鈴木 光愛(すずき こうあい、慶応3年12月20日(1868… 鈴木 光愛(すずき こうあい、慶応3年12月20日(1868年1月14日) - 昭和5年(1930年)4月9日)は、日本の教育者。 岡山藩士島村円造の二男として生まれ、鈴木光輝の養子となった。岡山中学校を経て、1889年(明治22年)に高等師範学校を卒業した。同訓導、女子高等師範学校助教諭、同助教授、東京府師範学校教諭・附属小学校主事を歴任した。1897年(明治30年)、台湾総督府国語学校教授となり、1899年(明治33年)に東京府師範学校首席教諭に戻った。1900年(明治33年)、栃木県師範学校校長に就任し、1906年(明治36年)に京都府師範学校校長に転じた。1909年(明治42年)からは東京府女子師範学校校長・東京府立第二高等女学校を務めた。
田部井 勝蔵(ためがい かつぞう、1868年1月6日(慶応3… 田部井 勝蔵(ためがい かつぞう、1868年1月6日(慶応3年12月12日) - 1935年(昭和10年)3月30日)は、三河碧海郡逢妻村(現・愛知県刈谷市)出身の教育者・実業家・政治家。第8代豊橋市長(1926年-1930年)。教育者の田部井鉚太郎は兄。 出生地は江戸赤坂の刈谷藩藩邸。刈谷藩士である田部井清蔵の二男である。出身地は三河碧海郡逢妻村(現・愛知県刈谷市)であるとされる。兄の田部井鉚太郎は教育者となり、愛知県内の学校の訓導や校長、富山県視学などを務めている。 兄と同じように愛知県師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)を卒業し、1891年(明治24年)に愛知県師範学校の訓導となった。その後愛知県師範学校の助教諭となり、1898年(明治31年)4月には額田郡視学となった。
武石 貞松(たけいし さだまつ、1868年 - 1931年)… 武石 貞松(たけいし さだまつ、1868年 - 1931年)は、明治時代から昭和時代の漢学者、詩人、教育者。諱は潜、字は伯龍。 越後国南蒲原郡中之島村大字長呂(後に新潟県中通村)の名主武石弘六の長男として生まれる。長岡の誠意塾に学び、頭脳明晰で師匠の高橋竹之助の信任厚く、塾頭に選ばれる。ここで堀口九萬一と知り合い親友となり、義兄弟の契を結ぶ。長呂の若宮社には、弟の武石弘三郎が制作した2人の胸像が建つ。 後に故郷に戻り自邸にて漢詩塾および修斉館を開き地域の教育に尽力した。東北日報(新潟日報の前身)の漢詩撰者を務め、同紙の同時期の俳句撰者は会津八一であった。また、水田区画整理事業の「島田他三ケ字耕地整理」に従事、ツツガムシ対策により名古屋大学医学部の林直助を村に招待、信濃川流域の荒地に柳を植樹し行李の生産を勧めるなど地域振興に努め、農業整備や架橋、信用組合創立に取り組んだ。
水月 哲英(みづき てつえい、1868年 - 1948年4月… 水月 哲英(みづき てつえい、1868年 - 1948年4月)は、日本の宗教家、教育者。筑紫高等女学校(現・筑紫女学園)創立、初代校長。
瀧澤 又市(たきざわ またいち、1868年〈明治元年9月〉 … 瀧澤 又市(たきざわ またいち、1868年〈明治元年9月〉 - 1937年〈昭和12年〉)は、日本の教育者。長野県出身。 翠嵐高校の自由な校風として「大平凡主義」というものを掲げていた。
山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日(1867… 山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日(1867年12月18日) - 昭和27年(1952年)11月21日)は、日本の漢学者・陽明学者・教育者。二松学舎専門学校の初代校長。二松学舎名誉学長、大東文化学院名誉教授。幼名は鎨三郎、本名は準、字は士表、済斎は号で正しくは濟齋である。 済斎と夏目漱石は同年の1867年生まれで、ともに二松学舎で三島中洲に学んだ。第五高等学校で済斎は漢文科主任、漱石は英語科主任となった。
大江 邦治(おおえ くにじ、1867年12月9日 - 196… 大江 邦治(おおえ くにじ、1867年12月9日 - 1968年6月5日)は、日本の牧師、教育者。戦前から戦後にかけての日本アライアンス教団の指導者。 1867年(慶応3年)に伯耆国溝口(現、鳥取県西伯郡伯耆町)に生まれる。鳥取中学(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に入学するが、1882年(明治15年)に中退して上京する。 東京電信学校(後の、逓信官吏練習所)に入学して、1887年(明治20年)に卒業し、東京府、岡山県、山口県下関市、佐賀県の電信局で勤務する。 岡山県岡山市の電信局に勤務していた頃、日本組合基督教会岡山教会(現・日本基督教団岡山教会)に出席するようになり、当時岡山教会牧師の安部磯雄から洗礼を受ける。
宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867… 宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867年11月15日) - 昭和18年(1943年)7月9日)は、明治から昭和前期にかけて活躍した能書家、教育家(中国語)。山形県米沢の出身。名は吉美、通称は大八(だいはち)、詠士は字で、号に詠而帰廬主人がある。 詠士は明治37年(1904年)に中国語の教科書『官話急就篇』を刊行し、中国語の私塾・善隣書院を創設して生涯その経営にあたるなど、戦前の中国語教育に大きな足跡を残した。また書家としても著名で、代表作『犬養公之碑』は日本書道史に異彩を放つ楷書碑として尊い。書の門弟に上條信山、藤本竹香がいる。 国立国会図書館 憲政資料室所蔵『宮島誠一郎関係文書』、早稲田大学図書館所蔵『宮島誠一郎文書』、神戸大学附属図書館所蔵『宮島家文書』には一部大八関係の資料が収められている。
阪本 三郎(さかもと さぶろう、1867年11月11日(慶応… 阪本 三郎(さかもと さぶろう、1867年11月11日(慶応3年10月16日) - 1931年(昭和6年)4月14日)は、日本の検察官、裁判官、内務官僚、教育者。憲政会系官選県知事、早稲田専門学校長。「坂本」と表記される場合がある。樋口一葉の婚約者(旧姓・渋谷)であったことで知られる。 武蔵国南多摩郡原町田村(後の町田村、現町田市)で旅籠武蔵屋を営む渋谷徳治郎の二男として生まれ、1892年8月、阪本タカの養子となる。祖父・真下専之丞(晩菘)の融貫塾、近在の小野路にある小島韶斎塾、藤沢の耕余塾で学ぶ。1888年7月、東京専門学校法学部を卒業。1890年12月、文官高等試験に合格。1891年1月22日、司法官試補に任じられ新潟地方裁判所詰となる。
勝田 孫弥(かつだ まごや、1867年9月22日〈慶応3年8… 勝田 孫弥(かつだ まごや、1867年9月22日〈慶応3年8月25日〉 - 1941年〈昭和16年〉8月21日)は、鹿児島県出身の教育家・歴史家である。元士族。 薩摩国給黎郡喜入(現在は鹿児島市に編入)出身。 1885年、鹿児島県師範学校中等師範学科卒業。同年、喜入小学校(現在の鹿児島市立喜入小学校)に四等訓導として就任した。1887年3月、喜入高等小学訓導に任命されたが、4月に依願免職。1887年9月 - 1890年6月、私立明治法律学校(現・明治大学)で法律科・行政科・仏語科を修業。 この頃から明治維新史の研究を行い、三上参次が校閲した伝記「西郷隆盛伝」(全5冊、1895年)や「大久保利通伝」(全3冊、1911年、 同文館)、「甲東逸話」(冨山房、1928年)などを著した。
高田 富蔵(たかだ とみぞう、慶応3年8月6日(1867年9… 高田 富蔵(たかだ とみぞう、慶応3年8月6日(1867年9月3日) - 没年不詳)は、日本の裁判官、台湾総督府官僚、教育者。 摂津国八部郡山田村(現在の兵庫県神戸市北区)出身。1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。台湾総督府法院判官、覆審法院部長、台北地方法院長、高等法院上告部判官・覆審部長を歴任し、1921年(大正10年)から台北州知事を務めた。 1924年(大正13年)に退官した後は、ハルピンの日露協会学校校長に転じた。1932年(昭和7年)に日露協会学校がハルピン学院と改称した後も引き続き院長を務め、1935年(昭和10年)まで在職した。
武藤 虎太(むとう とらた、慶応3年7月7日(1867年8月… 武藤 虎太(むとう とらた、慶応3年7月7日(1867年8月6日) - 昭和9年(1934年)3月29日)は、日本の教育者。 肥後国菊池郡今村(熊本県菊池郡戸崎村、菊池町を経て現菊池市)に熊本藩士武藤一忠の長男として生まれた。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学国史科を卒業。第五高等学校教授、第二高等学校教授、同校長を務め、1920年(大正9年)より2年間欧米を視察した。1921年(大正10年)、第四高等学校校長となり、のち第五高等学校校長に転じた。 退官後は、第五高等学校名誉教授の称号を受けた。その他、維新史料編纂会委員を務めた。
小林 彦五郎(こばやし ひこごろう、1867年7月31日〈慶… 小林 彦五郎(こばやし ひこごろう、1867年7月31日〈慶応3年7月1日〉 - 1944年〈昭和19年〉4月28日)は、日本の教育者、聖職者。立教女学校(現・立教女学院)校長、立教高等女学校校長、立教大学元教授、日本聖公会の聖職者。財団法人聖路加女子専門学校(現・聖路加国際大学)理事。 岡山出身。大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)で学び、テオドシウス・ティングの薫陶を受ける。1886年(明治19年)3月には、授業日数を増やすなどの要求から生じた同校の学生運動では、元田作之進(後の立教大学初代学長)とともに急先鋒となり、改善を求める運動を行った。同1886年(明治19年)にヘンリー・ページ(Henry D. Page)よりキリスト教の洗礼を受けた。
