竹脇 潔(たけわき きよし、1905年(明治38年)3月1日… 竹脇 潔(たけわき きよし、1905年(明治38年)3月1日 - 1988年(昭和63年)1月16日)は、日本の動物学者である。 富山県富山市に生まれ、後に上京し東京帝国大学理学部(現在の東京大学大学院理学系研究科・理学部)動物学科に入学する。1928年(昭和3年)に卒業後は留学のため渡米し、シカゴ大学に入学した。卒業後は帰国し母校の助手を経て講師となり、教鞭を執り1936年(昭和11年)には理学博士を取得する。 その後は助教授を経て1948年(昭和23年)には教授に昇格。1955年(昭和30年)には皇居に招かれて生物学に関する合同進講に出席。「内分泌 特にホルモン間の相関問題に就き」と題する進講を行った。
川村 勝巳(かわむら かつみ、1905年3月1日 - 199… 川村 勝巳(かわむら かつみ、1905年3月1日 - 1999年3月11日)は、日本の経営者。大日本インキ化学工業社長を務めた。 栃木県出身。1929年に東京商科大学を卒業。三井物産での勤務を経て、1937年に大日本インキ化学工業取締役に就任し、1944年に常務、1950年に専務を経て、1958年4月には社長に就任し、1978年6月までに務めた。1969年に日本経営者団体連盟会長にも就任。 1967年3月に藍綬褒章を受章し、1982年5月に勲二等瑞宝章を受章。 1999年3月11日心不全のために死去。94歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小沢 専七郎(小澤、おざわ せんしちろう、1905年(明治3… 小沢 専七郎(小澤、おざわ せんしちろう、1905年(明治38年)3月1日 - 1966年(昭和41年)12月4日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。実業家。 福島県石城郡上遠野村(のち遠野町、現在のいわき市)出身。東京高等工科学校(現在の日本工業大学駒場高等学校)電機科で学ぶ。法律事務所勤務を経て、1938年(昭和13年)日本防空食糧株式会社(のち大日本防空食糧株式会社)を設立する。ほか日本国民食糧、日本製塩、茨城県合同罐詰、小沢木材工業などを創立、各社長となった。 1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙において、福島3区から民主党より出馬し、当選。同党総務委員となる。翌1948年(昭和23年)6月には民主党を離党し、「日本国民党結成準備会」を結成、10月には会派を「新自由党準備会」に改名。
長田 幹雄(ながた みきお、1905年(明治38年)3月1日… 長田 幹雄(ながた みきお、1905年(明治38年)3月1日 - 1997年(平成9年)4月10日)は、岩波書店の元専務、竹久夢二研究者。 1919年(大正8年)に岩波書店に入店以来1972年(昭和47年)に退職するまで、『漱石全集』をはじめとする岩波書店の主要出版物にかかわり、編集・経営の両面において長く同書店の中心的存在であり続けた。「岩波新書」の命名者でもある。 長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)生まれ。成人する前に父をなくしたため、高等小学校を14歳で卒業すると上京し、岩波書店に入る。 いわゆる『決定版漱石全集』(1935年 - 1937年刊行)においては、企画から出版まで、小宮豊隆を補佐し、完成に最後まで責任を持った。
森 泰吉郎(もり たいきちろう、1904年〈明治37年〉3月… 森 泰吉郎(もり たいきちろう、1904年〈明治37年〉3月1日 - 1993年〈平成5年〉1月30日)は、日本の実業家、経営史学者。森ビルおよび森トラスト・ホールディングスの創業者。学者として横浜市立大学で商学部長・教授などを務めたが、学長選挙に出馬した結果学内抗争に巻き込まれ、地方公務員法の兼業禁止違反として退職した。 東京府東京市芝区南佐久間町(現・港区西新橋)に生まれる。実父磯次郎は、米屋·貸家業を営む森竹次郎·リウの養子だった。幼少期は病弱だったため、人情深い大家だった両親に大事に育てられたという。大倉高等商業学校(現東京経済大学)を経て、旧制東京商科大学(現一橋大学)に進んだ。賀川豊彦の『死線を越えて』やマクシム・ゴーリキーの『母』に感動し、一方で自分が不労所得を得る地主階級である事に懊悩したが、大学で上田貞次郎の「企業者は公共社会への貢献を使命としている」という所説に接してアイデンティティーの確立に大きな影響を受けたという。
加納 莞蕾(かのう かんらい、1904年3月1日 - 197… 加納 莞蕾(かのう かんらい、1904年3月1日 - 1977年8月15日)は、日本の画家、政治家。本名辰夫。莞蕾は雅号。島根県能義郡布部村(現在の安来市広瀬町布部)出身。マニラ軍事裁判により戦後フィリピンの刑務所に収容されていた日本人戦犯の釈放に尽力したことで知られる。 1926年(大正15年)に上京して川端画学校および本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事し、前田寛治・佐伯祐三らと交友を深めた。 1931年(昭和6年)の第1回独立美術協会展に出品し、入選を重ねた。1932年から1937年まで島根県那賀郡浜田町(現在の浜田市)原井尋常高等小学校(現在の浜田市立原井小学校)に赴任し、訓導として児童の指導にあたるかたわら、中尾彰らと本格的な洋画研修会を開き、東京から中山巍を招いて指導を仰いだ。
