三栖 右嗣(みす ゆうじ、1927年4月25日 - 2010… 三栖 右嗣(みす ゆうじ、1927年4月25日 - 2010年4月18日)は、神奈川県出身の洋画家である。本名は三栖 英二。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
職業が画家:2,021人
三栖 右嗣(みす ゆうじ、1927年4月25日 - 2010… 三栖 右嗣(みす ゆうじ、1927年4月25日 - 2010年4月18日)は、神奈川県出身の洋画家である。本名は三栖 英二。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
中野 弘彦(なかの ひろひこ、1927年4月3日 - 200… 中野 弘彦(なかの ひろひこ、1927年4月3日 - 2004年3月4日)は日本画家。山口県生まれ。京都市育ち。
宇野 藤雄(うの ふじお、1927年3月15日 - )は、日… 宇野 藤雄(うの ふじお、1927年3月15日 - )は、日本の画家。日本画及び洋画を専門とする。 愛知県丹羽郡羽黒村(現・愛知県犬山市)出身。幼いころより絵が好きで小学校時代は得意な絵で訓導(教師)より成績表で褒め称えられていたという。青春期は時あたかも第二次世界大戦中とぶつかり、自身も徴兵により軍隊に取られたこともあり、絵筆を握ることもままならなかった。 戦争終了後、20歳になった時から画家としての活動を始め、1952年度の二科展で初入選し、以後23年連続入選を果たしている。自身は和歌・俳句、仏教などあらゆる日本文化を研究しつくし、研究から得た知識をキャンパスに表現する手法を長年執っている。
下保 昭(かほ あきら、1927年(昭和2年)3月3日 - … 下保 昭(かほ あきら、1927年(昭和2年)3月3日 - 2018年(平成30年)8月7日)は、昭和から平成時代の日本画家。 1927年(昭和2年)富山県砺波市に生まれる。第1回富山県展(審査員に小坂勝人、櫻井鴻有)で富山市民賞を受賞し安嶋雨晶の紹介で1949年青甲社に入り、西山翠嶂に師事。日展を舞台に活動し特選白寿賞2回及び菊華賞や文部大臣賞などを受賞。1970年には、43歳で日展評議員に選任される。1982年日本芸術大賞、1985年に芸術選奨文部大臣賞。1988年に日展を脱会してからは一貫して山水を主題とする水墨画を追及。1990年京都市文化功労者、第3回MOA岡田茂吉賞、2000年北日本新聞文化賞、2002年京都府文化賞特別功労賞、2004年旭日小綬章。
松樹 路人(まつき ろじん、1927年1月16日 - 201… 松樹 路人(まつき ろじん、1927年1月16日 - 2017年12月19日)は、北海道出身の洋画家。本名は松樹路人(まつき みちと)。武蔵野美術大学名誉教授。 北海道留萌管内羽幌町に生まれた。小学校長であった父の転勤にともない、同網走管内留辺蘂町(現・北見市)・女満別町(現・大空町)で育つ。父の失職のため一家で東京に転居。 1944年に東京美術学校油画科に入学、梅原龍三郎の教室で学んだ。1950年に独立展に初入選し、同展への出品を続け、1960年に独立美術協会会員となる。1971年から武蔵野美術大学で学生を指導。 初期作品群は「赤の時代」と称される。褐色を中心に抑制された色彩と肉厚の絵具の使い方が特徴。
田中 進(たなか すすむ、1927年 - 2014年)は、戦… 田中 進(たなか すすむ、1927年 - 2014年)は、戦後期に前衛美術集団「パンリアル美術協会」及び「具体」に参加し活動した日本画家である。別名・田中竜児。 1927年兵庫県加古郡二見町(現・明石市)に生まれる。1944年京都市立絵画専門学校(絵専、現・京都市立芸術大学)に入学し、日本画を学ぶ。1948年三上誠ら絵専出身の日本画家たちを中心とした前衛美術グループ「パンリアル」及び「パンリアル美術協会」の結成に参加、1951年退会。1952年京都市立美術大学(絵専の後身)日本画研究科修了。在学中から兵庫県日本画家連盟に出品。1962年新美術協会会員となる。同年第5回現代日本美術展の日本画公募部門においてコンクール賞受賞、第15回芦屋市展で教育委員会賞受賞。
川手昭二(かわて しょうじ、1927年 - )は、日本の都市… 川手昭二(かわて しょうじ、1927年 - )は、日本の都市計画家・都市設計家。建築家。建築研究者。都市研究家。工学博士。筑波大学名誉教授。創設期の日本住宅公団で多摩ニュータウンや港北ニュータウン建設に携わる。また、筑波大学等で都市設計方面の人材育成にも携わる。東京生まれ。 自身の都市計画についての書籍類を所蔵した「川手文庫」が株式会社成和技術(山形県尾花沢市)にある
