池田 雄一(いけだ ゆういち、1937年1月6日 - 200… 池田 雄一(いけだ ゆういち、1937年1月6日 - 2006年8月30日)は、日本の脚本家・小説家。妻は池田悦子。 東京都出身。早稲田大学文学部卒業後、東映へ入社。1961年に映画『ファンキーハットの快男児』で脚本家デビュー。千葉真一主演、深作欣二監督、近藤照男プロデュースなどの映画・テレビドラマの脚本を執筆した。茶田 才のペンネームで『特捜最前線』や『噂の刑事トミーとマツ』などの脚本も執筆した。本名の池田雄一の名義で『キイハンター』『バーディ大作戦』を、高久進らと執筆し、視聴率の悪化により『Gメン'75』へ改変後も引き続き執筆した。『キイハンター』『バーディ大作戦』の時は鼻歌交じりにすらすら書けたが、『Gメン'75』では前作で苦しんで執筆していた高久氏が鼻歌交じりで、自分は苦しんで書いていたと述べて居たが、非常に優れた作品を遺して行った。
篠原 茂(しのはら しげる、1937年(昭和12年) - )… 篠原 茂(しのはら しげる、1937年(昭和12年) - )は、日本の映画プロデューサー、脚本家。脚本家名は「しのだとみお」。 1937年(昭和12年)生まれ。青山学院大学卒業後、映画会社東映を経て松竹に入社。「松竹テレビ部」の方で、テレビドラマの製作に就く。 1970年(昭和45年)、年末に梅津製作本部長から頼まれ、ピー・プロダクションへ出向。製作主任として、フジテレビの特撮番組『宇宙猿人ゴリ』の第4話「ラー 地球人をさぐる」から制作スタッフとして参加する。 1971年(昭和46年)、3月から松竹テレビ部に戻りピー・プロダクションから離れるが、今度はフジテレビプロデューサーの別所孝治と鷺巣富雄(うしおそうじ)両者から頼まれ、7月から再び『宇宙猿人ゴリ』の現場に復帰した。
田向 正健(たむかい せいけん、1936年9月27日 - 2… 田向 正健(たむかい せいけん、1936年9月27日 - 2010年3月5日)は、日本の脚本家。東京都出身。
山崎 忠昭(やまざき ただあき、1936年9月15日 - 1… 山崎 忠昭(やまざき ただあき、1936年9月15日 - 1999年8月)は、日本の脚本家、放送作家。通称「ヤマチュー」。 新潟県出身。「新潟映研」で佐藤忠男の面識を得る。 早稲田大学第一文学部演劇学科卒業後、大学院に進むも中退。在学時はワセダミステリクラブの創設に参加した。 1960年、日活が制作する“無国籍アクション”作品の脚本・企画にフリーの立場で関わるようになり、池田一朗に師事。1961年公開の映画『明日が私に微笑みかける』で脚本家デビュー。以降は『野獣の青春』(監督:鈴木清順)・『黒い賭博師 悪魔の左手』(監督:中平康)・『殺人狂時代』(監督:岡本喜八)などを執筆し、日本映画史に残るカルト映画の脚本家として知られるようになる。
佐々木 守(ささき まもる、1936年9月13日 - 200… 佐々木 守(ささき まもる、1936年9月13日 - 2006年2月24日)は、日本の脚本家、放送作家、漫画原作者。 石川県能美市(旧根上町)出身、石川県立小松高等学校、明治大学文学部日本文学科卒業。 大学では児童文学研究部に所属し、鳥越信、古田足日、山中恒、神宮輝夫らの児童文学研究誌「小さい仲間」の同人となる。そのころに書いた「児童文学における近代性への疑問 -- 児童文学者の戦争責任」(『小さい仲間』26号)「新美南吉『おじいさんのランプ』論」(『日本児童文学』通巻45号)などで注目をあびた。 1955年、大学2年の際に「砂川闘争」に参加する。大学4年の時から教育映画作家協会 (現:日本記録映画作家協会)の機関誌「記録映画」の編集者をつとめ、大島渚、松本俊夫らと知り合う。
深尾 道典(ふかお どうてん、1936年6月26日 - 20… 深尾 道典(ふかお どうてん、1936年6月26日 - 2023年9月22日)は、日本の映画監督、脚本家。本名:ふかお みちのり。滋賀県神崎郡五個荘町(現東近江市)出身。 六人兄弟の三男として五個荘町(現東近江市)に生まれる。両親とも小学校教師。家は貧しかった。滋賀県立八日市高校野球部でサードを守り、二年の夏、京滋代表として第35回夏の甲子園に出場した。レギュラーとして甲子園の土を踏んだ映画監督は深尾ただ一人とされる。早稲田大学第一文学部文学科美術専攻に進学し、20世紀美術史を専攻。実家からの仕送りを米だけで、学費と生活費を東ハトの工場のアルバイトで凌ぐ。学生運動にも活発に参加、警職法反対闘争や60年安保闘争では機動隊に何度も殴打された。