山脇 房子(やまわき ふさこ、1867年7月5日(慶応3年6… 山脇 房子(やまわき ふさこ、1867年7月5日(慶応3年6月4日)- 1935年(昭和10年)11月19日)は、日本の教育者。夫は法学者で女子実脩学校(後の山脇高等女学校)創立者の山脇玄。旧姓・小倉。聖公会信徒。 1867年(慶應3年)出雲国松江北田町(現在の島根県松江市北田町)で松江藩士小倉忠の長女として生まれた。 1883年(明治16年)松江女子師範学校を卒業後、松江の宣教師の紹介で仙台に赴き、アメリカ人宣教師スワルツ夫妻のもとで半年間英語を学んだ。 1885年(明治18年)上京し、麻布飯倉片町のイギリス人ホールのもとで2年間、経済学や文学を学んだ後、女子教育奨励会の教師であったイングランド国教会の宣教師カロライン・カルクスのもとで25歳まで英語や洋風作法を学んだ。
武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈… 武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈慶応3年4月24日〉- 1932年〈昭和7年〉5月26日)は、日本の内務官僚、教育者、スポーツ指導者。官選県知事、神宮皇學館長、大日本体育協会副会長、大阪市立高等商業学校長。駅伝競走の命名者、運動中の水分補給を禁止する風潮を創り上げた人物として知られる。 柳河藩士・武田道夫の二男として筑後国山門郡柳河(現:柳川市)で生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1889年7月、東京帝國大學法科大学法律学科(英法)を卒業。 1889年8月、法制局雇となる。同年12月に徴兵され近衛歩兵第1連隊に入隊。1890年11月、陸軍歩兵二等軍曹で満期除隊となる。
槙山 栄次(まきやま えいじ、1867年5月17日(慶応3年… 槙山 栄次(まきやま えいじ、1867年5月17日(慶応3年4月14日) - 1933年(昭和8年)6月12日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者、文部官僚。 出羽国米沢(現在の山形県米沢市)出身。山形県師範学校を経て、1891年(明治24年)に東京高等師範学校文学科を卒業。秋田尋常師範学校教諭、東京高等師範学校助教諭・書記、文部属、宮崎県尋常中学校教諭、山形尋常師範学校校長、北海道師範学校校長、東京女子高等師範学校教授を歴任。1905年(明治38年)、ドイツ・アメリカ合衆国に留学。帰国後、文部省視学官、東京女子高等師範学校教授、文部省督学官を務めた。1919年(大正8年)、奈良女子高等師範学校校長に就任した。
永山 時英(ながやま ときひで、慶応3年3月1日(1867年… 永山 時英(ながやま ときひで、慶応3年3月1日(1867年4月5日) - 昭和10年(1935年)2月6日)は、日本の教育家。長崎県立長崎図書館初代館長。 近世長崎の歴史的特異性に着目し、世界史の中の長崎という視点から、キリシタン史料・対外貿易史料の収集等特色ある図書館作りに努めた。また、日本図書館協会の理事を務め、日本の図書館活動の発展に寄与した。同時期の長崎で活動した古賀十二郎・武藤長蔵と並んで長崎学の三大家とされる。
斎藤 斐章(さいとう ひしょう、慶應3年2月26日(1867… 斎藤 斐章(さいとう ひしょう、慶應3年2月26日(1867年4月2日) - 昭和19年(1944年)5月27日)は、日本の教育者、歴史学者。 岩手県出身。1899年(明治32年)、東京高等師範学校文科を卒業し、東京府師範学校訓導・教諭となる。1902年(明治35年)、東京高等師範学校助教諭となり、1906年(明治39年)に教諭、1908年(明治41年)に教授に進んだ。歴史学・歴史教育法研究のため欧米に留学し、1911年(明治44年)に帰国した。1920年(大正9年)からは附属中学校主事を兼ねた。1936年(昭和11年)、退官。
大倉 本澄(おおくら もとずみ、もとすみ、1867年3月29… 大倉 本澄(おおくら もとずみ、もとすみ、1867年3月29日〈慶応3年2月24日〉 - 1940年〈昭和15年〉6月19日)は、日本の英米文学者、英語教育者、翻訳家、聖職者。教育者として東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)を創設したほか、旧制第六高等学校(現・岡山大学)教授や旧制甲南高等学校(現・甲南大学及び甲南中学校・高等学校)教授を歴任。英文学者や翻訳家としてシェイクスピア劇の講義に加え、イギリス公使の翻訳官を務めた。また、ハーバード大学で外国人初の舎監となり、日本聖公会の聖職者としても伝道に従事した。号は折鵬、竹隠。 1867年3月29日〈慶應3年2月24日〉、備前国岡山に生まれる。