渡部 与四郎(渡部 與四郎、わたなべ よしろう、1927年 … 渡部 与四郎(渡部 與四郎、わたなべ よしろう、1927年 - )は、日本の都市計画家。都市研究者。都市計画コンサルタント協会マスター都市計画プランナー。同済大学名誉顧問。一般社団法人 日本モノレール協会顧問。EAROPH Japan評議員。NPO法人汎房総地域づくり研究会名誉会長。工学博士。建設省技術参事官、筑波大学社会工学系教授、法政大学工学部教授、(社)全日本土地区画整理士会会長、日本都市計画学会会長を歴任。多くの委員会研究会等にも関与。1975(昭和50)年度「業務交通体系論」で日本都市計画学会論文賞。勲三等瑞宝章叙勲(平成9年)。 東京高等学校理科を経て、1950年東京大学第二工学部土木工学科卒業。
藤田邦昭(ふじた くにあき、1927年 - 2001年)は、… 藤田邦昭(ふじた くにあき、1927年 - 2001年)は、日本の都市計画家。再開発プランナー。大阪生まれ。全国の都市再開発事業に尽力した人物。 1927年(昭和2年) 綿問屋の三男として大阪船場に生まれる。1947年(昭和22年) 福井工業高等専門学校 (旧制)建築科卒業。日本住宅公団に勤務後、株式会社アール・アイ・エー建築綜合研究所勤務。 1968年(昭和44年)、株式会社都市問題経営研究所を設立。1998年(平成10年)には代表取締役会長就任。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
木村 多伎子(きむら たきこ、1927年 - 2025年8月… 木村 多伎子(きむら たきこ、1927年 - 2025年8月4日)は、日本の版画家。北海道旭川市生まれ、足寄町出身。国画会会員、北海道美術協会会員、北海道版画協会会員。 札幌市立高等女学校(現北海道札幌東高等学校)時代、全道学生展で最優秀賞を受賞。女学校卒業後中国に渡り、敗戦後に帰国。結婚して岩見沢市に移り住み、1964年から版画制作を始める。1965年に道展初入選。1978年に道展会員、1996年国画会会員。作品は木版がメインである。初期は白黒の1色刷りだったが、後に多色刷りが中心となった。度々海外への取材旅行を行っており、題材もそれら外国を題材としたものが多い。1985年から1997年には北海道教育大学で講師として後進の指導にも当たった。
篠原 昭登(しのはら あきと、1927年(昭和2年) - 2… 篠原 昭登(しのはら あきと、1927年(昭和2年) - 2020年(令和2年)6月28日)は、里山、風景洋画家。長野県茅野市出身。日展会員 一水会運営委員 元小学校教師。
野村 耕(のむら こう、1927年 - 1991年1月4日)… 野村 耕(のむら こう、1927年 - 1991年1月4日)は、戦後活動した日本画家である。 1927年京都府京都市に生まれる。本名・耕二郎。1943年12月京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)絵画科を繰り上げ卒業、1948年後身の京都市立美術専門学校日本画科を卒業。1950年同校の同級生である星野眞吾や不動茂弥が結成したパンリアル美術協会に参加。第4回展以降、1965年に退会するまで出品を続けた。その後は毎年開催される個展と、1978年から参加した、関西の現代美術家達が集まる「Ge展」で作品を発表した。1989年京都市美術館で初期からの作品を網羅した「京都の美術昨日・きょう・明日Ⅲ―野村耕」展が開催され、その二年後の1991年京都で死去。
吹田 文明(ふきた ふみあき、1926年11月28日 - )… 吹田 文明(ふきた ふみあき、1926年11月28日 - )は、日本の版画家。日本美術家連盟理事、多摩美術大学名誉教授。娘は陶芸家の吹田千明。 徳島県阿南市富岡町出身。東京都世田谷区在住。 1947年(昭和22年)に徳島師範学校(現徳島大学)を卒業。1948年、徳島県の研究生として東京芸術大学に派遣され、萬鉄五郎に師事する。その後、数々の賞を受賞。 1969年(昭和44年)に多摩美術大学教授に就任。1994年(平成6年)に日本版画協会理事長に就任。2004年(平成16年)に日本美術家連盟理事長に就任。 2013年(平成25年)に阿南市名誉市民に選定される。 ニューヨーク近代美術館、ポーランド国立美術館、シアトル美術館、オレゴン大学美術館、スイス国立美術館、メキシコ近代美術館、シカゴ美術館、東京国立近代美術館などの美術館に作品が所蔵されている。
