山口 久太(やまぐち ひさた、1911年4月26日 - 19… 山口 久太(やまぐち ひさた、1911年4月26日 - 1993年7月12日)は、日本の教育者。元日本体育協会副会長、名誉副会長。東海大学体育学部長。 1911年、、佐賀県東松浦郡相知町(現唐津市)に生まれる。下村湖人の薫陶を受け、旧制唐津中学(現在の佐賀県立唐津東高等学校)卒業後、周囲が旧制高等学校の進学を薦める中、日本一の体育教師を目指して、東京高等師範学校(現・筑波大学)体育科に進学する。1934年3月、東京高等師範学校体育科を卒業。体育教諭として、旧制甲府中(現・山梨県立甲府第一高等学校)、旧制広島一中(現・広島県立国泰寺高等学校)に奉職。戦後千葉県に体育担当地方事務官として招かれて、千葉県立佐原高等女学校校長、千葉県立船橋高等学校校長を務める。
原田 観峰(はらだ かんぽう、1911年〈明治44年〉3月2… 原田 観峰(はらだ かんぽう、1911年〈明治44年〉3月21日 - 1995年〈平成7年〉7月)は、日本の書家、教育者。福岡県にて生まれ、戦前は東京都で教鞭を取り、戦後は福岡に戻って複数の幼稚園を開設した。後の日本習字教育財団を創立して日本全国で書道教育を推進したほか、海外の文化資料の蒐集を行った。開設した博物館である観峰館には蒐集した資料が所蔵されている。 本名は原田孝太郎。1911年3月21日、福岡県山門郡瀬高町(現・みやま市)に生を受ける。実家は酒樽の製造を営んでいた。教育熱心な父親の下に育ち、幼少期から書道を嗜み、また学問にも秀でていたとされる。当時は小野鵞堂の作品を手本として筆の練習をしていた。
斎藤 喜博(さいとう きはく、1911年〈明治44年〉3月2… 斎藤 喜博(さいとう きはく、1911年〈明治44年〉3月20日 - 1981年〈昭和56年〉7月24日)は、日本の教育者。群馬県佐波郡芝根村(現・玉村町)生まれ。群馬師範学校(現・群馬大学共同教育学部)本科第一部卒業。小中学校の教師や群馬県教職員組合常任委員(文化部長)を経て、1952年、佐波郡島小学校長となり、11年間、「島小教育」の名で教育史に残る子どもたちの表現力を育てる実践を展開した。計8回開かれた公開研究会には、全国から延べ1万人近い教師、研究者らが参観に来た。 併行して民間教育研究運動にも積極的に携わり、自ら設立に関与した教育科学研究会(教科研)教授学部会や教授学研究の会で現職教員を指導した。
池田 勝(いけだ まさる、1911年3月2日 - 没年不明)… 池田 勝(いけだ まさる、1911年3月2日 - 没年不明)は日本の教育者。 熊本県荒尾市に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1928年卒業)を経て、京城帝国大学法文学部を卒業した。 卒業後は朝鮮・全州師範学校教諭となる。戦後は母校である玉名高等学校の教諭を務めた後、熊本県教育委員会指導委員となる。その後教職に復帰し、熊本県立荒尾高等学校(1956年着任)・熊本県立宇土高等学校(1960年着任)・熊本県立第一高等学校・熊本県立鹿本高等学校で校長を歴任した。荒尾高等学校長就任は、生徒のストーム事件の事後処理がその理由だった。熊本県教育委員会では指導室長も務めている。
平川 篤雄(ひらかわ とくお、1911年(明治44年)2月1… 平川 篤雄(ひらかわ とくお、1911年(明治44年)2月18日 - 1996年(平成8年)6月29日)は、昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 広島県出身。1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部国文科を卒業した。 以後、新潟県師範学校教諭、広島県師範学校教諭、三原女子師範学校附属主事、広島高等師範学校講師、広島県地御前国民学校長、同緑井国民学校長、広島昭和高等女学校(現比治山女子中学校・高等学校)教頭を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で広島県全県区に無所属で出馬して初当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で広島県第1区に国民協同党公認で出馬して落選。
宗 道臣(そう どうしん、1911年(明治44年)2月10日… 宗 道臣(そう どうしん、1911年(明治44年)2月10日 - 1980年(昭和55年)5月12日)は、日本の武道家、思想家、教育者、社会指導者、社会運動家、宗教家。日本の武道の一つである少林寺拳法の創始者であり、北少林義和門拳第21代正統継承者(事実上の古典的嵩山少林寺における最後の正統継承者) 姓名は中野 理男(なかの みちお)、中野 道臣(なかの みちおみ)を経て、最終的には宗 道臣を名乗った 1911年(明治44年)2月10日、岡山県英田郡江見村(現・美作市)に生まれる。1919年(大正7年)、義父が死亡し、1924年(大正12年)に家出し、祖父の住む満州へと移る。1926年(大正15年)母と妹が死亡、1927年(昭和2年)には妹と祖父が死亡、天涯孤独となる。
小島 忠治(こじま ちゅうじ、1911年2月7日 - 197… 小島 忠治(こじま ちゅうじ、1911年2月7日 - 1974年1月9日)は、日本の教育者、教育学者。 神奈川県横浜市出身。1943年法政大学文学部国漢科卒。小学校教師を務め、東横学園小学校校長、和光学園主事。日本私立小学校連合会副会長。国語教育が専門。
