谷口 恒二(たにぐち つねじ、1894年(明治27年)6月1… 谷口 恒二(たにぐち つねじ、1894年(明治27年)6月18日 - 1945年(昭和20年)5月26日)は、日本の大蔵官僚。大蔵次官、日本銀行副総裁。
6月18日生まれ:284人
谷口 恒二(たにぐち つねじ、1894年(明治27年)6月1… 谷口 恒二(たにぐち つねじ、1894年(明治27年)6月18日 - 1945年(昭和20年)5月26日)は、日本の大蔵官僚。大蔵次官、日本銀行副総裁。
赤柴 八重蔵(あかしば やえぞう、1892年(明治25年)6… 赤柴 八重蔵(あかしば やえぞう、1892年(明治25年)6月18日 - 1977年(昭和52年)1月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・寺田。 本籍新潟県。寺田弥蔵の二男として生まれ、赤柴幾太郎陸軍大佐の養子となる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官、歩兵第40連隊付となる。朝鮮臨時派遣歩兵第2大隊付などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業。 歩兵第80連隊中隊長、陸士教官、第1師団参謀、陸軍省人事局付、人事局課員、欧州出張などを経て、1936年(昭和11年)8月、陸軍大佐に昇進し陸士付となる。
野田 俊彦(のだ としひこ、1891年(明治24年)6月18… 野田 俊彦(のだ としひこ、1891年(明治24年)6月18日 - 1929年(昭和4年)12月26日)は、日本の建築家で、大正期から昭和初期に建築技師として活動。陸軍省、内務省、警視庁、同潤会と、おもに官公庁系の職場に奉職した。 近代日本建築史上では、建築の実作より「建築非芸術論」など多くの論考を著した論客としての側面で知られる。 横浜市生まれ。画家で日本美術院会員の野田九浦は親戚に当たる。 横浜中学校、第一高等学校を経て、1911年、東京帝国大学工学部建築学科に入学し、1915年(大正4年)卒業。卒業論文「鉄筋混凝土と建築様式」の一部をもとにした論文「建築非芸術論」が内田祥三(当時助教授)の推薦で1915年10月に『建築雑誌』誌346号に掲載される。
江川 為信(えがわ ためのぶ、1890年6月18日 - 19… 江川 為信(えがわ ためのぶ、1890年6月18日 - 1969年10月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、石川県議会議員(5期)、石川県農業会長。 1890年、石川県石川郡額村に生まれる。野々市小学校を卒業。1927年県議選に当選し、1944年に辞職するまでつとめる。その間、石川県名誉職参事会員に5回も選出され、政友会石川支部の幹事長にもなった。また、多年に渡って農政に尽くし、1935年に石川郡農会長に、1943年から1947年までは石川県農業会長も歴任した。
野坂 康久(のざか やすひさ、明治22年(1889年)6月1… 野坂 康久(のざか やすひさ、明治22年(1889年)6月18日 - 没)は、日本の実業家、政治家。旧姓稲田。洋食のレストラン“十字屋”経営主。元米子市会議員(議長)。 外交官、米子市長だった野坂康夫の祖父。弁護士・公証人雑賀愛造の実兄。戦後米子市長を務めた野坂寛治は姻戚関係にある。 鳥取県米子市出身。酒造業稲田家に生まれた。養父は野坂吉五郎。 米子中学校(現米子東高校)から大阪高等工業学校醸造科に進み、同校を明治45年(1912年)3月卒業。初めの10年程は家業に従事したが、海陸運送業、楽器販売、飲食業と、転々仕事を新たにして終戦時に及んだ。 その間昭和8年(1933年)米子商工会議所議員、昭和10年(1935年)米子市会議員に当選。
