青木 岩雄(あおき いわお、1901年9月3日 - 1939… 青木 岩雄(あおき いわお、1901年9月3日 - 1939年5月2日)は、兵庫県神戸市出身の男子テニス選手。慶應義塾大学卒業。1920年代から1930年代前半にかけて、日本男子テニス界を代表した選手の1人であったが、腸閉塞症のため37歳で急死した。主な成績は、1924年の第3回全日本テニス選手権男子ダブルス優勝、1932年のウィンブルドン選手権男子シングルス4回戦進出などがある。彼は三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)に勤務し、1930年7月から1935年3月まで銀行のロンドン支店にいたことから、イギリス開催のテニストーナメント、とりわけウィンブルドン選手権で優れた戦績を出した。青木のテニスは、フォアハンド・ストロークに多少の弱点はあったが、バックハンド・ストローク、ボレー、スマッシュのいずれにもダブルスの分野で力を発揮し、とりわけロビングの技術に優れていた。
大場 磐雄(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975… 大場 磐雄(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975年6月7日)は、日本の考古学者。國學院大學教授。旧姓は谷川だが、昭和3年(1928年)、母方の大場家を相続し、以後、大場姓となる。楽石と号す。 古代日本の信仰あるいは精神世界に関心を持ち、神道や祭祀遺跡などの遺跡を研究した。中でも、神道考古学を体系化した。本人が「私の考古学はただの考古学ではない。考古民俗学(または民俗考古学)だ」と言うように、文献史学・民俗学・考古学三位一体のスケールの大きな古代日本の研究が特徴である。主著は『大場磐雄著作集』(全8巻)にまとめられている。
都甲 徠(とごう きたる、1899年(明治32年)9月3日 … 都甲 徠(とごう きたる、1899年(明治32年)9月3日 - 1991年(平成3年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。陸士33期卒(歩兵)。最終階級は陸軍少将。 大分県速見郡山香町(現:杵築市)出身。農業・都甲喜佐久の三男として生まれる。宇佐中学校(現大分県立宇佐高等学校)卒業を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第64連隊付となる。1932年(昭和7年)11月、陸軍大学校(44期)を卒業した。 1932年(昭和7年)12月、歩兵第37連隊中隊長に就任。1933年(昭和8年)12月、参謀本部付勤務(支那課)となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、北京・太原・長沙駐在)、中国駐在を務め、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に進級。
野澤 密全(のざわ みつぜん、1898年9月3日 - 197… 野澤 密全(のざわ みつぜん、1898年9月3日 - 1971年11月11日)は、日本の真言宗の僧侶。信貴山真言宗初代管長。信貴山中興の偉人とも称されている。 香川県仲多度郡高篠村(現・まんのう町)生まれ。11歳で親元を離れて奈良県の信貴山で寺に入り、14歳の時に僧侶となった。1920年、真言宗京都大学(現・種智院大学)卒業。27歳という異例の若さで宗会議員になったほか、大阪で野澤幼稚園を運営した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。
渡辺 忠雄(わたなべ ただお、1898年(明治31年)9月3… 渡辺 忠雄(わたなべ ただお、1898年(明治31年)9月3日 - 2005年(平成17年)4月3日)は、日本の銀行家、実業家。三和銀行元頭取、会長で「三和銀行の中興の祖」と呼ばれる。北海道出身。日本聖公会の信徒。 1924年に東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行。資金調整局審査課長、静岡支店長、文書局長などを歴任した。 1945年には三和銀行に転職し、1947年2月には頭取に就任した。「ピープルズ・バンク」路線をモットーに、金融業界でいち早くコンピュータを導入し、クレジットカード会社のJCBとリース会社のオリックスの創設に携わるなどして、銀行の大衆化を進め、三和銀行を全国有数の都市銀行に育て上げた。
