北田 正元(きただ まさもと、明治21年(1888年)2月1… 北田 正元(きただ まさもと、明治21年(1888年)2月11日 - 1978年7月13日)は、日本の外交官。初代駐アフガニスタン公使。父は代言人の北田正董。
職業が外交官:1,274人
北田 正元(きただ まさもと、明治21年(1888年)2月1… 北田 正元(きただ まさもと、明治21年(1888年)2月11日 - 1978年7月13日)は、日本の外交官。初代駐アフガニスタン公使。父は代言人の北田正董。
松嶋 鹿夫(まつしま しかお、1888年1月16日 - 19… 松嶋 鹿夫(まつしま しかお、1888年1月16日 - 1968年11月28日)は、日本の外交官。外務次官や終戦連絡中央事務局次長、貴族院議員等を務めた。
坂根 準三(さかね じゅんぞう、1888年〈明治21年〉1月… 坂根 準三(さかね じゅんぞう、1888年〈明治21年〉1月 - 1945年〈昭和20年〉10月10日)は、日本の外交官。駐コロンビア公使。 東京府出身。1913年(大正2年)、高等文官試験に合格し、1915年(大正4年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1917年(大正6年)、外交官及領事官試験に合格し、イギリスに領事官補として赴任した。リヴァプール領事、外務事務官・通商局監理課勤務兼特許局事務官、通商局第二課長兼農林書記官、アントウェルペン領事などを歴任。1927年(昭和2年)、漢口総領事となり、のち青島総領事に転じた。1935年(昭和10年)休職となるが、1937年(昭和12年)に復職し、サンパウロ総領事となった。
芦田 均(あしだ ひとし、1887年〈明治20年〉11月15… 芦田 均(あしだ ひとし、1887年〈明治20年〉11月15日 - 1959年〈昭和34年〉6月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。同国47代内閣総理大臣。 衆議院議員(11期)、厚生大臣(第13代)、外務大臣(第67・68代)を歴任した。 外交官を経て政界入り。立憲政友会に所属して外務省とのパイプ役を務めた。軍国主義が広まる議会においてリベラリストとして活動した。戦後は自由党の結成に関与した後、離党して民主党を結党し、副総理を経て芦田内閣を首班した。 芦田は1887年11月15日、京都府天田郡宮村(後に中六人部村を経て現在の福知山市)に生まれた。生家は豪農であった。社会・民主・国民協同3党連立内閣のパートナーであり、大学時代の同級生でもあった片山哲は、芦田の死後まもなく衆議院本会議で行った追悼演説で、芦田が政界に入るまでをこのように述べている。
昌谷 忠(さかや ただし、1887年(明治20年)9月 - … 昌谷 忠(さかや ただし、1887年(明治20年)9月 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、日本の外交官。駐フィンランド公使。 奄美大島の管鈍(後に鹿児島県大島郡西方村を経て、大島郡瀬戸内町の管鈍)出身。旧名:昌(さかり) 忠二。管鈍小学校、古仁屋高等小学校、鹿児島県立大島農学校(現鹿児島県立大島高等学校)予科を経て、鹿児島県立川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)を卒業。1906年(明治39年)東京・神田の東京外国語学校(現東京外国語大学)独語科に入学して、ドイツ語を修め1909年(明治42年)に卒業。京都帝国大学法科大学(現京都大学法学部)に入学した後、東京帝国大学法科大学(現東京大学法学部)に転入。
天羽 英二(あもう えいじ、1887年〈明治20年〉8月19… 天羽 英二(あもう えいじ、1887年〈明治20年〉8月19日 - 1968年〈昭和43年〉7月31日)は、日本の外交官。 日独伊三国同盟締結時(1940年〈昭和15年〉9月25日)は駐イタリア特命全権大使。三国同盟に反対の立場の天羽は三国同盟締結直前(1940年〈昭和15年〉9月6日)に松岡外相によってイタリア特命全権大使の任を解かれ(いわゆる松岡旋風人事)、後任の駐イタリア特命全権大使として堀切善兵衛が選ばれた(1940年〈昭和15年〉9月30日に正式任命)。外務次官(近衞文麿内閣)や情報局総裁(東條英機内閣)を務め、戦後A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監され公職追放となった(のちに解除)。1945年(昭和20年)12月にA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監された天羽は遂に起訴されることなく3年後の1948年(昭和23年)12月に釈放された。