秋月直胤(あきづき なおかず、1911年〈明治44年〉1月2… 秋月直胤(あきづき なおかず、1911年〈明治44年〉1月20日 - 1988年〈昭和63年〉11月)は日本の歌手、教育者。 岡山県岡山市広瀬町出身。東京音楽学校を卒業後も声楽の研究を続けるつもりでいたが、山田耕筰の推薦でコロンビアレコードに入り、青山 薫(あおやま かおる)の芸名で歌手として活動する。青山薫の芸名は西條八十によるものである。流行歌歌手を引退後はクラシック界に復帰し、バリトン独唱者として活躍した。1948年(昭和23年)には大阪音楽大学に声楽部長、教授として招かれ、教鞭をとった。 その後大学を退いて新設音楽大学の設立を計画するもかなわず、1951年(昭和26年)4月からは兵庫県宍粟郡山崎町(現在の宍粟市)に居を移し、兵庫県立山崎高等学校で教鞭をとる。
宮島 初子(みやじま はつこ、1911年1月12日‐1981… 宮島 初子(みやじま はつこ、1911年1月12日‐1981年12月27日)は、昭和時代の教育者。北海道出身。学校法人宮島学園創立者。ファッションドレスメーカー専門学校創立者。北海道調理師専門学校創立者。 札幌市立高等女学校(現北海道札幌東高等学校)を卒業し、結婚。結婚後から洋裁を始め、上京して杉野学園ドレスメーカー女学院で学んだ。卒業後札幌に戻り、1937年、ファッション洋裁塾を設立。これが、現在のファッションドレスメーカー専門学校であり、最古の専門学校のひとつである。1975年には、北海道調理師専門学校を併設。また、1983年には、ファッションドレスメーカー専門学校で最優秀卒業生を表彰する「宮島初子賞」が制定された。
藤岡 一男(ふじおか かずお、1911年(明治44年)1月1… 藤岡 一男(ふじおか かずお、1911年(明治44年)1月10日 - 1994年(平成6年)1月9日)は、地質学者であり、教育者でもある。北海道帝国大学理学部を卒業後、理学部助手となり、植物化石の研究に従事。秋田鉱山専門学校教授となり、秋田大学鉱山学部教授、秋田大学名誉教授となる。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 明治44年(1911年)1月10日、川上郡落合村福地(現・高梁市落合町福地)に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)を経て広島高等師範学校を卒業。高等師範学校在学中から成羽地域に分布する三畳紀植物化石の研究を始め、北海道帝国大学大石三郎助教授の指導を受け、昭和9年(1934年)北海道帝国大学理学部地質学鉱物学科に入学、引き続き大石助教授に師事する。
高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)… 高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)1月3日 - 2004年(平成16年)9月28日)は、日本の考古学者・教育者。考古学者としては、日本の地方郡衙の調査研究で先駆的な成果を上げた。元甲陽学院中学校・高等学校教諭。 1911年(明治44年)1月3日、富山県射水郡伏木町(現・高岡市)中道に生まれる。伏木町立尋常高等小学校、富山県立高岡中学校、第四高等学校を経て、1931年(昭和6年)4月に京都帝国大学文学部に入学。大学では西田直二郎らの教えを受ける。大学を1934年(昭和9年)3月に卒業した翌月に茨城県立水戸第二高等女学校講師兼茨城県女子師範学校(茨城県女子師範学校は後,茨城師範学校となる)講師として茨城県に着任する。
千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年)は、日本… 千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年)は、日本の画家、美術教育者。現在の宮城県大崎市出身。 宮城県大崎市に生まれる。幼少期から絵画に興味を持ち、地元の小学校・中学校で才能を発揮した。旧制古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)を卒業後東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学し、洋画を学ぶ。在学中から光風会や東光会に作品を出品し、頭角を現した。1930年代には帝展(帝国美術展覧会)に初入選し、画家としての将来が期待されるようになる。しかし、当時の日本は戦争の時代に突入し、画家としての活動が制限される状況となる。 東京美術学校研究科に進学したものの、戦時下の影響もあり研究科を中退した。その後台湾に渡り、現地で美術教育に携わる。
皆見 鵬三(みなみ ほうぞう、1911年(明治44年)- 1… 皆見 鵬三(みなみ ほうぞう、1911年(明治44年)- 1967年(昭和42年))は、日本の画家であり教育者。岡山県総社市出身。 1911年(明治44年)岡山県吉備郡水内村影(現・総社市)に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)を卒業した後、上京して川端画学校に学ぶ。その後、帝国美術学校油絵科に入学し牧野虎雄に師事。1933年(昭和8年)帝国美術学校油絵科卒業。 卒業後は特待研究生として同学校に残る。1933年、第1回旺玄社に「早春伊豆」を出品し入選すると、以後同会に出品を続けた。1935年(昭和10年)には多摩美術学校で助手をつとめた。戦時中に従軍画家として中国東北部に赴き、2年間のシベリア抑留を経て帰国。
