渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 19… 渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 1993年2月1日)は、日本の海軍軍人。
職業が軍人:1,785人
渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 19… 渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 1993年2月1日)は、日本の海軍軍人。
矢野 謙三(やの けんぞう、1902年(明治35年)1月30… 矢野 謙三(やの けんぞう、1902年(明治35年)1月30日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、大日本帝国陸軍軍人。基隆市尹。 矢野槌太郎の三男として福岡県福岡市に生まれる。1920年(大正9年)福岡県立中学修猷館、1923(大正12年)年第五高等学校文科甲類を経て、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部法学科卒業後、高等文官試験行政科試験に合格する。 同年12月、野砲兵第6連隊に入隊し、1929年(昭和4年)4月に陸軍砲兵少尉に進む。同年6月、台湾総督府属に転じ、総督官房文書課勤務となる。1931年(昭和6年)5月、同府地方理事官となり、新竹州竹南郡守に発令され、1934年(昭和9年)9月に同州内務部教育課長、1936年(昭和11年)10月に台北州内務部地方課長を経て、1937年(昭和12年)9月29日に基隆市尹に就任した。
華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治… 華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治35年)1月26日 - 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の皇族、海軍軍人。 博恭王が華頂宮当主であった時の王子。1902年(明治35年)1月26日に誕生した第2王子。2月1日、博忠と命名される。博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり、博忠王は僅か2歳(明治37年1月15日附)で華頂宮の家督を継承する。学習院初等科時代は、裕仁親王(後の昭和天皇)と同級だった。中等学科4年より海軍兵学校予科へ進む。博忠王の海軍兵学校時代初期、校長は鈴木貫太郎海軍中将であった。 海軍兵学校を卒業(49期)した博忠王は1921年(大正10年)7月16日附で海軍少尉候補生となり、装甲巡洋艦八雲乗組を命じられる(同級の朝融王は出雲乗組)。
豊田 隈雄(とよだ くまお、1901年(明治34年)12月1… 豊田 隈雄(とよだ くまお、1901年(明治34年)12月13日 - 1995年(平成7年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 大分県杵築市出身。旧制大分県立宇佐中学校より海軍兵学校第51期入校。席次は入校時293名中146番、卒業時255名中84番。海軍大学校は首席卒業。 戦後、復員庁第二復員局に勤める。在職中は極東国際軍事裁判の対策に携わる。 日中戦争当時には台湾からの中攻による渡洋爆撃を考案、自ら搭乗してこれを指揮し、金鵄勲章を拝受している。しかしこの時の賞金1万円はついに支払われず、戦後佐藤首相より金杯を受けたのみで、請求権を放棄させられたという。戦場にあっては勇猛果敢な航空参謀、海軍武官補佐官としては、誠実かつ有能な外交官であった。
西浦 進(にしうら すすむ、1901年(明治34年)12月4… 西浦 進(にしうら すすむ、1901年(明治34年)12月4日 - 1970年(昭和45年)11月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大佐。 陸軍士官学校34期(秩父宮を除き3番、恩賜)、陸軍大学校42期(首席)。陸軍士官学校同期の服部卓四郎および堀場一雄と並び「34期三羽烏」と称された。主に陸軍省軍務局に属して軍政に従事、太平洋戦争開戦前後には東條英機首相兼陸軍大臣の大臣秘書官を務めた。戦後は太平洋戦争史の調査研究に注力し、防衛庁防衛研修所戦史室の初代室長として『戦史叢書』の編纂を進めた。 1901年(明治34年)に東京で、陸軍歩兵中尉西浦栄蔵の子として生まれる。旧制和歌山県立和歌山中学校から、1915年(大正4年)に大阪陸軍地方幼年学校へ進む。
朴 沃圭(パク・オッキュ、朝鮮語: 박옥규、1901年11月… 朴 沃圭(パク・オッキュ、朝鮮語: 박옥규、1901年11月5日 - 1971年1月28日)は大韓民国の軍人、海軍中将。第2代海軍参謀総長を務めた。 日本統治下時代の朝鮮(釜山)生まれ。1916年4月、関西大学専門部予科に入り、1919年3月に修了した。朝鮮に戻り、1920年4月、仁川海員養成所第2期航海科に入学。本科3年を修了し、朝鮮総督府逓信局の実習船で3年間の実習を完了したことで、1926年3月に卒業と同時に甲種二等運転士免許を取得した。朝鮮人として初の卒業生であった。 朝鮮郵船という会社で3年間運転士(航海士)として生活したのち、1929年、日本に渡り川崎汽船のぼるどう丸に二等運転士として勤務し、約3年間世界各地を回った。
