田辺 友太郎(たなべ ともたろう、1905年(明治40年)2… 田辺 友太郎(たなべ ともたろう、1905年(明治40年)2月17日 - 1970年(昭和45年)3月3日)は、日本の経営者、銀行家。北陸銀行頭取を務めた。 富山県出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。電力会社を興し、商工会議所会頭を務めた田辺貫一と、西田牧三の三女の和子の次男として生まれる。1935年7月、祖父甚三郎や父が務めた十二銀行取締役に就任し、1957年3月には北陸銀行頭取に就任。1946年5月から1957年3月までに東洋精機社長を務めた。妻は密田良太郎の次女の節子。 1970年3月3日、尿毒症のために死去。65歳没。墓所は富山の光厳寺にある。
瀬崎 三木三(せざき みきぞう、旧姓:渡辺 三木三、1905… 瀬崎 三木三(せざき みきぞう、旧姓:渡辺 三木三、1905年(明治38年)2月15日 - 1975年(昭和50年) )は日本の実業家である。日産化学総務部長を経て日本証券代行(現:三井住友信託銀行)取締役。岡山県井原市出身。 1905年(明治38年)岡山県後月郡県主村(現:井原市)の渡辺家に生れる。1919年(大正8年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に芥川賞作家の石川達三、日本教育テレビ(現:テレビ朝日)編成局次長になる金澤覚太郎、日本電気化学社長になる日野西義輝、倉敷紡績取締役になる翁孝文がいた。1924年(大正13年)卒業後、早稲田大学高等予科(商科)を経て、1926年(大正15年)早稲田大学商学部へ入学した。
浅野 清(あさの きよし、1905年2月15日 - 1991… 浅野 清(あさの きよし、1905年2月15日 - 1991年8月19日)は、愛知県名古屋市出身の建築学者・建築史家。工学博士(京都大学)。元奈良学芸大学・大阪市立大学・大阪工業大学・愛知工業大学教授。 古建築の復原研究の第一人者であり、建築遺跡発掘調査を伴う「建物復原調査法」の開発、「古代建築技法」の解明など、日本建築史学における偉大な業績を残した。また、社寺の建築や民家研究でも貢献した。 1926年名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)建築科を卒業。1934年法隆寺国宝保存工事事務所技手、後に所長となり、法隆寺建築物の復元、修理に尽力する。1952年工学博士(京都大学)。同年、奈良学芸大学助教授および奈良国立文化財研究所研究員を併任。
宮崎 章 (みやざき あきら、1905年2月15日 - 19… 宮崎 章 (みやざき あきら、1905年2月15日 - 1988年8月9日)は、昭和時代の日本の外交官。 愛知県出身。東京帝国大学法学部卒業。1929年外交官試験および高等試験行政科に合格、同年12月外務省入省。英国、米国、中国などの勤務を経て、1943年満州国大使館1等書記官兼新京総領事となる。占領期には終戦連絡名古屋事務局長、終戦連絡東海北陸事務局長を務める。1951年10月政務局情報部長を経て12月に新設の情報文化局長に就任。1952年7月より駐米大使館参事官、54年1月より中華民国(台湾)大使館特命全権公使を歴任後、57年3月国際協力局長に就任。同局が翌58年5月に国際連合局に改編されるに伴い同局長となる。
黄 斗淵(ファン・ドゥヨン、朝鮮語: 황두연/黃斗淵、190… 黄 斗淵(ファン・ドゥヨン、朝鮮語: 황두연/黃斗淵、1905年2月15日 - 1984年5月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、教育者、牧師、政治家。順天邑副邑長、制憲韓国国会議員を歴任した。 本貫は昌原黄氏。同じく1948年の初代総選挙に出馬した牧師・過渡立法議員の黄保翼は兄で、元国会議員・全羅南道知事の黄聖秀は甥である。キリスト教徒。日本名は黄原斗淵。 順天郡出身。全羅南道麗水郡南面金鰲島(朝鮮語版)出身の昌原黄氏の5兄弟の1人である。全州新興中学校を経て、日本大学専門部法科3年中退または卒業、日本聖経学校卒。中央神学校での研究を経て、高興永泉学校教員・校長、順天美信会病院・安力山病院庶務課長を務めた。
