波多野 修(はたの おさむ、1947年1月9日 - )は、東… 波多野 修(はたの おさむ、1947年1月9日 - )は、東京都出身のプロゴルファー。 18歳からゴルフを始め、学習院大学時代は1967年の関東学生で9位タイ、1968年の関東学生では5位タイに入る。 卒業後の1971年にプロ入りし、1977年の阿蘇ナショナルパークオープンでは初日を野口茂・金井清一・藤井義将・尾崎将司と並んでの2位タイでスタートすると、最終日には上野忠美・前田新作と並んでの7位タイに入った。 1978年の関東オープンでは初日、ラフが深いゆえにグリーンの難しさもあってアンダーパーは9人であった中、ハーフを4バーディーと好スタートを切り、5バーディーの67でまとめて首位に立った。それまでは堅いプレーでスコアを一つでも縮めると、それをなんとか守り切ろうとするのが欠点であったが、関東オープン初日にはスタートからバーディーを取りまくり、途中からベストスコア賞30万円に執着して初のトーナメントリーダーになった。
中村 忠夫(なかむら ただお、1947年1月2日 - )は、… 中村 忠夫(なかむら ただお、1947年1月2日 - )は、神奈川県出身のプロゴルファー。 金沢カントリー倶楽部所属。 ニックネームは「ドラエモン」 。 八王子工業高校卒業。 18歳からゴルフを始め、1974年12月にプロ入り。 1982年のペプシ宇部では初日を最終組でスタートし、1イーグル、5バーディー、1ボギーの好調なゴルフを見せ、6アンダー66で初日の首位に立った。 賞金ランクこそ1983年から99位、63位、61位、59位と上ってきてはいたが、シード入りは果せず、1986年の賞金獲得額も607万円であった。 1983年のかながわオープンでは湯原信光・矢部昭・豊田明夫・中村通と共に河野高明・東聡・秋富由利夫・河野和重に次ぐ5位タイ、1985年には関西プロ・NST新潟オープン4位タイ に中部オープン7位タイ、1986年には中部オープン8位タイに入った。
熊部 稔(くまべ みのる、1947年1月2日 - )は、東京… 熊部 稔(くまべ みのる、1947年1月2日 - )は、東京都出身のプロゴルファー。 大東文化大学卒業後の1969年に東京よみうりカントリークラブへ入社し、1972年にプロテスト合格。 1973年のブリヂストントーナメントでは初日にホームコースの有利さを生かして1イーグル、5バーディーで、新井規矩雄と共に7アンダー65をマークして首位タイに立った。2日目には2オーバーと崩れ、前田新作・大嶋正春・鈴木規夫と並んでの7位タイと落ちた。 1978年からはよみうりゴルフ倶楽部に移動し、同年のペプシウィルソントーナメントでは初日に69で橘田規・佐藤精一・尾崎将司、ピーター・トムソン(オーストラリア)に次ぐ5位でスタートした。
十亀 賢二(そがめ けんじ、1946年11月26日 - )は… 十亀 賢二(そがめ けんじ、1946年11月26日 - )は愛媛県出身の元プロゴルファー。 新居浜商業高校卒業。 1972年の中四国オープンでは細石憲二の2位、1973年の同大会では金海繁・細石・岡部洋三・上野忠美を抑えて増田光彦の2位に入った。1974年の同大会では開催された松永カントリークラブのコースレコード64を樹立し、1966年の中四国選手権で内田繁が記録した67を8年ぶりに塗り替えた。 1973年のブリヂストントーナメントでは初日に68をマークし、前田新作・島田幸作・安田春雄と並んでの9位タイでスタートした。 1975年の中四国オープンでは冨田三十士・増田を抑えると同時に岡部と並んで上野の2位タイに入り、1978年の関西プロでは初日に陳健振(中華民国)・上田鉄弘・窪田茂・上野・藤井義将・柴田猛と並んでの4位タイでスタートした。
浅井教司(あさい のりじ、1946年9月17日 - )は、千… 浅井教司(あさい のりじ、1946年9月17日 - )は、千葉県出身のプロゴルファー。 日本大学卒業後の1974年にプロ入りし、1975年の美津濃プロ新人では田原紘と並んでの2位タイに入った。 1976年の千葉県オープンでは尾崎将司・長谷川勝治に次ぐと同時に飯塚良男を抑え、尾崎健夫・海老原清治と並んでの3位タイに入った。 1977年の長野県オープンではベン・アルダ( フィリピン)、土山録志・新井規矩雄・菊地勝司・榎本七郎を抑えて森憲二の2位に入った。 1978年の関東オープンでは初日に上原宏一・謝敏男( 中華民国)・川田時志春・関水利晃・草壁政治・海老原清治・日吉稔・森・高井吉春・石井冨士夫と並んでの10位タイでスタートし、2日目には謝永郁(中華民国)・上原と並んでの7位タイ、3日目には日吉定雄・謝永・日吉と並んでの3位タイに浮上した。