古崎 博(ふるさき ひろし、1911年 - 没年不詳)は、日… 古崎 博(ふるさき ひろし、1911年 - 没年不詳)は、日本の翻訳家、教育者。主に中東・イスラエル関連の著作の翻訳で知られる。また、鎮西学院(長崎県)関連の教育機関で理事長などを務め、オペラ『蝶々夫人』の原作小説の日本語訳を出版したことでも知られる。 東京帝国大学理学部を卒業後、三井物産に勤務。 1940年(昭和15年)、軍事物資である水銀調達の相談のため大連特務機関長・安江仙弘大佐を訪問した際、杉原千畝がリトアニアでユダヤ難民に大量の通過査証を発行していた話を聞き、その事実を記録した。この記録は戦後、杉原千畝の「命のビザ」に関する重要な証言資料の一つとなっている。 また、陸軍主計大佐の新庄健吉がアメリカの国力を調べるためにニューヨークに赴いた際、三井物産社員として調査に協力している。
中村 喜四郎(なかむら きしろう、1910年〈明治43年〉1… 中村 喜四郎(なかむら きしろう、1910年〈明治43年〉11月5日 - 1971年〈昭和46年〉12月21日)は、日本の教育者、政治家。位階は正五位。勲等は勲三等。 参議院議員(2期)、茨城県議会議員(5期)。 1910年(明治43年)、茨城県生まれ。 茨城県師範学校、東京高等師範学校卒業。郷里の小学校訓導、島根県師範学校教諭を務める。 1940年(昭和15年)、東京文理科大学卒業。中国に渡り、北京日本中学校教諭、北京工業大学教授を務める。 1945年(昭和20年)、帰国。その後、茨城県立境高等学校教諭を務める。戦前戦後を通じ、教育一筋の道を歩んだ。 1947年(昭和22年)、茨城県議会議員選挙に当選。
横川 義雄(よこかわ よしお、1910年10月~1995年6… 横川 義雄(よこかわ よしお、1910年10月~1995年6月12日)は、日本の経営学者・教育者・地方公務員だった人物。札幌大学名誉教授。北海道函館市出身 1928年北海道庁立小樽中学校卒業。1931年小樽高等商業学校卒業。北海道庁立小樽商業学校(現北海道小樽商業高等学校)教諭。1940年北海道函館商業学校(現北海道函館商業高等学校)教諭。1953年函館短期大学商科助教授(経営管理論・教職担当)。1958年北海道教育委員会指導主事。1959年札幌短期大学商業科客員助教授(経営管理論担当、~1968年)。1963年北海道札幌東商業高等学校校長。1968年北海道旭川商業高等学校校長。1970年北海道立の高等学校の教員として定年退職。
古屋 かのえ(ふるや かのえ、1910年8月23日 - 19… 古屋 かのえ(ふるや かのえ、1910年8月23日 - 1993年8月)は、日本の看護教育者。戦後の看護教育の基礎を築くとともに、看護学校の大学化への運動を行った。歌人として八代 かの江の筆名も用いた。 山梨県東八代郡御代咲村(現・笛吹市)に生まれる。両親はともに小学校教員で、父盛治は校長を務めたが結核に罹患し47歳で他界した。 1930年に山梨県女子師範学校本科第一部を卒業し、1930年4月から1934年3月まで山梨県御代咲小学校教員を務める。1934年4月に日本赤十字社中央病院看護婦養成所(甲種)に入学、1937年3月に卒業し、成績優秀により橋本記念賞受賞。同年4月、日本赤十字社山梨支部診療所に勤務。
近藤 恒次(こんどう つねじ、1910年8月22日 - 19… 近藤 恒次(こんどう つねじ、1910年8月22日 - 1978年8月16日)は、愛知県豊橋市中柴町出身の教育者・郷土史家。文学博士(東洋大学、1972年)。 1910年に豊橋市中柴町に生まれた。建具商である近藤宇一の長男であり、生家は大手通りから諏訪神社に曲がる角にあった。松山尋常小学校(現・豊橋市立松山小学校)、愛知県豊橋中学校(現・愛知県立時習館高等学校)を卒業。教員志望だったため、1928年(昭和3年)には東洋大学専門部倫理学東洋文学科に入学し、1931年(昭和6年)に卒業した。 1934年(昭和9年)に花田尋常小学校(現・豊橋市立花田小学校)代用教員となったのが教職の始まりである。豊橋市立商業学校(現・愛知県立豊橋商業高等学校)、豊橋市立工業学校(現・愛知県立豊橋工業高等学校)、愛知県立時習館高等学校の教員を務め、1971年(昭和46年)に時習館高校で定年を迎えた。
山中 吾郎(やまなか ごろう、1910年(明治43年)7月2… 山中 吾郎(やまなか ごろう、1910年(明治43年)7月23日 - 1983年(昭和58年)6月2日)は、昭和期の教育者、地方公務員、政治家。衆議院議員。 和歌山県伊都郡名倉村(高野口町を経て現橋本市高野口町)出身。1933年(昭和8年)東京高等師範学校文科を卒業した。 山形県立山形中学校(現山形県立山形東高等学校)教諭、三重県師範学校教諭、京都府師範学校教諭などを歴任。1943年(昭和18年)7月、高等試験行政科試験に合格。1945年(昭和20年)岩手県庁に入庁。学務課長兼厚生課長、労働部長、教育部長を歴任し、1948年(昭和23年)岩手県教育委員会教育長に就任。その後、公共企業体等労働委員会地方調停委員、岩手大学講師、私立修紅短期大学助教授などを務めた。
