松井 貴太郎(まつい きたろう、1883年1月16日 - 1… 松井 貴太郎(まつい きたろう、1883年1月16日 - 1962年11月2日)は、大正時代から昭和時代にかけて三井系の建物の設計を多く手がけた建築家。東京銀行集会所(後に東京銀行協会)や、三信ビルディングなどの設計などで知られる。 *現況欄の✕は現存せず
職業が建築家・建築学者:1,277人
松井 貴太郎(まつい きたろう、1883年1月16日 - 1… 松井 貴太郎(まつい きたろう、1883年1月16日 - 1962年11月2日)は、大正時代から昭和時代にかけて三井系の建物の設計を多く手がけた建築家。東京銀行集会所(後に東京銀行協会)や、三信ビルディングなどの設計などで知られる。 *現況欄の✕は現存せず
佐藤 四郎(さとう しろう、1883年〈明治16年〉 - 1… 佐藤 四郎(さとう しろう、1883年〈明治16年〉 - 1974年〈昭和49年〉)は、日本の建築家。大同電力(関西電力などの前身)に入社し、長野県から岐阜県にかけて木曽川沿いに点在する、いくつかの水力発電所の建物設計を手がけた。 山形県米沢市に生まれる。1907年(明治40年)に東京帝国大学(現・東京大学)へ入学。在学中の罹患により、同級生である高松政雄、安井武雄、内藤多仲らに遅れて1913年(大正2年)に卒業。すぐ横浜市の山田七五郎のもとで開港記念会館の設計に携わる。1917年(大正6年)に工場建築を主とする野村建築事務所(大阪市)に入所。1921年(大正10年)、福澤桃介に招かれ大同電力に入社。
小林 福太郎(こばやし ふくたろう、1882年(明治15年)… 小林 福太郎(こばやし ふくたろう、1882年(明治15年)11月 - 1938年(昭和13年)3月26日)は、日本の修理大工、建築家。社寺を中心に和風建築作品を多数設計した。 東京出身。工手学校(現工学院大学)を卒業。もともとは内務省に奉職したのち、宮内省内匠寮に入り、特別保護建造物の修繕に従事。 1913年(大正2年)、御料車内部装飾設計を鉄道院から嘱託され両陛下御同乗車(皇室用客車 § 7号御料車)、賢所奉安御車(賢所乗御車)を担当する。 1919年(大正8年)、日光廟大修理工事の主任技師となる。 1925年(大正14年)には小林建築設計事務所を設立。没後は息子の小林謙一が継ぎ、大物忌神社吹浦宮や浅草寺雷門などを設計している。
本野 精吾(もとの せいご、1882年(明治15年)9月30… 本野 精吾(もとの せいご、1882年(明治15年)9月30日 - 1944年(昭和19年)8月26日)は、大正期から昭和初期にかけて京都を中心に活躍した建築家。日本におけるモダニズム建築の先駆者のひとり。
久野 節(くの みさお、1882年〈明治15年〉2月21日 … 久野 節(くの みさお、1882年〈明治15年〉2月21日 - 1962年〈昭和37年〉8月7日)は、日本の建築家。鉄道省技師、中部鉄道管理局、鉄道省初代建築課長、逓信省技師を歴任。旧制堺中学校、東京帝国大学建築学科卒。従四位。
古橋 柳太郎(ふるはし りゅうたろう、1882年 - 196… 古橋 柳太郎(ふるはし りゅうたろう、1882年 - 1961年)は、日本の建築家。東京府生まれ。 東京で大工の棟梁をしていた古橋由次郎の長男として出生した。1910年、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、清国政府から技師として招かれた。翌1911年、辛亥革命が勃発すると帰国し、曽禰中條建築事務所に勤務した。1914年、独立し建築事務所を設立した。1961年、東京都内で亡くなった。 主な作品に後楽園球場、麻布中学高等学校、日本基督教団甲府教会などがある。 『日本基督教団甲府教会百年史』日本基督教団甲府教会、1979年4月22日
倉田 謙(くらた けん、1881年9月19日 - 1940年… 倉田 謙(くらた けん、1881年9月19日 - 1940年1月9日)は、日本の建築家。明治末期から昭和初期にかけて九州帝国大学技師を務め、九州大学(箱崎キャンパス)の校舎を多く設計したことで知られる。 1881年(明治14年)、東京生まれ。第一高等学校(旧制)を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(岡田信一郎、本野精吾らと同期)。 京都市嘱託技師、東京高等工業学校講師を経て、1911年(明治44年)11月、創設されたばかりの九州帝国大学技師に就任し、臨時建築掛長として大学施設の整備に当たる。その後、1918年(大正7年)、臨時建築掛が建築課になるとその初代課長に就任。