草壁 政治(くさかべ まさじ、1946年8月7日 - )は、… 草壁 政治(くさかべ まさじ、1946年8月7日 - )は、千葉県野田市出身のプロゴルファー。 横島由一とは同郷で、家も2〜3分の距離で家族ぐるみの付き合いであった。 野田市立東部中学校卒業後の16歳よりゴルフを始め、1967年に19歳でプロテストを一発で突破し、1968年の美津濃プロ新人で優勝 。 1971年には第1回千葉県オープンで鷹巣南雄を抑えて優勝し、1972年には日吉定雄と共に上位争いに加わるようになり、日吉や村上隆と共に関東プロ協会制定の月例競技得点表でも4位以内を占める。東北地方初の男子プロトーナメント「七夕杯・東北クラシック」では初日を鷹巣・中村通と共に69の3位タイでスタートすると、3日目には4バーディー、ノーボギーで21位から一挙に松田司郎・日吉と並んでの5位タイに上がり、最終日には4バーディー、1ボギーで2日目から首位を走る村上を捕らえてプレーオフに持ち込むが、2位に終わった。
中山 徹(なかやま とおる、1946年6月8日 - 2024… 中山 徹(なかやま とおる、1946年6月8日 - 2024年4月14日)は、鹿児島県姶良市加治木出身のプロゴルファー。 姉はプロボウラーの中山律子。 7人きょうだいの6番目として生まれ、鹿児島高校時代は野球部に所属。 卒業後に東京で会社員をしていた時に上司に連れられ、練習場に行ったのがゴルフを始めたきっかけであった。25歳で一念発起してプロを目指し林由郎に弟子入りすると、30歳を過ぎてプロテストに合格し、1977年にプロ入りする。 1980年の札幌とうきゅうオープンでは初日に陳志明(中華民国)・安田春雄と共に3アンダー69をマークし、4位タイでスタートした。 1982年の大京オープンでは青木功・横島由一に次ぐと同時に秋富由利夫を抑え、泉川ピート・荒井与志明と並んでの3位タイに入った。
森 憲二(もり けんじ、1946年5月3日 - )は、宮城県… 森 憲二(もり けんじ、1946年5月3日 - )は、宮城県岩沼市出身の元プロゴルファー。 名取高校中退後は阿武隈ゴルフ場を経て、川崎国際カントリークラブでドアボーイをしながら、1966年にプロ入りする。 1969年の日本プロでは石井裕士・杉原輝雄・村上隆に次ぐと同時に陳健忠( 中華民国)・日吉定雄・鷹巣南雄・内田袈裟彦・鈴村久・安田春雄を抑えての4位、1971年の日本オープンでは2日目と最終日に69をマークし、村上と並ぶ5位タイ と健闘。 ホームコースの川崎国際CCで行われたロレックストーナメント→ロレックスクラシックでは、1971年には初日を前後半とも3バーディずつ、ボギーは前半1、後半2の計3アンダーの69で首位スタート。
横山 正枝(よこやま まさえ、1946年1月2日 - )は、… 横山 正枝(よこやま まさえ、1946年1月2日 - )は、東京都練馬区出身の女子プロゴルファー。東京家政学院大学卒業。社団法人日本女子プロゴルフ協会会員。練馬ゴルフ練習場所属。日本で最初の大学卒の女性プロゴルファー。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。 この項目は、ゴルフに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト ゴルフ)。
沼沢 聖一(沼澤 聖一、ぬまざわ せいいち、1945年12月… 沼沢 聖一(沼澤 聖一、ぬまざわ せいいち、1945年12月10日 - )は、宮城県仙台市出身のプロゴルファー。 実妹に女優の篠ひろ子がおり、その夫である直木賞作家の伊集院静は義弟にあたる。また実弟にゴルフクラブ設計家の沼沢雄二、甥に元プロサッカー選手の青山隼がいる。 東北学院高校時代は1962年の全国高校ゴルフ選手権個人・男子で猛暑にもかかわらず粘り強さを発揮し、三上法夫を抑えて初出場初優勝。1963年の同大会では午前のラウンドを78にまとめた後、午後のインでは1アンダーの35、アウトも1番から7番まで連続パーで140台が期待されたが8番のショートホールでバンカーショットをミスしてダブルボギー。
沼沢 聖一(沼澤 聖一、ぬまざわ せいいち、1945年12月… 沼沢 聖一(沼澤 聖一、ぬまざわ せいいち、1945年12月10日 - )は、宮城県仙台市出身のプロゴルファー。 実妹に女優の篠ひろ子がおり、その夫である直木賞作家の伊集院静は義弟にあたる。また実弟にゴルフクラブ設計家の沼沢雄二、甥に元プロサッカー選手の青山隼がいる。 東北学院高校時代は1962年の全国高校ゴルフ選手権個人・男子で猛暑にもかかわらず粘り強さを発揮し、三上法夫を抑えて初出場初優勝。1963年の同大会では午前のラウンドを78にまとめた後、午後のインでは1アンダーの35、アウトも1番から7番まで連続パーで140台が期待されたが8番のショートホールでバンカーショットをミスしてダブルボギー。