吉永 孝雄(よしなが たかお、1910年5月24日 - 19… 吉永 孝雄(よしなが たかお、1910年5月24日 - 1992年10月17日)は日本の文楽研究家、教育者。大阪府出身。 旧制大阪府立生野中学校、大阪高等学校から東京帝国大学に進み、国文学を専攻。浄瑠璃の研究で文学博士。 大阪府立大手前高等学校などで国語科教諭として教壇に立ち、大阪府立勝山高等学校教頭、大阪府立清水谷高等学校校長を務めた。 その傍ら、文楽の研究に取り組み、番付、ちらしなど興行関係資料、ビデオテープ、レコード、新聞・雑誌の記事切抜、写真など多数の資料を収集。その一部は、園田学園女子大学近松研究所に「吉永孝雄文庫」として寄贈されている。 後年は羽衣学園短期大学教授、学長となり、文楽の教育に従事。
広安 孝夫(ひろやす たかお、1910年4月17日 - 19… 広安 孝夫(ひろやす たかお、1910年4月17日 - 1959年4月18日)は、日本の官僚、聖職者、教育者、翻訳家。文部省文部事務官、文部省宗教課文部属、日本聖公会の伝道師。 1910年(明治43年)4月17日、広島県沼隈郡郷村(現・福山市)にて、広安助一郎の三男として生まれる。 1923年(大正12年)、広島県立福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)へ入学。結核のため2年間の休学を経て、1930年に同校を卒業。青年期に兄・広安謙一の影響を受けてキリスト教を知るが、兄は、札幌農学校のクラーク博士の遺風を慕って、北海道帝国大学医学部に学び、後に旭川で開業医となっている。 1932年(昭和7年)3月25日に、地元の福山基督教会の司祭・横田金熊のもとで洗礼を受ける。
小笠原 二三男(おがさわら ふみお、1910年〈明治43年〉… 小笠原 二三男(おがさわら ふみお、1910年〈明治43年〉4月12日 - 1977年〈昭和52年〉7月5日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 岩手県遠野市出身。1930年(昭和5年)岩手県師範学校専攻科を卒業した。 小学校教員を20年間勤めた。戦後、労働運動に加わり全日本教員組合協議会副委員長に就任。日本教職員組合が結成され書記長に就任し、さらに同副委員長に就任。その他、日本教育会常務理事、教育刷新審議会委員、日本教育会館専務理事、日本社会党中央執行委員などを務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で岩手県第1区に社会党公認で出馬して次点で落選。1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に出馬して当選し、1956年(昭和31年)7月の第4回通常選挙でも再選され、参議院議員に連続2期在任した。
安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年… 安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年8月24日)は、広島県広島市出身の官僚、教育者。厚生事務次官、医療金融公庫総裁、安田学園理事長を歴任した。 広島の私学・安田学園創立者・安田リヨウの長男。戦後の1949年、厚生省保険局長に就任。戦時及び戦後の混乱で乱雑となった厚生年金台帳の整理に尽力し、また海外視察の経験を基にして台帳整理の機械化導入を指示した。1959年には厚生事務次官に就任。1960年、医療金融公庫総裁となる。退官後の1978年、母リヨウ死去に伴い安田学園理事長に就任。1996年、広島市内の病院で死去。享年86。
福西 基(ふくにし もとい、1910年〈明治43年〉3月25… 福西 基(ふくにし もとい、1910年〈明治43年〉3月25日 - 2020年〈令和2年〉8月22日)は、日本の教育者、スーパーセンテナリアン。茨城県下妻市に在住していた長寿の男性。日本国内最高齢男性であった白井庄次郎が2020年8月11日に死去して以来、11日間日本国内最高齢男性となっていた。 1910年3月25日、茨城県結城郡宗道村(現在の下妻市宗道)で生まれる。 旧制中学校時代にアメリカ人宣教師・ビンフォルド夫妻と出会い、1927年に下妻基督友会員(キリスト教のフレンド派)となる。 茨城県立下妻中学校を経て茨城県師範学校卒業後、真壁郡村田尋常高等小学校に赴任。その後、下妻市立豊加美小学校長、総上中学校長、上妻小学校長、騰波ノ江中学校長、岡田小学校長、飯沼小学校長を歴任。
小谷 純一(こたに じゅんいち、1910年3月21日 - 2… 小谷 純一(こたに じゅんいち、1910年3月21日 - 2004年10月1日)は、日本の農業指導者、教育者、キリスト教伝道者。 全国愛農会を創設し、愛農学園農業高等学校の創立者で初代校長を務めた。 和歌山県和歌山市小豆島(あずしま)出身。生家は地主の農家で、その長男であった。旧制中学校を経て、1925年(大正14年)、京都府立高等蚕糸学校(現:京都工芸繊維大学)に入学する。在学中には西田天香の一燈園に参加していた。 1928年(昭和3年)に京都高等蚕糸卒業後、京都帝国大学農学部に進学。在学中、キリスト集会で佐藤定吉の伝道集会に参加したことから、無教会主義キリスト教徒となる。1933年京都帝国大学農学部を卒業後、加藤完治が茨城県で行っていた満蒙開拓青少年義勇軍運動に参加したが、右翼的な方向に変じた運動から離脱し、農林省による「農民道場」創設に関与した。