山根 成之(やまね しげゆき、1936年6月14日 - 19… 山根 成之(やまね しげゆき、1936年6月14日 - 1991年12月27日)は、日本の映画監督、脚本家。1970年代に松竹の映画で活動した。 東京府東京市向島区寺島町(現・東京都墨田区東向島)で帽子屋の息子として生まれた。小学生の頃から浅草の映画館に通うほどの大の映画好きで、都立両国高校3年の時には年間800本を記録した。その一方で演劇部で活躍し、舞台俳優を目指し劇団俳優座への入団を志したが、方向転換して日本大学芸術学部映画学科に入学し、1960年に卒業後、松竹に入社。高橋治、小林正樹、中村登、篠田正浩、野村芳太郎らの作品の助監督につく。作風では、他社(日活)であるが鈴木清順の作品の影響を受けたという。
小池 一夫(こいけ かずお、本名及び僧号: 俵谷 星舟〈たわ… 小池 一夫(こいけ かずお、本名及び僧号: 俵谷 星舟〈たわらや せいしゅう〉、旧名: 譲〈たわらや ゆずる〉、作詞家としての別名: 東 文彦〈あずま ふみひこ〉、1936年5月8日 - 2019年4月17日)は、日本の漫画原作者、小説家、脚本家、作詞家、作家。男性、身長183cm、血液型はB型。1976年までの筆名は小池 一雄。別筆名に小池一雄、緒塚敬吾、イゴル・キニスキー等がある。 秋田県大仙市出身。中央大学法学部卒。大阪芸術大学キャラクター造形学科教授(学科長)、神奈川工科大学情報学部情報メディア学科教授、大阪エンタテインメントデザイン専門学校教授を歴任した。出版社の小池書院元編集長。 漫画原作作品に『子連れ狼』(画: 小島剛夕)、『御用牙』(画: 神田たけ志)、『高校生無頼控』(画: 芳谷圭児)、『修羅雪姫』(画: 上村一夫)、『クライング フリーマン』(画: 池上遼一)、『オークション・ハウス』(画: 叶精作)、小説に『乾いて候』、『夢源氏剣祭文』がある。
足立 明(あだち あきら、1936年5月 - 2012年1月… 足立 明(あだち あきら、1936年5月 - 2012年1月6日)は、日本の放送作家、脚本家、劇作家、児童文学作家、実業家、作詞家。本名、足立昭。 島根県仁多郡奥出雲町八川出身。 1962年に国連劇脚本に入賞、サンデー毎日への応募脚本を期に東宝演劇文芸部に在籍する。1967年に劇団ピッカリ座を創立、ぬいぐるみ人形劇の創作を行う。多くのテレビアニメの原作脚本を手掛ける。仁田 信夫の名義で原作を手掛けることもある。 2012年1月6日、肺炎のため死去。75歳没。
小松 範任(こまつ のりひで、1936年〈昭和11年〉4月8… 小松 範任(こまつ のりひで、1936年〈昭和11年〉4月8日 - 2018年〈平成30年〉2月22日)は、日本のテレビドラマ監督・脚本家。 香川県高松市出身。声優の小松由佳は娘。DTMerのfkomは息子。 幼少期から榎本健一(エノケン)のファンで、本人曰く、その幼い頃から劇場に行ってエノケンの映画を観て育って来たとのこと。地元・高松では無料だったこともあって東宝の映画をよく観ていたという。早稲田大学第一文学部仏文科卒業を控えた就職試験の時に、映画会社では東宝は縁故のコネが無いと受験できなかったということで、これしか募集が無かった東映を受験、しかし当時東映作品と言えばチャンバラの剣劇以外の作品を知らなかったので、口頭試問の時に困ったという。
今野 勉(こんの つとむ、1936年(昭和11年)4月2日 … 今野 勉(こんの つとむ、1936年(昭和11年)4月2日 - )は、日本の演出家、プロデューサー、脚本家、実業家。文化功労者。 株式会社東京放送での勤務を経て、株式会社テレビマンユニオン取締役、武蔵野美術大学造形学部教授などを歴任した。 秋田県河辺郡仁井田村(のちの秋田市)出身。4歳から高校卒業まで北海道夕張市で育つ。今野の小学生時代は終戦直後の混乱期で、教育も大きな変遷の時を迎えていた。特にレコードを使用した国語の授業や、誰かが読んだ詩を皆んなでリフレインしたりする全く新しい形式による教育を自著、今野勉のテレビズム宣言においてこう回想している。『ア、人生っていうのは、相当自由にやって許されるんだなっていうのが突然わかった。
若松 孝二(わかまつ こうじ、1936年〈昭和11年〉4月1… 若松 孝二(わかまつ こうじ、1936年〈昭和11年〉4月1日 - 2012年〈平成24年〉10月17日)は、日本の映画監督・映画プロデューサー・脚本家。宮城県出身。本名は伊藤孝(いとう たかし)。 宮城県遠田郡涌谷町出身。父親は馬喰で獣医師をしていたが大酒飲みで、孝は幼いときからこの父に反抗しながら育った。農業高校二年時中退、家出し上京。職人見習いや新聞配達、新宿安田組の大幹部だったヤクザ(荒木恷)の下働きなどを経験。1957年、チンピラ同士のいざこざから逮捕され、半年間、拘置所に拘禁され執行猶予付の判決を受ける(その時の経験により後に監督デビュー作の『甘い罠』は“警官を殺すために映画監督になった”と豪語した通りに警官殺しの映画になっている)。
