町田 保(まちだ たもつ、1903年8月8日 - 1967年… 町田 保(まちだ たもつ、1903年8月8日 - 1967年10月12日)は、日本の都市計画家、土木技師。第二次世界大戦後の戦災復興都市計画事業や首都建設委員会事務局長として一時期、東京の首都高の計画にも関わる。山口県旧徳山市出身。 旧制山口高等学校理科甲類をへて、1926年東京帝国大学工学部土木工学科卒業。東京市を経て、1928年(昭和3年)、内務省に入省。大臣官房都市計画課技手から都市計画地方委員会福岡地方委員会技師。その後新設の都市計画局から防空総本部技師を経て、1945年から戦災復興院土地局工務課長。戦災復興都市計画では出身の徳山市に派遣され、指導助言。後1963年にも市長から依頼で、周南団地建設のための「周南住宅地区開発基本計画」作成調査委員会委員長就任している。
小磯 良平(こいそ りょうへい、1903年<明治36年>7月… 小磯 良平(こいそ りょうへい、1903年<明治36年>7月25日 - 1988年<昭和63年>12月16日)は、日本の昭和期に活躍した洋画家である。 肖像画、特に群像を多く手がけたことで知られる。 1903年(明治36年)、旧三田藩の旧家で貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として、神戸市神戸(現在の中央区)の中山手通に生まれた。兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等学校)では竹中郁と同級で、生涯の親友だった。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの同級生と画架を並べる。在学中の1925年(大正14年)に親戚の小磯吉人の養子となり改姓し、同年「兄妹」が帝展入選、1926年(大正15年)「T嬢の像」が帝展特選を果たす。
奈良岡 正夫(ならおか まさお、本名:奈良岡政雄、1903年… 奈良岡 正夫(ならおか まさお、本名:奈良岡政雄、1903年(明治36年)6月15日 - 2004年(平成16年)5月5日)は、日本の洋画家。女優・奈良岡朋子(東京都文京区出身)の父である。 青森県中津軽郡豊田村(現弘前市)出身。社団法人日展参与、社団法人示現会会長を務めた。 初入選が40歳前と遅咲きの作家。戦時中は従軍して戦争記録画を制作したが、戦前の作品は、ほとんどが所在不明となっている。戦後は、放牧されている牛や山羊、青森のねぶた、奥入瀬などを題材に描いた。感銘、影響を受けた本として、倉田百三の『出家とその弟子』を挙げている。 1903年(明治36年) 青森県弘前市生まれ。一度画家を志して上京するが家族に連れ戻され、1925年(大正14年)再び上京する。
春日部 たすく(かすかべ たすく、本名:春日部 弼、1903… 春日部 たすく(かすかべ たすく、本名:春日部 弼、1903年5月26日 - 1985年9月16日)は、日本の水彩画家。水彩連盟の創始者のひとりである。 福島県北会津郡高野村(現 会津若松市)生まれ。実父の春日部春二(春日部雪後)は裁判所長で俳人。 会津中学校(現・福島県立会津高等学校)を卒業。1924年に上京し、川端画学校洋画部で学ぶ。1928年、水彩画会展に入選。1929年、第10回帝展に水彩画「山湖」が初入選、日本水彩画会会員となる。1940年、小堀進、荒井直之助ら同志7人で「水彩連盟」を設立。これ以降、官展や日本水彩画会への出品を止め、戦後も水彩連盟および個展での発表を行った。 作風は風景画を得意とし、あざやかな色彩と情趣ある画情が特徴だった。
三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4… 三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4月18日 - 1934年(昭和9年)7月1日)は、日本の洋画家。戦前のモダニズムを代表する洋画家の1人。妻は同じく洋画家の三岸節子(旧姓:吉田)、異父兄は作家の子母澤寛(本名:梅谷松太郎)。 祖父の梅谷十次郎は元御家人で、石狩国の漁村厚田村(現:石狩市厚田区厚田)の網元だった(子母澤寛を参照)。父は橘巌松、母は三岸イシ。父の巌松は旧加賀藩前田氏に仕えた御殿医の家に生まれるも、医学修業中に吉原遊廓通いで身を持ち崩して石狩へ流れ着き、十次郎の営む料理店で働いていたと伝わる。また、薄野の大妓楼「高砂楼」の番頭だったとも伝わる。祖父が両親の結婚を許さなかったため、三岸家の戸主である母の姓を名乗る。
小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27… 小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27日 - 1981年(昭和56年)11月20日)は、編集者、随筆家、画家。号は冬青。岩波書店の創業者岩波茂雄の女婿であり、同社会長を務めた。 長野県上伊那郡赤穂村(現・駒ヶ根市)の農家の五男として生まれる。実業学校で基礎教育を受けたのち家業を手伝っていたが、1920年、17歳で上京し、岩波書店の住み込み社員となり、岩波文庫の創刊に携わる。幸田露伴の愛顧を受ける。 岩波茂雄の女婿(次女小百合と結婚)となるが、1928年に独立し、三木清らの援助を受けて自身の出版社・鉄塔書院、新興科学社を興す。だが、後に経営不振となり、1934年に岩波書店に復帰。