小山 忠雄(おやま / こやま ただお、慶応3年2月15日(… 小山 忠雄(おやま / こやま ただお、慶応3年2月15日(1867年3月20日) - 昭和17年(1942年)2月16日)は、日本の教育者。号は自得。 出羽国平鹿郡横手(現在の秋田県横手市)出身。東京に遊学して、共立学校で英学・漢学を学んだ。1889年(明治22年)、秋田県師範学校を卒業して、小学校訓導を務めた。その後、東京高等師範学校文科に入り、1893年(明治26年)に卒業した。秋田県師範学校教諭、同附属小学校主事、青森県師範学校教諭を務めた。1902年(明治35年)、秋田県立横手中学校校長に就任し、翌年に秋田県立大館中学校校長に転じた。1907年(明治40年)、秋田師範学校校長となり、1912年(明治45年)に北海道札幌師範学校校長に転じた。
足立 鍬太郎(あだち くわたろう、慶応3年2月10日(186… 足立 鍬太郎(あだち くわたろう、慶応3年2月10日(1867年3月15日) - 昭和7年(1932年)11月18日)は、日本の教育者、郷土史家。 出雲国松江鍛冶(現島根県松江市)出身。1884年島根県師範学校卒業。島根県内小学校の訓導となり、1885年校長に就任。1894年新潟県尋常中学校助教諭。1906年長野県立飯山中学校初代校長。1911年長野県立諏訪中学校校長。1912年静岡県賀茂郡立豆陽学校校長。1921年島田高等女学校校長。静岡県の郷土史を研究し、静岡県史蹟名勝天然記念物調査委員、静岡市史編纂主事、静岡県史編纂主事を務める。次男は文部官僚の井上赳。
嘉悦 孝(かえつ たか、慶応3年1月26日(1867年3月2… 嘉悦 孝(かえつ たか、慶応3年1月26日(1867年3月2日) - 昭和24年(1949年)2月5日)は、熊本県熊本市本山町出身の女性教育者。明治36年に日本初の女子商業教育校、私立日本女子商業学校を創立。嘉悦学園創立者。孝子とも。 孝の父である嘉悦氏房は熊本藩の儒学者、横井小楠の教えを受けていた。孝は幼いころから父を通して学問を学び、実学思想を身に付けていった。彼女が女子の経済的自立に関して考えるに至った経緯として、父である嘉悦氏房が経営していた緑川製紙場で女工として働いていたということがある。成長してからは東京の成立学舎女子部で学び、教育への理解を深めていった。卒業後、同校にて教鞭を取り、日本女子教育会講師などを務めた後の明治36年(1903年)、私立日本女子商業学校を創立した。
菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応… 菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応3年1月19日) - 1945年(昭和20年)2月3日)は、日本の教育者、歴史研究者。号は仙湖。正岡子規、秋山真之、夏目漱石らとの交友、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、衆議院議員も務めた。
笹森 卯一郎(ささもり うちろう、1867年2月18日〈慶応… 笹森 卯一郎(ささもり うちろう、1867年2月18日〈慶応3年1月14日〉 - 1911年〈明治44年〉6月12日)は日本の牧師、教育者である。 津軽(弘前)藩士の家に生まれ、1885年(明治18年)に東奥義塾を卒業し、1885年8月に本多庸一より洗礼を受ける。同年9月からアメリカに渡り、デポー大学で学び哲学博士号を取得する。 1893年(明治26年)に帰国し、1894年(明治27年)より長崎市の出島メソジスト教会牧師に就任する。 そして、鎮西学館(のちの鎮西学院)の哲学講師を務めた。1904年(明治37年)鎮西学館の副館長になる。 そして、1906年(明治39年)日本人初の鎮西学館の館長に就任する。
益田 古峯(ますだ こほう、1867年2月3日(慶応2年12… 益田 古峯(ますだ こほう、1867年2月3日(慶応2年12月29日) - 1944年(昭和19年)4月10日)は戦前日本の教育者。名は祐之。筑前秋月藩出身で、号は故郷の古処山に因る。大橋陶庵、栗本義喬、楠本碩水等に漢学を学び、『福陵新報』記者、東筑中学校雇教師を経て、福岡県中学修猷館で約30年間漢文を教えた。
戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応… 戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応2年12月10日)– 1955年(昭和30年))は、日本の教育者。三重県四日市市長。 丹後田辺藩儒戸野周太郎の二男として舞鶴に生まれる。京都府師範学校を卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)を経て、1891年(明治24年)に東京高等師範学校文科を卒業。青森県師範学校校長、長野県視学、東京高等師範学校を歴任した。1902年(明治35年)、湖北師範学堂に総教習・学務顧問として招かれ、清に渡った。1904年(明治37年)に帰国した後は東京市教育課長に任じられた。1914年(大正3年)からは下谷区長を務め、1919年(大正8年)には東京市助役に就任した。