芝田米三(芝田 米造、しばた よねぞう、1926年(大正15… 芝田米三(芝田 米造、しばた よねぞう、1926年(大正15年)9月12日 - 2006年(平成18年)5月15日)は、日本の洋画家。金沢美術工芸大学教授を務めた。日本芸術院会員。位階は従四位。 京都生まれ。1939年、京都商業学校入学。今井憲一に師事し油絵を学ぶが、戦時下のため入営する。戦後、独立美術京都研究所で須田国太郎に師事。1950年独立展独立賞、サロン・ド・プランタン賞受賞、1963年安井賞受賞。1965年、1971年、1973年に渡欧。1974年安井賞選考委員、日伯美術連盟評議員、1975年ブラジル・サンパウロ州議会より騎士賞授与、1978年京都府芸術会館理事、1979年訪ソ、1989年京都府文化賞功労賞、1993年独立美術協会功労賞、1994年京都市文化功労者、「楽聖讃歌」で日本芸術院賞を受賞、日本芸術院会員。
出雲井 晶(いずもい あき、1926年9月11日 - 201… 出雲井 晶(いずもい あき、1926年9月11日 - 2010年5月16日)は、日本の作家、日本画家。『「日本の神話」伝承館』館長、『「日本神話の心」伝承の会』会長。日本会議代表委員であった。本名は光定芳子。 北海道岩見沢町(現:岩見沢市)生まれ。旧制和歌山高等女学校卒業。「出雲井晶」というペンネームは、一時期住んでいた島根県の出雲大社に由来している。 日本画家としては日仏現代美術展、パリ・ル・サロン展等に入選、内閣総理大臣賞2回、文部大臣賞2回、パリ芸術大賞を受賞している。 作家としてのデビュー作品は、自らの高齢者介護体験をもとにした小説「花かげの詩」。初期は福祉関連での著作や画文集などが主であった。
前田 常作(まえだ じょうさく、1926年7月14日 - 2… 前田 常作(まえだ じょうさく、1926年7月14日 - 2007年10月13日)は、日本の画家、版画家。曼荼羅を主題とした抽象絵画と、《日本百観音》巡礼版画で知られる。2012年のニューヨーク近代美術館企画展「Tokyo 1955–1970: A New Avant-Garde」に出品された。 1926年、富山県下新川郡椚山村(現在の入善町)に生まれる。1945年、富山歩兵第69連隊に入隊中、富山大空襲を目撃し「市中の惨状を目の当たりにし、人間の生死について深く感ずるところがあった」と記している。 1947年富山師範学校本科卒業後、上京。1948年鶴田吾郎洋画研究所に学び、安井曽太郎の夏期講習を受ける。
金田 常代(かねだ つねよ、1926年〈大正16年〉6月21… 金田 常代(かねだ つねよ、1926年〈大正16年〉6月21日 - 1988年〈昭和63年〉3月30日)は、日本の画家・絵本作家。茨城県古河市生まれ。 小学校・幼稚園の教師を経て、自由で豊かな感性を育む子どものためのアトリエを開設。アジア各地を旅し、長年にわたって子どもをテーマに絵を描き続けた。 代表作「ロミラの夢」(偕成社)は、1982年に絵本にっぽん賞を受賞した作品で、英語および韓国語にも翻訳・出版されている。 1926年(大正16年) - 茨城県古河市に生まれ、4人姉妹の末娘として育つ。 1948年(昭和23年) - 行動美術研究所にて向井潤吉、高井貞二に師事、本格的な絵の勉強を始める。
十二町 仁三(じゅうにちょう じんぞう、大正15年(1926… 十二町 仁三(じゅうにちょう じんぞう、大正15年(1926年)5月7日 – 平成12年(2000年)12月)は、昭和から平成前期時代の日本画家。日本芸術院特待、院展富山支部代表、富山県日本画家連盟委員、富山県展実行委員を歴任。 大正15年(1926年)富山県高岡市に生まれる。富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を経て、金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)で学ぶ。1952年富山県染織試験場に勤務し、1955年小倉遊亀に師事し日本画を描き始め、1957年には安田靫彦門下の火燿会に入会して画技に励む。1959年、院展に「店」で初入選。以後、院展を中心に制作を続ける。2000年12月没。
依光 隆(よりみつ たかし、1926年(大正15年)5月1日… 依光 隆(よりみつ たかし、1926年(大正15年)5月1日 - 2012年(平成24年)12月18日)は、挿絵画家・イラストレーター。高知県生まれ。父親の死去に伴い、隆の兄が働いていた満州に呼ばれ、1940年(昭和15年)から1944年(昭和19年)12月まで中国の大連で過ごす。帰国後、高村光太郎に師事。共同通信社社会部画信室を経てフリーになる。SFから児童書まで幅広い分野の挿絵で活躍。ハヤカワ文庫SFの「宇宙英雄ペリー・ローダン」シリーズは、第1巻から第367巻を38年間にわたり担当した。 「白旗の少女」の挿絵と装幀で1990年度児童福祉文化賞を受賞。日本出版美術家連盟理事、創作集団プロミネンス(旧・少年文芸作家クラブ)会長を務めていた。