佐藤 垢石(さとう こうせき、1888年〈明治21年〉6月1… 佐藤 垢石(さとう こうせき、1888年〈明治21年〉6月18日 - 1956年〈昭和31年〉7月4日)は、日本の新聞記者、エッセイスト、釣り師。本名は佐藤 亀吉(さとう かめきち)。号の「垢石」は、アユが好むとされる水垢のついた石に由来する。 1888年(明治21年)、群馬県群馬郡東村大字上新田村(現・前橋市上新田町)に生まれる。佐藤栄三郎・ハツの三男として出生するが、同村の佐藤孝次郎・ケイの養嗣子となる。 桃井尋常高等小学校卒業後、前橋中学(現・群馬県立前橋高等学校)に進学。4年生の時に校長排斥のストライキ(同盟休校)を行い退学処分となり、上京して郁文館中学で学んだ。その後早稲田大学英文科に進学するも中退。
増井 幸雄(ますい ゆきお、1888年6月18日 - 194… 増井 幸雄(ますい ゆきお、1888年6月18日 - 1944年3月18日)は、日本の経済学者。 静岡県浜名郡生まれ。1912年慶應義塾大学部理財科卒、同助手、1913年慶大予科教授、1917年から1920年まで欧米に留学、慶大経済学部教授、1938年学部長。1944年、肺壊疽のため56歳で死去。交通経済学を開拓した。息子の増井健一も慶大教授、経済学者。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
安場 保健(やすば やすたけ、1888年(明治21年)6月1… 安場 保健(やすば やすたけ、1888年(明治21年)6月18日 - 1944年(昭和19年)2月3日)は、大正から昭和期の実業家、電気技術者、政治家、華族。貴族院男爵議員。 実業家・安場末喜の長男として生まれた。父の死去に伴い、1930年(昭和5年)4月15日、男爵を襲爵した。 1913年(大正2年)7月、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。同年、芝浦製作所に入社。その後、東洋電気製作所取締役、東京金鋼技術顧問、東京港運社長、芝浦運輸社長、東亜印刷監査役などを務めた。 1934年(昭和9年)2月15日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して死去するまで2期在任した。その他、逓信省委員、運輸通信省委員などを務めた。
岩崎 輝弥(岩崎 輝彌、いわさき てるや、1887年(明治2… 岩崎 輝弥(岩崎 輝彌、いわさき てるや、1887年(明治20年)6月18日 - 1956年(昭和31年)9月17日)は、日本の実業家。日本における鉄道趣味の先駆者である。 岩崎弥之助・早苗夫妻の三男として東京府(現・東京都)に生まれる。 1899年(明治32年)に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1905年(明治38年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。東京帝国大学農科大学実科(現・東京農工大学農学部)を卒業。 三菱の創業者一族・岩崎家に生まれたこともあって大学卒業後は実業界に進んだ。 輝弥は実業家としては酪農業に従事しており、立川養豚場や吉屋信子の代表作『安宅家の人々』のモデルとなったことで知られる子安農園を経営したことで知られている。
古河 和一郎(ふるかわ わいちろう、1887年〈明治20年〉… 古河 和一郎(ふるかわ わいちろう、1887年〈明治20年〉6月18日 - 1945年〈昭和20年〉7月9日)は、日本の計理士、政治家。衆議院議員(兵庫県第四区選出、当選2回)。 1887年、兵庫県生まれ。古河弥太郎の長男。1902年、家督を相続する。関西大学専門部法律科で学び、中退した。 税務署に務めた後、一ノ宮商業銀行大阪支店長に就任する。同銀行退職後は、大阪北浜で株仲買店を経営する。1927年、計理士を開業し、計理士会理事、大阪市、大阪府各計理士会長を務める。その他、日本連管工業社理事長を務めた。 1928年の第16回衆議院議員総選挙から1932年の第18回総選挙まで兵庫県第4区から立候補し続けたが落選続きで、1936年の第19回総選挙で立憲政友会公認で立候補して初当選した。
