小原 元(おはら げん、1919年(大正8年)2月1日 - … 小原 元(おはら げん、1919年(大正8年)2月1日 - 1975年(昭和50年)4月30日)は、日本の文芸評論家、国文学者。元法政大学教授。 1919年(大正8年)2月1日、朝鮮に生まれる。法政大学を卒業する。 戦後一時期は新日本文学会の事務局に勤めていた。その後、リアリズム研究会の結成に参画する。 1962年(昭和37年)に法政大学教授に就任する。小林多喜二、中野重治、宮本百合子らのプロレタリア文学の研究を中心に、森鷗外や樋口一葉らの明治期の文学も研究する。 1975年(昭和50年)4月30日に死去、56歳。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
佐藤 静夫(さとう しずお、1919年1月12日 - 200… 佐藤 静夫(さとう しずお、1919年1月12日 - 2008年5月6日)は、日本の文芸評論家である。東京出身。上智大学文学部卒。 戦後まもなくから、新日本文学会に所属し、雑誌の編集をしながら、評論を書く。このころ、宮本百合子の知遇をうけたという。1950年代後半から、リアリズム研究会の創立に参画し、機関誌『現実と文学』に「戦後民主主義文学運動史」(のち啓隆閣から刊行)を連載、知名度を高める。1965年の日本民主主義文学同盟創立の際には、機関誌『民主文学』の初代編集長をつとめ、その後は、文学同盟の副議長をつとめた。 戦後文学史の研究と、宮本百合子研究を仕事の中軸にすえ、『戦後文学の三十年』(光和堂、多喜二・百合子賞受賞)、『宮本百合子と同時代の文学』(本の泉社)などの著書がある。
唐津 一(からつ はじめ、1919年1月9日 - 2016年… 唐津 一(からつ はじめ、1919年1月9日 - 2016年8月15日)は、日本の評論家、システム工学者。東海大学名誉教授。 旧満州安東(現丹東)生まれ。東京帝国大学工学部卒業後、逓信省電気試験所を経て、日本電信電話公社(現NTT)に入社。1961年、松下通信工業に移り、1978年常務取締役、1984年には松下電器産業技術顧問に就任。1986年より東海大学開発技術研究所教授。1990年から1993年まで東海大学福岡短期大学初代学長を兼ねた。1998年より東海大学教授。著書多数。 2016年8月15日、老衰のため死去。97歳没。
細川 隆一郎(ほそかわ りゅういちろう、1919年1月1日 … 細川 隆一郎(ほそかわ りゅういちろう、1919年1月1日 - 2009年8月25日)は、日本の政治記者・評論家・コメンテーター、タレント・ラジオパーソナリティである。第79代内閣総理大臣の細川護熙は遠い親戚関係に当たる。
折原 脩三(おりはら しゅうぞう、1918年11月4日 - … 折原 脩三(おりはら しゅうぞう、1918年11月4日 - 1991年2月28日)は、日本の思想や老い問題評論家。本名・伊東庫之助。 千葉県生まれ。東京商科大学(現・一橋大学)卒業。横浜正金銀行に勤務。 戦時中は陸軍二等兵として中国で従軍。 戦後、東京銀行に勤務するかたわら、評論活動を行っていたが、1973年に退職。 退職後は思想の科学研究会会長をつとめた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田代 三良(たしろ さぶろう、1918年9月27日 - 19… 田代 三良(たしろ さぶろう、1918年9月27日 - 1999年4月21日)は、日本の教員・教育評論家。 福島県平市(現:いわき市)または栃木県・喜連川町生まれ。旧制水戸中学校、旧制第一高等学校、東京帝国大学文学部国文科(松尾芭蕉を研究)を卒業。学徒出陣し、インパール作戦に従軍した。 1941年(23歳)12月8日の開戦により12月31日付で繰り上げ卒業となり、1942年2月1日仙台第33師団輜重連隊(補充隊)自動車中隊に配属。軍隊内の非合理性に反抗的な態度であったためか幹部候補試験に不合格となり、本部指揮班・功績係助手となる。 上官に南方派遣を直訴し、11月補充交代要員として12月13日ジャワ派遣第4816部隊として出発。