斎藤 博(さいとう ひろし、1936年3月17日 - 201… 斎藤 博(さいとう ひろし、1936年3月17日 - 2015年6月26日)は、日本のアニメーション監督、脚本家、演出家。京都市立紫野高等学校卒業。 中国(当時は満洲国)の日本租借地であった関東州大連市生まれ。太平洋戦争終戦後の1946年に日本へ引き揚げ、京都府に住む。 20代前半、油絵の勉強に専念し画家をめざすが、結婚後の1960年、漫画家の横山隆一 主宰するおとぎプロへ入社し、1961年放送開始のテレビアニメ『インスタント・ヒストリー』や劇場作品の作画を数本担当する。 1963年『鉄腕アトム』の放映が開始されると、おとぎプロの先輩アニメーターで1961年に設立された虫プロダクションの創設メンバー山本暎一の紹介で虫プロダクションへ入社。
内藤 誠(ないとう まこと 1936年3月6日 - )は、日… 内藤 誠(ないとう まこと 1936年3月6日 - )は、日本の映画監督、脚本家、著述家。元中部大学人文学部教授。元日本大学芸術学部映画学科講師。 愛知県名古屋市出身。愛知県立刈谷高等学校を経て、1959年、早稲田大学政治経済学部新聞学科を卒業。唯一、受けた東映の入社試験に合格、東京撮影所に配属される。受験に当たっては師事する木村毅から紹介された雪代敬子に保証人を頼んだ。 佐伯清、成澤昌茂、マキノ雅弘、石井輝男らの助監督を経て1969年に監督に昇進し、主に当時の東映の主流である東映京都撮影所作品などの併映作品、俗に言う「B面映画」の職人監督として活躍した。山下耕作監督『釜ケ崎極道』のB面『ネオンくらげ』は「傑作青春ムービー」、深作欣二監督『仁義なき戦い 代理戦争』のB面『番格ロック』は「女性バードボイルド映画の傑作」と評される。
朝倉 千筆(あさくら ちふで、1936年1月27日 - )は… 朝倉 千筆(あさくら ちふで、1936年1月27日 - )は東京府出身の脚本家。別名、朝倉和泉。
冨田 義治(とみた よしはる、1935年12月25日 - 没… 冨田 義治(とみた よしはる、1935年12月25日 - 没年不明)は、岐阜県出身の映画監督、助監督、脚本家。
小谷 承靖 (こたに つぐのぶ、1935年12月21日 - … 小谷 承靖 (こたに つぐのぶ、1935年12月21日 - 2020年12月13日) は、日本の映画監督・演出家・脚本家。 父は鳥取県倉吉市2代目市長の小谷善高。 東京府東京市杉並区出身で、小学校2年生まで東京で育つ。公職追放になった父の故郷・鳥取県東伯郡西郷村の村長の後釜を引き受けたため、1944年3月末、当地に引っ越す。県立倉吉東高校卒業まで鳥取で過ごし、東京に戻りたくて、一浪後東京大学文学部フランス文学科入学を機に東京へ戻る。同時期に大江健三郎・久世光彦が在学していた。この2人は東大在学中から目立つ存在で、次第に落ちこぼれて映画に方向転換した。 大学卒業後、1960年に、暮しの手帖社と東宝の入社試験を受け、東宝に入社。
中島 丈博(なかじま たけひろ、1935年〈昭和10年〉11… 中島 丈博(なかじま たけひろ、1935年〈昭和10年〉11月12日 - )は、日本の脚本家・小説家・映画監督。京都府生まれ、高知県中村市(現・四万十市)育ち。 父は日本画家の中島敬朝。京都で生まれ、太平洋戦争の影響で1945年10歳のとき、高知県中村市へ疎開。そこでプライバシーが筒抜けな地元住民の生活に衝撃を受け、それが作風にも影響を与えたと語っている。この頃のことは『野蛮な詩』(疎開後の小学生時代)、『郷愁』(中学時代)、『祭りの準備』(20代、上京まで)で小説・映画化している。1954年に高知県立中村高等学校を卒業。家はずっと貧乏で、父が胃潰瘍で入院して金がかかり大学進学を断念し、高知相互銀行に就職し三年ほど勤務する。
和田 嘉訓(わだ よしのり、1935年10月16日 - 20… 和田 嘉訓(わだ よしのり、1935年10月16日 - 2012年7月12日)は、日本の映画監督、脚本家である。デビュー作『自動車泥棒』で安岡力也をデビューさせたことで知られる。 1935年(昭和10年)10月16日、愛媛県松山市に生まれる。教育者である父の仕事の都合で1945年の終戦までは中国の天津で幼年期を過ごし、その後18歳の松山新田高校を卒業するまでは再び松山市で育つ。 1958年に東京大学教育学部を卒業し、東宝に入社する。1960年(昭和36年)8月14日に公開された稲垣浩監督の『ふんどし医者』で、丸輝夫、高瀬昌弘に次ぐサード助監督としてクレジットされているのが、記録に残る最初の演出歴である。