金原 節三(きんばら せつぞう、1901年11月3日 - 1… 金原 節三(きんばら せつぞう、1901年11月3日 - 1976年10月29日)は、日本陸軍軍医(耳鼻咽喉科)、陸上自衛隊医官。第三代陸上幕僚監部衛生監。陸将。医学博士。 愛知県名古屋市出身。1919年(大正8年)3月、静岡県立静岡中学校卒業。第八高等学校を経て、陸軍に入り、1926年(大正15年)東京帝国大学医学部(陸軍依託学生)卒業。同年6月、陸軍二等軍医。同年8月、陸軍軍医学校(~昭和2年6月)。1928年(昭和3年)5月、済南事変のため出征(~昭和4年4月)、1929年(昭和4年)4月、東京帝大大学院耳鼻咽喉科・増田胤次教授に師事(~昭和6年3月)。1929年(昭和4年)8月(一等軍医)。
西田 税(にしだ みつぎ、1901年(明治34年)10月3日… 西田 税(にしだ みつぎ、1901年(明治34年)10月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、思想家。 日本改造法案大綱を著し国家改造論者として知られる北一輝と親交を持つようになったことから、国家革新の志をさらに大きくするようになったという。西田の思想は革新的な青年将校から絶大に信奉されたが、1936年(昭和11年)の二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され、翌1937年(昭和12年)、北とともに刑死した。 鳥取県西伯郡米子町大字博労町(現在の米子市博労町)に仏具店を営む父・西田久米造、母・つねの次男として生まれた。 1914年(大正3年)3月、啓成尋常小学校(現・米子市立啓成小学校)を卒業。
柴 勝男(しば かつお、1901年(明治34年)9月4日 -… 柴 勝男(しば かつお、1901年(明治34年)9月4日 - 1970年(昭和45年)1月3日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。旧姓・阿部。千葉県出身。 農業・阿部作次郎の二男として千葉県で生まれた。私立大成中学校(現千葉県立長生高等学校)を経て、1922年6月、海軍兵学校(50期)を卒業、翌年9月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、島風水雷長を経て、水雷学校専攻科で学んだ。綾波水雷長を経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を卒業する。 沼風艦長、ドイツ駐在、ドイツ大使館付武官補佐官、響艦長、海大教官、軍令部第1部員などを経て、1938年11月、海軍中佐に進級。海軍省軍務局第1課付、同課局員などを歴任し、軍務局第2課局員として太平洋戦争を迎えた。
佐薙 毅(さなぎ さだむ、1901年(明治34年)8月8日 … 佐薙 毅(さなぎ さだむ、1901年(明治34年)8月8日 - 1990年(平成2年)3月14日)は、日本の海軍軍人及び航空自衛官、第2代航空幕僚長。海兵50期・海大32期。帝国海軍での最終階級は海軍大佐。自衛隊での最終階級は航空幕僚長たる空将。 現在の愛媛県新居浜市で出生。父は教員・佐薙喜志太。1919年(大正8年)3月、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校卒業(50期。卒業席次は19位)。 1923年(大正12年)9月、海軍少尉に任官。1925年(大正14年)12月、海軍中尉。1926年(大正15年)3月、第4期偵察学生。
安久 榮太郎(あんきゅう えいたろう、1901年(明治34年… 安久 榮太郎(あんきゅう えいたろう、1901年(明治34年)6月5日 - 1945年(昭和20年)4月13日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争で潜水艦輸送を23回成功させた伊38潜水艦長である。最終階級は海軍少将。 安久は福井県出身の海兵50期生である。海軍兵学校時代の校長は鈴木貫太郎、千坂智次郎で、安久は272名中95番で卒業した。練習艦隊は谷口尚真司令官に率いられ、片桐英吉、岸本鹿子治、田中頼三らの幹部に指導を受けた。術科学校で初級士官教育を受け、中尉進級後に呂59(駒沢克己艦長)に乗組んだのが潜水艦歴のはじまりである。水雷学校高等科、潜水学校乙種を履修し、安久は潜水艦専攻士官となる。 潜水学校乙種は潜水艦水雷長を養成する課程である。
扇 一登(おうぎ かずと、1901年(明治34年)5月24日… 扇 一登(おうぎ かずと、1901年(明治34年)5月24日 - 2004年(平成16年)1月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は大佐。海兵51期、海大32期。広島県旧世羅郡三川村出身。