松村 喜雄(まつむら よしお、1918年9月16日 - 19… 松村 喜雄(まつむら よしお、1918年9月16日 - 1992年1月10日)は、日本の外交官、推理小説評論家、推理作家、翻訳家。三谷 幸夫、花屋 治の筆名もあり。東京府出身。 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町生まれ。実母は江戸川乱歩・平井蒼太兄弟の従妹。親戚として幼時から乱歩と交際して育つ。 小学校卒業後、花崎清太郎および石川一郎の両人と知り合い、彼らの影響で読書の世界に熱中。早稲田実業学校を経て東京株式取引所に勤務。このときの同僚に劇作家の小野田勇がいた。勤務の傍ら、フランス語を独習。のち編入試験を受けて東京外国語学校(現在の東京外国語大学)仏語科に入学。卒業後は外務省に勤務。
油井 正一(ゆい しょういち、1918年8月15日 - 19… 油井 正一(ゆい しょういち、1918年8月15日 - 1998年6月8日)は、日本のジャズ評論家。1950年代から晩年まで、日本のジャズ評論の第一人者と評される活躍をした。 横浜市生まれ。1924年、神戸市へ移り、同地で育つ。兵庫県立第三神戸中学校を経て、慶應義塾大学法学部に学び1941年に卒業した。ジャズへの関心は学生時代からのもので、当時から既にレコードの収集、ジャズ評論の執筆を始めていた。戦時中は兵役に就き、前橋陸軍予備士官学校から東部22部隊へ配属され、将校として高射砲部隊にいた。戦後は評論活動を再開し、神戸で朝比奈次郎と名乗り、1952年に開局したラジオ神戸(現・ラジオ関西)で「ジャズ・アメリカーナ」という番組を担当し、選曲にもあたった1955年に神戸から上京し、評論家としての本格的な活動に入った。
堀田 善衛(ほった よしえ、1918年〈大正7年〉7月7日 … 堀田 善衛(ほった よしえ、1918年〈大正7年〉7月7日 - 1998年〈平成10年〉9月5日)は、日本の小説家、評論家。
陸井 三郎(くがい さぶろう、1918年(大正7年)6月28… 陸井 三郎(くがい さぶろう、1918年(大正7年)6月28日 - 2000年(平成12年)1月13日)は、日本の国際政治評論家である。『ハリウッドとマッカーシズム』などの著作で知られる。 東京出身。1940年、青山学院(のちの青山学院大学)高等商学部を卒業。第二次世界大戦中は太平洋協会、戦後は世界経済研究所に勤務し、アメリカ研究所長(1966年 - 1973年)、アジア・アフリカ研究所員(1961年 - 2000年)、「ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会」事務局長(1966年 - 1975年)を歴任した。1967年、ベトナム戦争における米国の戦争犯罪を裁く民衆法廷「国際戦争犯罪法廷」(ラッセル法廷)に参加し、調査や証言を行った。
矢内原 伊作(やないはら・いさく、1918年5月2日 - 1… 矢内原 伊作(やないはら・いさく、1918年5月2日 - 1989年8月16日)は、日本の哲学者、評論家。
小坂 秀二(こさか ひでじ、1918年3月16日 - 200… 小坂 秀二(こさか ひでじ、1918年3月16日 - 2003年4月6日)は、日本の歯科医、相撲評論家、著作家、アナウンサー。 太平洋戦争で軍医として徴用され終戦まで中国の陸軍病院に勤務。その後NHK・TBSで相撲等でスポーツアナウンサーとして活躍。1974年にアナウンサーを引退。1975年に歯科医に復帰後は、相撲評論家・著作家としても活動し、「柏鵬時代」の命名者でも知られる。 東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)出身。幼年期から相撲になじみ、学生時代が双葉山の全盛と重なっていたこともあって、さらに没頭する。 東京高等歯科医学校卒業。卒業後、歯科医となる。 東京高等歯科医学校時代、翌日に解剖学の大事な卒業試験を控え猛勉強中に「双葉山70連勝ならず!」の一報が入り、その衝撃で試験のことが頭に入らなくなり、翌日、追試験覚悟で臨んだところ、厳格で知られる試験官の藤田恒太郎教授が相撲好きの人で、「小坂君、双葉山負けたね!」といきなり話をふられた。
中村 真一郎(なかむら しんいちろう、1918年(大正7年)… 中村 真一郎(なかむら しんいちろう、1918年(大正7年)3月5日 - 1997年(平成9年)12月25日)は、日本の小説家・文芸評論家・詩人。なお旧字体の「眞一郎」名義での出版もある。
藤田 晴子(ふじた はるこ、1918年2月25日 - 200… 藤田 晴子(ふじた はるこ、1918年2月25日 - 2001年10月20日)は日本のピアニスト、音楽評論家、法学者。選挙制度審議会委員。