重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29… 重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29日 - 1957年〈昭和32年〉1月26日)は、日本の外交官・政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。造船工学者の重光蔟は兄。外交官の重光晶は甥。 大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に旧杵築藩士で大野郡長を務める父・重光直愿と母・松子(重光立平景行の末娘)の次男として生まれた。父は速見郡八坂村の代官の家に生まれたが、10歳で藩に召し出され、維新後初代郡長として赴任し、養蚕の振興に努めた。しかし、母の実家である南安岐村山口の重光本家に子供がなかったため養子となり、重光本家26代目の当主となった。旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法科大学を卒業する。
白鳥 敏夫(しらとり としお、1887年(明治20年)6月8… 白鳥 敏夫(しらとり としお、1887年(明治20年)6月8日 - 1949年(昭和24年)6月3日)は、大正、昭和期の日本の外交官・政治家。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた。 東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。外務大臣を務めた外交畑の長老石井菊次郎も叔父にあたる。また外務官僚の出淵勝次は義兄(妻の姉の夫)にあたる。息子に白鳥正人元北陸財務局長。 千葉県の長生郡茂原町(現在の茂原市)に生まれた。東京・日本中学、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学経済学科卒。 1913年(大正2年)10月に高等文官試験・外交官及び領事官試験に合格。
熊崎 恭(くまさき きょう、1887年4月 - 1923年1… 熊崎 恭(くまさき きょう、1887年4月 - 1923年10月2日)は、明治時代の日本の外交官。元在ニューヨーク総領事。 父は外交官の熊崎寛良で大蔵省葉煙草専売所長等を務めた。弟の熊崎武良は哲学者で早稲田大学教授を務めた。本籍地は東京府東京市麻布区本村町(現元麻布・南麻布)。父が在リヨン在勤中に同地で生まれ、リヨンの小学校を経て、神田の旧制中学校に途中入学し、1908年(明治41年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、専攻部進学。ボート部出身。 1期下の酒匂秀一(のちに駐ポートランド大使)や大島堅造(のちに住友本社取締役)とは、英語教師のフレデリック・イーストレイクや、高商時代のドイツ語教師だったリヒャルト・ハイゼの家に遊びに行くなど親しかった。
田村 幸策(たむら こうさく、1887年(明治20年)3月5… 田村 幸策(たむら こうさく、1887年(明治20年)3月5日 - 1985年(昭和60年)2月21日)は、大正・昭和前期の日本の外交官。 山口県大島郡に生まれる。1906年、山口高等商業学校(現・山口大学経済学部の前身)を卒業。1907年、高等文官試験に合格し「書記生」で外務省に入省する。 1914年に外交官領事官試験に合格して、キャリア組に昇格する。安東総領事館、奉天総領事館、在英国日本国大使館に勤務した。チェコスロバキア代理公使/広東領事館・総領事を最後に1925年に退官し、日本生命保険東京支店長を務めた。 1941年に東京帝国大学法学博士の学位を取得。戦後は、1949年から中央大学法学部教授(国際法担当)、1963年から国士館大学教授をそれぞれ務めた。
石射 猪太郎(いしい いたろう、1887年2月6日 - 19… 石射 猪太郎(いしい いたろう、1887年2月6日 - 1954年2月8日)は、日本の外交官。 日中戦争初期に外務省東亜局長を務めた。戦争拡大に走る軍部に抵抗し、日中和平を試みたことで知られる。外務省東亜局長(海外の外務省では、次官補クラス、のち大東亜省)、駐タイ特命全権大使、駐ブラジル特命全権大使、駐ビルマ特命全権大使を歴任。 1887年、福島県西白河郡川崎村に石射文五郎の長男として生まれた。福島中学(現:福島県立福島高等学校)を経て、1908年、東亜同文書院を卒業し満鉄に入社。その後父の仕事を手伝うべく退社したが、父が事業に失敗し失業。岳父(福島県山白石村の農家で多額納税者)から生活援助を受けながら外交官及領事官試験の勉強に励み、2回目の挑戦で合格した。
酒匂 秀一(さかわ しゅういち、1887年(明治20年)2月… 酒匂 秀一(さかわ しゅういち、1887年(明治20年)2月2日 - 1949年(昭和24年)7月23日)は、日本の外交官。ロシア通として知られ、南洋協会理事長等を務めた。 1909年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、同校専攻部に進学。同期の大島堅造(のちに住友本社取締役)や1期上の熊崎恭(のちにニューヨーク総領事)とは英語教師のフレデリック・イーストレイクや、高商時代のドイツ語教師だったリヒャルト・ハイゼの家に遊びに行くなど親しかった。 駐ポーランド特命全権大使在任中、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻を前に、1939年(昭和14年)1月ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー総統とポーランド外務大臣ユゼフ・ベック大佐の直接会談を実現。