岩田 蒼明(いわた そうめい、1903年(明治36年)3月1… 岩田 蒼明(いわた そうめい、1903年(明治36年)3月1日 - 1980年(昭和55年)5月31日)は、日本の実業家。日本陶器取締役社長や、同社取締役会長、中部生産性本部会長などを務めた。旧名:岩田莊一。 1926年に東京商科大学(現一橋大学)専門部卒業後、日本陶器に入社し、水品浩からハーマン・ホレリス式統計機第1号機の操作を学び、会計処理の機械化を行うなどした。1944年取締役に昇格。1945年常務取締役。1950年専務取締役。1956年取締役副社長。1961年から取締役社長を務め、アメリカ市場開拓を進めた。1965年日本特殊陶業取締役、日本碍子取締役、東洋陶器取締役。1973年中部生産性本部会長。
宇田 国栄(宇田國榮、うだ くにえ、1903年(明治36年)… 宇田 国栄(宇田國榮、うだ くにえ、1903年(明治36年)3月1日 - 1988年(昭和63年)8月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。派閥は藤山派を経て、福田派。 鹿児島県日置郡東市来村(東市来町を経て現日置市)生まれ。同郷で政界の大物だった床次竹二郎に憧れ床次の秘書として薫陶を受けた後に岸信介秘書へと転じる。1943年に東郷茂徳の要請を受け、大日本興亜同盟の代表使節として満州、北支、中支、南支、海南島を訪れ、汪兆銘とアジアの発展へ向けて協力するための会談を行った。 1946年の第22回衆議院議員総選挙鹿児島1区に日本農本党から出馬し初当選。その後、第23回から第27回まで5回の衆議院議員総選挙に出馬するが落選。
河津 寅雄(かわづ とらお、1902年3月1日 - 1979… 河津 寅雄(かわづ とらお、1902年3月1日 - 1979年2月2日)は、熊本県阿蘇郡北小国村(現・小国町)出身の政治家。 1948年(昭和23年)から死去する1979年(昭和52年)まで小国町長を務め、1963年(昭和38年)10月から1978年(昭和38年)10月まで8期15年間に渡って全国町村会長を務めた。町長時代には給与など一切の報酬を辞退した。また、1957年(昭和32年)から自由民主党熊本県連会長も務めた。 1902年(明治35年)3月1日、熊本県阿蘇郡北小国村(現・小国町)に生まれ、旧制鎮西中学校を卒業した。 生家は造り酒屋の河津酒造であり、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に小国町議会議員に就任すると、戦後の1948年(昭和23年)には小国町長に就任した。
児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4… 児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4月22日)は、日本の哲学者、歌人。東洋大学名誉教授。 静岡県浜松市出身。1928年東京帝国大学文学部哲学科卒。数理哲学を専攻し,1952年東洋大学教授、同東洋学研究所長、名誉教授。佐佐木信綱に師事し『心の花』に所属、のち1930年「短歌表現」を創刊して口語自由律の作風をうちたてる。戦後は「文芸心」を主宰した。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年3月1日 - 没年不… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年3月1日 - 没年不明)は、日本の経営者。神戸電鉄社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。濱地甚兵衞の三男として生まれ、小林長兵衛の養子となる。1925年に法政大学経済科を卒業し、ロンドン大学を経て、1930年12月に神戸有馬電気鉄道に入社し、取締役にも就任。1938年1月に専務を経て、1946年4月に社長に就任し、1949年4月から1960年3月までに神戸電鉄社長を務めた。 アメリカ合衆国総領事ハンター・シャープの住宅を1944年に取得し、1980年に「小林家住宅(旧シャープ住宅)」という名称で重要文化財に指定される。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
菊川 忠雄(きくかわ ただお、1901年3月1日 - 195… 菊川 忠雄(きくかわ ただお、1901年3月1日 - 1954年9月26日)は、日本の労働運動家・政治家。全日本労働総同盟本部総主事・日本労働組合総同盟総主事・衆議院議員(3期)を歴任した。 愛媛県越智郡波方村(現・今治市)に、魚問屋の長男として生まれる。旧制愛媛県立今治中学校を卒業後、商社勤務を経て、1920年、旧制第一高等学校に進学。一高在学中に、社会主義思想に触れ、社会主義運動に身をささげる決意をした。1923年に東京帝国大学経済学部に進学。学内で、学生自治権拡大運動や関東大震災の被災者救援運動などを組織した。新人会会員。 1926年、東大卒業後、日本労働総同盟(総同盟)に就職。以後、労働運動の指導に従事し、1934年の第18回国際労働会議・第1回アジア労働組合会議には日本労働代表として参加した。
