尾澤 金一(おざわ きんいち、1905年〈明治38年〉9月4… 尾澤 金一(おざわ きんいち、1905年〈明治38年〉9月4日 - 1987年〈昭和62年〉8月16日)は、日本の実業家。姓の「澤」は「沢」の旧字体であるため、尾沢 金一(おざわ きんいち)とも表記される。 日東肥料株式会社監査役、片倉製糸紡績株式会社監査役、尾澤組合名会社代表社員などを歴任した。 昭和年間に製糸業にて成功した実業家である。日本で有数の大規模な製糸業を展開し、「諏訪の六大製糸家」の一人と謳われた尾澤福太郞の嫡孫にあたる。福太郞から家督を継承し、家業の発展に力を尽くした。福太郞の率いる製糸会社である尾澤組と片倉製糸紡績との合併にともない、片倉財閥の幹部として興隆に力を振るった。日東肥料や片倉製糸紡績にて監査役を務めるなど、多くの企業で要職を歴任した。
柴 勝男(しば かつお、1901年(明治34年)9月4日 -… 柴 勝男(しば かつお、1901年(明治34年)9月4日 - 1970年(昭和45年)1月3日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。旧姓・阿部。千葉県出身。 農業・阿部作次郎の二男として千葉県で生まれた。私立大成中学校(現千葉県立長生高等学校)を経て、1922年6月、海軍兵学校(50期)を卒業、翌年9月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、島風水雷長を経て、水雷学校専攻科で学んだ。綾波水雷長を経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を卒業する。 沼風艦長、ドイツ駐在、ドイツ大使館付武官補佐官、響艦長、海大教官、軍令部第1部員などを経て、1938年11月、海軍中佐に進級。海軍省軍務局第1課付、同課局員などを歴任し、軍務局第2課局員として太平洋戦争を迎えた。
木村 常信(きむら つねのぶ、1901年9月4日 - 199… 木村 常信(きむら つねのぶ、1901年9月4日 - 1991年4月24日)は、日本の民法学者。京都大学名誉教授。長女は推理小説家の山村美紗、長男は政治学者で北海道大学名誉教授の木村汎、孫は女優の山村紅葉。
山中篤太郎(やまなか とくたろう、1901年9月4日-198… 山中篤太郎(やまなか とくたろう、1901年9月4日-1981年1月16日)は、日本の経済学者。第3代一橋大学学長。日本経済政策学会代表理事、中小企業学会会長、労働省中央労働基準審議会会長等を歴任。
多久 龍三郎(たく りゅうざぶろう、1901年(明治34年)… 多久 龍三郎(たく りゅうざぶろう、1901年(明治34年)9月4日 - 1983年(昭和58年)9月14日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員、多久鍋島家(後多久氏)13代当主。 12代多久鍋島家当主、男爵・多久乾一郎の三男として東京市赤坂区青山で生まれ、父の死去に伴い、同年12月12日に男爵を襲爵した。 2歳で父祖の地佐賀県に移るが、10歳の時に上京。学習院に入り昭和天皇の御学友となる。1922年、学習院高等科を卒業。1926年(大正15年)東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、さらに同経済学部を修了。1927年(昭和2年)欧米に留学した。 1932年(昭和7年)織田信託監査役に就任。
神部 孝(かんべ たかし、1901年9月4日 - 1938年… 神部 孝(かんべ たかし、1901年9月4日 - 1938年6月15日)は、日本の翻訳家、フランス文学者。 1901年9月4日、静岡県駿東郡楊原村(現・沼津市)に生まれる。 1925年に早稲田大学フランス(佛蘭西)文学科を卒業後、同学科の教員となった(1925年9月−1938年6月)。 1938年6月15日、36才で没しており、後輩である根津憲三は『サランボオ』解説に「この作品の訳者は今から十数年まへの夏、いまだ春秋に富む身を、恵まれた文才を惜しまれながら他界の人となつた」と記している。また、早稲田大学百年史には「神部孝は大正十四年の仏文科卒業生で、昭和三年『文学思想研究』に「メリメ研究」を発表、大学では「テーヌ研究」などの講座を担当、その将来を嘱目された。