長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1… 長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1月19日 - 1966年〈昭和41年〉6月12日)は、日本の外交官、弁護士、弁理士。東京帝国大学法学部卒業。 父はエフェドリンの発見者で日本薬学の父として知られる長井長義。祖父は徳島藩医の長井琳章。 1887年(明治20年)、近代薬学の開祖である長井長義とドイツ人女性のテレーゼ・シューマッハの長男として生まれる。第一高等学校仏法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、逓信省勤務、久原本店勤務を経て、外交官となり、6ヶ国語に精通した。また勝海舟の孫で、目賀田種太郎の次女・多計代(たけよ)と結婚した。 駐ドイツ日本国大使館付商務官となり、第二次世界大戦のベルリン陥落後はアメリカ軍によりワシントンD.C.に連行された。
栗山 茂(くりやま しげる 1886年〈明治19年〉10月6… 栗山 茂(くりやま しげる 1886年〈明治19年〉10月6日 - 1971年〈昭和46年〉2月3日)は、日本の外交官、最高裁判所判事(任期は1947年8月4日 - 1956年10月5日)。 福井中学、東京府立一中、第一高等学校(旧制)を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学卒業。 1913年(大正2年)外交官領事官試験に合格し、1914年(大正3年)外務省入省。在フランス日本国大使館一等書記官としてフランス駐在。フランス語が堪能で、鋭い国際的視野を持っていたが、辛口の論客として知られていた。1919年(大正8年)パリ講和会議と1921年(大正10年)ワシントン会議で全権委員随員を務める。 1933年(昭和8年)に外務省条約局長、1937年(昭和12年)に駐スウェーデン大使、1939年(昭和14年)に駐ベルギー大使兼ルクセンブルク公使に就任。
大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19… 大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。 第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けた。 大島は、陸軍士官学校、及び陸軍大学校を卒業した陸軍軍人であった。1921年(大正10年)、駐在武官補として初めてドイツに赴任、ナチ党とのあいだに強い個人的関係を築くようになった。1938年(昭和13年)には駐ドイツ日本大使に就任、日独同盟の締結を推進し、1940年(昭和15年)に調印された日独伊三国同盟も強力に支持した。
堀内 謙介(ほりのうち けんすけ、1886年〈明治19年〉3… 堀内 謙介(ほりのうち けんすけ、1886年〈明治19年〉3月30日 - 1979年〈昭和54年〉11月1日)は、日本の外交官。1930年代後半に外務次官及び駐米大使、戦後は駐中華民国(台湾)大使を務めた。 兵庫県多紀郡篠山町(のち丹波篠山市)にて旧篠山藩士堀内令順の次男として生まれる。私立尋常中学鳳鳴義塾、旧制山口高等学校、第一高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。東京帝大在学中の1909年に文官高等試験合格、さらに1911年10月の外交官及領事官試験に合格(同期は重光葵・芦田均・縫田栄四郎・栗野昇太郎・村上義温・酒匂秀一・桑島主計)、翌11月に外交官補に任じられ清国在勤を命じられた。
笠間 杲雄(かさま あきお 1885年11月 - 1945年… 笠間 杲雄(かさま あきお 1885年11月 - 1945年4月1日)は、日本の外交官。戦前日本においては数少ないイスラーム圏に関する専門家の一人であり、また阿波丸事件の犠牲者としても知られている。 東京府東京市神田区神田末広町(現在の東京都千代田区外神田三丁目)の出身。富山県出身の師範学校教師で神職の野中武雄(1848-1902)の三男として生まれ、母方の笠間家を継ぎ、石川県金沢で育つ。 一高を経て1909年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業、高等文官試験に合格し、鉄道院参事として米国に駐在。1918年に外務省参事官兼外務事務次官としてパリ講和会議に参加し、平和条約実施委員としてフランス滞在。