伊能 一郎(いのう いちろう、1945年10月22日 - )… 伊能 一郎(いのう いちろう、1945年10月22日 - )は、千葉県柏市出身のプロゴルファー。 柏市増尾で代々農業を営む伊能家の20代目として生まれ、父の後を継いたが、若い頃の一時は家を離れて横浜で社長の運転手をしていた時期があった。その時にゴルフ練習場に行って「面白そうだな」と思ったことが家業に戻ってからも頭に残り、元々スポーツ好きで、ボクシングなどの経験もあったため、農業以外の事業も考えるようになる。 転機は1967年に伊能家の土地の一部をニッカウ井スキーが買収したいとの話を持ってきて売却した時であり、売却のタイミングで父親を説得し、売却資金を元にゴルフ練習場経営を決断。他の練習場を調べ、茨城県土浦市で開業して間もない練習場にも日参して、「柏なら場所柄いいんじゃないか」と太鼓判を押されて確信したが、当時は一郎も父親もゴルフの経験は全くなかった。
樋口 久子(ひぐち ひさこ、1945年10月13日 - )は… 樋口 久子(ひぐち ひさこ、1945年10月13日 - )は、日本の女子プロゴルファー。日本女子プロゴルフ協会相談役、元会長。富士通所属。 男女通じてアジア出身選手初のメジャー選手権(全米女子プロゴルフ選手権)優勝者。日本人初のLPGAツアー優勝者。優勝回数73回は日本歴代女子最多。日本人初の世界ゴルフ殿堂入り。 埼玉県川越市出身。中学校時代までは陸上競技選手だったが、二階堂高等学校時代に実姉が勤務していた東急砧ゴルフ場で中村寅吉を知り、ゴルフへの関心を深める。卒業後中村に弟子入りし、川越カントリークラブで練習場のスタッフとして勤務する傍らプロ選手としての下積み生活を経験。1967年に第1期女子プロテストに合格した。
森本 俊治(もりもと としはる、1945年1月14日 - )… 森本 俊治(もりもと としはる、1945年1月14日 - )は、福岡県北九州市出身のプロゴルファー。 息子の森本真祐はエースキャディ。 福岡県立小倉商業高等学校出身。 21歳でゴルフを始め、1973年にプロ入りする。 1974年の中部オープンでは初日に69をマークして首位でスタートし、最終日には優勝した橘田規から7打差2位に入った。 1975年のKBCオーガスタでは初日を許勝三(中華民国)・川上実・西田升平・小林富士夫と並んでの11位タイでスタートし、2日目には69をマークして草壁政治・前田新作と並んでの4位タイに浮上。3日目は前田と共に73とスコアを伸ばせず、青木功・石井裕士と並んでの4位タイに留まった。
小林 法子(こばやし のりこ、1944年11月15日 - )… 小林 法子(こばやし のりこ、1944年11月15日 - )は、千葉県千葉市出身の日本の女子プロゴルファー。元日本女子プロゴルフ協会 (JLPGA) 副会長。 千葉市立加曽利中学校卒業。千葉市内のゴルフ練習場に事務員として勤務し、その後ゴルフを始める。 1968年に初出場するも1972年まで優勝なし。 1973年、日本女子オープンゴルフ選手権競技で通算3オーバーと2位の山崎小夜子に2打差をつけて初優勝を公式戦で飾った。賞金ランク5位。1974年 、優勝はなく賞金ランク8位。 1975年は産報チャンピオンズで中村悦子、樋口久子、清元登子と自身初のプレーオフに挑むも中村に敗れ2位タイ。優勝はなく賞金ランク7位。
小池 国夫(こいけ くにお、1944年8月23日 - )は、… 小池 国夫(こいけ くにお、1944年8月23日 - )は、埼玉県川越市出身のプロゴルファー。 1969年7月の美津濃プロ新人で優勝し、11月にプロ入りする。 1970年の西日本オープンでは藤井義将の2位に入り、1973年の九州オープンでは鈴木規夫・川上実を抑えて優勝し、グランドモナークでは山本善隆・鷹巣南雄・謝永郁(中華民国)・大嶋正春・石井裕士と並んでの6位タイに入った。 1975年の沖縄クラシックでは2日目の好コンディションでアンダーパーが続出する中、68をマークし、鷹巣南雄・三浦勝利と並んでの6位タイに着けた 。 1978年の九州オープンでは上田健次と並んでの9位タイに入り、1982年の関西プロでは初日を山本善隆・宮本省三・出口栄太郎と並んでの2位タイでスタートした。
小林 富士夫(こばやし ふじお、1944年7月15日 - )… 小林 富士夫(こばやし ふじお、1944年7月15日 - )は、神奈川県出身のプロゴルファー。 医療法人光洋会所属 。 日体荏原高校では丸山茂樹・伊沢利光の先輩となるが、小林は野球部の外野手で甲子園を目指し、東京都予選の決勝進出が最高の成績であった。 卒業後は横浜市中央卸売市場本場の仲買人、サラリーマン、トラック運転手などの職を経て、21歳で神奈川県のゴルフ場の管理課職員になったのが、プロを目指すきっかけになった。22歳からゴルフの練習を始め、1970年に26歳でプロテストに合格。 プロ入り当初から手首の腱鞘炎が持病のようになっていたが、地味だがステディなゴルフを身上に活躍。 1975年の関東オープンでは最終日に青木功が6番で10mもの大フックラインを放り込み、これでエンジンがかかったのか、そこから数えて4連続バーディを獲って快進撃をすると、小林も7番でバーディを獲った後の、左へ直角に曲がる8番ロングホールで2オン1パットのイーグル。