佐藤 哲郎(さとう てつろう、1901年〈明治34年〉3月1… 佐藤 哲郎(さとう てつろう、1901年〈明治34年〉3月1日 - 1995年〈平成7年〉1月4日)は、日本の政治家。元岩手県水沢市(現・奥州市)長(3期)。 岩手県胆沢郡水沢町(のち水沢市、現・奥州市)出身。1920年(大正9年)、岩手県師範学校(現・岩手大学教育学部)卒。岩手県内の小学校の訓導や校長を経て、戦後、中学校校長となる。岩手県社会教育主事、水沢町教育長となった。 1956年(昭和31年)、水沢市長に立候補して新人1人を破って初当選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 同年1月29日に就任した。 1960年(昭和35年)の市長選も新人1人との争いになったが、これを破って再選を果たした。
平井 参次(ひらい さんじ、1901年〈明治34年〉3月1日… 平井 参次(ひらい さんじ、1901年〈明治34年〉3月1日 - 没年不明)は、日本の実業家。 兵庫県印南郡志方町(現・加古川市)出身。高等小学校を卒業。1924年、食肉卸業開業。 印南郡食肉卸組合長、同郡家畜商組合長、日本食肉協会理事、兵庫県食肉衛生組合副理事長、兵庫県家畜商業協組理事、兵庫県食肉輸入共同組合副理事長、志方食肉卸小売組合名誉会長、兵庫県食肉卸組合連合会会長、兵庫県食肉環境衛生同業組合・同食肉協同組合相談役、志方町教育委員などをつとめる。 趣味は碁、乗馬。宗教は浄土真宗。住所は兵庫県印南郡志方町志方。家族は妻、次男、次女、孫がいる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
横山 一郎(よこやま いちろう、1900年〈明治33年〉3月… 横山 一郎(よこやま いちろう、1900年〈明治33年〉3月1日 - 1993年〈平成5年〉7月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。1945年(昭和20年)9月2日、アメリカ海軍の戦艦ミズーリ上で行われた降伏文書調印式に出席した人物でもある。 神奈川県横須賀市生まれ。横山家は高知県で農業を営んでいたが長男であった父・横山傳は海軍兵学校(20期)に進み、日清戦争及び日露戦争に出征。黄海海戦で、第三艦隊参謀(海軍少佐)として戦死した。母は黒岩家の出身で、夫の死後は高知に戻り洗礼を受けクリスチャンとなった。当時の遺族扶助料は僅少で生活は厳しかったという。 父の母校である高知県立海南中学校に進んだ。
松村 秀逸(まつむら しゅういつ、1900年(明治33年)3… 松村 秀逸(まつむら しゅういつ、1900年(明治33年)3月1日 - 1962年(昭和37年)9月7日)は、日本の陸軍軍人、国会議員(参議院議員)。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。松村又熊の息子として生まれる。八代中学校(現熊本県立八代高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第12連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 1930年(昭和5年)12月、参謀本部付勤務となり、陸軍野戦砲兵学校教官、関東軍参謀部付を経て、1935年(昭和10年)8月、砲兵少佐に昇進し陸軍兵器本廠付(新聞班)に就任。
楢原 良一郎(ならはら りょういちろう、1900年3月1日 … 楢原 良一郎(ならはら りょういちろう、1900年3月1日 - 1976年5月22日)は、日本の経営者。東京都出身。 1923年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1943年に古河鉱業に転じ、1949年に取締役に就任し、1953年に常務、1958年に専務、1961年に副社長を経て、同年11月には社長に就任。1971年2月に会長に就任。 1963年に日本鉱業協会会長に就任し、藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1976年5月22日肝硬変のために死去。76歳没。
木村有香(きむら ありか、1900年(明治33年)3月1日 … 木村有香(きむら ありか、1900年(明治33年)3月1日 - 1996年(平成8年)9月1日)は、日本の植物学者。 ヤナギ科の分類を大成した植物学者として知られているとともに、旧制第七高等学校造士館に在学中に原始的な形態を持ち生きている化石として知られるキムラグモを発見したことでも著名である。様々な地域の野生のヤナギを個体識別し、季節ごとに標本を採集し、同一個体から得られた標本を比較することで葉の形態の季節変異の著しいヤナギ科の分類の確立に努めた。 1958年(昭和33年)8月、昭和天皇の採集品を鑑定するために那須御用邸に招かれる。翌月には、他の有識者とともに天皇から植物に関する質問を受けたほか座談会に参加。
