盛田 嘉徳(もりた よしのり、1912年7月30日 - 19… 盛田 嘉徳(もりた よしのり、1912年7月30日 - 1981年7月2日)は、芸能研究者、同和教育者・運動家。 富山県出身。1937年早稲田大学文学部国文科卒。大阪学芸大学助教授、1959年大阪教育大学教授。1976年「中世賤民と雜芸能の研究」で早大文学博士。1978年大阪教育大を定年退官、名誉教授。中世芸能史が専門。部落解放同盟の前身、解放委員会に創立当初から参画し、大阪府をはじめ各地方自治体の同和対策審議会委員を務める。同和教育の研究と実践を進め、1953年全国同和教育研究協議会幹事。1968年部落解放研究所(現部落解放・人権研究所)副理事長。1980年松本治一郎賞受賞。
岡 映(おか あきら、1912年7月10日 - 2006年4… 岡 映(おか あきら、1912年7月10日 - 2006年4月13日)は岡山県出身の部落解放運動家、歴史家。 岡山県英田郡江見町(現・美作市)の被差別部落に生まれ、京都で友禅職人として働く。1932年、日本共産党に入党。 1935年、全国水平社第13回全国大会に参加。 戦後は、農民運動・重税反対闘争に積極的に取り組んだ。 岡山県美作地方を中心に岡山県農民同盟の活動や岡山県人民解放同盟青年協議会副会長、部落解放全国委員会岡山県連合会常任委員、および同書記長を歴任。 1955年、部落解放同盟岡山県連書記長に就任。同中四国ブロック協議会議長を経て、1966年、同県連委員長に就任。 1970年2月19日、第5回部落解放同盟岡山県委員会開催。
朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月1… 朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月14日 - 1999年1月8日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の教育者、公務員、政治家、実業家。朝鮮大学校の共同設立者で第1・4・7代総長、第2・4・5代韓国国会議員(第5代は参議員)。 本貫は密陽朴氏、族譜名は玟洙。漢字表記は朴喆雄とも。父は朝鮮末期の農民戦争に参加した農民軍の朴学俊。実業家の朴誠燮、コラムニストの朴誠賢(朝鮮語版)ら4男3女がいる。 全南高興出身。全州新興学校在学中光州学生運動に参加して全州刑務所に29日間収監された。1941年明治大学政経学部政治科卒。1943年日本高等科法制経済教員免許取得。全羅南道運輸課長、光州夜間大学院設立者、朝鮮大学園設立者・総長、朝鮮大学附属中学院・中学校設立者・校長・理事長、初代・第4・7代朝鮮大学校総長(1948年5月26日~1960年5月26日、1963年11月6日~1980年8月6日、1986年12月2日~1987年12月25日)、光州新報社長、無所属および自由党所属の民議員、無所属の参議員、国際連合韓国協会全南支部長・韓国首席代表、誠実工高技術学校設立者、木浦工業技術校設立者、木浦護国工高校設立者、全羅南道8郡農工技術校設立者、高麗セメント会長を務めた。
東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日… 東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。 京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。日記の一部記述について元上官と名誉毀損裁判となり、二審まで東日記の記述の公表に公益性は認定されたものの、事実であるかについて客観的証拠がないと判定され、最高裁で上告理由がないとして、そのまま損害賠償を命じられた。 京都府竹野郡間人村(たいざむら)出身。間人小学校を卒業後、1926年(大正15年)に京都府立第二中学校に進学した。
鈴木 セイ(すずき セイ、1912年〈明治45年〉3月30日… 鈴木 セイ(すずき セイ、1912年〈明治45年〉3月30日 - 2013年〈平成25年〉1月23日)は、日本の福祉活動家。群馬県桐生市境野町出身。 結核患者の介護を志し、母が娘の結婚のためにと貯蓄した資金を学費とし、1942年に看護婦免許、1948年に栄養士免許を取得した。1938年(昭和13年)、榛名山の麓に結核保養所の榛名荘(現、榛名荘病院)を開所し、常任理事に就任した。以後、終生にわたってこの榛名荘に第二の故郷として定住した。 重症心身障害児が福祉制度の対象にならず、障害児者関係制度の狭間に置かれていたことを憂慮し、1965年(昭和40年)、群馬県高崎市榛名山町で、群馬初の重症心身障害児施設である「はんなさわらび学園(現、はんな・さわらび療育園)を創設した。
原 全五(はら ぜんご、1912年3月21日 - 2003年… 原 全五(はら ぜんご、1912年3月21日 - 2003年7月17日)は、昭和から平成時代の社会運動家。日本共産党中央委員候補。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現南種子町)生まれ。小学校卒業。17歳のとき大阪に来て鉄工所の見習工となり、1932年3月大阪砲兵工廠に旋盤工として入社。大阪で同郷の先輩で、全協日本金属労働組合で非合法活動をしていた山田六左衛門から影響を受け、同年4月に全協日本金属労働組合大阪支部砲兵工廠分会を結成。同年5月には日本共産党に入党、共青・党関西地方委員会専従オルグとなった。1933年検挙、起訴猶予。1934年宮内勇らの日本共産党「多数派」に参加。1935年検挙、1937年起訴猶予。
