を決めかねていたところ、高校の同級生で写真家の加納典明の勧めもあり、写真に興味を持ち、技術を勉強するため、1964年にアドセンターに就職。写真家・立木義浩の元でアシスタントを始め、写真の道を歩み始める。 1966年よりフリーランスに。1960年代末から70年代にかけて、『平凡パンチ』のカメラマンとして、海外のロック・フェスティバルなどカウンターカルチャー周辺を取材撮影するほか、ファッション、広告、ポートレートなどの分野でも幅広く活躍。
秋山 忠右(あきやま ただすけ、1941年3月17日 - 2… 秋山 忠右(あきやま ただすけ、1941年3月17日 - 2013年6月25日)は、東京都出身の写真家。 1941年3月17日、東京都品川に生まれる。早稲田大学政治経済学部を卒業後、1964年に東京綜合写真専門学校研究科を卒業する。石元泰博の師事となったが、1965年にフリーランスとなった。同年には、佐藤晴雄と共同で制作した「若い群像(東京都写真美術館に作品収蔵)」で第2回太陽賞を受賞、1991年には第31回ACC全日本CMフェスティバルのテレビCM部門において優秀賞となるなど、数々の受賞歴を持つ。さらに、1992年に第39回カンヌ国際広告映画祭ファイナリストに入賞、1998年には伊奈信男賞特別賞を受賞している。
有田 泰而(ありた たいじ、1941年1月31日 - 201… 有田 泰而(ありた たいじ、1941年1月31日 - 2011年7月17日)は、日本の商業写真家。非商業的なヌード作品なども発表し、写真以外の芸術作品も制作した。 有田泰而は、1941年1月31日に、当時の福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区)に生まれた。中央大学法学部に進学したものの、程なくして写真家を志し、東京綜合写真専門学校の学生となって石元泰博の下で学んだ。 有田は、1964年から1991年まで、もっぱら写真家として活動した。1964年から1966年には、日本デザインセンター写真部に所属し、その後、1977年まではフリーランスの写真家として数多くの出版社や広告企業に作品を提供した。1975年に、自分の家族(最初の妻とその息子)を撮影した「First Born」の作品群を発表した。
藤井 旭(ふじい あきら、1941年1月12日 - 2022… 藤井 旭(ふじい あきら、1941年1月12日 - 2022年12月28日)は、日本のイラストレーター、天体写真家。天文宇宙の魅力を広く伝え、多様な天文ファンを先導する存在として国際的に知られる。50年以上にわたって第一線で活躍を続けた。 山口県山口市に生まれる。父は岸信介と旧制山口中学校の同級生で、山口県庁の職員を経て釣具店を経営していた。子供の頃は流星観測をしていた。山口県立山口高等学校在学中に天文部を創設。山口高校卒業後は多摩美術大学デザイン科に進学し、1963年同校を卒業。少年マガジンなどの雑誌のイラストを描く仕事に就いていた。その後、東京の光害から逃れるために福島県郡山市に移り住み、それまでやっていたイラスト描きの仕事を辞めて、郡山名物である薄皮饅頭の製造会社に入社して饅頭づくりに励んだ。
大村 次郷(おおむら つぐさと、1941年 - )は、日本の… 大村 次郷(おおむら つぐさと、1941年 - )は、日本の写真家、文筆家。 満洲生まれ。岩手県出身。エトロフ事件で捕虜となった大村治五平の子孫で、弟は考古学者の大村幸弘。作家の森荘已池は伯父(母親の兄)。 多摩芸術学園写真科・青山学院大学卒業。濱谷浩に師事。オリエント、インド、中国を中心にルポルタージュを手がける。『シルクロード』『文明の道』などのNHK特集(スペシャル)に参加。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
豊田 芳州(とよだ ほうしゅう、1941年 - )は、写真家… 豊田 芳州(とよだ ほうしゅう、1941年 - )は、写真家。英国王立写真協会日本支部元理事長。日本写真家協会会員、日本写真学会会員。 東京都出身。千葉大学工学部写真印刷工学科卒業。写真関連の技術者になるか音楽家になるか迷ったが、音楽は断念して写真撮影の方向に進む事を決めた。千葉大学の研究室での文部技官を経て、学習研究社(現:学研ホールディングス)で25年間働く。52歳の時に自分が撮りたいものを撮るためフリーへ転身。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、カメラに関連した書きかけの項目です。