島田 幸作(しまだ こうさく、1944年5月7日 - 200… 島田 幸作(しまだ こうさく、1944年5月7日 - 2008年11月3日)は、日本のプロゴルファー、初代日本ゴルフツアー機構会長。兵庫県宝塚市出身。プロゴルファーの島田典哉は次男。
松本 紀彦(まつもと のりひこ、1944年(昭和19年)3月… 松本 紀彦(まつもと のりひこ、1944年(昭和19年)3月5日 - )は、日本のフィールドホッケー選手、プロゴルファー。 広島県広島市出身。明治大学卒。1968年メキシコシティーオリンピックで男子トーナメントに出場した。その後、プロゴルファーに転じ、阿山カンツリー倶楽部に所属した。 井出信夫 | 大塚智万 | 恩田昌史 | 加奥成雄 | 上村幸夫 | 河村一夫 | 工藤明朗 | 高島昭男 | 田中博司 | 長屋恭一 | 松本紀彦 | 安田善治郎 | 勇崎勝弘 | 勇崎恒也 | 西村省三 | 吉村実 | 和田明仁 | 監督: 市川日出男 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
川田 太三(かわた たいぞう、1944年2月20日 - )は… 川田 太三(かわた たいぞう、1944年2月20日 - )は、日本のゴルフ評論家・ゴルフ場設計者。 東京都出身。学童時代は一貫して立教大学付属の小学校、中学校、高校で生活し、その後アメリカ合衆国・オハイオ州立大学留学。その後立教大学に編入。卒業後個人事務所・ティ・アンド・ケイインターナショナルを設立し代表取締役に就任。自らもアマチュアゴルファーとして活動し、日本アマチュアゴルフ選手権大会、日本オープンゴルフ選手権競技などに出場する実績を持つ。 その後『中日クラウンズ』などのゴルフ中継解説者、日本ゴルフ協会競技・規則・国際委員などを歴任。また世界各地に22ヵ所のゴルフコースを設計・監修している。 母方の親戚で従妹に女優の吉永小百合がいる。
西田 升平(にしだ しょうへい、1943年11月15日 - … 西田 升平(にしだ しょうへい、1943年11月15日 - 2015年6月24日)は、日本のプロゴルファー。 1936年ベルリンオリンピックの陸上・棒高跳の銀メダリスト、西田修平の次男。 日立製作所の社員であった修平が赴任中のブラジルでゴルフを覚え、1964年に入学した日本大学ゴルフ部では沼澤聖一と同期で山田健一の1年先輩、高橋信雄の2年先輩に当たる 。竹田昭夫監督の下で同期の沼澤と共に柱となり、猛烈を極めたスパルタ練習を積んで頭角を現す。在学中は第1次黄金時代を築き、日本学生では沼澤が優勝した1966年にメダリスト、1967年には優勝。 1966年には中日クラウンズではアマ初となるプレーオフの末に接戦を制しベストアマを獲得、中部銀次郎と共にアイゼンハワートロフィー日本代表に選出され、団体8位と健闘。
鷹巣 南雄(たかす なみお、1943年1月24日 - )は、… 鷹巣 南雄(たかす なみお、1943年1月24日 - )は、千葉県我孫子市出身のプロゴルファーである。我孫子ゴルフ倶楽部出身。 レギュラー / シニア両ツアー選手会長を務めた。
田原 紘(たはら ひろし、1942年9月17日 - 2021… 田原 紘(たはら ひろし、1942年9月17日 - 2021年9月20日)は東京都世田谷区三宿出身の元プロゴルファー。 世田谷区立三宿小学校→世田谷学園中学校・高等学校を経て、卓球でスカウトされ立教大学に入学。卓球部主将として関東学生一部リーグ、全日本で活躍。大学卒業にあたり数々の誘いを受けた中で、「我が社に入社の場合は卓球はできないが…」と断りがあっての誘いを受けた伊藤忠自動車に入社。結婚した25歳の時に販売台数の新記録を作り、全日本優秀セールスマンに選ばれる。その年にゴルフに出会い、初めてグラブを握ると熱中し、1年2ヶ月でシングルとなる 。 26歳でプロゴルファーを目指すため退社し、中村寅吉の実弟・定吉に師事。
青木 功(あおき いさお、1942年8月31日 - )は、千… 青木 功(あおき いさお、1942年8月31日 - )は、千葉県我孫子市出身のプロゴルファー。日本プロゴルフツアー永久シード保持者。2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。1980年に全米オープンで準優勝、1983年には日本人で初めてPGAツアーで優勝を果たすなど、尾崎将司(ジャンボ)、中嶋常幸と共に「AON (エーオーエヌ)」と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。日本ゴルフツアー通算51勝は歴代2位。 DNP = 出場せずWD = 怪我で辞退CUT = ハーフウェイ・カットT =順位タイ黄色はトップ10入り.