深沢 紅子(ふかざわ こうこ、1903年3月23日 - 19… 深沢 紅子(ふかざわ こうこ、1903年3月23日 - 1993年3月25日)は、日本の洋画家。岩手県盛岡市出身。夫深沢省三も洋画家・童画家。戦前戦後を通じ、堀辰雄や立原道造らの本の装幀のほか、童話の挿絵なども多く手がけた。深沢夫妻は作品を描き続ける一方、絵画指導を通じて児童教育にも熱心に携わった。
塚本 茂(つかもと しげる、1903年〈明治36年〉3月14… 塚本 茂(つかもと しげる、1903年〈明治36年〉3月14日 - 1983年〈昭和58年〉1月25日)は、昭和期の洋画家である。 1903年(明治36年)、群馬県多野郡美土里村(現・藤岡市)に生まれる。旧制前橋中学校に学び、雑誌で見た中村彝「エロシェンコ氏の像」に感動し、美術教師・曽根末次郎の影響もあり画家を志す。東京美術学校図画師範科に入学し、藤島武二に教えを受け、学外で中村彝、牧野虎雄にも師事する。在学中の1924年(大正13年)に第5回帝展に『緑蔭』を出品し初入選する。1925年(大正14年)同校を卒業。 卒業後は神奈川県立湘南中学校(現・湘南高等学校)教諭となり、1946年(昭和21年)まで勤務。
甲斐 巳八郎(かい みはちろう 1903年1月24日 - 1… 甲斐 巳八郎(かい みはちろう 1903年1月24日 - 1979年6月16日)は、日本の画家。水墨画を中心とした日本画の創作を行った。 1903年(明治36年)1月24日、熊本県熊本市に生まれる。京都市立絵画専門学校本科に入学して福田平八郎に師事。1927年に卒業すると中国大陸へ渡り、南満州鉄道社員会報道部に勤務しながら日本画を中心とした作品制作などに携わった。また『北京画集』『満州郷土人形』などを著した。第二次世界大戦終結後の1947年、日本へ引揚げて福岡県に定住する。1948年には日本美術院展に「筑紫路」を出展、初入選したことを足掛かりに、以降、多くの作品を発表。水墨画を現代化した独自の作風を生み出した。
山口 正城(やまぐち まさき、1903年1月22日 - 19… 山口 正城(やまぐち まさき、1903年1月22日 - 1959年12月5日)とは、日本の画家、グラフィックデザイナー、デザイン・図案に関する教育者。 千葉大学工学部工業意匠学科教授を務めた。フォトグラムを含め、抽象的な作品が多い。
岩橋 英遠(いわはし えいえん、1903年1月12日 - 1… 岩橋 英遠(いわはし えいえん、1903年1月12日 - 1999年7月12日)は、日本画家、文化勲章受章者、日本芸術院会員。位階は従三位。 北海道空知郡江部乙村(現在の空知管内滝川市江部乙町)に、熊本県出身の屯田兵岩橋浅次と妻きくの長男として生まれる。本名・英遠(ひでとお)。 同村立北辰尋常高等小学校を卒業後、農業を手伝いながら独学で絵を描く。21歳で上京、山内多門の画塾に入る。師の死後は安田靫彦門下となる。院展同人として活躍し、日本画新時代の一翼を担う。洋画の手法も取り入れつつ、独自の自然観照による写実的でありながら幻想的でもある印象のある絵画世界を創造し続け、享年まで日本画壇の重鎮として活躍した。
林 雲渓(林 雲谿、はやし うんけい、本名:林 勇、1903… 林 雲渓(林 雲谿、はやし うんけい、本名:林 勇、1903年(明治36年)1月6日 - 1990年(平成2年)9月11日)は、日本画家。徳島県麻植郡鴨島町(現吉野川市)出身。 1984年(昭和59年)に南画に優れた功績を挙げた第一人者として徳島県文化賞を受賞。 四国八十八箇所11番札所である藤井寺本堂の天井絵には雲渓の描いた雲龍が描かれている。30畳ほどの大きさがあり、繊細な線と睨みをきかせた迫力のある顔が薬師如来を守つているかのように見える。 現在、鴨島町の吉野川市立森山小学校に雲渓の記念碑が建てられている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938… 重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938年11月30日)は、日本の画家で、左翼運動家。愛媛県松山市生まれ。 旧制松山中学校に入学。松山時代、雑誌『白樺』の影響を受けて芸術家志望の若者らと文芸や絵画の回覧雑誌『楽天』を発行。伊丹万作、伊藤大輔、中村草田男らと同志であった。また、後に映画監督となる山本薩夫の実兄でのちの建築家・山本勝巳もメンバーで、大学中退後の山本を伊藤に推薦し松竹に入れたのは重松であった。 松山中を中退して上京。岸田劉生に心酔、影響を受け、春陽会、国画会に入選。1926年、東京府美術館での同館開館記念「第1回聖徳太子奉賛美術展」に、代表作となる「閑々亭肖像」を招待出品するなど活躍した。