宇佐見 英治(うさみ えいじ、1918年1月13日 - 20… 宇佐見 英治(うさみ えいじ、1918年1月13日 - 2002年9月14日)は、日本の詩人・フランス文学者・美術評論家。明治大学名誉教授。 大阪府出身。1941年(昭和16年)東京帝国大学文学部倫理学科卒。48年『同時代』の創刊に矢内原伊作らと参加、同誌の第3次第二号(黒の会、1997年5月)では個人特集も組まれた。そのほか『歴程』にも参加。明治大学商学部教授を務め、88年定年。 1957年(昭和32年)、初の著書となる『ピエールはどこにいる』を刊行。同書に収録された中編小説「死人の書」は宇佐見英治の小説における代表作であり、その後も推敲が加えられ『夢の口』『死人の書』に再録されている。 1982年(昭和57年)『雲と天人』が第20回藤村記念歴程賞を、97年『明るさの神秘』を始めとする評論活動の業績から第7回宮沢賢治賞を受賞。
加太 こうじ(かた こうじ、1918年1月11日 - 199… 加太 こうじ(かた こうじ、1918年1月11日 - 1998年3月13日)は、日本の大正、昭和の庶民史、世相・風俗・文化史などの評論家・庶民文化研究家・紙芝居作家。 東京市浅草区神吉町(現・東京都台東区東上野四丁目、五丁目辺り)の貧困家庭に生まれ、荒川区尾久に育つ。本名は加太一松(かぶと かずまつ)だが、名門の加太家の血筋を誇る父に反発し、尋常小学校5年の時から「かた」と名乗るようになった。父親が働かないため関東大震災前に母親と別れ、大商人の妾をしていた伯母(父親の姉)に育てられる。 紙芝居の世界に入ったのは高等小学校在学中の14歳の時。高等小学校卒業後、師範学校への進学を希望していたが、給費制度廃止のために断念し、紙芝居の世界で働く。
白井 健三郎(しらい けんざぶろう、1917年12月12日 … 白井 健三郎(しらい けんざぶろう、1917年12月12日 - 1998年2月13日)は、日本の文芸評論家、フランス文学者、翻訳家。 東京市神田区(現千代田区神田)出身。 1943年東京帝国大学文学部仏文科卒業。1948年慶應義塾大学講師、1952年経済学部助教授、1954年学習院大学文学部フランス文学科助教授、1961年教授。1988年定年退任、名誉教授。 1995年勲三等瑞宝章を受章。 1998年死去。享年80。 戦時中に、福永武彦、中村真一郎たちが中心となったマチネ・ポエティクに参加し、数編の日本語による定型押韻詩や小説を遺した。その後のアルベール・カミュやジャン=ポール・サルトルの著書の翻訳紹介で知られる。
佐藤 泰正(さとう やすまさ、1917年11月26日 - 2… 佐藤 泰正(さとう やすまさ、1917年11月26日 - 2015年11月30日)は、山口県出身の日本近代文学研究者・文芸評論家。学位は、文学博士(早稲田大学)。元梅光学院大学学長。 山口県生まれ。1934年(昭和9年)に山口県立豊浦中学校4年修了、第一早稲田高等学院を経て、1940年(昭和15年)に早稲田大学文学部卒業。早稲田大学より文学博士の学位を取得。 梅光女学院大学教授、副学長、学長を歴任。磯田光一を専任教員に迎えて大学院の設置に尽力し、詩人の北川透を客員教授に迎えるなどして、西日本における日本近代文学研究の拠点を作り、学長に就任した1972年から梅光女学院大学公開講座を行い、毎年論集を刊行した。
伊藤 昌哉(いとう まさや、1917年(大正6年)11月21… 伊藤 昌哉(いとう まさや、1917年(大正6年)11月21日 - 2002年(平成14年)12月13日)は、日本の政治評論家。満洲生まれ。池田勇人内閣総理大臣の秘書官を経て、政治論壇や宏池会で活動した。愛称は「ブーちゃん」。池田内閣の影の官房長官と呼ばれた。 南満洲大石橋(現:中国遼寧省大石橋市)生まれ。奉天中学、旧制一高を経て、1942年に東京帝国大学法学部卒業。1943年11月に新京陸軍経理学校卒業。卒業後、経理部将校として終戦まで従軍した。母と妹のいる満洲に向かうため湖南省長沙で現地除隊となり、北上する。しかし湖北省漢口で日本人は旧日本租界に設けられた集中区と呼ばれる一角に収容され、しばらく収容日本人向けの商売で食いつないだ後、上海から福岡市に送還される。
平田 次三郎(ひらた じさぶろう、1917年10月30日 -… 平田 次三郎(ひらた じさぶろう、1917年10月30日 - 1985年10月28日)は、日本の評論家、ドイツ文学者。 福島県生まれ。1941年東京帝国大学文学部独文科卒。在学中、山下肇、堤重久、小島輝正らと同人誌『新思潮』を刊行。卒業後、逓信省・内務省嘱託・明治大学講師などを経て、中央大学教授。戦後から文芸評論活動を始め、1947年春『近代文学』同人となり、編集者としても働く。荒正人とともに夏目漱石論などを書いた。中大在職中に死去。