原口 鶴子(はらぐち つるこ、旧姓:新井、1886年〈明治1… 原口 鶴子(はらぐち つるこ、旧姓:新井、1886年〈明治19年〉6月18日 - 1915年〈大正4年〉9月26日)は、大正時代に活躍した日本の心理学者。Ph. D. を取得した最初の日本人女性である。医学博士(M.D.)取得日本人女性は以前に岡見京子がいたが、Ph.D.は全分野を含めても初であった。 1886年、群馬県北甘楽郡一ノ宮町(現・富岡市)に、新井広三郎・たねの次女として生まれる。戸籍上の名は新井つる。新井家は「朝日屋」と号する豪農であった。父・広三郎は地元の自由民権運動家で代議士・清水永三郎とも往来があった。つるは地元の抜鉾尋常小学校、一ノ宮尋常高等小学校に学んだ。1902年に二年飛び級して群馬県立高等女学校(現・群馬県立高崎高等女子高等学校)を卒業。
小林 澄兄(こばやし すみえ、1886年(明治19年)6月1… 小林 澄兄(こばやし すみえ、1886年(明治19年)6月18日 - 1971年(昭和46年)7月14日)は、日本の教育学者。慶応義塾大学名誉教授。長野県上伊那郡東箕輪村(現・箕輪町)出身。小林頼次の三男。号は乳木生(にゅうもくせい)。 中学から東京に出て、早稲田中学に1年在学してから、慶應義塾普通部2年に転入学。1910年(明治43年)慶応義塾大学部文学科卒。学生時代は、文学を志し、同人雑誌の編集や創作活動に加わった。高山樗牛と大町桂月に心酔した。その後、教育学に関心を持つようになり、教育学を川合貞一と稲垣末松に、教育史及び教育学史を石田新太郎から学ぶ。 1910年、『慶応義塾学報』(後の『三田評論』)の編集事務担当となり、翌年、慶應義塾普通部教員となる。
山本 孝治(やまもと こうじ、1885年(明治18年)6月1… 山本 孝治(やまもと こうじ、1885年(明治18年)6月18日 ‐ 1934年(昭和9年)7月27日)は日本の検察官(海軍法務官)、海軍軍属。五・一五事件を検察官として担当した。 新潟県三島郡来迎寺村(現・長岡市)に生まれる[要出典]。新潟県立長岡中学校から旧制第三高等学校に進学した。長岡中学校では山本五十六の1学年下だったという。1911年に東京帝国大学法科大学を卒業した。 1912年4月に新潟県属として出仕の後、1915年10月に高等文官試験に合格した。1917年3月に海軍省主理試補・舞鶴鎮守府軍法会議付となる。1932年2月、東京軍法会議検察官となり、五・一五事件を担当する。 五・一五事件においては、当時、政府の汚職から犯行に至った海軍将校に対する寛大な措置をもとめる世論が起こっていた。
堀内 伝重(ほりうち でんじゅう、1880年6月18日 - … 堀内 伝重(ほりうち でんじゅう、1880年6月18日 - 1917年6月18日)は、山梨県出身の南米移民者である。「南米太郎」というあだ名でも呼ばれた。実兄は富士身延鉄道、富士山麓電気鉄道(現:富士急行グループ)の創業者で、衆議院議員も務めた堀内良平である。南アメリカでの生活について書き留めたものをまとめた遺稿集『聖母河畔の十六年』は、童話作家の坪田譲治の作品『ペルーの話』『ベニー河のほとり』の着想のもとになった。 1880年(明治13年)6月18日、山梨県東八代郡、のちの黒駒村(現:笛吹市)に、堀内藤右衛門の四男(末弟)として生まれる。幼くして、母が亡くなり、母方の祖母の手で養育される。1892年(明治25年)、高等小学校卒業後に兄達と共に上京して、日本中学校(現:日本学園中学校・高等学校)へ進学した。
藤見嶽 虎之助(ふじみだけ とらのすけ、1878年6月18日… 藤見嶽 虎之助(ふじみだけ とらのすけ、1878年6月18日 - 1923年7月15日)は、現在の福島県二本松市出身で藤島部屋、尾車部屋に所属した元大相撲力士。本名は神田 久助。7代藤島。165cm、71kg。最高位は西前頭3枚目。 魚店に奉公するも相撲好きで年寄藤島甚助に勧誘され、1895年入門。1895年5月序ノ口、藤島部屋は稽古場がなく、出稽古として尾車部屋に通い当時幕下だったのちの大関・荒岩の指導を受け、1901年1月十両昇進。1904年1月入幕を果たす。1901年5月、1904年1月に太刀山峯右エ門と、1905年5月に大砲万右エ門と引き分けている。藤見嶽の取り口を大関朝汐は「力士の中でも藤見嶽くらい相撲上手な者はいない。