伊藤 述史(いとう のぶふみ、1885年〈明治18年〉8月1… 伊藤 述史(いとう のぶふみ、1885年〈明治18年〉8月19日 - 1960年〈昭和35年〉4月3日)は、日本の外交官。情報局総裁、貴族院議員等を務めた後、戦後GHQにより公職追放された。 愛媛県新居郡宇高村(高津村を経て現新居浜市)で、医師・伊藤道冲の長男として生まれた。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後外務省入省。その後リヨン大学に留学。各赴任先で英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語などを次々と習得し語学の天才と評された。法学博士。妻はフランス人。 満州事変前後を通じ国際連盟政府代表代理を務め日本の国際連盟脱退を実現。1937年から支那欧米諸国歴訪特命全権公使を務め、日独伊三国同盟推進派だった大島浩駐ドイツ大使や白鳥敏夫駐イタリア大使の説得にあたったのち、1940年からは内閣情報部長や初代内閣情報局総裁を務め情報統制を行った。
西山 勉(にしやま つとむ、1885年4月18日 - 196… 西山 勉(にしやま つとむ、1885年4月18日 - 1960年9月21日)は日本の銀行家、外交官。満州中央銀行総裁、終戦連絡中央事務局次長等を務めた後、戦後 GHQにより公職追放を受ける。追放解除後は初代駐インド大使を務めた。高知県出身。
堀 義貴(ほり よしあつ、1885年(明治18年)2月5日 … 堀 義貴(ほり よしあつ、1885年(明治18年)2月5日 - 没年不詳)は、日本の外交官。駐メキシコ公使兼初代駐エルサルバドル公使、初代駐グアテマラ公使、初代駐ホンジュラス公使、初代駐ニカラグア公使、初代駐コスタリカ公使。 鹿児島県に吉利靖の三男として生まれ、堀千夫の養子となった。1905年(明治38年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)専攻科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補、シンガポール領事、外務事務官・書記官、外務大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、中華民国公使館一等書記官、浦塩派遣軍政務部長、ロンドン総領事、中華民国大使館参事官、イギリス大使館参事官を歴任。 ロンドン海軍軍縮会議に全権事務所情報部長として参加し、1931年(昭和6年)、旭日中綬章受章。
武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12… 武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12月13日 - 1964年(昭和39年)8月21日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、駐トルコ大使。
杉村 陽太郎(すぎむらようたろう 1884年(明治17年)9… 杉村 陽太郎(すぎむらようたろう 1884年(明治17年)9月28日 - 1939年(昭和14年)3月24日)は、大正、昭和の外交官、IOC委員。
有田 八郎(ありた はちろう、旧字体: 有田 八郞、 188… 有田 八郎(ありた はちろう、旧字体: 有田 八郞、 1884年〈明治17年〉9月21日 - 1965年〈昭和40年〉3月4日)は、日本の外交官、政治家。貴族院議員(勅選)、衆議院議員(1期)。号は澤農。旧姓山本。新潟県平民。 新潟県佐渡郡真野村(現佐渡市真野)出身。山本家に生まれ、有田家の養子となった。早稲田中学校、第一高等学校を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科卒業、外務省入省。 外務省ではアジア局長、オーストリア公使、外務次官、ベルギー大使、中華民国大使などを務める。1936年(昭和11年)、廣田内閣の外務大臣として初入閣。1938年(昭和13年)2月10日に貴族院議員に勅撰。
沢田 節蔵(澤田 節蔵、さわだ せつぞう、1884年9月9日… 沢田 節蔵(澤田 節蔵、さわだ せつぞう、1884年9月9日 - 1976年7月4日)は、日本の外交官。
矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年… 矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年2月4日)は、日本の外交官。
矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年… 矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年2月4日)は、日本の外交官。 矢野真三郎の三男として、福岡県朝倉郡(後の朝倉市)に生まれる。炭鉱経営者の篤志家佐藤慶太郎の無条件の奨学金支援によって、福岡県立中学修猷館、東京府立第一中学校を経て、1907年(明治40年)、第一高等学校英法科を首席で卒業し、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業する(銀時計)。 1911年(明治44年)、高等文官試験行政科を首席合格して東京府試補となり、翌1912年、オックスフォード大学に留学。1913年(大正2年)に帰国して高等文官試験外交科を首席合格し、1914年(大正3年)、外交官補としてイギリスに在勤する。
