花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月2… 花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月29日 - 1974年〈昭和49年〉9月23日)は、作家・文芸評論家。巧みなレトリックを駆使した文体を特徴とし、映画や演劇の評論も多く手がけ、日本のアヴァンギャルド芸術論の先駆的存在であった。 1909年3月29日、福岡県福岡市東公園に生まれ、一人っ子として育つ。先祖は毛利輝元であり、清輝の曽祖父は黒田藩の右筆で、名前には代々「輝」の字を付ける習いだった。旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)時代は柔道に熱中し、また父ともに短歌を新聞等に投稿していた。 1926年4月、鹿児島の第七高等学校甲類に入学、西田哲学に没入、また寮誌『白光』を創刊し長編詩「樹下石上」などを発表。
戸井田 道三(といだ みちぞう、1909年3月25日 - 1… 戸井田 道三(といだ みちぞう、1909年3月25日 - 1988年3月24日)は、日本の評論家、能・狂言の評論家。 東京生まれ。旧制早稲田中学を経て早稲田大学国文科卒。 1933年、中央公論社に入社するが、その年のうちに退社。1948年、天皇制と能楽の関係を説いた『能芸論』を上梓、民俗学、人類学を援用した能や狂言の考察で知られた。1954年より毎日新聞の能評を担当、のち映画評もおこなった。『戸井田道三の本』4冊がある。「きものの思想」で第17回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
大岡 昇平(おおおか しょうへい、1909年〈明治42年〉3… 大岡 昇平(おおおか しょうへい、1909年〈明治42年〉3月6日 - 1988年〈昭和63年〉12月25日)は、日本の小説家、評論家、フランス文学の翻訳家・研究者。 東京牛込に生まれた。父は相場師で、社会的身分の変動が激しく、それが自我の目覚めを早熟にしたという。戦前はスタンダールを研究した。フィリピンのミンドロ島での俘虜経験をもとにした『俘虜記』(1948年)で作家の地位を確立。『武蔵野夫人』(1950年)などの恋愛小説の秀作も書くが、その目は一貫して戦争に向けられていた。戦記文学『レイテ戦記』『野火』が代表作である。1972年に日本芸術院会員に推されたが、俘虜の経験を理由に辞退した。 1909年(明治42年)3月6日、 東京市牛込区(現:新宿区)新小川町に父・貞三郎、母・つるの長男として生まれた。
土方 正巳(ひじかた まさみ、1909年3月4日 - 199… 土方 正巳(ひじかた まさみ、1909年3月4日 - 1997年2月7日)は日本のジャーナリスト、評論家。 弟は、飯沢匡作のNHK人形劇のデザインなどで知られる、画家の土方重巳。 北海道生まれだが、父が日本郵船勤務で幼時は各地を転々とする。 1926年6月、開成中学(旧制)同級生の川尻東次、中村伸郎、鳥山榛名、青柳忠正らとともに「ダナ人形座」の名で人形劇の公演を行う。これが人形劇団プークの始まりである。 1932年、東京帝国大学文学部心理学科を卒業し、都新聞社(1942年に國民新聞社と合併して東京新聞社となる)に入社。同期に北原武夫がいる。1940年、文化部長。1950年、論説委員。1956年、編集局長。
河上 英一(かわかみ ひでかつ、1909年(明治42年)3月… 河上 英一(かわかみ ひでかつ、1909年(明治42年)3月2日 - 1992年(平成4年)8月12日)は、日本の演劇評論家。 1909年(明治42年)3月2日に東京府京橋で生まれる。1934年(昭和9年)、法政大学法文学部を卒業する。 1937年(昭和12年)に読売新聞に入社し、レビュー担当記者になる。読売新聞娯楽部長を経て、演劇評論家になる。 読売新聞夕刊娯楽面に毎週「月曜ジャーナル」を掲載した。 また、芸術選奨文部科学大臣賞の演劇部門の選考委員を務めた。 1992年(平成4年)8月12日に死去、83歳。
菊盛 英夫(きくもり ひでお、1909年2月14日 - 20… 菊盛 英夫(きくもり ひでお、1909年2月14日 - 2001年12月12日)は、日本の文学研究者、ドイツ文学者、映画・文芸評論家、翻訳家。中央大学教授を歴任。 富山県富山市生まれ。1933年東京帝国大学独文科卒業。1980年まで中央大学教授。 多くの著書、翻訳があり、トーマス・マンを専門とした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19… 水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19日 - 1982年〈昭和57年〉3月26日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・監督、解説者・評論家。 