島田 俊雄(しまだ としお、1877年〈明治10年〉6月18… 島田 俊雄(しまだ としお、1877年〈明治10年〉6月18日 - 1947年〈昭和22年〉12月21日)は、日本の政治家。 政界入りする前は地方自治の現場にいて地方自治の研究をした数少ない人物であり、政界に入ってからは衆議院議員選挙に9回当選し、農林大臣・衆議院議長等を務めた。雄弁家としても知られた。 島根県江津市出身。旧制山口高等学校卒業。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、雑誌『明美王道』及び『実業時論』両誌の編集者となる。1903年(明治36年)、東京市吏員に転じ、教育課長・勧業課長を歴任。1905年(明治38年)、中国雲南省法制学堂講師となる。1907年(明治40年)、帰国。
烏賀陽 然良(うがや しかよし、1876年(明治9年)6月1… 烏賀陽 然良(うがや しかよし、1876年(明治9年)6月18日 - 1946年(昭和21年)3月11日)は、日本の法学者。 専門は民法および商法(特に海商法)。学位は法学博士。京都帝国大学名誉教授。第16代京都帝国大学法学部長。族籍は京都府平民。正三位勲二等受賞者。雅号は旭山人又は都水。 京都府京都市出身(本籍地は京都府京都市上京区)。烏賀陽然冏(または恒正)の長男として生まれる。 1884年(明治17年)家督を相続する。京都市立小川小学校、1899年(明治32年)第四高等学校(旧制)卒業を経て、1903年(明治36年)京都帝国大学法科大学法律科を卒業。 1904年(明治37年)に神戸高等商業学校講師となり、1906年(明治39年)から1920年(大正9年)まで同教授を務める。
末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 … 末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 - 1947年6月26日)は、日本の内務官僚、政治家、教育者。官選県知事、衆議院議員、別府市長。 小倉藩医・末松玄洞の三男として生まれる。1898年、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1901年11月、文官高等試験に合格。内務属となり内務省地方局勤務となる。 1903年12月、静岡県参事官に就任し、同県事務官・第二部長、福岡県事務官・第三部長、同第二部長、内務書記官、清国政府聘用(自治局顧問)、山梨県事務官・警察部長、法制局参事官などを歴任。 1915年3月、徳島県知事に就任。
嘉山 幹一(かやま かんいち、1872年6月18日(明治5年… 嘉山 幹一(かやま かんいち、1872年6月18日(明治5年5月13日) - 1940年(昭和15年)5月7日)は、明治から昭和時代前期の司法官。大審院判事。 嘉山昆篤の長男としてのちの静岡県に生まれ、1904年(明治37年)5月、家督を相続する。1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学を卒業し、1897年(明治30年)5月、高崎区裁判所判事に任じる。ついで高崎地方裁判所、東京区裁判所、同地方裁判所各判事、同裁判所部長、同控訴院判事を経て、1912年(明治45年)2月、大審院判事に進んだ。1913年(大正2年)2月、会計検査官懲戒裁判所予備裁判官を兼任した。のち大審院部長や万国海法会委員を務めた。
矢野 仁一(やの じんいち、明治5年5月13日〈1872年6… 矢野 仁一(やの じんいち、明治5年5月13日〈1872年6月18日〉 - 1970年〈昭和45年〉1月2日)は、日本の東洋史研究者。京都帝国大学名誉教授。 1872年、現在の山形県米沢市生まれ。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科史学科で学ぶ。1899年に同大学を卒業。 卒業後は東京帝国大学文科助教授となり、1905年に清朝の招聘により北京の法政学堂(進士館教習)に勤務。1912年、京都帝国大学助教授、1920年より教授。1932年に定年退官し、名誉教授となる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