山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月1… 山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月13日 - 2004年〈平成16年〉12月6日)は、日本の女優・実業家・社会事業家・慈善家。兵庫県神戸市長田区出身。本名・大久保 ふみ子(おおくぼ ふみこ)。映画人の育成、功績のあった人の賞賛、教育・文化・福祉事業への支援活動に、私財を投げ打った。 1912年、兵庫県神戸市に生まれる。1930年、森高等女学校(現・神戸学院大学附属高等学校)在学中に神戸新聞社主催のミス神戸に選出され、同年、大阪松竹楽劇部(現・OSK日本歌劇団)を経て、帝国キネマ演芸株式会社に新人幹部候補生として入社し、『時代の反抗児』で映画デビューを飾る。たちまち看板スターとして脚光を浴び、雑誌や広告にもモデルとして登場するが、演技への評価はあまり高くなかった。
重松 九州男(しげまつ くすお、1912年3月10日 - 没… 重松 九州男(しげまつ くすお、1912年3月10日 - 没年不明)は、日本の歯科医師、政治運動家・『日本世直し党』党首。 かつて党本部所在地として届け出ていた神奈川県大和市の住所には歯科医院が存在している。
阿部 竹松(あべ たけまつ、1912年(明治45年)3月7日… 阿部 竹松(あべ たけまつ、1912年(明治45年)3月7日 - 1973年(昭和48年)4月13日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 秋田県雄勝郡で生まれる。北海道上川郡和寒村(現和寒町)に家族と共に移住。1923年(大正12年)和寒尋常高等小学校を卒業。その後、秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を中退した。 農民運動にかかわった後、1937年(昭和12年)三菱鉱業(現三菱マテリアル)に入社し大夕張砿業所(三菱大夕張炭鉱)保安係となる。1945年(昭和20年)大夕張炭鉱労働組合の結成に参画し副委員長となる。日本社会党北海道連の結成に加わる。1947年(昭和22年)大夕張炭鉱労組委員長に就任し、同年、夕張市議会議員となる。
原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 19… 原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 1999年6月25日)は、日本の外科医、平和運動家。広島県広島市出身。広島市名誉市民。 旧制・広島県立広島第一中学校、旧制・広島高等学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業。第二次世界大戦中、軍医として中国大陸を転戦する。1946年(昭和21年)に広島へ戻り、原子爆弾投下直後の同市で爆心地にバラックの外科病院を作り、治療を開始する。被爆によるケロイド治療や原爆医療法の制定で中心的な役割を担うなど被爆者医療に尽力した。外科医としての活動の傍ら、平和運動に参加。1955年(昭和30年)体にケロイドの残る「原爆乙女」に付き添う形で訪米。渡米治療に道を開くとともに、原爆の惨禍を世界に伝えた。
桝本 セツ(ますもと せつ、1912年2月 - 没年不明)は… 桝本 セツ(ますもと せつ、1912年2月 - 没年不明)は、日本のロシア語翻訳家、政治運動家。岡邦雄の愛人として知られる。名前は節子とも。 長崎県生まれ。父は造船技師の桝本卯平、母は長崎の料亭で働いており、3歳のときに死別。日本女子大学附属女学校卒、東京女子高等師範学校中退。朝鮮京城で2年間ロシア語を学び帰国。唯物論研究会に入り、1936年に妻のある岡邦雄と恋におち、アパートに同棲。 1938年、岡とともに治安維持法違反で検挙される。1942年に男児、1944年に女児を生む。1946年、岡と日本共産党に入党。1957年に離党。1971年岡が死去する。
南 俊夫(みなみ としお、1912年〈明治45年〉1月31日… 南 俊夫(みなみ としお、1912年〈明治45年〉1月31日 - 没年不明)は、香川県綾歌郡出身の実業家、政治運動家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。
相馬 雪香(そうま ゆきか、1912年〈明治45年〉1月26… 相馬 雪香(そうま ゆきか、1912年〈明治45年〉1月26日 - 2008年〈平成20年〉11月8日)は、日本の平和活動家。位階は正五位。 「憲政の神様」と言われた尾崎行雄の三女であり、欧州を回る父に随行し、通訳を務めた。戦後は道徳再武装(MRA)運動などの社会活動に取り組むと共に、民主主義と議会政治の普及に尽力した尾崎行雄の理想の普及を目的とした「尾崎行雄記念財団」の副会長を務めた。また、インドシナ難民救済のために「難民を助ける会」を設立し、対人地雷廃絶に向けた活動、子供や障害者への援助に取り組んだ。他にも多くの団体の要職を務め、世界各地で活躍した。「日本のNGOのパイオニア」とも呼ばれる。