井上 義夫(いのうえ よしお、1896年〈明治29年〉9月3… 井上 義夫(いのうえ よしお、1896年〈明治29年〉9月3日 - 1956年〈昭和31年〉6月7日)は、日本の政治家、岡山県津山市長(1期)。 岡山県東南条郡林田村(のち苫田郡林田村→津山東町、現・津山市)生まれ。旧制岡山県立津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)卒。林田村役場に入り、収入役となり、1923年の津山東町発足後は、同町助役となる。1929年、合併により、津山市役所勤務。同市収入役、助役を経て、1955年、津山市長に当選。 市長に就任した年は岡山県は農業県から工業県への転換や町村行財政近代化による町村合併(昭和の大合併)の推進など激しい変動期に当たった。これらは国内市場の拡大や後進地域の経済振興といった高度経済成長政策に見合うものだった。
中館 耕蔵(なかだて こうぞう、1895年(明治28年)9月… 中館 耕蔵(なかだて こうぞう、1895年(明治28年)9月3日 - 1982年(昭和57年)8月21日)は、日本の音楽マネージャー、学校法人経営者。現・国立音楽大学の創立者の一人。一部に姓を中舘とする記載もあるが、国立音楽大学の記載に従って中館と記す。 岩手県上閉伊郡遠野町(現・遠野市)に生まれる。1910年(明治43年)学業を終えると、同年7月から1913年(大正2年)7月まで岩手県上閉伊郡土淵尋常高等小学校教員として勤務するが、職を辞して上京する。中館が小学校教師を辞し上京したいきさつについての詳細な記録は残っていないものの、上京後、遠縁の紹介で神田の東京楽友会でヴァイオリンを習い、日本における音楽マネージメントの草分け的な仕事を始める(1915年(大正4年)に神田の学友会有志で音楽会を行うことになり、地方のまとめ役を担い、高崎(ここで中館と小林宗作との交流が生まれた。
石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 … 石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1990年〈平成2年〉7月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 埼玉県出身。旧制熊谷中学を経て、1915年(大正4年)、陸軍士官学校第27期卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)、陸軍大学校第39期卒業。 1937年(昭和12年)8月に陸軍士官学校航空兵科教官を経て、1938年(昭和13年)3月に陸軍航空兵大佐に進級。支那事変が勃発すると同年10月に第4飛行団参謀および1939年(昭和14年)1月に第21軍参謀を兼職し、ついで同年5月に第21独立飛行隊長を務めた。翌年、1940年(昭和15年)8月に陸軍航空士官学校教授部長を経て、1941年(昭和16年)10月に陸軍少将に進級。
正田 卯平(しょうだ うへい、1894年〈明治27年〉9月3… 正田 卯平(しょうだ うへい、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1979年〈昭和54年〉)は、日本の実業家、政治家。前名は茂三郎。群馬県購連理事。群馬県自動車合同副社長。群馬県石油配給、館林航器各取締役。前橋日産モーター取締役会長。町会議員。正田卯平商店。雑貨商。米屋、荒物商。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。卯平の二男。前名・茂三郎を改め襲名した。早大商科修業。父業に従事した。町学務委員、館林信組理事であった。1949年(昭和24年)館林商工会議所会頭に就任。館林交通安全協会会長も務めた。 宗教は浄土宗。趣味はスポーツ、柔道。住所は館林谷越。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3… 町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1975年〈昭和50年〉9月30日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。渋川市長(2期)。 群馬県渋川市出身。父は米穀商で渋川町長もつとめた町田久三郎。1913年(大正2年)慶應義塾商工学校卒。翌年慶應義塾大学中退。 1920年(大正9年)から太平洋戦争中まで丸久組製糸所を経営した。1933年(昭和8年)渋川町会議員となり、1936年(昭和11年)から渋川町長を務めた。 生糸製造業に従事し、上毛精機、渋川製作所各(株)を創立し、社長となり、太平工業、吉野組製糸所、町田織物、東京建鉄各(株)の社長となる。群馬商工経済会理事も務める。