枝川 一巳(えだがわ かずみ、1941年 - )は、日本の写… 枝川 一巳(えだがわ かずみ、1941年 - )は、日本の写真家。 東京都出身。東京写真大学(現・東京工芸大学)卒業。出版社勤務の後、フリーとなる。1970年にユニテックフォトサービスを設立。 出版物やコマーシャル撮影のほか、アマチュア向け写真教室として「写真塾・いいだばし」を主宰。また「能登半島」や「世界の人物シリーズ」をライフワークに撮影し、東京や金沢で個展を多数開催している。 日本写真家協会会員、日本旅行写真家協会会員。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
二村 保(ふたむら たもつ、1941年 - 2011年)は、… 二村 保(ふたむら たもつ、1941年 - 2011年)は、写真家。横浜市出身。 代表作は、日本・アメリカ・メキシコ・カナダでのレースに迫った写真集『レーシング』、ラリーを舞台にした写真集『THE RALLY』など。写真家として、モータースポーツフォトグラフィーを独創的な視点で切り開いた。 1941年、神奈川県横浜市に生まれる。東京写真短期大学(現東京工芸大学)卒業。NTV報道カメラマンを経て、1967年フリーランスに。この年にサザンクロス・ラリー(オーストラリア)を取材する。1968年メキシコに渡り、メキシコオリンピック公式フォトグラファーをつとめる。それ以降、主にモータースポーツを撮影する。
中村 梧郎(なかむら ごろう、1940年12月8日 - )は… 中村 梧郎(なかむら ごろう、1940年12月8日 - )は、日本の報道写真家。敬愛大学・環境情報研究所客員研究員、現代写真研究所副所長、日本写真家協会会員。日本リアリズム写真集団代表理事。「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めている。 長野県岡谷市生まれ。長野県諏訪清陵高等学校卒業、中央大学工学部中退。 1970年以降のベトナム戦争の取材を通じて、枯葉剤による人体・環境被害を伝える作品を発表。土門拳らの推挙により、1976年の第1回JRP公募展「視点」大賞受賞を皮切りに、第8回伊奈信男賞など数々の賞を受賞。「母は枯葉剤を浴びた」(新潮文庫)は20年間に27万部余のロングセラーとなった。
篠山 紀信(しのやま きしん、本名の読み・みちのぶ、1940… 篠山 紀信(しのやま きしん、本名の読み・みちのぶ、1940年12月3日 - )は、東京市淀橋区柏木(現在の東京都新宿区北新宿)出身の写真家。
井上 隆雄(いのうえ たかお、1940年(昭和15年)7月2… 井上 隆雄(いのうえ たかお、1940年(昭和15年)7月21日 - 2016年(平成28年)7月21日)は、日本の写真家。日本写真家協会・日本ペンクラブ・民族芸術学会・日本写真学会、各会員。滋賀県大津市出身。 1965年(昭和40年)京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)卒業、1973年(昭和48年)写真家として独立。 2016年(平成28年)7月21日、肺炎のため京都市内の病院で死去、享年76歳。 主に民族芸術・仏教美術・生活などを企画撮影し、アジアを中心に世界各地を撮影した後、京都を中心に取材を重ねた。自然の撮影もライフワークの一つだった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
荒木 経惟(あらき のぶよし、1940年〈昭和15年〉5月2… 荒木 経惟(あらき のぶよし、1940年〈昭和15年〉5月25日 - )は、日本の写真家、現代美術家。「アラーキー」の愛称で知られ、丸い縁の黒めがねをトレードマークとする。 父の長太郎は下駄職人で、アウトローというわけではなかったが若気の至りで刺青を入れていた。長太郎は近所でも有名なアマチュアカメラマンとしても活躍し、荒木がカメラマンになるきっかけを与えた。生家の近所に位置する「投げ込み寺」として有名な浄閑寺が、彼の死生観を決定付けたと語っている。 高校時代からカメラ雑誌やオートバイ雑誌への写真投稿を始め、本人曰く「大学の学費は全て写真投稿による賞金で賄った」という。大学は「写真をやっているところ」として日本大学芸術学部、写真短期大学(現・東京工芸大学)、千葉大の3つが候補に上がったが「国立なので学費が安い」ということで千葉大を選んだ。