高橋 岩太郎(たかはし いわたろう、1912年1月25日 -… 高橋 岩太郎(たかはし いわたろう、1912年1月25日 - 2002年)は、日本のヤクザ、右翼活動家。日本国粋会落合一家六代目総長。東京都中野区本町出身。 明治45年(1912年)1月25日、東京府東多摩郡中野町(現:東京都中野区本町)で生まれた。実家は農業と酒造業を営む旧家だった。 大正12年(1923年)、中野の桃園尋常小学校を卒業。東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高校)に進学した。 同年9月1日昼、自宅の裏の鶏小屋で卵を取っていたところ、関東大震災に遭遇。中学校は半年間休校となった。その間、酒や煙草、博打を覚え、喧嘩に明け暮れるようになった。 大正14年(1925年)には喧嘩で相手を刺す事件を起こし、から放校処分を受けた。
島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年… 島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年〉1月15日 - 1968年〈昭和43年〉3月17日)は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 青森県弘前市で生まれる。小学校卒業後、市内のタンス店に職工として勤め、その後、無産運動に加わる。1932年、全農青年部青森県連合会執行委員に就任。1934年、日本共産党に入党したが、同年に検挙され懲役3年となり服役した。 戦後、日農の再建に尽力し、また日本社会党の結成に加わり、同青森県連選挙対策部長、同書記長、同委員長、弘前市議会議員、青森県議会議員などを務めた。 1958年5月、第28回衆議院議員総選挙に青森県第二区から出馬して当選。
日高 一輝(ひだか いっき、本名:鈴木 芳郎 すずきよしろう… 日高 一輝(ひだか いっき、本名:鈴木 芳郎 すずきよしろう、1912年(明治45年)1月6日 - 没年不明)は、日本の平和運動家、元世界連邦建設同盟理事長。元日本ラッセル協会常任理事。山形県鶴岡市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
太田 薫(おおた かおる、1912年〈明治45年〉1月1日 … 太田 薫(おおた かおる、1912年〈明治45年〉1月1日 - 1998年〈平成10年〉9月14日)は、昭和期の労働運動家。元日本労働組合総評議会(総評)議長、元宇部窒素(現・宇部興産→UBE)企画課長。春闘方式を定着させた人物。 岡山県林田村(現・津山市)生まれ。旧制津山中学、旧制第六高校を経て大阪帝国大学工学部応用化学科卒業。1935年に大日本特許肥料(現・三菱レイヨン)に入社するも入社4年目に重役と喧嘩をし、宇部窒素(現・宇部興産)に移る。宇部窒素入社後は窒素工場硫酸課長を経て、同工場企画課長と順調に昇進を果たすが、経営陣より八幡製鐵所の親和会をモデルに従業員組合を組成するよう命じられ、1946年に同社の初代労働組合長に推されると、それまでのポストを捨て、企業エリートから労働エリートへと転身を果たした。
有田 正憲(ありた まさのり、1912年 - 没年不明)は、… 有田 正憲(ありた まさのり、1912年 - 没年不明)は、宮崎県都城市出身の右翼、特殊株主、政治運動家(笹川良一秘書)、天理教布教師。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 重雄(すずき しげお、1912年〈明治45年〉 - 1… 鈴木 重雄(すずき しげお、1912年〈明治45年〉 - 1979年〈昭和54年〉1月31日)は、日本の社会福祉活動家。宮城県出身。らい予防法下の1970年代当時としては異例の、ハンセン病回復者の身分を明かしての社会復帰を果たした。愛生園での園名は田中 文雄(たなか ふみお)。 東京商科大学在学中にハンセン病に罹患し失踪、本名を捨てて愛生園で過ごす。ハンセン病回復者の社会復帰運動に当事者として内部から取り組む過程で再び故郷唐桑町との縁が生まれ、1973年には活動中に得たパイプから本名の鈴木重雄として唐桑町長選挙に出馬。 町長選には落選するもその後も地元唐桑町で地域貢献活動を続け、障害者支援施設「高松園」の設立を実現しつつ、1979年に自死によりこの世を去った。
二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月… 二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月18日 – 1983年(昭和58年)1月20日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。旧姓・松田。位階は正五位。 大分県大分郡石城川村高崎(挾間村、挾間町を経て現由布市挾間町高崎)で、松田克馬の三男として生まれる。1932年(昭和7年)大分県師範学校専攻科を卒業。大分県下の小中学校教員を務めた。この間に二宮家の養子となる。 戦後、組合運動に加わり、1948年(昭和23年)大分県教職員組合書記長、1949年(昭和24年)同教組執行委員長に就任。その他、憲法擁護大分県会長、バレーボール大分県協会会長などを務め、1951年(昭和26年)大分県議会議員に当選して3期在任し、大分県地方労働委員にも就任した。