横山 隆良(よこやま たかひさ、1901年(明治34年)9月… 横山 隆良(よこやま たかひさ、1901年(明治34年)9月4日 - 1977年(昭和52年)8月24日)は、昭和期の華族(男爵)。加賀八家横山家第15代当主。 加賀藩重臣横山家第14代当主、男爵横山隆俊の子として生まれる。1934年2月15日、父の死去に伴い男爵を襲爵した。 早稲田大学法学部を卒業。大学卒業後、浅野物産に入社し、重役まで昇進した。その他、小野慈善院評議員、北陸大亜細亜協議会会頭、鶴来通運社長、北陸鉄道常務、石川県乗合自動車運送事業組合専務理事などを務めた。 長隆 - 長知 - (康玄) - 忠次 - 玄位 - 任風 - 貴林 - 隆達 - 隆従 - 隆盛 - 隆章 - (隆貴) - 隆平 - 隆俊 - 隆良 - 隆昭
田中 周友(たなか かねとも、1900年9月4日 - 199… 田中 周友(たなか かねとも、1900年9月4日 - 1996年11月14日)は、日本の法学者。専門はローマ法。京都大学博士。 1900年9月4日、京都市に生まれる。実家は700年続く下鴨神社の社家で、自宅は糺の森の一角・京都市左京区下鴨森本町24番地(旧・愛宕郡下鴨村24番地)にあった。夏目漱石は、当時この家を借りていた親友・狩野亨吉(京都帝国大学文科大学初代学長)を訪ね、1907年3月28日から15日間滞在し、短編「京に着ける夜」(『大阪朝日新聞』1907年4月9日~4月11日)を執筆し、『虞美人草』の構想を練った。 1924年3月、京都帝国大学法学部独逸法律学科を卒業。1926年1月から1929年3月にかけて、ローマ法研究のためドイツ、フランス、イタリアへ文部省在外研究員として出張。
中嶋 忠三郎(なかじま ちゅうざぶろう、1900年〈明治33… 中嶋 忠三郎(なかじま ちゅうざぶろう、1900年〈明治33年〉9月4日 - 1998年〈平成10年〉1月18日)は、日本の判事、外交官、西武鉄道重役。 群馬県碓氷郡岩野谷村岩井(現・安中市岩井)に、名望家・中嶋利平の四男として生まれる。父方の親戚には衆議院議員・須藤嘉吉がおり、母方の従兄にヤマタネ創業者・山崎種二がいる。陸軍幼年学校への進学を希望したが父に反対され、小学校高等科から東京の日本中学校に編入する。脚気により同校を休学後、目白中学校の編入試験を受け合格。目白中学校を卒業し、中央大学法科に学ぶ。1925年に中央大学法科を卒業し、同年高等文官試験司法科に合格。この年入営し、1927年司法官試補として採用された。
草野 貞之(くさの ていし、1900年9月4日 - 1986… 草野 貞之(くさの ていし、1900年9月4日 - 1986年1月11日)は、白水社社長、フランス文学者。福岡県生まれ。東京帝国大学文学部印度哲学科卒。中央大学教授、1931年教授のまま白水社に入り、33年取締役。ルナールの『にんじん』を岸田国士の訳で出版、映画化上映もありベストセラーとなる。1943年社長。51年文庫クセジュを創刊。墓所は多磨霊園。
大島 亮吉(おおしま りょうきち、1899年9月4日 - 1… 大島 亮吉(おおしま りょうきち、1899年9月4日 - 1928年3月25日)は、大正から昭和初期にかけての日本の登山家・作家。登山に関する多くの文章を著したが、登山中の遭難により死亡した。 東京府東京市芝区桜川町(現在の東京都港区虎ノ門)で大島善太郎・さく夫婦の三男として生まれる。祖父・大島善十郎は越中八尾出身で、東京に出て煙草の販売業を営んできたが、煙草の専売化によって廃業に追い込まれた。しかし、それまでの利益で買った貸家からの収益で、家族はそれなりの生活ができていたという。12歳の時に喘息の発作で倒れ、八尾に住んでいた伯母の元で療養生活を送っている。1914年、八尾尋常高等小学校高等科を卒業したのを機に帰京して慶應義塾商工学校に入学する。
蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉… 蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉9月4日 - 1965年〈昭和40年〉3月16日)は熊本県出身の詩人、作家、評論家。 熊本県阿蘇郡黒川村(現在の阿蘇市)に生まれる。本名は蔵原惟賢(これかた)。父惟暁は神官で阿蘇神社の直系。母いくは医学者北里柴三郎の妹。 7歳で熊本市に移住。旧制九州学院中学校在学中から中国詩に親しむ。19歳で上京し、慶應義塾大学文学部仏文科に学ぶ。同級に青柳瑞穂や石坂洋次郎がいた。1923年、大学在学中に萩原朔太郎『青猫』に触発されて詩を書き始め、『三田文学』『コギト』に作品を発表。のち、東京外国語学校のロシア語科に通っていたことが発覚したため、二重学籍を理由に慶應義塾大学から退学処分を受ける。