鈴木 傳明(すずき でんめい、1900年3月1日 - 198… 鈴木 傳明(すずき でんめい、1900年3月1日 - 1985年5月13日)は、日本の映画俳優、水泳選手。本名は同じ鈴木傳明だが、読みはつぐあきら。 無声映画時代に活躍した現代劇の映画スターで、学生時代は水泳選手として活躍。明治大学在学中に『路上の霊魂』で映画デビューした。その後日活を経て松竹蒲田撮影所に入社、牛原虚彦監督とのコンビで『彼と東京』『陸の王者』『彼と人生』などの明朗な青春映画に主演し、スポーツマンタイプの二枚目スターとして人気を得た。戦後は実業界に転じた。 1900年(明治33年)3月1日、東京府東京市下谷区上野桜木町(現在の東京都台東区上野桜木)に、父・康正と母・和喜の1男3女の長男として生まれる。
林 興一郎(はやし こういちろう、1899年3月1日 - 1… 林 興一郎(はやし こういちろう、1899年3月1日 - 1965年1月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。1919年広島県立忠海中学校(現・広島県立忠海高等学校)卒。漁業を営み、広島県水産会長、同漁業組合連合会長、瀬戸内海水産連合会理事長、中央水産業会理事、中国五県水産連合理事長、倉橋島漁業会長を務め、広島県会議員、同県議会議員、同議長を務めた。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で広島県から諸派で立候補したが次点で落選する。しかし、6月に同じ選挙区から当選した田中貢の辞職により、繰り上げ当選となった。当選後は協同民主党に入った。翌1947年3月には国民協同党と変わり、国民協同党代議士会副会長となった。
石井 頼三(いしい らいぞう、1899年(明治32年)3月1… 石井 頼三(いしい らいぞう、1899年(明治32年)3月1日 - 1974年(昭和49年)5月12日)は日本の商品学者。理化学研究所所員、一橋大学小平分校教授を経て、千葉商科大学学長(第3代)。京都大学理学博士。商品学の研究者として著名である。 弟子に中野紘一(日本大学商学部元教授)等がいる。 1899年(明治32年)3月1日、鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)に生まれた。 鳥取県師範学校卒業後、地元の鳥取県八頭郡若桜小学校訓導に就任。 その後東京高等師範学校理科を卒業し和歌山県立海南中学校教諭に就任。 1932年(昭和7年)に東京文理科大学化学科を第一回卒業生として卒業し理化学研究所入所。 1944年京都大学で理学博士の学位を取得した。
上田 精一(うえだ せいいち、1899年3月1日 - 没年不… 上田 精一(うえだ せいいち、1899年3月1日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。 現在の島根県出雲市出身。島根師範学校から東京高等師範学校に進む。 東京高等師範学校在学中、1922年・1923年の日本陸上競技選手権大会のやり投種目を連覇。1923年には第6回極東選手権競技大会(大阪)に五種競技で出場して優勝した。 東京高等師範学校在学中に、1924年パリオリンピックで男子五種競技に出場した。 1925年には第7回極東選手権競技大会(マニラ)に五種競技で出場した。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
喜志 邦三(きし くにぞう 1898年3月1日 - 1983… 喜志 邦三(きし くにぞう 1898年3月1日 - 1983年5月2日)は日本の詩人、作詞家。 長男は京都大学文学部名誉教授の喜志哲雄。 1898年(明治31年)大阪府堺市に生まれる。1915年(大正4年)大阪府立堺中学校を卒業後、早稲田大学高等予科入学。翌年英文学科第二部に入学。1917年(大正6年)在学中に三木露風が主宰する第三次「未来」「リズム」の同人となる。1919年(大正8年)早稲田大学卒業、同年に大阪時事新報社に入社。1925年(大正14年)大阪時事新報社を退社し、神戸女学院大学部専任講師に就任。以降、中断期間も挟みながら1963年(昭和38年)定年まで教授を務める。1966年(昭和41年)園田学園女子大学文学部教授に就任。
安田 義達(やすだ よしたつ、1898年(明治31年)3月1… 安田 義達(やすだ よしたつ、1898年(明治31年)3月1日 - 1943年(昭和18年)1月2日)は、日本の海軍軍人。大田実と共に海軍を代表する陸戦の権威として知られた人物で、太平洋戦争において戦死後2階級特別進級した海軍中将である。 広島県府中市出身、広島高等師範附属中学を経て1918年(大正7年)海軍兵学校第46期を卒業。席次は124名中66番。同期生の山本親雄は安田の人柄を「剛毅闊達、稚気愛すべき好漢」としている。 砲術学校高等科学生を修了し、「比叡」・「陸奥」の各分隊長を歴任。次いで砲術学校専攻科学生となり、陸軍歩兵学校に派遣された。砲術学校専攻科学生は数年に一人という存在で、この課程を経た陸戦専門家は1942年(昭和17年)で7名のみである。
大坪 喜久太郎(おおつぼ きくたろう、1898年(明治31年… 大坪 喜久太郎(おおつぼ きくたろう、1898年(明治31年)3月1日 - 1967年(昭和42年)11月23日)は、日本の工学者、官僚。工学博士。室蘭工業大学元学長。北海道大学・室蘭工業大学名誉教授。専門は、水理工学・河川工学。富山県黒部市出身。河川水理学の権威で北海道開発における技術的指導者であった。 1922年(大正11年)九州帝國大學工学部土木工学科を卒業し、東洋アルミナムや、日本電力に勤務。1925年(大正14年)5月に北海道帝國大學工学部講師。1925年7月に同助教授。1942年(昭和17年)に論題「段落個所に於ける流体運動」で北海道帝国大学より工学博士号受く。1942年北海道帝國大學工学部教授(水理工学・河川工学講座を担当)。
