鴇田 正憲(ときた まさのり、1925年6月24日 - 20… 鴇田 正憲(ときた まさのり、1925年6月24日 - 2004年3月5日)は、兵庫県神戸市出身のサッカー選手、経営者。1940年代から1950年代の日本を代表する右ウイング。 神戸市立西灘小学校、兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高校)を経て、1944年に関西学院大学経済学部に入学。在学中はサッカー部に所属し、関西学生サッカーリーグなどで優勝した。 1950年3月に大学を卒業後、1950年4月に田辺製薬(現:田辺三菱製薬)に入社。サッカー部では、賀川太郎とのコンビで活躍し、全日本実業団サッカー選手権大会で6連覇を含む7回の優勝に貢献。また、杉本茂雄らと共に「関学クラブ/全関学」(現役、OBで構成される混成チーム)の一員として全日本選手権大会 (現:天皇杯全日本サッカー選手権大会)で4回の優勝の優勝に貢献した。
銭村 健次(ぜにむら けんじ、1925年頃 - 没年不明)は… 銭村 健次(ぜにむら けんじ、1925年頃 - 没年不明)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)ホノルル生まれ、広島県出身の元サッカー選手(FW)。慶應義塾大学卒。
賀川 浩(かがわ ひろし、1924年12月29日 - 202… 賀川 浩(かがわ ひろし、1924年12月29日 - 2024年12月5日)は、兵庫県出身のスポーツライター、サッカー選手。賀川太郎(元サッカー日本代表)は実兄。 神戸一中2年にサッカー部にマネージャーとして入部、5年時にはFW選手として全国大会を制覇。その1ヶ月後に第二次世界大戦が始まった。戦争末期には特別攻撃隊に志願し、出撃数日前に終戦を迎えた。朝鮮北部の海州にいた賀川は上官であった川上晃良(社会人登山家で、戦後利尻岳の冬季初登頂を果たす)らと共に部隊の飛行機に乗って南側に脱出することが出来た。 復員後神戸商大、大阪サッカークラブなどの黄金時代に選手として活躍し、優勝、東西対抗出場、天皇杯準優勝などを経験した。
大埜 正雄(おおの まさお、1923年3月2日 - 2001… 大埜 正雄(おおの まさお、1923年3月2日 - 2001年2月11日)は、神奈川県出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW、HB。 神奈川県立湘南中学時代の1939年に全国中等学校蹴球選手権大会(全国高等学校サッカー選手権大会の前身)でベスト4に進出。1940年に湘南中学を卒業し、旧制水戸高等学校に進学。東京帝国大学経済学部へ進学しア式蹴球部に所属。東大LB(現役、OBで構成される混成チーム)の一員として有馬洪らと共に1949年の全日本選手権の優勝に貢献した。 大学卒業後は日産化学工業に入社した(勤務先でサッカー部活動を行ったかは不明)。 1955年に松永碩、岩淵功らと共に東京クラブに加入。
宮田 孝治(みやた こうじ、1923年1月15日 - )は日… 宮田 孝治(みやた こうじ、1923年1月15日 - )は日本出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはハーフバック(現在の守備的MF)。
賀川 太郎(かがわ たろう、1922年8月9日 - 1990… 賀川 太郎(かがわ たろう、1922年8月9日 - 1990年3月6日)は、兵庫県神戸市出身の元サッカー選手。 神戸一中(現・県立神戸高校)、神戸経済大学(現・神戸大学)を経て、1948年に田辺製薬サッカー部に入団。全日本実業団サッカー選手権大会で6連覇を含む7回の優勝を遂げた田辺製薬の黄金期を支えた一人だった。同時期の天皇杯全日本サッカー選手権大会には大阪クラブの選手として出場し、1951年から3年連続で準優勝している。 日本代表としてもワールドカップ・スイス大会予選など、国際Aマッチ5試合に出場した。 2006年に第2回日本サッカー殿堂入りした。サッカーライターの賀川浩は実弟である。
則武 謙(のりたけ けん、1922年7月18日 - 1994… 則武 謙(のりたけ けん、1922年7月18日 - 1994年3月6日)は日本のサッカー選手。ポジションはFW。 兵庫県立第一神戸中学校時代は岩谷俊夫らと共に1941年に明治神宮大会優勝、翌1942年に橿原神宮大会優勝と明治神宮大会連覇に貢献した。1941年に神戸経済大学に進学し、戦後の1947年4月3日に行われた第1回東西対抗戦に関西選抜の一員として出場した。 日本代表としては1951年3月3日のインド空軍戦で代表デビュー。同月9日の1951年アジア競技大会のアフガニスタン代表戦で国際Aマッチの出場歴を有する。
諸橋 晋六(もろはし しんろく、1922年7月13日 - 2… 諸橋 晋六(もろはし しんろく、1922年7月13日 - 2013年6月23日)は、東京府北豊島郡出身の実業家、サッカー選手。
松永 信夫(まつなが のぶお、1921年12月16日 - 2… 松永 信夫(まつなが のぶお、1921年12月16日 - 2007年9月25日)は静岡県志太郡出身のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフルバック。「ベルリンの奇跡」の立役者だった松永行は実兄。日本軽金属などに所属し、日本代表として1954 FIFAワールドカップ・予選など、国際Aマッチ4試合に出場した。 静岡県立志太中学校(現静岡県立藤枝東高等学校)、東京文理科大学(現:筑波大学)卒業。第二次世界大戦中の1943年に陸軍に徴兵されフィリピン・ミンダナオ島に配属された経験を持つ。 戦後、志太クラブや後藤缶詰でプレーを続け、インドで1951年アジア競技大会が開催された際、日本代表に選出されたが、前述の陸軍の経験もあってビザの発給が許可されなかったという。