志田 重男(しだ しげお、1911年<明治44年>11月21… 志田 重男(しだ しげお、1911年<明治44年>11月21日 - 1971年<昭和46年>7月3日)は、日本の労働運動家、社会主義活動家。日本共産党幹部を務めたが、除名された。 兵庫県津名郡浅野村(現・淡路市)生まれ。小学校を卒業後、1923年堺市で旋盤工となり、労働運動に入る。1932年日本労働組合全国協議会(全協)中央常任委員。1931年、日本共産党に入党し、1933年に検挙、投獄される。 第二次世界大戦後、政治犯釈放で出獄。党本部に入り、中央委員・政治局員・書記局員となり、1947年4月の第23回衆議院議員総選挙で大阪5区から、第1回大阪府知事選挙に共産党公認で立候補したがいずれも落選した。
矢嶋 三義(やじま みよし、1911年(明治44年)11月1… 矢嶋 三義(やじま みよし、1911年(明治44年)11月16日 - 1996年(平成8年)4月19日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。旧姓は安部。 大分県直入郡、現在の竹田市で安部家に生まれる。1933年(昭和8年)九州帝国大学附設教員養成所数学科を卒業した。 下野中学校教諭、栃木県立宇都宮中学校教諭、福岡県立八女中学校教諭、長崎県立長崎中学校教諭、熊本県立熊本中学校教諭、熊本県立熊本高等学校教諭などを務めた。 労働運動に加わり、熊本県教職員組合委員長、日本教職員組合九州地協委員長、熊本県学生協同組合理事長、同県教育会長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に無所属で出馬して当選し、1956年(昭和31年)7月の第4回通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
池田 峯雄(いけだ みねお、1911年8月30日 - 199… 池田 峯雄(いけだ みねお、1911年8月30日 - 1998年12月3日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(日本共産党公認、1期)を務めた。日本農民組合 (統一派)中央常任委員及び同常総同盟委員長などを歴任。 茨城県筑波郡作岡村安食(現在のつくば市安食)の小地主の家に生まれる。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)3年の時に、父の経営する会社が倒産し、新治郡土浦町(現在の土浦市)へ移住。同地の茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業後、結城郡宗道村(現在の下妻市)で代用教員に就く。この間、土浦中学校同級生の小林孝祐を介して文化サークルに参加、加藤四海ら全日本農民組合連合会(全農)関係者と親交を深めた。
髙本 善四郎(たかもと ぜんしろう、1911年8月11日 -… 髙本 善四郎(たかもと ぜんしろう、1911年8月11日 - 2007年12月7日)は、日本の実業家、慈善活動家。ダイトロン創業者。 京都府舞鶴町(現舞鶴市)吉原地区生まれ。吉原尋常小学校、京都府立舞鶴中学校(現京都府立西舞鶴高等学校)卒業後、貿易に携わるため、東京商科大学(現一橋大学)専門部に進学し、1944年に卒業後商社に入る。 太平洋戦争中は中国大陸で従軍し、日本の降伏後大阪で個人事業を起業。東京通信工業の『テープコーダー』を扱い、1952年には大阪市北区に大都商事(現ダイトロン)を設立。 90歳で経営から引退後は、福祉や教育分野での慈善活動のため2001年に滋賀県にダイトロン福祉財団を設立、舞鶴市社会福祉協議会への寄付などを行った。
佐々 栄三郎(戸籍名:榮三郎、ささ えいざぶろう、1911年… 佐々 栄三郎(戸籍名:榮三郎、ささ えいざぶろう、1911年(明治44年)8月10日 - 1990年(平成2年)1月28日)は、昭和期の農民運動家、政治家、郷土史学者。衆議院議員。 香川県出身。1935年(昭和10年)早稲田大学法律科を卒業した。 華北綜合調査研究所所員、香川県購買農業協同組合理事を務めた。また、香川県議会議員、四国地方開発審議会委員、日本社会党香川県本部書記長、同副委員長なども務めた。 1953年(昭和28年)4月、第26回衆議院議員総選挙で香川県第2区から左派社会党公認で出馬したが落選。以後、第29回、第30回総選挙でも落選した。1967年(昭和42年)1月の第31回総選挙で当選し、衆議院議員に1期在任した。
熊沢 光子(くまざわ てるこ、1911年8月9日 - 193… 熊沢 光子(くまざわ てるこ、1911年8月9日 - 1935年3月25日)は、戦前日本の社会運動家。大泉兼蔵のハウスキーパー (日本共産党)として日本共産党スパイ査問事件に巻き込まれ、逮捕後獄中自殺した。 愛知県名古屋市の弁護士の家庭に生まれる。愛知県立第一高等女学校在学中に教師村瀬示路のマルクス経済学の講義をきっかけにマルクス主義に目覚める。同校を1931年に卒業し、妹の勝子や仲間とともに部屋を借りてエスペラント語を学ぶ。愛知県庁に勤務。1931年、米よこせ運動や消費組合運動をしていた山本秋により社会運動に参加。1932年に上京し住み込みの女給となりカフェーを転々とし、同年秋の赤色ギャング事件の資金局本部事務員として検挙され、4か月留置の末、転向して釈放され帰郷。