置塩 章(おしお あきら、 1881年(明治14年)2月6日… 置塩 章(おしお あきら、 1881年(明治14年)2月6日 - 1968年(昭和43年)10月20日)は、大正から昭和初期に関西で活躍した建築家である。公共建築物を多く手がけ、ネオ・ゴシック様式を好んだ。 1881年(明治14年)に、置塩藤四郎の長男として静岡県志太郡島田町(現・島田市)に生まれる。静岡県静岡尋常中学校から、第三高等学校 (旧制)へ進んだ。中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属し、ピッチャーを務めた。 1910年(明治43年)に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業、陸軍技師として陸軍省に入る。第四師団(大阪市)経理部に配属となり、第四師団管轄下の営繕全てにたずさわる。
前田 松韻(まえだ まつおと、1880年(明治13年)12月… 前田 松韻(まえだ まつおと、1880年(明治13年)12月 - 1944年(昭和19年)4月11日)は、日本の建築家。大連民政署の設計や、寝殿造の研究で知られる。 京都市生まれ。父は福井県士族前田松閣。1904年(明治37年)7月、東京帝国大学工科大学建築学科卒業。 日露戦争下の1904年に軍倉庫の建設に携わり、1905年2月、大連軍政署の嘱託技師、同年10月、関東都督府技師となる。在職中に大連民政署(現・遼寧省対外貿易経済合作庁)、大連の日本橋(現・勝利橋)を設計。 1907年(明治40年)10月、東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科教授に就任。日英博覧会の装飾を担当し、1909年12月よりロンドンに出張。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrel… ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、一柳米来留〈ひとつやなぎ めれる〉、1880年10月28日 - 1964年(昭和39年)5月7日)は、アメリカ合衆国(米国)に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家、キリスト教プロテスタントの信徒伝道者、社会事業家、実業家。 1905年(明治38年)にYMCA派遣の英語教師として来日し、生徒のキリスト教青年会(YMCA)活動を通して滋賀県内の伝道を始め、プロテスタントの伝道団体「近江ミッション」を興した。それを支える資金活動として建築事務所「ヴォーリズ合名会社」を興し、こんにちの近江兄弟社グループを築いた。伝道のほか、自給自足の精神で、病院や学校の開設などの社会事業を行った。
横濱 勉(よこはま つとむ、1880年10月15日 - 19… 横濱 勉(よこはま つとむ、1880年10月15日 - 1960年12月23日)は、日本の建築家。旧第九十銀行本店(国の重要文化財)などの設計で知られる。盛岡市出身。
佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月11… 佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月11日 - 1956年(昭和31年)12月5日)は、日本の建築家、建築構造学者。東京帝国大学名誉教授、日本大学教授、清水組副社長を歴任。宮内省工務課長、明治神宮造営局参与、帝都復興院理事、東京都建築局長、日本建築学会会長なども務めた。1950年日本学士院会員。芸術としての建築より、工学としての建築、とくに耐震工学に重きを置き、日本の構造学の発展に貢献した。 山形県西置賜郡荒砥村(現:白鷹町)の旧家の四男、山口安平として生まれた。生家(山口家)は大地主であったが次第に没落し、また実父の山口三郎兵衛が早くに病死したため、米沢中学在籍時に天童織田家の藩士だった佐野誠一郎の養嗣子となった。
中村 與資平(なかむら よしへい、1880年2月8日 - 1… 中村 與資平(なかむら よしへい、1880年2月8日 - 1963年12月21日)は、明治から昭和にかけて活躍した建築家。朝鮮・旧満州及び静岡県などにおいて多くの銀行や公共建築の設計を手がけたことで知られる。 中村与資平は、1880年に静岡県長上郡天王新田村(現在の浜松市中央区天王町)に中村貞一郎の長男として生まれた(中村は慶長年間からの庄屋(官号:与左衛門)で,与資平は第14代にあたる)。1889年に下堀学校(現・浜松市立与進小学校)を卒業し、1893年には浜松高等小学校(現・浜松市立元城小学校)を卒業した。1899年に静岡県浜松尋常中学校(現静岡県立浜松北高等学校)を卒業し、その後、1902年に第三高等学校を卒業した。
葛野 壮一郎(かどの そういちろう、1880年 - 1944… 葛野 壮一郎(かどの そういちろう、1880年 - 1944年1月18日)は、関西を中心に多くの建築物の設計を手がけた建築家。建築にとどまらず、音楽、絵画などにも造詣が深く、また、女子教育にも熱心に関わるなど、多方面で活躍した。
