小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 19… 小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 1996年10月4日)は、日本の映画監督。 北海道小樽区(現・小樽市)に会社員の息子として生まれる。女優の田中絹代は又従弟に当たる。旧制小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)を経て早稲田大学文学部哲学科に進学。早大では東洋美術を専攻し、会津八一に師事する。在学中に田中絹代に誘われて映画『桑の實は紅い』(清水宏監督)のロケ現場に1ヶ月参加する。1941年(昭和16年)早稲田大学卒業。卒業論文は「室生寺建立年代の研究」。 同年に松竹大船撮影所助監督部に入社する。同期には野村芳太郎がいた。入社試験に際しては、親しい間柄であった田中絹代に紹介を頼んだが、「映画界は実力がなければ通用しない」と諭され、田中の縁者であることを隠し通したという。
酒井 辰雄(さかい たつお、1916年2月13日 - 199… 酒井 辰雄(さかい たつお、1916年2月13日 - 1992年1月8日)は、日本の映画監督。 東京府東京市芝区白金三光町(現・東京都港区)出身。日本大学第三中学校を経て[要出典]、1939年日本大学専門部藝術科(現・日本大学芸術学部)を卒業した。 新劇の演出家・鈴木英輔の紹介で市川猿之助主宰の春秋座演出部に入る予定だったが話が頓挫し[要出典]、1939年新興キネマ東京撮影所監督部に入社する。1940年に退社後、溝口健二に師事して松竹京都撮影所に入り、『浪花女』以来、溝口の助監督を務め、溝口家に寄宿して内弟子生活をする。[要出典]1953年監督に昇進、主に時代劇を監督し、1964年に松竹を退社。
野田 真吉(のだ しんきち、1916年1月28日 - 199… 野田 真吉(のだ しんきち、1916年1月28日 - 1993年11月22日)は、日本のドキュメンタリー映画監督・評論家、詩人。本名は、亘 真吉(わたり しんきち)。野田 眞吉表記もある。 息子に、映像民俗学者で駒沢女子大学教授の亘純吉、キャメラマン・映画プロデューサー・オフィスエムエイピー(野田の映像作品のビデオ等を販売している)代表の亘真幸(亘眞幸)。息子たちは、野田の制作映画にスタッフとして参加もしている。 父は南宗派の画家の野田青石。宇宙機エンジニアの野田篤司は青石の曾孫であり、遠縁にあたる。 1916年(大正5年)1月28日生まれ。愛媛県八幡浜市矢野町出身。 1937年、早稲田大学文学部仏文科卒業。
浅野 辰雄(あさの たつお、1916年1月1日 - 2006… 浅野 辰雄(あさの たつお、1916年1月1日 - 2006年9月15日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。ドキュメンタリー映画『号笛なりやまず』の監督であり、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『アナタハン』ではスタンバーグと脚本を共同執筆したことでも知られる。日本記録映画作家協会委員、「世田谷を記録する会」会長を歴任した。 日本映画データベース等で混同されている大映の製作者・浅野辰雄(1904年 - 没年不詳)は、別人である。 1916年(大正5年)1月1日、栃木県宇都宮市に生まれる。北海道函館市の旧制・北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)を卒業して上京、旧制・東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)機械科に進学するも、在学中に『文芸街』『ズドン』等の文学運動に関係しており、1936年(昭和11年)7月10日、講座派の一斉検挙であるコム・アカデミー事件に関連し、同誌関係者として浅野次郎、中島正伍らとともに検挙されている。
市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一、1915年(大正… 市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一、1915年(大正4年)11月20日 - 2008年(平成20年)2月13日)は、日本の映画監督。 娯楽映画からドキュメンタリー、さらにはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組んだ。主な監督映画に『ビルマの竪琴』『炎上』『おとうと』『鍵』『東京オリンピック』『股旅』の他、『犬神家の一族』をはじめとする金田一耕助シリーズなどがあり、主なテレビドラマの演出作品に『木枯し紋次郎』がある。 1915年(大正4年)11月20日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)に生まれる。呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれたが、父親が急死し、後に呉服問屋も倒産したため、4歳から次女の嫁ぎ先である大阪市西区九条に母親と共に移り、母と次女、次女の娘と一緒に幼少生活を送る。