北野 邦雄(きたの くにお、1910年3月15日 - 200… 北野 邦雄(きたの くにお、1910年3月15日 - 2000年9月4日)は、日本の教育者、ドイツ語教師、写真・カメラの評論家、出版人。 北海道生まれ。東京外国語大学卒業。東京外国語大学、岩手大学、東京写真大学(現在の東京工芸大学)、陸軍軍医学校、杏林大学、武蔵野音楽大学などでドイツ語の講師を務めた。彼のドイツ語のレベルは、始めてフォトキナを訪れた際、「ドイツ人よりドイツ語がうまい日本人がいる」と評されたほどだったという。 1909年(明治42年)から写真関係の雑誌記事、書籍などの執筆を始め、戦前、戦後を通して代表的筆者であった。また、光画荘(現在の写真工業出版社)の初代社長を務め、同社の代表的月刊誌であった「光画月刊」(後の「月刊カメラ」)の主幹も務めた。
寒川 道夫(さがわ みちお、1910年2月25日 - 197… 寒川 道夫(さがわ みちお、1910年2月25日 - 1977年8月17日)は、日本の教育者、児童文学作家。 新潟県中蒲原郡新津町(現・新潟市秋葉区)に教育者の長男として生まれた。1921年三島郡大河津村(現・長岡市)五社小学校卒。1926年長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)卒。1927年古志郡田井尋常高等小学校(現・見附市立田井小学校))の代用教員になる。1930年高田師範学校卒。同年古志郡一之貝小学校(栃尾市立一之貝小学校(廃校))、1932年同郡村立黒条尋常小学校(現・長岡市立黒条小学校)の教師となり、生活綴方運動に参加。詩集『山芋』の作者の大関松三郎を指導した。 1941年治安維持法違反(生活綴方事件)で2年間獄中生活を送り教職を追われた。
松山 時夫(まつやま ときお、1910年(明治43年)1月 … 松山 時夫(まつやま ときお、1910年(明治43年)1月 - 1999年(平成11年)1月27日)は、昭和初期の歌手、教育者。本名は柳 歳一(やなぎ としかず)。 山口県小野田市(現山陽小野田市)生まれ。1932年(昭和7年)、東京音楽学校在学中にレコード歌手としてデビューし、パーロホン・リーガルレコード・オーゴンレコードなどにアルバイトとして吹き込んだ。1933年(昭和8年)、高橋掬太郎が作詞しパーロホンから発売した「片瀬波」が大ヒットし、パーロホンがコロムビアに吸収合併された後もリーガルレコードより再発売された。 歌手活動の期間を通して、ステージにも放送にもただの一度も出演しなかったため、長らく素性は謎であった。
西村 力弥(にしむら りきや、1909年(明治42年)10月… 西村 力弥(にしむら りきや、1909年(明治42年)10月22日 - 1985年(昭和60年)5月6日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 山形市出身。1929年(昭和4年)山形県師範学校を卒業した。小学校訓導となり、農業、自由労働者、役場書記などを経て、再び小学校教員に就任。全教協最高闘争委員、全官公共闘委員会渉外部長、山形県教員組合執行委員長、山形県官公労働組合会議議長などを務めた。 1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で山形県第1区から社会党左派公認で立候補して初当選し、以後、第29回総選挙まで連続して再選され、衆議院議員に連続5期在任した。この間、日本社会党出版部副部長、同軍事基地委員会事務局長、同軍事基地対策特別委員長、同社会主義理論委員会副委員長、同党両院議員総会副会長、原水爆禁止日本協議会顧問、日本平和委員会常任理事、山形県労農会議議長、山形日中貿易社長などを務めた。
佐々 久(ささ ひさし、1909年10月1日 - 1989年… 佐々 久(ささ ひさし、1909年10月1日 - 1989年6月8日)は、日本の郷土史家、東洋史学者、教育者。宮城県図書館長、仙台郷土研究会会長などを務めた。 宮城県仙台市生まれ。東北帝国大学で東洋史を専攻し東北学院の教授などを務めたのち、30代後半で宮城県の郷土史研究に転じる。公務員として教育行政や文化財保護、図書館運営に携わりながら『仙台市史』、『宮城県史』の編纂・執筆をし、また宮城県内の多くの自治体の地方史を監修した。1981年、勲四等瑞宝章受章。蔵書は宮城県図書館に寄贈され「佐々久文庫」として所蔵されている。 1909年(明治42年)10月1日、宮城県仙台市二十人町に7人きょうだいの長男として生まれる。
鴨 良弼(かも よしすけ、1909年〈明治42年〉9月23日… 鴨 良弼(かも よしすけ、1909年〈明治42年〉9月23日 - 1994年〈平成6年〉5月4日)は、日本の法学者・裁判官・教育者。刑事訴訟法学者。東北大学名誉教授。東北大学法学部教授を経て、一橋大学法学部で刑事訴訟法講座の初代教授を務めた。 1909年、福島県石城郡湯本町生まれ。1929年、青山師範学校を卒業。卒業後は、東京の旧制尋常小学校に教員として勤務した。1940年、司法試験(旧制)合格。九州帝國大学法文学部に入学し、1941年に卒業。司法修習生(旧制)となる。 1942年、東京地方裁判所判事。1944年からは秋田地方裁判所判事。その後、仙台地方裁判所判事を経て、1952年東北大学法学部助教授に着任。