大江 新太郎(おおえ しんたろう、1879年10月26日 -… 大江 新太郎(おおえ しんたろう、1879年10月26日 - 1935年6月17日)は日本の建築家。 日光東照宮の修復を行ったことで知られる。日光廟大條繕に携わって以来、生涯にわたって日本の伝統建築を追求した。明治神宮造営、伊勢神宮造営などの主任技師として活躍するほか、東京帝国大学では庭園学を講義した。 1879年東京生まれ。京都府育ち。旧制三高を経て1904年(明治37年)東京帝国大学工科大学建築学科卒業。1905年(明治38年) 清国へ学術調査。 1907年(明治41年) 日光社寺大修繕工事監督嘱託(1926年まで)。その後栃木県技師。1913年(大正2年)神社奉祀調査会事務嘱託。1915年(大正4年)明治神宮造常局技師兼任(1926年まで)などを経て内務省技師(神社局)。
田辺 淳吉(たなべ じゅんきち、1879年6月26日 - 1… 田辺 淳吉(たなべ じゅんきち、1879年6月26日 - 1926年7月13日)は主に大正期に活躍した日本の建築家。清水組(現清水建設)の技師として銀行、学校、邸宅等を設計し、後に独立。
國枝 博(くにえだ ひろし、1879年6月20日 - 194… 國枝 博(くにえだ ひろし、1879年6月20日 - 1943年8月6日)は、岐阜県出身の建築家。朝鮮総督府に在任中には主任技師として朝鮮総督府庁舎の設計に携わった。その後は大阪市を拠点に活躍した。 1879年(明治12年)6月20日に岐阜県に生まれ、1905年(明治38年)7月に東京帝国大学工科大学建築科を卒業した。1907年(明治40年)8月には韓国統監府技師に任ぜられ、朝鮮総督府工事の主任技師を務めた。1912年(明治45年)4月には欧米各国へ出張している。 1918年(大正7年)9月に高等官3等に昇叙すると、同月には願により退職し、10月には正五位に叙せられた。1919年(大正8年)10月、大阪市に國枝工務所を開設した。
井手 薫(いで かおる、1879年〈明治12年〉2月6日 -… 井手 薫(いで かおる、1879年〈明治12年〉2月6日 - 1944年〈昭和19年〉5月11日)は、日本統治時代の台湾で活躍した建築家。美濃国岐阜出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の官庁や民間建築を多く手がけ、その設計理念と風格は台湾建築界に影響を与えた。 1879年、井手今滋(いましげ)の長男として出生した。父の今滋は幕末の歌人・橘曙覧の長男で、山梨県尋常師範学校長、新潟県尋常師範学校長、岐阜県海西下石津郡長などを務めた。 第一高等学校を経て、1906年(明治39年)に東京帝国大学建築科を卒業(岡田信一郎、本野精吾、倉田謙らと同期)。同年辰野・葛西建築事務所に入り辰野金吾のもとで建築設計に従事した。
古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 196… 古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 1965年2月16日)は、日本の建築家、建築史家、庭園研究家。神戸高等工業学校校長を務めた。フレッチャー(Banister Fletcher)『建築史』の翻訳でも知られる。日本建築の研究者で東京美術学校(現東京芸術大学)での教職の後、関西に活動の場を移し、その研究を生かし奈良、京都、鎌倉などの文化財修復にあたり、また鐘楼の設計などを多く手がけている。こうした功績で勲一等に叙せられた。 茨城県の判事・古宇田義鼎の二男として東京に生まれる。1902年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、大学院に進む。庭園研究を師の辰野金吾に天沼俊一とともに勧められて始める。
田村 鎮(たむら やすし、1878年〈明治11年〉10月24… 田村 鎮(たむら やすし、1878年〈明治11年〉10月24日 - 1942年〈昭和17年〉2月11日)は、日本の建築家。陸軍技師として数多くの軍関連施設を手がけた人物。陸軍技師として特に旧陸軍航空飛行隊の施設計画に深く関与していたこと、陸軍技師の中では筆頭格であったことがわかっている。一関藩最後の藩主・田村崇顕の長男。 北の丸公園に立地する旧近衛師団司令部庁舎(現東京国立近代美術館分室、1910年、国重要文化財)が代表作。 他に田村が設計に大きく関わったと推定されるものには、樺太守備隊司令官宿舎(現ロシア陸軍法務局サハリン州軍管区裁判所、1908)、所沢飛行場飛行船庫(1913年)、広島陸軍被服支廠倉庫(1914年、国重要文化財)などが知られる。