坪上 貞二(つぼかみ ていじ、1884年6月1日 - 197… 坪上 貞二(つぼかみ ていじ、1884年6月1日 - 1979年5月28日)は、日本の外交官。拓務次官、満洲拓殖公社総裁を経て、太平洋戦争中に初代駐タイ特命全権大使として日泰攻守同盟条約に調印した。戦後公職追放され、追放解除後に日本海外協会連合会(現 国際協力機構)会長を務めた。 佐賀県出身。1909年東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業。外務省入省。1912年ウラジオストク外交官補。外務省アジア局第2課長や、外務大臣官房会計課長、文化事業部長、拓務次官を経て、1935年に満洲国、南満洲鉄道、三井合名会社、三菱合資会社の出資で設立された満洲拓殖株式会社総裁に就任。1937年満洲拓殖公社総裁、1940年満洲国参議府参議。
江戸 千太郎(えど せんたろう、1884年5月17日 – 1… 江戸 千太郎(えど せんたろう、1884年5月17日 – 1938年4月7日)は、日本の外交官。 福井県三方郡三方町横渡、江戸勘四郎家の長男として出生。 1904年(明治37年)3月、旧制小浜中学校卒業、明治40年度に早稲田大学高等師範部歴史地理科を卒業し、さらにその翌年に東京帝国大学選科(国史)を卒業し、旧制志布志中学校、旧制水戸中学校に教諭として勤務する。 1918年(大正7年)、外交官補試験に合格、外務省入省。1919年(大正8年)領事館補。1925年(大正14年)より領事として青島、漢口(中国)、リバプール(イギリス)、バンクーバー(カナダ)等に勤務。1931年(昭和6年)より外務省文化事業部第二課長、第一課長兼文部書記官歴任。
德川 家正(とくがわ いえまさ、旧字体: 德川 家正、188… 德川 家正(とくがわ いえまさ、旧字体: 德川 家正、1884年〈明治17年〉3月23日 - 1963年〈昭和38年〉2月18日)は、日本の外交官・政治家。徳川宗家第17代当主。第16代当主・徳川家達の長男。位階・勲等・爵位は正二位勲一等公爵。最終学歴は東京帝国大学法科大学政治科卒業。称号(学位)は法学士。 戦前にカナダ公使、トルコ大使など官職を務め、父・家達の死後に家督を継いで襲爵し、貴族院議員となる。戦後は第13代にして最後の貴族院議長を務めた。その他の主な公職及び役職としては、社団法人全国治水砂防協会会長、日土協会会長、恩賜財団同胞援護会会長などを歴任した。 1884年(明治17年)3月23日、徳川家達の長男として東京府南豊島郡千駄ヶ谷村(現:東京都渋谷区千駄ヶ谷)で生まれる。
桑島 主計(くわしま かずえ、1884年〈明治17年〉3月4… 桑島 主計(くわしま かずえ、1884年〈明治17年〉3月4日 - 1958年〈昭和33年〉9月24日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、ブラジル大使。 香川県出身。1906年(明治39年)に早稲田大学政治科を卒業し、外務書記生試験に合格した。清国に在勤し、1908年(明治41年)に高等文官試験に合格し、外務属となった。1911年(明治44年)、外交官及領事官試験に合格し、領事官補、領事、外務書記官・帝都復興院書記官、大使館一等書記官を歴任し、その間に奉天、漢口、サンフランシスコ、バンクーバー、シカゴ、ワシントンD.C.に勤務した。さらにホノルル総領事、漢口総領事、大使館参事官、天津総領事、外務省亜細亜局長、同東亜局長を務めた。
阿部 嘉八(あべ かはち、1884年(明治17年)2月 - … 阿部 嘉八(あべ かはち、1884年(明治17年)2月 - 1938年(昭和13年)5月18日)は、日本の外交官、実業家。在シカゴ帝国領事、在バンクーバー帝国領事、大阪鐵工所取締役等を歴任した。 熊本県熊本市生まれ。壷川小学校を経て、1900年(明治33年)熊本商業学校卒業。1904年(明治37年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、大阪商船に入社。1906年(明治39年)同校専攻部卒業。柔道部出身。1907年(明治40年)外交官試験に合格し、領事官補任官。1908年(明治41年)在ホノルル総領事代理。1909年(明治42年)在サンフランシスコ領事官補。 1910年(明治43年)在シアトル領事官補。
蔡 培(さい ばい、1884年〈光緒10年〉 - 1960年… 蔡 培(さい ばい、1884年〈光緒10年〉 - 1960年)は、中華民国の政治家・外交官。字は子平。南京国民政府(汪兆銘政権)で南京市長、駐日大使などを務めた。 清末に日本に留学する。1912年(民国元年・明治45年)に早稲田大学専門部法律科を卒業し、併せて法学士の称号を取得した。帰国後は、柳亜子らが組織した南社に所属し、衆議院議員にもなった。1928年(民国17年)1月、国民政府交通部秘書となる。6月、参事となった。1930年(民国19年)1月、交通部航政司司長となる。1935年(民国24年)8月、内政部民政司司長に異動した。 1940年(民国29年)3月、汪兆銘が南京国民政府を組織すると、蔡培は工商部政務次長に任命された。