加納 孝(かのう たかし、1920年10月31日 - 200… 加納 孝(かのう たかし、1920年10月31日 - 2000年6月4日)は、東京都出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW(左ウイング)。 左足のボールテクニックとスピードを生かしたドリブル突破が持ち味のウインガー。戦前、戦後を通じて日本代表として活躍し、インナー(現在の攻撃的MF)の岩谷俊夫とは名コンビとして知られた。 東京府立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)時代の1937年1月に開催された第18回全国中等学校蹴球選手権大会に出場。卒業後は早稲田大学理工学部へ進学しア式蹴球部に所属。早大WMW(現役選手とOBからなる混成チーム)の一員として1940年の全日本蹴球選手権大會 (第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の準優勝に貢献した。
加藤 信幸(かとう のぶゆき、1920年1月2日 - )は日… 加藤 信幸(かとう のぶゆき、1920年1月2日 - )は日本出身の元サッカー選手。ポジションはハーフバック。 東京帝国大学へ進学し運動会ア式蹴球部へ入部。4年次には主将を務めた。戦後の1947年に田辺製薬へ加入。1950年代に全日本実業団サッカー選手権大会で強さを誇った同クラブの中心選手として活躍した。 日本代表としては戦前、戦後を通じて活躍した。1942年8月8日の東亜競技大会で代表デビュー。1951年3月にインドで開催された第1回アジア競技大会に出場するなど国際Aマッチ1試合に出場した。
多和 健雄(たわ たけお、1918年10月29日 - 200… 多和 健雄(たわ たけお、1918年10月29日 - 2007年6月)は、愛媛県出身の教育者、体育学者、サッカー選手、サッカー指導者。 選手として旧制兵庫県立第三神戸中学校、東京高等師範学校でプレーして、中央大学法学部を卒業した。 大学卒業後は、都立高校体育科教諭として東京都立大泉高等学校などに勤めた。その後、東京教育大学講師となり、1954年には蹴球部監督として関東大学サッカーリーグ戦1部で優勝した。後に教授に昇格し、大学の改編に伴い、筑波大学教授となる。筑波大学退職後は、青山学院大学で教鞭を執った。 主にサッカーの普及・研究において顕著な業績を残した。日本サッカー協会理事・普及指導部長、日本ミニサッカー連盟会長、FIFAコーチングスクール校長、日本幼少児健康教育学会名誉会員などを歴任した。
小畑 実(おばた みのる、1918年6月7日 - 1986年… 小畑 実(おばた みのる、1918年6月7日 - 1986年5月1日)は、日本の元サッカー選手、元サッカー指導者。広島県出身。慶應義塾大学卒。 元日本代表FW。元東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)監督、元同チーム総監督。 1936年(昭和11年)、広島一中(現広島国泰寺高校)が全国中等学校蹴球選手権大会(現全国高校サッカー選手権)で初優勝を果たした時の左インナー(FW)。1937年(昭和12年)卒業。同年度卒に、久保道正(第一産業創業者)、藤田一暁(フジタ社長)、頼實正弘(広島大学学長)などがいる。 二宮洋一、津田幸男らとともに、戦前の慶應義塾大学体育会ソッカー部黄金時代の左インサイドとして活躍した。
大谷 四郎(おおたに しろう、1918年4月23日 - 19… 大谷 四郎(おおたに しろう、1918年4月23日 - 1990年11月9日)は、兵庫県神戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者、サッカージャーナリスト。東洋紡元社長の大谷一二は実兄。また、俳優の大谷亮介は長男、高畑裕太は孫である。 1918年4月23日神戸市御影生まれ。内海紡績常務取締役を務めた大谷恭助の四男として生まれる。御影師範学校附属小学校時代からサッカーに親しみ、兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)でサッカー部に入部。1934年の全国招待大会、1935年の全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)に優勝し、2年連続全国大会制覇を達成した。第一高等学校(文科乙類)在学時代にも得点力のあるFWとして活躍。
笠原 隆(かさはら たかし、1918年3月26日-没年不明)… 笠原 隆(かさはら たかし、1918年3月26日-没年不明)は、日本の元サッカー選手。大学生の時にサッカー日本代表として出場経験があり、現役時代のポジションはミッドフィールダー。 笠原は神戸一中サッカー部及び慶應義塾体育会ソッカー部に在籍し、1937年の全日本蹴球選手権大會(現:天皇杯全日本サッカー選手権大会)で、慶応義塾大学の初優勝を成し遂げた。彼はまた、慶應義塾大学の選手と卒業生で構成される母校の慶應BRBでもプレイし、津田幸男、二宮洋一、篠崎三郎と共に、1939年と1940年の天皇杯でも優勝した(以後、天皇杯は戦争で1941-1945年まで中断となる)。1941年慶應義塾大学経済学部卒業。