氏家 謙曹(うじいえ けんそう、1866年12月30日(慶応… 氏家 謙曹(うじいえ けんそう、1866年12月30日(慶応2年11月24日) - 1939年10月25日)は、日本、清国の教育者。 氏家作造の長男として岩手県水沢に生まれる。1893年東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。 1893年福岡県立尋常中学修猷館教諭を皮切りに、山口高等中学校教授、第二高等学校教授、宮城県立仙台第一中学校校長を歴任し、1904年再び第二高等学校教授となる。 1904年、在官のまま、清国政府の招聘に応じて京師大学堂(現・北京大学)師範館教習に就任し、1909年帰国したが、官を辞し、再び清国政府の招聘に応じて河南省開封府の優級師範学堂教習となる。 1911年早稲田大学理工科教授および評議員に就任し、早稲田高等学院教授・理科主任も務め、物理学を講じた。
西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(… 西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(慶応2年11月21日)- 1925年(大正14年)7月24日)は、明治から大正期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員、大阪府三島郡玉櫛村長。 摂津国島下郡内瀬村(大阪府島下郡玉櫛村大字内瀬、三島郡玉櫛村大字内瀬を経て現茨木市)で、西田為三郎の息子として生まれる。1888年(明治21年)7月、大阪府師範学校を卒業した。 大阪市内の東区高等小学校の校長代(1893年)、首座教員(1894年)を務め、1895年(明治28年)10月から1906年(明治39年)まで船場尋常小学校で訓導・校長に在任した。 その後、帰郷して父の跡を継ぎ、玉櫛村会議員に選出された。
日比野 寛(ひびの ゆたか/ひろし/かん、1866年12月9… 日比野 寛(ひびの ゆたか/ひろし/かん、1866年12月9日(慶応2年11月3日) - 1950年(昭和25年)4月2日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓は織田(おだ)。日本におけるマラソン指導の始祖とされている。 尾張国中島郡大里村(現:愛知県稲沢市日下部中町)に、織田文信の三男として生まれる。 愛知県中学校(旧制・愛知一中、現在の愛知県立旭丘高等学校)を経て第一高等学校に入学。同校2年生の時に健康診断で胃腸病を発見された。以後彼は、健康のため「歩き方・姿勢」に気を配るようになる。1895年(明治28年)帝国大学法科大学英法科卒業。農商務省に勤務した。 1898年(明治31年)、日比野家(日比野紋左衛門)の養子となる。
渡辺 又次郎(わたなべ またじろう、慶応2年11月3日(18… 渡辺 又次郎(わたなべ またじろう、慶応2年11月3日(1866年12月9日) - 昭和5年(1930年)11月22日)は、日本の教育者。位階勲等は従三位勲三等。 武蔵国川越藩出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、1898年(明治31年)に同大学院を修了した。そのかたわら東京法学院(現在の中央大学)と哲学館(現在の東洋大学)で論理学・倫理学の講師を務め、1897年(明治30年)には帝国図書館司書長に任命された。翌年、第二高等学校教授となり、1900年(明治33年)に第五高等学校教授に転じ、教頭となった。1907年(明治30年)に辞して、翌年から東京市立日比谷図書館主事となり、さらに東京市主事に転じた。
木村 駿吉(きむら しゅんきち、1866年11月8日(慶応2… 木村 駿吉(きむら しゅんきち、1866年11月8日(慶応2年10月2日) - 1938年10月6日)は、明治から昭和期の物理学者、工学者、教育者。日本海軍の軍属(技師)、特許弁理士のほか、第一高等中学校(現・東京大学)教授、立教学校(現・立教大学)教頭、第二高等学校(現・東北大学)教授、海軍大学校教授を歴任。海軍技師として、日露戦争の勝利に貢献した三六式無線電信機を開発したことでも知られる。 幕臣・木村摂津守喜毅(木村芥舟)の三男として江戸(芝 新浅座、現在の港区浜松町1丁目あたり)で生まれた。父・芥舟は、江戸幕府の海軍伝習所取締として日本の海軍創設に関わり、日本への西洋の科学技術導入の黎明期で活躍し、軍艦奉行として咸臨丸を指揮し、日本人による初の太平洋往復の渡航を成功させた人物である。
松浦 寅三郎(まつうら とらさぶろう、1866年9月12日(… 松浦 寅三郎(まつうら とらさぶろう、1866年9月12日(慶応2年8月4日) - 1947年(昭和22年)1月15日)は、日本の教育者。女子学習院第二代院長。 肥前国(現・長崎県)生まれ。士族松浦縮蔵の子。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、1895年(明治28年)東京帝國大學法科大学法律学科英法科を卒業。1896年(明治29年)5月愛知県尋常中学時習館(現・愛知県立時習館高等学校)校長、1899年(明治32年)7月山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)校長を歴任。 以後、山口高等商業学校教授、第五高等学校校長を経て、1918年(大正7年)5月に神宮皇學館館長に就任。翌年2月、皇太子傅育官長となる。