本橋 成一(もとはし せいいち、1940年4月3日 - 20… 本橋 成一(もとはし せいいち、1940年4月3日 - 2025年12月20日)は、日本の写真家、映画監督。東京都中野区生まれ。平和・協同ジャーナリスト基金の代表委員。 1960年代から写真家としての本格的な活動を始め、現在に至るまで炭鉱や魚河岸、上野駅、サーカス、屠場など市井の人々をテーマにした作品を数多く残している。 また1998年、チェルノブイリ原子力発電所事故の被災地で暮らす人々を撮影した『ナージャの村』を初監督、映画監督としてのキャリアをスタートさせる。 以降2002年『アレクセイと泉』、2006年『ナミイと唄えば』、2009年『バオバブの記憶』、2015年『アラヤシキの住人たち』と計5本の作品を監督。
沢渡 朔(さわたり はじめ、1940年〈昭和15年〉1月1日… 沢渡 朔(さわたり はじめ、1940年〈昭和15年〉1月1日 - )は、日本の写真家。東京府出身。女性ポートレートの分野を中心に幅広く活動。『少女アリス』等の写真集を出版。 中学の修学旅行の際に中古のリコーフレックスを入手し、写真を撮り始める。日大二高では写真部に所属。高校3年時に『サンケイカメラ』誌月例コンテストの中高の部でいきなり3作品を入賞させ、その後も月例コンテストの常連となる。 日芸の写真学科に進学後、月例コンテストの選者だった佐藤明のアドバイスで月例コンテストからは撤退。この頃、映画『死刑台のエレベーター』を見てジャズやヌーヴェルヴァーグに傾倒。詩人の白石かずことともに横田基地に通い、黒人女性や子供たちの撮影に取り組む。
遠藤 紀勝(えんどう のりかつ、1940年 - )は、日本の… 遠藤 紀勝(えんどう のりかつ、1940年 - )は、日本の写真家、民俗・民族学者。 兵庫県加東郡滝野町(現:加東市)出身。1963年、岡山大学を卒業。のちに5年間、スウェーデンのストックホルムに遊学する。写真家として活動しながら世界各地の民俗に関心をもち、著作をなす。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
名鏡 勝朗(めいきょう かつお、1940年 - )は、日本の… 名鏡 勝朗(めいきょう かつお、1940年 - )は、日本の写真家。古書籍、美術品、工芸品の写真を専門とする。 1940年、東京・江東区生まれ。千葉県市川市大野町在住。1963年、日本大学芸術学部写真学科卒業後、国立文化財研究所からの依託により文化財の撮影を担当していた小沢健志教授に1年間師事・研鑽し、さらに美術品撮影を専門としていた写真家の山本正勝のアシスタントをつとめた後に独立。美術工芸品や文化財の撮影を専門とする写真家として活動している。 その間、日本書誌学の第一人者である川瀬一馬や詩人・美術評論家の安東次男から薫陶をうけ、古書籍、美術、古美術の鑑賞や接し方について多くの教示を受け学んだ。
佐々木 隆二 (ささき りゅうじ、1940年 - )は、… 佐々木 隆二 (ささき りゅうじ、1940年 - )は、日本の写真家。宮城県生まれ。 気仙沼市出身。 仙台市在住。東北と宮澤賢治をモチーフに撮影活動を続けている。「仙台文学館ニュース」の表紙や仙台市市民文化事業団発行の季刊「まちりょく」などの写真を担当するほか、「仙台クラシックフェスティバル」のボランティアカメラマンなど、被災地での音楽活動を多く撮影している。 2015年9月15日から10月31日まで、仙台文学館において、「梶原さい子歌集『リアス/椿』―短歌と写真― 」と題し、写真と短歌のコラボレーション展示が行われた。 2017年8月13日から16日まで、気仙沼市の水梨文化館にて、戦後70年の写真展「いのち」を開催 。
土田 ヒロミ(つちだ ひろみ、1939年12月20日 - )… 土田 ヒロミ(つちだ ひろみ、1939年12月20日 - )は、日本の写真家。本名は宏美。男性。大阪芸術大学写真学科客員教授。ニコンサロン運営委員。 福井県南条郡今庄町(現・南越前町)出身。福井県立武生高等学校、福井大学工学部卒。ポーラ化粧品本舗(現・ポーラ)の開発部に勤務しながら東京綜合写真専門学校に通う。1971年よりフリーとなる。東京綜合写真専門学校校長を務めた後、2000年より大阪芸術大学教授となる。教え子に岡田敦など。 「人の群れ」に対して焦点をあてた写真を多く撮る。代表作は『俗神』『砂を数える』『ヒロシマ』。