秋山 日出夫(あきやま ひでお、1905年(明治38年)2月… 秋山 日出夫(あきやま ひでお、1905年(明治38年)2月14日 - 1976年(昭和51年)3月20日)は、昭和時代の合唱指揮者。戸籍上の本名は秋山 秀雄(読み同じ)。 東京本所北割下水にて生まれる。東京府立工芸学校(現・東京都立工芸高等学校)精密機械科卒業。アマチュア合唱団運動に加わり、1925年(大正14年)男声合唱団東京リーダーターフェル・フェライン(現・男声合唱団東京リーダーターフェル1925)の設立に参加する。戦時中は軍隊や職場慰問で活動し、戦後は職場合唱団の指導に従事する。 主に官庁の合唱団を指導し、1948年(昭和23年)の第1回全日本合唱コンクール全国大会職場部門に運輸省合唱団を指揮して出場、優勝を果たす。
岡 良一(おか りょういち、1905年(明治38年)2月14… 岡 良一(おか りょういち、1905年(明治38年)2月14日 - 1994年(平成6年)5月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、金沢市長(第24-25代)。医学博士。 石川県金沢市出身。金沢市長として革新市政を貫いた人物である。 学生時代での文芸活動中に社会主義に出会い、1927年に労働農民党に入党。これが岡の革新市政の原点となる。1937年に社会大衆党に入党し、第2次世界大戦後は日本社会党を経る。 1975年には秋の叙勲で勲二等旭日重光章を受け、1987年には金沢市名誉市民として表彰を受けている。
桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000… 桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000年8月18日)は、日本の経営者、理学博士。協和醗酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。 京都府京都市出身。1931年に京都帝国大学理学部化学科を卒業し、協和化学研究所主任を経て、1949年7月に協和醗酵工業に入社し、常務にも就任。1956年に専務を経て、1962年8月に副社長に就任し、1969年8月には社長に昇格。1972年7月に取締役相談役に就任し、1978年3月に相談役に就任。 2000年8月18日気管支肺炎のために死去。95歳没。
檜原 敏郎(ひわら としろう、1905年(明治38年)2月1… 檜原 敏郎(ひわら としろう、1905年(明治38年)2月14日 - 1984年(昭和59年)1月10日)は、日本の経営者。近畿日本鉄道元副社長。近鉄百貨店元社長。三交不動産元取締役。伊勢志摩国立公園開発元監査役。関西経営者協会元副会長。位階は従四位。 兵庫県美嚢郡奥吉川村(現:三木市吉川町)出身。大阪府八尾市在籍。 1930年(昭和5年)京都帝国大学経済学部を卒業し、1932年(昭和7年)大阪電気軌道(現:近畿日本鉄道)に入社。1951年(昭和26年)取締役、同年12月常務に就任。1959年(昭和34年)6月専務を経て、1968年(昭和43年)5月副社長に就任した。 百貨店事業の担当になっていたため、1972年(昭和47年)4月に近畿日本鉄道から近鉄百貨店が分離・独立した際、社長に就任した。
小林 定義(こばやし さだよし、1905年(明治38年)2月… 小林 定義(こばやし さだよし、1905年(明治38年)2月14日 - 1997年(平成9年)5月23日)は、 日本のフィールドホッケー選手、ホッケー指導者。 明治大学を卒業した。 1932年、日本のフィールドホッケーチームのメンバーとして1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、銀メダルを獲得した。バックとして2試合に出場した。また、1964年東京オリンピック日本選手団ホッケー監督を務めた。 明治大学ホッケー部監督を務めるとともに、全国を巡って高等学校にホッケー部を設けて指導を行うなど、ホッケー界の振興に尽力した。 浅川増幸 | 猪原淳三 | 宇佐美敏夫 | 小西健一 | 小林定義 | 今治彦 | 酒井義雄 | 柴田勝見 | 左右田秋雄 | 永田寛 | 中村英一 | 浜田駿吉 | 三浦四郎 | 監督: 広瀬藤四郎 岩橋邦雄 | 岡部道夫 | 加奥成雄 | 木原征治 | 高島昭男 | 滝沢健治 | 武田守洋 | 田中博司 | 橋本征治 | 松本紀彦 | 三輪宏 | 山岡敏彦 | 山口順一 | 勇崎勝弘 | 勇崎恒也 | 吉村実 | 若林徹也 | 渡辺寛 | 監督: 小林定義 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。