1955年から1959年の登録名は「水原 円裕(みずはら のぶしげ)」。 現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、引退後は巨人、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの監督を歴任した。巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、セ・パ両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。 幼少時に両親が離婚、父親が入り婿になり再婚した先の「水原」姓になったという。野球を始めたのも、実家の環境からの気晴らしであったという。
栗山 理一(くりやま りいち、1909年1月14日 - 19… 栗山 理一(くりやま りいち、1909年1月14日 - 1989年8月19日)は、日本の国文学者・俳句評論家。成城大学名誉教授。 1909年、佐賀県鹿島で生まれた。広島文理科大学で学び、1933年に卒業。 卒業後は教諭となり、大阪府立堺中学校に勤務。1938年、大学の同窓生蓮田善明・池田勉・清水文雄と雑誌『文藝文化』を創刊し、日本浪曼派の一派をなした。同雑誌は1944年まで続いた[要出典]。1942年、興亜工業大学教授に転じ、1944年に立華高等女学校校長となった。 1954年、成城大学文芸学部教授に就いた。1962年、学位論文『中興俳諧の研究』を広島大学に提出して文学博士の学位を取得。1979年に成城大学を定年退職し、名誉教授となった。
葛巻 義敏(くずまき よしとし、1909年(明治42年) -… 葛巻 義敏(くずまき よしとし、1909年(明治42年) - 1985年(昭和60年)12月16日)は、東京市(現在の東京都)出身の作家、文芸評論家。芥川龍之介の甥。 芥川龍之介の次姉ヒサと獣医葛巻義定の長男として、東京市新宿(現在の東京都新宿区新宿)の耕牧舎牧場に生まれる。1910年に両親が離婚したため、東京市芝区銭座町(現在の東京都港区浜松町)の新原家(母の実家)で育てられる。ヒサはその後、西川豊と再婚し、龍之介の長男芥川比呂志の妻となる瑠璃子(1916年 - 2007年)を設けている。 1922年、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。在学中、新しき村への参加を望んで家出した。
出雲路 敬和(いずもじ よしかず、1908年12月13日 -… 出雲路 敬和(いずもじ よしかず、1908年12月13日 - 1978年4月19日)は、神職、京都評論家。 京都市出身。出雲路信直の子孫。國學院大學文学部卒、立命館大学教授、成安女子短期大学学長。
旗 一兵(はた いっぺい、1908年11月3日 - 1988… 旗 一兵(はた いっぺい、1908年11月3日 - 1988年10月28日)は、昭和期に活躍した日本のテレビプロデューサー、映画評論家、演劇評論家、雑誌編集者、新聞記者。フジテレビプロデューサー、吉本興業企画課長、東京日日新聞社(現・毎日新聞)芸能部記者、日本移動演劇連盟劇団課長、キネマ旬報社編集者などを務めた。本名は金田福太郎。 1908年(明治41年)11月3日生まれ。東京府東京市芝区(現在の東京都港区)高輪出身。 1931年(昭和6年)、立教大学文学部卒業。学生時代から映画や演劇の研究を行い、大学在学中の1929年(昭和4年)には立教大学雑誌部出版の『立教大学文学』に「発声映画に関する常識」と題する論評を発表している。
松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 19… 松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 1998年6月1日)は、日本の医師・育児評論家・歴史家。著述家・マジック研究家の松田道弘は息子。 茨城県水海道町(現・常総市)に代々医師の家に生まれ、生後すぐ京都に移る。松田家の初代は千姫の侍医と伝わり、祖父は江戸で修行した蘭学医だった。父は京都で小児科医を開業していた。 京都市立明倫小学校、京都一中、旧制第三高等学校、京都帝国大学医学部卒業。大学時代は「社会科学研究会」に所属してマルクス主義の研究・運動を行うが、共産党に入党する決心はできなかった。1929年には太田武夫が京都の被差別部落でひらいていた診療所に手伝いに行っていた。 1932年に京都帝大医学部副手となり、父親も師事していた平井毓太郎らの影響で小児結核を研究対象とする。