上杉 満生(うえすぎ みつお、1939年11月13日 - 2… 上杉 満生(うえすぎ みつお、1939年11月13日 - 2009年12月25日)は、日本の写真家。琵琶湖などの風景写真を得意とした。 第1回前田真三賞(旧風景写真新人杯)受賞者。日本風景写真協会(略称JNP)創立に参画。日本風景写真協会の創設に尽力し、同協会初代会長として卓越したリーダーシップを発揮して1400名を超える組織を育て、まとめて来られたことは多くの風景写真愛好家の知るところである。 前田真三賞: 風景写真では国内最高峰の写真コンテストで二年がかりで審査される。一年目の予選は10枚二年目の本選は30枚の組写真を提出する必要があり、全て一貫性のあるテーマによって組まれていなければならず大変高いレベルが要求される。
森下 一徹(もりした いってつ、1939年〈昭和14年〉7月… 森下 一徹(もりした いってつ、1939年〈昭和14年〉7月1日 - 2021年〈令和3年〉5月4日)は、日本の写真家。 戦時中は福島県二本松に疎開していた。自動車工場の旋盤工をしながら東京都立小山台高等学校(定時制)を卒業。東京綜合写真専門学校で写真を学び、卒業後同校講師となる。 1964年、写真評論家、重森弘淹のすすめで原水爆禁止世界大会の記録を撮影していた時、被爆者のスピーチを初めて聞く。それまでの森下は、被爆者を原子爆弾で心身ともに破壊され、仕事もできずあわれでみじめな生活をしている人たちだと思っていた。しかし、彼らの核廃絶にかける強い意志と生きる力に満ちあふれたスピーチを聞いて深い感銘を受け、自分を恥じる気持ちでいっぱいになる。
栗林 慧(くりばやし さとし、1939年5月2日 - )は、… 栗林 慧(くりばやし さとし、1939年5月2日 - )は、日本の写真家、映像作家。 満洲国奉天市(現在の中華人民共和国瀋陽)生まれ、長崎県北松浦郡田平町(現:平戸市)出身。東京綜合写真専門学校中退。昆虫などの生物写真が専門。息子は現代美術家の栗林隆。 生物の撮影を元々の動機とした機材と技法の研究・開発は、生物写真の枠を超えて評価が高い。昆虫を大写しにするほどの接写であるにもかかわらず背景の無限遠までボケがわずかな、極端に被写界深度の深い「虫の目レンズ」や、飛び出す(ballistic dispersal)花粉等の 1/50000 秒を撮影するシステムの実現などがある。技術やノウハウはスチルにとどまらず動画でもその威力を発揮しており、これまでNHKの番組制作等に活用された。
安齊 重男(あんざい しげお、1939年3月27日 - 20… 安齊 重男(あんざい しげお、1939年3月27日 - 2020年8月13日)は、神奈川県厚木市出身の写真家、アート・ドキュメンタリスト。「現代美術の伴走者」を自称し、国内外の現代美術の現場を写真によって記録した。多摩美術大学客員教授。 1939年神奈川県厚木市生まれ。神奈川県立平塚高等学校の応用化学科を1957年に卒業し、1964年までは日本石油中央技術研究所に務めた。独学で美術に踏み入り、現代美術作家としての道を歩み始める。 転機は1969年、李禹煥の個展を準備中の画廊を訪問した時のことである。持っていたカメラで光景を撮影する姿を見た李が「みんなの展覧会の写真を撮ってくれないか」と声をかけ、以来、同年代の作家たちの作品を35mmフィルムカメラで記録するようになった。
片岡 義男(かたおか よしお、1939年3月20日 -)は、… 片岡 義男(かたおか よしお、1939年3月20日 -)は、日本の小説家、エッセイスト、写真家、翻訳家、評論家である。 東京生まれ。祖父の片岡仁吉は山口県の屋代島(周防大島)出身で、ハワイに移民した人物。父の定一は米国の市民権を有する日系二世 である。父は若い頃に苦学をして米本土に渡り、金銭的に余裕ができると、横浜や神戸に遊びにきていた。母は近江八幡の古くから続く数珠屋の娘で、奈良女子高等師範学校を卒業して、山口県の岩国で女学校の講師をしていた。父母は岩国で見合い結婚をして、その後アメリカに戻る予定であったが、戦争が近づいていたため、アメリカにはもどれず、母の希望で東京に出る。父は家庭内では英語しか話さず、家庭は英語と関西言葉が飛び交う場所だった。