岡本 武三(おかもと たけぞう、1883年(明治16年)12… 岡本 武三(おかもと たけぞう、1883年(明治16年)12月7日 - 1943年(昭和18年)1月17日)は、日本の外交官。駐イラン公使。 京都府出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年、外交官及領事官試験合格し翌年に領事官補として上海に勤務した。以来、領事、外務事務官、同書記官、大使館二等書記官、同一等書記官、同参事官を歴任し、その間、中国、イギリス、イタリアに勤務。さらに天津総領事、イタリア大使館参事官を経て、1932年(昭和7年)から駐イラン公使を務めた。1938年(昭和13年)には、東亜研究所発足時の理事に就任している。 1943年(昭和18年)1月17日没、墓所は東京都文京区の護国寺。
河合 博之(かわい ひろゆき、1883年〈明治16年〉8月 … 河合 博之(かわい ひろゆき、1883年〈明治16年〉8月 – 1933年〈昭和8年〉8月14日)は、日本の外交官。駐ポーランド公使。 神奈川県出身。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補、外交官補、大使館三等書記官、同二等書記官、同一等書記官を歴任した。1921年(大正10年)、帰国して外務書記官・参事官となった。1923年(大正12年)より駐ベルギー大使館参事官、駐フランス大使館参事官を務めた。1931年(昭和6年)に駐ポーランド公使に就任した。在任中に死去。
渡辺 知雄(わたなべ ともお、1883年(明治16年)7月1… 渡辺 知雄(わたなべ ともお、1883年(明治16年)7月16日 – 1946年(昭和21年)11月29日)は、日本の外交官。静岡県三島市長。 静岡県出身。1907年(明治40年)に早稲田大学政治経済科を卒業し、翌年に外務省に入省した。1912年(明治45年)に外務書記生となり、バンクーバー領事館に勤務した。1917年(大正6年)より中華民国に駐在し、1919年(大正8年)には広州副領事となった。翌年、ロンドン副領事に転任。1922年(大正11年)、ボンベイ(現在のムンバイ)総領事に就任し、1927年(昭和2年)からニューオーリンズ総領事に転じた。1932年(昭和5年)よりハバナ領事となり、さらにマニラ総領事を務めた。
若杉 要(わかすぎ かなめ、1883年(明治16年)7月9日… 若杉 要(わかすぎ かなめ、1883年(明治16年)7月9日 - 1943年(昭和18年)12月9日)は、日本の外交官。駐アメリカ合衆国公使。 熊本県出身。1883年(明治16年)7月9日熊本市寺原町に生まれる。1900年(明治33年)熊本市立商業高校入学、1903年(明治36年)熊本市立商業高校(校名変更により熊本県立商業高校)7期生卒業。1906年(明治39年)、東亜同文書院を3期生卒業し、外務書記生試験に合格した。1911年(明治44年)、オレゴン州立大学を卒業し、さらに1914年(大正3年)にはニューヨーク大学を卒業した。1917年(大正6年)、外交官及領事官試験に合格し領事官補となった。
堀田 正昭(ほった まさあき、1883年(明治16年)7月1… 堀田 正昭(ほった まさあき、1883年(明治16年)7月1日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使、駐スイス公使、駐イタリア大使。 検事・法学者堀田正忠の長男として東京府に生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験に合格した。外交官補としてフランス、中華民国に勤務した。公使館三等書記官、大使館二等書記官、同一等書記官、外務書記官・大臣官房人事課長などを歴任し、その間に中国・ドイツ・イタリアに勤務した。1926年(大正15年)、外務省欧米局長に就任。1931年(昭和6年)、駐チェコスロバキア公使となり、1934年(昭和9年)に駐スイス公使に転じた。
小村 欣一(こむら きんいち、1883年〈明治16年〉5月1… 小村 欣一(こむら きんいち、1883年〈明治16年〉5月13日 - 1930年〈昭和5年〉12月29日)は、大正・昭和初期の外交官、貴族院議員、華族(侯爵)。 明治期の外交官、小村寿太郎の長男として生まれた。母は幕臣朝比奈孝一の娘、マチ(町子)である。欣一の生まれる少し前、祖父(寿太郎の父)の寛が宮崎県で経営していた飫肥商社が倒産し、小村一家は莫大な借金をかかえた。そのため、父寿太郎が外務省翻訳局長の職にありながらも、小村家の生活は逼迫しており、幼い欣一は栄養不足のため夜盲症に罹ったといわれる。 欣一は日本中学、一高を経て、1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