松谷 彊(まつや つとむ、1908年10月26日 - 198… 松谷 彊(まつや つとむ、1908年10月26日 - 1987年)は、日本の美術評論家である。 京都府宮津市出身。東京帝国大学卒業。南画鑑賞会に勤務しながら美術評論をはじめる。戦後はソビエト美術に関して造詣を深め、『ソヴェト美術論』(1957年)などの著書がある。1964年、東京造形大学の教授に就任、1979年までその任にあった。日本美術会の会員でもあった。 永井潔は、松谷の著書『現代美術論』(新日本出版社、1986年)の帯で、「美術にとり憑かれたかのような労を惜しまぬ鑑賞と探求」と、松谷の仕事を評価している。 『現代美術論』(ISBN 4-406-01360-1)の作者略歴と作品解題 この項目は、美術・芸術に関連した書きかけの項目です。
最所 フミ(さいしょ ふみ、1908年10月25日 - 19… 最所 フミ(さいしょ ふみ、1908年10月25日 - 1990年)は、日本の評論家、翻訳家。 大阪府出身。津田英学塾(現津田塾大学)卒、ミシガン大学、同大学院に学び、NHK海外局で英語ニュースの仕事をする。海外局の同僚にアイバ・戸栗・ダキノ(東京ローズ)がいた。1948年から1974年まで、JAPAN TIMES に映画評論を英文で執筆。加島祥造と同居したのち、鮎川信夫とともに住み結婚するが、このことは秘密にされ、鮎川の没後に明らかにされた。『荒地』の詩人たちの間のゴッドマザーのような存在で、英語力に優れたという。 1980年に発行された『日英語表現辞典』は没後の2004年にちくま学芸文庫に入ったが長らく入手困難になっていた。
宮本 顕治(みやもと けんじ、1908年〈明治41年〉10月… 宮本 顕治(みやもと けんじ、1908年〈明治41年〉10月17日 - 2007年〈平成19年〉7月18日)は、日本の政治家・共産主義者・文芸評論家。通称ミヤケン。 戦前の非合法政党時代からの日本共産党の活動家であり、戦後、1958年に党の書記長に就任してから40年間、日本共産党を指導した。参議院議員(2期)を務め、日本共産党書記長、同委員長、同議長を歴任。国会に議席を持つ国政政党の党首でありながら、国会議員ではなかった時期がある。 山口県熊毛郡光井村(現・光市)出身。父は、隣の島田村で米穀、肥料、雑貨などの小売商を営んでいたが、中学入学当時に破産状態になり、都濃郡富田村(現・周南市)にあった母の実家に預けられ、そこから中学に1年くらい通った。
金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 19… 金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 1986年10月10日)は、日本の教育者・教育評論家。 愛知県出身。41年の教員生活で世田谷区立祖師谷小学校校長などを務め、定年後には「児童教育研究家」の肩書で活動した。 1908年(明治41年)10月2日に愛知県宝飯郡蒲郡町平田村(現・蒲郡市平田町)に生まれた。父親は平田村の副区長や区長を務めた。1915年(大正4年)に蒲郡町立東部小学校に入学し、1921年(大正10年)に宝飯郡実業学校(その後愛知県立蒲郡農学校に改称、現在の愛知県立蒲郡高等学校)に入学して教員の道を目指した。1927年(昭和2年)に東京の青山師範学校二部(東京学芸大学の前身)に入学し、1928年(昭和3年)に青山師範学校を卒業して小学校教師となった。
郡司 信夫(ぐんじ のぶお、1908年10月1日 - 199… 郡司 信夫(ぐんじ のぶお、1908年10月1日 - 1999年2月11日)は、栃木県出身のボクシング評論家。 大田原中学校から大正大学を経て、1930年に誠文堂新光社に入社。スポーツ誌編集に携わる。 1934年に独立してガゼット出版社を設立、「ボクシング・ガゼット」誌を創刊した。時同じくして「拳道会ボクシング練習場」を設立。拳道会は解散するが、戦後に「日本拳闘株式会社」を設立。一方、ガゼット誌の編集はベースボール・マガジン社に吸収されるまで約30年担当。 1952年からは30年に渡りTBSのボクシング解説者を務め、日本テレビの平沢雪村、フジテレビの石川輝らとともにボクシング解説者の草分けと呼ばれた。
村田 武雄(むらた たけお、1908年9月30日 - 199… 村田 武雄(むらた たけお、1908年9月30日 - 1997年3月16日)は、音楽評論家・国立音楽大学名誉教授。東京都出身。 1950年代から1980年代にかけて、クラシック音楽に関する書籍などを多数執筆し、その普及につとめた。海外の音楽関連の書籍の翻訳なども手がけている。晩年は、当時の音楽評論家の代表格として数えられる存在だった。 堀内敬三の後を受けてNHKラジオ第1放送のクラシック音楽専門の番組「音楽の泉」2代目パーソナリティとして、1959年度から1987年度まで、延べ30年近くの長きにわたって担当したことで知られた。永井荷風と疎開先の岡山で知り合った。また、慶應義塾大学・国立音楽大学などでは、教授として音楽史について教鞭を執っていた。