直木 和(なおき かず、1918年3月23日 - 1940年… 直木 和(なおき かず、1918年3月23日 - 1940年代)は、日本のサッカー選手。 旧制兵庫県立第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)出身で、1933年に全国中等学校蹴球選手権大会で優勝した。 旧制第六高等学校(現在の岡山大学)を経て、東京帝国大学法学部に入学してア式蹴球部に入部。在学中の1939年8月27日に大連で行なわれた大連関東州代表との国際親善試合で日本代表デビューし、1940年6月16日に紀元二千六百年奉祝東亜競技大会において行なわれたフィリピン代表との国際親善試合にも日本代表として出場した。後者は、2007年に国際Aマッチとして認定された。 1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
二宮 洋一(にのみや ひろかず、1917年11月22日 - … 二宮 洋一(にのみや ひろかず、1917年11月22日 - 2000年3月7日)は、兵庫県出身のサッカー選手、サッカー指導者。第二次世界大戦後初のサッカー日本代表監督を務めた。現役時代のポジションはフォワード。 兵庫県御影師範学校付属小学校を経て、1934年に旧制第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を卒業し、慶應義塾大学予科に進学。予科時代より慶應義塾体育会ソッカー部に入部して、予科1年より関東大学リーグに出場した。1938年より慶應義塾大学法学部政治学科に進学。1941年の大学卒業まで慶應義塾ソッカー部および慶應BRBの選手として、全日本選手権大会(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で、4度の優勝(1936年、1937年、1939年、1940年)を経験した。
津田 幸男(つだ ゆきお、1917年8月15日 - 1979… 津田 幸男(つだ ゆきお、1917年8月15日 - 1979年4月17日)は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはGK。兵庫県神戸市出身。 第一神戸中学校時代に二宮洋一、直木和らと共に1933年に全国中等学校蹴球選手権大会(後の全国高等学校サッカー選手権大会)で優勝。卒業後には二宮と共に慶應義塾大学へ進学し、体育会ソッカー部へ入部。レギュラーの座を掴むと関東大学サッカーリーグ戦4連覇(1937年、1938年、1939年、1940年)、1937年の全日本総合蹴球選手権大会 (後の天皇杯全日本サッカー選手権大会)優勝、慶應BRB(現役選手とOBからなる混成チーム)の一員として1936年、1939年、1940年の全日本総合蹴球選手権大会 優勝に貢献した。
末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 19… 末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 1998年11月)は、広島県出身のサッカー選手。 広島一中時代は、センターフォワード(CF)だった。早稲田大学理工学部に進学してア式蹴球部に所属、高橋英辰らが同期であり、1938年の全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝メンバーに名を連ねている。また、1940年4月の全日本蹴球選手権大會(第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)では早大WMWのメンバーとして大会準優勝に貢献した。 また、大学在学中の1939年8月27日には関東州代表戦でサッカー日本代表として初出場。また、同年9月の日満華交歓競技大会および1940年6月の紀元二千六百年奉祝東亜競技大会に出場し、国際Aマッチ1試合を含む合計4試合に出場した。
加茂 正五(かも しょうご、1916年12月12日 - 19… 加茂 正五(かも しょうご、1916年12月12日 - 1977年9月14日)は、静岡県浜松市出身のサッカー選手。ポジションはFW(左ウイング)。 静岡県立浜松第一中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)の在学中より実兄の加茂健とともにサッカーを初め、早稲田大学に入学後はア式蹴球部に所属。在学中の1936年にベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、1回戦のスウェーデン代表戦に出場。0-2の状況から、49分に川本泰三、62分には右近徳太郎の得点をアシストして試合を振り出しに戻し、チームの逆転勝利に貢献した。 また、在学中の1938年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)でチームの優勝に貢献した。