金山 康喜(かなやま やすき、1926年4月26日-1959… 金山 康喜(かなやま やすき、1926年4月26日-1959年6月16日)は、日本の洋画家である。
片岡 真太郎(かたおか しんたろう、1926年3月23日 -… 片岡 真太郎(かたおか しんたろう、1926年3月23日 - 2016年11月1日)は、洋画家。 大阪府大阪市東区に生まれる。鈴木信太郎に師事。1948年、関西学院大学在学中に第3回行動美術展に初入選。1959年にシェル美術賞展佳作賞を受賞し、その後も朝日選抜新人展、第3回ふらんす・クリティック賞絵画展、「現代美術の動向」展などに出品。1961年には神戸市立美術館の新鋭作家展に『神将』を招待出品し、神戸新聞社賞を受賞する。同作品は1963年の京都国立近代美術館開館展にも招待出品された。1960年代に高橋和巳、五木寛之、永井龍男、曽野綾子等の挿絵や装丁を担当し、1974年に第5回講談社出版文化賞・さしえ賞を受賞した。
安野 光雅(あんの みつまさ、1926年3月20日 - 20… 安野 光雅(あんの みつまさ、1926年3月20日 - 2020年12月24日)は、日本の画家・装幀家・絵本作家。元美術教員。島根県鹿足郡津和野町出身。東京都小金井市在住。文化功労者。 40年以上にわたって描かれた代表作の1つ『旅の絵本』シリーズ全10冊のうち9冊までの累計発行部数は、152万部を記録している(2022年1月末時点)。 子供の頃より画家になる夢を抱いていた。美術のみならず、科学・数学・文学などにも造詣が深く、豊かな知識と想像力を駆使して独創性あふれる作品を発表した。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で、細部まで書き込まれながらも落ち着いた雰囲気の絵を描く[要出典]。
十楽寺 直彦(じゅうらくじ なおひこ、1926年3月12日 … 十楽寺 直彦(じゅうらくじ なおひこ、1926年3月12日 - )は、東京都出身の都市計画家、造園家。 千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)を卒業。札幌市役所に1946年採用、公園指導員や巡回幼稚園(現在のなかよし子供館)の業務などを経て、1961年から1968年にかけ公園課長の後企画調整局計画部長・企画部長、1973年に都市開発局開発部長、1975年に環境局緑化推進部長を歴任、定年前の1981年末に退職。 終戦直後、進駐軍の車道に使われるなど、荒れ放題であった中島公園の復興に務めた。また、公園係長時代の1958年には中島公園に北海道大博覧会を記念し中谷宇吉郎と共同で雪の結晶のデザインをあしらった広場「雪の広場」の開発に携わった他、豊平川を都市計画区域の公園緑地に指定し将来は堤防と堤防で囲まれた川のなかを公園として活用する案を提唱し、その後1967年(昭和42年)に豊平川の藻岩橋から雁来大橋までの水面までを含む約330ヘクタールを公園緑地(豊平川緑地)とする都市計画が策定された。
松尾 敏男(まつお としお、1926年3月9日 - 2016… 松尾 敏男(まつお としお、1926年3月9日 - 2016年8月4日)は、日本画家、日本芸術院会員、日本美術院理事長。
喜多 迅鷹(きた としたか、1926年1月11日 - 201… 喜多 迅鷹(きた としたか、1926年1月11日 - 2015年9月12日)は、日本の翻訳家、画家。 長崎市生まれ。埼玉県立浦和中学校、第一高等学校を経て、1948年東京大学法学部卒。埼玉県立浦和高等学校、東京都立大学附属高等学校教諭のほか、東京都立大学 、横浜市立大学講師を務めたが、1971年、学園紛争を機に画業に転向。 1992年「東京を描く市民の会」創立に参加。1994年「彩の国を描く会」を創立、主宰。2001年読売・日本テレビ文化センターで「ペン水彩」講座開講。2002年読売・日本テレビ文化センターで「模写による西洋美術史」講座開講。
岡田 春生(おかだ はるお、1926年 - 2002年)は、… 岡田 春生(おかだ はるお、1926年 - 2002年)は、東京都出身の日本画家。浦和画家。 埼玉県浦和市(現さいたま市浦和区)本太に居住し、東京芸術大学を卒業。加藤栄三に師事し、日展入選20回。微妙な諧調の色彩と堅確な構図により現代的な視点で花鳥や風景を描いた。日展会友、埼玉県展審査員・運営委員。