吉村 貞司(よしむら ていじ、1908年9月24日 - 19… 吉村 貞司(よしむら ていじ、1908年9月24日 - 1986年1月4日)は、日本の文芸評論家・美術評論家。 福岡県生まれ。本名・彌吉三光(やよし かずみつ)。早稲田大学文学部独文科卒。雑誌記者をへて戦後『新婦人』編集長、のち杉野女子大学教授。福士幸次郎の晩年の弟子。文芸評論のほか日本文化や日本美術、中国美術の評論を多く書いた。特に川端康成を高く評価した。
宮沢 縦一(みやざわ じゅういち、1908年9月22日 - … 宮沢 縦一(みやざわ じゅういち、1908年9月22日 - 2000年7月8日)は、音楽評論家。東京都出身。京都帝国大学法学部を卒業した。在学中にエマヌエル・メッテルの指導を受ける。オペラ中心に解説、評論を行い、武蔵野音楽大学教授を務めた。1968年にNHK放送文化賞、1972年に紫綬褒章を受賞した。1987年に脳梗塞で倒れ、第一線を退いたが、以後も妻の秋子の口述筆記による「オペラシリーズ」などを出版した。
本多 秋五(ほんだしゅうご、1908年(明治41年)9月22… 本多 秋五(ほんだしゅうご、1908年(明治41年)9月22日 - 2001年(平成13年)1月13日)は、愛知県西加茂郡猿投村(現:豊田市)出身の文芸評論家である。 1912年、4歳で母と死別。1921年、旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)入学。同人誌『朱雀』に参加。1926年、旧制第八高等学校に入学。1929年、東京帝国大学文学部国文科に入学、マルクス主義に近づく。1930年、ロシア革命記念日のデモに参加し検挙される。1932年、東大を卒業。卒論は「森鷗外研究」、大学院に進学する。1933年、治安維持法違反で検挙され翌年釈放、郷里に帰る。のちに長兄について満洲を訪問。1936年に上京し、逓信省電務局無線課に勤務。
坂本 徳松(さかもと とくまつ、1908年9月8日 - 19… 坂本 徳松(さかもと とくまつ、1908年9月8日 - 1988年8月13日)は、日本の国際政治評論家。 高知県中村市出身。東京帝国大学文学部社会学科卒業後、南満州鉄道株式会社(満鉄)東亜経済調査局に入る。1954年、日本ベトナム友好協会を創立。1955年、ニューデリーで開かれたアジア諸国民会議に出席、のちアジア・アフリカ人民連帯日本委員会、日本カンボジア友好協会理事長など。1956年より愛知大学政経学部教授。社団法人中国研究所評議員。1974年、北方領土返還促進運動を組織。
井上 良夫(いのうえ よしお、1908年9月3日 - 194… 井上 良夫(いのうえ よしお、1908年9月3日 - 1945年4月25日)は、日本の探偵小説評論家、翻訳家。1930年代のいわゆる「本格ミステリの黄金時代」の海外作品を、日本に多数紹介した。戦前における最もすぐれた探偵小説評論家といわれる。 1908年(明治41年)9月3日、福岡県若松市(現・北九州市)に生まれる。 1926年(大正15年)、愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)卒業。名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)に進学し、1930年(昭和5年)に卒業。バス会社に入社するが、名古屋市営バスと併合されて解散になったため、1937年(昭和12年)から名古屋市立白鳥尋常高等小学校(現・名古屋市立白鳥小学校)教員、1941年(昭和16年)から名古屋女子商業学校(現・名古屋経済大学市邨中学校・高等学校)教師(英語担当)。
久富 貢(ひさとみ みつぐ、1908年8月28日-1988年… 久富 貢(ひさとみ みつぐ、1908年8月28日-1988年2月23日)は、美術評論家。 福岡県山門郡生まれ。広島高等学校卒業、1932年京都帝国大学文学部美学美術史学科卒業。同年東京帝国大学文学部大学院に入学、35年中退、日本大学講師。1937年国際文化振興会に勤務、1946年同編纂課長。1947年中央労働学園専門学校講師、48年改組により法政大学講師、1950年東京学芸大学講師、51年教授。59-61年同附属図書館館長、72年停年退官、名誉教授。1973年共立薬科大学教授、1974年跡見女子大学教授を兼任。近代日本画、フェノロサを研究した。妻は料理評論家の久富志子。孫に映画研究者の谷川建司がいる。