田辺 正男(たなべ まさお、1909年8月28日 - 200… 田辺 正男(たなべ まさお、1909年8月28日 - 2002年4月17日)は、日本の国文学者・国語学者・教育者。学位は、文学博士(國學院大学・1961年)。國學院大学名誉教授、元国学院女子短期大学初代学長。三重県亀山市生まれ。東京都育ち。田邊正男とも表記される。 国語学者として中学校・高等学校の多くの国語教科書・古文教科書・指導要領の策定に関わった この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7… 赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7日 - 1999年〈平成11年〉8月11日)は、医学博士、眼科医師であり、教育者でもある。戦後、広島県立医科大学(現・広島大学医学部)の眼科の初代教授を務めた後、岡山大学第5代学長、川崎医科大学初代学長、岡山県立短期大学(現・岡山県立大学)学長を勤めた。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 1927年(昭和2年)旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)卒業、1931年第六高等学校卒業を経て、岡山医科大学に入学、1935年(昭和10年)に岡山医科大学卒業した。卒業後嘱託として同大眼科教室副手として勤務する。1938年(昭和13年)青森県立病院眼科部長として赴任。
森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 -… 森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 - 1989年(平成元年)6月14日)は、兵庫県出身の児童文学作家・教育者。代表作は知的障害のある青年と地域との交流を描いた『じろはったん』。 1909年(明治42年)、兵庫県養父郡大蔵村宮田(現・朝来市和田山町)で、酒類販売業を営む父の次女として生まれた。1924年(大正13年)に大蔵尋常高等小学校高等科から兵庫県明石女子師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身のひとつ)に進学し、1928年(昭和3年)に明石女子師範学校を卒業した後、南谷尋常小学校の教員となり、その後養父尋常小学校に転任となった。 この頃に兄の友人であり後に結婚する森種樹との文通が始まり、1932年(昭和7年)に結婚した。
小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2… 小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2月14日 - 1966年(昭和41年)10月2日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 福岡県、現在の大牟田市で生まれる。福岡県立三池中学校(現福岡県立三池高等学校)、福岡県八女工業学校(現福岡県立八女工業高等学校)を経て、日本大学で学んだが軍事教練反対で退校処分となり、1928年(昭和3年)長野県師範学校を卒業した。 その後、長野県・福岡県内の公立小学校で勤務。文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得し、朝鮮公立高等女学校、母校の三池中学校、新制三池高等学校の教員を務めた。 戦後、教職員組合の結成に参画し、福岡県教職員連合会文化部長、福岡県高等学校教職員組合副委員長、大牟田地区労働組合評議会会長などを務めた。
児玉 好雄(こだま よしお、1909年1月28日 - 198… 児玉 好雄(こだま よしお、1909年1月28日 - 1986年10月20日)は、日本の歌手、教育者。 1909年(明治42年)1月28日、広島県広島市向洋(現:広島市南区向洋新町)に生まれる。 旧制・広島県立広島第一中学校(現:広島国泰寺高校)を1年で中退し、15歳になる1924年(大正13年)に渡米しパシフィック大学音楽科で学び、7年間をアメリカで暮らす。21歳になる1930年(昭和5年)の帰国後、日本青年館で音楽会を開催する。その後、イタリアに留学し、在欧5年でオペラを本格的に学んだ。1933年(昭和8年)、ミラノ音楽院を修了。 帰国後、25歳になる1934年(昭和9年)、ビクターの専属となる。
加藤 進(かとう すすむ、1909年1月10日 - 1996… 加藤 進(かとう すすむ、1909年1月10日 - 1996年3月27日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員、参議院議員を各1期務めた(いずれも日本共産党公認)。日本共産党中央委員会顧問や同党愛知県委員会、日ソ協会愛知県連合会副会長などを歴任した。 愛知県名古屋市千種区出身。1945年、名古屋帝国大学理学部数学科を卒業後、第八高等学校哲学科講師や名古屋大学数学科教官に就任。この間初代愛知県教員組合副委員長を務めたほか、同県労働学校開設にも尽力した。 1963年の第30回衆議院議員総選挙で旧愛知1区から出馬し初当選。その後1971年の第9回参議院議員通常選挙で全国区から出馬し当選。1977年の第11回参議院議員通常選挙で落選した。