増田 彰久(ますだ あきひさ、1939年1月2日 - )は、… 増田 彰久(ますだ あきひさ、1939年1月2日 - )は、日本の写真家。 1939年、東京生まれ。兵庫県立芦屋高等学校、日本大学芸術学部写真学科を卒業。増田彰久写真事務所を主催。
齋藤 利江(さいとう としえ、1939年 - )は、昭和30… 齋藤 利江(さいとう としえ、1939年 - )は、昭和30年代に撮影した写真を中心に活動を行う写真家。 1939年、群馬県桐生市出身。10歳の時に父親からカメラをもらったことがきっかけとなり写真撮影をはじめる。中学・高校の時から複数の写真コンテストに入賞、齋藤も写真家を夢見ていたが、父親が病に倒れたため写真家になる夢を断念。また、父親は齋藤が写真家になることに強く反対し、写真のネガを全て没収した。齋藤は家業でカメラ屋を営みながらも趣味として写真撮影を続け、コンテストへの応募や写真展を開催していた。 1999年、父親の遺品整理中に、処分されたと思っていた大量のネガフィルムが見つかる。これを機に60歳から写真家としての活動をはじめ、昭和30年代の撮影した写真による写真展や雑誌の連載などを行っている。
山村 雅昭(やまむら がしょう、1939年 - 1987年2… 山村 雅昭(やまむら がしょう、1939年 - 1987年2月28日)は、日本の写真家である。 1939年、大阪府に生まれる。 10代の頃より、カメラ雑誌のコンテストで多数の入選を果たした。1962年、日本大学芸術学部写真学科を卒業する。1967年、自身にとって初の個展「奢りへの戴冠」が村松画廊にて開催される。1976年、個展「植物に」がニコンサロンにて開催され、写真集『植物に』がTBデザイン研究所より刊行される。同年、第1回伊奈信男賞を受賞した。 1987年2月28日、死去。47歳没。
三留 理男(みとめ ただお、1938年12月1日 - 202… 三留 理男(みとめ ただお、1938年12月1日 - 2022年3月22日)は、日本の報道写真家。国連から恒久IDカードを発行された世界でも数少ないジャーナリストの一人。 1938年、日本統治下の朝鮮北部・沙里院(現在は北朝鮮・黄海北道沙里院市)に生まれる。1948年に長崎県佐世保市に引き揚げる。山口県立萩高等学校在学中に、元朝日新聞のカメラマンであった角川政治に師事、写真を学ぶ。 1958年に日本大学藝術学部写真学科に入学。在学中の1961年には写真集「Document 小児マヒの記録」(法政大学出版局)を出版した。同年には初の個展「どんづまり―筑豊の女たち」を開催し、各方面より高い評価を得る。
木村 仲久(きむら なかひさ、1938年11月26日 - 1… 木村 仲久(きむら なかひさ、1938年11月26日 - 1999年3月29日)は、日本の写真家。地方公務員。全日本写真連盟や二科会にて活動した。写真集団影法師、写真集団山月会影法師を創立。写真集「静岡の民家」で林忠彦賞受賞。長年撮り続けた富士山の写真集「富士秀景」は静岡県の作品として国外の要人への贈呈品とされている。 1938年(昭和13年)、静岡県志太郡大井川町(現・焼津市)に生まれる。1957年(昭和32年)、静岡県立静岡高等学校卒業。日本大学に進学し、旧工学部(現日本大学理工学部)の土木工学科で学んだ。卒業後は静岡県庁に入庁した。 静岡県の職員として勤務する傍ら、アマチュア写真家として全日本写真連盟や二科会で活動した。
関口 照生(せきぐち てるお、1938年11月13日 - )… 関口 照生(せきぐち てるお、1938年11月13日 - )は、日本の写真家。経済産業省産業部門有識者会議委員。日本写真家協会(J.P.S.)会員。倉敷芸術科学大学客員教授。 妻は女優の竹下景子。長男は俳優の関口まなと。次男は俳優の関口アナン。 東京府出身。埼玉県立熊谷高等学校卒業、明治大学文学部考古学専攻卒業。自然物や表情描写の巨匠・写真家柴田信夫に師事し、助手として働きながら、数々の雑誌写真を手掛ける。その後、フリーの写真家として、ジャーナリズム写真・広告、雑誌取材・コマーシャルの分野で活躍。特に女優をモデルにした写真で高い評価を受け、人物描写を中心した業績で電通賞などを受賞した。作品に「名取裕子写真集『序の舞』」、「かたせ梨乃写真集『DAY FOR NIGHT』」、「麻丘めぐみ写真集」、「泉谷しげる写真集『百面相』」(「火のLATIDO」、16m/m映画「エデン」が挙げられる。