田口秋魚(たぐち しゅうぎょ、1903年(明治36年)-19… 田口秋魚(たぐち しゅうぎょ、1903年(明治36年)-1988年(昭和63年)1月24日)は、現在の秋田県仙北市角館町上新町生まれの画家。本名は田口徳蔵。 1926年(大正15年)荒川青亭に師事、1927年には上京して同郷の平福百穂の門に入り、1932年(昭和7年)には川端画学校に入学して日本画を学んだ。1933年10月30日の平福百穂の死に会した唯一の門人。百穂没後は吉田秋光に師事した。戦前在京中は童画を好み、三越百貨店で毎年ひらかれる童宝展に出品した。1937年(昭和12年)9月の日中戦争に応召したのち、満州・中国で約600枚の戦線スケッチをのこした。戦後は郷里角館に帰り、高等学校での美術指導や創作活動にたずさわった。
一木 万寿三(いちき ますみ、戸籍上では「萬壽三」、1903… 一木 万寿三(いちき ますみ、戸籍上では「萬壽三」、1903年 - 1981年5月3日)は、洋画家。 北海道空知郡滝川村(現・北海道滝川市)で生まれ、少年時代に一家で江部乙村(現・滝川市江部乙町)に転居する。家業のりんご園を手伝いながら絵画の研究に励む。同じく江部乙村の近所に住んでいた岩橋英遠とも親しくなり、1926年(大正15年)(22歳)で上京し、本郷絵画研究所にて学ぶ。そこで岡田三郎助に師事し、安井會太郎らの影響を受けることになる。1929年(昭和4年)に帝展に初入選する。晩年は一水会の作家として自己の画風を誠実に貫く絵画活動を続けた。 1944年(昭和19年)には戦争により郷里の江部乙に疎開するが、江部乙の名産であるリンゴ園やそこに働く人々を明るく伸びやかな作風の作品を書き続けた。
畦地 梅太郎(あぜち うめたろう、1902年12月28日 -… 畦地 梅太郎(あぜち うめたろう、1902年12月28日 - 1999年4月12日)は、日本の版画家。平塚運一らに師事した。山岳風景を題材とした木版画作品を多数発表し、「山の版画家」として知られる。画文集の出版や装丁、挿画などの分野でも活躍した。愛媛県北宇和郡二名村(現・宇和島市三間町)出身。 1937年夏に軽井沢へ出かけ浅間山に魅せられ、山を制作の主題に定めて山の風景を描いた作品を多数発表した。戦争中の満州への単身赴任などを経て、第二次世界大戦後は「山男」シリーズを発表していく。右手親指のけが、大やけどの後は家族をテーマにした作品を多く制作した。 1902年12月28日、愛媛県北宇和郡二名村(現・宇和島市三間町)に生まれた。
猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう、1902年〈明治35年… 猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう、1902年〈明治35年〉12月14日 - 1993年〈平成5年〉5月17日)は、昭和期の洋画家。新制作協会創立会員。 「絵を描くには勇気がいる」とよく口にし、新しいものへ挑戦し続けた彼の画業は多くの人の心を捉えている。 丸亀市にある猪熊弦一郎現代美術館(設計:谷口吉生)には、猪熊の作品が常設展示されている。また、猪熊の死後、丸亀コミュニティバスにいのくまバスが登場した。建築家・丹下健三が設計した香川県庁舎の壁画は、猪熊の作である。
菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 193… 菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 1937年11月9日)は青森県東津軽郡油川村大浜(現在の青森市)出身の画家、喜劇作家。 本名は菊谷栄蔵。青森市の油屋菊谷永太郎の次男。 1915年青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)に入学、青森中時代から油絵を描き始める。1920年青森中卒業後、東京美術学校・慶應義塾大学部理財科の受験に失敗して故郷の青森大林区署(後の青森営林局)管理課で働いていたが、翌年退職して再び上京。日本大学法文学部文学科(芸術学)および川端画学校に学ぶ。 浅草六区に通ううちに榎本健一と知り合い、当初は美術スタッフとして協力していたが、次第に脚本にも関わるようになる。
山口 長男(やまぐち たけお、1902年11月23日 - 1… 山口 長男(やまぐち たけお、1902年11月23日 - 1983年4月27日)は、洋画家。日本の抽象絵画の先駆者である。武蔵野美術学園長を務めた。 京城府(現・韓国ソウル)出身。1921年に19歳で日本に来るまでを京城ですごした。 本郷洋画研究所で岡田三郎助に学び、20歳になった1922年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1927年、同校卒業と共に渡仏。フランスではパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、それに当時渡仏中だった佐伯祐三にも刺激を受ける。また、彫刻家のオシップ・ザッキンのアトリエにも出入りし、立体的な造形をも習得に努めた。戦後、二科展の再結成にあたり会員として参加し、1962年まで二科展1953年、日本アブストラクト・アート・クラブの創立に参加し、1954年に会員としてニューヨークでのアメリカ抽象美術展に出品。