東 庄太郎(ひがし しょうたろう、1901年(明治34年)4… 東 庄太郎(ひがし しょうたろう、1901年(明治34年)4月15日 - 1945年(昭和20年)3月17日戦死認定)は、日本の軍人。硫黄島の戦いで小笠原兵団の高射砲隊を指揮した。最終階級は陸軍少佐、玉砕後大佐に二階級特進。 奈良県宇陀郡宇賀志村(現・宇陀市)佐倉出身。 1921年(大正10年)12月、伏見野砲兵第22連隊に現役入営。1930年(昭和5年)時点で本部附陸軍軍曹。1935年(昭和10年)、少尉候補者15期生として陸軍士官学校卒業。1936年3月、砲兵少尉。1937年(昭和12年)2月、陸軍野戦砲兵学校に入学(高射砲学生)。8月、千葉県柏市の高射砲第2連隊(第77部隊)に転じ、さらにその10日後、近衛師団第7高射砲隊に転じ、上海に上陸。
鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月… 鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月11日 - 1944年(昭和19年)11月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 福島県出身。医師・鹿岡貫治の四男として生れる。旧制石川中学校を経て、1921年7月、海軍兵学校(49期)を卒業。皇族2名を除いた席次は172名中5番。翌年5月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を首席卒業し、「加古」分隊長、アメリカ駐在(イェール大学)、「夕霧」航海長、「夕凪」水雷長、「羽黒」分隊長などを経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を首席で卒業。 軍令部出仕、「嵯峨」艦長、軍令部第1部第2課部員、第2根拠地隊参謀、海軍省軍務局第1課局員などを歴任し東條英機首相秘書官となった。
伊藤 庸二(いとう ようじ、1901年3月5日 - 1955… 伊藤 庸二(いとう ようじ、1901年3月5日 - 1955年5月9日)は、日本の海軍軍人、工学者、無線技術者。ドレスデン工科大学Doctor、東京帝国大学工学博士。最終階級は海軍技術大佐。 1901年(明治34年)3月5日、千葉県夷隅郡御宿村(現・御宿町)に、御宿尋常高等小学校長伊藤鬼一郎の次男として誕生。伊藤家は御宿郷の名主の家系だった。旧制第一高等学校を卒業後、東京帝国大学の1年生の時に海軍委託学生になり、1924年(大正13年)3月、同大学工学部電気工学科を卒業。翌月、海軍造兵中尉(技術科士官第13期)に任官する。当時、欧米で電波技術が顕著に発展していたことから海外に技術者を留学させることとなり、1926年8月、箕原勉の推薦によりその候補に選ばれた。
永井 貞三(ながい さだぞう、1901年3月 - 1944年… 永井 貞三(ながい さだぞう、1901年3月 - 1944年10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将[3]。広島県出身。
久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年〈明治3… 久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年〈明治34年〉2月2日 - 1959年〈昭和34年〉12月7日)、または久邇 朝融(くに あさあきら)は、日本の旧皇族、海軍軍人。久邇宮第3代当主。官位は海軍中将大勲位功三級。香淳皇后の兄、第125代天皇・明仁の母方の伯父にあたる。 1901年(明治34年)2月2日、久邇宮邦彦王と同妃俔子の第1王子として誕生し、2月9日に朝融と命名された。 1921年(大正10年)2月2日に20歳を迎え、貴族院議員となった。4月19日に成年式が執り行われた。同年7月16日に海軍兵学校(49期)を卒業し、皇族軍人の一員として海軍軍人としてのキャリアを歩む。兵学校では、華頂宮博忠王と同期生だった。
永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月2… 永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月20日 - 1970年(昭和45年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 茨城県出身。永井弥八郎の五男として生まれる。水戸中学校、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第25連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し歩兵第25連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)12月、陸軍省軍務局付勤務となる。以後、軍務局課員、参謀本部付仰付(中国駐在)などを経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に昇進し関東軍司令部付に就任。
服部 卓四郎(はっとり たくしろう、1901年(明治34年)… 服部 卓四郎(はっとり たくしろう、1901年(明治34年)1月2日 - 1960年(昭和35年)4月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 山形県出身。陸士34期、陸大42期(優等)。 陸軍士官学校34期を秩父宮雍仁親王を除き、12番の成績で卒業。同期に西浦進、石井秋穂、堀場一雄、赤松貞雄、西田税、三好達治などがいる。 服部は、同期の西浦・堀場とともに「三十四期の三羽烏」と称されるほどの俊秀であった。 陸軍大学校42期を卒業。卒業後、しばらくは参謀本部に勤務したが、1934年(昭和9年)~1935年(昭和10年)フランス留学、1936年(昭和11年)にはエチオピア戦争を観戦するなど海外畑を歩いた。