高杉 一郎(たかすぎ いちろう、1908年7月17日 - 2… 高杉 一郎(たかすぎ いちろう、1908年7月17日 - 2008年1月9日)は、日本の評論家・小説家・翻訳家・エスペランティスト。和光大学名誉教授。本名は小川 五郎(おがわ ごろう)で、大学教授としてはこの名前で教えた。 静岡県田方郡中伊豆町(現・伊豆市)生まれ。東京文理科大学教育学科中退。1933年より改造社に勤務、雑誌『文藝』編集主任となり、1942年東京文理科大学英文科卒業。1944年徴兵され、ハルピンで敗戦を迎え、シベリア抑留を体験。1949年復員。帰国後書いた抑留体験記『極光のかげに』『人間』(1950年8月 - 12月)が第24回芥川龍之介賞候補にあがり、ベストセラーとなる。 1950年静岡大学教育学部講師、1957年同文理学部助教授、1965年教授、1967年 - 1972年評議員、1972年定年退官。
岩村三千夫(いわむら みちお、1908年6月8日 - 197… 岩村三千夫(いわむら みちお、1908年6月8日 - 1977年5月16日)は、日本の中国問題評論家。 新潟県生まれ。早稲田大学卒業。1937年読売新聞社に入社し、上海特派員・香港支局長・東亜部次長・シンガポール支局長・論説委員を務める。 1946年、中国研究所の創立に携わり、理事を務める。1949年には日中友好協会の設立に携わり、日中友好事業を進めた。
渡辺 勉(わたなべ つとむ、1908年5月9日 - 1978… 渡辺 勉(わたなべ つとむ、1908年5月9日 - 1978年1月17日)は、日本の写真評論家、写真家。 岐阜県出身。中津商業を卒業。 写真評論、アマチュア写真家の啓蒙、雑誌編集などで、戦前から戦後にかけて活躍。著書多数。評論書のみならず技法書も執筆。 戦前には報道写真家としても作品を発表した。東方社にも参加した。 戦後の活動としては、「世界画報」(1946年創刊)の編集長となったり、木村伊兵衛賞の最初期の選考委員も務めた(具体的には、第2回、第3回および第4回、木村伊兵衛写真賞の受賞者リスト年表)。 晩年は写真誌『アサヒカメラ』で写真批評を行ったほか、社団法人日本写真協会の理事も務めた。 1978年1月17日、胃がんにより東京都新宿区の東京厚生年金病院にて死去。
吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年5月9日- 1986… 吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年5月9日- 1986年3月8日)は、ドイツ文学者、文芸評論家、東京都立大学名誉教授。 栃木県足利市生まれ。松本高等学校文科乙類を経て、1932年東京帝国大学独文科卒。33年桐生高等工業学校教授。37-38年文部省から派遣されベルリン大学に学ぶ。39年陸軍教授、42年第四高等学校教授、1950年金沢大学助教授、51年東京都立大学助教授、60年教授。 1971年「ホフマン - 浪漫派の芸術家」で東京大学文学博士。72年都立大を定年退官。E・T・A・ホフマンの翻訳・研究と夏目漱石に関する評論を書き、藤代素人、秋山六郎兵衛、板垣直子らの、『吾輩は猫である』がホフマンの『牡猫ムルの人生観』に影響を受けたという説を論駁し、漱石は聞きかじってはいたが『猫である』はオリジナルな作であると論じた(吉田六郎教授略歴「人文学報」都立大、1972年)。
古谷 綱武(ふるや つなたけ、1908年5月5日 - 198… 古谷 綱武(ふるや つなたけ、1908年5月5日 - 1984年2月12日)は、日本の文芸評論家。古谷重綱の子。 ベルギー生まれ。父親が外交官だったため小学生になるまではロンドンで暮らす。小学生時代は父の赴任に従い国内外を転々とし、13歳で一人日本(宇和島の叔父宅)に残り、1922年に旧制宇和島中学校(現在の愛媛県立宇和島東高等学校)に入学。1924年、母と兄弟が帰国し、青山学院中等部に編入、1925年に旧制成城中学校に転入。1926年に成城高等学校に入学するが、1929年に中退した。外交官を辞してブラジルでのバナナ栽培で成功した父親が東中野に自宅を建設、高校生の綱武がその設計をした。 高校中退後、同級生だった大岡昇平らと同人雑誌『白痴群』に参加し、中原中也、小林秀雄らと知り合い、文藝評論を行う。
久住 忠男(くすみ ただお、1908年2月23日 - 199… 久住 忠男(くすみ ただお、1908年2月23日 - 1993年12月21日)は、日本の軍事評論家、海軍軍人。 海軍兵学校〔1928年〕・海軍大学校〔1944年〕を卒業した。海軍中佐となり、大本営参謀兼南方軍参謀として終戦を迎える。 戦後、1953年より軍事評論家として活躍。1968年には沖縄基地問題研究会の座長を務め、沖縄返還の基本政策の提言に関わった。 著書に『戦後世界軍事史』『核時代の軍縮問題』『平和問題の理解』『戦争・平和・ベトコン』など多数。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
桜井 勝美(さくらい かつみ、1908年2月20日 - 19… 桜井 勝美(さくらい かつみ、1908年2月20日 - 1995年7月24日)は、日本の詩人、文芸評論家。 北海道出身。日本大学文学部卒。北川冬彦の『麺麭』同人となり、ネオリアリズム詩運動に参加。1954年詩集『ボタンについて』で第4回H氏賞受賞。1955年時間賞、1966年詩集『葱の精神性』で北川冬彦賞受賞。1977年には、郷里の士別市から士別市文化賞を受賞した。