杉浦 正美(すぎうら まさみ、1926年 - )は、日本の画… 杉浦 正美(すぎうら まさみ、1926年 - )は、日本の画家。愛知県豊橋市出身。二科会所属、絵画部幹事。 豊橋市で生まれたが、5歳で母を亡くした後は1934年に福江町(現:田原市)に移り、祖母に育てられた。その後、名古屋市に転居。 1952年、北川民次 、安藤幹衛に師事。同年、「工場」で第37回二科展絵画部に初入選。以後は公告デザインを手掛けながら、描き続けた。 1961年、「火工」で第46回二科展絵画部で特選受賞。1963年、二科展絵画部会友に推挙された。その後も二科展を中心に様々な展覧会に出品を続けると同時に、個展を数多く開催した。1980年、二科展絵画部会員推挙。1987年、「島の月」で第72回二科展絵画部会員努力賞を受賞した。
小笠原 環山(おがさわら かんざん、1925年12月22日 … 小笠原 環山(おがさわら かんざん、1925年12月22日 - 2000年11月24日)は、日本の書家、水墨画家。本名は小笠原 一郎、「環山」は雅号。山梨県櫛形町(現・南アルプス市)の出身。1990年に刊行された『小笠原環山書画集』は美術評論家の田宮文平による書評の対象となり、1999年には月刊誌『趣味の水墨画』の特集「今月の画家」で取り上げられた。 山梨県出身。幼少の頃、曾祖父・小笠原蘭侯と父・補暠から書・詩の影響を受けた。立正大学文学部国文科を中退、在学中は中村星湖研究に関心を寄せた。のちに『墨象』誌上で「夏目漱石と中村星湖の手紙」「相馬御風の書簡 中村星湖との交流」「星湖先生の書」などの文章を発表している。
新国 誠一(にいくに せいいち、1925年12月7日 - 1… 新国 誠一(にいくに せいいち、1925年12月7日 - 1977年8月23日)は、日本の詩人、画家。旧字体で新國誠一とも表記され、新国自身は晩年旧字体での表記にこだわっていたとされる。1960年代の国際的な前衛詩運動であるコンクリート・ポエトリーの運動に関わり、象形詩や視覚詩、音声詩などの実験的な作品を制作した。世界的には重要な詩人の一人として位置づけられており、日本やドイツの教科書などにも作品が掲載されている。 1925年12月7日、宮城県仙台市で生まれる。仙台工業学校(現:仙台工業高等学校)に進学し、建築を学ぶ。高校卒業後、1948年に東北学院大学文経学部英文学科に入学、1951年に卒業。
池田 道夫(いけだ みちお、1925年12月5日 - 202… 池田 道夫(いけだ みちお、1925年12月5日 - 2022年9月1日)は、京都府出身の日本画家。日本美術展覧会(日展)の評議員。父は文化勲章受章者の日本画家・池田遙邨。長男は日展会員(洋画)の池田良則。 京都府出身。京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)卒業。日展を中心に活動した。岡山大学非常勤講師も務めた。 父・遙邨が主宰した日本画画塾・青塔社を没後に引き継ぎ、主幹として後進の指導にあたった。 2022年9月1日、老衰のため京都市左京区の自宅で死去、96歳。
松本 奉山(まつもと ほうざん、1925年9月2日 - 20… 松本 奉山(まつもと ほうざん、1925年9月2日 - 2010年1月5日)は、日本の水墨画家。愛媛県今治市生まれ。本名は松本 由美子(まつもと ゆみこ)。 1942年、松本尚山に入門。1963年に渡米し、海外でも活躍した。外務省文化使節や国際交流基金文化使節として海外で多くの活動を行った。シアトルにあるコーニッシュ芸術大学の講師を務めたこともある。 2010年1月5日、大阪市福島区の病院で肝臓がんにより84歳で死去した。 国内だけでなく、欧米や南米の風景を描いた作品も描いて個展を開き、高い評価を得た。 1999年のしまなみ海道開通時には、橋と島を組み合わせた作品を多数描いた。 2000-2001年には、琵琶湖と淀川の風景を描いた「みず紀行」を、毎日新聞夕刊(大阪本社発行版)に連載した。
川﨑 鈴彦(かわさき すずひこ、1925年7月13日 - )… 川﨑 鈴彦(かわさき すずひこ、1925年7月13日 - )は、日本画家。 東京都新宿区出身。父は川﨑小虎。父方の曽祖父は川崎千虎という日本画家の一家に生まれ、弟の川崎春彦も日本画家となった。親戚に元京成電鉄社長の川﨑千春。 父と義兄の東山魁夷に師事。東京美術学校(現東京藝術大学)卒。日展を中心に日本画院展、日本美術協会展などで活躍。 東京美術学校在学中に太平洋戦争が激化し、1945年1月に応召を受け出征(学徒出陣)。香川県三豊郡豊浜町の船舶兵特別幹部候補生隊へ所属中に同年8月の終戦を迎え、父の川﨑小虎や弟の川﨑春彦らが疎開していた山梨県中巨摩郡落合村(現・南アルプス市)へ復員。義兄の東山魁夷も合流し、自然の写生を励んだ。