米田 三星(よねだ さんせい、1905年2月12日 - 20… 米田 三星(よねだ さんせい、1905年2月12日 - 2000年1月23日)は日本の小説家、医師。本名は庄三郎。 1905年2月12日、奈良県吉野郡下市町生まれる。 1932年(昭和7年)、大阪帝国大学医学部卒業。1937年(昭和12年)、日華事変により応召、野戦病院付き軍医として華北、華中を転々し、翌年帰国。1945年(昭和20年)、奈良県立医学専門学校(現奈良県立医科大学)創設により、同校教授となり、1948年(昭和23年)、退職して診療所を開業する。 1931年(昭和6年)、投稿した『生きてゐる皮膚』が『新青年』に採用され、同年に他二編、翌年に一編を『新青年』に発表。他に『サンデー毎日』や『大阪時事新報』などにも作品を執筆していた。
田辺 茂一(たなべ もいち、本名の読みは「しげいち」、190… 田辺 茂一(たなべ もいち、本名の読みは「しげいち」、1905年2月12日 - 1981年12月11日)は、日本の出版事業家、文化人。紀伊國屋書店創業者。東京府(現:東京都新宿区)出身。 当時の東京市・新宿にて、紀州備長炭を商う「紀伊國屋」の跡取りとして生まれる。祖先は紀州和歌山の出身。 私立高千穂小学校在学中であった、1915年の大正天皇の即位大典の日、父に連れられて入った丸善で洋書に魅せられて、書店経営を志すに至る。卒業後、慶應義塾専門部予科に入学。同級に演出家の大江良太郎がいた。1926年3月、慶應義塾高等部(現・慶應義塾大学)を卒業。1927年1月、紀伊國屋書店(現・新宿3丁目の本店)を創業、当時の店舗は二階建てだった。
石岡 久夫(いしおか ひさお、1905年2月12日 - 20… 石岡 久夫(いしおか ひさお、1905年2月12日 - 2000年1月14日)は、日本の兵法研究者、文学博士、弓道家(弓道範士十段)、本多流師範。國學院大學教授、國學院大學弓道部元師範。号は榊舎弓人。 広島県生まれ。学生時代に今まで余り史学者が手掛けてこなかった分野を研究したいと模索していた時に、休職中だった海軍大佐の有馬成甫(のち海軍少将)と知り合い、兵法学について関心を持つ。1934年國學院大學国史学科を卒業すると、有馬の推挙で多くの兵法文献を所蔵する江田島の海軍兵学校教育参考館に嘱託研究員として就職する。海軍兵学校教育参考館には、伊予松山藩の野沢文庫、上泉流を主体とする鳥取池田藩の鷲見文庫など膨大な兵書文献を所蔵していた。
川上 和吉(かわかみ わきち 、1905年(明治38年)2月… 川上 和吉(かわかみ わきち 、1905年(明治38年)2月11日 - 1973年(昭和48年)12月19日)は、日本の内務・厚生官僚、国会職員。官選和歌山県知事。 大阪市東区備後町出身。大阪高等学校を卒業。1927年12月、高等試験行政科試験に合格。1928年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、千葉県属となる。 以後、北海道庁庶務課長、内務事務官、島根県経済部長、広島県経済部長、内務省土木局道路課長、厚生省医療局次長などを歴任。 1946年6月、和歌山県知事に就任。1947年2月、同県知事選挙に出馬のため知事を辞任。第一次選挙で一位となるが法定得票数に達せず、決選投票で小野真次と戦い落選した。
岩崎 徹太(いわさき てつた、1905年2月11日 - 19… 岩崎 徹太(いわさき てつた、1905年2月11日 - 1980年11月9日)は、日本の出版人。本名は岩崎乙巳(いわさき おとみ)。岩崎書店創業者。日本児童図書出版協会初代会長。第17回(昭和50年)日本児童文芸家協会児童文化功労者。早稲田大学専門部政治経済学科卒業。妻は岩崎美術社社長の岩崎治子、長男は精神医学者岩崎徹也、次男は建築家岩崎駿介、三男は岩崎書店を継いだ岩崎弘明。孫に作家岩崎夏海がいる。 1932年に古書店フタバ書房を開業して当時発禁となっていた白揚社、改造社、ナウカ社などの出版物を頒布し、1934年に慶応書房と改名してソ連文献の翻訳を中心とした出版もはじめた。1943年に治安維持法違反で検挙され8ヶ月の拘留を受け、慶応書房も廃業させられ、出版活動を再開しないことを条件に釈放された。