八木 一男(やぎ かずお、1911年6月7日 - 1976年… 八木 一男(やぎ かずお、1911年6月7日 - 1976年9月11日)は、日本の政治家、部落解放運動家。元部落解放同盟中央執行委員。父は元衆議院議員の八木逸郎。 1911年奈良市に生まれる。東京帝国大学経済学部卒業とともに社会運動に参加。戦後、日本社会党に入党。1952年、第25回衆議院議員総選挙に奈良県全県区より立候補し当選。8期つとめた。社会党内の「部落解放特別委員会」設立に尽力し、党の部落解放政策要綱を作成した。 1959年部落解放審議会設置法案を国会に提出し同和対策審議会を設置させた。 1965年8月11日「同和対策審議会」答申が出されたとき、八木一男はとても感激した様子だったという。
権 五勲(クォン・オフン、朝鮮語: 권오훈/權五勳、1911… 権 五勲(クォン・オフン、朝鮮語: 권오훈/權五勳、1911年5月15日または1912年1月26日 - 1951年2月2日)は、朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。朝鮮戦争中に大邱に駐屯した米軍の銃撃により殺害された。 本貫は安東権氏(朝鮮語版)、号は木園(モグォン、목원)、カトリック教徒。 慶北大邱出身。養正高等普通学校、明治大学法学部、同校大学院卒。1931年より中国国民党の藍衣社で活動し、臨時政府と光復軍を支援した。1948年に護国軍106連隊副連隊長となり、その後は大韓独立促成国民会忠清南道支部副委員長を務めた。1950年の第2代総選挙では達城郡選挙区から当選した。 朝鮮戦争中の1951年1月26日、大邱南山派出所付近の住宅街で米軍2名が女性にセクハラしようとすると、大邱南区青年団団長のキム・ヨンドゥクと一緒に米軍を阻止しようとしたが、米軍が撃った銃によって左脇腹貫通傷を負った。
柄沢 とし子(からさわ としこ、本名:松島 登志子(と志子と… 柄沢 とし子(からさわ としこ、本名:松島 登志子(と志子とも)、1911年5月7日 - 2013年12月2日)は、日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を2期務めた。夫は日本共産党名誉幹部会委員の松島治重(1994年死去)。日本で最初に女性参政権が認められた、1946年総選挙で当選した日本最初の女性国会議員(39人)の一人。共産党女性国会議員第1号としても知られる。 北海道札幌市出身。北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)を卒業後、道庁などでタイピストをしながら日本労働組合全国協議会に参加。三菱美唄炭鉱などでストライキに関わるが、非合法活動により1929年以来数度検挙される。
斎藤 一郎(さいとう いちろう、1911年(明治44年)3月… 斎藤 一郎(さいとう いちろう、1911年(明治44年)3月15日 - 1968年(昭和43年)8月30日)は、昭和時代の労働運動家、労働評論家。 北海道長万部町生まれ。1930年山形県立新庄中学校(現山形県立新庄北高等学校)卒業。 1931年秋田で農民運動に参加。1932年全農全国会議秋田地方委員会を組織、日本共産党に入党。同年11月に治安維持法違反で検挙されて懲役5年の判決を受け、1939年に出獄。 敗戦後の1945年、共産党に再入党。1946年の結成時から産別会議の書記となり、党フラクションの責任者として労働運動を指導。1947年の二・一スト挫折の渦中に立つ。 1949年に労働組合政策をめぐって党中央と対立し、産別会議を離れ、共産党東京都委員に就任。
田中 織之進(たなか おりのしん、1911年2月27日 - … 田中 織之進(たなか おりのしん、1911年2月27日 - 1978年3月2日)は、和歌山県の被差別部落出身の政治家、新聞記者、部落解放運動家。衆議院議員。 九州帝国大学法学部卒。読売新聞社政経部次長の時に日本の敗戦を迎え、1947年、第23回衆議院議員総選挙に日本社会党から出馬して当選。この選挙で当選した部落出身議員には、ほかに田中松月、松井豊吉、吉川兼光、加藤静雄、宮村又八がいた。以後、社会党左派の議員として8選を重ね、日米安保反対派として論陣を張る。 1966年、貿易商社の不正輸出事件に絡み東京地検に恐喝容疑で起訴され、7年後に無罪が確定。この事件を機に社会党を離れ、無所属となる。 かたわら、部落解放全国委員会常任中央委員、部落解放同盟和歌山県連委員長、部落解放同盟常任中央委員、同書記長を歴任。
宗 道臣(そう どうしん、1911年(明治44年)2月10日… 宗 道臣(そう どうしん、1911年(明治44年)2月10日 - 1980年(昭和55年)5月12日)は、日本の武道家、思想家、教育者、社会指導者、社会運動家、宗教家。日本の武道の一つである少林寺拳法の創始者であり、北少林義和門拳第21代正統継承者(事実上の古典的嵩山少林寺における最後の正統継承者) 姓名は中野 理男(なかの みちお)、中野 道臣(なかの みちおみ)を経て、最終的には宗 道臣を名乗った 1911年(明治44年)2月10日、岡山県英田郡江見村(現・美作市)に生まれる。1919年(大正7年)、義父が死亡し、1924年(大正12年)に家出し、祖父の住む満州へと移る。1926年(大正15年)母と妹が死亡、1927年(昭和2年)には妹と祖父が死亡、天涯孤独となる。