高橋 英辰(たかはし ひでとき、1916年4月11日 - 2… 高橋 英辰(たかはし ひでとき、1916年4月11日 - 2000年2月5日)は、福島県福島市出身のサッカー選手、サッカー指導者。サッカー日本代表監督を務め、2009年に日本サッカー殿堂入りした。 刈谷町立亀城小学校(現・刈谷市立亀城小学校)4年の時にサッカーをはじめ、愛知県刈谷中学校(現:愛知県立刈谷高等学校)から早稲田高等学院を経て、早稲田大学に入学。在学中はア式蹴球部に所属した。 1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックの日本代表は、当時日本最強だった早稲田のメンバーを中心に構成されたが、在学中の1940年に開催予定の東京オリンピックは幻となった。大学卒業後の1941年(昭和16年)に日立製作所サッカー部に入り、同年の明治神宮競技大会において実業団の部で準優勝を飾った。
島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 200… 島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 2005年11月3日)は、岡山県出身の会社役員、サッカー選手、第7代日本サッカー協会会長。 1928年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1933年に同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、石川馨(東京大学名誉教授)、中村光夫(文芸評論家)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。 旧制水戸高校(現・茨城大学)を経て、1936年に東北帝国大学法文学部に入学。1940年3月に大学を卒業して三菱重工業に入社した。1941年に太平洋戦争の召集を受けて従軍、1945年にシベリア抑留に遭い、1947年に帰国。
加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3… 加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3月26日)は、静岡県出身のサッカー選手。ポジションはインナーレフト。加茂正五は弟。 静岡県浜松師範学校付属小学校4年時にサッカーを始める。浜松一中では5年時にキャプテンを務め、中部大会に優勝した。 早稲田大学入学後はア式蹴球部に所属。在学中の1936年に開催されたベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、背番号10を付けた。1回戦のスウェーデン代表戦に出場し、ベルリンの奇跡の立役者となった。また、2回戦のイタリア代表戦にも出場した。 また、1938 FIFAワールドカップ・予選および1940年東京オリンピック の日本代表にも選出されたが、試合会場となるベトナムへの渡航に難色を示した大日本蹴球協会(現:日本サッカー協会)によりW杯予選への不参加が決定された。
中垣内 勝久(なかがいち かつひさ、1915年1月5日 - … 中垣内 勝久(なかがいち かつひさ、1915年1月5日 - 1991年7月2日)は、三重県出身のサッカー選手、サッカー指導者。 東京文理科大学附置東京高等師範学校体育科の在学中より蹴球部に所属。在学中の1935年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に松永行らと出場して準優勝の成績を残した。 1939年に卒業して京都府庁で勤務。また、同時期に東京文理科大学教育学部に進学して、1945年に卒業している。なお、1940年6月に開催された紀元二千六百年奉祝東亜競技大会のサッカー日本代表に選出されたが、出場機会は無かった。なお、1951年12月に開催された親善試合のヘルシンボリIF戦で日本代表として出場を果たした。
不破 整(ふわ せい、1915年 - 1982年11月)は、… 不破 整(ふわ せい、1915年 - 1982年11月)は、東京府出身のサッカー選手。ポジションはGK。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)を卒業して、第一早稲田高等学院へ、その後早稲田大学に入学。ア式蹴球部に在籍した。 不破が21歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出されたが、同じ早稲田大学から代表に選出された佐野理平がスタメンを占めたため、出場機会は無かった。 また、早稲田大学在学中の1938年に全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝、1939年には同大會(第19回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で準優勝に貢献した。 1940年に早稲田大学理工学部採鉱冶金学科を卒業、同年日本製鋼所に入社するが、1941年春に太平洋戦争のために召集され満州に配属された。
播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年… 播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年7月19日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。兵庫県神戸市出身。 兵庫県御影師範学校附属小学校を経て、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)に入学し、サッカー部に所属。右近徳太郎が2年先輩に、直木和、津田幸男および二宮洋一が1年後輩に当たる。1933年1月に開催された第15回全国中等学校蹴球選手権大会での優勝に貢献した。 1933年に神戸一中を卒業して、慶應義塾大学予科に入学。慶應入学後よりソッカー部に所属して予科1年次よりレギュラー選手となった。また、在学中には慶應BRBで1度(1936年)、慶應義塾大学として1度(1937年)の計2回全日本選手権(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝した。