赤司 貫一(あかし かんいち、1890年9月3日 - 195… 赤司 貫一(あかし かんいち、1890年9月3日 - 1954年8月22日)は、日本の都市計画家、土木技師。 福岡県生まれ。1919年京都帝国大学工学部土木工学科卒業。在学中の1917年9月から1919年7月まで、京都市の私立京都商工学校土木科で講師を務める。 その後三井鉱山を経て、1922年から1926年まで埋築技師として熊本県海面埋築事務所勤務。県営新地の干拓事業に従事。 1926年(大正15年)から内務省に転じ、1936年(昭和11年)まで、都市計画地方委員会富山地方委員会技師。1931年から富山県都市計画課技師を兼任、1928年に決定された富山市都市計画立案と施行の責任者となる。 主な実績に、東岩瀬港から富山駅北までの富岩運河開削で掘ったときの土砂で神通川の廃川地埋立て、廃川地処分を運河新設と同時に行う新市街地造成計画立案など。
暉峻 義等(てるおか ぎとう、1889年9月3日 - 196… 暉峻 義等(てるおか ぎとう、1889年9月3日 - 1966年12月7日)は、日本の生理学者・産業医学者。日本における「労働科学」の創設者として知られる。 兵庫県生まれ。鹿児島の第七高等学校造士館卒業後、1910年東京帝国大学に入学。1917年東京帝国大学医学部卒業。在学中は永井潜に学んだ。1918年警視庁保健衛生事務嘱託となり「細民街」を調査する。1919年大原社会問題研究所の創立に際して所員となり、紡績女工・労働者・農民・開拓民の生活・栄養の調査を行う。『日本社会衛生年鑑』の編集も担当した。1921年倉敷労働科学研究所を設立して所長に就任。同研究所は、のちに東京に移転して日本労働科学研究所(労研)と改称、財団法人化した。
杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949… 杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949年8月29日)は、日本の医学者、精神科医。 1887年、東京府生まれ。第一高等学校に入学し、高校在学時代の友人に谷崎潤一郎がいた。その後東京帝国大学に進学し卒業する。欧米に留学。帰国後に東京帝国大学助教授となり、松沢病院副院長。1931年名古屋医科大学教授、戦後名古屋大学教授となるがほどなく死去した。 妹の息子に小田切秀雄、小田切進がいる。
磯谷 廉介(いそがい れんすけ、1886年〈明治19年〉9月… 磯谷 廉介(いそがい れんすけ、1886年〈明治19年〉9月3日 - 1967年〈昭和42年〉6月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争期に日本占領下の香港で総督を務めた。 兵庫県出身。旧篠山藩士・磯谷次郎の三男として生れる。私立尋常中学鳳鳴義塾、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(第16期)を卒業。同期に板垣征四郎・土肥原賢二がいる。翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となった。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業し歩兵第20連隊中隊長に就任。 1916年(大正5年)8月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(広東駐在)、歩兵第13連隊付(広東駐在)、歩兵第13連隊大隊長を歴任し、1922年(大正11年)12月に帰国。