天野 勝(あまの まさる、1942年8月9日 - 2006年… 天野 勝(あまの まさる、1942年8月9日 - 2006年7月28日)は、広島県広島市出身のプロゴルファー。 学生時代は東京で卓球の個人チャンピオンになり、広島修道大学を2年で中退した後は珠算一級・簿記二級の資格を生かして沖電気工業とウテナの経理課に勤務し、全日本実業団選手権(軟式)団体2位の戦績を持つ。 1968年には「もっと給料が欲しい」と思って退社し、職業安定所から帰る途中にたまたま寄ったゴルフ練習場で初めてクラブを握ったのがきっかけとなり、26歳からゴルフを始める。 ゴルフを始めた時には2番アイアン1本で練習していたが、後にアイアンは全て打てるようになり、始めて僅か4ヶ月でハンディ4となって練習場の先生に採用されると、5年目の1972年春に30歳でプロテストに合格。
中部 銀次郎(なかべ ぎんじろう、1942年〈昭和17年〉2… 中部 銀次郎(なかべ ぎんじろう、1942年〈昭和17年〉2月16日 - 2001年〈平成13年〉12月14日)は、日本のアマチュアゴルファー。大洋クラブ会長。大洋漁業創業者中部幾次郎の孫。 山口県下関市出身。大洋漁業(現・Umios)副社長及び林兼産業社長を務めた中部利三郎の三男(四人兄弟の末っ子)として生まれる。小学校から兄の中部一次郎らと共にゴルフを始め、1958年、山口県立下関西高等学校2年生の時に関西学生選手権に大学生に混じって出場、優勝を果たし一躍その名をとどろかせる。 慶應義塾大学に進学するつもりであったが、ゴルフ環境の悪さ(大学のある都心からゴルフ場が遠い)を理由に一浪し甲南大学に入学。
星野 桂一(ほしの けいいち、1941年1月2日 - )は、… 星野 桂一(ほしの けいいち、1941年1月2日 - )は、東京都出身のプロゴルファー。 東海電波高等学校出身。 22歳からゴルフを始め、1970年にプロ入りする。 1978年の広島オープンでは初日を山本善隆・前田新作と共に5アンダー67の4位タイでスタートし、2日目には前田と共に吉川一雄・新井規矩雄・入江勉と並んでの9位タイ、3日目には井上幸一と並んでの7位タイに着けた。 1981年の日本国土計画サマーズでは3日目に藤木三郎と共に69をマークし、最終日には4日間首位で逃げ切った倉本昌弘から5打差の2位タイに入った。 1987年の関東プロを最後にレギュラーツアーから引退し、シニア転向後の1992年にはJAS CUPシニアで小川貞雄・郭吉雄(中華民国)と並んでの10位タイに入った。
堀田 明(ほった あきら、1941年1月1日 - )は、大阪… 堀田 明(ほった あきら、1941年1月1日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(外野手)、アマチュアゴルファー。
古市 忠夫(ふるいち ただお、1940年9月22日 - )は… 古市 忠夫(ふるいち ただお、1940年9月22日 - )は、兵庫県神戸市長田区出身のプロゴルファー。 59歳だった2000年に、史上2番目の年長で日本プロゴルフ協会(PGA)主催のプロテストに合格するとともに、史上最年長でPGAのゴルフインストラクター資格を取得した。 兵庫県立星陵高等学校を経て、立命館大学経済学部を卒業。小学校から高校時代の途中までは野球部、大学時代にはボート部で活動していた。ザ・スパイダースや井上堯之バンドのメンバーであったミュージシャンの井上堯之は、高校の同級生に当たる。 大学卒業後の28歳からは、地元・長田区の鷹取商店街で「東洋カメラ店」を経営。客の誘いで30歳からゴルフを始める と、店舗の経営や地元自治会・消防団での活動と並行しながら、地元の大神戸ゴルフ倶楽部でクラブチャンピオンに輝くほどにまでゴルフの腕を上げた。
大島 富五郎(おおしま とみごろう、1940年9月13日 -… 大島 富五郎(おおしま とみごろう、1940年9月13日 - 2026年1月9日)は、栃木県塩谷郡藤原町(現・日光市)出身のプロゴルファー。 今市高校では野球部の主将としてチームをまとめ、8つ先輩には作曲家の船村徹がいる。 卒業後は生まれ故郷にオープンした鬼怒川カントリークラブに就職し、所属プロであった中村寅吉の弟子・藤井正五に習ったため、中村の孫弟子を自認している。 その後は静岡・御殿場の富士小山ゴルフ倶楽部で修業を重ね、1964年12月にプロ入りする。 1966年の日本オープンに直近のブロック大会の優勝者として出場権を得て初出場を果たし、2日目には同郷の先輩小針春芳、石井朝夫と回り、イーグルもあって69で回って首位に立った。
鈴村 照男(すずむら てるお、1940年3月24日 - )は… 鈴村 照男(すずむら てるお、1940年3月24日 - )は愛知県出身のプロゴルファー。 愛知大学卒業後の1963年9月にプロ入りし、1967年の関西オープンで初優勝を飾る。同年の日本シリーズではシリーズ初登場の学士プロとして出場し、河野高明・橘田規・佐藤精一に次ぐと同時に宮本省三を抑え、杉原輝雄と並んでの4位タイに入った。 1968年の日本プロでは、最終日の午前を69で回って通算5アンダーで首位に立つ。最終18番パー5でバーディーを奪って通算5アンダーでホールアウトしたが、島田幸作に1打及ばず2位に終わった。 1969年の中日クラウンズでは2日目に1、2番と連続バーディ発進の後、10番からも3ホール連続でバーディを奪う。