倉田 貞美 (くらた さだよし、1908年12月1日 - 1… 倉田 貞美 (くらた さだよし、1908年12月1日 - 1994年5月5日)は、日本の教育者、中国文学者。博士(文学)。元香川大学学長。香川大学名誉教授。 香川県三豊郡大見村(現 三豊市三野町)出身。旧香川県立三豊中学校、第一臨時教員養成所卒業、東京高等師範学校研究科を経て、1934年、東京文理科大学文学科に入学。同大学漢文学専攻卒業。在学中は諸橋轍次に師事した。卒業論文は「中国現代詩の研究」。1937年(昭和12年)同大学卒業後、福井師範学校に赴任。間もなく盧溝橋事件が起こり、同年12月に応召。翌年1938年(昭和13年)4月に除隊。終戦まで3回応召を受けた。 1949年(昭和24年)香川大学教授に就任。
久保 勇(1908年〈明治41年〉10月28日 - 1990… 久保 勇(1908年〈明治41年〉10月28日 - 1990年〈平成2年〉4月8日)は、徳島県出身の剣道家、銃剣道家、教育者、大日本帝国陸軍近衛師団。柳生神影流第十一世、久武館道場第三代館長、剣道七段範士、銃剣道八段範士。陸軍戸山学校卒。 徳島県阿波郡市場町(現阿波市市場町)出身。大日本帝国陸軍近衛師団所属。近衛師団では中隊・大隊・連隊のいずれも銃剣道一位の実績を残す。近衛師団が全国の選抜された兵から編成されることを考慮すると日本有数の腕前である。当時、近衛師団の剣道指南中であった柳生神影流第十世であり大日本忠孝館道場館長の久保義八郎の目にとまり、娘婿として迎えられ大日本忠孝館道場にて柳生神影流を伝授される。
金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 19… 金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 1986年10月10日)は、日本の教育者・教育評論家。 愛知県出身。41年の教員生活で世田谷区立祖師谷小学校校長などを務め、定年後には「児童教育研究家」の肩書で活動した。 1908年(明治41年)10月2日に愛知県宝飯郡蒲郡町平田村(現・蒲郡市平田町)に生まれた。父親は平田村の副区長や区長を務めた。1915年(大正4年)に蒲郡町立東部小学校に入学し、1921年(大正10年)に宝飯郡実業学校(その後愛知県立蒲郡農学校に改称、現在の愛知県立蒲郡高等学校)に入学して教員の道を目指した。1927年(昭和2年)に東京の青山師範学校二部(東京学芸大学の前身)に入学し、1928年(昭和3年)に青山師範学校を卒業して小学校教師となった。
横山 復次(よこやま またつぐ、1908年(明治41年)10… 横山 復次(よこやま またつぐ、1908年(明治41年)10月2日 - 1990-93年(平成2-5年) )は、日本の薬学者であり教育者でもある。長崎医科大学教授(現・長崎大学医学部)を務めた後、岐阜薬科大学教授、エーザイ研究所長 。長崎医科大学時代に長崎原爆を経験した。岡山県出身。 1908年(明治43年)に岡山県に生まれる。その後、1923年(大正12年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学、卒業を経て、1928年(昭和3年)第一高等学校理科乙類へ入学し、1931年(昭和6年)同校を卒業。同年に東京帝国大学医学部薬学科へ入学、1934年(昭和9年)3月に同大学を卒業し、助手として京都帝国大学薬学科で薬学研究を続けた。
平野 婦美子(ひらの ふみこ、1908年9月19日 - 20… 平野 婦美子(ひらの ふみこ、1908年9月19日 - 2001年6月)は、日本の教育者。 千葉県出身。旧姓は佐久間。千葉女子師範卒。千葉県長浦尋常小学校。1930年、結婚し姓を平野に改め、市川尋常高等小学校へ赴任、1937年(昭和12年)病気により一時休職。1938年(昭和13年)6月より東京市第四日野小学校などで教諭を務めた。 市川尋常高等小学校在籍中より寒川道夫、国分一太郎らの綴り方教師と交流し、「東京綴方の会」に参加。さらに教育科学研究会の言語教育研究部会に参加。1940年(昭和15年)に出版した『女教師の記録』は文部省の推薦図書に指定される。千葉県においても東京都においても模範訓導として表彰された。
梅村 淸明(うめむら せいめい、1908年9月10日 - 1… 梅村 淸明(うめむら せいめい、1908年9月10日 - 1995年7月14日)は、日本の体育学者、教育者。 中京商業学校創立者の梅村淸光の子息として茨城県水戸市において生まれた。旧制愛知第一中学校(現 愛知県立旭丘高等学校)、名古屋高等商業学校(現名古屋大学)、神戸商業大学(現神戸大学)をそれぞれ卒業する。 神戸商業大学卒業後に父が興した中京商業学校の教諭となる が、1933年に父の逝去により中京商業学校校長(梅村学園2代目校主)となる。1935年には1932年ロサンゼルスオリンピック陸上競技日本代表で、日本陸上競技選手権大会女子100mを3連覇した渡辺すみ子と婚姻する。 1942年に日本軍に召集されて出征。