松田 尚之(まつだ なおゆき、1898年〈明治31年〉9月4… 松田 尚之(まつだ なおゆき、1898年〈明治31年〉9月4日 - 1995年〈平成7年〉3月29日)は、彫刻家、日本芸術院会員。京都学芸大学教授、金沢美術工芸大学教授を歴任。 富山県出身。1922年東京美術学校彫刻科卒、帝展に出品、1926、1927年特選。1930年京都帝国大学講師。1932年帝展審査員。1935年京都市立美術工芸専門学校教諭。文展に出品、1943年同審査委員。1946年日展審査員。1951年金沢美術工芸大学教授。1952年京都学芸大学教授。1958年日本芸術院賞受賞、日展評議員。1968年日本芸術院会員、日展理事、1969年同常務理事、1970年勲三等瑞宝章受章、1975年日展顧問。
金 良洙(キム・ヤンス、朝鮮語: 김양수、1896年9月4日… 金 良洙(キム・ヤンス、朝鮮語: 김양수、1896年9月4日 - 1969年9月19日または1971年1月19日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家、独立有功者。第2代韓国国会議員、原子力院(現・原子力安全委員会)院長を歴任した。 本貫は光山金氏。号は若嬰。キリスト教徒。 全羅南道順天出身。早稲田大学政経学部卒、コロンビア大学・ロンドン大学修学。東亜日報・朝鮮日報論説委員、ハワイ第二次汎太平洋会議朝鮮代表(徐載弼・金活蘭・申興雨と共同)、ニューヨーク三一新報主幹・主筆、ベルリン世界反帝同盟会議出席者、朝鮮興業株式会社重役を務めた。中国で金枓奉とハングル運動について意見を交わした後、1935年から朝鮮語学会に参加して辞典の編纂を財政的に支援したが、1942年の朝鮮語学会事件により3年間投獄され、1945年1月に懲役2年・執行猶予4年の刑を言い渡された。
牧野 康熙(まきの やすひろ、1895年(明治28年)9月4… 牧野 康熙(まきの やすひろ、1895年(明治28年)9月4日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、大正から昭和時代にかけての華族。小諸藩牧野家13代当主。子爵。従四位。 嵯峨公勝・南加の二男。初名は次郎。牧野康強の養子となり康熙と改名する。1918年(大正7年)中央大学商科を卒業し、1919年(大正8年)横浜正金銀行に勤務する。1929年(昭和4年)家督を相続する。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属し死去するまで在任した。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
末高 信(すえたか まこと、1894年9月4日 - 1989… 末高 信(すえたか まこと、1894年9月4日 - 1989年4月4日)は、日本の社会保障学者、商学博士。生命保険修士会名誉会長ならびに生命保険アンダーライティング学院創立者。東京都台東区出身。 上記以外に、日本保険学会名誉会員、健康保険組合連合会顧問、社会保険診療報酬支払基金理事等を兼ねた。 松平信生(長州征伐に旗頭として参加した松平左金吾の十一男)の長男として1894年(明治27年)に生まれる。末高姓は父である信生(のぶなり)が仕えていた徳川慶喜が大政奉還の後、駿府入りした際に旗本の末高家の養子になり改姓したことに依る。父、信生は 西南戦争の後徳川家のもとを離れることになり、東京日本橋で漆器問屋の娘きくと結婚、家持(地主)を営むが、チフスで急逝した。
大泉 寛三(おおいずみ かんぞう、1894年(明治27年)9… 大泉 寛三(おおいずみ かんぞう、1894年(明治27年)9月4日 - 1981年(昭和56年)2月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。参議院議員(1期)。 山形県北村山郡玉野村(尾花沢町を経て現尾花沢市)出身。 独学し、1917年(大正6年)川口町(現川口市)に大泉工場(機械鉄鋼場)を創業。1921年(大正10年)立憲政友会に入党し、その後、川口町会議員、同町会議長、同町助役、川口市会議員、同市参事会員、同市助役などを務めた。 1940年(昭和15年)10月、埼玉県立川口工業高等学校設備拡充費として1万円寄付により1941年(昭和16年)9月13日紺綬褒章受章。1941年12月、川口市役所備品として乗用車1台寄付により1942年(昭和17年)4月28日紺綬褒章受章(飾版)。