筧 正典(かけひ まさのり、1915年10月12日 - 19… 筧 正典(かけひ まさのり、1915年10月12日 - 1993年1月14日)は、日本の映画監督、助監督。 長野県下諏訪町出身。旧制諏訪中学(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、京都帝国大学法学部卒業。1940年東宝入社、東宝映画(社長シリーズ)やウルトラシリーズを監督。1968年フリーランスとなる。仕事には厳格な人物であったとされる。 1989年、勲四等瑞宝章受章。
木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 20… 木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 2004年11月7日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、映画美術家、劇作家、演出家、俳優、彫刻家。本名は木俣 三郎(きまた さぶろう)、舞台俳優・映画美術家としては衣 恭介(ころも きょうすけ)、時代劇俳優としては木南 兵介(きなみ へいすけ)、現代劇俳優として鬼塚 大吉(おにつか だいきち)等、多くの別名をもつ。プロダクション鷹・日東テレビ映画の創業者・元代表取締役、ムービーブラザースの共同代表を歴任した。高見順の短篇小説『大部屋の友』の主人公モデル、あるいは世田谷区・豪徳寺の「無名戦士慰霊記念碑」のレリーフ彫刻を手がけた彫塑作家としても知られる。
木元 健太(きもと けんた、1915年〈大正4年〉1月15日… 木元 健太(きもと けんた、1915年〈大正4年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名は木元 一郎(きもと いちろう)。館林 一郎(たてばやし いちろう)の名で脚本を提供したことがある。 1915年(大正4年)1月15日、群馬県邑楽郡館林町(現在の同県館林市)に生まれる。 明治大学文芸科に進学し、在学中は映画研究会に所属した。1936年(昭和11年)に明治大学を卒業。1937年(昭和12年)日活多摩川撮影所(のちの大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所)助監督部に入社、内田吐夢(1936年 - 1940年在籍)、伊賀山正光(当時は正徳、1934年 - 1942年在籍)、春原政久(1934年 - 1941年在籍)、千葉泰樹(1934年 - 1939年在籍)、富岡捷(1938年 - 1939年在籍)らに師事した。
大橋 史典(おおはし ふみのり、1915年〈大正4年〉1月1… 大橋 史典(おおはし ふみのり、1915年〈大正4年〉1月10日 - 1989年〈平成元年〉9月20日)は、日本の俳優、特殊技術専門の造形家、スーツアクター、特技監督、映画監督であり、日本特撮株式会社(日本特撮K.K.)の元代表取締役。本名は大橋 幸利(おおはし ゆきとし)。旧芸名は大橋 行利(読み同じ)など。 1915年(大正4年)1月10日、愛媛県に生まれる。東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻科を卒業。 1935年(昭和10年)、松竹蒲田撮影所の演出課に入り、映画俳優、小津安二郎、島津保次郎の助監督としてキャリアをスタートさせ、キャメラマンも経験した。その後、末期の市川右太衛門プロダクションに関わる。
志村 敏夫(しむら としお、1914年10月13日 - 19… 志村 敏夫(しむら としお、1914年10月13日 - 1980年7月7日)は、日本の脚本家、映画監督である。 1914年(大正3年)10月13日、静岡県志太郡島田町(現在の同県島田市)に生まれる。 1936年(昭和11年)、22歳になるころ、高田稔の高田プロダクションと新興キネマが共同製作した牛原虚彦監督の『五々の春』に脚本参加する。1940年(昭和15年)には、東宝映画に所属し、斎藤寅次郎監督作の脚本を書いた。 第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、新東宝設立に参加、萩原遼監督『大江戸の鬼』でチーフ助監督を務める。1948年(昭和23年)、同社と竹井プロダクションの共同製作作品『群狼』で監督としてデビューする。
長谷部 慶治(はせべ けいじ、1914年10月8日 - 没年… 長谷部 慶治(はせべ けいじ、1914年10月8日 - 没年不詳)は、山形県酒田市出身の脚本家、映画監督。 別名義に長谷部慶次がある。ただし、録音技師の「長谷部 慶治」は当記事人物ではない、同姓同名の別人である。 1914年10月8日、山形県酒田市に生まれる。 1945年製作の『娘道成寺』で脚本を担当したが、本作は劇場未公開となった。 次作となった1953年7月28日公開の『明日はどっちだ』では監督を担当し、以後監督と脚本で映画やテレビ作品の多くを手掛けた。 1963年11月16日公開で今村昌平と共同脚本を担当した『にっぽん昆虫記』が1963年度第14回ブルーリボン賞を受賞するなど、受賞歴も数多い。
宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年〈大正3年〉9月27… 宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年〈大正3年〉9月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月9日)は、日本の俳優、演出家、映画監督。本名:寺尾 信夫(てらお のぶお)。 宇野は第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優の1人であり、滝沢修らと劇団民藝を創設した。飄々とした風貌と軽妙な演技を持ち味とし、『ゴドーを待ちながら』『夕鶴』などの舞台に出演。演出家としても多くの作品を残しており、リアリズムを基調とした近代的な芸を追求した。映画・テレビでも活躍し、主な映画出演作に『愛妻物語』『第五福竜丸』『金環蝕』など。映画監督として4本の作品も発表している。宇野重吉の芸名は、中野重治と鈴木三重吉に由来している。
佐伯 清(さえき きよし、1914年9月19日 - 2002… 佐伯 清(さえき きよし、1914年9月19日 - 2002年7月16日)は、愛媛県松山市生まれの映画監督である。代表作は昭和残侠伝シリーズ。 愛媛県立松山中学校卒業後に、同郷の伊丹万作を頼り、片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクションに入る。1935年(昭和10年)、『戦国奇譚 気まぐれ冠者』で初めて助監督のクレジットが入る。同期に助監督として活躍した市川崑とは兄弟分の関係で弟のように可愛がっていたという。日活太秦撮影所、新興キネマを経て東宝映画へ移籍した。 1945年(昭和20年)1月、榎本健一 の『天晴れ一心太助』で監督デビュー。東宝争議をきっかけに新東宝へ、1952年(昭和27年)に東映へ。主に東映京都撮影所で時代劇を撮るが、1958年(昭和33年)以降は東映東京撮影所での現代劇が中心となる。
本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - … 本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - 1977年5月21日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家である。独立し、映画監督を兼ねるようになってからの筆名に岸本 恵一(きしもと けいいち)、高木 丈夫(たかぎ たけお)、藤本 潤三(ふじもと じゅんぞう)、藤本 潤二 (ふじもと じゅんじ)等がある。
田坂 勝彦(たさか かつひこ、1914年5月28日 - 19… 田坂 勝彦(たさか かつひこ、1914年5月28日 - 1979年9月20日)は、日本の映画監督。広島県豊田郡沼田東村(三原市沼田東町)出身。兄は映画監督の田坂具隆。 尾道中学校(現広島県立尾道北高等学校)卒業後、百貨店勤務を経て、1937年に『明治一代女』のヒットで日活多摩川撮影所へ復帰した兄・具隆を追うように、日活京都撮影所監督部に入る。1942年に大映に移籍し、1952年に長谷川一夫主演の「勘太郎月夜唄」で監督デビュー。文芸作品を得意としていた兄とは違い、娯楽時代劇を多く撮った。 1964年の「夕日と拳銃」からテレビドラマの演出を手がけ、1965年に大映を退社。中小企業の経営の傍ら、1976年まで「銭形平次」「大岡越前」「水戸黄門」「伝七捕物帖(中村梅之助版)」など、テレビ時代劇の監督ローテーションに入っていた。
杉江 敏男(すぎえ としお、1913年9月24日 - 199… 杉江 敏男(すぎえ としお、1913年9月24日 - 1996年10月10日)は、日本の映画監督。 静岡県静岡市(現静岡市清水区)出身。静岡県立静岡中学校卒業。早稲田大学卒業後、1937年にP.C.L(東宝の前身)に入社。山本嘉次郎、豊田四郎、島津保次郎、成瀬巳喜男、黒澤明らの助監督を務め、1950年、『東京の門』で監督に昇進する。以降、『その人の名は云えない』『忘却の花びら』などのロマンスもの、『ジャンケン娘』『お姐ちゃんシリーズ』『若大将シリーズ』などの青春映画、『密輸船』などのアクション映画、『社長シリーズ』やクレージーキャッツ主演のコメディと、多方面に撮り分ける監督として東宝を支えた。公開ベースで見ても、1955年6本、1956年7本、1957年5本、1958年4本、1959年4本、1960年5本、1961年6本・・・と、邦画界の量産時代に、休む間もなく次から次へと会社から回ってくる企画を撮り続け、20年満たない期間に68本もの監督作品を残した。
中村 登(なかむら のぼる、1913年8月4日 - 1981… 中村 登(なかむら のぼる、1913年8月4日 - 1981年5月20日)は、東京府東京市下谷区上根岸(現東京都台東区根岸)出身の映画監督。 歌舞伎作者榎本虎彦の次男として誕生。父と死別後、母は清元の家元と再婚、花柳界に育つ。1936年に東京帝国大学文学部英文科を卒業後、松竹蒲田から移転し間もない松竹大船撮影所(第1期)に助監督として入社。斎藤寅次郎、島津保次郎、吉村公三郎に師事。1941年に文化映画『生活とリズム』で監督デビュー。戦後、オールスター映画『我が家は楽し』(1951年)が出世作となる。 1960年代に入り、『紀ノ川』などの文芸大作に手腕を見せ、松竹大船を支える巨匠として活躍した。『古都』、『智恵子抄』で2度のアカデミー外国語映画賞にノミネートされた。