松永 直吉(まつなが なおきち、1883年(明治16年)4月… 松永 直吉(まつなが なおきち、1883年(明治16年)4月19日 - 1964年(昭和39年)7月28日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、駐オーストリア公使。 佐賀県出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業、外交官及領事官試験に合格した。外交官補として北京に赴任。天津領事官補、長沙領事官補、ハンブルク領事官補、ドイツ大使館三等書記官、シアトル領事、外務書記官・会計課長・人事課長、オタワ総領事、ベルギー大使館参事官、外務省条約局長などを歴任。1930年(昭和5年)、駐オランダ公使に就任し、1933年(昭和8年)に駐オーストリア公使に転じた。 1937年(昭和12年)に退官した後は、紀元2600年記念日本万国博覧会事務次長を務めた。
松島 肇(まつしま はじめ、1883年2月20日 - 196… 松島 肇(まつしま はじめ、1883年2月20日 - 1961年4月15日)は、日本の外交官。
八木 元八(やぎ もとはち、1883年(明治16年)2月10… 八木 元八(やぎ もとはち、1883年(明治16年)2月10日 – 1946年(昭和21年)10月29日)は、衆議院議員、外交官。 静岡県榛原郡相良町(現在の牧之原市)出身。1902年(明治35年)、外務省留学生試験に合格し、サンクトペテルブルク・アモイに留学した。1906年(明治36年)、外務書記生となり、アモイ、奉天、香港、漢口、ニューヨークに勤務した。1918年(大正7年)より長沙副領事、北京副領事、天津副領事、青島領事、ニューオーリンズ領事を歴任した。1928年(昭和2年)よりハルビン総領事を務めた。 退官後は鴨緑江採木公司理事長、鴨緑江製材株式会社代表、安東市商工公会会長などを務めた。
東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年〈明治15年〉12… 東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年〈明治15年〉12月10日 - 1950年〈昭和25年〉7月23日)は、日本の外交官、政治家。 東條内閣で外務大臣と拓務大臣、鈴木貫太郎内閣で外務大臣と大東亜大臣を務め、太平洋戦争開戦時および終戦時の外務大臣であった。この他、欧亜局長や駐ドイツ大使および駐ソ連大使を歴任。 萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』によれば、茂徳は1882年12月10日に「朴茂徳」として鹿児島県日置郡苗代川村(現在の日置市東市来町美山)で生まれた。苗代川は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行させられた朝鮮人陶工の一部が、薩摩藩によって集められて形成された集落であった。
佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月… 佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)は、日本の外交官、政治家。林内閣外務大臣、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使、戦後には参議院議長(第2・3代)等を歴任した。 旧弘前藩士で当時大阪府警部であった田中坤六の次男として大阪府に生まれる。旧制正則中学校(正則高等学校の前身)卒。1904年(明治37年)、東京高等商業学校(一橋大学の前身)全科卒。同専攻部領事科へ入学。一橋では同級生の向井忠晴(三井総元方理事長や大蔵大臣を歴任)や福島喜三次(元三井合名理事)と首席を争った。後年、向井に駐米大使を打診したが飛行機嫌いであるとして固辞されている。
林 久治郎(はやし きゅうじろう、1882年〈明治15年〉1… 林 久治郎(はやし きゅうじろう、1882年〈明治15年〉10月17日 - 1964年〈昭和39年〉7月23日)は、日本の外交官。駐ブラジル大使、南洋協会理事長。 栃木県下都賀郡壬生町生まれ。同期11名中9位の成績で外務省に入省。同期に吉田茂(のちに内閣総理大臣)、広田弘毅(のちに外務大臣)、武者小路公共(のちに駐ドイツ大使)、池邊龍一(のちに東洋拓殖総裁)、平田知夫(第一次世界大戦でモスクワ総領事在任中、39歳で夭逝)、尾崎洵盛(のちに男爵)ら。 奉天総領事着任直後に関東軍の謀略により張作霖爆殺事件が起こると、当時外相であった幣原喜重郎に関東軍が陰謀を目論んでいる旨の電報を打電するなど、軍部の行動を批判し平和的解決に努めた。