加藤 義秀(かとう よしひで、1901年〈明治34年〉1月2… 加藤 義秀(かとう よしひで、1901年〈明治34年〉1月2日 - 2002年〈平成14年〉10月)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 北海道雨竜郡一已村(現・深川市一已町)出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。1930年(昭和5年)陸軍大学校第42期卒業。 フィンランド駐在武官、スウェーデン駐在武官、関東軍参謀、陸軍省兵務局防衛課高級課員を経て、1941年(昭和16年)7月、防衛総司令部参謀に補され、翌8月、陸軍大佐に進む。ついで、1945年(昭和20年)6月1日、第53軍参謀長となり、同月30日、陸軍少将に進んだ。済州島の守備に当たる中終戦を迎えた。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
古森 善五郎(こもり ぜんごろう、1901年 - 1959年… 古森 善五郎(こもり ぜんごろう、1901年 - 1959年)は、日本の外科学者、ドイツ陸軍の軍人(軍医)。
人見 豊治(ひとみ とよはる、1901年 - 1943年11… 人見 豊治(ひとみ とよはる、1901年 - 1943年11月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。
寺平 忠輔(てらだいら ただすけ、1901年(明治34年)-… 寺平 忠輔(てらだいら ただすけ、1901年(明治34年)- 1968年(昭和43年)3月10日)は、日本陸軍の軍人、最終階級は中佐。北平特務機関補佐官として盧溝橋事件発生深夜から事件不拡大に尽力した。大東亜戦争復員後は、盧溝橋事件解明に生涯を捧げた。没後の1970年7月、著書『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』が発刊。事件渦中の人物が直接記した詳細な手記であると共に、戦後聴取した関係者の証言が加筆され、盧溝橋事件の日本側の第一級資料として、今日に至るまで研究が重ねられている。 1901年(明治34年)、静岡県出身。静岡県立静岡中学校を経て、1923年(大正12年)、陸軍士官学校(35期)卒業後、陸軍委託学生として1928年(昭和3年)、東京外国語学校に入学、3年間支那語を修めた。
岡村 基春(おかむら もとはる、1901年 - 1948年7… 岡村 基春(おかむら もとはる、1901年 - 1948年7月13日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校第50期卒業。最終階級は海軍大佐。 1901年高知県安芸郡井ノ口村(現在の安芸市井ノ口)の瓦葺き職人の父岡村熊之助のもとに生まれる。兄に岡村徳長、妹聖子の夫に江草隆繁がいる。1922年6月1日海軍兵学校50期を卒業。第13期飛行学生を戦闘機搭乗員として卒業。1928年鳳翔勤務時、振武盃を下賜される。 飛行学生17期の出身で、三式艦上戦闘機搭乗以来の長いキャリアを持つ戦闘機搭乗員で、特に編隊飛行の名手であり、横須賀航空隊分隊長時代、戦闘機の特殊編隊飛行の公演を行って「岡村サーカス」の名前で知られた。
長澤 浩(ながさわ こう、1900年(明治33年)12月29… 長澤 浩(ながさわ こう、1900年(明治33年)12月29日 - 1967年(昭和42年)4月17日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。第2代海上幕僚長。海兵49期、海大甲種30期。 福島県福島市出身。福島県立福島中学校(現・福島県立福島高等学校)を経て、海軍兵学校に進む。海軍時代は主に人事畑を歩む。 戦後、公職追放を経て、山本善雄元少将、保科善四郎元中将、野村吉三郎元大将のラインで海軍再建計画を進める。これが後にY委員会に発展、同委員会において渉外及び制度、機構、定員等の立案する部門を担当する。海上幕僚長に就任後は掃海隊、練習隊群、需給統制隊、海上訓練指導隊、術科学校、遠洋航海など今日の海上自衛隊の骨格となる部門を次々に発足させ、海上自衛隊の実質的な開祖とされる。
藤田 実彦(ふじた さねひこ、1900年〈明治33年〉12月… 藤田 実彦(ふじた さねひこ、1900年〈明治33年〉12月25日 - 1946年〈昭和21年〉3月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。陸士33期、陸大42期。 別名、田友・田通。髭の参謀とも呼ばれた。通化事件の首謀者として八路軍に拘束され、肺炎で急死した。 鹿児島県の士族出身。薩摩郡隈之城村大字東手(現在の薩摩川内市宮崎町)出身。陸士卒業後、歩兵第23連隊附。陸大卒業後は独立軽装甲車第2中隊長として華北戦線、南京攻略戦に参加。内地に帰還し内閣情報局第1部第3課長、戦車第1連隊長を歴任。1945年、再び大陸へ向かい第125師団参謀長となった。 ポツダム宣言が受諾された翌日、関東軍にも武装解除命令が通達されたが、納得の行かない藤田は関東軍作戦班長の草地貞吾大佐に電話をかけ、「草地君、ワシの師団は関東軍命令はきかないからなあ」と命令拒否と師団の徹底抗戦を宣言した。