西村 元男(にしむら もとお、1913年7月15日 - 19… 西村 元男(にしむら もとお、1913年7月15日 - 1998年2月7日)は、日本の映画監督、脚本家。主にコメディ映画、ミュージカル映画、ドキュメンタリー映画を監督した。 日本大学芸術学部卒業(6期生)。その後、大映株式会社入社。 終戦後、大映に復帰。助監督から監督となり、1963年の退職まで多数の映画に携わる。 独立して映像編集、制作会社を立ち上げるも、1969年に解散。 1998年、肺ガンにより死去。 死後、2002年、企画した『陽はまた昇る』が西田敏行主演で東映より映画化された。 movie walkerplus 西村 元男 日本映画監督協会会員名鑑 西村元男 文化庁 日本映画情報システム 西村元男 資料データベース|東宝WEB SITE この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。
武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元… 武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元年〉12月10日 - 1988年〈昭和63年〉7月26日)は、大阪市出身の日本の演劇評論家、演出家、映画監督。役者の型や口伝に影響されない狂言作者の意図に忠実な武智歌舞伎を世に問うたことで知られる。歌舞伎のみならず、能や文楽、オペラ、舞踏、映画の演出も手がけ、わいせつ図画公然陳列罪で起訴された「黒い雪裁判」の被告人の一人としても知られる。本名ははじめ武智 鐡二、のち西村 鐡二(にしむら てつじ)、のち川口 鐡二(かわぐち てつじ)。 日本演劇学会、伝統芸術の会、日本文芸家協会、日本オペラ協会、日本演劇協会、各会員。 1912年、大阪市梅田に生まれる。
木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12… 木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12月5日 - 1998年12月30日)は、日本の映画監督、脚本家。本名は同じ(旧名:正吉)。日本映画の黄金期を築いた一人で、抒情的な作風で知られ、数多くの名作・話題作を生み出した。弟は作曲家の木下忠司、妹は脚本家の楠田芳子。監督としての映画の名前の表記は1960年代には「恵介」が混在している。
佐伯 幸三(さえき こうぞう、1912年(大正元年)12月4… 佐伯 幸三(さえき こうぞう、1912年(大正元年)12月4日 - 1972年(昭和47年)12月27日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画の時代からキャリアを持つ。 1912年(大正元年)12月4日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に生まれる。 旧制・早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)を中途退学した後に、内外通信社、博報堂に勤める。 映画界での最初のキャリアは東京・巣鴨に撮影所を持つ大都映画で、1934年(昭和9年)、同社のオーナーの河合徳三郎の原作を脚色し、中島宝三が監督したサイレント映画『名君道中記』で脚本家としてデビューした。1934年(昭和10年)、大都映画に助監督として入社。
丸山 誠治(まるやま せいじ、1912年6月15日 - 19… 丸山 誠治(まるやま せいじ、1912年6月15日 - 1989年11月22日)は日本の映画監督。男性映画を得意とする一方、司葉子のデビュー作を撮った監督としても知られる。代表作に『男ありて』『太平洋奇跡の作戦 キスカ』『日本海大海戦』など。
谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月… 谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月19日 - 2007年〈平成19年〉10月29日)は、日本の映画監督。妻は女優の八千草薫。東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区)出身。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)卒業。早稲田大学文学部英文科在学中は、千田是也、東野英治郎と演劇活動を行い[要出典]左翼系新劇の演出家を目指すも弾圧を受けて[要出典]1930年に中退。1933年に助監督としてP.C.L.(東宝の前身)に入社する。山本嘉次郎、島津保次郎らの助監督を務める。同期には、亀井文夫、本多猪四郎がいた。ともに山本の助監督についていた黒澤明、本多は親友である。 1947年、山岳アクション映画『銀嶺の果て』で監督デビュー。