那須 国男(なす くにお、1917年9月20日 - )は、日… 那須 国男(なす くにお、1917年9月20日 - )は、日本の作家、編集者、評論家、翻訳家。 東京生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。太平洋戦争時中ヴェトナムの日本大使館に勤務。 戦後、『個性』『人間』編集次長。1949年「還らざる旅路」で芥川賞候補。 フランス語の翻訳などしたのち、アフリカ評論家となる。
堤 重久(つつみ しげひさ、1917年8月21日 - 199… 堤 重久(つつみ しげひさ、1917年8月21日 - 1999年1月31日)は、日本の文芸評論家、京都産業大学名誉教授。 太宰治の一番弟子で、著書に『太宰治との七年間』がある。 東京新宿の開業医の息子。旧制東京府立高等学校(後の東京都立大学)3年在学時、18歳のとき、『晩年』を読んで衝撃を受け、太宰治に心酔する。府立高の1級上で友人だった小田切秀雄の紹介で清水幾太郎の門人となる。 東京帝国大学(現・東京大学)文学部独文科で木村謹治や相良守峯、中島健蔵、辰野隆に師事。大学在学中、平田次三郎、山下肇、小島輝正たちと共に「新思潮」に参加。 1940年初冬に太宰の門人となる。1942年大学卒業後は東大図書館に勤務しつつ、作家を志して長篇小説を執筆。
中島 河太郎(なかじま かわたろう、1917年6月5日 - … 中島 河太郎(なかじま かわたろう、1917年6月5日 - 1999年5月5日)は、日本のミステリー文学評論家、アンソロジスト、国文学者。本名は、中嶋馨(なかじま かおる)。日本推理作家協会第7代理事長。日本ミステリー文学大賞受賞者。和洋女子大学元学長・名誉教授。江戸川乱歩の薫陶を受けた推理小説研究の第一人者で、推理小説に加え国文学・民俗学の書誌学者としても知られる。別名に小城魚太郎、石羽文彦、玉井一二三。 鹿児島県鹿児島市生まれ。鹿児島県立第一鹿児島中学校、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学文学部国文科で中世説話文学を専攻する。旧制中学時代から兄の影響で「新青年」を読み始め、探偵小説に親しむ。
長沢 節(ながさわ せつ、1917年5月12日 - 1999… 長沢 節(ながさわ せつ、1917年5月12日 - 1999年6月23日)は、日本のイラストレーター、水彩画家、デザイナー、エッセイスト、ファッション評論家、映画評論家。セツ・モードセミナー創設者。日本のファッション・イラストレーターの草分け。 本名は、長沢 昇(ながさわ のぼる)。 福島県会津若松市に生まれる。 小学校時代、画家で小学校教師の渡部菊二と出会う。会津中学入学。 軍事教練をボイコットした為、官立校の東京美術学校(東京芸大)への受験資格を失う。文化学院へ入学。卒業後水彩画家へ。 春日部たすく画伯と親交。戦前から中原淳一の推薦で女性誌『新女苑』にデビュー。『それいゆ』や『ひまわり』といった雑誌にイラストやエッセイを掲載。
丹羽 小弥太(にわ こやた、1917年4月1日 - 1983… 丹羽 小弥太(にわ こやた、1917年4月1日 - 1983年9月28日)は、日本の科学評論家、翻訳家。 宮城県生まれ。東京文理科大学卒。駒澤大学教授。 晩年は、口腔底部ガンに侵され、あごの骨を切除して人工あごとする手術を受けるなど長く闘病し、その状況を書籍にまとめたことで注目された。
大島 康正(おおしま やすまさ、1917年3月2日 - 19… 大島 康正(おおしま やすまさ、1917年3月2日 - 1989年12月20日)は、日本の倫理学者・評論家。筑波大学名誉教授。 1940年京都帝国大学文学部哲学科卒、助手となり京都学派の一員となる。戦後東京教育大学助教授、教授を経て筑波大学名誉教授、京都産業大学世界問題研究所長を務めた。日本ユネスコ国内委員会調査委員や中央教育審議会委員などを歴任。日本倫理学会常任評議員。 三島由紀夫は大島康正について、「きき捨てならぬのは、この大島氏が、高校社会科の指導要領の改定にあづかつて、教育基本法第九条の『公立学校では特定の宗教のための宗教教育をしてはならない』といふ条文から、文部省のしやくし定規に味方して、日本の親鸞も道元も、すつかり追ひ出してしまつて、何ら反省の色も見えぬことである。