佐藤 功一(さとう こういち、1878年(明治11年)7月2… 佐藤 功一(さとう こういち、1878年(明治11年)7月2日 - 1941年(昭和16年)6月22日)は、日本の建築家。 早稲田大学理工科の建築学科の創始者として知られる。早大建築学科主任に就任してからは、同大の建築教育の基礎を築いた。以後は早大において評議員なども歴任した。 作品としては関東大震災以降のものが多く、日比谷公会堂の設計、大学関連では早稲田大学のシンボルである大隈講堂や、武蔵大学、津田塾大学に作品を39年間で233件残している。また東京女子高等師範学校、日本女子大学校などで教え、女性に対する住教育の草分けでもあった。 佐藤の作品であることが確認されている物件は223件あり、2か月に1件のハイペースで設計していた計算になる。
妻沼岩彦 (Iwahiko Tsumanuma、Thomas… 妻沼岩彦 (Iwahiko Tsumanuma、Thomas S.Rockrise 1878年~1936年)は、日系アメリカ人建築家。妻沼は、トーマス・S.・ロックライスの名の下に、おもにアメリカ合衆国で活躍した。長男・George T. Rockriseも建築家。塩田武雄と組み、ニューヨークでYamanaka & Companyのギャラリーのデザインなどを手掛けた。 出身は山形市。若くして家業に従事するが失敗し、21歳で国を離れ、アジアとヨーロッパを経由してアメリカに着く。アメリカの高等学校入学卒業を経て、1912年、シラキュース大学建築科に進学し、卒業後、ニューヨークに。TアンドL、バレル・ホフマン建築事務所などを経て、1918年、独立した。
松井清足(まつい きよたり、1877年11月13日 - 19… 松井清足(まつい きよたり、1877年11月13日 - 1948年2月29日)は、日本の建築家である。大林組取締役。日本建築学会名誉員。 明治10年(1877年)11月13日、名古屋市中区中の町で誕生。明治36年(1903年)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業する。同年、職を辞した辰野金吾のもと、辰野葛西建築事務所の事務員として勤務。東京駅の設計などに関与。海軍省技師を経て、大正13年(1924年)に大林組に入社。翌12月に取締役に就任。昭和10年(1935年)辞任。昭和17年(1942年)に日本建築学会名誉員となる。昭和23年(1948年)2月29日逝去。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。
永瀬 狂三(ながせ きょうぞう、1877年10月23日 - … 永瀬 狂三(ながせ きょうぞう、1877年10月23日 - 1955年1月21日)は、大正・昭和戦前期の建築家。東京帝国大学建築学科卒業。京都帝国大学営繕組織に在籍して京都市を中心に活動したことから、京都大学に多くの作品を残している。 1877年(明治10年)、愛知県渥美郡田原(現・田原市)に生まれる。祖父は田原藩国元家老の鈴木弥太夫で、父・永瀬誉の代から永瀬姓を名乗った。「狂三」の名前は、『論語』子路篇の「不得中行而与之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不為也(中行を得てこれに与せずんば、必ずや狂狷か、狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり)」に由来している。 1906年(明治39年)10月、東京帝国大学建築学科を卒業。
北村 耕造(きたむら こうぞう、1877年(明治10年)9月… 北村 耕造(きたむら こうぞう、1877年(明治10年)9月25日- 1939年(昭和14年)6月27日)は、日本の建築家。宮中顧問官。 京都で、代々近衛家の家臣をつとめる家に生まれる。 1903年(明治36年)に東京帝国大学建築学科を卒業。同期の卒業生には佐野利器、佐藤功一、大熊喜邦、田辺淳吉らがおり、同期の集名「どんぶり会」の一人。 卒業後は建築請負業清水満之助商店本店(現・清水建設)に入社。在籍中には海外の建築界を視察するために一年間の長期出張を命ぜられた。 1913年(大正2年)に清水組大阪支店長を歴任したのち、1917年(大正6年)に清水組を退社。今度は財団法人理化学研究所建設工事主任技師へと転じた。
保岡 勝也(やすおか かつや 1877年(明治10年)1月2… 保岡 勝也(やすおか かつや 1877年(明治10年)1月22日 - 1942年(昭和17年)8月2日)は日本の建築家。三菱の丸の内赤煉瓦オフィス街の設計を行った他、先駆的な住宅設計で知られる。 東京生まれ。1900年(明治33年)、東京帝国大学工科大学建築学科(現・東京大学工学部建築学科)を卒業、工科大学では学長であった辰野金吾に師事した。 岩崎久弥が社長を務める三菱合資会社(現・三菱地所)に入社する。三菱は1889年(明治22年)に、明治政府より丸の内の一括払い下げを受けており、「丸ノ内建築所」を設置、ジョサイア・コンドルによって、1894年(明治27年)、「三菱一号館」が竣工した。保岡は、曽禰達蔵の下で丸の内赤煉瓦街の設計に携わるが、3年で三菱を退社し帝国大学の大学院に入学する(研究テーマは劇場的建築)。