上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年〈明治35年〉1… 上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年〈明治35年〉11月4日 - 2001年〈平成13年〉3月11日)は日本画家。花鳥画の近代化に貢献し、文化功労者となりさらに文化勲章を受章した。京都市立芸術大学教授。 本名は信太郎。母は近代美人画の大家、上村松園。未婚で松篁を出産した松園はその父について自ら語ることはなかったが、一部の書籍では松園の師の日本画家・鈴木松年が父であるとみなされている。松年が実の父であることは、松篁が著作中で明らかにしており、13歳のころに初めて松年を父と紹介されたとしている。 息子は同じく日本画家の上村淳之。 1902年(明治35年)、上村松園の長男として京都府京都市中京区四条堺町に生まれる。
山近 剛太郎(やまちか ごうたろう、1902年〈明治35年〉… 山近 剛太郎(やまちか ごうたろう、1902年〈明治35年〉9月28日 - 1990年〈平成2年〉)は、日本の炭鉱技術者、洋画家。自身が経験した炭鉱の採掘作業や鉱山事故を題材に、油彩や水彩で描いた記録画で知られる。 福岡県鞍手郡宮田町(現・宮若市)に産まれる。若いころから絵画に興味があり、中学校時代には画塾にも通っていた。九州帝国大学採鉱科卒業。 1926年(昭和元年)、貝島太助が社長を務める貝島炭鉱に入社し、炭鉱の採掘現場で技術指導や監督にあたった。後には貝島炭鉱の役員として1972年(昭和47年)まで炭坑に入り、特に炭鉱の防災体制の確立に貢献した。この間にも、坑内の風景をスケッチし、1947年(昭和22年)-1949年(昭和24年)頃には、福岡で画塾を主宰していた洋画家である、手島貢(創元会会員)の下で絵を学んでいた。
山里 永吉(やまざと えいきち 1902年8月18日 - 1… 山里 永吉(やまざと えいきち 1902年8月18日 - 1989年5月5日)は、沖縄の画家、作家。 沖縄県生まれ。日本美術学校中退。田河水泡、村山知義と交わる。『マヴォ』同人。1927年沖縄に帰り、脚本や新聞小説を執筆。戦後は琉球博物館長、琉球芸能連盟会長。脚本に「首里城明渡し」などがある。
中島 菜刀(なかじま さいとう、1902年8月16日 - 1… 中島 菜刀(なかじま さいとう、1902年8月16日 - 1955年7月19日)は、日本の画家。 中島菜刀は、明治35年(1902年)、鳥取県八頭郡賀茂村(現在の八頭町)にて村芝居の巡業一座の座長格の父と結髪担当の母の両親の元に生まれた。幼いころからの恵まれた画才から、郷里の人々の後援を得て京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)に学ぶ。苦学をしながらも卒業し、昭和4年(1929年)第16回日本美術院展に初入選を果たし、以降院展を主な舞台として活躍した。昭和16年(1941年)『樹海』が横山大観から激賞され、翌年『薫風梨園』が第29回院展で第三席(白寿賞・この年の絵画の部では最高位)を獲得し、その高い画力が認められる。
胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)… 胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)8月6日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、日本の洋画家である。本名は源市。 長野県松本市の生まれ。矢野橋村が設立した大阪美術学校に入学し、在学中の1928年(昭和3年)に自身の作品が帝展に初入選される。1929年(昭和4年)に卒業後は、斎藤与里の門人となった。1935年(昭和10年)には東光会の会員となり、1941年(昭和16年)及び翌1942年(昭和17年)には2年連続で新文展に出品され特選となる。 その後は大阪美術学校の後輩だった日本画家の融紅鸞と結婚し、1964年(昭和39年)には浪速芸術大学(現在の大阪芸術大学)の教授となり、会員だった東光会の理事長や大阪市立美術研究所の講師も務めた。
小堀 四郎(こぼり しろう、1902年(明治35年)7月20… 小堀 四郎(こぼり しろう、1902年(明治35年)7月20日 - 1998年(平成10年)8月9日)は、日本の油彩画家。愛知県名古屋市中区南呉服町生まれ。小堀遠州の子孫。
荒谷 直之介(あらたに なおのすけ、明治35年(1902年)… 荒谷 直之介(あらたに なおのすけ、明治35年(1902年)5月11日 - 平成6年(1994年)2月18日)は、日本の水彩画家。本名、直之助。[要出典]日展評議員、参与を勤めた。 水彩では困難とされていた人物表現にこだわった昭和を代表する水彩画家。 明治35年(1902年)5月11日、富山県富山市南田町に父鶴次郎、母コトの次男として[要出典]生まれる。 早くから画家を志し、赤城泰舒に師事する。その後、葵橋洋画研究所で黒田清輝らに学ぶ。 昭和11年(1936年)に日本水彩画会の第一賞を受賞、昭和15年(1940年)には昭和洋画奨励賞を受賞し、水彩画家としての頭角を現す。1940年には小堀進や春日部たすくらとともに「水彩連盟」を結成する。