中井 幸一(なかい こういち、本名:中井 幸房(なかい ゆき… 中井 幸一(なかい こういち、本名:中井 幸房(なかい ゆきふさ)、1917年(大正6年)2月15日 - 2020年(令和2年)12月28日)は、日本の写真評論家、広告評論家。 京都府出身。日本大学芸術学部卒業。1951年、電通に入社。1973年、電通を退社。 電通に勤務し、アートディレクター制(アート・ディレクター・システム。クライアントとデザイナーの間にアートディレクターを置き、アートディレクターが両者の単なる橋渡し(連絡係的役割)だけではなく、積極的にデザインをまとめ上げる中核的な役割をになうシステム)の導入を積極的に行った。 日本大学芸術学部教授も務めた。1992年に日本大学を定年退職。
三枝 康高(さいぐさ やすたか、1917年2月11日 - 1… 三枝 康高(さいぐさ やすたか、1917年2月11日 - 1978年3月27日)は、日本近代文学研究者、文芸評論家、元静岡大学教授。 神奈川県出身。静岡県立静岡中学校卒業。旧制姫路高等学校文科甲類卒業。東京帝国大学文学部卒業。在学中に亀井勝一郎、太宰治と相知り、『日本浪漫派』に参加。創作・評論活動をおこない、戦後静岡大学教育学部助教授、のち教授。 1959年「日本浪曼派の運動」のほか、太宰、川端康成、三島由紀夫など昭和期作家、および国学の研究・評論に幅広く活躍した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
海原 治(かいはら おさむ、1917年2月3日 - 2006… 海原 治(かいはら おさむ、1917年2月3日 - 2006年10月21日)は、日本の内務・警察・防衛官僚、軍事評論家。大阪府出身。本籍は徳島県。 第一東京市立中学校・第一高等学校を経て、1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、内務省入省。入省同期に後藤田正晴がいた。内務省大臣官房文書課勤務を経て、1940年1月に高知県事務官を発令。太平洋戦争勃発と前後して、1940年2月、陸軍第11師団歩兵第43連隊(徳島)に入営、経理部幹部候補生になり、第11師団経理勤務班隊長の陸軍主計大尉として終戦を迎える。 終戦によって第11師団は兵器を県に引渡し、県が占領軍へと引き渡すことになっていたが、目録を作成して引き渡す第11師団の経理勤務班の隊長でありながら、それを受け取る高知県事務官でもあったので同師団でもっとも早い召集解除となった。
秋山 ちえ子(あきやま ちえこ、1917年1月12日 - 2… 秋山 ちえ子(あきやま ちえこ、1917年1月12日 - 2016年4月6日)は、日本のラジオパーソナリティ、エッセイスト、時事評論家。本名、橘川ちゑ(きっかわ ちえ)。 宮城県仙台市出身。1935年に東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)を卒業後、聾唖学校の教師となる。この時、取材に訪れた川端康成と知り合い、北条誠を川端に紹介する。結婚後、中華民国に4年滞在。1948年(昭和23年)から1956年(昭和31年)まで、NHKラジオ番組『私の見たこと、聞いたこと』のレポーターを担当し、主婦の視点から見た日本の現状をわかりやすく説明した。1954年(昭和29年)にラジオ番組「私の見たこと聞いたこと」で第2回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞(書籍ではなく、ラジオ番組に対しての授与)。
本間 正義(ほんま まさよし、1916年12月25日 - 2… 本間 正義(ほんま まさよし、1916年12月25日 - 2001年10月10日)は、日本の美術評論家。 新潟県長岡市出身。旧制長岡中学、旧制二高、東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。東京国立近代美術館次長を経て、1975年(昭和50年)大阪国立国際美術館長、1982年(昭和57年)埼玉県立近代美術館長。 サンパウロビエンナーレ、現代日本美術展など、国内外の主要美術展の審査員としても活躍した。専門の近代彫刻のほか、美術館運営や企画、国際展の審査などで活躍。ユニークな展覧会を企画する名物館長として知られた。美術評論家連盟会長。オーボエ奏者で古楽研究者であった本間正史(1947-2016)は子息。