山田 又司(やまだ またじ、1884年9月3日 - 1963… 山田 又司(やまだ またじ、1884年9月3日 - 1963年7月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 新潟県出身。1908年(明治41年)、慶応義塾大学政治科卒。鉱業に従事する。長岡市議、新潟県会議員を務め、長岡市青年会長、新潟港湾調査会顧問、長岡商業会議所特別議員、日本金鉱、会津石膏各(株)社長、大阪機械製作所、日蘭公司、北越新報、中央証券取引所各(株)取締役、長岡鉄道、北越印刷各(株)監査役となる。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙において新潟2区(小選挙区制)から憲政会公認で立候補して初当選。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙において新潟3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して再選。
高野 六郎(たかの ろくろう、1884年(明治17年)9月3… 高野 六郎(たかの ろくろう、1884年(明治17年)9月3日 - 1960年(昭和35年)12月15日)は、日本の医学者。慶應義塾大学医学部教授・厚生省予防衛生局長などを歴任。予防衛生の先駆者。勲一等瑞宝章受章。 茨城県八千代町生まれ。1909年(明治42年)12月、東京帝国大学医科大学を卒業。内務省伝染病研究所技師、北里研究所所長、慶應義塾大学医学部教授、厚生省予防衛生局長などを歴任し、結核予防会の設立、医療機関の整備に尽力した。コレラ菌や腸チフス菌、各種ワクチンの研究や公衆衛生の指導に取り組み医学界に貢献した。また、ラサ島住民に感チフスワクチンの予防接種を行った。勲一等瑞宝章を受章。 また、高野は文筆家としての側面も有しており、随筆集を出すほどでもあった。
多田 礼吉(ただ れいきち、1883年9月3日 - 1956… 多田 礼吉(ただ れいきち、1883年9月3日 - 1956年5月13日)は、日本の陸軍軍人、工学者。最終階級は陸軍中将。工学博士。 静岡県出身。鈴木与兵衛の二男として生まれ、多田鶴吉の養子となる。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。翌年2月、砲兵少尉に任官し由良要塞砲兵連隊付となる。陸軍要塞砲兵射撃学校教官などを経て、1909年(明治42年)11月、陸軍砲工学校高等科(15期)を卒業した。 1910年(明治43年)9月、陸軍派遣学生として東京帝国大学に入学。1913年(大正2年)7月、同理学部物理学科を卒業した。1919年(大正8年)4月、砲兵少佐に昇進。同年12月、陸軍科学研究所員となり、1920年(大正9年)10月から1923年(大正12年)2月までヨーロッパに留学した。
加藤 繁(かとう しげる/しげし、1880年〈明治13年〉9… 加藤 繁(かとう しげる/しげし、1880年〈明治13年〉9月3日 - 1946年〈昭和21年〉3月7日)は、明治から昭和前期にかけての東洋史学者。 1880年、島根県松江にて、旧松江藩士内田家の4男として生まれた。1歳のとき、同じ元松江藩士の加藤家の養子となった。松江中学時代に三宅雪嶺の支那(中国)研究論に惹かれて東洋史を志した。国民英学会を経て、22歳で東京帝国大学史学科支那史学科選科に入学。在学中に起こった日露戦争に伴う召集による休学を挟み、1906年に25歳で卒業した。この間に内田銀蔵の日本土地経済史の研究と師である白鳥庫吉の影響を受けて、当時日本ではほとんど研究されていなかった中国経済史研究をテーマに定めた。
国光 五郎(くにみつ ごろう、1880年(明治13年)9月3… 国光 五郎(くにみつ ごろう、1880年(明治13年)9月3日 - 1951年(昭和26年)2月3日)は、日本の政治家、山口県多額納税者。衆議院議員、地主。族籍は山口県士族。 山口県阿武郡萩(現在の萩市)に石津潤一の五男として生まれ、国光佐一の養子となった。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。高等文官試験に合格し、三重県属、内務属、佐賀県事務官、広島県事務官を歴任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。立憲政友会に所属。 その後、山口県会議員や岩田村長を務め、また農業を営み山口県農会長・帝国農会議員を務めた。 1935年(昭和10年)、衆議院で補欠当選を果たし、第19回衆議院議員総選挙・第20回衆議院議員総選挙でも再選された。