清元 登子(きよもと たかこ 、1939年6月15日 - 2… 清元 登子(きよもと たかこ 、1939年6月15日 - 2017年9月16日)は、熊本県熊本市出身の日本の女子プロゴルファー、ゴルフ指導者、元日本女子プロゴルフ協会会長である。 24歳で初めてゴルフクラブを握り、始めておよそ2年後の1965年の「日本女子アマチュアゴルフ選手権競技」において初出場で3位となる。 1968年に行われた第1回「TBS女子オープン」(後の日本女子オープンゴルフ選手権競技)ではベストアマチュアになった。1969年、1972年、1973年に「日本女子アマチュアゴルフ選手権競技」で優勝。 1973年の「トヨトミレディス」において、アマチュアとして史上初めてのツアー優勝を果たす。
杉本 英世(すぎもと ひでよ、1938年2月16日 - )は… 杉本 英世(すぎもと ひでよ、1938年2月16日 - )は、静岡県伊東市出身の日本のプロゴルファーである。
杉原 輝雄(すぎはら てるお、1937年6月14日 - 20… 杉原 輝雄(すぎはら てるお、1937年6月14日 - 2011年12月28日)は、大阪府茨木市出身のプロゴルファーである。約50年に渡って現役を続行してきた存在感の大きさから、日本プロゴルフ界のドンと呼ばれた。永久シード権獲得者である。
大西 久光(おおにし ひさみつ、1937年2月10日 - )… 大西 久光(おおにし ひさみつ、1937年2月10日 - )は、日本の実業家、ゴルフ評論家、ゴルフ場設計者。 兵庫県西宮市生まれ。1959年、関西学院大学を卒業し住友ゴム工業の前身である日本ダンロップに入社。大学時代にゴルフ部に所属(主将まで務めた)していた経験を生かしてゴルフ用品の開発などに携わる[要出典]。 1973年、同社の関連会社でゴルフ競技運営などを行うダンロップスポーツエンタープライズの設立と同時に出向の形でマネージャーとして入社。トーナメントプロデューサー・ディレクターとして「インターナショナルツアー・ダンロップフェニックストーナメント」など数多くのゴルフトーナメントを手掛けた。トーナメントのプロデュースをしていくうちにゴルフ場設計の重要性を痛感するようになり、ゴルフ場設計に本格的に乗り出す[要出典]。
二瓶 綾子(にへい あやこ、1937年2月1日 - )は、福… 二瓶 綾子(にへい あやこ、1937年2月1日 - )は、福島県福島市出身の日本の女子プロゴルファー。 日本女子プロゴルフ協会 (JLPGA) 元会長。 庭塚中学校卒業。20歳の頃、福島県のゴルフ場でキャディになったことからゴルフを始める。 1967年、第1回プロテストでは樋口久子に次ぐ2位で合格。女子部創立記念競技に参加し、2位タイ。 1968年、日本女子プロゴルフ選手権大会2位など、賞金ランク3位 (自己最高位) 。1969年は同6位、1970年は同7位、1971年は同9位、1972年は同4位と一桁順位が続くも優勝なし。 1973年は日本女子プロゴルフ選手権大会3位タイ、JSG女子オープン2位と惜敗が続くも、諏訪湖女子オープンで初優勝。
郡司 洋(ぐんじ ひろし 1935年11月10日〜2007年… 郡司 洋(ぐんじ ひろし 1935年11月10日〜2007年10月14日 享年71)は日本のプロゴルファー。栃木県那須湯本出身。栃木県立黒磯高校卒業。身長164cm、血液型A型。 学生時代、名門那須ゴルフクラブにてアルバイトキャディをしていた頃、台湾の陳清水プロの引き玉(バックスピン)を目の当たりにして驚愕し、ゴルフのプロになる事を決意する。当時、千葉カントリークラブの建設に携わっていた清水建設の清水陽之助に声を掛けられ上京。24歳でプロテストに合格し、千葉カントリークラブ創設以来50年に渡り所属ヘッドプロとして活躍。 現役のトーナメントプロでありながら多数のプロゴルファーを育てた事でも有名。弟子の中では、横島由一(13勝)、1999年賞金女王となった村口史子(7勝)、全米オープン出場の増田伸洋(2勝)、他十数名。
秋本 祐作(あきもと ゆうさく、1935年6月30日 - 2… 秋本 祐作(あきもと ゆうさく、1935年6月30日 - 2016年5月9日)は、神奈川県中郡大磯町出身のプロ野球選手(投手)、プロゴルファー。 横須賀工業高校では1952年の秋季関東大会県予選準決勝に進むが、慶應高に敗退。1953年秋に知人の紹介で巨人の入団テストを受けるが、身長が基準に満たなかったため不合格となった。 卒業後は京都大丸を経て、1956年に阪急ブレーブスへ入団。3年目の1958年には48試合に登板して13連勝を含む14勝4敗、リーグ3位の防御率1.89を記録し、最優秀勝率のタイトルを獲得。同年に記録した200投球回以上で被本塁打3本は、半世紀後の2008年に岩隈久志が記録している。