安宅 乕雄(あたか とらお、1902年〈明治35年〉3月31… 安宅 乕雄(あたか とらお、1902年〈明治35年〉3月31日 - 1989年〈平成元年〉11月12日)は、日本の洋画家。 新潟県新潟市東堀通9番町(現 新潟市中央区東堀通9番町)の資産家・安宅安太郎の次男として出生。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を卒業、1922年(大正11年)に独学で画家を志す。 1926年(大正15年)の第7回帝展で『風景』が初入選、1928年(昭和3年)に義兄(姉の夫)の大久保賢治郎の支援によりヨーロッパに渡って各国の美術を研究、1931年(昭和6年)に帰国。 1936年(昭和11年)に二科会会友になるが、1939年(昭和14年)に二科会を退会、1940年(昭和15年)に一水会会員になり、1946年(昭和21年)に一水会委員に就任、1949年(昭和24年)に一水会運営委員に就任。
梁川 剛一(やながわ ごういち、1902年(明治35年)3月… 梁川 剛一(やながわ ごういち、1902年(明治35年)3月30日 - 1986年(昭和61年)4月26日)は、北海道函館出身の画家・彫刻家。東京美術学校を首席で卒業、戦前から少年倶楽部をはじめとする児童雑誌や絵本などの挿絵画家として活躍。彫刻家としても、函館市の高田屋嘉兵衛像や長崎市グラバー園の三浦環(蝶々夫人)像などの作品を制作した。また、日本出版美術家連盟の設立にも加わった。 1902年、北海道函館区で梁川亀太郎、ヨコの長男として生まれ、生後すぐ亀太郎の兄・鶴松の養子となる。14歳のとき父親の転勤に伴い札幌へ移り、北海中学に入学する。北海中学では応援団に入ったほか、「団栗(どんぐり)会」という美術部で本郷新らと絵を描いていた。
冨澤 有爲男(とみさわ/とみざわ ういお、1902年3月29… 冨澤 有爲男(とみさわ/とみざわ ういお、1902年3月29日 - 1970年1月15日)は、日本の作家、画家。 大分県大分市生まれ。父・冨澤久蔵は中学校の英語教師をしており、転勤の都合により全国に移り住む。やがて幼年期より名古屋市で過ごす。旧制東海中学校卒業。東京美術学校に進学して絵画だけでなく文学についても学ぶが1年で中退し、漫画記者として新愛知新聞(現在の中日新聞)に入社する。 1921年より2年連続で帝展に入選し、1927年にはフランスへ1年間留学し絵画を学んだが、その側で作家としての活動も行い1925年に同人誌『鷲の巣』を創刊している。1930年に結婚し、東京市牛込区天神町(当時)へ移住すると、次第に作家としての活躍が認められるようになり、1936年8月に発表した『地中海』で翌1937年2月に芥川賞を受賞した。
徳力 富吉郎(とくりき とみきちろう、明治35年(1902年… 徳力 富吉郎(とくりき とみきちろう、明治35年(1902年)3月22日 - 平成12年(2000年)7月1日)は明治時代末期から平成時代にかけての版画家。 京都市の西本願寺絵所を預かる家系の12代目として生まれる。京都市立美術工芸学校に学んだ後、大正12年(1923年)に京都市立絵画専門学校を首席で卒業する。卒業後、土田麦僊に師事した。昭和3年(1928年)に国画創作家協会に日本画を出品、樗牛賞を受賞する。翌昭和4年(1929年)には麻田弁次、浅野竹二、亀井藤兵衛らとともに「京都創作版画協会」を創立した他、国画賞を受賞している。主に京都で多くの創作活動をし、仏教版画の研究を行った。この頃から富吉郎は木版を始めており、平塚運一や棟方志功らと同人誌『版』を創刊する。
鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 19… 鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 1972年6月11日)は、日本の洋画家。神奈川県中郡須馬村(現在の平塚市)生まれ。本名は正夫。 茶色を基調とした渋い色調の絵具を多用し、土壁のような絵肌の単純化された構図の作品を数多く制作した。 砂を混ぜた渋い色調の絵具を厚く盛り上げたのち、それをノミで削り取る技法を好んで用い、単純な構成とざらざらとした絵肌の重厚な質感により、雅趣に富む味わいと気品を湛える画風を確立した。この技法には、鳥海がたびたびアジア諸国へ旅行した際に見た土が影響しているとも考えられる。また彼の茶を基調にした作品は、日本の油彩画の一典型とも見なされている。
伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月2… 伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月23日 - 昭和45年(1970年)3月27日)は、鳥取県鳥取市出身の洋画家、書家。人類学者・霊長類学者の伊谷純一郎は息子。 伊谷平蔵の二男として、鳥取市川端に生まれる。 大正13年(1924年)京都高等工芸(現京都工芸繊維大学)を卒業後、同校研究室と関西美術院で洋画の研究に専念し、そのころ黒田重太郎に師事した。 大正14年(1925年)春陽会、翌年二科展に入選し、以後、昭和18年(1943年)の二科展解散まで出品を続け、その間に二科会員となった。 昭和14年(1939年)に従軍画家として北支戦線に派遣され、翌年から華北交通嘱託として計6回中国を訪問。