川上 景司(かわかみ けいじ、1912年〈明治45年〉2月 … 川上 景司(かわかみ けいじ、1912年〈明治45年〉2月 - 1973年〈昭和48年〉6月2日)は、日本の撮影技師、特撮監督。東京府東京市小石川区(現東京都文京区小石川)出身。 1931年(昭和6年)、東京府立工芸学校(現:東京都立工芸高等学校)を卒業し、文部省文書課に入省する。その後、社会教育映画課に異動し、映画キャメラマンとなる。 1939年(昭和14年)10月27日を以て、東宝に見習い入社し、円谷英二を課長とする特殊技術課に配属される。特殊技術課には同期として、川上に先駆けて6月に鷺巣富雄(うしおそうじ)が入社している。 1940年(昭和15年)、『燃ゆる大空』(阿部豊監督)に参加。 1941年(昭和16年)、特殊技術課内の、三谷栄三を主任とする合成作画係に異動。
今井 正(いまい ただし、1912年1月8日 - 1991年… 今井 正(いまい ただし、1912年1月8日 - 1991年11月22日)は、日本の映画監督。
小林 恒夫(こばやし つねお、1911年9月19日 - 19… 小林 恒夫(こばやし つねお、1911年9月19日 - 1991年12月6日)は、日本の映画監督・脚本家。東京都京橋出身。東映で現代劇をメインに撮っていた。 その後、テレビドラマ、PR映画の演出を手がける。テレビ映画では主に東映と古巣の東宝(系列会社宝塚映画も含む)製作作品の演出を多く手がけた。当時東宝の子会社だった円谷プロ作品にも参加する。特に『マイティジャック』でパイロット版を本放送版へ補強する仕事から入り、事実上のメイン監督を務めた。 監督昇進が41歳と遅かったものの、『点と線』における無駄をなるべく排し、テンポの良い時間経過と万人に理解しやすい物語の展開と切り口が持ち味であり、巧みな演出でリアリズム重視の独特の重厚さと緊迫感を与える作風であった。
家城 巳代治(いえき みよじ、1911年9月10日 - 19… 家城 巳代治(いえき みよじ、1911年9月10日 - 1976年2月22日)は、日本の映画監督、脚本家。 東京都出身。東京府立三中、弘前高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業後、1940年に松竹大船へ入社する。助監督部で渋谷実の下で働く。渋谷により『激流』(1944年)が着手される直前に召集されたため、家城が代打で初監督を務めた。 戦後は、撮影所に設立された労働組合の委員長に就任して経営側と渡り合ったが、1950年、連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージの波が映画界にも及ぶと、松竹の追放者第一陣のリストに名を連ね退社を余儀なくされた。 その後独立プロダクションを支え、以降、『雲ながるる果てに』『ともしび』『異母兄弟』などの名作映画を作り上げ、社会派の映画監督として活躍する一方、草創期のテレビドラマで演出家としても活躍した。
吉村 公三郎(よしむら こうざぶろう、1911年9月9日 -… 吉村 公三郎(よしむら こうざぶろう、1911年9月9日 - 2000年11月7日)は、昭和期の映画監督である。兄はフランス文学者の吉村正一郎。4人の子供を儲け、長男は元NHK解説委員の吉村秀實。映画監督の西村昭五郎は、いとこ。 滋賀県大津市膳所生まれ。吉村家は、同県坂田郡山東町の中山道で代々脇本陣を営んでいた。父・吉村平造は大阪朝日新聞社の政治記者から、保険会社重役などを経て、大阪市助役、第11代広島市長(在任1915年1月~1916年12月)を務めたため、これに伴い2歳から京都市下京区で、4歳時は広島市大手町で育った。広島を発つ前の晩、家族で万代橋のたもとにあった映画館で映画を初体験。チャップリンの映画に感銘を受けたことが映画を志す切っ掛けだったという。
猪俣 勝人(いのまた かつひと、1911年6月27日 - 1… 猪俣 勝人(いのまた かつひと、1911年6月27日 - 1979年8月7日)は、日本の脚本家・映画監督、映画評論家。東京府出身。 牛込出身。父が検事という厳格な家庭に育つ(のちに初期テレビドラマ『検事』の脚本も手がけている)。父の転任のたびに、長野、東京、千葉、新潟、福岡と転々とする。少年時代から学業を嫌い、文学書に親しみ、中学3年生の時には新聞『万朝報』の長編小説募集に応募、落選するもそれ以降は雑誌にの懸賞小説に毎年応募をし続けたが、当選することは一度もなかった。 日本大学芸術学部卒業後は、福岡で1年半ほど職に就けないでいたが、『九州日報』の短編小説募集で一等に入り、賞金5円を貰い、1934年に松竹蒲田撮影所にシナリオ・ライターの研究生として入社した。
本多 猪四郎(ほんだ いしろう、1911年5月7日 - 19… 本多 猪四郎(ほんだ いしろう、1911年5月7日 - 1993年2月28日)は日本の映画監督。山形県東田川郡朝日村(現・鶴岡市)出身。数々の東宝特撮映画を撮った。