橘田 規(きった ただし、1934年4月20日 - 2003… 橘田 規(きった ただし、1934年4月20日 - 2003年3月22日)は、兵庫県三木市(旧美嚢郡志染村)出身の元プロゴルファー。実弟の橘田光弘もプロゴルファーで、1970年の日本オープンの優勝者である。 農家の長男として産まれ、子供の頃から当たり前のようにやっていた田圃仕事などの手伝いで自然と下半身が鍛えられていた。 現役当時の体格は167cm、52kgと非常に細身で、胃腸が弱い上に食が細く、肝臓の状態も良くなかった。そんな体力的な弱点を補ったのが下半身の粘りとバネであり、この頃に培われた。 志染小学校→志染中学校を経て、小野工業高校卒業後の1954年に19歳でプロ入りし、23歳になった1957年に関西プロで初優勝を飾る。
佐藤 精一(さとう せいいち、1932年9月10日 - )は… 佐藤 精一(さとう せいいち、1932年9月10日 - )は、日本のプロゴルファー。大分県杵築市出身。左利き右打ち。1955年プロ入り。我孫子ゴルフ倶楽部出身。プレーの早さから「早撃ちマック」との異名をとる。好物はあんぱんとハンバーガー。 現在、出演番組なし。 この項目は、ゴルフに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト ゴルフ)。
中島 巌(なかじま いわお、1926年1月4日 - 1995… 中島 巌(なかじま いわお、1926年1月4日 - 1995年3月13日)は、日本のアマチュアゴルファー・ゴルフ指導者・ゴルフ場会社経営者・ゴルフコース設計者。中島常幸・中島和也・中島恵利華の父。群馬県桐生市出身。 アマチュアゴルファーとして活躍していたが、長男・常幸の誕生に際し、息子を一流ゴルファーに育てることを決意。常幸のみならず、三男・和也、長女・恵利華にも厳しい練習を課し、プロゴルファーに仕立て上げた。その指導は徹底しており、常幸は練習に専心するため、通っていた私立樹徳高校を中退させられたほどであった。次男・中島篤志によれば、巌は「巨人の星」の星一徹を地でいく筋金入りのがんこ親父であり、子供を“育てる”というよりも“つくる”という感じであったという。
林 由郎(はやし よしろう、1922年1月27日 - 201… 林 由郎(はやし よしろう、1922年1月27日 - 2012年1月2日)は、千葉県我孫子市出身のプロゴルファー、ゴルフ指導者・解説者。 長男の林由一、孫の林由寿もプロゴルファーである。 第二次世界大戦直前の1930年代に貧しい農家であった一家を支えるため、小学校を卒業した林は自宅近くの我孫子GCでキャディのアルバイトを始める。大人顔負けの日銭が稼げる仕事でそれ以上のものではなかったが、いち早くボールを発見し利用客に喜んでもらうために一生懸命、客の構えとボールの方向をよく見ていた。毎日、目の前でプレーを見ている内に自然の成り行きでゴルフに魅せられていくと、キャディの仕事の意味は一変。客のスタンスの取り方、グリップの形、テークバックの上げ方、バンカーショットなど、目を皿の様に観察し、練習する毎日となった。
小針 春芳(こばり はるよし、1921年4月24日 - 20… 小針 春芳(こばり はるよし、1921年4月24日 - 2019年4月19日)は、栃木県那須郡高林村(現・那須塩原市)の元プロゴルファー。 晩年まで拠点は那須一筋であったため、「那須の神様」「那須の小天狗」の異名を持った。 実家は農業を営んでいたが、生活は苦しく、米飯が食えるのは盆か正月くらいで、後は稗か粟が毎日であった。小針はこうした家庭の実情の中、一念発起して働きに出ることになるが、高等小学校を卒業して国鉄の試験を受けるも色弱で不合格になった。夢破れた時に那須ゴルフ倶楽部がキャディを募集していたため、1936年に入社。色の識別ではゴルフを覚えた頃にも苦労があり、当時はグリーンのマークは赤い毛糸を使用していたが、判別できなかった小針だけ黄色であった。
戸田 藤一郎(とだ とういちろう、1914年11月22日 -… 戸田 藤一郎(とだ とういちろう、1914年11月22日 - 1984年7月11日)は、兵庫県神戸市出身の元プロゴルファー。本名「阪野 藤一郎」。 戦前、戦後を通じ「トイチ」のニックネームで天才プロと謳われた。 実家の近くに日本で2番目に出来たゴルフコース「横屋ゴルフ・アソシエーション」があり、近所に住んでいた日本プロ第1号の福井覚治にゴルフを教えてもらった。小学生の時からキャディを始め、客のプレーを盗み見しながらゴルフを覚える。 1933年に出来たばかりの廣野ゴルフ倶楽部にプロ助手として入社し、この頃は200ヤード先にある松を目標に、毎日何百発、何千発とアイアンで打ち込み、ついに松を枯らしてしまったことがあった。
富澤 誠造(とみざわ せいぞう、1910年(明治43年)- … 富澤 誠造(とみざわ せいぞう、1910年(明治43年)- 1978年(昭和53年))は、千葉県出身のゴルフ場設計者。 富澤誠造は、1910年(明治43年)、千葉県東葛飾郡に生まれ、1924年(大正14年)14歳で、「武蔵野カンツリー倶楽部・六実コース」(1930年(昭和5年)、「武蔵野カンツリー倶楽部・藤ヶ谷コース」開場、1944年(昭和19年)閉鎖)のグリーンキーパーとして働いた。 1950年(昭和25年)、ゴルフ場の工事を得意とする安達建設の設計部に入社、井上誠一の下で「川崎国際カントリー倶楽部」(現・川崎国際生田緑地ゴルフ場)の工事監督として働きながら、井上からゴルフ場の設計を学んだ。 1957年(昭和32年)、富澤のコース設計第1号である「千葉カントリークラブ・川間コース」が開場した。