森山 大道(もりやま だいどう、本名:ひろみち、1938年1… 森山 大道(もりやま だいどう、本名:ひろみち、1938年10月10日 - )は、日本の写真家。大阪府池田市生まれ。 ハッセルブラッド国際写真賞、ドイツ写真家協会賞、朝日賞、毎日芸術賞、日本写真協会作家賞などを受賞。 世界各国で高く評価されており、アメリカ、イタリア、イギリス、フランス、オーストリア、ベルギー、ドイツ、中国、スペインなどでも個展を開いている。 東京工芸大学客員教授、京都造形芸術大学客員教授、専門学校東京ビジュアルアーツ顧問、専門学校名古屋ビジュアルアーツ特別顧問。 過去に、ワークショップ写真学校や東京写真専門学校(現 東京ビジュアルアーツ)の講師など、さまざまな写真教育活動に当たるなど、教育活動も行っている。
中平 卓馬(なかひら たくま、1938年7月6日 - 201… 中平 卓馬(なかひら たくま、1938年7月6日 - 2015年9月1日)は、日本の写真家、写真評論家。 東京の原宿に生まれる。父は、書道家の中平南谿(本名:恵)。 東京都立小山台高等学校を経て、東京外国語大学スペイン語学科卒業。 『現代の眼』編集者時代には、柚木明の名前で作品を発表。1970年発表の写真集『来たるべき言葉のために』までは森山大道とともに「アレ、ブレ、ボケ(荒い画面、手ブレや被写体ブレ、ピント外れの意)」の作風で知られたが、1973年発表の『なぜ、植物図鑑か』では一転して「アレ、ブレ、ボケ」の作風を否定し、撮り手の情緒を排したカタログ写真や図鑑の写真のような写真を目指した。 作家の辺見庸は、2002年に出版した「永遠の不服従のために」で、「私の長く敬愛する写真家」と述べ、中平の『来たるべき言葉のために』について「その比類ない映像はほぼ三十年近くも私の胸の中に着床したままだ」と書き、自作品への影響を認めた。
水越 武(みずこし たけし、1938年5月1日 - )は、愛… 水越 武(みずこし たけし、1938年5月1日 - )は、愛知県豊橋市出身で北海道川上郡弟子屈町在住の写真家。 愛知県立時習館高等学校を1957年に卒業。1958年東京農業大学林学科を中退した後、田淵行男に師事、26歳の時から写真を始める。 1971年に独立。フリーフォトグラファーとして、山岳を中心とした自然写真などが評価される、国際的山岳写真家である。
河合 孝雄(かわい たかお、1938年4月30日 - 201… 河合 孝雄(かわい たかお、1938年4月30日 - 2019年10月14日[要出典])は、日本の写真家。女優撮影の第一人者である。 1938年4月30日、東京都大田区に生まれる。 日本大学芸術学部写真学科を卒業後、出版社写真部勤務を経て、フリーになる。日活、東映所属女優を多数撮り続け『平凡パンチ』など多数の男性週刊誌に掲載される。 学生時代は体育会山岳部に所属ネイチャーフォトグラファーを目指す。 卒業後は出版社に勤務、新興宗教教団をルポした「神様こんにちは」(サン出版)などを手がける。 二年後退社しフリーとなりロサンジェルスに3年遊学LAの日本人街等を撮る。 その頃二世のアマチュア写真グループに誘われて始めてヌードを撮り面白さに目覚める。
内藤 正敏(ないとう まさとし、1938年4月18日 - 2… 内藤 正敏(ないとう まさとし、1938年4月18日 - 2025年7月9日)は、日本の写真家、民俗学者。元・東北芸術工科大学大学院教授。日本民俗学会会員。見世物学会評議委員。 東京都大田区蒲田出身。1961年、早稲田大学理工学部応用化学科卒業。在学中より写真を制作。1961年倉敷レイヨン(現・クラレ)中央研究所入社。1962年フリーとなる。 1963年、出羽三山で修行。1966年には羽黒山伏の入峰修行を行う。以降、東北地方の民間信仰や民俗を中心とした撮影活動を展開。 2001年、東北芸術工科大学東北文化研究センター教授。2006年~2013年3月まで、同大学院教授。 2025年7月9日、肺炎のため東京都内の病院で死去。