小林 良正(こばやし よしまさ、1898年3月1日 - 19… 小林 良正(こばやし よしまさ、1898年3月1日 - 1975年12月29日)は、日本の経済学者。経済学博士。専修大学名誉教授(第一号)。いわゆる『講座派』に属し、マルクス経済学の立場から日本資本主義の分析をおこなった。 東京に生まれる。東京帝国大学卒業後、1923年(大正12年)に専修大学講師、1929年(昭和4年)には同学教授になった。1930年(昭和5年)、山田盛太郎、平野義太郎とともに治安維持法違反の名目で検挙、不起訴となるが教授を辞任して社会評論家として活動する。1932年(昭和7年)から岩波書店で刊行された『日本資本主義発達史講座』に論文を執筆、『講座派』の有力なメンバーとして労農派との論争を行う。
北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1… 北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1日 - 1996年12月19日)は、滋賀県野洲市出身の数学者、旧制専門学校校長、予備校講師、サッカー選手。 1897年、滋賀県野洲郡野洲町(現:野洲市)富波甲に生まれた。滋賀師範学校(現・滋賀大学)在籍時に恩師の落合秀保と出会い、サッカーを始めた。1916年3月、滋賀師範学校卒業。 その後、東京高等師範学校に入学し、蹴球部(現:筑波大学蹴球部)に所属。在学中の1917年に第3回極東選手権大会の日本代表に佐々木等や武井群嗣らと共に選出され、2戦目のフィリピン代表戦で2得点を決めた。なお、この得点が日本代表の初得点となった(試合は2-15で敗れ、日本代表の最大差敗戦試合となっている)。
小倉 遊亀(おぐら ゆき、1895年3月1日 - 2000年… 小倉 遊亀(おぐら ゆき、1895年3月1日 - 2000年7月23日)は、日本画家。本名はゆき。旧姓は溝上。女性初の日本美術院同人。上村松園・片岡球子と並ぶ日本を代表する女性画家の一人。 代表作品に「O夫人坐像」「小女」「浴女」など。 現在の滋賀県大津市中央に生まれる。1913年、滋賀県立大津高等女学校(現在の滋賀県立大津高等学校)を卒業後、1913年、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)国語漢文部に入学。1917年、奈良女子高等師範学校を卒業し、京都第三高等小学校に着任。1919年、椙山高等女学校教諭、1920年、捜真女学校教諭を務める。同年、安田靫彦に師事する。1926年、「胡瓜」が院展に入選。
佐々木 善七(ささき ぜんしち、1895年3月1日 - 19… 佐々木 善七(ささき ぜんしち、1895年3月1日 - 1994年8月11日)は、日本の経営者。島根県出身。 1918年に慶應義塾理財科を卒業。岩井商店、徳山鉄板での勤務を経て、1930年に関西ペイントに転じた。 1946年4月に取締役に就任し、1955年4月には社長に就任。1966年5月に会長を経て、1972年11月から顧問を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1966年4月に勲三等瑞宝章を受章し、1967年に紺綬褒章を受章。 1994年8月11日肺炎のために死去。99歳没。
伊藤 武雄(いとう たけお、1895年3月1日 - 1984… 伊藤 武雄(いとう たけお、1895年3月1日 - 1984年9月5日)は、日本の中国研究者。日中友好協会副会長を務めた。 1895年、愛知県渥美郡田原町(現・田原市)で生まれた。東京帝国大学法学部政治学科で学び、1920年に卒業。 南満州鉄道勤務。満鉄時代の1943年、満鉄調査部事件で検挙され、10カ月投獄された。 第二次世界大戦後、1946年には中国研究所の設立に参加したほか、日中友好協会副会長を務めた。また、日中文化交流協会を設立し、ジャパンプレス会長を務めた。
三輪 幸助(みわ こうすけ、1895年(明治28年)3月1日… 三輪 幸助(みわ こうすけ、1895年(明治28年)3月1日 - 1968年(昭和43年)9月)は、日本の台湾総督府官僚。 東京府出身。1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、高等試験に合格。台湾総督府属、台中州勧業課長、台北州教育課長、台中州新高郡守、同地方課長、同警務部長、中央研究所庶務課長、税関庶務課長、専売局酒課長、同煙草課長、台北州内務部長、専売局参事・庶務課長、交通局理事・逓信部長、専売局長、台北州知事を歴任し、1942年(昭和17年)に退官した。