松永 行(まつなが あきら、1914年9月21日 - 194… 松永 行(まつなが あきら、1914年9月21日 - 1943年1月20日)は、静岡県志太郡出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。 静岡県志太郡東益津村(現焼津市)出身。松永信夫、松永碩は実弟。静岡県立志太中学校(現:静岡県立藤枝東高等学校)に入学してサッカー部に所属した。なお、笹野積次は志太中での1年先輩に当たる フォワードを務め、100メートルを10秒8台で走る俊足であったという。東京文理科大学附置東京高等師範学校に入学し、蹴球部に所属。在学中の1935年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に中垣内勝久らと出場して準優勝の成績を残した。 1936年のベルリンオリンピックの日本代表に選出。
野澤 晁(のざわ あきら[要出典]、1914年8月15日ー2… 野澤 晁(のざわ あきら[要出典]、1914年8月15日ー2000年5月13日[要出典])は、広島県出身のサッカー選手、日本代表選手(全日本)。フォワード。野澤正雄は実兄。 広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)から1933年、早稲田大学へ入学。早稲田大学ア式蹴球部で、川本泰三、堀江忠男、加茂健、加茂正五、西邑昌一らと関東大学リーグを四連覇、東京大学ア式蹴球部黄金期後の早稲田大学黄金時代に貢献した。 大学在学中の1934年には日本代表に選出され、第10回極東選手権大会(マニラ)出場。足を痛めていた川本に次ぐフォワードとして全3試合にフル出場。第2戦のフィリピン代表戦では、相手に胸を蹴られて肋骨が折れ、意識を無くすほどの重症を負ったが、逆転の決勝ゴールを叩き込むなど3試合3得点を決めた。
川本 泰三(かわもと たいぞう、1914年1月17日 - 1… 川本 泰三(かわもと たいぞう、1914年1月17日 - 1985年9月20日)は、愛知県瀬戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者、実業家。ポジションはフォワード。 小学校時代に大阪へ転居、大阪府立市岡中学からサッカーを始め、1930年に第12回全国中等学校蹴球選手権大会に出場してベスト4の成績を残した。1931年に市岡中学を卒業し、早稲田高等学院(予科に相当)を経て早稲田大学に入学。予科在学中からア式蹴球部で試合出場し、予科3年の1933年から早大の関東大学リーグ4連覇に貢献した。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されて、5月15日のオランダ領東インド代表戦で初出場し、初得点も決めた。
笹野 積次(ささの せきじ、1914年頃 - 2004年以前… 笹野 積次(ささの せきじ、1914年頃 - 2004年以前)は、静岡県出身のサッカー選手。 静岡県立志太中学校(現・静岡県立藤枝東高等学校)の4期生にあたり、同中学5期生の松永行は1年後輩に当たる 志太中を卒業後は早稲田大学に入学して、ア式蹴球部に入部した。在学中の1936年に開催されたベルリンオリンピックの日本代表に選出されたが出場機会は無かった。 また、在学中の1938年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の優勝メンバーとなった。現役引退後は静岡県の職員を務めた。 なお、詳細な没年は不明であるが、2004年3月時点で故人となっている
右近 徳太郎(うこん とくたろう、1913年9月23日 - … 右近 徳太郎(うこん とくたろう、1913年9月23日 - 1944年9月15日)は、兵庫県武庫郡住吉村(現:神戸市東灘区)出身のサッカー選手。 豊富な運動量とパスの技術に長けるゲームメーカーで、フォワードからフルバックまでどこでも水準以上のプレーをして見せたという。 1913年9月23日、実業家・資産家の右近福次郎、とき(旧姓小寺)の子として、住吉村にて生まれる。兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)の4年生だった1930年、第12回全国中等学校蹴球選手権大会で全国優勝を経験。翌1931年に慶應義塾大学に入学し、ソッカー部では予科1年時から主力選手として活躍。在籍中、チームは関東大学リーグなど大学対抗大会において数々の好成績を挙げた。
堀江 忠男(ほりえ ただお、1913年9月13日 - 200… 堀江 忠男(ほりえ ただお、1913年9月13日 - 2003年3月29日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者、経済学者。早稲田大学名誉教授。 現役時代のポジションはポジションはフルバック(現在のディフェンダー)。静岡県浜名郡舞阪町(現:浜松市)出身。 静岡県立浜松第一中学校(現:静岡県立浜松北高等学校)時代にサッカーを始め、早稲田高等学院を経て早稲田大学政治経済学部に進学。在学中はア式蹴球部に所属した。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されて、5月15日のフィリピン代表戦で初出場した。また、1936年にはベルリンオリンピックの日本代表に選出された。