下村 千秋(しもむら ちあき、男性、1893年9月4日 - … 下村 千秋(しもむら ちあき、男性、1893年9月4日 - 1955年1月31日)は、日本の作家。 茨城県信太郡朝日村(稲敷郡朝日村を経て、現在の阿見町)生まれ。1908年、茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)へ進む。1919年、早稲田大学英文科卒業後、読売新聞社に入社し社会部記者となるが同年12月に退社し、文筆活動に入る。小説・短歌・戯曲などを発表するほか、ゴーリキー全集の翻訳も行う。1923年、結婚を機に東京市役所労務課翻訳係に就職するが、8ヵ月で退職して再び作家生活に入る。主に『赤い鳥』などに童話を発表した。 昭和時代に入ると、私娼を描いた「天国の記録」(『中央公論』1930年7月)で有名となり、「ルンペン小説」の作家として有名となる。
丸尾 彰三郎(まるお しょうざぶろう、1892年(明治25年… 丸尾 彰三郎(まるお しょうざぶろう、1892年(明治25年)9月4日 - 1980年(昭和55年)7月24日)は、昭和期の日本の美術史家 、美術評論家 。専門は日本彫刻史。 1892年(明治25年)9月4日、岡山県に生まれる。1919年(大正8年)に東京帝国大学文科大学美学美術史科を卒業。1921年(大正10) 文部省図書館員教習所講師、翌年1922年(大正11)文部省古社寺保存計画調査嘱託、1930年(昭和5年)帝国美術院附属美術研究所事務嘱託、その間に東京女子高等師範学校、東京女子大学、慶応義塾大学の講師をつとめ、1932年(昭和7年)から1946年(昭和21年)まで文部省国宝鑑査官を務めた。
3代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年〈明治21… 3代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年〈明治21年〉9月4日 - 1971年〈昭和46年〉2月6日)は、日本の陶工、日本芸術院会員。本名は井上 良太郎。位階は正五位。 東京浅草生まれ。隅田川に窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、旧制錦城中学校卒業の頃、1905年から作陶に従事する。板谷波山に師事。1914年に横浜へ移り、1928年、帝展初入選。1953年、第1回横浜文化賞受賞。1959年、「丸紋平皿」で日本芸術院賞を受賞。1966年、日展理事に任じられるとともに、日本芸術院会員となる。1967年、勲三等瑞宝章受賞。1971年死去。死没日付をもって正五位に叙された。 温厚な人柄を反映したかのような、気品の高い風格ある作風が特徴である。
園山 民平(そのやま みんぺい、1887年(明治20年)9月… 園山 民平(そのやま みんぺい、1887年(明治20年)9月4日 - 1955年(昭和30年)1月11日)は、日本の作曲家。島根県鳶巣村(現在の出雲市)出身。 1887年(明治20年)9月4日、島根県(現在の出雲市)に生まれる。東京音楽学校師範科でピアノと作曲を学び、1910年(明治43年)に同校を卒業後、宮崎高等女学校の音楽教師となった。1922年(大正11年)に満州へ渡り、教科書や副読本を発行する南満州教育会教科書編集部の職員となった。園山は当初編集部から大きな期待をかけられているようには感じなかったと述懐しているが、『満州唱歌集』の発行に携わり、自ら収録曲の作曲も行うなど満州唱歌の誕生に深く関与することになる。