池田 末男(いけだ すえお、1900年〈明治33年〉12月2… 池田 末男(いけだ すえお、1900年〈明治33年〉12月21日 - 1945年〈昭和20年〉8月18日)は、日本の陸軍軍人。陸士34期。 太平洋戦争終戦3日後の1945年(昭和20年)8月18日 午前1時30分頃、千島列島(日本領)と南樺太(日本領)の占領を図る赤軍が、占守島(千島列島の北端)に侵攻してきた(占守島の戦い)。 池田は戦車第11連隊を陣頭指揮して赤軍を迎え撃ち、8月18日午前に戦死した(満44歳没)。戦死時の階級は陸軍大佐、戦死により同日付で陸軍少将に進級。 愛知県豊橋市向山町(現)で出生。陸軍憲兵少佐・池田筆吉の五男。兄の池田廉二(陸士23期)は陸軍中将。 愛知県豊橋中学校(現:愛知県立時習館高等学校)、陸軍中央幼年学校予科(東京陸軍幼年学校に相当)、陸軍中央幼年学校本科(後の陸軍士官学校予科、陸軍予科士官学校)を経て、陸軍士官学校に入校。
阿久津 正蔵(あくつ しょうぞう、1900年12月1日 - … 阿久津 正蔵(あくつ しょうぞう、1900年12月1日 - 1988年2月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計大佐。太平洋戦争後は軍人時代に研究した製パンの知識をもってパン業界に入り、日本パン技術協会会長を務めた。 1921年(大正10年)、主計候補生第15期として陸軍経理学校を優等卒業。同年、陸軍三等主計に任官し歩兵第52連隊附、続いて第8師団経理部の経理官となる。1926年(大正15年)、陸軍二等主計で陸軍糧秣本廠の廠員に補職され陸軍経理の中でもとくに糧秣を担当する。1930年(昭和5年)、陸軍から派遣され東京帝国大学工学部を卒業。その後は陸軍糧秣本廠と兼務して陸軍科学研究所所員および陸軍習志野学校研究部部員となり研究を本務とする。
吉川 潔(きっかわ きよし、1900年〈明治33年〉11月3… 吉川 潔(きっかわ きよし、1900年〈明治33年〉11月3日 - 1943年〈昭和18年〉11月25日)は、日本海軍の軍人。戦死後、二階級特進して海軍少将。広島県広島市段原町出身。海兵50期。 父は漢学者。七男四女のうち、四男。旧制広陵中学(現・広陵高等学校)を卒業後、海軍兵学校を受験するが身長と胸囲不足で不合格。口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げた。翌1919年(大正8年)兵学校(海兵50期)に合格。兵学校時代は成績も下の方で「寡黙の吉川」といわれるほど目立たなかった。「量も大切だが最後を決するのは質と精神だ」を口癖としていたという。 1922年(大正11年)6月1日、海軍兵学校を卒業し、同日附で少尉候補生。
石井 秋穂(いしい あきほ、1900年(明治33年)11月2… 石井 秋穂(いしい あきほ、1900年(明治33年)11月2日 - 1996年(平成8年)8月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 第16師団参謀、北支那方面軍参謀などを経て、陸軍省軍務局軍務課高級課員となり、日米開戦前の政策立案などにあたる。陸軍きっての理性派として避戦を望んだが、日米交渉の失敗で戦争政策を進めることになる。 1900年(明治33年)、山口県豊浦郡豊西村(現下関市)で石井友三郎の五男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校本科を経て、1922年(大正11年)7月、陸軍士官学校(34期)を秩父宮を除き4番の成績で卒業。なお石井は、陸幼と陸士卒業時の2度に亘り恩賜の銀時計を拝受している。
原 為一(はら ためいち、1900年(明治33年)10月16… 原 為一(はら ためいち、1900年(明治33年)10月16日 - 1980年(昭和55年)10月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 香川県出身。高松中学校を経て、1921年(大正10年)7月、海軍兵学校(49期)を卒業。翌年5月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、駆逐艦「秋風」「吹雪」「韓崎」の各水雷長、水雷学校教官などを経て、1933年(昭和8年)11月、海軍少佐に進級。駆逐艦「夕凪」「長月」「綾波」艦長などを歴任し、太平洋戦争を駆逐艦「天津風」艦長として迎えた。 第二十七駆逐隊司令を経て、1943年(昭和18年)5月に海軍大佐となった。水雷学校教官、兼川棚警備隊司令を歴任し、1944年(昭和19年)12月に第二水雷戦隊旗艦軽巡洋艦「矢矧」艦長に就任。
田中 弥(たなか わたる、1900年10月13日 - 193… 田中 弥(たなか わたる、1900年10月13日 - 1936年10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉。