山本 英明(やまもと えいめい、1935年9月2日 - 19… 山本 英明(やまもと えいめい、1935年9月2日 - 1991年4月2日)は、日本の脚本家。1959年の早稲田大学卒業とともに東映に入社、主に製作関係を手がけ、1961年の映画『二人だけの太陽』で脚本家としてデビュー、主に東映作品やテレビ時代劇などで活躍。実娘は少女漫画家の山本修世。 この項目は、アニメ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJアニメ)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
鳥居 元宏(とりい もとひろ、1935年8月6日 - )は、… 鳥居 元宏(とりい もとひろ、1935年8月6日 - )は、日本の映画監督・脚本家。筆名は飛鳥ひろし。日本画家の9代目鳥居清光は実妹。 東京府杉並区成宗出身。京都府在住。東京都立豊多摩高等学校を経て、1959年早稲田大学第一文学部演劇科卒業。卒業後東映入社。京都撮影所へ配属。助監督となり、内田吐夢、田坂具隆、マキノ雅裕、加藤泰らに就く。1964年から脚本を執筆し、1966年、岡田茂京都撮影所長により監督昇進を認められ、『十七人の忍者 大血戦』初監督。監督として、劇場用映画・テレビドラマを合せて50本を手掛ける。脚本家としては、劇場用映画・テレビドラマを合せて約350本を執筆している 。 1990年大阪芸術大学映像学科教授に就任し、学科長になった。
吉田 剛(よしだ たけし、1935年3月2日 - 2018年… 吉田 剛(よしだ たけし、1935年3月2日 - 2018年11月17日)は、日本の脚本家・映画監督である。本名同じ。大阪府堺市生まれ。 1958年、関西大学文学部卒業後、松竹大船撮影所に入社。助監督として小林正樹、篠田正浩、斎藤耕一らの作品につく。それと並行して、野村芳太郎の『おはなはん・第二部』(1966年)、小林『化石』(1975年)、瀬川昌治『哀しい気分でジョーク』(1985年)、佐藤純彌『敦煌』(1988年)や、『必殺シリーズ』(ABC)などのテレビドラマのシナリオを執筆。 1992年、野村芳太郎が急病のため、映画『復活の朝』で監督も兼任する。 1990年代の「月刊ドラマ」誌上における近況報告や随筆では、幕末におけるアメリカ人の傲慢さなども例に挙げて反米主義者を自称していたこともあった。
野田 幸男(のだ ゆきお、1935年2月2日 - 1997年… 野田 幸男(のだ ゆきお、1935年2月2日 - 1997年8月27日)は、日本の映画監督・演出家・脚本家。和歌山県御坊市出身。 代表作には『不良番長シリーズ』、『やくざ刑事シリーズ』、『0課の女 赤い手錠』、『激殺! 邪道拳』、『ゴルゴ13 九竜の首』など。 京都大学在学中に戸浦六宏の主催する劇団「風波」に参加。1958年(昭和33年)に大学卒業後、東映東京撮影所に助監督として入社し、石井輝男・佐伯清らに師事する。 1968年(昭和43年)3月、日本プロレスの記録映画である『プロレスWリーグ 血ぬられた王者』で監督デビュー。同年には梅宮辰夫主演の『不良番長』で映画の演出デビューも果たした。同作は大ヒットとなり、1972年(昭和47年)の『不良番長 骨までしゃぶれ』までシリーズ全16作が製作され、野田は11作を監督した。
安藤 豊弘(あんどう とよひろ、1935年1月5日 - )は… 安藤 豊弘(あんどう とよひろ、1935年1月5日 - )は、大阪府出身の日本の脚本家である。 日活などで劇場映画の脚本を多数執筆した松浦健郎に師事した後、1960年代後半から1970年代にかけて、数多くのテレビアニメに脚本を提供した。 ナック制作のアニメ作品に最も多く参加した脚本家の1人でもあり、『サイボット ロボッチ』には、原作者としても関与している。 その他、特撮やテレビドラマの脚本も手掛けた。
倉本 聰(くらもと そう、1935年〈昭和10年〉1月1日 … 倉本 聰(くらもと そう、1935年〈昭和10年〉1月1日 - )は、日本の脚本家、劇作家、演出家。本名は、山谷 馨(やまや かおる)。東京都渋谷区出身。妻は女優の平木久子(演劇集団 円所属)。父は俳人、日新書院取締役の山谷太郎。祖父は医学博士、日新医学社社長の山谷徳治郎。大伯父は衆議院議員の山谷虎三。 東京大学文学部美学科を卒業後、ニッポン放送を経てフリー。おもにテレビドラマの脚本家として活躍。東京から北海道へと居を移し、『前略おふくろ様』『北の国から』など多くのヒット作を生み出した。主宰した「富良野塾」にて26年間にわたり後進を指導。65歳で紫綬褒章、75歳で旭日小綬章を受章した。1977年(昭和52年)より富良野市に在住。