大熊 喜邦(おおくま よしくに、1877年1月13日 - 1… 大熊 喜邦(おおくま よしくに、1877年1月13日 - 1952年2月25日)は、日本の建築家、営繕官僚。公共建築の中心的人物。中央諸官庁及び地方庁舎に数多く携わる。東京生まれ。妻木頼黄・矢橋賢吉の後を引き継いで国会議事堂の建設を統括した。旧文部省庁舎なども設計。一方、江戸時代の建築・法制などを研究し、その研究書を著す。著書に『世界の議事堂』などがある。工学博士・経済学博士。 麹町生まれ。父は元旗本であった。第一高等学校を経て、1903年、東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)建築学科を卒業。卒業後は大学院に籍を置き、横河民輔の横河工務所に入所。帝国劇場などの設計に関与した。 1905 (M38)年、東京帝国大学工科大学講師。
加護谷 祐太郎(かごたに すけたろう 1876年(明治9年)… 加護谷 祐太郎(かごたに すけたろう 1876年(明治9年)12月19日 - 1936年(昭和11年)6月7日)は、日本の建築家。 兵庫県明石生まれ。姫路中学、第三高等学校(京都)を経て東京帝国大学工科大学建築学科に進む。 1904年(明治37年)、東京帝国大学を卒業。同年、奈良県技師となり、東大寺大仏殿の修理に携わる。その後、山梨県(県立病院)、辰馬汽船、兵庫県(鶴林寺太子堂修理など)、大分県(県庁)などで業務に従事。1922年に東京市技師、建築課長。翌年関東大震災が起こり、1925年まで震災復興に当たる。東京市退職後は丹羽鋤彦、竹内季一と共同で建築事務所を開設。1931年より加護谷建築事務所を主宰。
片岡 安 (かたおか やすし、 1876年6月4日- 194… 片岡 安 (かたおか やすし、 1876年6月4日- 1946年5月26日) は、日本の建築家・都市計画家。工学博士(東京帝国大学)。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)初代校長・理事長。日本建築協会初代理事長・会長。大阪商工会議所第13代会頭。大阪工業会第3代会長。金沢市長(1期)。 「日本近代建築の父」といわれる辰野金吾(日本銀行本店・東京駅等を設計)と共同で、辰野片岡建築事務所を大阪に開設し、大阪市庁舎・大阪市中央公会堂等多くの建築作品を残した。また日本における都市計画研究のパイオニア(わが国最初の都市計画大著「現代都市之研究」を公刊)であり、大阪を代表する御堂筋等のまちづくりに欠かせなかった建築法規(旧都市計画法、市街地建築物法)の整備にも尽力した。
池田 稔(いけだ みのる、1876年(明治9年)1月4日 -… 池田 稔(いけだ みのる、1876年(明治9年)1月4日 - 没年不明)は、日本の建築家。正七位勲六等。工学士。 松本藩士、池田義重の長男として生まれる。1902年(明治35年)、東京帝国大学工科大学(現東京大学工学部)建築学科卒業。同年東宮御所御造営厨設計課勤務を嘱託される。1905年(明治38年)には日露戦争に陸軍歩兵少尉として出征するが、同年再び勤務し、1906年(明治39年)農商務省に入省、技師となる。1909年(明治42年)アメリカ合衆国差遣。 1911年(明治44年)10月、一般の新聞ならびに建築雑誌などにおいて懸賞募集が広告された三菱本館のコンペティションに応募し、2等に選出される。
日高 胖(ひだか ゆたか、1875年6月15日 - 1952… 日高 胖(ひだか ゆたか、1875年6月15日 - 1952年12月20日)は、日本の建築家。 旧住友財閥において多くの建築物の設計を手がけた。アール・ヌーヴォー様式の神本理髪店の設計や、住友ビルディングの建設の総指揮をとったことなどで知られる。
木子 幸三郎(きご こうざぶろう、1874年(明治7年)8月… 木子 幸三郎(きご こうざぶろう、1874年(明治7年)8月29日 - 1941年(昭和16年)2月14日)は、日本の建築家。皇室関係の建築を多く手がけたことで知られる。族籍は東京府士族。 1874年(明治7年)、宮内省内匠寮技師の木子清敬の二男として東京市赤坂区に生まれた。 1901年(明治34年)、東京帝国大学工科大学建築学科選科を修了し、大阪の住友本店臨時建築部、に入る。 1902年(明治35年)、一年志願兵として入隊。除隊後、東宮御所造営局勤務となる。その一方で1905年(明治38年)からは工手学校で講師を開始し和洋建築の講義もおこなっていた。1911年(明治44年)宮内省内匠寮技師となる。