牧野 邦夫(まきの くにお、1925年〈大正14年〉5月27… 牧野 邦夫(まきの くにお、1925年〈大正14年〉5月27日 - 1986年〈昭和61年〉10月1日)は、東京都渋谷区幡ヶ谷生まれの画家。 牧野邦夫は、大正14年に渋谷区幡ヶ谷で生まれ、幼少期を小田原で過ごす。父母を早く亡くし、母代わりの姉たちに育てられる。従兄の幻想小説家牧野信一から、「芸術家にだけはなるな、君は一高、東大へ行け」と諭されていたが、画家への想いは止まらずゴッホやレンブラントに魅かれ17歳で画家を志す。川端画学校をへて東京美術学校油画科に学ぶ。伊原宇三郎、安井曾太郎に師事し画家の道を進む。1945年学徒出陣し九州・都城で終戦。戦後の1948年、東京美術学校を卒業。美術団体等に所属せずにひたすら自己の信ずる絵画世界を追求する創作活動を貫き、写実的高密度の作品で知られるようになる。
鷲見 康夫(すみ やすお、1925年4月11日 - 2015… 鷲見 康夫(すみ やすお、1925年4月11日 - 2015年10月12日)は、日本の抽象画家。 1925年(大正14年)、大阪府に生まれる。7歳のときに彦根に引っ越す。関西大学専門部経済科(旧制)、および立命館大学専門部経済科(旧制)を卒業後、大阪市立高等学校・中学校で美術と英語、社会科の教師となる。建設省建設大学校(建設美学)、大同工業大学(造形・意匠)、宝塚造形芸術大学、名古屋芸術大学(現代美術)、関西大学(絵画)などでも講師を務めた。1954年(昭和29)、中学の同僚の嶋本昭三の勧めにより第7回芦屋市展に作品を出典する。この時に吉原治良と知り合い、その後吉原に絵画を習うようになる。1955年(昭和30年)に具体美術協会に加入した。
中居 清(なかい きよし、1925年4月6日 - 2017年… 中居 清(なかい きよし、1925年4月6日 - 2017年1月8日)は日本の杜氏、画家、陶芸家[要出典]。岩手県出身の南部杜氏である。 1925年(大正14年)4月6日、岩手県更木村(現在の北上市更木)の農家に生まれた。 1942年(昭和17年)11月5日、17歳のときから宮城県米谷町(現在の登米市)の酒蔵、佐藤酒造店で働き始めた。1943年(昭和18年)3月20日から徴用されて横浜の高射砲を製作する工場で働き、1944年(昭和19年)4月に徴兵検査を受けて甲種合格。終戦後は岩手に戻った後、宮城県石巻市の平孝酒造で平野佐五郎のもと働いた。1948年(昭和23年)から岩手県の喜久盛酒造で働いた後、1954年(昭和29年)11月から宮城県塩竈市の浦霞に移っていた平野佐五郎に再び入門した。
中根 寛(なかね ひろし、1925年3月26日 - 2018… 中根 寛(なかね ひろし、1925年3月26日 - 2018年1月17日)は、日本の洋画家。繊細で清澄な点描が特徴である。東京芸術大学名誉教授。 愛知県額田郡豊富村夏山(現・岡崎市夏山町)に生まれた。額田郡本宿村(現・岡崎市本宿町)で少年時代を過ごす。1931年(昭和6年)4月、父親が校長を務めていた本宿尋常小学校(現・岡崎市立本宿小学校)に入学。高等科を経て、1937年(昭和12年)に愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学。中学で東京美術学校(現・東京芸術大学)出身の図画教師の山本鍬太郎と出会い、山本から絵を描くことの楽しさを教えられる。 1939年(昭和14年)、愛知県岡崎師範学校(愛知教育大学の前身)に入学。
長谷川 晶(はせがわ あきら、1925年(大正14年)3月3… 長谷川 晶(はせがわ あきら、1925年(大正14年)3月3日 - 2005年(平成17年)6月11日)は、日本の洋画家・抽象画家である。 1925年3月3日北海道旭川にて、国鉄の車掌区に勤務していた父馨と母キヨとの次男として生まれる。稚内の小学校を卒業し、北海道庁立旭川中学校(5年制)を卒業後、北海道大学理学部臨教数学課へ進学。子供の頃から絵や漫画を描くのが得意であった。油絵を始めたのは大学に入ってからで、当時札幌在住の菊地精二に師事した。太平洋戦争末期、徴兵で旭川師団に入隊したが、まもなく終戦。卒業後、1946年21歳で函館高等女学校の数学教師として就職した。そこで田辺三重松と出会い師事した。
加藤 一(かとう はじめ、1925年2月7日 - 2000年… 加藤 一(かとう はじめ、1925年2月7日 - 2000年2月10日)は画家。元競輪選手、元自転車競技選手。競輪選手選手登録番号1690。 東京・神田小川町生まれ。幼い頃から趣味として絵を描き続ける傍ら、生家の自転車を乗り回していた。旧制法政中学校から法政大学経済学部に入学し、自転車競技において活躍する最中に太平洋戦争で召集を受ける。復員後は法大を休学して東京美術学校(現・東京藝術大学)図案科に入学したが数か月で退学し、法大に復学して自転車競技を続けることになった。 大学卒業後から国民体育大会において短距離種目だけでなくロード種目においても優勝を重ねたことからヘルシンキオリンピックの代表候補に内定していた。