麻生 太郎(あそう たろう、1887年〈明治20年〉9月4日… 麻生 太郎(あそう たろう、1887年〈明治20年〉9月4日 - 1919年〈大正8年〉3月4日)は日本の実業家。第92代内閣総理大臣麻生太郎の祖父。 麻生太吉の三男として生まれる。長兄の太右衛門は病弱で、次兄の鶴十郎も若くして他界したため、麻生家の後継となる。しかし本人も病弱であり31歳で死去した。生前は麻生商店取締役を務めていた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9… 鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9月4日 - 1946年(昭和21年)3月12日)は、大正から昭和期の政治家、労働運動家。友愛会創始者。日本の労働運動の草分け的存在といわれる。 宮城県栗原郡金成村(現・栗原市)の旧家鈴木益治の長男として生まれる。10歳の頃に父親とともにキリスト教に入信。宮城県尋常中学校志田郡立分校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、旧制山口高等学校に入学。中学卒業前後に家業が傾き、高校時代苦学するなかで、在野のキリスト教伝道師本間俊平の影響により、社会問題に目覚めていく。東京帝国大学法科大学政治学科に入学後は、同郷の先輩である吉野作造とともに、海老名弾正率いる組合派の本郷教会に所属する。
大倉 直介(おおくら なおすけ、1884年(明治17年)9月… 大倉 直介(おおくら なおすけ、1884年(明治17年)9月4日 - 1953年(昭和28年)[要出典])は、明治末から昭和期の建築技術者、実業家。大倉火災海上保険社長などを務めた。 東京府麻布区麻布市兵衛町(現東京都港区)で、旧新発田藩主・溝口直正の次男として生まれた。1910年7月、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、陸軍技師となる。1914年3月に退官した。 1914年、同郷の実業家・大倉喜八郎の妹みちの養子となり大倉に改姓。1915年、大倉組に入り会計部で勤務。1919年、大倉組ロンドン支店に異動。1922年、大倉商事保険部長に就任し、1926年、同監査役、1928年、大倉火災海上保険常務取締役を経て、1935年、同社長となり1943年頃まで在任。
加納 金助(かのう きんすけ、1883年〈明治16年〉9月4… 加納 金助(かのう きんすけ、1883年〈明治16年〉9月4日 - 1953年〈昭和28年〉12月5日)は、日本の政治家、教育者、日本大学常任理事、日本大学副会頭、日本大学第一学園初代理事長。千葉市長(第5、9、10代)、参議院議員(1期)。 1883年、千葉県下埴生郡小菅村(印旛郡遠山村を経て現成田市小菅)の農家 藤崎家の三男として誕生。1898年、成田英漢義塾(同年10月にに私立成田中学校として認可)に入学。1903年卒業。國學院大學高等師範部に入学するも、同年9月に日本大学高等師範部(現在の文理学部)へ転入学。1906年同校を卒業すると、日本大学専門部法律科入学。在学中の1908年11月30日、加納家の長女由香と結婚し、加納家の養子となる。
安藤 貫一(あんどう かんいち、1878年〈明治11年〉9月… 安藤 貫一(あんどう かんいち、1878年〈明治11年〉9月4日 - 1924年〈大正13年〉12月27日)は日本の英文学者。鹿児島県立第一中学校教諭、大阪高等商業学校教授。夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の英訳で知られる。 1878年(明治11年)9月4日、東京府深川西大工町(現:東京都江東区清澄二丁目)に生まれた。 1894年(明治27年)6月、ジェームス・サマーズの欧文正鵠学館を卒業した後、国民英学会に入学して磯辺弥一郎・岡倉由三郎等に学び、1895年(明治28年)11月正科、1896年(明治29年)11月英文科を共に首席で卒業した。同期には勝俣銓吉郎・菅野徳助・南日恒太郎・鷲見亀五郎・米田実・河上清・最上梅雄等がいた。
高崎 三重郎(たかさき さんじゅうろう、1877年〈明治10… 高崎 三重郎(たかさき さんじゅうろう、1877年〈明治10年〉9月4日 - 1958年〈昭和33年〉11月11日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 茨城県行方郡、のちの麻生町(現行方市)出身。高崎新蔵の長男として生まれ、1894年(明治27年)7月に祖父三郎右衛門の後を受け家督を相続する。農業を営む。 麻生町会議員、行方郡会議員、同郡教育会副会長、麻生町労務委員、茨城県農工銀行監査役、佐原興業銀行取締役を歴任した。 1911年(明治44年)には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで1期務めた。