浅尾 新甫(あさお しんすけ、1894年3月1日 - 197… 浅尾 新甫(あさお しんすけ、1894年3月1日 - 1972年2月22日)は、日本の実業家。従三位勲一等瑞宝章。 父は衆議院議員を務めた浅尾長慶。妻の父も衆議院議員を務めた樋口秀雄。衆議院議員、環境大臣の浅尾慶一郎は孫。駐イタリア大使、国際交流基金理事長を務めた浅尾新一郎は長男。元駐ニュージーランド大使井口武夫(井口貞夫元外務事務次官の子)の妻・捷子は長女。次男の浅尾浩二は日本銀行松本支店長を経てリーガロイヤルホテルの常務を務めた。三男の浅尾雄輔の妻は山下汽船元横浜支店長の黛千尋の長女で、雄輔の義兄は作曲家の黛敏郎。 長男・新一郎の妻は侍従長だった三谷隆信の三女で、その姉は日産自動車創業者鮎川義介の長男・鮎川弥一に嫁いだ。
藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1… 藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1日 - 1962年(昭和37年)12月20日)は、日本のドイツ文学者、童謡作家。別名に藤太彦。
槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日… 槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の実業家。青年期に岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)から奨学金を受け、その後三菱商事に入社し水産部長とロンドン支局長を歴任した。財閥解体前の三菱最後の社長であり、再編後の最初の社長となった高垣勝次郎のライバルであった。岡山県新見市出身。 岡山県哲多郡神代村(現:新見市)出身。小作農槙原柳太郎の二男として生まれる。14歳で親戚を頼って上京し下働きなどをしていたが、岩崎弥太郎設立の本郷竜岡町(現・文京区湯島4丁目)の学寮「雛鳳館」の寮生に選ばれたことにより金銭的苦労がなくなり、東京高等商業学校在学中は学業とともにテニスに熱中した。
阿蘇 太郎吉(あそ たろきち、1894年(明治27年)3月1… 阿蘇 太郎吉(あそ たろきち、1894年(明治27年)3月1日 - 1944年(昭和19年)2月4日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 京都市に生まれる。京都府二中、陸軍幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第68連隊付となる。青島守備隊、陸地測量部勤務等の後、1932年(昭和7年)近衛歩兵第1連隊。1934年(昭和9年)同連隊大隊長。1936年(昭和11年)から翌年に掛けて配属将校として拓殖大学、東京府第三中、第四中に勤務。1937年(昭和12年)独立歩兵第13連隊附として支那事変に参加し山西省、内蒙古周辺を転戦・守備。
帰山 教正(かえりやま のりまさ、1893年3月1日 - 1… 帰山 教正(かえりやま のりまさ、1893年3月1日 - 1964年11月6日)は、日本の映画理論家、映画監督、脚本家である。 日本映画界に革新をもたらした人物であり、日本最初の映画評論誌『キネマ・レコード』を創刊した後、舞台の模写的作品に過ぎない旧来の日本映画の革新を目指して、純映画劇運動を提唱。理論書『活動写真劇の創作と撮影法』を発表して、女優の起用、活動弁士の廃止、映画技法の使用などを主張。映画藝術協會を設立して自ら映画製作を行ってその理論を実践した。 1893年(明治26年)3月1日、東京市麹町区麹町四番町に、父・信順と母・トキの長男として生まれる。父の信順は東京府立第一中学校の化学教師だった。
大矢 省三(おおや しょうぞう、1893年3月1日 - 19… 大矢 省三(おおや しょうぞう、1893年3月1日 - 1962年1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。 1893年三重県志摩郡(後の阿児町、現志摩市)生まれ。1912年、大阪府に転居。大阪府立西野田職工学校卒業。 1926年、社会民衆党入党。1929年、大阪市会議員に此花区選挙区から当選。1945年、日本社会党結成に参加 1946年、第22回衆議院議員総選挙大阪府1区初当選。以後連続8期務める。 1948年、芦田内閣労働政務次官。1955年、衆議院地方行政委員長。1960年、民主社会党(後の民社党)結成に参加。1962年1月19日、衆議院議員在任中に大阪府大阪市の大阪市立桃山病院において死去、68歳。
上山 英三(うえやま えいぞう、1893年〈明治26年〉3月… 上山 英三(うえやま えいぞう、1893年〈明治26年〉3月1日 - 1981年〈昭和56年〉11月29日)は、日本の銀行家。台湾銀行頭取、全国相互銀行協会会長などを務めた。日貿信名誉顧問。大日本除虫菊取締役。 和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)出身。1917年3月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。大蔵省に入り、日本銀行監理官・銀行局検査課長・為替局長などを歴任し1937年、日本興業銀行理事に挙げられた。 日仏銀行取締役、商工組合中央金庫理事に選任された。1942年に台湾銀行副頭取に転じ、1944年に頭取に推され、1945年に退任する。1962年、歌会始の召人を務めた。 上山家は和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)の蜜柑農家である。