後藤 以紀(ごとう もちのり、1905年2月10日 - 19… 後藤 以紀(ごとう もちのり、1905年2月10日 - 1992年2月12日)は、日本の電子工学者。明治大学名誉教授。京都府生まれ。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
牧野 巽(まきの たつみ、1905年2月10日 - 1974… 牧野 巽(まきの たつみ、1905年2月10日 - 1974年11月3日)は、日本の社会学者、東京大学名誉教授。中国の家族を専門とした。 1905年、牧野謙次郎の長男として東京で生まれた。東京帝国大学文学部に入学し、社会学科で戸田貞三に師事した。同門の弟弟子には清水幾太郎がいた。牧野巽は清水幾太郎を弟と思い、清水幾太郎は牧野巽を兄と思い親しくしていた。1929年に卒業。 1929年4月、母校の東京帝国大学社会学研究室副手に就いた(〜1930年4月)。翌1930年、東方文化学院研究所所員になった。その後、東京高等師範学校教授。 1947年、『儀礼及び礼記に於ける家族と宗教』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。
朴 済煥(パク・チェファン、朝鮮語: 박제환/朴濟煥、190… 朴 済煥(パク・チェファン、朝鮮語: 박제환/朴濟煥、1905年2月10日または2月11日 - 1995年3月23日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の公務員、政治家。第2・5代韓国国会議員、第17代農林部長官を歴任した。 本貫は竹山朴氏(朝鮮語版)。号は芝峰/芝峯。カトリック教徒。実業家の朴範植は息子、第12・14代国会議員の朴珪植(朝鮮語版)は甥。 京畿道富川市駅谷洞出身。1917年に水下公立普通学校に2学年編入したが、1919年の三・一運動の時にデモを主導したという理由で退学させられ、同年徽文高等普通学校に編入。1923年、徽文高4年修了し、同志社大学予科に入学した。日本留学中に新幹会京都支部長を務め、1929年同志社大学法学部経済学科を卒業した。
中地 熊造(なかち くまぞう、1905年2月10日 - 19… 中地 熊造(なかち くまぞう、1905年2月10日 - 1982年11月7日)は、昭和時代の労働運動家。全日本労働総同盟(同盟)初代会長。全日本海員組合組合長。 島根県海士郡海士村(現隠岐郡海士町)生まれ。1918年布施小学校高等科中退。1920年大阪に出て町工場で働いた後、1921年万世丸水夫見習を皮切りに海員生活に入る。1928年社会民衆党に入党。1933年日本海員組合に加盟。1934年日本海員組合革正同盟に加わり、1935年新日本海員組合結成に参加、大阪支部長。1945年8月海員組合創立準備会の設立を経て、同年10月全日本海員組合結成に参加。1946年8月から9月の人員整理反対闘争で主流派(右派)と中央闘争委員会派(左派)が対立し、右派の一員として実力で左派を排除。
青山 正一(あおやま しょういち、1905年(明治38年)2… 青山 正一(あおやま しょういち、1905年(明治38年)2月9日 - 1972年(昭和47年)6月6日)は、昭和期の水産業関係者、実業家、政治家。参議院議員。 石川県出身。中央大学法学部を修了した。 農林省嘱託、京都水産業会長、京都漁業組合連合会長、京都商工会議所参与、全国漁村同盟委員長、財団法人水産研究会理事、京都水産 (株) 会長、大日本水産会理事、日本定置網漁業組合理事、日本旋網漁業協会副会長、日ソ漁業対策協議会副会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で全国区から無所属で立候補して初当選し、1953年(昭和28年)4月の第3回通常選挙で全国区から自由党公認で立候補して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