福田 正義(ふくだ まさよし、1911年(明治44年)1月1… 福田 正義(ふくだ まさよし、1911年(明治44年)1月1日 - 2001年(平成13年)12月23日)は、日本の政治活動家。日本共産党(左派)中央委員会議長、長周新聞社主幹。
成瀬 幡治(なるせ ばんじ、1910年12月17日 - 19… 成瀬 幡治(なるせ ばんじ、1910年12月17日 - 1992年12月3日)は、日本の政治家、労働運動家。参議院議員(4期、日本社会党)。 愛知県西加茂郡小原村(現豊田市)に生まれる。本城小学校(現豊田市立本城小学校)卒業。1931年(昭和6年)、愛知第一師範学校専攻科卒業。教員となり、終戦後、愛知県教員組合の初代委員長に就任し、組合運動に参加。学校生活協同組合理事長なども務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に愛知県選挙区から日本社会党公認で立候補し、地方区としては全国最多得票数で初当選を果たした。1962年(昭和37年)に3選。 1966年(昭和41年)、翌年2月執行の愛知県知事選挙の候補者に社会党は成瀬を擁立。
木村 栄(きむら さかえ、1910年(明治43年)12月4日… 木村 栄(きむら さかえ、1910年(明治43年)12月4日 – 1991年(平成3年)12月31日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 島根県八束郡古江村(現松江市)で生まれた。松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を3年で中退し、1929年(昭和4年)に文学を志して上京したが半年で帰郷。農民運動に加わり、全国農民組合島根県連青年部書記を務めた。1931年(昭和6年)治安維持法違反容疑で起訴された。また、若松汽船大阪出張所、山陰道産業にも勤め、のち陸上小運搬業も経営した。 戦後、日農島根県連の結成に参与し書記長に就任し、県農地委員となり農地改革を推進した。日本共産党に入党し、1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で島根県全県区から共産党公認で出馬して初当選。
野村 かつ子(のむら かつこ、1910年11月26日 - 2… 野村 かつ子(のむら かつこ、1910年11月26日 - 2010年8月21日)は、日本の社会運動家。生活協同組合の組織など、消費者運動に取り組んだ。 京都市西陣の商家、稲垣家に生まれ、カツと名付けられる。姉・貞(後の鑓田貞子)の影響もあり、早くからキリスト教に傾倒する。 京都府立京都第一高等女学校(京都府立鴨沂高等学校の前身)から、同志社女子専門学校(同志社女子大学の前身)英文科に進み、賀川豊彦、中島重などの薫陶を受ける。 女専在学中に同志社大学法学部の学生だった野村治一と結婚。かつ子は1931年に女専を卒業し、夫との間に長女と長男をもうけた。夫・治一は、同志社大学法学部に助手として残り、やがて助教授に昇任したが、1937年に肺結核のため他界した。
太田 一夫(おおた かずお、1910年11月19日 - 19… 太田 一夫(おおた かずお、1910年11月19日 - 1990年11月3日)は、日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(5期、日本社会党)。保革を問わず「いっぷさん」と親しまれた。 愛知県矢作町大字渡(現岡崎市渡町字宮西)生まれ。碧海郡矢作高等小学校(現岡崎市立矢作中学校)を経て、1927年(昭和2年)に上京。東京市下谷区の岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)に入学。下谷区坂本町4丁目にあった東京朝日新聞の新聞販売店で住み込みで働きながら、昼間は学校に通う。1929年(昭和4年)10月、同校を首席で卒業。12月、名古屋鉄道に入社。 1945年(昭和20年)12月10日、名古屋鉄道労組を結成。1948年(昭和23年)8月、名古屋鉄道労組書記長、私鉄中部地連書記長に就任。
品川 司(しながわ つかさ、戸籍名:藤戸 光秀、旧名:韓 光… 品川 司(しながわ つかさ、戸籍名:藤戸 光秀、旧名:韓 光秀、1910年〈明治43年〉11月15日 - 1992年〈平成4年〉12月3日)とは、朝鮮忠清南道燕岐郡出身の政治運動家、平和運動家、頭山満門下の右翼である。 私財をつぎこんで授産所や診療所の運営を行っていた。 原水協に先んじて、原水爆実験禁止運動を手がけて、100万人の署名運動を起こした。 世論新聞社社主、平和公論社社主、財団法人平和厚生会理事長、国民民主党総裁、日本民主党総裁。 自称していた略歴は下記の通り。 本籍東京都、広島県出身。1938年誠進會設立、1940年専修大学経済専科卒。1945年国弘通信社社主、誠進會を政経社に改組。