石川 文洋(いしかわ ぶんよう、1938年3月10日 - )… 石川 文洋(いしかわ ぶんよう、1938年3月10日 - )は、日本の報道写真家。辺野古基金共同代表。父は作家の石川文一。 沖縄県那覇市首里鳥堀に生まれる。4歳の時に、家族で沖縄から千葉県船橋市に移り住んだ。 東京都立両国高等学校定時制卒業後、19歳で毎日映画社に勤務。1964年、世界無銭旅行を計画し、香港へ渡る。毎日新聞香港支局長の江頭数馬が手配したアパートで数日間の保護を受けた後、彼の骨折りによりファーカススタジオに紹介を受けて勤務する。 1965~68年、ベトナム共和国の首都サイゴン(当時)に滞在し、フリーでベトナム共和国軍やアメリカ軍に従軍し、戦場取材をおこなった。 1969年から朝日新聞社出版局写真部勤務。
須藤 功(すとう いさお、1938年2月12日 - )は、日… 須藤 功(すとう いさお、1938年2月12日 - )は、日本の民俗学写真家。 秋田県横手市に生まれる。1957年に川口市立県陽高等学校を卒業した。航空自衛隊写真班に所属していたが、1966年から日本観光文化研究所において宮本常一の教えをうける。1989年、日本地名研究所より第8回「郷土研究賞」を受賞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
比嘉 康雄(ひが やすお、1938年 - 2000年)は、沖… 比嘉 康雄(ひが やすお、1938年 - 2000年)は、沖縄県の写真家。フィリピン生まれ。東京写真専門学校卒業。
青柳 陽一(あおやぎ よういち、1938年(昭和13年) -… 青柳 陽一(あおやぎ よういち、1938年(昭和13年) - )は日本の写真家。
小池 潜(こいけ ひそむ、1938年 - 2023年11月2… 小池 潜(こいけ ひそむ、1938年 - 2023年11月29日)は、日本の山岳写真家。日本山岳写真協会会員、日本山岳会会員。 岐阜県吉城郡上宝村(現在の高山市)出身で高山市在住。日本大学理工学部を卒業とともに小池義清(父)の後を継ぎ、北アルプスの双六小屋、鏡平山荘、わさび平小屋を経営。1988年からは黒部五郎小舎も経営する。そのかたわら、山岳写真を撮り続け、作品を雑誌やカレンダーなどに多数発表。 詳細は写真集の自伝を参照。
横須賀 功光(よこすか のりあき、1937年11月26日 -… 横須賀 功光(よこすか のりあき、1937年11月26日 - 2003年1月14日)は、日本の写真家。 神奈川県横浜市生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。 大学在学中から資生堂の社内報『ハウスオーガン』の仕事に就く。 1983年、日本人初のイタリアンヴォーグ、ドイツヴォーグ、フレンチヴォーグのフリーランススタッフカメラマンとなる。 前田美波里、山口小夜子、宮沢りえなどの資生堂ポスターを撮影。
森永 純(もりなが じゅん、1937年11月11日 - 20… 森永 純(もりなが じゅん、1937年11月11日 - 2018年4月5日)は、日本の写真家。 1937年、長崎県長崎市にて誕生。日本大学芸術学部写真学科を卒業し、1962年にアメリカ合衆国の写真家であるユージン・スミスの助手を勤めていた。日本写真批評家協会新人賞、日本写真協会年度賞を受賞。 2018年4月5日、心不全のため死去。80歳没。
立木 義浩(たつき よしひろ、1937年10月25日 - )… 立木 義浩(たつき よしひろ、1937年10月25日 - )は日本の写真家。徳島県徳島市出身。東京写真短期大学卒業。女優写真の第一人者。
みや こうせい(1937年9月26日 - )は、日本の写真家… みや こうせい(1937年9月26日 - )は、日本の写真家、エッセイスト。 岩手県盛岡市出身。本名は宮暠成。岩手県立盛岡第一高等学校卒業。ルーマニアを題材とした批評、ルポ、ノンフィクション、翻訳など幅広く活動する。 1998年、ルーマニア文化功労賞受賞。
市野 道弘(いちの みちひろ、1937年〈昭和12年〉1月1… 市野 道弘(いちの みちひろ、1937年〈昭和12年〉1月1日 - 2019年〈平成31年〉10月28日)は、日本の写真家(富士山)。静岡県駿東郡小泉村久根出身。35年以上、富士山だけを被写体に、写真撮影を行った。現代の写真家では珍しく、リバーサルフィルムだけを使用した写真撮影にこだわった。主に使用していた機材は、HASSELBLAD 503CW(ハッセル・ブラッド)、FUJIFILM GA645Zi(フジフイルム)である。リバーサルフィルムは、FUJIFILM Velvia100 Professional(フジフイルム)を多用した。元フォトクラブ赤富士&岩波会長。元矢崎総業常務取締役。元(株)エーライフ矢崎社長。