沢田 撫松(さわだ ぶしょう、本名:沢田 忠次郎〈さわだ ち… 沢田 撫松(さわだ ぶしょう、本名:沢田 忠次郎〈さわだ ちゅうじろう/さわだ ただじろう〉、1871年6月18日〈明治4年5月1日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月13日)は、明治から昭和にかけての小説家、新聞記者。 1871年6月18日(明治4年5月1日)、京都府に生まれた。二六新報、國民新聞、読売新聞などで約20年間、新聞記者を務めた。その中でも特に、司法記者として中央公論、婦人倶楽部、新小説などに犯罪事実をもとにした物語を執筆した。 1920年(大正9年)に『女の心・男の心』、1925年(大正14年)に『春宵島原巷譚』、1926年(大正15年)には『秋雨の宿』などの短編小説を執筆した。同年7月、週刊朝日にて『足にさはつた女』を執筆した。
奥村 鋭作(おくむら えいさく、1870年6月18日〈明治3… 奥村 鋭作(おくむら えいさく、1870年6月18日〈明治3年5月20日〉 - 1945年〈昭和20年〉11月12日)は、明治・大正期の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。奥村鋭作の外国駐在先については、一般向けの出版物(『人事興信録』や軍人についての辞典)に何も書かれていなかったり、「ドイツ」だけになっていたり、「ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国」(「独墺両国」)になっていたりする。 三重県河芸郡玉垣村(現:鈴鹿市)出身。父は要蔵(伊勢亀山藩士)で、母は(柘植)たき。1888年(9月4日、士官候補生(歩兵2等軍曹)として歩兵第9連隊(滋賀県大津)に入隊。1889年(明治22年)11月1日、陸軍士官学校(校長:寺内正毅)に入学。
佃 安之丞(つくだ やすのじょう、慶応3年5月16日(186… 佃 安之丞(つくだ やすのじょう、慶応3年5月16日(1867年6月18日) - 大正10年(1921年)10月22日)は、日本の衆議院議員(新政会)、医師。 伊勢国飯野郡機殿村(現在の三重県松阪市)出身。東京帝国大学医科大学別科を卒業。飯南郡医、三重県臨時検疫部検疫官、三重県警察医を務め、飯南郡医師会長、三重県医師会長、大日本医師会理事を歴任した。また飯南郡会議員、同議長、三重県会議員、同副議長、同議長に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
中村 俊清(なかむら としきよ、1866年6月18日(慶応2… 中村 俊清(なかむら としきよ、1866年6月18日(慶応2年5月6日) - 没年不詳)は、日本の政治家。初代室蘭市長。 近江国滋賀郡堅田(のち滋賀県滋賀郡堅田村→堅田町、現・大津市)出身。山梨県警部から北海道庁に転じ、室蘭、釧路の各警察署長となる。その後、警視となるが、1906年に官職を辞任。室蘭に移る。1910年室蘭支庁選出の道会議員となる。1915年室蘭町長に当選。1918年区制施行により、室蘭区長となる。1922年市制施行により、市長臨時代理者を経て、初代室蘭市長となる。市長は1929年まで務め、病気のため退任した。 市長在職中はワシントン海軍軍縮条約により、造船の発注の減少や製鋼所の事業縮小、製鉄所の減産など市況の低迷により、失業者が続出した。
森 茂生(もり しげお、1865年6月18日(慶応元年5月2… 森 茂生(もり しげお、1865年6月18日(慶応元年5月25日)- 1929年(昭和4年)8月22日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、三重県桑名郡桑名町長。幼名・栄次郎。 伊勢国桑名郡矢田村(三重県桑名郡益生村大字矢田、桑名町を経て現桑名市矢田)で、森純次郎の二男として生まれる。慶應義塾で学んだ。1889年(明治22年)6月に家督を相続した。 政界では、益生村会議員、町村組合会議員、桑名郡会議員、同参事会員、同議長、三重県会議員(1890年-1902年)、同参事会員、同副議長、桑名町長などを務めた。1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(三重県郡部、中正倶楽部)で初当選。