内出 好吉(うちで こうきち、1911年3月26日 - 19… 内出 好吉(うちで こうきち、1911年3月26日 - 1994年6月5日)は、日本の映画監督。宮城県加美郡小野田町(現・加美町)出身。 旧制神奈川県立逗子中学校卒。早稲田大学文学部在学中の1934年に長谷川一夫の勧めで松竹京都撮影所に入社し大学を中退。1943年に召集され、1947年に復職。1955年に東映京都撮影所に移籍。東映の路線転換によりテレビ部のディレクターに転身し、1963年にフリーとなった。 主にナショナル劇場『水戸黄門』『大岡越前』『江戸を斬る』などのテレビ時代劇のディレクターとして活躍。『水戸黄門』では東野英治郎主演版第1部(1969年)から最終シリーズの第13部(1983年)まで足掛け13年半にわたり156本を担当し現役を退いた。
瑞穂 春海(みずほ しゅんかい、1911年3月22日 - 1… 瑞穂 春海(みずほ しゅんかい、1911年3月22日 - 1995年6月19日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1911年(明治44年)3月22日、長野県長野市に善光寺塔頭蓮華院の長男として生まれる。 旧制・長野県長野中学校(現在の長野県長野高等学校)、旧制・姫路高等学校(現在の神戸大学)をそれぞれ卒業後、東京帝国大学に入学、同文学部で美術史学を専攻し、同学を1934年(昭和9年)に卒業した。卒業後、同郷の映画監督・池田義信の在籍する松竹キネマの松竹蒲田撮影所に入社した。池田のほか、深田修三、渋谷実に師事した。 1940年(昭和15年)、三浦光子主演の映画『女の気持』で監督に昇進した。第二次世界大戦開戦後の1943年(昭和18年)、河村黎吉・吉川満子主演の『家に三男二女あり』を監督した。
森 一生(もり かずお、1911年1月15日 - 1989年… 森 一生(もり かずお、1911年1月15日 - 1989年6月29日)は、日本の映画監督、演出家である。通り名で「もり いっせい」とも呼ばれる。
伏水 修(ふしみず おさむ、1910年12月5日 - 194… 伏水 修(ふしみず おさむ、1910年12月5日 - 1942年7月9日)は、日本の映画監督。本名、伏水次男。 関西学院大学卒業。1932年1月に日活現代劇監督部入社、1934年3月にP. C. L.(東宝の前身)演出課に移る。1942年、病気のため死去。
徳光 寿雄(とくみつ としお、旧字体:德光 壽雄、1910年… 徳光 寿雄(とくみつ としお、旧字体:德光 壽雄、1910年〈明治43年〉10月11日 – 2014年〈平成26年〉9月12日)は、日本の映画監督、実業家。 徳光和夫(フリーアナウンサー)、徳光次郎(英国伊勢丹初代社長)兄弟の父。徳光正行(キャスター)・ミッツ・マングローブ(女装家)の祖父。 徳光賢五郎の長男として生まれる。1907年、父は北海道から神戸市に移住。神戸でつねと結婚し、1910年に寿雄が誕生した。ほどなく両親が離婚し、寿雄は父に引き取られた。 賢五郎は再婚し、東京電燈へ転職。1930年、徳光家は東京市西巣鴨で暮らし始めた。寿雄は度重なる引っ越しであまり友達をつくる事もできずよく一人で過ごしていた。
山本 薩夫(やまもと さつお、1910年7月15日 - 19… 山本 薩夫(やまもと さつお、1910年7月15日 - 1983年8月11日)は、日本の映画監督。鹿児島県出身。早稲田大学文学部独文科中退。 甥たち(兄山本勝巳の子)が、俳優の山本學、山本圭、山本亘で、自身の作品への配役も多い。息子の山本駿、山本洋も映画監督。 両親とも石川県小松市の出身(薩夫の本籍も石川県)。札幌農学校を中退して農商務省の官吏になった父が愛知県庁を振り出しに各地の県庁を転々とし、鹿児島県庁勤務時に薩夫が生まれた。名前もそこから付けられた。6人兄弟の末っ子で兄弟はそれぞれ別の土地で生まれた。薩夫が2歳になる前に父が愛媛県庁に転勤し、一家は愛媛県松山市に引っ越す。この時期に長兄の友人で、のちに共産党弾圧で獄死した重松鶴之助や俳人・中村草田男らの知遇を得る。
弘津 三男(ひろつ かずお、1910年7月8日 - )は日本… 弘津 三男(ひろつ かずお、1910年7月8日 - )は日本の映画監督。愛媛県松山市生まれ。県立松山中学を卒業後、1937年新興キネマ京都撮影所に助監督として入社。溝口健二監督の下でチーフ助監督を務める。 以下に日本映画データベースに従い公開日、作品名、監督名を記載。製作会社はすべて大映京都撮影所。
千葉 泰樹(ちば やすき、1910年(明治43年)6月24日… 千葉 泰樹(ちば やすき、1910年(明治43年)6月24日 - 1985年(昭和60年)9月18日)は、日本の映画監督。 清国時代の満洲・長春出身。1928年(昭和3年)に兵庫県立神戸商業学校を卒業後、阪妻立花ユニヴァーサル聨合映画に助監督として入社。翌1929年(昭和4年)に河合映画巣鴨撮影所に移籍して、1930年(昭和5年)に『蒼白き人々』で監督デビューする。 初期は時代劇映画を多く撮り、富国映画社、台湾プロダクションを経て、日活入社。この頃から現代劇も多く手掛けるようになり、更に南旺映画に移ってスラム街に住む日本人職工と在日朝鮮人との交流を描く問題作『煉瓦女工』を手掛ける。この作品は検閲で不許可となり、更に南旺映画解体の原因ともなる(映画は終戦後の1946年(昭和21年)に公開)。