堀内 豊秋(ほりうち とよあき、1900年〈明治33年〉9月… 堀内 豊秋(ほりうち とよあき、1900年〈明治33年〉9月27日 - 1948年〈昭和23年〉9月25日)は、日本の海軍軍人、体操研究者。最終階級は海軍大佐。熊本県熊本市出身。海兵50期。 御馬下尋常小、濟々黌を経て、海軍兵学校第50期入校。席次は入校時298名中283番、卒業時272名中156番。堀内は第13期飛行学生(艦上機班)となったが飛行作業中に車輪止め位置を直そうと駆け寄りプロペラ接触、2日間意識不明の重症を負い2ヶ月間程治療後、飛行場に出るも教官から次期飛行学生に編入されると告げられ憤然とし「次期編入であれば飛行学生を辞めます」と立ち去ったという。このため砲術専攻へ転科し、のち駆逐艦や巡洋艦の砲術長を歴任した。
山口 一太郎(やまぐち いちたろう、1900年(明治33年)… 山口 一太郎(やまぐち いちたろう、1900年(明治33年)9月10日 - 1961年(昭和36年)2月22日)は、日本の陸軍軍人。理学士。最終階級は陸軍歩兵大尉。 皇道派:荒木貞夫 - 真崎甚三郎 - 柳川平助 - 小畑敏四郎※ - 秦彦三郎 - 山下奉文 - 山岡重厚 - 土橋勇逸 - 牟田口廉也統制派:永田鉄山※ - 東條英機※ - 小磯國昭 - 建川美次 - 梅津美治郎 - 池田純久満洲派:石原莞爾 - 板垣征四郎 - 花谷正 - 片倉衷清軍派:重藤千秋 - 橋本欣五郎 - 長勇 - 小原重孝(※は「バーデン=バーデンの密約」参加者) 野中四郎 - 香田清貞 - 安藤輝三 - 河野壽 - 栗原安秀 - 村中孝次 - 磯部浅一 - 北一輝 - 西田税 竹嶌継夫 - 対馬勝雄 - 中橋基明 - 丹生誠忠 - 坂井直 - 田中勝 - 安田優 - 中島莞爾 - 高橋太郎 - 林八郎 - 渋川善助 - 麦屋清済 - 常盤稔 - 鈴木金次郎 - 清原康平 - 池田俊彦 - 今泉義道 山口一太郎 - 柳下良二 - 新井勲 - 鈴木五郎 - 井上辰雄 - 塩田淑夫 - 満井佐吉 - 菅波三郎 - 大蔵栄一 - 末松太平 - 志村陸城 - 志岐孝人 - 斎藤瀏 - 越村捨次郎 - 福井幸 - 町田専蔵 - 宮本正之 - 加藤春海 - 佐藤正三 - 宮本誠三 - 杉田省吾 - 亀川哲也 - 中橋照夫 岡田啓介 - 松尾伝蔵(死亡) - 高橋是清(死亡) - 斎藤實(死亡) - 鈴木貫太郎 - 渡辺錠太郎(死亡) - 牧野伸顕 昭和天皇 - 秩父宮雍仁親王 - 伏見宮博恭王 - 西園寺公望 - 徳川義親 - 加藤寛治 - 川島義之 - 本庄繁 - 香椎浩平 - 鈴木貞一 - 馬奈木敬信 - 匂坂春平 - 小坂慶助 - 迫水久常 - 広田弘毅 - オイゲン・オット - リヒャルト・ゾルゲ
中山 寧人(なかやま やすと、1900年(明治33年)9月6… 中山 寧人(なかやま やすと、1900年(明治33年)9月6日 - 1980年(昭和55年)9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。熊本県下益城郡松橋町長。 熊本県出身。中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第79連隊付となる。陸軍歩兵学校付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を優等で卒業した。 1930年(昭和5年)8月、歩兵大尉に昇進し歩兵第79連隊中隊長に就任。参謀本部付勤務、参謀本部員、アメリカ駐在、中国駐在、アメリカ大使館付武官補佐官を務め、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に昇進。
村井 貞敏(むらい さだとし、1900年(明治33年)8月2… 村井 貞敏(むらい さだとし、1900年(明治33年)8月27日 - 1944年(昭和19年)5月22日)は、日本の海軍軍人。 山形県鶴岡市で誕生、荘内中学校出身。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校50期を卒業、任官。1937年(昭和12年)12月1日駐満海軍部副官着任後、1938年(昭和13年)駐満海軍部が解散した後も、1940年(昭和15年)11/15帰任までの期間、満州国中枢における海軍諜報機関として日華事変の情報収集に当たった。1944年5月22日、砲艦橋立の艦長として南シナ海東沙島南方海域で損傷輸送船の救助中に、米潜水艦の雷撃を受け沈没、戦死した。
内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日… 内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争中に第二次遣独潜水艦作戦を完遂した伊号第八潜水艦長である。最終階級は海軍大佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中を経て海軍兵学校49期を卒業。皇族2名を除いた席次は174名中29番。同期に原為一、長澤浩、鹿岡円平などがいる。1922年(大正13年)5月海軍少尉に任官した。中尉時代に5艦の呂号潜水艦に乗艦し、大尉進級。水雷学校高等科へ進み、さらに同専攻科を卒業。伊号潜水艦水雷長、潜水学校教官を務め、1933年(昭和8年)11月、少佐へ進級。以後潜水学校甲種学生(潜水艦長養成過程)をはさみ5艦の潜水艦長を歴任。