国頭 義正(くにとう よしまさ、1916年12月12日 - … 国頭 義正(くにとう よしまさ、1916年12月12日 - 1981年10月1日)は、日本の経営評論家。 鳥取県淀江町(米子市)出身。共同通信記者、大阪タイムス社論説委員、報道部長、編集局長、1949年『経済春秋』を創刊、主宰、ケイザイ春秋社社長。
中村 伝三郎(なかむら でんざぶろう、1916年(大正5年)… 中村 伝三郎(なかむら でんざぶろう、1916年(大正5年)10月30日 - 1994年(平成6年)8月23日)は、日本の美術評論家。兵庫県出身。東京帝国大学卒。1947年国立博物館付属美術研究所(現・東京国立文化財研究所)入所、美術部第二研究室長。彫塑史専門、91年『明治の彫塑』で毎日出版文化賞受賞。
後藤 譽之助(ごとう よのすけ、1916年10月25日 - … 後藤 譽之助(ごとう よのすけ、1916年10月25日 - 1960年4月13日)は、官僚、官庁エコノミスト、経済評論家。 経済白書執筆にあたり、第二次大戦後の日本の経済復興に対する政策立案に方向を与えた。 現在の東京都墨田区出身。大相撲年寄り、二十山親方(第二代小錦八十吉、本名後藤鶴松)の長子。母、菊。東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)卒業。旧制第一高等学校卒業。 1941年12月、東京帝国大学工学部電気工学科卒。電気庁、大東亜省奉職。経済安定本部・経済審議庁・経済企画庁において、第二次大戦後の日本の経済復興政策立案及び景気循環分析にかかわる。直属の上司・先輩に大来佐武郎、部下に宍戸寿雄、金森久雄、内野達郎、丸茂明則等。
後藤 譽之助(ごとう よのすけ、1916年10月25日 - … 後藤 譽之助(ごとう よのすけ、1916年10月25日 - 1960年4月13日)は、官僚、官庁エコノミスト、経済評論家。経済白書執筆にあたり、第二次大戦後の日本の経済復興に対する政策立案に方向を与えた。
柴田 南雄(しばた みなお、1916年〈大正5年〉9月29日… 柴田 南雄(しばた みなお、1916年〈大正5年〉9月29日 - 1996年〈平成8年〉2月2日)は、日本の作曲家、音楽評論家、音楽学者。 東京府東京市神田区駿河台袋町(現:東京都千代田区神田駿河台)に生まれ、1945年まで東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現:新宿区百人町)で暮らす。 1921年、東京女子高等師範学校附属幼稚園(現:お茶の水女子大学附属幼稚園)に入る。1923年、暁星小学校入学。1932年、暁星中学校から成城高等学校尋常科(現:成城大学)に編入。1933年、成城高等学校高等科理科甲類(英語クラス)に進んだ頃から、ピアノを岩井貞麿、ジェームス・ダンに、チェロを鈴木二三雄に、作曲を細川碧、諸井三郎に、指揮法を斎藤秀雄に師事。
小田切 秀雄(おだぎり ひでお、1916年(大正5年)9月2… 小田切 秀雄(おだぎり ひでお、1916年(大正5年)9月20日 - 2000年(平成12年)5月24日) は、日本の文芸評論家、近代文学研究者。法政大学名誉教授。 1916年(大正5年)、東京都品川区生まれ。府立高等学校尋常科に入学する。1932年(昭和7年)、学内の共産党グループのキャップとして治安維持法違反で警視庁目黒署に逮捕され、15日間勾留された後、3ヶ月の停学処分を受ける。翌年、府立高等学校高等科に進学するも、再び治安維持法違反で逮捕され、75日間拘留される。「軽はずみでした、もうしません」と宣誓書を書いて転向し、起訴猶予処分で釈放され、高等学校から諭旨退学処分を受ける。1935年、学生運動に参加せず学業に専念することを条件として、法政大学予科に編入学を認められる。
井手 則雄(いで のりお、1916年8月25日 - 1986… 井手 則雄(いで のりお、1916年8月25日 - 1986年1月3日)は、日本の彫刻家、美術評論家、詩人。別名は矢野 則雄。 朝鮮京城府生まれ、長崎県北松浦郡佐々村出身。1939年東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒業、1941年研究科修了。 在学中から二科展などに出品、1943年銀座で個展を開く。戦後、前衛美術会を結成。1972年12月宮城教育大学教授。1981年退官。『純粋詩』『造型文学』『新日本詩人』『列島』などに詩や評論を発表。 1986年1月3日、福島県双葉郡富岡町の小浜海岸を散歩中に転倒して、怪我によって起きられなくなったまま凍死した。墓所は多磨霊園。 元妻は、女性史研究家の井手文子。