小川 欽也(おがわ きんや、1934年12月28日 - 20… 小川 欽也(おがわ きんや、1934年12月28日 - 2024年12月10日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、映画プロデューサーである。監督としての別名に三川 和久(みかわ かずひさ)、小川 卓寛(おかわ たかひろ)、小川 和久(おかわ かずひさ)、上田 光生(うえだ みつお)があり、俳優としては姿 良三(すがた りょうぞう)、脚本家としては水谷 一二三(みずたに ひふみ)と名乗る。成人映画の黎明期からの映画作家として知られ、異分野で活躍する山本晋也を除けば、成人映画の世界で長く現役として作品を発表し続けた人物であった。監督作は400本を超える。 1934年(昭和9年)12月28日、京都府京都市下京区烏丸通綾小路下ルに生まれる。
小山 幹夫(こやま みきお、1934年12月7日 - )は日… 小山 幹夫(こやま みきお、1934年12月7日 - )は日本の映画監督、テレビディレクター、舞台演出家、脚本家、日本映画監督協会会員。日本大学芸術学部映画科卒業、神奈川県茅ヶ崎市出身。福島県西白河郡矢吹町在住。 神奈川県茅ヶ崎市生まれ。神奈川県立湘南高等学校、日本大学芸術学部映画科を卒業。 1957年(昭和32年)東映東京撮影所の助監督として入社。関川秀雄、佐伯清、深作欣二らに師事。 1965年(昭和40年)東映東京撮影所・監督に昇進。初監督作品は藤田まこと主演映画『喜劇・一発かましたれ!』、キャッチコピー「昼はサラリーマン、夜はギャングのボス!腰抜け社員で笑わせて、恐いギャングでまた笑わせる、爆笑必至の底抜けコメディー!!」。
東 陽一(ひがし よういち、1934年11月14日 - 20… 東 陽一(ひがし よういち、1934年11月14日 - 2026年1月21日)は、日本の映画監督、脚本家。和歌山県紀美野町出身。早稲田大学第一文学部英文学科卒。 早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社し、助監督として多く黒木和雄作品についたが、1962年、助監督のまま退社してフリーランスとなり、短編映画『A FACE』(1963年)で監督デビューした。長編第一作はさまざまな論議を呼んだドキュメンタリー作品『沖縄列島』(1969年)。つづく初の劇映画『やさしいにっぽん人』(1971年)で日本映画監督協会新人賞を受賞、劇映画三作目の『サード』(1978年)では第52回キネマ旬報ベストワン、第21回ブルーリボン賞作品賞、芸術選奨文部大臣新人賞などを受賞し、映画監督としての地歩を固めた。
宮崎 晃(みやざき あきら、1934年10月27日 - 20… 宮崎 晃(みやざき あきら、1934年10月27日 - 2018年11月25日)は、日本の映画監督、脚本家。東京市(現東京都)荒川区出身。 1934年、東京市荒川区日暮里に生まれる。東京都立北園高等学校を卒業後、出版社で働くかたわら新劇の演出家を志す。4年間の社会人生活の後、東京外国語大学ロシア語科へ入学。 1961年、大学卒業と同時に松竹大船撮影所の助監督試験に合格して入社。野村芳太郎や山田洋次の助監督を務める。山田作品の多くでは脚本も共同執筆、『男はつらいよ』シリーズにも第2~6作、第11作に参加した。1971年、「泣いてたまるか」で監督デビュー。1975年、戯曲『青い鳥』をベースにした『想い出のかたすみに』監督。
林 秀彦(はやし ひでひこ、1934年〈昭和9年〉9月26日… 林 秀彦(はやし ひでひこ、1934年〈昭和9年〉9月26日 - 2010年〈平成22年〉11月19日)は、日本の脚本家。 東京府に生まれる。父は随筆家の林謙一。学習院高等科を卒業後、インド洋経由で渡欧する途中、イエメンで悪漢の集団に拉致され、砂漠で殺されそうになったが「俺は空手の達人だ。俺を殺すならお前らのうちの一人を殺してやる」とブラフをかけて解放され、危うく一命を取り留めた体験談を、伊丹十三が『小説より奇なり』の中で文章化している。ドイツのザール大学、フランスのモンペリエ大学に留学し、哲学を専攻する。松山善三に師事し、映画やテレビの脚本を執筆。 3度結婚しており、最初の妻との間の子は作曲家の林魏堂、1974年には女優の冨士真奈美と結婚し、一児(岩崎リズ)を儲けるも1984年に離婚。