和智 恒蔵(わち つねぞう、旧姓・大野、1900年7月24日… 和智 恒蔵(わち つねぞう、旧姓・大野、1900年7月24日 - 1990年2月2日)は、日本の海軍軍人、僧。最終階級は海軍大佐で、硫黄島では海軍警備隊司令を務めた。二男三女の父。僧名は恒阿弥。 和智熊太の養子となる。横須賀中学を経て、1922年6月、海軍兵学校(50期)を卒業。海軍大学校選科学生の時に、東京外国語学校にてスペイン語を学んだ。この学生時代の休暇中に陸軍騎兵第一連隊付になり、馬術を修める。1931年、1932年の二度、海軍通信学校高等科学生として学ぶ。「大泊」航海長、「那珂」通信長などを歴任。1934年11月、第三艦隊付となり上海に駐在して特務機関に勤務。その後は、東京無線電信所付兼軍令部出仕(大和田傍受所長)、東京通信隊分隊長兼軍令部出仕、練習艦隊参謀などを務める。
西久保 豊成(にしくぼ とよなり、明治33年〈1900年〉7… 西久保 豊成(にしくぼ とよなり、明治33年〈1900年〉7月8日 - 昭和2年〈1927年〉12月4日)は、日本の陸軍軍人、内務官僚。陸軍歩兵少尉となるが病の為依願退職し内務省に勤める。官位は陸軍歩兵少尉従七位。 父は樺太攻略戦において戦死した歩兵第50連隊第1大隊長の西久保豊一郎陸軍少佐で、豊成が6歳の時に父と死別する。母は佐賀県士族石井忠男の長女秀。明治33年7月に生まれ、明治35年3月には妹の千代子(後に島内源一郎の子、島内砲兵大尉に嫁ぐ)が生まれる。 佐賀市勧興小学校(現・佐賀市立勧興小学校)、佐賀県立佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を夫々首席となり、熊本陸軍地方幼年学校に進む。
松井 麻之助(まつい あさのすけ、1900年6月18日 - … 松井 麻之助(まつい あさのすけ、1900年6月18日 - 1989年3月19日)は、日本の陸軍軍人、競馬騎手、調教師。 大日本帝国陸軍において一貫して騎兵畑を進み、1936年にはベルリンオリンピックに総合馬術競技日本代表として出場した。太平洋戦争後に軍籍を離れ、1956年より騎手、翌1957年より調教師として日本中央競馬会に所属した。1985年引退。 1900年、秋田県雄勝郡三輪村(現羽後町)に、農業を営む菅原良吉、ヨシの間に五男として生まれる。小学校卒業後に母方の叔父に当たる陸軍中将・松井庫之助の養子となり、東京に移った。旧制早稲田中学入学後、3年次から陸軍幼年学校に転じ、軍人への道を進み始める。
杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月2… 杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月25日 - 昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。
赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900年(明治33年)5月2… 赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900年(明治33年)5月21日 - 1982年(昭和57年)8月16日)は、大正末から昭和期の陸軍軍人。階級は陸軍大佐。 東條英機大将の、陸相秘書官・首相秘書官として知られる。小松崎力雄陸軍少将は兄。 陸軍大佐・小松崎清職の三男として秋田県に生まれ、後に赤松久吾の養子となる。京華中学校で学び、仙台陸軍地方幼年学校(33期)を卒業。1922年(大正11年)7月、陸軍士官学校(34期)を卒業。同年10月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊附となる。 1925年(大正14年)10月、歩兵中尉に昇進。1931年(昭和6年)12月、陸軍大学校(46期)に入学。1932年(昭和7年)4月、歩兵大尉に進み、1934年(昭和9年)11月、陸大を優等で卒業し歩兵第1連隊中隊長となる。
市来 吉至(いちき よしじ、1900年 <明治33年> 4月… 市来 吉至(いちき よしじ、1900年 <明治33年> 4月21日 - 1971年 <昭和46年> 2月28日)は、昭和時代の台湾総督府官僚、陸軍司政長官。位階は従四位。 市来半次郎の二男として、鹿児島県姶良郡に生まれる。台北中学から第七高等学校造士館を経て、1925年(大正14年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、台湾銀行に入行する。1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科に合格。以後、台湾総督府交通局書記、地方理事官・高雄州岡山郡守、高雄台中各州内務部勧業課長、総督府事務官・鉄道部監督課長、鉄道部経理課長兼庶務課長兼交通局総務課長、鉄道部勤務などを経て、1942年(昭和17年)6月、香港占領地総督部民事部長に就任した。