大西 巨人(おおにし きょじん、1916年(大正5年)8月2… 大西 巨人(おおにし きょじん、1916年(大正5年)8月20日 - 2014年(平成26年)3月12日)日本の小説家・評論家。本名は同じく「巨人」と書いて「のりと」。マルクス主義の立場を堅持し、唯物論的観点から個人の尊厳を創作で追究した。小説・批評のいずれにおいても、常に主体を明確にした、論理性を重んじる文体を用いた。 戦後、「近代文学」などに小説・評論を発表。戦後文学・思想の方向性を巡る論争で積極的に発言する。1955年から25年間書き継いだ『神聖喜劇』のほか、『五里霧』(1997年)、『迷宮』(2004年)など。 福岡県福岡市出身。旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、旧制福岡高等学校卒業、九州帝国大学法文学部中退。
近藤 積(こんどう つもる、1916年8月19日 - 198… 近藤 積(こんどう つもる、1916年8月19日 - 1989年12月14日)は、日本の演出家、音楽評論家、NHKディレクター・プロデューサー、音楽部長。NHKテレビ草創期のディレクターで、『NHK紅白歌合戦』の創設を始め、『今週の明星』、『懐かしのメロディー』など多くの歌謡番組を手掛けた。 広島県出身。1940年日本大学卒業後、当時社団法人だったNHKに入局。 当初から音楽番組の担当で、終戦年の1945年、大晦日に放送するラジオの大型音楽番組の企画を担当。スポーツの対抗戦の形をとり男女が紅白に分かれて戦うという構想で『紅白音楽合戦』を立案した。こうした発想は当時としては非常に斬新なものだった。
野村 晋一(のむら しんいち、1916年6月3日 - 199… 野村 晋一(のむら しんいち、1916年6月3日 - 1991年11月10日)は、日本の獣医、競馬評論家。 福島県白河市出身。1941年東京帝国大学農学部獣医学科卒。農林省日高種馬牧場嘱託。 1956年「馬の肘関節及び肘関節の機構学的研究」で東京大学農学博士。東大農学部助教授、1966年教授、1977年定年退官、名誉教授。 1971年日本農学賞、読売農学賞受賞。1989年勲三等瑞宝章受章。
福岡 隆(ふくおか たかし、1916年6月1日 - 2002… 福岡 隆(ふくおか たかし、1916年6月1日 - 2002年4月9日)は、日本の速記者・評論家。 広島県因島に生まれる。小学三年で父を亡くす。1929年上京して簿記学校で速記を学び、英語の学校を卒業。早稲田大学文学通信教育部修了。海軍学校暗号科を卒業した。田鎖綱紀の知遇を得る。1959年から9年間、松本清張の専属速記者となる。谷崎潤一郎の速記もした。日本速記協会副理事長。 2002年4月9日、脳梗塞のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
高橋 展子(たかはし のぶこ、1916年4月19日 - 19… 高橋 展子(たかはし のぶこ、1916年4月19日 - 1990年9月25日)は、日本の昭和期の労働官僚、評論家。旧姓は富田。建築家の富田玲子は娘。 旧満洲長春に生まれる。1929年3月、長春西広場尋常小学校を卒業。長春高等女学校から、大連神明高等女学校に転校した。1933年(昭和8年)、東京女子大学英語専攻部に入学。当初、別の大学に入学したが、どうにも合わず2日で退学し、合格していた東京女子大学に1週間遅れで入学した。卒業後、直ぐに結婚し、医師の夫(道也)との間に1女2男をもうけた。娘は、建築家の富田玲子。 1943年の春に夫が召集され、旧満洲の陸軍病院へ。同年冬に5歳の長男を連れ満洲にわたるも、夫は南方へ転進。
那須 聖(なす きよし、1916年4月 - 2017年6月)… 那須 聖(なす きよし、1916年4月 - 2017年6月)は、ニューヨーク在住の外交評論家。 大正5年4月、米国カリフォルニア州に生まれる。 6歳の時、東京に移住。翌年、関東大震災を体験。 神戸に移り、関西学院大学で心理学を専攻。 当時から心理学界で異端視されていた霊を研究対象にする超心理学の研究を始める。 卒業後、昭和15年、東京帝国大学航空研究所嘱託として航空心理学の研究に従事。真珠湾奇襲攻撃直後に陸軍に応招。 戦後、毎日新聞社に入社。 昭和27年、コロンビア大学で国際関係論・国際機構論を専攻。 毎日新聞社外信部副部長、ワシントン特派員、ニューヨーク支局長、論説委員を歴任。 退社後、ニューヨークで外交評論家として新聞、雑誌などに寄稿する傍ら、各地で講演を行い、この間、吉田茂首相をはじめ、9名の日本の首相と対談。