梅沢 薫(うめざわ かおる、1934年9月10日 - 199… 梅沢 薫(うめざわ かおる、1934年9月10日 - 1998年12月26日)は、日本の映画監督、脚本家である。元俳優。1966年(昭和41年) - 1979年(昭和54年)の一時期、東元 薫(とうもと かおる)と名のったことがある。その初期には東本 薫とクレジットされた作品もあり、1972年(昭和47年) - 1974年(昭和49年)の一時期黒木 剛(くろき ごう)の名で監督、小泉 大介(こいずみ だいすけ)の名で脚本を書いたこともある。 1934年(昭和9年)9月10日、新潟県高田市(現在の同県上越市)に生まれる。 長じて東京に移り早稲田大学に進学したが、中途退学する。当初は俳優を志しており、日本文化協会(NBK)という劇団に所属、同劇団には野上正義(1940年 - 2010年)らがいた。
香月 隆(かつき たかし、1934年8月24日 - )は、日… 香月 隆(かつき たかし、1934年8月24日 - )は、日本の脚本家。日本脚本家連盟員。
中島 貞夫(なかじま さだお、1934年(昭和9年)8月8日… 中島 貞夫(なかじま さだお、1934年(昭和9年)8月8日 - )は、日本の映画監督・脚本家。
山内 鉄也(やまのうち てつや、1934年7月20日 - 2… 山内 鉄也(やまのうち てつや、1934年7月20日 - 2010年4月2日)は、映画監督、テレビ演出家、脚本家。広島県広島市生まれ。テレビ時代劇『水戸黄門』『大岡越前』のメイン監督。 叔父は時代小説作家の白井喬二。少年時代はずっと映画が大好きで、中学生の時から映画界に入りたいと思っていた。広島市立舟入高等学校から中央大学経済学部に進み1957年に卒業し、東映に入社。時代劇が好きだったことから京都行きを希望し、京都撮影所の助監督となり、内田吐夢監督作品『大菩薩峠』(1957年)を皮切りに、伊藤大輔、松田定次、マキノ雅弘、加藤泰、工藤栄一監督らの時代劇に就く。またマキノの東映版・次郎長三国志シリーズ4作品の共同脚本も手がけた。
藤川 桂介(ふじかわ けいすけ、本名:伊藤 英夫(いとう ひ… 藤川 桂介(ふじかわ けいすけ、本名:伊藤 英夫(いとう ひでお)、1934年6月16日 - )は、日本の男性脚本家、小説家、放送作家。日本文芸家協会、日本ペンクラブ、日本脚本家連盟会員。京都嵯峨芸術大学客員教授。 東京都出身。東京都立墨田川高等学校、慶應義塾大学文学部国文学科卒(1958年)。 1960年代中盤から1970年代中盤までは実写のアクション番組や特撮物の脚本家として、1970年代から1980年代はテレビアニメーションの脚本家として活躍した。1980年代中盤以降は、活動の中心を小説の執筆に当てている。代表作に、テレビアニメーション『マジンガーZ』、『六神合体ゴッドマーズ』、『宇宙戦艦ヤマト』、小説『宇宙皇子』シリーズなど。
ジェームス三木(ジェームス みき、本名:山下 清泉(やました… ジェームス三木(ジェームス みき、本名:山下 清泉(やました きよもと)、1934年〈昭和9年〉6月10日 - 2025年〈令和7年〉6月14日)は、日本の脚本家、作家、演出家、元歌手。 1934年、満洲国奉天省奉天市(現・中国遼寧省瀋陽市)生まれ。小学生の時に大阪府茨木市に引き揚げる。 中学2年の時、父が心臓病で急死。父の死後、医師である叔父の勧めで医学部を受験する予定だったが、大阪府立市岡高校に入学後は演劇や恋愛に熱中していた。 高校2年の時、演劇部で自ら主演・演出した芝居が大阪府高校演劇コンクールで1位入賞。これを期に俳優志望となり、俳優座養成所の入所試験を受けたところ、12倍の競争率を突破して合格。
山田 太一(やまだ たいち、1934年〈昭和9年〉6月6日 … 山田 太一(やまだ たいち、1934年〈昭和9年〉6月6日 - 2023年〈令和5年〉11月29日)は、日本の脚本家・小説家。本名:石坂 太一(いしざか たいち)。 松竹で木下惠介の助監督を務めた後、フリーランスとなり、テレビドラマの脚本家に転身。社会的弱者を主題としたり、テレビドラマのタブーに挑戦したりするなど、数々の話題作を次々と生み出した。 小説では『飛ぶ夢をしばらく見ない』『異人たちとの夏』『遠くの声を捜して』の三部作を著し、小説家としても活動した。『異人たちとの夏』では1988年(昭和63年)に山本周五郎賞を受賞し、同作の映画や舞台も手掛けている。 東京市浅草区出身。浅草六区で大衆食堂を経営していた愛知県出身の父親と栃木県真岡市出身の母親の子として誕生。
山本 邦彦(やまもと くにひこ、1934年4月18日 - )… 山本 邦彦(やまもと くにひこ、1934年4月18日 - )は日本の映画監督、脚本家。