大庭 秀雄(おおば ひでお、1910年2月28日 - 199… 大庭 秀雄(おおば ひでお、1910年2月28日 - 1997年3月10日)は、東京市赤坂区青山(現・東京都港区青山)出身の映画監督である。妻は女優の森川まさみ。 1934年に慶應義塾大学国文科を卒業後、松竹蒲田撮影所に入社。清水組で佐々木康監督の助監督を経て、1939年に『良人の価値』で監督デビュー。1936年に開所した松竹大船撮影所で「大船調」と呼ばれるメロドラマやホームドラマを製作した。 菊田一夫原作のラジオドラマを映画化した『君の名は』三部作(1953年 - 1954年、主演・岸恵子)は空前の大ヒットとなった。そのためもっぱら通俗メロドラマの名監督として語られるが、地味なホームドラマにむしろ佳作が多い。
山村 聰(やまむら そう、1910年(明治43年)2月24日… 山村 聰(やまむら そう、1910年(明治43年)2月24日 - 2000年(平成12年)5月26日)は、日本の俳優・映画監督。映画やテレビドラマやDVDのクレジットによっては山村聡の表記もある。 奈良県天理市出身。
山村 聰(、1910年〈明治43年〉2月24日 - 2000… 山村 聰(、1910年〈明治43年〉2月24日 - 2000年〈平成12年〉5月26日)は、日本の俳優・映画監督。作品により、山村 聡のクレジット表記もある。本名は古賀 寛定(こが ひろさだ)。 第二次世界大戦後の日本映画を代表する俳優のひとりで、小津安二郎監督作品への出演で知られる。国際的にも知名度が高く、1950年代以降は日本国外の映画にも出演した。生涯で出演した映画本数は195本に上る。 奈良県山辺郡出身。神戸一中、旧制一高を経て東京帝国大学文学部卒業。 研究劇団「太陽座」に入団。戦前の劇団文化座等での舞台活動を経て、1946年(昭和21年)、『命ある限り』で映画初出演。1947年(昭和22年)、『女優須磨子の恋』で田中絹代演じる松井須磨子の愛人役・島村抱月役に抜擢され、1950年(昭和25年)には『宗方姉妹』で第1回ブルーリボン賞の主演男優賞を受賞。
藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代… 藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、劇作家、演出家である。本名同じ。牧野省三のマキノ・プロダクションの助監督としてキャリアを始め、牧野の没後、脚本家として河合映画製作社、新興キネマに移籍、1934年(昭和9年)に監督に昇進した。山中貞雄らによる「鳴滝組」にも参加し、片岡千恵蔵プロダクション、日活、東宝映画と転々とした。第二次世界大戦中から戦後にかけて「エノケン一座」の座付作家として活動し、初期のテレビ放送劇の台本も書いた。脚本家としての別名に三田 一(みた はじめ)、1965年(昭和40年)からは黎明期の成人映画を量産、この時代には藤田 潤八(ふじた じゅんぱち)、岡野 進(おかの すすむ)等と名のった。
中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 200… 中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 2004年)は、日本の映画監督、脚本家である。伊世 亜夫の筆名も持つ。 1909年(明治41年)9月5日、大阪府に生まれる。 1926年(大正15年)、旧制・大阪府立今宮職工学校(現在の大阪府立今宮工科高等学校)を卒業、1930年(昭和5年)、新興キネマ演出部に入社した。1934年(昭和9年)、田坂具隆監督の『月よりの使者』に助監督としてついた後に、脚本部に異動した。1939年(昭和14年)、須山真砂樹監督の『泣き笑ひの天国』で脚本家としてデビューした。 その後、読売新聞社映画部、日本映画社に移籍し、ドキュメンタリー映画の製作に携わる。1940年(昭和15年)、『オモチャの科学』で監督としてデビューした。
森永 健次郎(もりなが けんじろう、1909年(明治42年)… 森永 健次郎(もりなが けんじろう、1909年(明治42年)8月23日 - 1994年(平成6年)2月11日)は、日本の映画監督である。 1909年(明治42年)8月23日、佐賀県小城郡内の村(現在は多久市域)に生まれる。 1934年(昭和9年)に開所した日活多摩川撮影所に入社し、1936年(昭和11年)には首藤寿久監督の『日蝕は血に染む』に「監督」として名を連ねる。同作は満27歳を目前にした同年7月8日に公開された。1942年(昭和17年)1月、日活の製作部門が他社と合併して大映(大日本映画製作)を形成すると、翌1943年(昭和18年)には、朝鮮映画製作という会社で『昭和19年』という国策映画を監督する。
小田 基義(、1909年〈明治42年〉7月21日 - 197… 小田 基義(、1909年〈明治42年〉7月21日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の映画監督。1940年代、1950年代にプログラムピクチャーを量産した。 息子は、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのキーボーディスト小田啓義。 前衛芸術家の糸井貫二は従弟。 福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に生まれる。早稲田大学文学部英文科卒業後、1935年にP.C.L.(現在の東宝)入社。山本嘉次郎の助監督を経て、1940年『姑娘(くうにゃん)の凱歌』で監督デビューする。 初期は叙情的な女性映画を監督するが、3作目の『歌へば天国』(山本薩夫と共同監督)では「一年に一度は馬鹿をやりたい」という主演・古川緑波の要望に応えてスラップスティック・コメディに挑戦。