沖 種郎(おき たねお、1925年2月5日 - 2005年)… 沖 種郎(おき たねお、1925年2月5日 - 2005年)は、日本の建築家、都市計画家。通称「オキタネ」。 1925年(大正15年)、京都府峰山町に生まれる。1945年(昭和20年)第六高等学校 (旧制)を卒業後、東京大学に入学。1951年(昭和26年)同大工学部建築学科卒業後、大学院修士課程に進学。丹下健三計画研究室に所属し学ぶかたわら、広島平和記念会館本館、神奈川県立図書館・音楽ホール計画、外務省庁舎計画案、広島子供の家、愛知県民館を担当する。1954年(昭和29年)修士課程修了後、丹下健三のもとで清水市庁舎、図書印刷・原町工場(沼津市)、香川県庁舎を担当するほか、白百合学園(仙台市)や旭洋印刷社屋などを手がける。
稲田 年行(いなだ ねんこう、1925年1月4日 - 201… 稲田 年行(いなだ ねんこう、1925年1月4日 - 2014年2月3日、本名:稻田俊志、いなだ としゆき)は、日本の版画家、浮世絵研究家、郷土玩具収集家、岐阜大学名誉教授、浜松大学教授( - 2000年)。位階は従四位。 東京美術学校卒、同専修科修了。安井曽太郎に師事。日本美術家連盟会員、大学版画協会会員、竹とんぼの会会員。水府森家の末裔で、森鴻次郎の孫。建築家稲田尚之の兄、版画家松田ハルミの夫、哲学者純丘曜彰、版画家稲田醍伊祐の父。憲法学者小林直樹の甥。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
津端 修一(つばた しゅういち、1925年1月3日 - 20… 津端 修一(つばた しゅういち、1925年1月3日 - 2015年6月2日)は、日本の建築家、都市計画家、評論家。愛知県岡崎市出身。 1945年に海軍技術士官として厚木飛行場に赴任するが終戦を迎える。1947年に新制東京大学に再入学する。 1951年、東京大学第一工学部建築学科卒業。丹下健三の下で住宅問題の研究をテーマに卒業論文に取り組む。前川国男の建築設計事務所への入所を希望するが前川と太田博太郎の推薦でアントニン・レーモンドの事務所に所属する。その後坂倉準三の建築設計事務所を経て、1955年日本住宅公団発足と共に入社。 日本住宅公団勤務時、多摩平・高根台団地、阿佐ヶ谷住宅をはじめとする多くの団地を設計するなど、公団初期の全体計画を手がける。
大林 順一郎(おおばやし じゅんいちろう、1925年 - )… 大林 順一郎(おおばやし じゅんいちろう、1925年 - )は、日本の都市計画家。公務員として都市政策、建築行政に携わる。 愛媛県出身の一人っ子で、岡山の旧制第六高等学校理科に入学するが理科を選択したのは兵役の延期または免除を期待してのものであったが、機械学科のような理科の細かいことをやる気はなく、文化的なものを探して建築史があると知り、建築学科に進学した。 東京帝国大学第一工学部(現・東京大学大学院工学系研究科・工学部)に1945年に入学して1947年に研究室に配属され、1948年春に大学を卒業したが在学中は丹下健三の下で指導を受け、卒業論文は「国土計画の方法論に関する研究」を提出し卒業後、建設省に入省し、当初は戦災復興院技術研究所、のちに住宅局建築指導課に配属される。
日高 浩耀(ひだか こうよう、1925年 - )は西洋画家。… 日高 浩耀(ひだか こうよう、1925年 - )は西洋画家。台湾生まれ。立命館大学卒業後、現在の武蔵野美術大学に入学。 中学時代より塩月桃甫に師事し、画家としての修行を積んだ。日本表現派同人、同展奨励賞受賞。 作品「原爆忌」が広島平和祈念館に、「惨火」が大阪府平和祈念戦争資料室に永久保存されている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
斉藤 南北(さいとう なんぼく、本名:斉藤国保、1925年 … 斉藤 南北(さいとう なんぼく、本名:斉藤国保、1925年 - 2015年1月16日)は、福岡県出身の水墨画家。 幼少から書道、日本画、油彩画を学んだ。大学卒業後化学薬品会社の日本化薬(株)に就職したが、その後上京し国分寺美術研究所で油彩画を研究。また水墨画を河合墨雪に師事、書を狩田巻山に師事した。それらの鍛錬の結果水墨画の世界に境地を切り開き水墨画作家となる。近代感覚を採り入れた画風により大作から掛け軸など多くの作品を残す。全国の文化教室などで指導者として活躍し多くの新進水墨画家を育てた。個展を7回開催。内閣総理大臣賞受賞。出版物多数。 南北墨画会長、西日本墨技学院院長、国際書画連盟副会長、全国水墨画普及協会理事。