高田 宏治(たかだ こうじ、1934年〈昭和9年〉4月7日 … 高田 宏治(たかだ こうじ、1934年〈昭和9年〉4月7日 - )は、日本の脚本家。本名は名前の読みが(ひろはる)。東映で時代劇・現代劇・ヤクザ映画など、オールマイティに執筆をしている。大阪府大阪市出身。東京大学文学部英文学科卒業。 1934年に大阪府大阪市で生まれ、太平洋戦争には宇治市に疎開していた。1950年に清水谷高校へ転校し、読書と映画に耽溺していた。1953年に京都大学を落第し、1年浪人。片思いの女性に振られたことで発奮、猛勉強に励んだ。1954年に東京大学へ入学。大学同期の大江健三郎に触発され、文筆生活を志す。1955年には砂川闘争へ参加。1956年に日本経済新聞社や岩波書店などからも誘いを受けるが、脚本家を一生の仕事と決め、東映に入社。
網野 鉦一(あみの しょういち、1934年1月30日 - 2… 網野 鉦一(あみの しょういち、1934年1月30日 - 2006年1月17日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、養成学校経営者である。網野映画株式会社、網野学園株式会社代表。日本映画監督協会物故会員。 1934年(昭和9年)1月30日、千葉県に生まれる。 1952年(昭和27年)3月、千葉県立長生高等学校を卒業、その後1956年(昭和31年)、満22歳のときに脚本家になった。日本映画監督協会公式ウェブサイトの網野の項目には、その6年後の1962年(昭和37年)に「新東宝映画演出部入社」と記載されているが、新東宝は前年1961年(昭和36年)8月31日に倒産しており、製作部門はその年の11月15日に切り離されて、ニッポン・アートフィルム・カンパニー(NAC)になっており、同年に同社が「新東宝」の名で製作したものは、2月11日公開の『俺が裁くんだ』(監督橋田寿久年、配給日活)、6月3日公開の『悲しみはいつも母に』(監督中川信夫、配給大映)の2作のみで、現在の新東宝映画の前身である新東宝興業が映画を製作するのは1963年(昭和38年)6月22日に公開された『日本残酷物語』(監督中川信夫・小森白・高橋典)を待つことになる。
神波 史男(こうなみ ふみお、1934年1月10日 - 20… 神波 史男(こうなみ ふみお、1934年1月10日 - 2012年3月4日)は、日本の脚本家。
田坂 啓(たさか けい、1934年1月3日 - 2015年4… 田坂 啓(たさか けい、1934年1月3日 - 2015年4月10日)は、日本の脚本家。 広島県尾道市久保町出身。実家は『東京物語』の撮影が行われた浄土寺の近くで、石堂淑朗の家も近所だった。早稲田大学仏文科卒。大映株式会社脚本家養成所を1956年了。1960年『襲われた手術』の共同脚本でデビュー1963年、橋幸夫と吉永小百合主演で主題歌が大ヒットした『いつでも夢を』も共作した。東映と契約した1962年『恐喝』で一本立ち。『第三の忍者』『花と龍』、大川橋蔵の映画版『銭形平次』、『十一人の侍』など、時代劇の脚本を主に書いた。その後フリーの脚本家となり、1960年代後半から主に松竹の渡辺祐介監督とのコンビで「ザ・ドリフターズ全員集合!!シリーズ」など多数の喜劇脚本を手がけた。
片野 満(かたの みつる、1934年 - )は、日本の映画脚… 片野 満(かたの みつる、1934年 - )は、日本の映画脚本家・演出家・監督・プロデューサー。 東京都出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、日本大学芸術学部卒業。岩波映画製作所にて科学映画、教育放送番組の脚本・演出・監督・プロデューサーを歴任し、内閣総理大臣賞ほか多数の受賞作品に携わった。安井電子出版取締役制作本部長を務めた。
田波 靖男(たなみ やすお、1933年12月12日 - 20… 田波 靖男(たなみ やすお、1933年12月12日 - 2000年3月21日)は、日本の脚本家・作家・プロデューサー。東京都出身。ペンネームに「梅野かおる」「大井みなみ」がある。名前の表記は「靖」の右下の「月」が「円」になっている旧字も使われている。
竹内 日出男(たけうち ひでお、1933年11月26日 - … 竹内 日出男(たけうち ひでお、1933年11月26日 - 2022年8月30日)は、日本の脚本家・作家。兵庫県西脇市生まれ。東京大学文学部卒業。 1957年、東京大学文学部を卒業すると同時に日本放送協会に入局。 5年間の盛岡放送局勤務を経て東京の本部に移り、主としてドラマ番組の演出とプロデュースに当たる。 その間、ラジオドラマの演出作品では文化庁芸術祭に度々入賞し、日本放送作家協会賞演出者賞なども受賞。 1972年に移ったテレビドラマ部門では、連続テレビ小説『北の家族』(1973年〜1974年)、金曜ドラマ『新・坊っちゃん』(1975年〜1976年)、『ドラマ人間模様の5シリーズ――『妻たちの2.26事件』(1976年)、『冬の桃』(1977年)などのチーフプロデューサーを務めた。