武田 秀一(たけだ ひでいち、1878年(明治11年)9月3… 武田 秀一(たけだ ひでいち、1878年(明治11年)9月3日 - 1939年(昭和14年)5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。正四位勲三等功四級。字は魯男。 1878年(明治11年)9月、高知県香美郡野市村(現在の香南市)に武田秀山の長男として生まれる。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。 千葉陸軍歩兵学校教官などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し青森連隊区司令官に就任。1924年(大正13年)8月、歩兵学校教導連隊長となり、豊橋陸軍教導学校長に転じ、1929年(昭和4年)8月、陸軍少将に進級。 1930年(昭和5年)8月、歩兵第37旅団長となり、近衛師団司令部付を経て、1933年(昭和8年)8月、陸軍中将に進んだ。
黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年〈明治7年〉9月3日… 黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年〈明治7年〉9月3日 - 1946年〈昭和21年〉12月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。学位は、文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。エスペラントの普及にも努めた。歴史学者の黒板伸夫は甥。甥の妻は作家の永井路子。 旧大村藩の士族黒板要平の長男として、長崎県彼杵郡下波佐見村(現在の長崎県東彼杵郡波佐見町)に生まれる。長崎県立大村高等学校の前身である旧制大村中学校、熊本大学の前身である旧制第五高等学校を卒業した後、1896年に、帝国大学文科大学国史科を卒業し、帝国大学大学院に入学。同時に経済雑誌社に入り、田口卯吉の下で『国史大系』の校訂に従事した。
西川 吉之助(にしかわ よしのすけ、1874年9月3日 - … 西川 吉之助(にしかわ よしのすけ、1874年9月3日 - 1940年7月18日)は、日本の教育者。大正から昭和初期に日本の聾学校/聾教育に口話教育の普及を推進した教育者。大阪市立聾学校(学校名は当時。現在は大阪府立中央聴覚支援学校)校長の高橋潔とは、『手話の高橋、口話の西川』と対比された。 1874年、滋賀県蒲生郡八幡町(現・近江八幡市)生まれ。父は八十二郎、母はきち(西川吉輔の五女)。東京の私立商業素修学校卒業後、1895年に私立小樽商業夜学校を設立するが2年で廃校となる。その後、西川傳右衛門家を継ぎ、西川貞二郎の長女・君と結婚した。 元からの教育者ではなく、耳が聴こえない三女の濱子(はま子)のために始めた口話法が当時の社会で評判を博したため、教育者の道に進んだ人物である。
岡 鬼太郎(おか おにたろう、明治5年8月1日(1872年9… 岡 鬼太郎(おか おにたろう、明治5年8月1日(1872年9月3日) - 1943年(昭和18年)10月29日)は、日本の劇評家、歌舞伎作家(脚本家)、演出家、著述家。本名嘉太郎(よしたろう)。号は鬼吟(きぎん)。 東京生まれで、父岡嘉知は旧佐賀藩士。東京府尋常中学を経て、慶應義塾大学卒業。1893年に時事新報に入社、1895年報知新聞に移り、鬼太郎の名で厳しい劇評(歌舞伎)を書く。岡本綺堂と親しく、その影響で花柳小説や戯曲も書いた。ほか二六新報などの新聞記者もつとめた。 1908年記者をやめ、永井荷風とともに二代目市川左團次の演劇革新運動に加わる。かたわらで、戯曲の創作、辛口の批評で人気を集め『鬼言冗語』などの歌舞伎関係の批評随筆を多く残した。
高田 富蔵(たかだ とみぞう、慶応3年8月6日(1867年9… 高田 富蔵(たかだ とみぞう、慶応3年8月6日(1867年9月3日) - 没年不詳)は、日本の裁判官、台湾総督府官僚、教育者。 摂津国八部郡山田村(現在の兵庫県神戸市北区)出身。1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。台湾総督府法院判官、覆審法院部長、台北地方法院長、高等法院上告部判官・覆審部長を歴任し、1921年(大正10年)から台北州知事を務めた。 1924年(大正13年)に退官した後は、ハルピンの日露協会学校校長に転じた。1932年(昭和7年)に日露協会学校がハルピン学院と改称した後も引き続き院長を務め、1935年(昭和10年)まで在職した。