佐藤 信衛(さとう のぶえ、1905年2月8日 - 1989… 佐藤 信衛(さとう のぶえ、1905年2月8日 - 1989年5月20日)は、日本の哲学者、文芸評論家・同人作家。 茨城県生まれ。1928年東京帝国大学哲学科卒。1937年法政大学講師。三木清とともに『文學界』同人となる。 戦後1951年法政大学教授。1973年退任。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:哲学)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
波多野 完治(はたの かんじ、1905年2月7日 - 200… 波多野 完治(はたの かんじ、1905年2月7日 - 2001年5月23日)は、日本の心理学者。文学博士。ジャン・ピアジェの発達心理学を中心に学び、アンリ・ワロンなどを紹介、また文章心理学、創作心理学、視聴覚教育などに多数の著作がある。
小野 佐世男(おの させお、1905年2月6日 - 1954… 小野 佐世男(おの させお、1905年2月6日 - 1954年2月1日)は、日本の漫画家、画家、随筆家、小説家。神奈川県横浜市出身。漫画評論家の小野耕世は長男。 1905年(明治38年)2月6日、父・小野鉄吉、母・銀子の長男として横浜に生まれる。名前の佐世男は当時日本最西端の駅であった佐世保駅に由来する。なお鉄吉は和歌山の建設会社西本組の社員で、鉄道施設の仕事を請け負う建築家であった。1910年(明治43年)、鉄吉が西本組東京事務所所長となり、東京赤坂に移る。1912年(明治45年・大正元年)、檜町小学校(現港区立赤坂小学校)に入学。フランス映画『ジゴマ』に夢中になり、小学校2、3年生の頃には六本木にあった活動小屋に通うなど映画ファンとなる。
渋谷 健一(しぶや けんいち、1905年 <明治38年> 2… 渋谷 健一(しぶや けんいち、1905年 <明治38年> 2月6日 - 1997年 <平成9年> 1月10日)は、日本の経営者。十條製紙社長、会長を務めた。位階は正四位。三重県出身。 1925年に中央大学専門部経済学科を卒業し、同年に富士製紙に入社。 王子製紙を経て、1949年に十條製紙に転じ、1952年11月に取締役に就任し、1958年11月に常務、1964年5月に専務を経て、1968年3月に副社長に就任し、1969年5月には社長に昇格。1976年6月に会長に就任し、1982年6月に取締役相談役を経て、1984年6月に相談役に就任。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲二等旭日重光章を受章。
白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5… 白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5日 - 1983年(昭和58年)11月22日)は、日本の建築家。村野藤吾、吉田五十八、堀口捨巳、谷口吉郎らと並んで、昭和期の住宅において和風を手がけた代表的な建築家として知られる。他に役場や静岡市立芹沢銈介美術館といった公共施設、銀行の建物も手掛けた。 一方で、その独特な作風や言説から「哲学の建築家」「哲人建築家」「異端の作家」などと称されることもある。1950年代の「伝統論争」の論者としても知られる。 1905年2月5日に京都市の三条大宮で、白井七蔵・えんの長男として生まれる。本名は白井成一。兄弟には、7歳上の姉清子と、弟の隆吉がいる。
小泉 貞三(こいずみ ていぞう、1905年2月4日 - 19… 小泉 貞三(こいずみ ていぞう、1905年2月4日 - 1975年2月9日 )は、経済学者、経営学者、経済学博士。関西学院大学名誉教授・ 元関西学院大学商学部長。 交通経済学の研究において数多くの研究、業績を残し、その学問の発展に寄与された。滋賀県神崎郡生まれ。