中原 義一郎(なかはら ぎいちろう、1900年(明治33年)… 中原 義一郎(なかはら ぎいちろう、1900年(明治33年)3月29日 - 1944年(昭和19年)8月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 高知県出身。教員・中原寿弥太の長男として生まれる。京都一中を経て、1920年(大正9年)7月、海軍兵学校(48期)を卒業。翌年6月に海軍少尉任官。1923年(大正12年)12月、海軍水雷学校普通科を卒業し夕暮乗組となる。1927年(昭和2年)2月、膠州分隊長となり、第32号駆逐艦(三日月 [II])航海長、鶴見分隊長、疾風航海長などを経て、1931年(昭和6年)12月から一年間、水雷学校特修科学生として学んだ。1932年(昭和7年)12月、栗駆逐艦長に就任し、翌年11月、海軍少佐に昇進した。
林 太平(はやし たへい、1900年(明治33年)3月23日… 林 太平(はやし たへい、1900年(明治33年)3月23日 - 1984年(昭和59年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)で生まれた。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第73連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した。 1930年(昭和5年)8月、歩兵第24連隊付となり、陸軍戸山学校教官、豊予要塞参謀を経て、1932年(昭和7年)7月、参謀本部付勤務となる。参謀本部員、参謀本部付(在支武官室)を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵少佐に進級した。
銅金 義一(どうがね ぎいち、1900年(明治33年)3月1… 銅金 義一(どうがね ぎいち、1900年(明治33年)3月15日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。1920年(大正9年)5月に陸軍士官学校第32期卒業。のち東京帝国大学冶金学科を卒業する。 1940年(昭和15年)8月、陸軍砲兵大佐に進み、1941年(昭和16年)6月、陸軍技術本部研究所所員、1943年(昭和18年)10月、小倉陸軍造兵廠第2製造所長を経て、1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に進級する。ついで同年9月、小倉陸軍造兵廠糸口山製造所長となった。
横山 一郎(よこやま いちろう、1900年〈明治33年〉3月… 横山 一郎(よこやま いちろう、1900年〈明治33年〉3月1日 - 1993年〈平成5年〉7月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。1945年(昭和20年)9月2日、アメリカ海軍の戦艦ミズーリ上で行われた降伏文書調印式に出席した人物でもある。 神奈川県横須賀市生まれ。横山家は高知県で農業を営んでいたが長男であった父・横山傳は海軍兵学校(20期)に進み、日清戦争及び日露戦争に出征。黄海海戦で、第三艦隊参謀(海軍少佐)として戦死した。母は黒岩家の出身で、夫の死後は高知に戻り洗礼を受けクリスチャンとなった。当時の遺族扶助料は僅少で生活は厳しかったという。 父の母校である高知県立海南中学校に進んだ。
松村 秀逸(まつむら しゅういつ、1900年(明治33年)3… 松村 秀逸(まつむら しゅういつ、1900年(明治33年)3月1日 - 1962年(昭和37年)9月7日)は、日本の陸軍軍人、国会議員(参議院議員)。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。松村又熊の息子として生まれる。八代中学校(現熊本県立八代高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第12連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 1930年(昭和5年)12月、参謀本部付勤務となり、陸軍野戦砲兵学校教官、関東軍参謀部付を経て、1935年(昭和10年)8月、砲兵少佐に昇進し陸軍兵器本廠付(新聞班)に就任。
堀場 一雄(ほりば かずお、1900年(明治33年)2月1日… 堀場 一雄(ほりば かずお、1900年(明治33年)2月1日 - 1953年(昭和28年)10月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。 愛知県東春日井郡篠木村(現・春日井市)出身。父は警察官の堀場司馬次郎。陸軍士官学校34期卒業で、同期の服部卓四郎および西浦進と並んで「34期の三羽烏」と称された。娘は詩人・女性史研究家の堀場清子。 (堀場の遺稿をもとに、死後刊行)
大石 保(おおいし たもつ、1900年(明治33年)1月28… 大石 保(おおいし たもつ、1900年(明治33年)1月28日 - 1946年(昭和21年)2月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1900年1月28日、高知県で大石寛の長男として生れる。中学海南学校(同級生に横山一郎が首席でいた)を経て、1920年7月、海軍兵学校(48期)を卒業。1921年6月、海軍少尉任官。1923年12月、海軍中尉に昇進し、砲術学校普通科学生を拝命。1925年12月、海軍大尉に昇進し、海軍大学校航海科に入学。1926年12月、「浦風」航海長に就任。1928年12月、練習艦隊参謀に就任。1929年12月、「迅鯨」航海長に就任。1930年4月、「対馬」航海長に就任。