村形 繁明(むらかた しげあき、1913年5月11日 - 2… 村形 繁明(むらかた しげあき、1913年5月11日 - 2007年9月6日)は、東京都出身のサッカー選手、サッカー審判員。選手時代のポジションはGK。 東京府立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)時代にサッカーを始める。第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学理工学部に入学し、ア式蹴球部に入部した。4年次の1936年に後輩の佐野理平の台頭や、川本泰三の勧めもあってマネージャーへ転向した。 1937年に大学を卒業して三井物産に入社。同時に審判としての勉強も始め、同年7月に大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)審判研修会に参加した。 戦後、日本スポーツ界の国際大会への復帰が認められると、オリンピック招致と1958年のアジア大会が待ち構えていた。
鈴木 保男(すずき やすお、1913年4月30日 - 200… 鈴木 保男(すずき やすお、1913年4月30日 - 2000年以前)は、神奈川県出身のサッカー選手、サッカー指導者。日本代表としてベルリンオリンピックに出場した。後に改姓して高島保男となった。 東京府立第八中学校 (現:東京都立小山台高等学校) を卒業後、早稲田大学に入学してア式蹴球部に入部した。堀江忠男や立原元夫らが同期に当たり、大学在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、5月15日のフィリピン代表戦で初出場した。 1936年に大学を卒業した。同年に開催されたベルリンオリンピックのサッカー日本代表メンバーに選出され、8月7日のイタリア代表戦に出場した。
立原 元夫(たつはら もとお、1913年1月14日 - 没年… 立原 元夫(たつはら もとお、1913年1月14日 - 没年不明)は、東京市品川区出身のサッカー選手。 法曹の雄と呼ばれた花井卓蔵の五男として生まれた。卓蔵の生家であった立原家に跡継ぎが無く断絶していたため、1928年(昭和3年)4月に立原姓を名乗り、立原家を死跡相続した。 東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属高校)在学中よりサッカーを始め、1933年に早稲田大学に入学し、在学中はア式蹴球部に所属した。1934年に開催された第10回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、5月13日のオランダ領東インド(現:インドネシア)代表戦で日本代表として初出場した。1935年にはア式蹴球部の主将を務めた。
佐野 理平(さの りへい、1912年9月21日 - 1992… 佐野 理平(さの りへい、1912年9月21日 - 1992年3月26日)は、静岡県出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはGK。日本代表として、1936年のベルリンオリンピックに出場した。
大谷 一二(おおたに いちじ、1912年8月31日 - 20… 大谷 一二(おおたに いちじ、1912年8月31日 - 2007年11月23日)は、兵庫県出身のサッカー選手、実業家。サッカー元日本代表。東洋紡績会長・名誉顧問。サッカー記者の大谷四郎は実弟。 内海紡績常務取締役を務めた大谷恭助の次男として生まれる。兵庫県立第一神戸中学校では右近徳太郎とコンビを組み全国制覇を達成。兵庫県立神戸高等商業学校を卒業後に鐘紡に入社するが1年で退社して、1934年に神戸商業大学(現神戸大学)に入学。同大学ではサッカー部を創設して、関西学生リーグで優勝を果たした。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など3試合に出場して1得点を上げた。
西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - … 西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - 1998年3月22日)は、日本のサッカー選手、および指導者。兵庫県出身。旧制甲陽中学(現甲陽学院高等学校)、関西学院大学および早稲田大学卒業。 選手時代はフォワードを務めた。1930年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で関学クラブの一員として、後藤靱雄や堺井秀雄らとともに優勝に貢献した。 早稲田大学に在籍していた1934年に第10回極東選手権のサッカー日本代表に選出され、5月15日のフィリピン代表戦で同点に追いつく得点をあげた。 西邑が25歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出された が、本大会での出場機会は無かった。