塚本 ハマ(つかもと ハマ、1866年7月31日(慶応2年6… 塚本 ハマ(つかもと ハマ、1866年7月31日(慶応2年6月20日)- 1941年(昭和16年)6月30日)は、日本の女性教育者である。旧姓は小川。 江戸の本郷にてうまれる。幼少時に静岡県に移住し、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学する。入学後両親を失った野口幽香と親交を持ち、欠席時の補佐として携わった。これにより幽香と共に1889年(明治22年)キリスト教に受洗し、卒業後は大阪女子師範学校(後の大阪第一師範学校、現在の大阪教育大学教育学部)にて教鞭を執り、その管理も務めた。後に同学校に勤務する傍ら、梅花女学校(現在の梅花女子大学)の教師も兼任した。 この頃に農学者の塚本道遠と結婚し、6人の子供を産む。
石川 源三郎(いしかわ げんざぶろう、1866年7月27日 … 石川 源三郎(いしかわ げんざぶろう、1866年7月27日 - 1956年12月7日)は、日本の実業家、教育者。 1891年12月21日、アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールで、体育担当教官ジェームス・ネイスミスによって考案された新スポーツのバスケットボールを初めてプレーした人物。1892年卒業の「一般事業担当主事養成科クラス」18人の学生のひとり。最初に実施されたゲームのスケッチを残している。 1866年(慶応2年)館林藩の藩士・石川喜四郎の三男として生まれる。字(あざな)は、定邦または定国(さだくに)。2歳の時、父が戊辰戦争で戦死。8歳時に母の実家である東京・富ヶ谷へ移り住む。
平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応… 平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応2年5月22日〉- 1945年〈昭和20年〉11月27日)は、日本の実業家・教育者(甲南学園創立者)・政治家(廣田内閣で文部大臣・貴族院勅選議員・枢密顧問官)。甲南病院(現在の甲南医療センター)の設置者。住吉村に住まい、その跡地は自ら創立した甲南大学の平生記念セミナーハウスとして活用されている。 明治、大正、及び昭和初期に活躍。1934年(昭和9年)、移民制限を始めたブラジルに対し経済的貢献により移住を確保しようと海外移住組合連合会長だった平生が、訪伯経済使節団長としてブラジルを訪問。ブラジル産綿花を日本に輸出する橋渡しをするなどの貢献を行った。
玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6… 玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6月30日) - 1906年(明治39年)9月25日)は、日本のジャーナリスト、教育家、冒険家。札幌農学校でドイツ語教授を務めた後にシベリアを単身横断してドイツに渡り、月刊誌『東亜(Ost-Asien)』を刊行するなどジャーナリストとして活動した。また、在留日本人の面倒をよくみたことから「私設公使」の異名をとった。 周防国光井村(現・山口県光市光井)で「銘酒玉川」を醸造していた造り酒屋に生まれる。 山口黒城塾、広島県中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、上京し獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)に通う。同時に、遠い親戚で幼い頃から兄のように慕っていた原田貞介(後に工学博士。
廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5… 廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5月13日〈慶応2年3月29日〉 - 1938年〈昭和13年〉6月4日)は、日本の法学者、歴史学者、教育者、宗教家。法学博士。モラロジーの提唱者。道徳科学研究所、学校法人廣池学園の創立者。早稲田大学講師、神宮皇學館教授、天理教教育顧問を歴任。号は鵬南、扇城、西海、蘇哲、幹堂など。 慶應義塾の関連校である中津藩の洋学校の中津市学校に学ぶ。歴史家として論文と書物を著したのちに法学を学び、早稲田大学講師を経て、神宮皇學館教授となる。当時の国家的事業である『古事類苑』(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912年(大正元年)12月10日に東京帝国大学から法学博士号を取得する。