板谷 勘右衛門(いたや かんえもん 1875年9月4日 - … 板谷 勘右衛門(いたや かんえもん 1875年9月4日 - 1941年5月1日)は日本の政治家。 1875年地元の地主である板谷助右衛門の長男として生まれる。新潟商業学校を卒業後農業に従事していたが、1913年剱地村会議員選挙に出馬し当選、さらに鳳至郡会議員、1919年には立憲政友会に属して石川県会議員に当選。その後長らく剱地村長をつとめたのち、長年地方自治に尽くした功績で1939年8月1日紺綬褒章を受章した。1941年5月1日に76歳で死去。きく夫人との間に3男2女がある。 『石川県議会史 第2巻』1968年
河野 秀男(こうの ひでお、1874年(明治7年)9月4日 … 河野 秀男(こうの ひでお、1874年(明治7年)9月4日 - 1938年(昭和13年)3月12日)は、日本の官僚。会計検査院長、貴族院勅選議員。 長野県下伊那郡河野村(現豊丘村)生まれ。1889年(明治22年)体育伝習所(現筑波大学体育専門学群)を卒業後、帰郷し飯田学校の体育教員となったが、再度上京し、1896年(明治29年)東京法学院(現中央大学)卒業。 1897年(明治30年)文官高等試験に合格し、1898年(明治31年)司法省属となり、1900年(明治33年)会計検査院に転じて1905年(明治38年)衆議院書記官を兼任し、1933年(昭和8年)会計検査院長となる。1934年(昭和9年)勲一等瑞宝章・勲一等旭日大綬章受勲。
鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8… 鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8月2日)- 1955年(昭和30年)10月21日)は、日本の弁護士、政治家。学位は法学博士。新字体で鵜沢 総明(うざわ ふさあき)とも表記される。旧名・惣一。 第一東京弁護士会会長、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長、明治大学総長、明治大学理事長、国際基督教大学評議員会議長などを歴任した。 青山学院大学学長を務めた経営学者の鵜澤昌和は次男。 1872年、千葉県長柄郡上太田村(長生郡新治村、本納町を経て現在の茂原市上太田)にて、富農、鵜沢巳之松の長男・惣一として誕生する。1886年に地元の太田小学校高等科を卒業。間もなく、校長鶴岡清治郎との縁故もあって、最年少の教員として同校に就職する。
江畑 新之助(えばた しんのすけ、明治4年7月20日(187… 江畑 新之助(えばた しんのすけ、明治4年7月20日(1871年9月4日)- 昭和8年(1933年)8月2日)は、日本の政治家。秋田県仙北郡飯詰村(のち仙南村、現美郷町)の村長。号は貴新。 1871年(明治4年)、秋田県仙北郡飯詰村中島の素封家江畑宇三郎の家に長男として生まれた。江畑家は当時仙北郡では高梨村の池田家に次ぐ大地主であった。1901年(明治34年)から1933年(昭和8年)までの長きにわたって飯詰村長を務めた。 若いころから学問熱心で、「人格高邁の国士」として知られる杉浦重剛の塾に通い、田尻稲次郎らによって創立された専修学校(現在の専修大学)では経済学を修めた。1894年(明治27年)5月、北秋田郡大館町出身で秋田市の『遐邇新聞』(現在の秋田魁新報)の主幹も務めた新聞人・漢学者の狩野旭峰を飯詰村の自宅に招き、邸宅内に私塾(漢学塾)「酔経学舎」を設立し、1900年ころまでみずからも学び、子弟の教育にあたった。
中原 徳太郎(なかはら とくたろう、明治4年7月20日(18… 中原 徳太郎(なかはら とくたろう、明治4年7月20日(1871年9月4日) - 昭和2年(1927年)11月17日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、整形外科医。日本医科大学学長。憲政会幹事長を歴任。 京都出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学を卒業後、同大学助手に任命されたが、楽山堂病院副院長に転じた。日露戦争中は陸軍篤志医員として活動した。1907年(明治40年)、ドイツに留学し、医学博士の学位を得た。1914年(大正3年)、楽山堂病院を辞職して、中原病院を開いた。 同年、日本医学専門学校教授に就任し、1918年(大正7年)に校長になった。1926年(大正15年)に日本医学専門学校が日本医科大学に昇格すると、引き続き学長を務めた。