中村 吉治(なかむら きちじ、1905年2月4日 - 198… 中村 吉治(なかむら きちじ、1905年2月4日 - 1986年12月10日)は、日本の歴史学者。東北大学名誉教授。社会史・農民史および村落共同体に関する著書多数。 長野県上伊那郡朝日村平出(現在の辰野町)に生まれる。朝日尋常高等小学校、長野県諏訪中学校を経て、旧制第三高等学校に進学し、中村直勝の講義を聞き、歴史学に興味を持つ。1925年3月に同校文科丙類を卒業。京都帝国大学入学後、1926年、東京帝国大学文学部国史学科に再入学し、卒業論文「近世初期の農政」をまとめ、1929年3月に同大学文学部卒業。 1929年、東京大学史料編纂所に入所し、1933年3月まで勤めたのち、東北帝国大学法文学部助教授。
大森 志郎(おおもり しろう、1905年2月4日 - 199… 大森 志郎(おおもり しろう、1905年2月4日 - 1992年9月9日)は、日本史・民俗学者。 福島県生まれ。1928年東北帝国大学史学科卒。同大学院、南満州鉄道撫順図書館長、建国大学教授。戦後、東京女子大学教授、1956年「魏志倭人伝の研究」で東北大学文学博士。創価大学教授。
生田 乃木次(いくた のぎじ、1905年(明治38年)2月3… 生田 乃木次(いくた のぎじ、1905年(明治38年)2月3日 - 2002年(平成14年)2月22日)は、日本海軍士官・戦闘機操縦士。福井県出身。日本軍のパイロットとして初めて敵機を撃墜した人物である。 1905年(明治38年)2月3日福井県に生まれた。「日露戦争で活躍した乃木将軍に続け」という意味で乃木次と命名された。1924年海軍兵学校52期卒業、1929年19期飛行学生修了。 1931年空母「加賀」に戦闘機隊分隊長として乗組み。1932年1月第一次上海事変勃発に伴い「加賀」は上海沖に出動、飛行隊は公大基地に進出した。2月22日、生田は三式艦上戦闘機の小隊3機を率い、艦攻隊3機とともに出撃、蘇州上空において、アメリカ人義勇兵のロバート・ショートの操縦するボーイング218と交戦し、撃墜した。
漆野 寿一(うるしの じゅいち、1905年2月3日 - 19… 漆野 寿一(うるしの じゅいち、1905年2月3日 - 1992年8月4日)は、茨城県出身の実業家。山下汽船(現:商船三井)常務、山栄船舶社長等を歴任した。 1905年2月3日、茨城県新治郡志士庫村宍倉に於いて漆野佐一郎と孝子の長男として生まれる。父佐一郎は1903年に東京帝国大学工学部を卒業後、大倉鉱業や入山採炭などの重役を務めた。母孝子は利根運河開鑿など地方産業開発に貢献した、茨城県北相馬郡高井村の広瀬誠一郎の次女。 1928年に弘前高校を卒業後、京都帝国大学経済学部に入学。在学中は剣道に打ち込んだ。1931年に同大学を卒業して山下汽船に入社。1935年、会社に命じられてアメリカ・カナダを視察。
佐谷 靖(さたに やすし、1905年(明治38年)2月2日 … 佐谷 靖(さたに やすし、1905年(明治38年)2月2日 - 1978年(昭和53年)8月29日)は、日本の医師。京都府舞鶴市長(6期)。 京都府舞鶴市出身。旧制京都府立第三中学校(現・京都府立福知山高等学校)を経て、1928年(昭和3年)京都府立医科大学卒。1930年(昭和5年)舞鶴で佐谷医院を開業。小学校の校医や舞鶴医師会評議員、京都府医師会代議員などを歴任する。1942年(昭和17年)舞鶴市会議員に当選。1945年(昭和20年)には軍医として召集された。 戦後すぐ、日本社会党舞鶴支部を結成し、支部長に就任する。京都府議会議員となり、舞鶴市の東西分離問題が起きたとき、府議会議員として分離反対運動をして、撤回させた。
新延 修三(にいのべ しゅうぞう、1905年2月2日 - 1… 新延 修三(にいのべ しゅうぞう、1905年2月2日 - 1985年5月10日)は、新聞記者、随筆家。 大阪生まれ。1928年慶應義塾大学卒。東京朝日新聞社入社、学芸部次長、社会部次長、1942年マカッサル支局長、43年ジャワ新聞出版部長。46年2月帰還。8月中京新聞社編集局長に出向。1950年朝日新聞社に戻る。『婦人朝日』『アサヒグラフ』編集長。60年定年退職。随筆雑誌『いさり火』主宰。