浅井 郁太郎(あさい いくたろう、慶応2年1月5日(1866… 浅井 郁太郎(あさい いくたろう、慶応2年1月5日(1866年2月19日) - 没年不詳)は、金沢出身の地質学及び鉱物学者であり教育者。従五位。 加賀藩士、浅井弘五郎の長男。1890年(明治23年)に東京帝国大学理科大学地質学科を卒業し、島根県中学校校長、札幌中学校校長、岐阜中学校校長を歴任した。1900年(明治33年)に足尾銅山技師、1902年(明治35年)に文部省図書審査官・視学官となり、1913年にはこれを辞して文部省嘱託となった。1907年(明治40年)に家督を相続。その他、東京高等工業学校講師、東京女子高等師範学校講師なども歴任している。 1920年(大正9年)に同郷の香村小録が再婚する際には夫婦で媒酌人を務めた。
名出 保太郎(ないで やすたろう、1866年2月7日(慶応元… 名出 保太郎(ないで やすたろう、1866年2月7日(慶応元年12月22日) - 1945年(昭和20年)9月6日)は、日本の聖職者、教育者。元田作之進とともに日本人として聖公会初の監督(主教)を務めた。日本聖公会大阪教区初代主教。築地・聖三一教会(立教教会)初代牧師。 紀伊国那賀郡名手村(現・和歌山県紀の川市)で庄屋の家に生まれる。和歌山の小学校で教員を務める。 その後、大阪に出て、テオドシウス・ティング(米国聖公会宣教師)の大阪・川口の英和学舎(立教大学の前身の一つ)で学び、ティングのもとで聖職者としての道に進む。 1879年(明治12年)、日本の聖公会として初代の日本人牧師に就任。聖公会としては横山錦柵が1877年(明治10年)に米国で按手を受け日本人初の聖職者となっている。
本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応… 本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応2年11月29日〉 - 1925年〈大正14年〉11月25日)は、明治・大正期の英語教育者、イギリス文学者、ジャーナリスト、民間外交家。柔道3段。 美作国久米北条郡上打穴里村(現・岡山県久米郡美咲町打穴里)にて、農家の本田杢蔵・やゑの3男として生まれる。村の小学校(2006年3月廃校)を卒業後、医学を志し岡山県福渡の医師吉岡寛斎(吉岡弘毅の兄)のもとで2年修業した後、上京。 高木兼寛の紹介で、井上馨外務大臣の主治医などをしていた愛宕下田村町の医師松岡勇記の薬局生となる。高木らが設立した海軍軍医学校への進学を志し、試験に必要な英語を習得するため三田英語学校に通ったが、1883年より柔道を習えば無料で英語を学べることから神田神保町にあった嘉納治五郎の英語学校・弘文館に在籍し、講道館で柔道を学んだ。
太田 達人(おおた たつと、1866年 - 1945年)は、… 太田 達人(おおた たつと、1866年 - 1945年)は、陸奥国岩手郡東中野村(現盛岡市)出身の教育者。父は盛岡藩の武士。夏目漱石とは大学予備門時代からの親友で、晩年の自伝的作品「硝子戸の中」で友達「O」として登場している。
廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應… 廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應元年11月6日) - 1935年(昭和10年)9月2日)は、日本の工学者、実業家、教育者。 広島県福山市出身。廣田家は代々備後福山藩の勘定役を勤めた家系であった。県立広島中学(現・広島県立国泰寺高校)を経て東京帝国大学機械科卒業。帝大の技術者の第一期の卒業生で技術者のはしり。当時は機械そのものが外国から輸入され、参考書や説明書も全て外国から取り寄せるため英語は不可欠だった。帝大在学中の1886年、学友と東京理科大学の生徒計4人で自転車会を設立。これは日本で最初の自転車クラブともいわれ、金を出し合って購入したオーディナリー型自転車を廣田らが日本人で初めて乗ったともいわれる。
増子 喜一郎(ますこ きいちろう、1865年12月19日(慶… 増子 喜一郎(ますこ きいちろう、1865年12月19日(慶応元年11月2日)- 1924年(大正13年)2月11日)は、日本の教育家である。 越後に生まれ、帰郷して苦学を重ねた後に上京する。後に当時大日本帝国海軍少将だった世良田亮からの援助を受け、1887年(明治20年)に世良田が清朝へ派遣されたことによりその従者として彼と共に天津で同朝の研究に携わった。1890年(明治23年)に帰国し、その後は東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科に入学する。 1893年(明治26年)に卒業後は同校の舎監を務め、後に早稲田尋常中学校(現在の早稲田中学校・高等学校)の創立時の際にその事務として活動する。その後は同校の幹事に就任し、その経営の傍らで1924年(大正13年)に死去するまで日中提携の信条に基づいて同校に通学する中国人留学生の庇護にもあたった。