今 純三(こん じゅんぞう、1893年(明治26年)3月1日… 今 純三(こん じゅんぞう、1893年(明治26年)3月1日 - 1944年(昭和19年)9月28日)は、日本の銅版画家。銅版画の技法研究にほぼ独力で取り組み、昭和初期における日本の銅版画の普及に関与した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
都家 文雄(みやこや ふみお、1893年3月1日 - 197… 都家 文雄(みやこや ふみお、1893年3月1日 - 1971年5月4日)は大正・昭和期の漫才師。本名・苗村 正次。 世相を槍玉に上げては、とんちんかんな難癖を付ける「ぼやき漫才」の創始者。 滋賀県三上山の麓に生まれる。父は興行師だったとされる。落語家を志し、1912年に桂三路(後の2代目三遊亭圓若)門下で桂歌路を名乗る。同年、神戸新開地・千代廼座で初舞台。落語家時代は、端席で出ることが多かった。24歳のときに、のちに相方となる静代と結婚。 大正に入ると、上方落語は凋落期に入った。当時の落語家は所属事務所から漫才師への転身をすすめられる事例が多かった。歌路も例外ではなく、1921年に「都家文雄」に改名し、漫才師に転身。
高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1… 高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1日 - 1978年(昭和53年)6月6日)は、日本の実業家。 1892年3月1日、茨城県鉾田町の高杉健作の子として生まれる。1910年(明治43年)、土浦中学校卒業(岡野保次郎と同期)。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部を卒業。 同年三菱合資銀行部に入社。名古屋支店長を経験し、監査、取締常務を歴任する。1947年(昭和22年)1月、三菱電機社長となる。1956年(昭和31年)11月、三菱電機会長となる。1962年(昭和37年)、同会長を退任。 1964年(昭和39年)12月14日、日韓会談における日本側首席代表の杉道助が死去。
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25… 芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼(がき)。東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)出身。 1892年(明治25年)、東京市京橋区入船町8丁目(現:東京都中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。出生時刻については資料がないため不明である。 戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。
西田 祥実(にしだ よしみ、1892年(明治25年)3月1日… 西田 祥実(にしだ よしみ、1892年(明治25年)3月1日 - 1944年(昭和19年)2月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士25期。第二次世界大戦中、エニウェトクの戦いにて戦死した。最終階級は陸軍少将、死後中将に特進。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。 高知県土佐郡一宮村薊野(現・高知市薊野)に又吉・令の次男として生まれる。高知県尋常中学海南学校(現・高知県立高知小津高等学校)、陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業後、歩兵第41連隊附となり、中国東北部に駐屯する。 内地帰還後、陸軍士官学校生徒隊附、歩兵第41連隊中隊長、歩兵第25連隊大隊長を経て、1933年(昭和8年)歩兵第13旅団副官となり、再び中国東北部に出征する。
西村 敬太郎(にしむら けいたろう、1892年3月1日 - … 西村 敬太郎(にしむら けいたろう、1892年3月1日 - 1971年11月7日)は、日本の聖職者、教育者。日本聖公会の聖職者として真光教会や浦和や福島で司牧したほか、立教大学でチャプレン、学生部長および講師を務めた。 1892年(明治25年)、東京府東京市日本橋区瀬戸物町出身。1916年(大正5年)、立教大学文学部卒業。同級生に中国の政治家の陳樹人(広東省長、国民党外務大臣、嶺南画派の創始者の一人)がいる。 1923年(大正12年)に日本聖公会の執事となり、1926年(大正15年/昭和元年)に司祭に按手。 聖職者として浦和や福島で司牧したほか、1935年(昭和10年)に当時本所区(現・墨田区)にあった真光教会の第2代牧師として着任。
松尾 造酒蔵(まつお みきぞう、1890年3月1日 - 19… 松尾 造酒蔵(まつお みきぞう、1890年3月1日 - 1985年1月20日)は日本の牧師。長年神学校の教授を務め、神学教育に貢献した。日本基督改革派教会の牧師吉岡繁の実父であり、双恵学園(さいたま市)の創立者・松尾武の兄。共立女子神学校校長,フェリス女学院理事長,横須賀学院理事長などを歴任。 長崎県島原に生まれた。島原中学卒業後に上京し、叔父の松原英一の指導を受ける。 1908年(明治41年)東京にて、植村正久より洗礼を受ける。明治学院神学部、米国のオーバン神学校(英語版)、スコットランドのエディンバラのニュー・カレッジで学び、1921年(大正10年)7月に帰国して、横浜市に住んだ。 1922年(大正11年)8月日本基督教会鎌倉雪ノ下教会より招聘を受けて、9月より牧師になる。