佐貫 亦男(さぬき またお、1908年(明治41年)1月1日… 佐貫 亦男(さぬき またお、1908年(明治41年)1月1日 - 1997年(平成9年)6月28日 )は、日本の航空技術者、航空宇宙評論家、作家、エッセイスト。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)生まれ。秋田県立横手中学校(秋田県立横手高等学校の前身)卒業、1931年(昭和6年)に東京帝国大学工学部航空学科を卒業した。 東京帝国大学卒業後、軍命で日本楽器製造(現ヤマハ)に赴きプロペラの設計を行う。陸軍の九七式戦闘機を担当した。1941年に、ユンカース社からフルフェザー機構・圧縮木材製プロペラ技術導入のため、第二次世界大戦最中のドイツに出張する。 しかし同年6月に、独ソ戦開戦のためにドイツからソビエト連邦に直行するシベリア鉄道経由の帰路が絶たれ、1943年11月まで在独し、その後中立国を迂回する形で帰国した。
金 午星(キム・オソン、김오성、1908年 - 1953年?… 金 午星(キム・オソン、김오성、1908年 - 1953年?)は、日本統治時代の朝鮮の共産主義理論家、文学評論家。本名は金亨俊(キム・ヒョンジュン、김형준)。 日本大学哲学科を卒業し、東京で雑誌『大衆之光』を発行した。1926年ころ、故郷の平安北道龍川で小作争議を指導し、1927年には東京学生読書会事件(동경학생 독서회사건)で検挙された。日本から帰ってきた1932年、天道教青年党機関誌『농민(農民)』を編集しながら、農村啓蒙運動に取り組み、朝鮮農民社(조선농민사)常任理事も務めた。 日本統治時代末期の1943年には、朝鮮文人報国会の隨筆評論部会評議員に選出され、親日派に変節した。この時期、金午星は朝鮮総督府の御用機関紙であった『毎日新報』に親日的論説を掲載した。
西村 孝次(にしむら こうじ、1907年11月17日 - 2… 西村 孝次(にしむら こうじ、1907年11月17日 - 2004年6月29日)は、日本の英文学者、文芸評論家、翻訳家。元明治大学教授。 小林秀雄の従弟。弟の西村貞二は西洋史学者で東北大学教授を務めた。孫は元プロサッカー選手の西村卓朗。 京都市で約400年続いた仏書店で西村重右衛門(第十三代)の長男に生まれる。家業を継ぐはずだったが1923年に店が破産。進路に迷っていた時、京都へ来た小林秀雄から文学の道を勧められる。1925年京都府立第一商業学校卒、1929年関西学院英文科卒、学費のため一年半ゼネラルモーターズに勤め、1934年東北帝国大学法文学部英文科卒、創元社の原稿閲読者などを務める。1939年夏に、中村光夫、吉田健一、山本健吉、伊藤信吉らと同人誌『批評』(を創刊、英文学の翻訳、文芸評論などを寄稿。
蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11… 蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11月15日 - 1999年〈平成11年〉9月30日)は、日本のジャーナリスト、国際問題評論家。 筆名は高山五郎。蠟山政道、山田勝次郎、小山長四郎の弟。息子は高岡短期大学学長などを務めた蝋山昌一。 群馬県高崎市歌川町に生まれる。1925年(大正14年)に旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校理科乙類へ進学するが1929年(昭和4年)に中退。1936年(昭和11年)同盟通信社に入社し、特派員としてインド、ビルマに滞在。1946年(昭和21年)に帰国し、共同通信社東亜部長を務める。1960年(昭和35年)に同社を退職し独立。
野田 理一(のだ りいち、1907年11月10日 - 198… 野田 理一(のだ りいち、1907年11月10日 - 1987年2月22日)は、日本の詩人、美術評論家、随筆家。三重県津市出身。 戦前より詩作、また海外美術の鑑識眼も醸成していた。荒地同人。大正時代生まれがほとんどの同人の内で年長であった。自らの人生は語らず、作品のみを残す。美術評論では早くからジョン・ケージ、フンデルトヴァッサー、ルーチョ・フォンタナなどを紹介する。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