浜口 隆一(はまぐち りゅういち、1916年3月26日 - … 浜口 隆一(はまぐち りゅういち、1916年3月26日 - 1995年1月2日)は、日本の建築評論家・建築史家。東京大学助教授等を経て、日本大学理工学部教授に就任。 東京生まれ。1938年東京帝国大学工学部建築学科卒業。丹下健三と共に前川國男建築設計事務所に入所。その後東京帝国大学大学院岸田研究室に進み、1943年に大学院修士課程修了。建築史の講師任用になるがいったん辞し、1948年東京大学助教授となるが、のち退官して評論家。1966年から1977年まで日本大学理工学部建築学科教授。
菊田 義孝(きくた よしたか、1916年(大正5年)3月21… 菊田 義孝(きくた よしたか、1916年(大正5年)3月21日 - 2002年(平成14年)7月21日)は、日本の詩人・文芸評論家。「群系」創刊同人。 仙台市生まれ。1937年(昭和12年)明治大学文藝科卒。太宰治と親しく交わる。戦後、紫書房、大蔵財務協会に勤務。1960年(昭和35年)よりフリーの編集者。かたわら文芸評論を書いた。「群系」創刊同人。 息子・菊田求(1949-1975)も詩や小説を書いたが、学生運動のさなか自死した。遺稿集に『反逆と愛のはざまで ある学生の孤独な遺書』(光風社出版 1979年5月)がある。
落合 英一(おちあい えいいち、1916年2月15日 - 1… 落合 英一(おちあい えいいち、1916年2月15日 - 1993年6月10日)は、昭和時代の労働運動家、評論家。 筆名は北 竜平。全国産業別労働組合連合(新産別)書記長、国際自由労連東京事務所所長。 岩手県岩手郡葛巻町生まれ。1936年横浜高等工業学校応用化学科卒、三井化学三池染料工業所に入社。兵役を経て、1943年東京芝浦電気(東芝)に入社。1945年12月東芝堀川町工場従業員組合の結成に参加、委員長。 1946年10月全日本電気工業労働組合(全電工)初代委員長。全日本産業別労働組合会議(産別会議)中央執行委員を兼務。1947年の2・1スト以降、日本共産党のフラクション活動に反対し、産別会議の民主化運動に取り組む。
野田 真吉(のだ しんきち、1916年1月28日 - 199… 野田 真吉(のだ しんきち、1916年1月28日 - 1993年11月22日)は、日本のドキュメンタリー映画監督・評論家、詩人。本名は、亘 真吉(わたり しんきち)。野田 眞吉表記もある。 息子に、映像民俗学者で駒沢女子大学教授の亘純吉、キャメラマン・映画プロデューサー・オフィスエムエイピー(野田の映像作品のビデオ等を販売している)代表の亘真幸(亘眞幸)。息子たちは、野田の制作映画にスタッフとして参加もしている。 父は南宗派の画家の野田青石。宇宙機エンジニアの野田篤司は青石の曾孫であり、遠縁にあたる。 1916年(大正5年)1月28日生まれ。愛媛県八幡浜市矢野町出身。 1937年、早稲田大学文学部仏文科卒業。
御園生 崇男(みそのお たかお、1916年1月16日 - 1… 御園生 崇男(みそのお たかお、1916年1月16日 - 1965年7月10日)は、山口県防府市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 日本プロ野球史上2人目のシーズン無敗を達成した。 1916年1月16日に山口県防府市で生まれる。山口県立山口中学校在学時は1933年の第10回選抜中等学校野球大会に出場経験を持つ。進学先の関西大学体育会野球部では新人戦で完封勝利を記録するなど話題の投手となり1936年2月1日に設立されたばかりの大阪タイガースから誘われると僅か1年で大学を中退し、入団した。 入団当初から主戦投手として活躍し、同年5月27日の対阪急軍戦で初勝利を挙げると、1937年秋季には15試合に登板して11勝無敗、勝率1.000の大活躍でタイガースの初優勝に貢献した。
竹内 良夫(たけうち よしお、1916年 - 1993年)は… 竹内 良夫(たけうち よしお、1916年 - 1993年)は、日本の文芸評論家。東京生まれ。中国哲学者・竹内照夫は兄。日本大学経済科卒業。1946年読売新聞社入社、文芸欄担当を10年ほど務め、71年12月退社。佐藤春夫、檀一雄、田中英光らと交友があり、同人誌『下界』に参加、西村賢太編集『田中英光私研究』第二輯(1994)に追悼特集があり、田中らをモデルにした小説「告別」(1960)もある。