伊藤 市平(いとう いちへい、1862年9月3日(文久2年8… 伊藤 市平(いとう いちへい、1862年9月3日(文久2年8月10日) - 1923年(大正12年)12月31日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(1期)。 伊藤長重郎の子。遠江国麁玉郡宮口村(現・静岡県浜松市浜名区宮口)出身。1881年(明治14年)7月、浜松中学校を卒業後上京し同人社に入るが1883年(明治16年)7月、退学する。東京専門学校に転じ1886年(明治19年)7月、卒業をもって帰郷し1888年(明治21年)2月、静岡県茶業組合連合会議員となり、1890年(明治23年)2月には静岡県会議員に当選した。ほか同副議長、同参事会員、中央茶業組合会議所議員、関東茶業会本部主事、宮口銀行頭取、宮口委託監査役などを歴任した。
大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(18… 大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(1843年9月3日) - 大正11年(1922年)10月15日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。自由民権運動に携わり、衆議院議員を務めた。旧姓、高並。別名、馬場城二郎、馬城山人。 天保14年8月10日(1843年9月3日)に豊前国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)に農民・高並彦郎とサノの三男として出生。幼名は彦六。幼少から漢学の手ほどきを受け、文久3年(1863年)に、長崎で蘭学・英学を学び、大井卜新との知遇を得て、義兄弟となり、大井の名字を名乗る。更に江戸に出て仏学・化学を学ぶ。江戸幕府の開成所舎密局に出仕する。戊辰戦争では幕軍砲兵隊に属し官軍と戦う。
佐々木 久四郎(ささき きゅうしろう、文政10年7月13日〈… 佐々木 久四郎(ささき きゅうしろう、文政10年7月13日〈1827年9月3日〉- 1895年〈明治28年〉1月13日)は、明治時代の日本の政治家。宮城県黒川郡富谷村2代村長。宮城県第4大区小5区副戸長・宮城県第3大区小1区副戸長・富谷村初代助役を歴任した。位階は正七位。勲等は勲六等。 文政10年7月13日(1827年9月3日)、陸奥国黒川郡成田村(現在の富谷市西成田)に佐々木亀蔵の次男として生まれた。15歳のとき、成田村の佐々木弥右衛門の家を継ぎ、明治5年4月9日(1872年6月10日)の大区小区制施行時には宮城県第4大区小5区の副戸長を高橋運治と務めることになった。その後、村扱や戸長・土木委員・通信委員・学務係・小学校資産管理人等の役職に就いた。
玉乃 世履(たまの よふみ、文政8年7月21日(1825年9… 玉乃 世履(たまの よふみ、文政8年7月21日(1825年9月3日) - 1886年(明治19年)8月8日)は、日本の司法官。剛毅果断・清廉潔白な精神の持ち主で、裁判官としての公正な裁きにより、「明治の大岡」と称賛された。号は五龍。大審院長在職中に自殺した。通称は泰吉郎、東平。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
菅野 八郎(かんの はちろう、文化7年8月5日〈1810年9… 菅野 八郎(かんの はちろう、文化7年8月5日〈1810年9月3日〉 - 明治21年〈1888年〉1月2日)は、岩代国梁川代官所管内の金原田村および八丈島を拠点に活動した百姓、民衆思想家。通称は金原田 八老、また単に八老とも。
あぜち 守(あぜち まもる、9月3日 - )は、日本の俳優、… あぜち 守(あぜち まもる、9月3日 - )は、日本の俳優、ナレーター。ギャラクシーオーシャン所属。以前は81プロデュースに所属していた。神奈川県出身。 国立音楽大学声楽科を経て、日劇ダンシングチームに入団。NHK教育テレビのレギュラーや各種ミュージカルで活動。その他、ストレートプレイ、コンサート、レヴュー、ナレーションなど幅広い活動を行っている。 趣味・特技はピアノ弾き語り、三味線、日本舞踊、ジャズダンス、スキューバダイビング、カラオケ。資格は介護ヘルパー2級。 バストは90cm、ウエストは85cm、ヒップは89cm、靴のサイズは25cm。