井上 誠一(いのうえ せいいち、1908年(明治41年)8月… 井上 誠一(いのうえ せいいち、1908年(明治41年)8月1日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、東京府(現・東京都)出身のゴルファー、ゴルフ場設計者。 1908年(明治41年)8月11日、東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)に、眼科医の長男として生まれる。母は御茶ノ水にあった井上眼科医院創始者の長女で、父は養子として母と結婚した。 少年時代はカメラなどが趣味で、映画やメークアップへの興味も相まってハリウッドへの憧れを抱いた。しかし、成蹊高等学校在学中に、嗜眠性脳炎を患い、叔父の井上達四郎に、治療にはゴルフが最適と言われゴルフを始めた。1930年(昭和5年)、「川奈ホテルゴルフコース・富士コース」(静岡県)にいた時、「東京ゴルフ倶楽部・朝霞コース」(埼玉県)の設計のためにイギリスから来日していたチャールズ・ヒュー・アリソンに出会い、彼の仕事を見て「面白そうだ、僕もやってみよう」と思い立つ。
上田 治(うえだ おさむ、1907年(明治40年) - 19… 上田 治(うえだ おさむ、1907年(明治40年) - 1978年(昭和53年))は、大阪府出身のゴルフ場設計者。元競泳日本代表選手。100m背泳ぎ元日本記録保持者。 上田治は、大阪府茨木市に、1907年(明治40年)生まれ、旧制茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)、旧制松山高等学校(後身校・愛媛大学)を卒業、京都帝国大学農学部に学んだ。旧制茨木中学校時代水泳部で活躍した。100m背泳ぎで3度日本記録を更新し、極東選手権競技大会では1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)にかけて100m背泳ぎ3連覇を達成した。 1930年(昭和5年)、「廣野ゴルフ倶楽部」(兵庫県)のコース設計で来日したチャールズ・ヒュー・アリソンは、コース設計図を作成した上で帰国した。
町田 義雄(まつだ よしお、1905年3月18日 - 没年不… 町田 義雄(まつだ よしお、1905年3月18日 - 没年不詳)は、日本のゴルフ場設計者。造園技術者。 1905年(明治38年)大阪府に生まれる。東京農業大学林学科に入学し造園研究を行う。1924年(大正14年)にゴルフ場設計者であるチャールズ・ヒュー・アリソンに師事する機会に恵まれ、東京ゴルフ倶楽部のコース造成現場の担当者となる。1929年(昭和4年)東京ゴルフ倶楽部の責任者。1934年(昭和9年)宮内省に入庁。内匠寮に所属し、当時、吹上御所に存在したゴルフコースの管理を担ったと見られている。 第二次世界大戦後は再び民間に転じ、1949年(昭和24年)宝塚ゴルフ倶楽部コース造成担当に就任。1951年(昭和31年)加古川ゴルフ倶楽部取締支配人。
間野 貞吉(まの さだきち、1903年(明治36年) - 1… 間野 貞吉(まの さだきち、1903年(明治36年) - 1979年(昭和54年))は、兵庫県神戸市出身の日本の建築家、一級建築士、ゴルフ場設計者。 間野貞吉は、1903年(明治36年)、兵庫県神戸市に生まれ、神戸一中から岡山の旧制第六高等学校を卒業、東京帝国大学工学部建築科に入学した。1926年(大正15年)、建築復興助成株式会社に入社、耐火建築の設計を主な仕事として勤務した。1929年(昭和4年)、東京帝国大学を卒業した。 間野は建築家として耐火建築物の設計を多く手掛けた。1932年(昭和7年)、母校の東京帝国大学から、論文『ゴルフ場の施設』により工学博士号を授与された。「相模カンツリー倶楽部」のメンバーとなり、ゴルフに打ちこんだ。
佐藤 儀一(さとう ぎいち、1899年(明治32年)6月13… 佐藤 儀一(さとう ぎいち、1899年(明治32年)6月13日 - 1967年(昭和42年)7月2日)は、広島県出身のゴルファー、ゴルフ場設計者。 佐藤儀一は、1899年(明治32年)6月13日、広島県福山市に生まれ、16歳でハワイに渡り、イオラニハイスクール卒業後、カリフォルニア大学美術科で学んだ。1930年(昭和5年)、大学生の時、プロのジミー・ダンカンに誘われてゴルフを始めた。 1931年(昭和6年)、サンフランシスコ市ゴルフ選手権で2位になった。1932年(昭和7年)、サンフランシスコ市ゴルフ選手権で優勝、多くの競技大会に参加し、全米パブリックリンク選手権に優勝した。また、全米ゴールドメダル選手権4連覇など活躍し、100以上のアマチュアタイトルを獲得した。