丹治 伊三郎(たんじ いさぶろう、1902年1月7日 - 1… 丹治 伊三郎(たんじ いさぶろう、1902年1月7日 - 1981年)は、日本の画家。洋画家。 印象派の技巧を取り入れた画風を確立、主に関西画壇で活動した。 1902年(明治35年)大阪府堺市に生まれる。旧制堺中学校(現大阪府立三国ヶ丘高等学校)を卒業後、東京美術学校洋画科に入学して岡田三郎助に師事。1926年(大正15年)同校を卒業、一陽会に入会して創作活動を続ける。後に神戸山手女子短期大学教授。
山本 茂斗萌(やまもと もとめ、1902年 - 1985年)… 山本 茂斗萌(やまもと もとめ、1902年 - 1985年)は東京生れの日本画家。本名は求。 1902年東京生まれ。東京美術学校日本画本科次席卒。1928年より旧制兵庫県立柏原中学校(現兵庫県立柏原高等学校)にて美術教師として勤務。1962年に定年退職するまで一度も異動がなかった。1935年、日本画家堂本印象の画塾東丘社に入塾。1936年、34歳の時に「小憩」で日展初入選。丹波市内に作品を多く残し、兵庫県立柏原高等学校、兵庫県立氷上西高等学校の校章デザインも手がけた。堂本印象のほか、三木翠山にも師事した。1985年逝去。
四方田 草炎(よもだ そうえん、1902年 - 1981年)… 四方田 草炎(よもだ そうえん、1902年 - 1981年)は、埼玉県児玉郡北泉村四方田(現本庄市北堀)出身の昭和期の画家。本名青次郎。北泉村の旧家・四方田家の次男として生まれ、生前は著名とはなれなかったが、死後、「孤高の素描画家」としてスポットを浴びる。浦和画家の一人。 高等小学校卒業後に上京し、神田の書店に勤める。そのかたわら川端画学校に学び、日本画家を志す。この時期、川端龍子を師と仰いだ。また、浦和市の別所沼畔に居住し須田剋太ら浦和画家と交流した。 1928年(昭和3年)に至り、龍子主宰の画塾・御形塾に進む。青次郎の雅号は、1930年(昭和5年)に第二回青龍展に龍子が出品した作品名『草炎』から与えられた。
辻 葦夫(つじ あしお、1902年(明治35年) - 198… 辻 葦夫(つじ あしお、1902年(明治35年) - 1980年(昭和55年)11月13日)は、日本の洋画家。「葦夫」は筆名で、本名は芳雄。 山梨県甲府市に生まれる。山梨県立甲府中学校(山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、上京して慶應義塾大学に入学する。大学時代から油絵をはじめ、1929年(昭和4年)には福沢一郎に師事する。翌年には地元で米倉壽仁らとシュルレアリスム絵画グループである「六人社」を結成する。また、1937年(昭和12年)に設立された山梨美術協会の結成にも参加し、1941年(昭和16年)・翌42年(昭和17年)には副委員長を務める。 1944年(昭和19年)には独立美術協会で《秋》、《静物》が入選し、同年にはサロン・ド・ジュワン会員となる。
野々内 保太郎(ののうち やすたろう、1902年 - 198… 野々内 保太郎(ののうち やすたろう、1902年 - 1985年12月5日)は、日本画家。 明治35年(1902年)島根県八束郡東出雲町(現・松江市)で生を受け、西山翠嶂に師事し京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)を卒業。「祥雲」という号を名乗っていたが、1932年から本名の保太郎へ改め、その翌年の1933年第13回帝展に「みやまの春」が初入選。以来、帝展・文展・日展に28回の入選を重ねる。1959年に皆川千恵子らと共に「牧人社」結成。画風は、細密かつ華麗な花鳥画を得意としていた。息子の、野々内良樹、井上稔、野々内宏の3人も絵の道に進み日本画家として活躍している。 この項目は、日本の文化に関連した書きかけの項目です。
鄭 海駿(チョン・ヘジュン、朝鮮語: 정해준、1902年また… 鄭 海駿(チョン・ヘジュン、朝鮮語: 정해준、1902年または1903年12月17日 - 1993年5月4日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、政治家、画家。制憲韓国国会議員。 本貫は河東鄭氏(朝鮮語版)。号は元斉または元斎。 全羅北道(現・忠清南道)錦山郡出身。錦山公立普通学校、錦山簡易公立農業学校、京城普成高等普通学校、早稲田大学政経科、東京文学院(現・中央大学)または東京大学大学院卒。第3次共産党事件により1年6ヶ月間服役し、1931年に治安維持法違反により8ヶ月間服役した。朝鮮日報社学芸部長、忠南モダス会社支配人、大韓独立促成国民会文芸部長・組織部長・文教部長・全国大会議長、民族代表外交後援会宣伝部次長、民族統一総本部事務局員、独立戦取決起大会宣伝部長、工業新聞編集顧問、制憲国会財政経済委員長・交通逓信委員長、韓米経済協定韓国側代表、韓国重石顧問を務めた。