福島 玄一(ふくしま げんいち、1911年4月6日 - 19… 福島 玄一(ふくしま げんいち、1911年4月6日 - 1994年)は、宮城県出身の歯科医師、サッカー選手、サッカー審判員。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)でサッカーを始め、日本歯科医学専門学校(現:日本歯科大学)でもサッカー部に入部。1933年に大学を卒業し以降も第一生命保険などでプレーした。 1936年の全日本蹴球選手権大會(第16回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で線審を務め以降、日本サッカー協会の審判員として活動を続けた。1958年からは国際審判員としてAFCユース選手権や1964年の東京オリンピックで主審を務めた。1969年には国際Aマッチ10試合以上の条件をクリアし、国際サッカー連盟(FIFA)から日本人初の審判特別功労賞(FIFA Referees’Special Award)を受賞した。
河本 春男(かわもと はるお、1910年3月28日 - 20… 河本 春男(かわもと はるお、1910年3月28日 - 2004年1月27日)は、愛知県出身の実業家、サッカー選手・指導者。 愛知県の出身。1923年に入学した愛知県立刈谷中学校(現・愛知県立刈谷高等学校)時代よりサッカーを始める。1928年に入学した東京高等師範学校(現・筑波大学)でも蹴球部(現在の筑波大学蹴球部)に所属した。1932年に同校を卒業後は兵庫県立第一神戸中学校の体育教諭となり、同校サッカー部の部長も務め、同年に開催された全国中等学校蹴球選手権大会で優勝に導いた。 1941年に第二次世界大戦に伴って従軍するが、1943年に除隊した。1947年より実業界に進んで、1958年に「アルプスバター神戸直売所」を創業。
篠島 秀雄(しのじま ひでお、1910年1月21日 - 19… 篠島 秀雄(しのじま ひでお、1910年1月21日 - 1975年2月11日)は、日本の実業家、サッカー選手。三菱化成工業(現在の三菱ケミカル)の社長などを歴任した。 栃木県上都賀郡日光町(現:日光市)出身。東京府青山師範学校附属小学校から東京高等学校尋常科、東京高等学校高等科文科乙類を経て、1928年に東京帝国大学に入学。東京帝大ではア式蹴球部に入部して主将も務めた。また、在学中の1930年(昭和5年)に開催された第9回極東選手権のサッカー日本代表に選出され、2試合に出場して優勝に貢献した。 1931年に東京帝国大学法学部を卒業して三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社。1941年3月、田邊五兵衛商店(現在の田辺三菱製薬)に転じて専務取締役に就任。
堺井 秀雄(さかい ひでお、 1909年6月16日 - 19… 堺井 秀雄(さかい ひでお、 1909年6月16日 - 1996年6月3日)は、兵庫県芦屋市出身 のサッカー選手、会社役員。 幼少期は兵庫県神戸市で過ごした。関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学 して、サッカー部に所属。関学クラブの一員として1929年10月および1930年2月に開催された2度のア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会および第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で後藤靱雄らと共に2大会連続で優勝した。そのプレースタイルは地味ながらもシュート力は正確無比であった。 1932年3月に卒業 して、湯浅蓄電池製造(現在のジーエス・ユアサコーポレーション)に入社。
市橋 時蔵(いちはし ときぞう、1909年6月9日 - 没年… 市橋 時蔵(いちはし ときぞう、1909年6月9日 - 没年不詳)は、兵庫県出身のサッカー選手、サッカー審判員。 兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)の蹴球部に所属し、1927年に神戸一中を卒業。 慶應義塾大学に入学後はソッカー部に入部。在学中の1930年5月に第9回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、フィリピン代表戦で初出場し、得点も決めた。1931年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に慶應BRBのメンバーとして出場して準優勝に貢献した。 慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後の1936年3月、大日本蹴球協会の理事会でベルリン五輪の日本代表候補に選出された(最終メンバーからは落選、ベルリンの奇跡を参照)。
松丸 貞一(まつまる ていいち、1909年2月28日 - 1… 松丸 貞一(まつまる ていいち、1909年2月28日 - 1997年1月6日)は、東京都文京区本郷出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはハーフバック(現在のミッドフィールダー)、フォワード。 東京府立第五中学校(現在の東京都立小石川中等教育学校)3年生時の1924年に同校で蹴球部が創設されたことを機にサッカーを始める。慶應義塾大学に進み、1932年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業した。ソッカー部では1931年より主将を務め、1932年に関東大学リーグと東西大学1位対抗に初優勝した。 天皇杯は1933年4月に慶應BRBの選手として第12回大会で優勝、同年10月には東京OBクラブの選手として第13回大会で優勝、1936年には再び慶應BRBの選手として第16回大会で優勝した。