加藤 外松(かとう そとまつ、1890年(明治23年)3月1… 加藤 外松(かとう そとまつ、1890年(明治23年)3月1日 - 1942年(昭和17年)2月12日)は、日本の外交官。元駐フランス特命全権大使。 富山県高岡市木町出身。1911年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。高等文官試験外交官及領事官試験に合格し、1914年ニューヨーク領事官補。在フランス外交官補、外務省欧米局第二課長、在中華民国公使館一等書記官、天津総領事等を経て、1935年駐カナダ特命全権公使。1941年から駐フランス特命全権大使を務め、ヴィシー政府のフランソワ・ダルラン副首相と会談するなどして、南部仏印進駐の承認を得た。1942年2月11日深夜、パリの日本大使館で呼吸困難になり、窓を開けて外気に触れようとした際に眩暈を起こして庭に転落、病院に搬送されたが間もなく死去した。
22代 木村 庄之助(にじゅうじだい きむら しょうのすけ、… 22代 木村 庄之助(にじゅうじだい きむら しょうのすけ、1890年〈明治23年〉3月1日 - 1994年〈平成6年〉4月23日)は、大相撲の立行司の一人。1951年9月から1959年11月にかけて木村庄之助を襲名していた。本名は泉 林八、所属:竹縄(大阪)→出羽ノ海部屋、香川県三木郡牟禮村(現:高松市)出身。通称は泉の親方。 1898年秋、尋常小学校を二年で中退して大坂相撲の竹縄部屋に入門し、1899年6月に木村金八の名で初土俵。1907年6月に木村信之助で幕下格、1909年5月十両格、木村錦太夫の名で1912年1月に幕内格となったが、1922年5月に、当時の大坂相撲が暴力団の組長によって運営され、東京相撲と比較にならないデタラメがまかり通っているのに愛想をつかし1923年5月場所限りで廃業。
岡本 かの子(おかもと かのこ、本名:岡本 カノ、旧姓:大貫… 岡本 かの子(おかもと かのこ、本名:岡本 カノ、旧姓:大貫(おおぬき)、1889年〈明治22年〉3月1日 - 1939年〈昭和14年〉2月18日)は、日本の大正・昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。 東京府東京市赤坂区青山南町(現東京都港区青山)生まれ。跡見女学校卒業。漫画家岡本一平と結婚し、芸術家岡本太郎を生んだ。 若年期は歌人として活動しており、その後は仏教研究家として知られた。小説家として実質的にデビューしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。私生活では、夫一平と「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られる。 代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商の大和屋大貫家の別邸で誕生。
永津 佐比重(ながつ さひしげ、1889年(明治22年)3月… 永津 佐比重(ながつ さひしげ、1889年(明治22年)3月1日 - 1979年(昭和54年)9月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県西春日井郡師勝村[要出典](現在は北名古屋市)出身。 愛知一中(現愛知県立旭丘高等学校)を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第18連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 歩兵第18連隊中隊長、参謀本部付勤務、支那駐屯軍司令部付、同軍参謀、参謀本部員などを歴任し、1925年(大正14年)2月から1927年(昭和2年)12月まで、アメリカに駐在。帰国後、陸大教官、参謀本部員、歩兵第68連隊大隊長、支那公使館付武官補佐官、歩兵第49連隊付、関東軍参謀などを歴任。
横山 勇(よこやま いさみ、1889年(明治22年)3月1日… 横山 勇(よこやま いさみ、1889年(明治22年)3月1日 - 1952年(昭和27年)4月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 歩兵第51連隊長を務めた陸軍大佐横山新治の長男として東京市牛込区で生まれる。母ヨシは山路一善の妹。祖父は会津藩士の横山直助であるため、福島県若松市出身という説もある。 姫路中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。卒業成績は8番/418名。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 1919年(大正8年)4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(鉄道班)、陸軍省軍務局課員を経て、1924年(大正13年)8月、歩兵少佐に昇進し陸軍兵器本廠付となる。