牧田 環(まきた たまき、1871年9月4日〈明治4年7月2… 牧田 環(まきた たまき、1871年9月4日〈明治4年7月20日〉 - 1943年〈昭和18年〉7月6日)は、日本の鉱山技術者、実業家、教育者。 1871年(明治4年)、大阪府北桃谷町に大坂城詰めの幕臣である士族の牧田虎之丞の次男として生まれる。1895年(明治28年)帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業して三井鉱山(現・日本コークス工業)に入社した。最初は技術者として、後に役員として頭角を現し、三井鉱山社長および会長を務めた。こうした縁で、三井財閥の最高指導者であった団琢磨の長女を妻に迎えている。1913年(大正2年)工学博士を取得。 1924年(大正13年)には田中鉱山より経営移譲された釜石鉱山株式会社の会長に就任。
鈴木 久次郎(すずき きゅうじろう、1866年9月4日(慶応… 鈴木 久次郎(すずき きゅうじろう、1866年9月4日(慶応2年7月26日)- 1931年(昭和6年)11月29日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員(7期)。 上総国望陀郡岩出村(千葉県望陀郡小櫃村、君津郡小櫃村、君津町を経て現君津市岩出)で、農業・醤油醸造業・製糸業、鈴木市太郎の長男として生まれた。小学校卒業後、平島亮胤から漢学を学び、南総英語学校を卒業。1887年(明治20年)専修学校(現専修大学)で英語、経済学を学んだ。 帰郷して家業に従事。文房具、ペン先製造業を開始し、南総銀行取締役、久留里銀行取締役も務めた。その後、東京に拠点を移し、日本緬羊社長、日本衛生肥料取締役、日本炭礦社長、日東炭坑取締役、光行電線取締役、南部製鉄取締役、三重セメント取締役、富士鉱業監査役、満鮮塩業監査役などを務めた。
野上 嘉平(のがみ かへい、1863年9月4日〈文久3年7月… 野上 嘉平(のがみ かへい、1863年9月4日〈文久3年7月22日〉 - 1913年〈大正2年〉10月3日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員(憲政本党)。勲等は勲四等。 淡路国三原郡賀集村(現・南あわじ市)に生まれる。東京法学校(現・法政大学)で学んだ後、賀集村会議員、三原郡町村組合会議員などを務める。1892年(明治25年)2月、兵庫県会議員に三原郡選出で当選した。その後、再選した。1894年(明治27年)5月25日に賀集村長に就任した。1896年(明治29年)10月1日、府県制施行に伴い、県議を失職した。同月20日に村長を退任した。また、同年当選期の三原郡会議員に補欠当選して、1899年(明治32年)まで務めている。
高安 右人(たかやす みきと、万延元年7月19日(1860年… 高安 右人(たかやす みきと、万延元年7月19日(1860年9月4日) - 昭和13年(1938年)11月20日)は、日本の医学者で高安動脈炎(高安病)の発見者。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
関 直彦(せき なおひこ、1857年9月4日〈安政4年7月1… 関 直彦(せき なおひこ、1857年9月4日〈安政4年7月16日〉- 1934年〈昭和9年〉4月21日)は、日本のジャーナリスト、政治家、弁護士。東京日日新聞社長、衆議院議員、貴族院議員。 江戸で紀州藩士関平兵衛の次男として生まれる。築地の立教学校(立教大学の前身の一つ)で学ぶ。 1883年(明治16年)、東京大学法学部法律科を卒業後、東京日日新聞入社。東京専門学校・英吉利法律学校の各講師、東京日日新聞記者、日報社社長などを務め、後に弁護士となり東京弁護士会長も務めた。さらに、東京日日新聞・大阪日日新聞・帝国石油の各社長などを歴任。 政界にも進出し、麹町区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員を歴任。