向井 長年(むかい ながとし、1910年11月6日 - 19… 向井 長年(むかい ながとし、1910年11月6日 - 1980年6月23日)は、日本の労働運動家、政治家、参議院議員(4期)。 1910年、奈良県宇陀郡室生村に生まれる。1932年日本大学法律学科卒業。はじめ東邦電力に入社、奈良支店に配属、戦後は関西電力に属す。日本電気産業労働組合(初代書記長は佐々木良作)が結成されると関西地方本部委員長に就任するが、後に電産執行部の路線を批判して脱退。関西電力労働組合を結成して初代委員長となる。 奈良総評議長4期を経験し、1959年7月の参院選全国区に日本社会党から立候補し初当選(連続4回)。 1960年1月前年に社会党から離党した旧右派系(西尾派、河上派の一部)による民主社会党結成に参加。
中村 順造(なかむら じゅんぞう、1910年(明治43年)9… 中村 順造(なかむら じゅんぞう、1910年(明治43年)9月26日 - 1969年(昭和44年)2月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 山口県、現在の美祢市出身。小学校卒業後、中央鉄道教習所運転高等科を卒業し日本国有鉄道に就職。国鉄機関士、華中鉄道機関士、運輸省技官、教官などを歴任。 労働運動に加わり、日本国有鉄道機関車労働組合(のち国鉄動力車労働組合)副委員長、同委員長、機労政治連盟議長、全交通運輸労組協議会副議長などを歴任。 1959年(昭和34年)6月の第5回参議院議員通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬して初当選(補欠、任期3年)し、1962年(昭和37年)7月の第6回通常選挙で全国区から出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日… 小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日 - 1997年(平成9年)8月6日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県三島郡寺泊町(現・長岡市)に生まれる。1928年(昭和3年)北海中学校卒業。1935年(昭和10年)中央大学法学部卒業。 中央大学卒業後、東京倉庫運輸株式会社入社。その後、幹部候補生の教育を受けて、陸軍主計大尉として終戦を迎えた。 第二次世界大戦敗戦のショックを経て「これからは余生だ」「人の役に立ちたい」と立候補を決意。1946年(昭和21年)平野力三の自宅を訪れ政治への熱意を語るが、当時新潟には戦前からの有力社会党派閥が既存しており、実績のない小林の入党は断わられる。
伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 20… 伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 2001年11月29日)は、日本の映画プロデューサー、労働運動家。日本映画演劇労働組合の初代委員長として、東宝争議を指揮した。本名伊藤 武男(いとう たけお)。 1910年(明治43年)7月17日、福井県に「伊藤武男」として生まれる。 東京に移り、早稲田大学に入学、同学を卒業後の1937年(昭和12年)、東宝映画(現在の東宝)に入社する。東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で、1942年(昭和17年)、渡辺邦男監督の『武蔵坊弁慶』で伊藤基彦とともに初めて「製作」に名を連ね、映画プロデューサーとなる。 第二次世界大戦終結の翌年、1946年(昭和21年)2月に東宝撮影所で東宝争議が起きる。
影山 正治(かげやま まさはる、1910年〈明治43年〉6月… 影山 正治(かげやま まさはる、1910年〈明治43年〉6月12日 - 1979年〈昭和54年〉5月25日)は、日本の右翼活動家、思想家、歌人。 愛知県豊橋市生まれ。家は神官。父は影山庄平。豊橋中(現在の愛知県立時習館高等学校)卒、國學院大學哲学科中退、在学時代から右翼運動に入り、1931年(昭和6年)全国大日本主義同盟、日本学生連合に参加、32年生産党常任中央委員、33年神兵隊事件で検挙。36年に維新寮を結成、39年これを大東塾と改め塾長となった。40年7月皇民有志決起事件で検挙、42年禁錮5年の判決を受けたが、43年には特赦となった。44年11月応召。1946年5月帰国。54年4月3日大東塾再建。
相沢 良(あいざわ りょう、明治43年〈1910年〉5月15… 相沢 良(あいざわ りょう、明治43年〈1910年〉5月15日 - 昭和11年〈1936年〉1月28日)は、日本の女性平和運動家、共産党活動家。 青森県南津軽郡野沢村(現在の青森県青森市)吉野田字木戸口2番地に生まれる。相沢家は3代続く藩医の家であった。家族は、父・武良、母・秀、祖母、姉・千代、妹・京、弟・企救麿。父の助手や看護婦も住み込みで働いていた。 1923年(大正12年)4月、県立青森高等女学校に進学。小学生当時の相沢良は、2つ年長の青森高女の姉・千代と同級生で仲の良い淡谷のり子が遊びに来ていて、出会っている。 1927年(昭和2年)3月卒業後、英語を習得するため黒石の親戚の家から弘前女学校に1年間通う。