尾見 浜五郎(おみ はまごろう、1865年6月18日(慶応元… 尾見 浜五郎(おみ はまごろう、1865年6月18日(慶応元年5月25日)- 1932年(昭和7年)1月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 常陸国真壁郡吉間村(茨城県真壁郡村田村、明野町を経て現筑西市)出身。尾見家は代々吉間外15郷の割元名主を務め、農業を営む。村田村会議員、同村長、真壁郡会議員、同郡農会長となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から無所属で立候補して当選した。1908年(明治41年)第10回総選挙と1912年(明治45年)第11回総選挙は不出馬。1915年(大正4年)第12回総選挙では立憲政友会公認で立候補したが落選。1917年(大正6年)第13回総選挙で再選。
堀越 善重郎(ほりこし ぜんじゅうろう、1863年6月18日… 堀越 善重郎(ほりこし ぜんじゅうろう、1863年6月18日(文久3年5月3日) - 1936年(昭和11年)4月24日)は、貿易商。堀越商会主。 下野国足利郡三重村五十部東山の農家に生まれる。1868年、瑞泉院の寺子屋に入り神童と評される。1878年五十部学校入学。 木村半兵衛の目に留まり、東京遊学給費生となり、共立学校(現開成高等学校)を経て、1883年商法講習所(現一橋大学)卒業。 霊巌寺の人相占いの助言を受けアメリカ合衆国へ渡ることを決意し、木村が蒐集した骨董品を売却して捻出した資金を貰い、1884年、横浜港から出帆し、同窓の友人の世話で力士の下で下宿生活を送ったのち、母校矢野二郎校長の紹介状を伝手に相談した高橋新吉在ニューヨーク領事の紹介で、フレッチャーの二番商会に入社した。
寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年… 寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年5月9日)- 1917年(大正6年)11月17日)は、明治期の教育者・政治家(立憲政友会所属)。勲四等。 弘前藩士の子。藩校「稽古館」で国学漢学を修めたのち、藩命により箱館でロシア正教会伝道者ニコライよりロシア語を学び、1869年(明治2年)には慶應義塾で政治学・法律学を修める。南部盛岡藩征討、箱館の乱、賊徒追討で軍功を挙げ藩主より金百を賜る。 その後、教育者として弘前英漢学校英学係、一等教授兼幹事、小学校教員、同校長を務める。また。政治家として土手町会議員、同学区会議員、郡町村連合会議員、同副議長、青森県会議員、同副議長、議長などを歴任。
上田 忠一郎(うえだ ちゅういちろう、1848年6月18日〈… 上田 忠一郎(うえだ ちゅういちろう、1848年6月18日〈嘉永元年5月18日〉 - 1914年〈大正3年〉7月12日)は、明治時代の神奈川県の政治家。自由民権運動家として活動し、神奈川県会議員、溝口村会議員を務めた。武蔵国橘樹郡溝口村(現在の神奈川県川崎市高津区溝口)出身。 1848年6月18日(嘉永元年5月18日)、武蔵国橘樹郡溝口村(現在の神奈川県川崎市高津区溝口)の醤油醸造業・稲毛屋の6代目安左衛門の次男として生まれる。文化3年(1806年)に醤油の醸造を始めた稲毛屋は、文政年間には醸造場を拡大し、天保年間には500石から800石に、文久年間には900石余りに生産高を増やした。生産した醤油は江戸にも出荷し、幕末期には店での販売量と出荷量が同水準にまでなった。