竹田津 実(たけたづ みのる、1937年 - )は、日本の随… 竹田津 実(たけたづ みのる、1937年 - )は、日本の随筆家・写真家・獣医師。大分県東国東郡竹田津町出身。大学卒業後、1991年まで獣医師として北海道の家畜診療所に勤務。キタキツネなどの野生動物の観察、撮影、治療、リハビリなどにも取り組む。写真集、随筆、児童書などの多数の著作がある。 幼い頃の夢は動物園の園長になることであった。このことが獣医学を専攻する切っ掛けとなる。大学入学直後に動物園の園長になることが難しいことがわかり、園長になることを諦める。大学時代は、カナダのアルバータ州で獣医をすることを希望していたが断念。大学卒業後は、北海道の知床の野生動物に憧れて、斜里町への就職をもとめたがかなえられず、隣の町である斜里郡小清水町の家畜診療所に獣医師として勤務し、家畜の診療に携わる。
江成 常夫(えなり つねお、1936年10月8日 - )は、… 江成 常夫(えなり つねお、1936年10月8日 - )は、日本の写真家。九州産業大学名誉教授。 アメリカに住む日本人の戦争花嫁や中国残留孤児、旧満洲国、原爆など主に日本の負の遺産を撮った写真で知られる。また近年は九州産業大学教授、ニッコールクラブ会長、ニコンサロン運営委員も務めた。 1998年、右脇の下に悪性腫瘍が見付かり、2000年5月手術を行い回復したが、現在も闘病中である。また、この経験から、自分自身や身近にある何気ない風景にも眼を向けたテーマで写真を撮っている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
桑原 史成(くわばら しせい、本名はふみあき、1936年10… 桑原 史成(くわばら しせい、本名はふみあき、1936年10月7日 - )は、日本の報道写真家。水俣病の先駆的な写真家として知られる。 島根県鹿足郡木部村(現・津和野町)生まれ。 1960年3月、東京農業大学と東京総合写真専門学校をともに卒業。フリーの写真家になることを目指す。就職を選ばなかったため、母親から一度郷里に帰れという電報が届く。東京駅に餞別に来た友人から、車中で読めと言って渡された夕刊や雑誌の中に、『週刊朝日』5月15日号があった。同号に掲載された小松恒夫の現地ルポ「水俣病を見よ」に衝撃を受けた桑原は、水俣病の取材撮影を決意。小松に水俣市立病院(現・国保水俣市立総合医療センター)の大橋登院長宛ての紹介状を書いてもらい、同年7月14日、熊本県水俣市に入る。
渡辺 典博(わたなべ のりひろ、1936年8月11日 - 2… 渡辺 典博(わたなべ のりひろ、1936年8月11日 - 2015年6月2日)は、日本の写真家。茨城県鹿嶋市出身。 巨樹・巨木の撮影をライフワークとして活動した。 鹿島神宮の宮司を代々つとめた鹿島家をルーツとし、神宮の森の傍らの家に育つ。明治初期に鹿島神宮大宮司、伊勢神宮大宮司を歴任した鹿島則文は曽祖父にあたる。 茨城県立麻生高等学校を卒業後、日本大学芸術学部写真学科に入学。新宿区若松町の下宿で、落語家の9代目三笑亭可楽、漫画家の高井研一郎等と青春時代を送る。大伯父に日展の理事長もつとめた画家の辻永がいて薫陶を受けた。 卒業後はフリーランスで週刊誌やPR誌を中心に活動する傍ら、人間国宝や落語家をテーマに撮影を行う。
中平 穂積(なかだいら ほづみ、1936年8月3日 - 20… 中平 穂積(なかだいら ほづみ、1936年8月3日 - 2024年12月1日)は、日本のジャズ・フォトグラファー。国内外の著名なジャズミュージシャンと親交があり、アルバムのジャケット撮影や、経営するジャズ喫茶にて、ライブやレコーディングを多数おこなっている[要出典]。 和歌山県本宮町(現・田辺市)生まれ。和歌山県立新宮高等学校を経て、1960年日本大学芸術学部写真学科卒業。1961年2月、新宿に「DIG」を開店する。3月、「ジャズ・アーティスト写真展」を開催した。同月に結婚する。 1963年に「DIG」渋谷店をオープンする。1965年に、「ジャズ・カレンダー」の製作を開始した。 1966年、初渡米し、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビスを撮影。