鵜飼 長三郎(うかい ちょうざぶろう、1874年(明治7年)… 鵜飼 長三郎(うかい ちょうざぶろう、1874年(明治7年)7月 - 没年不明)は、日本の建築家である。本願寺技師として、伊東忠太とともに旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院)および二楽荘の建設に携わり、東京府内務部営繕局長を務めた。旧姓は越本。 1874年(明治7年)7月、奈良県奈良市転害門内東入ル雑司町に生まれる。東京府市政通信社編 (1926)によれば、鵜飼家は「父祖十二代連綿として建設業を受け継ぎ、代々斯界に名声を馳せていた」家系であり、先代の鵜飼源三郎は東大寺大仏殿の大修繕や築地本願寺・西本願寺の建立にも携わった。工手学校卒業後、明治神宮神楽殿建築監督などを務める。 1898年(明治31年)から1901年(明治34年)にかけて渡米し、「ハムボルド・ドローイング・スクール」を卒業する。
松室 重光(まつむろ しげみつ、1873年〈明治6年〉4月2… 松室 重光(まつむろ しげみつ、1873年〈明治6年〉4月26日 - 1937年〈昭和12年〉1月30日)は、京都を中心に多くの建築物の設計を手がけた建築家。ネオ・ルネサンス様式の名建築として知られる京都府庁舎旧本館や、京都ハリストス正教会聖堂などの設計などで知られる。 京都府技師として新築設計を手がける一方で、京都の社寺建築の修復・保存にも実績を残したが、部下の汚職に連座したとして官職を辞す。その後は九州鉄道技師を経て、恩師・辰野金吾の推薦により関東州(旅順・大連地域)の行政機関である関東都督府民政部に着任した。1908年3月の着任から近藤伊三郎が部下となる1916年8月までの8年間は、民政部土木課の唯一人の建築技師だった。
武田 五一(たけだ ごいち、1872年12月15日〈明治5年… 武田 五一(たけだ ごいち、1872年12月15日〈明治5年11月15日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月5日)は、日本の建築家・建築学者。京都帝国大学建築学科創設者で、関西建築界の父といわれる。アメリカの著名建築家フランク・ロイド・ライトを日本に紹介した人物でもある。 小田県福山(現・広島県福山市)出身。「関西建築界の父」とも言われる日本の建築家。ヨーロッパ留学で影響を受けたアール・ヌーボー、セセッションなど、新しいデザインを日本に紹介した建築家とも言われる。建築以外にも工芸や図案・テキスタイルデザインなども手掛けた。自身の作品のみならず、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科や京都帝国大学(現・京都大学)に工学部建築学科を創立し向井寛三郎・瀧本義一など多くの後進を育成した。
三條 栄三郎(さんじょう えいさぶろう、1872年 - 19… 三條 栄三郎(さんじょう えいさぶろう、1872年 - 1964年)は日本の建築家。明治・大正時代に福岡県で活躍した。 山形県山形市鍛治町出身。1898年蔵前高等工業学校附属教員養成所卒業。旧制仙台市立工業学校教諭、熊本県での教諭を経て、1901年旧制福岡県立工業学校教諭。1905年から1908年まで佐賀県土木部技師、1908年から1924年まで福岡県土木部技師を務めた。同年9月に退職するまでの16年間は、福岡県の多くの施設が洋風建築に建て替えられる時期で、俗に“三條時代”とよばれるように、県の建築業界を牽引した。 三條が設計を担当した建築物は、旧福岡県公会堂貴賓館(明治43年竣工、国の重要文化財)、旧福岡県庁舎(大正4年竣工)、福岡県立図書館(大正7年竣工)、宮地嶽神社、香椎神宮、筥崎宮拝殿・廻廊・楼門(大正3~6年竣工)、太宰府天満宮楼門(大正1年竣工)などで、その他福岡県立福岡高等学校本館も手がけている。
山田 七五郎(やまだ しちごろう、1871年2月1日 - 1… 山田 七五郎(やまだ しちごろう、1871年2月1日 - 1945年6月27日)は、日本の建築家。長崎県技師、横浜市の初代建築課長を歴任し、1914年(大正3年)から1929年(昭和4年)まで、横浜市の建築営繕組織のトップとして組織を統率した。1925年にパリで開催された現代装飾美術・産業美術国際博覧会(アールデコ博)では、日本館の設計を担当した。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
桜井 小太郎(さくらい こたろう、明治3年9月11日(187… 桜井 小太郎(さくらい こたろう、明治3年9月11日(1870年10月5日) - 昭和28年(1953年)11月11日)は日本の建築家。日本人初の英国公認建築士である。娘の安芸子は穂積八束の長男、重威に嫁いだ。
鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月… 鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月2日) - 昭和16年(1941年)8月12日)は、日本の建築家。静岡県静岡市出身。夏目漱石の相婿(妻同士が姉妹)で、漱石の小説の中にも登場する。[要出典] 1870年(明治3年)駿河国静岡に旧旗本で大蔵官僚の鈴木利亨の長男として生まれる。1896年(明治29年)に帝国大学工科大学造家学科を卒業。翌年、三井銀行に入り建築係に勤務する。1898年(明治31年)夏目漱石の妻である夏目鏡子(旧姓:中根)の妹(時子)と結婚し、1903年(明治36年)、文部省の命を受けイギリスとフランスに留学。1906年(明治39年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の建築科教授・同科長となり赴任。
矢橋 賢吉(やばし けんきち、1869年10月24日(明治2… 矢橋 賢吉(やばし けんきち、1869年10月24日(明治2年9月20日) - 1927年(昭和2年)5月24日)は、日本の建築家。大蔵省営繕官僚。明治建築界三大巨匠の一人とされた大蔵省営繕の妻木頼黄の右腕。国会議事堂・旧総理大臣官邸 (総理大臣公邸)・枢密院庁舎(皇宮警察本部) などが代表的な作品。近代公共建築の中心人物。死没日をもって、勲二等旭日重光章受章、叙正三位。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家・惣本家の出身。 美濃国不破郡赤坂村出身。父は惣本家当主・矢橋藤十郎、母は矢橋宗太郎二女勝後改幾世。矢橋徳次郎は賢吉の長兄、矢橋為吉は次兄。
新山 平四郎(にいやま へいしろう、1869年7月17日 -… 新山 平四郎(にいやま へいしろう、1869年7月17日 - 不明)は、明治から昭和初期にかけて文部省技師として活躍した建築家。明治期の新設された学校建築を多く手がけた。
森山 松之助(もりやま まつのすけ、明治2年6月7日(186… 森山 松之助(もりやま まつのすけ、明治2年6月7日(1869年7月10日)- 昭和24年(1949年)4月2日)は、日本統治時代の台湾で活躍した建築家。大阪市出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の多くの官庁建築を手がけたことで知られる。 外交官・貴族院議員を務めた森山茂の子として明治2年(1869年)に大阪市東区平野町(現 大阪市中央区平野町)に生まれる(なお、叔父に五代友厚がいる)。学習院、攻玉社を経て、明治26年(1893年)第一高等学校を卒業後、帝国大学工科大学建築学科において辰野金吾のもとで学び、明治30年(1897年)に卒業。大学院、明治31年(1898年)第一銀行建築係嘱託、明治33年(1900年)東京高等工業学校の建築学講座担当を経て、明治39年(1906年)に台湾に渡り、大正10年(1921年)までの間、台湾総督府営繕課技師として多くの官庁建築を手がけた。
野口 孫市(のぐち まごいち、明治2年4月23日(1869年… 野口 孫市(のぐち まごいち、明治2年4月23日(1869年6月3日) - 大正4年(1915年)10月26日)は、明治、大正期に活躍した建築家、工学博士。創設間もない住友営繕の基礎を築いた人物。 明治2年(1869年)4月23日、播磨国姫路清水(現姫路市)に姫路藩士・野口野(いやし)の子として生まれる。姉は後に日本の幼児教育の先駆者的存在となる野口幽香。父に付き従い生野銀山で一年余り過ごす。父の転勤で神戸に移り、兵庫県立第一神戸中学を卒業。第三高等学校を経て、住友の奨学金を貸与され、明治24年(1891年)に東京帝国大学工科大学造家学科に進学し、同27年(1894年)7月卒業。大学院で耐震家屋について研究。
塚本 靖(つかもと やすし、1869年3月27日(明治2年2… 塚本 靖(つかもと やすし、1869年3月27日(明治2年2月15日) - 1937年(昭和12年)8月9日)は、日本の建築家。東京帝国大学において建築意匠・装飾・工芸の研究・指導に当たった。号は「准亭」。 1869年、京都生まれ。1893年、東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、明治美術学校講師嘱託となった。 1899年、東京帝国大学工科大学助教授に採用。採用後、1899年から1902年にかけてヨーロッパへ研究留学した。その後も、1906年から1908年にかけての工芸品意匠調査のため清国出張、1909年には日英博覧会のためのイギリスに派遣されている。1920年、同校教授に昇進。1920年より工学部部長を務めたのち、1929年に退官し、名誉教授となった。