井上 良雄(いのうえ よしお、1907年9月25日 - 20… 井上 良雄(いのうえ よしお、1907年9月25日 - 2003年6月10日)は、日本の文芸評論家、翻訳家、神学者。 東京府生まれ。東京府立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)、第一高等学校を経て、1930年京都帝国大学文学部独文科卒。 神保光太郎、北川冬彦らと同人誌『磁場』などで文芸評論を書く。『磁場』1932年4月に「芥川龍之介と志賀直哉」を発表。1939年法政大学で教える。 1935年治安維持法違反で検挙、不起訴。 1936年日本大学講師。1945年3月東京信濃町教会で洗礼を受ける。1947年東京神学大学専任講師、1951年教授、1971年定年退任。 1997年、これらの功績が認められ、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。
川本 信正(かわもと のぶまさ、1907年9月22日 - 1… 川本 信正(かわもと のぶまさ、1907年9月22日 - 1996年6月17日)は、日本のスポーツジャーナリスト、新聞記者、スポーツ評論家。オリンピックを初めて「五輪」と表記したことで知られる。
松丸 志摩三(まつまる しまぞう、1907年8月19日 - … 松丸 志摩三(まつまる しまぞう、1907年8月19日 - 1973年11月7日)は、日本の農民教育家・農業評論家・畜産学者。詩人・社会運動家・元共産党員のぬやま・ひろし(西沢隆二)は実兄。 西沢吉治・松丸みつの三男として神戸に生まれる。長兄・基一、次兄・隆二。 台町小学校から深川八丁堀の小学校に転校、麻布中学を経て旧制静岡高等学校理科を卒業。 1925年、父親の事業の破産に遭い、両親が八丈島に移住したのにつれて移住。 1932年、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。卒業と同時に松丸姓を継ぐ。すぐに朝鮮に渡り、全羅北道で農林学校の教諭を1年余り務めたのち、朝鮮総督府畜産技師となり、1940年、畜産課長となる。
白井新平(しらい しんぺい、1907年8月18日 - 198… 白井新平(しらい しんぺい、1907年8月18日 - 1988年9月28日)は、日本のアナキスト、社会運動家、競馬評論家、実業家。 啓衆社の創業者であり、戦前から戦後初期にかけての日本競馬において多くの先駆的な試みを行った。筆名として山本三郎、アキ・ヤマモト(山本秋)などがある。競馬評論家の白井透、白井牧場創業者の白井民平は実子。元馬術競技選手の白井岳は孫。 京都府舞鶴市余部にて、精密機械の仕上工であった喜代太郎とその妻らいの一人息子として生を受ける。父喜代太郎の生家・小津家は油問屋を家業としていたが、新平の祖父の代には遊び好きの道楽者が祟って準禁治産認定を受けている。喜代太郎は幼少期に豊中市で造り酒屋を営んでいた白井家へ養子に出されたのだがこちらもすぐに破産してしまい、小津家に引き取られたのちに手に職をつけるべく技術者となった。
福島 要一(ふくしま よういち、1907年8月5日 - 19… 福島 要一(ふくしま よういち、1907年8月5日 - 1989年9月1日)は、日本の農学者・評論家、農林官僚。元日本学術会議会員。
三鬼 陽之助(みき ようのすけ、1907年8月3日 - 20… 三鬼 陽之助(みき ようのすけ、1907年8月3日 - 2002年10月5日)は、日本の経済評論家。
清水 幾太郎(しみず いくたろう、1907年7月9日 - 1… 清水 幾太郎(しみず いくたろう、1907年7月9日 - 1988年8月10日)は、日本の社会学者・評論家。学習院大学教授などを歴任。 1907年、東京市日本橋区(現在の東京都中央区)の竹屋の息子として生まれた。祖父は江戸幕府旗本であった。獨協中学、旧制東京高校を経て、東京帝国大学文学部社会学科卒業。文学部社会学科時代の恩師は戸田貞三。在学中からオーギュスト・コントの研究にいそしむ。中学時代にドイツ語を学んで堪能であったが、フランス語は大学時代に習得したものである。 大学卒業後、1931年東京帝国大学社会学研究室副手に採用された。社会学研究室副手の2代前の副手が同じ戸田貞三門下の兄弟子牧野巽で、牧野は清水を弟と思い、清水は牧野を兄と思い親しくしていた。
宮本 晃男(みやもと てるお、1907年5月25日-1992… 宮本 晃男(みやもと てるお、1907年5月25日-1992年)は、飛行機・自動車の技術者、評論家。 1930年東京市立深川工業学校(後の東京都立本所工業高等学校)自動車専修科卒。1932年東京帝国大学造兵学科委託研究生修了。逓信省航空局技術課勤務。一等整備士、航空機関士。運輸省自動車局車両課勤務(運輸技官)。日本自動車連盟事業部長。1970年自動車問題研究会を設立、初代会長となる。自動車ジャーナリスト協会顧問。自動車技術会顧問。1982年勲五等瑞宝章受勲。