佐藤 範雄(さとう のりお、1856年9月4日(安政3年8月… 佐藤 範雄(さとう のりお、1856年9月4日(安政3年8月6日) - 1942年(昭和17年)6月20日)は、現在の広島県福山市出身の宗教家・教育者。 金光教祖の教えを教祖没後も世に遺すべく、教祖の教えの記録保存や、信者の結収を行い、金光教の教団組織化を推進した。現在の金光学園中学校・高等学校と金光教学院の創立者・初代校長。金光教の三直信の一人で、金光教内では佐藤宿老(さとう しゅくろう)と呼ばれる。 安政3年(1856年)8月6日(戸籍上は2月8日)、備後国安那郡神御領村(現在の広島県福山市神辺町上御領)佐藤吉五郎満貴の三男に生まれる。明治4年(1871年)、16歳の時大工職を目指し弟子入りした。
古市 公威(ふるいち こうい、嘉永7年閏7月12日〈1854… 古市 公威(ふるいち こうい、嘉永7年閏7月12日〈1854年9月4日〉- 昭和9年〈1934年〉1月28日)は、日本の学者。工学博士。帝国大学工科大学初代学長。東京仏学校(法政大学の前身の一つ)初代校長。土木学会初代会長、日本工学会理事長(会長)、理化学研究所第2代所長。東京帝国大学名誉教授。男爵。 帝国大学工科大学長・土木学会長・工学会(日本工学会)理事長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を創った。 古市公威は、大和武士古市氏の末裔である姫路藩士古市孝の長男として旧暦嘉永7年(1854年)に江戸の藩屋敷で生まれた。明治2年(1869年)に旧幕府の開成所を復興し開校した開成学校に入学、明治3年(1870年)には姫路藩の貢進生として大学南校(旧開成学校)へ進学した。
河喜多 能達(かわきた みちただ、嘉永6年8月2日(1853… 河喜多 能達(かわきた みちただ、嘉永6年8月2日(1853年9月4日) - 大正14年(1925年)4月3日)は、日本の応用化学者。 熊本藩出身。1881年(明治14年)、工部大学校を卒業し、工部大学校助教授、東京帝国大学工科大学助教授を務めた。1895年(明治28年)、応用化学研究のためドイツ・イギリスに留学。1897年(明治30年)、帰国し東京帝国大学工科大学教授に任命された。1899年(明治32年)、工学博士の学位を得た。1921年(大正10年)に退官し、翌年に名誉教授の称号を受けた。墓所は多磨霊園。
長谷川 敬助(はせがわ けいすけ、1850年9月4日(嘉永3… 長谷川 敬助(はせがわ けいすけ、1850年9月4日(嘉永3年7月28日) - 1922年(大正11年)7月16日)は、明治から大正時代の政治家。官吏。銀行家。自由民権運動家。埼玉県会議長。 長谷川六左衛門の長男として、武蔵国埼玉郡北河原村(埼玉県北埼玉郡北河原村を経て現行田市)に生まれる。1883年(明治16年)5月、家督を相続する。生家は世襲名主。寺門静軒に学ぶ。詩書を能くし、敬堂または雨林を号した。 明治維新後、副戸長、学区取締、第十五区長などを歴任した。1875年(明治8年)民権結社「七名社」の結成に参画し、出納幹事などを務めた。1879年(明治12年)白根多助県令に見い出され入間・高麗郡長に就任した。
ウィリアムス 浩子(うぃりあむす ひろこ、Hiroko Wi… ウィリアムス 浩子(うぃりあむす ひろこ、Hiroko Williams、本名同じ 9月4日 - )は日本のジャズボーカリスト。ジャズレーベル・バークリースクエアミュージック株式会社代表。
花愛 望都(かあい もと、9月4日生まれ- )は、宝塚歌劇団… 花愛 望都(かあい もと、9月4日生まれ- )は、宝塚歌劇団卒業生(元星組娘役)で現在歌唱指導講師。
凰稀 かなめ(おうき かなめ、9月4日 - )は、日本の女優… 凰稀 かなめ(おうき かなめ、9月4日 - )は、日本の女優。元宝塚歌劇団宙組トップスター。 神奈川県川崎市、私立順心女子学園中学校出身。身長173 cm。愛称は「かなめ」、「りか」、「てる」。 1998年、宝塚音楽学校入学。 2000年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に86期生として入団。入団時の成績は20番。花組公演「源氏物語 あさきゆめみし/ザ・ビューティーズ!」で初舞台。組まわりを経て雪組に配属。 初舞台の新人公演で早くも役が付くなど、抜群のスタイルと甘いマスクで注目を集め、2005年の「霧のミラノ」で新人公演初主演。 2006年のバウ・ワークショップ「Young Bloods!!」でバウホール公演初主演。