関谷 陽(せきや たかし、1902年(明治35年)- 198… 関谷 陽(せきや たかし、1902年(明治35年)- 1988年(昭和63年)2月6日)は、昭和時代の洋画家。大正-昭和時代に活躍した日本画家の関谷雲崖の長男。 1902年(明治35年)栃木県那須郡両郷村富貴田(現:栃木県大田原市河原)に生まれる。東京美術学校西洋画科卒業。1930年代従軍画家として中国へ赴く。妻は同じく画家で従兄弟である関谷富貴(せきや ふき、1903-1969)。晩年まで東京都世田谷区松原に暮らす。二科会に属した。 陽は「たかし」と読むが、作品の署名は「YO」としていた。
島戸 繁(しまと しげる、1902年〈明治35年〉 - 19… 島戸 繁(しまと しげる、1902年〈明治35年〉 - 1998年〈平成10年〉3月14日)は、日本の洋画家、教育者。位階は従四位。勲等は勲三等。静岡女子大学名誉教授。 滋賀県立彦根高等女学校教諭、彦根工業専門学校助教授、滋賀県立短期大学教授、静岡女子短期大学教授などを歴任した。 岐阜県出身。滋賀県の彦根城城下町にアトリエを構え、城や琵琶湖の風景、人々の生活などを描いた。また、フランス・パリに滞在し描くなど、当時かなり珍しかった海外での先進的な芸術活動も行った。西洋美術の模倣ではない独自の洋画を追求し、関西洋画壇で活躍した。作品に対しては複数の受賞歴があり、当人も勲三等旭日中綬章を受章した。彦根を代表する和菓子の老舗、いと重の代表銘菓「埋れ木」のパッケージに描かれている彦根城の絵や、多賀大社御田植祭のうちわ絵など、墨絵や水彩画も多く描いている。
福宿 光雄(ふすき みつお、1901年12月28日 - 19… 福宿 光雄(ふすき みつお、1901年12月28日 - 1970年)は、鹿児島県出身の日本画家。浦和画家のひとり。 日本画は川合玉堂に学び、自らの雅号を一穂と号した。26年間埼玉県立浦和高等学校(浦和中学時代から)に勤務し、以後浦和高校教頭、春日部女子高校校長、久喜高校校長も務め、教育功労者として表彰された。 のちに浦和画家と呼ばれることとなる多くの画家を指導したことで知られており、日展理事長や日本芸術院会員である高田誠、人間国宝の増田三男をはじめ、渡辺武夫、金子徳衛、川村親光、小松崎邦雄、尾上一男、金子仁三郎、小川游、三尾彰藍などを指導した。松岡映丘にも師事し大和画の研究を行い、新興大和画展に発表した。
中尾 蔦一(なかお つたいち、1901年〈明治34年〉12月… 中尾 蔦一(なかお つたいち、1901年〈明治34年〉12月24日 - 1937年〈昭和12年〉9月16日)は、日本の大正から昭和にかけての日本画家。拝石、光林などと号していた。フォークシンガーの高田渡の叔父。 佐賀県鹿島市に生まれた中尾は、東京美術学校日本画科に進学し、日本画家としてデビューした。 根津の下宿に住んでいたとき、隣の部屋に住む高田豊(高田渡の父)と出会ったことをきっかけに、豊の妹と結婚する。 帰郷すると鹿島高等女学校で教師をしながら作品をつくっていたが、病のため35歳で永眠した。 2012年には佐賀県立博物館で、作品やスケッチブック、貴重な資料などが展示された。2016年には佐賀大学美術館で開催された、「佐賀の美術教師たち」ー地方画壇の成立と美術教育者 展で展示される。
荻須 高徳(おぎす たかのり、仏: Takanori Ogu… 荻須 高徳(おぎす たかのり、仏: Takanori Oguiss、1901年11月30日 - 1986年10月14日)は、大正・昭和期の洋画家。愛知県中島郡井長谷村(現在の稲沢市井堀高見町)出身。新制作協会会員。愛知県稲沢市には顕彰美術館として稲沢市荻須記念美術館がある。 1901年(明治34年)11月30日、愛知県中島郡千代田村井堀(現在の稲沢市井堀町)に生まれる。父福次郎、母こうも2男2女の次男。父は代々地主を継ぎ、書画骨董を好む。1908年(明治41年)4月、千代田尋常小学校(現・稲沢市立千代田小学校)に入学、生家に近い井堀分校に通う。すでに絵を描くことに熱中する。1912年(明治45年)、5年生になって本校に通うようになるが、2キロの通学距離は生来の病身に負担が大きく欠席して家で絵を描く日が多くなる。
小川 マリ(おがわ まり、1901年10月13日 - 200… 小川 マリ(おがわ まり、1901年10月13日 - 2006年5月8日)は、日本の洋画家。日本の女性洋画家の草分け。本名は三雲 マリ。夫は三雲祥之助。 北海道札幌市出身。父は北海道で最初の百貨店である五番館を設立した小川二郎。兄は北海道開発局2代目局長を務めた小川譲二。庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)、東京女子大学卒業。大学職員として勤務しながら、武蔵野の風景に魅せられ、独学で洋画を始める。1932年に独立美術協会展に初入選し、1938年頃から画業に専念。 太平洋戦争中は札幌に疎開し、1945年に三雲祥之助と結婚。夫婦で全道美術協会(全道展)創立に参画。札幌洋画研究所の講師も夫婦で務めた。