工藤 孝一(くどう こういち、1909年2月4日 - 197… 工藤 孝一(くどう こういち、1909年2月4日 - 1971年9月21日)は、岩手県岩手郡川口村(現:岩手町)出身のサッカー選手、サッカー指導者。ベルリンオリンピックのサッカー日本代表コーチを務めた。 旧制・岩手県立盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)から1927年に第一早稲田高等学院へ進学。ゴールキーパーとして全国高等学校ア式蹴球大会に出場、1929年の第6回大会の優勝に貢献した。1930年に早稲田大学商学部に入学し、ア式蹴球部に入部。一時はフォワードに転向して競技を続けたが、体格に劣ることから選手生活に見切りを付け、マネージャーとして活動するようになった。 1933年に大学を卒業後、一時大同生命保険に就職したが、後に同盟通信社に転職。
井出 多米夫(いで ためお, 1908年11月27日 - 1… 井出 多米夫(いで ためお, 1908年11月27日 - 1998年8月17日 )は、静岡県清水市(現:静岡市)出身のサッカー選手、サッカー指導者。 静岡県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)を卒業。 早稲田大学に入学後はア式蹴球部に入部した。工藤孝一が同期に当たる。在学中の1930年5月に開催された第9回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、1試合に出場した。 1933年10月開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第13回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に東京OBクラブの一員として優勝した。 1942年に地元の清水市に戻って静岡県立庵原中学校(現:静岡県立清水東高等学校)などで指導し、1948年には同年に創設された清水サッカー協会の初代理事長に就任した。
竹内 悌三(たけうち ていぞう、1908年11月6日 - 1… 竹内 悌三(たけうち ていぞう、1908年11月6日 - 1946年4月12日)は、東京府(現在の東京都)出身のサッカー選手。朝鮮銀行副総裁・野球研究者の君島一郎は岳父。照明デザイナーの石井幹子は娘。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)在学中よりサッカーを始め、浦和高等学校を経て、1928年に東京帝国大学に入学してア式蹴球部に入部した。在学中の1930年に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦で日本代表として初出場した。 1932年に東京帝国大学経済学部卒業後は東京火災保険会社に入社。1936年に開催されたベルリンオリンピックの日本代表に選出され、主将としてスウェーデン代表戦など2試合に出場した。
斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - … 斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - 2004年)は大阪府出身の経営者、サッカー選手。 父親は貿易商であり大阪府で生まれた。 帝塚山学院小学校、桃山中学校を経て、関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学。在学中はサッカー部に所属し1年次よりスタメンGKに定着。同級生に後藤靱雄がおり、1929年10月に開催された明治神宮大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に優勝するなどの成績を残した。 1930年3月に卒業。同年5月に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など2試合に出場し、大会優勝に貢献した。
田辺治太郎 (たなべ ちたろう、1908年3月18日 - 1… 田辺治太郎 (たなべ ちたろう、1908年3月18日 - 1972年10月16日)は、日本の実業家、元サッカー選手、サッカー指導者。大阪府出身。1972年勲三等瑞宝章。 田辺製薬株式会社(現・田辺ファーマ株式会社)代表取締役社長、代表取締役会長を歴任した。
高師 康(たかもろ こう、1907年11月9日 ‐ 1995… 高師 康(たかもろ こう、1907年11月9日 ‐ 1995年3月26日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者、新聞記者。埼玉県北足立郡浦和町(後のさいたま市浦和区)出身。選手時代のポジションはフォワード、ハーフバック。高師康夫とも表記される。 1914年、埼玉師範学校附属小学校に入学し、6年時の1919年に同校で初めて開催された校内試合に出場し優勝した。高師は自著の中で「埼玉県の小学生でサッカーらしいサッカーをやったのは、私たちが最初であろう」と記している。 1920年に旧制埼玉県立浦和中学(現、埼玉県立浦和高等学校)へ進学し、4年時の1923年にア式蹴球部を創部。5年時の1924年に東京高等師範学校主催の全国中等学校蹴球大会に出場した。