石田 アヤ(いしだ アヤ、1908年9月4日 - 1988年… 石田 アヤ(いしだ アヤ、1908年9月4日 - 1988年2月18日)は、昭和期の教育者。文化学院の創立者である西村伊作の長女。英文学を専攻し、1931年に母校文化学院の教授となり、1963年から父の後を継ぎ、校長になる。 1908年(明治41年)、父・西村伊作、母・光恵の長女として和歌山県新宮市に生まれる。9歳の頃に父が英訳本から訳し聞かせた『ピノキオ』を文章化、絵を描いて1920年(大正9年)に『ピノチヨ』として出版される。1921年(大正10年)に父がアヤのために設立し校長を務める文化学院に入学。やがて文化学院を卒業すると、追加創設された本科(大学部)に進学する。1928年(昭和3年)文学科を終えると卒業式をまたず渡米し、アメリカのマウントホリヨーク大学に入学する。
石塚 太喜治(いしづか たきじ、1908年7月5日 - 19… 石塚 太喜治(いしづか たきじ、1908年7月5日 - 1994年8月8日)は、日本の美術史研究者、美術教育者、洋版画家。太平洋戦争中から戦後にかけて活動した。 千葉県山辺郡東金町(現・東金市)に父・石塚留吉、母・きせの長男として生まれる。生家は鶴牧藩士の出自といわれるが、父の代では瓦屋を営み裕福な家ではなかった。幼少の頃からその才能を見込まれ、教育の機会を得た。 千葉県立成東中学校(現・千葉県立成東高等学校)から第六高等学校文科乙類に進む。中学時代より油絵の制作を始める。六高では独語部に入り、部長の山岡望教授の下で昭和三年度と四年度に委員を務める。東京帝国大学文学部美学美術史学科に進学して1933年3月に卒業した。
飯島 亮(いいじま りょう、1908年〈明治41年〉4月20… 飯島 亮(いいじま りょう、1908年〈明治41年〉4月20日 - 1990年〈平成2年〉)は、日本の造園家、作庭家、庭園作家、造園研究者、造園指導者、造園教育者。元千葉大学園芸学部教授。農学博士。茨城県龍ケ崎市出身。
井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日… 井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日 - 1997年(平成9年)12月19日)は、日本の電子技術者、実業家、教育者、弁理士。位階は正三位。 栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)出身。盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。 祖先は会津藩の家老であり、親戚には飯盛山で自刃した白虎隊の井深茂太郎や明治学院総理を歴任した井深梶之助、ハンセン病に一生を捧げカトリック看護師協会の会長を歴任した井深八重がいる。日露間で樺太・千島交換条約が締結された後、祖父基が公務員として千島列島を巡回し、明治11年に占守島を訪れているが、その際に現地で撮影された集合写真に収まっていた吏員の一人が祖父基であることを後に井深大自身が確認している。
山田 正孝(やまだ まさたか、1908年(明治41年)4月1… 山田 正孝(やまだ まさたか、1908年(明治41年)4月11日 - 1995年(平成7年)10月16日)は、日本の洋画家、教育者。長崎県長崎市出身。 代表作に「長崎の唐寺境内」、三部作「長崎の家」「長崎の丘」「長崎の庭」など。 1908年(明治41年)、長崎県長崎市に生まれる。 1933年(昭和8年)に大阪美術学校を卒業、同年第1回東光展に作品が入選。 1937年(昭和12年)より郷里長崎県に戻り、長崎市立商業学校の教諭を務める。 戦後の1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけて3年連続で日展に出品した3部作「長崎の家」「長崎の丘」「長崎の庭」が全作入選した。 1966年(昭和41年)に東光会委員に推挙を受け、1969年(昭和44年)には東光会審査員を務める。
沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30… 沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30日 - 1988年〈昭和63年〉5月5日)は、日本の教育者、政治家。元高崎市長(4期)、群馬県立高崎商業高等学校校長、上武大学副学長。旧姓は反町。位階は従五位。 群馬県群馬郡京ヶ島村大字京目(現・高崎市京目町)に、反町延太郎・チウ夫妻の三男として生まれる。生家の反町家は庄屋の家柄で、父・延太郎は京ケ島村長・群馬県会議員などを務める傍ら実業補習学校を設置するなど教育面に熱心だった。祖父・反町覚哉は群馬県会議員、長兄・反町久弥も群馬県議会議員・京ヶ島村長・群南村長を務めた。 地元の京ヶ島小学校を経て、1926年(大正15年)旧制高崎商業学校を卒業。
内藤 頼博(ないとう よりひろ、1908年3月12日 - 2… 内藤 頼博(ないとう よりひろ、1908年3月12日 - 2000年12月5日)は、東京府出身の裁判官、弁護士、教育家。子爵、正三位勲一等瑞宝章。 旧信州高遠藩主内藤子爵家の第15代当主として東京府豊多摩郡内藤新宿町に生まれる。内藤頼直、大河内輝声の孫、内藤頼輔の子。旧制学習院幼稚園・初等科・中等科・高等科を経て、1931年、東京帝国大学法学部卒業。東京家庭裁判所長、広島高等裁判所長官、名古屋高等裁判所長官を歴任。1973年に退官し、弁護士となる。 弁護士業の傍ら、1979年から1987年まで多摩美術大学学長、1975年から1991年まで多摩美術大学理事長、1987年から1993年まで第22代学習院院長を務めた。