渡辺 龍聖(わたなべ りょうせい・わたなべ りゅうせい、18… 渡辺 龍聖(わたなべ りょうせい・わたなべ りゅうせい、1865年10月17日〈慶応元年8月28日〉 - 1944年〈昭和19年〉7月2日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者、倫理学者。文学博士。号は乾甫。 越後国古志郡吉水村(現・新潟県長岡市)生まれ。 東京専門学校(現早稲田大学)を卒業、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)で学び、アメリカのコーネル大学で哲学博士号取得(1892年・専攻は倫理学・哲学史・心理学)。 1898年6月高等師範学校附属音楽学校主事。1899年8月に東京音楽学校校長(現東京芸術大学)に就任。校長時代には瀧廉太郎を支えた。 1911年小樽高等商業学校初代校長(現小樽商科大学)に就任。
岩垂 今朝吉(いわだれ けさきち、1865年10月10日 -… 岩垂 今朝吉(いわだれ けさきち、1865年10月10日 - 1917年7月16日)は日本の教育家。 信濃国諏訪郡小井川村(現・長野県岡谷市)生まれ。1887年長野県師範学校卒。高島小学校の訓導となる。素封家に篤志を依り、明治22年(1889年)諏訪郡育英会(後の諏訪郡実科中学校の前身母体)を創設。中学校設置の必要性を説き、諏訪中学(現諏訪清陵高等学校)教諭となった。また女子中等教育の必要性を説き、諏訪高等女学校(現諏訪二葉高等学校)の創設に尽力し、初代校長。生涯を通じ諏訪地域の教育普及に尽力した。大正5年(1916年)従七位に叙せられた。 この項目は、教育に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:教育)。
森 外三郎(もり ほかさぶろう、1865年9月20日〈慶応元… 森 外三郎(もり ほかさぶろう、1865年9月20日〈慶応元年8月1日〉 - 1936年〈昭和11年〉3月6日)は石川県出身の数学者であり教育者。第三高等学校校長などを務めた。 1865年、石川県金沢に生まれる。第一高等学校を経て東京帝国大学理科大学に進んだ。1891年(明治24年)に同大学数学科を卒業。1892年(明治25年)には同郷の友人である香村小録に桜井一久の妹・倉を紹介、結婚に至る。 三重県尋常中学校教諭となった外三郎は、第三高等学校や学習院などで教授を歴任した。1909年(明治42年)よりイギリス・アメリカ・ドイツに留学し、当時欧米で最先端の教育として注目されていた新教育運動(日本では「大正自由教育運動」)に触れる。
狩野 亨吉(かのう こうきち、1865年9月17日(慶応元年… 狩野 亨吉(かのう こうきち、1865年9月17日(慶応元年7月28日) - 1942年(昭和17年)12月22日)は、日本の教育者。号は君山。
長尾 半平(ながお はんぺい、1865年9月17日(慶応元年… 長尾 半平(ながお はんぺい、1865年9月17日(慶応元年7月28日) - 1936年(昭和11年)6月20日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の土木技術者、鉄道技術者、教育者、政治家、実業家。俳人でもあり、「秋邨」と号した。 祖伯父は長尾秋水。1865年(慶応元年)村上藩士の長男として、越後国村上堀片(現・新潟県村上市堀片)で生まれる。若くしてクリスチャンとなり禁酒主義者となる。1879年から地元新潟の語学校に入学したが、同1885年学制改革により同学校が廃止し上京。築地英語学校に通うほか青山学院で聖書研究。 1887年(明治20年)大学予備門から工部大学校(現東京大学工学部)に進学し、後身の帝国大学工科大学土木工学科を1891年に卒業。
白坂 栄彦(しらさか えいひこ、1865年(慶応元年)9月 … 白坂 栄彦(しらさか えいひこ、1865年(慶応元年)9月 - 1944年(昭和19年))は、日本の教育者、文部省官僚、県官吏。 熊本県蘆北郡佐敷村出身。1880年熊本県立熊本中学校に入学。1884年上京して大学予備門政治科に入学し、1889年に帝国大学に入学した。帝大入学にあたっては「旧藩主の若君の教授の任」を引き受け、この家庭教師の仕事が難物であったため、大学卒業が遅れたという。 1894年帝国大学法科大学政治学科を卒業後、教育への興味から、同年10月文部省に入省。実業学務局勤務の視学官となる。1901年岡山県に転出、内務部第三課長・県視学官を務めた。1904年、日露戦争が勃発すると、銃後の護り戦後の用意として、実科的女子教育の必要性を考え、白坂が中心となって、私立岡山実科女学校(現・就実学園)の創設発起人として名を連ねている。
吉田 栄右(よしだ まさすけ、1865年8月21日(慶応元年… 吉田 栄右(よしだ まさすけ、1865年8月21日(慶応元年7月1日) - 1944年(昭和19年)4月17日)は、日本の実業家、教育者。常盤生命保険株式会社(現・朝日生命保険)元支配人、元専務取締役、紐育(ニューヨーク)生命保険会社元日本支店長。実業界に入る前には、学習院大学、東洋協会専門学校(現・拓殖大学)、水産講習所(現・東京海洋大学)等で教鞭を執った。聖公会の信徒。 1865年8月21日(慶応元年7月1日)、石州浜田藩士の吉田保(1834年(天保5年4月16日)〜1907年(明治40年)9月8日)と母志ゆん(同藩士三浦兼義二女、1847年(弘化4年9月)〜1929年(昭和4年)10月27日)の長男として生まれる。