大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈18… 大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈1825年6月18日〉 - 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉)は、幕末期の日本の官僚・洋学者。維新の十傑の一人。旧姓は村田(むらた)、幼名は宗太郎、通称は蔵六(ぞうろく)、良庵(または亮庵)、のちに益次郎(ますじろう)。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。 戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官・長官の卿は皇族が就いたため、事実上の最高責任者)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。兵部省は陸軍省・海軍省の前身であり、教え子からは伊藤雋吉ら海軍の重鎮も輩出しており、近代日本軍全体に対する創業の功績も大きい。
山田 享司(やまだ きょうじ、6月18日 - )は、三重テレ… 山田 享司(やまだ きょうじ、6月18日 - )は、三重テレビ放送の取締役報道制作局長で、同局の元アナウンサー。 愛知県名古屋市出身。名古屋学院高等学校、日本大学卒業。 1979年4月1日付で三重テレビに入社し、同局のアナウンサーになる。 その後、ニュースデスク、報道制作部長を経て、2013年6月24日より現職[要出典]。2023年1月2日、三重テレビ社長の山口貢とともに『ビスケットブラザーズの行けばわかるさ!』に顔出し出演した。
平田 志穂子(ひらた しほこ、6月18日 -)は、日本の女性… 平田 志穂子(ひらた しほこ、6月18日 -)は、日本の女性シンガーソングライター。所属事務所はMIT Artists。神奈川県出身、血液型B型。 6歳から17歳までクラシックピアノに親しみ、16歳のときにイタリア歌曲を学ぶ。また12歳の頃にソウルミュージックに魅了される。 本格的に音楽活動を開始したのは大学時代。大学の聖歌隊に所属するかたわらバンド活動を始める。2002年からソウル・バード・ミュージック・スクールでゴスペルを学び、2003年からアン・ミュージック・スクールでボイストレーニングとボーカル実技を学ぶ。ボーカル実技では声楽家の山下美音子の指導を受ける。 同年、恵泉女学園大学の人文学部国際社会文化学科(現在の人間社会学部国際社会学科)を卒業。
鈴木 千尋(すずき ちひろ、6月18日 - )は、元山形テレ… 鈴木 千尋(すずき ちひろ、6月18日 - )は、元山形テレビのアナウンサー。 静岡県清水市(後の静岡市清水区)出身。鶴見大学文学部卒業。 1987年に山形テレビに入社し、同期の黒須英之とともに同局のアナウンサーになる。2000年代にニュース担当で出演していた『スーパーJチャンネルYTSゴジダス』では、一部コーナーのディレクターも兼務していた。 長年『提言の広場』の司会を務めていたが、2012年3月31日放送分をもって番組を卒業し、後輩アナウンサーの熊谷瞳に後を託すことを番組の公式ブログで公表した。そして同年、山形テレビ公式サイト内の「アナウンサー紹介」ページから鈴木のプロフィールが削除された。
長谷川 静香(はせがわ しずか、6月18日 - )は、日本放… 長谷川 静香(はせがわ しずか、6月18日 - )は、日本放送協会(NHK)の契約キャスター。 2010年4月からNHK水戸放送局の契約キャスターを務めていた。同局在籍中には、首都圏の総合テレビで放送される『こんにちは いっと6けん』や『ひるまえ ほっと』にも出演していた。 水戸局に5年間在籍した後、2015年4月からNHK宇都宮放送局に勤務。同局在籍中にも、引き続き『ひるまえ ほっと』に出演していた。 2017年3月に宇都宮局との契約を終了し、同年4月から2021年3月30日までNHK BS1『BSニュース』のキャスターを務めていた。それと並行して、2019年4月からは総合テレビ『ニュースウオッチ9』のニュースリーダーとナレーションも担当していた。