武者小路 公共(むしゃこうじ きんとも、1882年(明治15… 武者小路 公共(むしゃこうじ きんとも、1882年(明治15年)8月29日 - 1962年(昭和37年)4月21日)は、日本の華族、外交官、武者小路家第10代当主。爵位は子爵。位階は正二位。作家・武者小路実篤の兄。 子爵・武者小路実世の三男として東京府東京市麹町区(のち東京都千代田区)に生まれた。1887年(明治20年)に父・実世が肺結核で死去したため、武者小路家の家督と子爵位を継承した。 学習院高等科を経て、1907年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、外務省入省。上海総領事館勤務をふりだしにルーマニア兼ユーゴスラビア、デンマーク兼スウェーデンの各公使に就任。さらに1933年(昭和8年)に駐トルコ大使に就任。
矢田部 保吉(やたべ やすきち、1882年(明治15年)4月… 矢田部 保吉(やたべ やすきち、1882年(明治15年)4月1日 - 1958年(昭和33年)10月8日)は、日本の外交官。駐シャム(タイ王国)公使在任中タイ立憲革命を支援。第二次世界大戦時にはタイ人留学生受入れを進め日泰攻守同盟条約慶祝答礼使節団大使等を務めた。 山口県出身。1907年(明治40年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。翌年、外交官補としてシャムに赴任。安東領事官補、ロンドン領事官補、蘇州領事官補、汕頭領事官補、シドニー領事官補、ボンベイ(現在のムンバイ)領事、廈門領事・台湾総督府事務官、外務事務官・参事官、イタリア大使館一等書記官、外務書記官、在アメリカ合衆国大使館一等書記官、青島総領事などを歴任。
山崎 馨一(やまざき けいいち、1882年(明治15年)2月… 山崎 馨一(やまざき けいいち、1882年(明治15年)2月28日 - 1948年(昭和23年)9月12日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。 神奈川県出身。1905年(明治38年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)専攻部を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補となり漢口、ニューヨークに勤務した。さらにシカゴ領事、イギリス大使館三等書記官、同二等書記官、ロンドン総領事、上海総領事、ホノルル総領事、駐ペルー公使を歴任した。 退官後は後藤風雲堂株式会社取締役会長、後藤風雲堂製作所株式会社社長を務めた。 1948年(昭和23年)9月12日、病気療養中に東京都世田谷区の自宅で死去、63歳。
藤井 實(ふじい みのる、1881年11月または1880年1… 藤井 實(ふじい みのる、1881年11月または1880年11月6日 - 1963年)は、日本の外交官。また、東京帝国大学在学中の1902年に、特殊な電気計時装置を使った測定で100メートル競走に10秒24という記録を残したとされる人物としても知られる。名前は藤井実と表記されることもある。 東京・本郷に、昌平黌の漢学教師を父として生まれる。旧制郁文館中学校から第一高等学校を経て、1902年に東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)に進学する。体格に恵まれていた(帝大1年当時、身長179cm、体重71kg)藤井は中学時代から各種のスポーツに親しみ、一高時代には陸上競技で並ぶもののない成績を収めていた。
藤田 栄介(ふじた えいすけ、1881年〈明治14年〉4月 … 藤田 栄介(ふじた えいすけ、1881年〈明治14年〉4月 – 1940年〈昭和15年〉3月10日)は、日本の外交官。駐ルーマニア公使。 鹿児島県鹿児島市加治屋町出身。中学造士館を経て、1904年7月第七高等学校造士館 (旧制)卒業(第一部法科志望、第1回卒業生)。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1910年(明治43年)より領事官補として安東、牛荘に勤務した。その後、三等書記官、二等書記官、台湾総督府事務官、総領事・台湾総督府事務官、外務書記官・情報部第一課長を歴任した。1925年(大正14年)より済南総領事、青島総領事を務めた。1930年(昭和5年)、駐ルーマニア公使に任命され、駐ユーゴスラビア公使も兼任した。
青木 新(あおき あらた、1881年(明治14年)2月11日… 青木 新(あおき あらた、1881年(明治14年)2月11日 - 1970年(昭和45年)1月10日)は、日本の外交官。駐メキシコ公使、駐スペイン公使。 熊本県、現在の熊本市で、小学校教員・青木健次郎の長男として生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験合格した。シカゴ領事官補、副領事、領事、大使館三等書記官、同二等書記官、外務書記官、外務大臣秘書官、大使館一等書記官、同参事官、ホノルル総領事を歴任し、その間、中国、ロシア、アメリカ合衆国、ブラジルに赴任した。 1926年(大正15年)駐メキシコ公使に就任し、1930年(昭和5年)4月から同年8月までは駐キューバ公使も兼ねた。