西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治… 西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治元年11月26日) - 1935年(昭和10年)12月27日)は、長門厚狭郡厚南村(現・山口県宇部市)出身の建築家。1897年(明治30年)から1917年(大正6年)までは福岡県営繕係や愛知県営繕係に奉職し、1918年(大正7年)に名古屋市初の個人建築事務所を開設して活動した。 父は西原英治郎、母はノエ。1869年1月8日(明治元年11月26日)、長門厚狭郡厚南村大字東須恵(現・山口県宇部市)に西原家の長男として生まれた。厚狭郡須恵小学校(現・宇部市立厚南小学校)を卒業し、吉敷郡山口町の山口黒城塾で学んだ後、大阪商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)に入学した。
山下 啓次郎(やました けいじろう、1868年1月12日〈慶… 山下 啓次郎(やました けいじろう、1868年1月12日〈慶応3年12月18日〉- 1931年〈昭和6年〉2月6日)は明治・大正期に司法省の建築家として五大監獄を設計した。族籍は鹿児島県士族。 妻の直子は「日本のミスコン優勝者第一号」の末弘ヒロ子の姉。孫(二男・啓輔の子)のジャズピアニスト山下洋輔は啓次郎の事跡を訪ね、小説『ドバラダ門』を書いた。 1868年(慶応3年)、薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(後の鹿児島市西田町)に、薩摩藩士・山下房親の次男として生まれる。1876年(明治9年)、上京。第一高等中学校を経て1892年(明治25年)、帝国大学工科大学造家学科(後の東京大学工学部)卒業。辰野金吾のもと建築を学んだ。
関野 貞(せきの ただし、1868年1月9日(慶応3年12月… 関野 貞(せきの ただし、1868年1月9日(慶応3年12月15日)- 1935年(昭和10年)7月29日)は、日本の建築史学者、建築家・美術史・考古学者。東京帝国大学名誉教授。 高田藩士関野峻節とヤエの次男として生まれた。旧制一高を経て、1895年に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業。卒業論文は平等院の研究であった。辰野金吾の指揮下に日本銀行の工事に参加する。古社寺保存法が立案された1896年に伊東忠太の勧めで内務省技師、奈良県技師となり、奈良の古建築を調査し、建築年代を判定していった。 1889年に平城宮址を発見した。1922年、国の史跡(のちに特別史跡・特別名勝)に指定された。
野村 一郎(のむら いちろう、1868年 - 1942年7月… 野村 一郎(のむら いちろう、1868年 - 1942年7月28日)は、日本の建築家。 大阪と台湾、朝鮮を拠点に、旧台湾総督官邸(現台北賓館)、旧朝鮮総督府庁舎などの設計を手がけた。また、台湾総督府に在任中、台北市の都市計画にも携わった。
三橋 四郎(みつはし しろう、1867年12月27日(慶応3… 三橋 四郎(みつはし しろう、1867年12月27日(慶応3年12月2日) - 1915年(大正4年)11月5日)は、明治期から大正初期の日本の建築家。領事館をはじめとする多くの官庁建築の設計に携わるとともに、鉄網コンクリート工法を考案したことで知られる。 幕臣鈴木庸正の四男として、江戸に生まれる。 1893年、帝国大学工科大学造家学科(後の建築学科)を卒業、陸軍省に入る。 1898年に逓信省技師となり、郵便局舎の建築にあたった。 1906年、東京市技師となり、営繕課長となる。しかし2年後の1908年には東京市を退職し、三橋建築事務所を東京に開設した。以後、外務省の嘱託として、中国東北部やロシア極東部において多くの領事館を設計した。
伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867… 伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867年11月21日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月7日) は、明治から昭和期の建築家、建築史家である。号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・早稲田大学教授。出羽国米沢(現山形県米沢市)出身。米沢市名誉市民第1号。 少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。 西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。