吉松 安弘(よしまつ やすひろ、1933年11月24日 - … 吉松 安弘(よしまつ やすひろ、1933年11月24日 - )は日本の映画監督、脚本家。元帝京大学教授。専門は表象文化、比較民俗学。 1933年に東京都で生まれる。1957年に東京大学教育学部を卒業後、東宝撮影所に助監督として入社する。黒澤明などのもとで下積みをした後、1973年に東宝を映画監督として契約し退社した。そして、映画『さえてるやつら』を発表し監督デビューする。1976年には文化庁芸術家在外研修員としてニューヨーク大学などに留学した。また、脚本家、ノンフィクション作家としても著作を発表する。後に帝京大学短期大学情報ビジネス学科教授として教育・研究に従事し、日本映画監督協会理事などを歴任した。
須藤 久(すどう ひさし、1933年10月18日 - 201… 須藤 久(すどう ひさし、1933年10月18日 - 2017年1月2日)は、日本の映画監督、脚本家、映画評論家、思想評論家。 ドキュメンタリー映画や思想や生き方についての評論集の著作を数多く輩出している。 大阪府生まれ、幼少期に山口県下関市に移住、戦時中に川棚温泉に疎開後、再び下関市に戻り旧制豊浦中学に入学、学校制度の変更後山口県立豊浦高等学校在学中、新聞部に所属、山口県秋吉台でおこなわれた1泊2日の反戦・平和キャンプ集会に参加、県警警備部刑事の撮影した写真によって参加が学校に明るみに出て、反省文を提出すれば無期停学にするという学校の処分を、何もやましい事がないのに反省文は出せないと拒否し、強制退学となる。
松田 寛夫(まつだ ひろお、1933年9月3日 - 2022… 松田 寛夫(まつだ ひろお、1933年9月3日 - 2022年3月24日)は、日本の脚本家。 京都市出身。松田定次と松浦築枝の養子。京都大学文学部卒業。 1958年、東映に入社。早くからチーフ助監督になるが、組合委員長として契約者の組織化などに働き、常にひと言多いクセがたたり、岡田茂プロデューサーと喧嘩し、助監督を棒に振って東映東京撮影所に飛ばされた。 1967年に脚本家デビュー。当初はヤクザ映画やアクション映画の脚本を執筆していたが、次第に時代劇、ドラマと幅を広げていき、テレビドラマにも進出した。東映の脚本家は数名の共作で執筆することが多いが、比較的早くから単独執筆の映画に恵まれている。特に後年には、『花いちもんめ。
伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年5月15日 - 1… 伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年5月15日 - 1997年12月20日)は、日本の映画監督・俳優・脚本家・エッセイスト。本名は池内 義弘(いけうち よしひろ)。雑誌編集長・商業デザイナー・イラストレーター・CMプランナー・ドキュメンタリー映像作家としても活動し、料理通としても知られた。 監督デビューは51歳と遅咲きだったが、それまでに表現手段を追究する職を多数経験し、その集大成として映画に挑戦し、ヒットメーカーとなった。 1984年の監督デビュー作である『お葬式』からいきなり数々の映画賞を獲得するなど絶賛を浴びた。その後、『タンポポ』『マルサの女』『マルサの女2』『あげまん』『ミンボーの女』『大病人』『スーパーの女』『マルタイの女』などを演出し、いずれも大ヒットを記録した。
宮内 婦貴子(みやうち ふきこ、1933年2月27日 - 2… 宮内 婦貴子(みやうち ふきこ、1933年2月27日 - 2010年2月16日、本名:杉本婦貴子)は、日本の脚本家。 1933年(昭和8年)2月27日、静岡県三島市に生まれる。元々は小説家になりたかったという。神奈川県立横浜立野高等学校(入学時は神奈川県立横浜第二高等女学校)を卒業後は人形劇団に入る。たまたまCM会社に勤務する友人を訪ねると、ちょうどレジスターのCMの台本を書いている時で「あなたもやってみない?」と誘いがあったという。そこでCMライターになろうと思ったが、どうせなら脚本家を目指せばという話になり、紹介された東宝のプロデューサーから勧められてシナリオ研究所に入所、その後東宝シナリオ研究生を経て日活と契約。