佐分利 信(さぶり しん、1909年2月12日 - 1982… 佐分利 信(さぶり しん、1909年2月12日 - 1982年9月22日)は、日本の俳優、映画監督。本名は石崎 由雄(いしざき よしお)。旧芸名に島津 元。 渋みのある演技で活躍した昭和期の二枚目俳優のひとりで、愛称は「サブリどん」。日活を経て松竹に入社し、上原謙・佐野周二と「松竹三羽烏」を結成して、戦前松竹の看板スターとして活躍した。戦後は監督業にも進出し、『執行猶予』『風雪二十年』『慟哭』などの社会派作品を発表した。1960年代はテレビドラマに活躍の場を移し、晩年は映画界に戻って貫禄のある演技を見せた。主な作品に『兄とその妹』『暖流』『戸田家の兄妹』『彼岸花』『華麗なる一族』『化石』など。女優の黒木しのぶは妻、俳優の石崎二郎は長男、ジャズ・アルトサックス奏者の石崎忍は孫に当たる。
関川 秀雄(せきがわ ひでお、1908年12月1日 ‐197… 関川 秀雄(せきがわ ひでお、1908年12月1日 ‐1977年12月16日)は、日本の映画監督。 1908年12月1日、新潟県佐渡郡(現・佐渡市)の地主の家の四男に生まれる。旧制佐渡中学在学中は画家に憧れていた。卒業後、旧制新潟高校に入学して中退。 劇映画『ひろしま』(日教組プロ、1953年)でベルリン映画祭長編劇映画賞受賞。記録映画『鉄路に生きる』(1951年)が1952年ヴェネツィア国際映画祭教育科学部門第2位。また、児童向け劇映画『トランペット少年』(東映教育映画部、1955年)が第9回エディンバラ国際映画祭で受賞。 戦争孤児を描いた『第二の人生』、学徒兵を描いた反戦映画『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』、砂川の立川基地拡張反対闘争を描いた『爆音と大地』など社会意識の強い作品が多い一方、刑事ドラマ、少年探偵団シリーズなどの映画もつくり、娯楽作品でも腕を振るった。
児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 199… 児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 1992年3月10日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家、作詞家、実業家である。日活の契約プロデューサーだった時代に石原裕次郎を売り出し、小林旭をスターにした人物として知られる。本名は兒井 英男(こい ひでお)、大都映画でのペンネームは高樹 彦九郎(たかぎ ひこくろう)である。児井プロダクション代表。 1908年(明治41年)8月21日、兵庫県神戸市に鉄道院の高級官吏(神戸運輸事務所長)だった児井英松と公卿の娘だった母の長男として出生。姉が2人の末っ子だった。父の転職により、東京の渋谷に移住し、旧制中学校の私立芝中学校を経て、早稲田大学法学部に入学するが、2年次に政経学部に、3年次に文学部に転部し卒業後、衣笠貞之助に誘われ1931年に松竹キネマ京都撮影所監督部に入社した。
高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年(明治41年)7月1… 高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年(明治41年)7月18日 - 1998年(平成10年)6月25日)は、日本の映画監督、脚本家、ノンフィクション小説家である。 東京生まれ。1933年早稲田大学政治経済学部卒業後、松竹蒲田撮影所に入社し、清水宏に師事した。 その後、富士スタジオ、日本映画社に勤務した。1939年から陸軍映画報道班員として、日中戦争に従軍し、記録映画を製作した。 太平洋戦争中、1942年に陸軍航空本部映画報道班員として、マレーシア、インドネシア、タイ、仏印などに従軍。映画報道班員としての体験をもとに、新聞や放送の発表と現実の戦況の違い、戦場の苛酷なありさまの見聞等々、インパール作戦の悲惨さを明らかにして陸軍指導部の無謀さを告発することを決意した。
渡辺 明(、1908年〈明治41年〉5月13日 - 1999… 渡辺 明(、1908年〈明治41年〉5月13日 - 1999年〈平成11年〉)は映画美術監督。福井県出身。愛称は「ナベさん」。 1929年(昭和4年)、美術学校を卒業後、松竹下賀茂撮影所に助監督として入社。その後、1931年(昭和6年)に美術担当となる。 1941年(昭和16年)、撮影技師だった円谷英二と知り合い、グラスワークなどのトリック撮影を円谷とともに研究する。同年、円谷に誘われ東宝に移籍。 1942年(昭和17年)、映画『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎監督)で特殊美術を担当。特撮用ミニチュア製作など美術全般を担当する。 1947年(昭和22年)、『戦争と平和』(亀井文夫・山本薩夫監督)から特殊技術も兼任。