篁 牛人(たかむら ぎゅうじん、明治34年(1901年)10… 篁 牛人(たかむら ぎゅうじん、明治34年(1901年)10月10日 - 昭和59年(1984年)2月25日)は、昭和時代の日本画家。幼名は光磨。本名は浄信。 1901年、富山県婦負郡桜谷村大字石坂村(現:富山県富山市石坂)に生まれる。1921年、富山県立工芸学校(現:富山県立高岡工芸高等学校)を卒業、同校卒業生で組織する富山工芸会に参加。工芸作品の図案を制作し商工省工芸展などで中島杢堂、安川慶一らと受賞を重ねるが、1934年頃からパブロ・ピカソ、藤田嗣治、小杉放庵などの感化を受け、1940年頃より絵画に専念し始める。太平洋戦争末期の1944年、応召して東南アジアに赴き転戦。復員後の1947年頃から、独自の渇筆技法で制作を行い、主題を東洋思想に求めた。
熊谷 登久平(くまがい とくへい、本名:熊谷 徳兵衛、190… 熊谷 登久平(くまがい とくへい、本名:熊谷 徳兵衛、1901年10月2日 - 1968年11月24日)は、日本の洋画家、歌人。岩手県出身。 愛称は「とくさん」「熊公」「十九平/とくべえ」。 1901年(明治34年)10月2日、岩手県東磐井郡千厩町(現・一関市)出身。 1925年(大正14年)、中央大学商学部を卒業。学生時代に川端画学校に入り、藤島武二、富永勝重の指導を受ける。1924年(大正13年)修了。 1926年(大正15年)ごろ、長谷川利行を識り、親交を結ぶ。 1927年(昭和2年)、長谷川利行と二人展(反調和会展)を上野の山、言問通り沿いの額縁屋彩美堂と大地堂(木秋社)を会場として開催(企画段階では松尾恒夫(詳細不明、戦前の白日会展と1930年協会入選者に名がある)を含む三人展)。
小熊 秀雄(おぐま ひでお、1901年9月9日 - 1940… 小熊 秀雄(おぐま ひでお、1901年9月9日 - 1940年11月20日)は、日本の詩人、小説家、漫画原作者、画家である。筆名に、小熊 愁吉(おぐま しゅうきち)、黒珊瑚(くろさんご)、旭 太郎(あさひ たろう)などがある。 1901年(明治34年)9月9日、北海道小樽市稲穂町に生まれる。幼少期を稚内市・秋田・樺太で過ごし、泊居高等小学校を卒業。養鶏場の番人など様々な雑務作業に従事した後、1922年より旭川新聞社で新聞記者となる。この頃から詩作を始め、1923年、旭川新聞に最初の詩作『奪われた魂』などが掲載される。この頃よりペンネームを小熊愁吉(おぐま しゅうきち)や黒珊瑚(くろ さんご)の筆名を使用し、作品や取材記事を書いた。
山崎 清(やまざき きよし、1901年6月30日 - 198… 山崎 清(やまざき きよし、1901年6月30日 - 1985年2月22日)は、日本の歯科医、画家、顔の研究家。 埼玉県越谷市生まれ。春日部中学校を経て、1923年に日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒業。 1920年に風景画で二科展に入選。1924年から1930年にかけてフランスで歯科と絵画を学ぶ。 1937年に「日本人下顎骨の増齡殊に齒牙発生脱落に伴ふ形態変化の研究」で新潟医科大学より医学博士を授与される。 1931年日本歯科医学専門学校講師、助教授、教授、外科部長、1964年鶴見大学教授、1972年定年、名誉教授。
野口 謙蔵(のぐち けんぞう、1901年(明治34年)6月1… 野口 謙蔵(のぐち けんぞう、1901年(明治34年)6月17日 - 1944年(昭和19年)7月5日)は、日本の洋画家。滋賀県出身。 1901年(明治34年)6月17日、野口謙蔵は滋賀県蒲生郡桜川村綺田(現東近江市綺田町)で造酒業を営む裕福な家の次男として生まれた。父は桜川村初代村長を勤めた野口正寛、母は近在の素封家岡崎銀兵衛の娘で屋恵と言った。祖父野口正忠は美術愛好家で漢詩家、柿村と号し滋賀・京都の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は正忠との交遊から長く野口家に居候をしていた。伯父(野口正忠の長男)野口正章の妻野口小蘋は明治時代の人気女流画家であり、謙蔵は一流の画家・美術品に囲まれて育ち、幼い頃から絵を描くことが好きだった。
岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年… 岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年〈明治34年〉6月8日 - 1974年〈昭和49年〉2月19日)は、日本の画家、美術考証家。連載小説の挿絵を多く手がけ、数多くの雑誌・書籍の表紙で「専太郎張り」と呼ばれる画風の美人画を発表した。昭和の挿絵の第一人者として知られる。妹は女優の湊明子。 1901年(明治34年)6月8日、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれる。生家は印刷業で、版木の名人と言われた父方のおじや絵双紙屋のおばがいるという環境だった。幼い頃から絵が好きで画才を示し、妹の湊明子の回想では、彼女が尋常小学校に入学したときに講堂に兄の絵が飾られていたという。