朱門 優(しゅもん ゆう、9月3日 - )は、日本のシナリオ… 朱門 優(しゅもん ゆう、9月3日 - )は、日本のシナリオライター、プロデューサー、ディレクター、ライトノベル作家。 埼玉県新座市出身。血液型はO型。MEPHISTO代表。2011年9月からフリー。趣味は資料集めや散歩。 愛称は「お朱門ちゃん」。 元々は漫画家志望であったが、病気で断念せざるを得なくなり、一念発起して文章書きを目指す。 2001年、自身が企画した『蜜柑』でシナリオライターとしてデビュー。 2008年には、一迅社文庫創刊ラインナップの一人として小説家としてもデビューを果たす。 この項目は、アダルトゲームに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:コンピュータゲーム/PJ:美少女ゲーム系/P:性/PJ:性)。
西荻 弓絵(にしおぎ ゆみえ、9月3日 - )は日本の脚本家… 西荻 弓絵(にしおぎ ゆみえ、9月3日 - )は日本の脚本家、作家。東京都出身。慶應義塾大学文学部卒業。 1991年、『水の記憶 MEMORY OF WATER』でデビュー。 1993年、『ダブル・キッチン』が大ヒットして最高視聴率30.7%を記録。 1994年、『スウィート・ホーム』がヒット。ドラマの影響で「お受験」が一般に浸透する。 1999年、『ケイゾク』がコアなファンから人気を集め、2000年には映画化(『ケイゾク/映画 Beautiful Dreamer』)され、ヒット作となる。 2010年、『ケイゾク』の世界観や設定を引き継いだ『SPEC』を発表(こちらも『劇場版 SPEC〜天〜』『劇場版 SPEC〜結〜 漸ノ篇/爻ノ篇』として映画化された)。
上谷 理佳(うえたに りか、9月3日-)は、日本のフリーアナ… 上谷 理佳(うえたに りか、9月3日-)は、日本のフリーアナウンサー。元NHK首都圏放送センター契約キャスター。 長崎県長崎市出身。長崎県立長崎東高等学校を経て(55回生)、東京女子大学文理学部英米文学科卒業。大学在学中、東京アナウンスセミナーに通っていた(7期生)。2007年から4年間NHK長崎放送局に勤務し、2011年から2014年まではNHK首都圏放送センターの番組を担当していた。 血液型はA型。趣味はマリンバ演奏、紅茶、口笛を吹くこと。
安田 敬一郎(やすだ けいいちろう、9月3日 - )は、日本… 安田 敬一郎(やすだ けいいちろう、9月3日 - )は、日本のフリーアナウンサー。 鹿児島県出身。鹿児島県立甲南高等学校、大阪芸術大学芸術学部放送学科卒業。大学在学時にはアナウンススクールの生田教室に通っていた。 1989年4月に山陽放送に入社し、同期の早田和泰、本田祐美とともに同局のアナウンサーになる。1996年4月にWOWOWへ移籍し、17年間同局に在籍した。 その後は個人事務所を設立し、フリーアナウンサーとして活動している。途中、2017年からは東京俳優生活協同組合(俳協)に、その後はタイムリーオフィスに所属していた。 脚注の無いデータは、安田敬一郎公式サイトに掲載されていた出演データからの参考。
壷井 正(つぼい ただし、9月3日 ー )は、日本の音響監督… 壷井 正(つぼい ただし、9月3日 ー )は、日本の音響監督。グロービジョン所属。壺井 正と表記されることも多い。 日本大学芸術学部映画学科卒業。1979年にテレビ放送された『ベン・ハー』の吹き替えにて演出家デビュー。以降は長年にわたり吹替演出で活動している。また、近年は文学座附属演劇研究所などで後進の育成にも力を注いでいる。 演出家としてはグロービジョンの先輩である左近允洋に師事しており一番弟子のようなポジションだった。ただし演出方針は異なり、左近允が事前に緻密な準備と収録前の打ち合わせを行い台本の修正も多かったのに対し、壺井は台本の修正をあまり行わず収録中に出演者から出たアイデアも積極的に採用していたという。
平居 正行(ひらい まさゆき、9月3日 - )は、日本の声優… 平居 正行(ひらい まさゆき、9月3日 - )は、日本の声優、俳優。ムーブマン所属。滋賀県出身。 小さい頃からアニメや海外ドラマの『フルハウス』などを見るのが好きで、そこから職業としての声優があることを知り、「やってみたい!」と思ったことが声優を目指したきっかけだという。 高校時代、地元・滋賀の市民ミュージカル劇団で舞台に立ち始める。 2005年3月、日本大学芸術学部放送学科(アナウンスコース)を卒業。大学のサークルでは自主制作映画・小劇場演劇に出演。 2006年、中澤まさとも・粕谷幸司と共にユニット「Project One-Size」を結成。 タレントオフィスともだちに在籍していた。 2009年11月、劇団スタジオライフに入団。