椿 繁夫(つばき しげお、1910年5月13日 - 1991… 椿 繁夫(つばき しげお、1910年5月13日 - 1991年10月26日)は、日本の労働運動家、政治家。元参議院議員。 鳥取県東伯郡羽合町(現在の湯梨浜町出身)。13歳の頃大阪へ出て旋盤工となる。 大阪市役所職員を経て、社会大衆党公認で大阪市会議員選挙に立候補し、当選する。 戦後日本社会党結成に参加し1950年の第2回参議院議員通常選挙で参議院議員に当選(3年議員)。1952年左右分裂で社会党左派に参加。1953年の第3回参議院議員通常選挙で落選するが、社会党再統一後の1956年に第4回参議院議員通常選挙で返り咲く。通算3期務める。 日本社会党の役員としては党参議院国会対策委員長を経て、1963年河上丈太郎委員長の下で党参議院議員会長に就任。
和田 四三四(わだ しさし、1910年(明治43年)4月12… 和田 四三四(わだ しさし、1910年(明治43年)4月12日 - 1942年(昭和17年)8月13日)は、昭和時代前期の社会運動家。 出自はもと伊予松山藩主・久松松平家の一族。父松平定安、母マツの六男として愛媛県松山市に生まれ、のち温泉郡道後湯之町の和田家の養子となる。愛媛県立松山中学校(現:愛媛県立松山東高等学校)を経て、1931年(昭和6年)3月に松山高等商業学校(現:松山大学)を卒業する。卒業後は、同校図書館にて勤めた後、大阪市港区の法律事務所で労働運動について研究した。1932年(昭和7年)全国労働組合同盟(日本労働組合同盟の後身)大阪金属港南支部連合会書記となり、消費組合運動を進める。
小笠原 二三男(おがさわら ふみお、1910年〈明治43年〉… 小笠原 二三男(おがさわら ふみお、1910年〈明治43年〉4月12日 - 1977年〈昭和52年〉7月5日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 岩手県遠野市出身。1930年(昭和5年)岩手県師範学校専攻科を卒業した。 小学校教員を20年間勤めた。戦後、労働運動に加わり全日本教員組合協議会副委員長に就任。日本教職員組合が結成され書記長に就任し、さらに同副委員長に就任。その他、日本教育会常務理事、教育刷新審議会委員、日本教育会館専務理事、日本社会党中央執行委員などを務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で岩手県第1区に社会党公認で出馬して次点で落選。1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に出馬して当選し、1956年(昭和31年)7月の第4回通常選挙でも再選され、参議院議員に連続2期在任した。
石賀 修(いしが おさむ、1910年4月1日 - 1994年… 石賀 修(いしが おさむ、1910年4月1日 - 1994年10月17日)は、日本の高校教諭、翻訳家、平和運動家。キリスト教徒。筆名イシガオサム。 福岡県出身。旧制福岡高等学校、東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。クエーカー、無教会主義のキリスト教に共鳴。療養生活中に、エスペラントとスウェーデン語を学ぶ。1934年、良心的兵役拒否者の支援などをしている平和主義国際組織「戦争抵抗者インターナショナル」WRIに加入し、1943年、良心的兵役拒否を実行。戦後は、国立療養所星塚敬愛園での勤務生活を経て、筑陽学園高等学校教諭。平和運動や人権活動の傍ら、セルマ・ラーゲルレーヴの作品を翻訳した。
柴谷 要(しばや かなめ、1910年〈明治43年〉2月27日… 柴谷 要(しばや かなめ、1910年〈明治43年〉2月27日 - 1995年〈平成7年〉4月26日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 群馬県碓氷郡秋間村(現・安中市)で生まれた。秋間尋常小学校(現・安中市立秋間小学校)卒業。1925年(大正14年)鉄道省に入省。1932年(昭和7年)鉄道教習所専門部を卒業した。 鉄道現業員組合に加入し、1946年(昭和21年)国鉄労働組合の結成に加わり、同上野支部副委員長、同東京本部委員長、同中央執行委員長、全官公庁労働組合協議会議長、全日本交通運輸労働組合協議会議長などを務めた。 1956年(昭和31年)7月、第4回参議院議員通常選挙に全国区から日本社会党公認で出馬して当選(任期3年)。
丁 明燮(チョン・ミョンソプ、朝鮮語: 정명섭、1910年2… 丁 明燮(チョン・ミョンソプ、朝鮮語: 정명섭、1910年2月12日または12月3日 - 1997年2月25日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。海南郡守、長興郡守、霊光郡守、和順郡守、第3・4・6代韓国国会議員などを歴任した。 本貫は羅州丁氏(朝鮮語版)。号は不輝(プルィ、불휘)。 中農の息子として全羅南道羅州郡出身。1929年、光州高等普通学校4年在学中に光州学生運動に参加し、1931年に卒業した。1938年中央大学法学部卒、1944年同大学院修了。しばらく同大学院で勤めた後、光復後に帰郷し、郷里で朝鮮建国準備委員会羅州郡委員長を務めたなど、各種社会団体で活動した。