小泉 淳作(こいずみ じゅんさく、1924年10月26日 -… 小泉 淳作(こいずみ じゅんさく、1924年10月26日 - 2012年1月9日)は、日本の日本画家、陶芸家。特定の美術団体に属さず、画壇とも距離を置いたことから「孤高の画家」と呼ばれた。 神奈川県鎌倉市生まれ。政治家小泉策太郎の七男で、俳優小泉博は弟にあたる。慶應義塾幼稚舎、普通部を経て、慶應義塾大学文学部予科に入学。1943年、慶應義塾大学予科を中退し、東京美術学校日本画科に入学。山本丘人に師事し、1952年同学科を卒業。1944年応召となるが、結核で療養生活に入る。陸軍予備士官学校の経験からか、戦争には強烈な嫌悪感を抱いていた。 その後、デザイナーとして活動し、1954年第18回新制作展に「花火」「床やにて」が初入選。
平川 敏夫(ひらかわ としお、1924年10月16日 - 2… 平川 敏夫(ひらかわ としお、1924年10月16日 - 2006年5月14日)は、日本の日本画家。創画会会員。新制作協会展を中心に活躍し、代表作に「白樹」「樹濤」などがある。1980年「樹木をテーマにした日本画新様式の確立」に対して中日文化賞受賞。 宝飯郡小坂井町(現在の豊川市)出身。京都の稲石着尺図案塾で日本画の基礎的な技術を学ぶが、開戦のためまもなく帰郷。1947年、新日本画研究会に参加し、中村正義とともに本格的に日本画の制作を始める。1950年には正義の薦めで第3回創造美術展に出品し、以後、創造美術が新制作派協会と合併して新制作協会日本画部となった後も同展に出品を続ける。1974年創画会結成に参加。
木村 利三郎(きむら りさぶろう、1924年10月13日 -… 木村 利三郎(きむら りさぶろう、1924年10月13日 - 2014年5月17日)は、日本の画家、版画家。ニューヨークで活動し、都市を主題とした作品群を多く手掛けた。 神奈川県横須賀市出身。1947年神奈川師範学校(現・横浜国立大学)卒業。国語教師を経て法政大学文学部哲学科に学び、谷川徹三に師事。美術評論家を志して久保貞次郎の創造美育運動に関わり、靉嘔、池田満寿夫らと知り合う。 その後は画家に転じて、1964年に渡米。マンハッタンにアトリエを構え、シルクスクリーンの作品を発表した。
マナブ 間部(まなぶ まべ、1924年(大正13年)9月14… マナブ 間部(まなぶ まべ、1924年(大正13年)9月14日 - 1997年(平成9年)9月22日)は、日系ブラジル人の画家。日本生まれであるが後にブラジルに移住し、同国を中心に活動した。マナブ・マベ、間部 学とも表記される。ブラジルを代表する文化人。 熊本県出身。10歳で家族と共にブラジルへ移住。コーヒー農園での過酷な労働に従事しながら、独学で絵画を学んだ。1950年代後半、コーヒー園を売り払いサンパウロへ転居。看板描きなどで生計を立てる極貧生活の中、1959年にサンパウロ・ビエンナーレで国内大賞、パリ青年ビエンナーレで受賞し、一躍世界的に「時の人」となった。 「クワを捨てて2年」で世界の頂点へ登り詰めたその成功は、当時のメディアから「シンデレラ・マン」と称賛された。
柏村 勲(かしわむら いさお、1924年8月21日 - 20… 柏村 勲(かしわむら いさお、1924年8月21日 - 2017年3月5日)は、日本の画家、随筆家。 広島県呉市に生まれる。広島県呉第一中学校、東京美術学校(東京藝術大学の前身校の一つ)油絵科卒業。卒業後、同級生であり画家の伊能由利子と結婚。 黒澤映画美術助手となる。東宝「生きる」「静華命」「安五郎出世」などを担当。 1952年、長男誕生後に川崎市立住吉中学校美術教師となる。 1960年、親友のアメリカ人夫妻と3人でヨット旅行に出発。アムステルダムから運河をたどってヨーロッパを縦断、地中海、バミューダ諸島などを経て大西洋を横断、アメリカ合衆国ニューポートまでの10ヶ月に及ぶヨットの旅だった。この旅が転機となり「ヨットと海」を描きはじめる。
桂川 寛(かつらがわ ひろし、1924年8月20日 - 20… 桂川 寛(かつらがわ ひろし、1924年8月20日 - 2011年10月16日)は、日本の画家。 戦後、安部公房、勅使河原宏らとともに「世紀の会」に参加し、アバンギャルド運動に大きく関わる。また、小河内ダム建設反対運動に加わり、ルポルタージュ絵画を製作した。 その後も、鋭い批判精神で社会を見据えた作品を発表し続けた。