杉山 誠(すぎやま まこと、1907年(明治40年)5月1日… 杉山 誠(すぎやま まこと、1907年(明治40年)5月1日 - 1968年(昭和43年)12月30日)は、日本の演劇評論家、翻訳家。 東京出身。東京帝国大学文学部卒。新関良三に師事。戦前は尾上菊五郎劇団文芸部長、戦時中は1943年召集されて南方に赴き、将校として芝居を上演したことは、部下だった加東大介の『南の島に雪が降る』に杉山大尉(マノクワリ守備隊司令部)と実名で描かれている。 戦後は俳優座付属俳優養成所主事・共立女子大学文芸学部教授。イプセンなどの近代戯曲を翻訳・紹介、新聞に歌舞伎評も書いた。妻は尾上菊子(きくし)の名で菊五郎に師事していたが戦時中死去。 1968年12月30日、劇団民芸稽古場での年忘れパーティで、スピーチのさなかに心筋梗塞で倒れ、死去。
山本 健吉(やまもと けんきち、1907年〈明治40年〉4月… 山本 健吉(やまもと けんきち、1907年〈明治40年〉4月26日 - 1988年〈昭和63年〉5月7日)は、日本の文芸評論家。本名は石橋 貞吉(ていきち)。俳句批評から出発し、古典から現代文学まで幅広く追究。個性と伝統の問題にせまる独自の批評を確立した。昭和を代表する文芸評論家の一人である。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。著書に『現代俳句』(1951年)、『古典と現代文学』(1955年)、『いのちとかたち』(1981年)など。 文芸評論家石橋忍月の三男。最初の妻は俳人の石橋秀野。なお秀野の妹は漫画家の清水崑の妻である歌人の清水恒子。俳文学会、日中文化交流協会、日本ペンクラブ、各会員。
山口 慎一(やまぐち しんいち、1907年(明治40年)4月… 山口 慎一(やまぐち しんいち、1907年(明治40年)4月8日 - 1980年(昭和55年)2月10日)は、満州国で活動した日本人の翻訳家・文芸評論家。主な筆名は大内隆雄(おおうち たかお)。その他の筆名には矢間恒耀、徐晃陽、大藤巍がある。 1925年、長春商業学校を卒業すると、20人に1人という満鉄派遣留学生試験に首席で合格し上海の東亜同文書院に入学、4年間学業は常に首位だったという。 東亜同文書院の教育の特徴であった学生による中国調査旅行では、森本辰治、日高清磨瑳、中崎一之とともに「華南、滇越南沿線経済調査班」として1928年5月29日から7月25日にかけて上海、汕頭、廈門、香港、広東、仏印、雲南、台湾を巡っている。
金 起林(キム・ギリム、朝鮮語: 김기림、1907年4月5日… 金 起林(キム・ギリム、朝鮮語: 김기림、1907年4月5日 - 没年不詳)は、大韓民国の詩人、文学評論家。 本名は金 仁孫(キム・インソン、김인손)。幼名は金 寅孫(読み、ハングル同じ)。号は片石村(ピョンソクチョン、편석촌)。 咸鏡北道鶴城郡生まれ。普成高等普通学校(現・普成高等学校)を経て日本大学英文学科中退、東北帝国大学(現・東北大学)英文学科卒業。帰国後朝鮮日報学芸部記者を務め、朝鮮日報に『行け新しい生活で』を発表し、文壇に登場した。同紙には評論『詩の技術認識の現実など諸問題』を発表し、文学評論も行なった。 1933年、李箱、李孝石、趙容万、朴泰遠らとともに九人会を結成し、この頃より本格的に詩作を始め、1936年に詩集『気象図』を発表した。
亀井 勝一郎(かめい かついちろう、1907年〈明治40年〉… 亀井 勝一郎(かめい かついちろう、1907年〈明治40年〉2月6日 - 1966年〈昭和41年〉11月14日)は、昭和期の文芸評論家、日本芸術院会員。 当初は左翼的政治運動に参加したが転向し、仏教思想に関心を深め、文芸評論や文明批評で活躍した。「日本浪曼派」を創刊。著書に『大和古寺風物誌』(1943年)、『現代史の課題』(1957年)など。 函館貯蓄銀行支配人の父・喜一郎、母・ミヤの長男として、北海道函館区(現・函館市)元町で生まれる。旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)では田中清玄、大野一雄と同期。旧制山形高等学校(現・山形大学)を経て、1926年(大正15年)に東京帝国大学文学部美学科に入学。
高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 … 高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、日本の小説家、ドイツ文学者、音楽評論家。本名は安藤 煕(あんどう ひろし)。 ヴァイオリニストで、女性初の文化功労者に選ばれた安藤幸と、英文学者・安藤勝一郎の子として東京市本郷区西片町に生まれる。東京帝国大学独文科卒。 水戸高等学校や第一高等学校教授などをつとめながら、同人雑誌『作家精神』に小説を書いた。1936年「遣唐船」で芥川賞候補、1940年(昭和15年)、大伴家持を描いた歴史短篇「歌と門の盾」で芥川賞を授与されるが辞退する。菊池寛は「恥を掻かされた」と言って怒っている。高木は、自分が辞退すれば『作家精神』の桜田常久がくりあげ受賞すると誤認したという説もある(桜田は次回受賞)。