岩倉 具実(いわくら ともざね、1905年2月1日 - 19… 岩倉 具実(いわくら ともざね、1905年2月1日 - 1978年10月18日)は、日本の言語学者。同志社大学名誉教授。東京府出身。 公爵岩倉具張の次男として東京市麹町区裏霞ヶ関に生まれる。母方の祖父は西郷従道。1917年に学習院初等科を卒業して学習院中等科に進んだが、母から陸軍大将になることを望まれたため2年次の途中で退学し、1918年、陸軍中央幼年学校に入学。1921年、陸軍士官学校に入ったが肺炎カタルのため療養を命じられ、1922年に健康上の理由で陸軍士官学校を退学し、獨逸学協会学校中等部4年次に編入学。1924年に獨逸学協会学校中等部を卒業し、静岡高等学校理科乙類に入学。1925年、持病の脚気により静岡高校を退学し、1926年、成城高等学校入学。
中地 シゲヨ(なかち シゲヨ、1905年〈明治38年〉2月1… 中地 シゲヨ(なかち シゲヨ、1905年〈明治38年〉2月1日 - 2021年〈令和3年〉1月11日)は、日本の教育者、長寿の女性(スーパーセンテナリアン)。佐賀県佐賀市出身。存命中は田中カ子に次いで日本国内で2番目の長寿者であった。 1905年(明治38年)2月1日、佐賀県佐賀市西与賀町の米屋の5人兄弟の2番目の長女として生まれる。12歳で佐賀高等女学校に入学。女学校時代に大隈重信から講義を受けた経験を持つ。卒業後、17歳から小学校教員として30年間勤務し、戦後は資格を取得して62歳まで幼稚園教員として14年間働いた。 小学校教員の頃は厳しい指導がモットーで、勉強が苦手な児童を毎日放課後居残りで指導したが、頑張ったご褒美にあんパンを食べさせた。
舟山 正吉(ふなやま しょうきち、1905年2月1日 - 1… 舟山 正吉(ふなやま しょうきち、1905年2月1日 - 1996年9月20日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。 三重県出身。旧制開成中学、旧制第一高等学校を経て、1928年(昭和3年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業。大学在学中に高等試験行政科に合格。同年4月、大蔵省入省(預金部配属)。1932年(昭和7年)3月、高崎税務署長。1933年(昭和8年)6月、亀戸税務署長。1934年(昭和9年)11月、主税局(兼)高橋是清大蔵大臣秘書官事務取扱。その後は銀行局調査課長、銀行保険局普通銀行課長、銀行局長などを経て、1951年(昭和26年)より大蔵事務次官に就任した。大蔵事務次官時代の1952年(昭和27年)4月、衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。
神山 茂夫(かみやま しげお、1905年(明治38年)2月1… 神山 茂夫(かみやま しげお、1905年(明治38年)2月1日 - 1974年(昭和49年)7月8日)は、日本の左翼の革命運動家、共産主義者。衆議院議員(1期)。 山口県下関市伊崎町に生まれ、小学生のころ一家で台湾に転居し、1917年、台北城南小学校卒業。その後、父が夜警をしていた台湾銀行の給仕として働きながら夜間中学(私立(尾崎秀真経営)台北中学会)を終え、1919年、銀行員見習いとなる。 1921年、東京の成城中学3年生編入。「筋張っているのが気に食わぬ」と上級生杉浦に簿記棒で打擲されるも睨み返す。『赤旗』など社会主義文献を読み始め、学校自治会運動を通じ、革命運動に全生涯をかける決意をする。
新海 幸藏(しんかい こうぞう、1904年2月29日 - 1… 新海 幸藏(しんかい こうぞう、1904年2月29日 - 1976年2月17日)は、秋田県河辺郡新屋町 (現秋田市新屋)出身で出羽海部屋(入門時は入間川部屋)に所属した大相撲力士。本名は中野 幸藏(なかの こうぞう)。新海という四股名は「あらうみ」と読まれていたが、何故かいつの間にか「しんかい」と読まれるようになり、現在ではこちらのほうが通りがよい。最高位は東関脇。 日新小学校高等科を卒業後に、地元の高堂茶店に勤めた。最初、茶店に母に連れられて訪れた時に、体格を見た主人から幸蔵本人ではなく父と勘違いされた。1920年の暮れに単身で上京して、入間川部屋に入門した。1921年1月場所に初土俵を踏むが、その後に出羽海部屋へ移籍した。
浅野 進治郎(あさの しんじろう、1904年2月28日 - … 浅野 進治郎(あさの しんじろう、1904年2月28日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名同じ。旧芸名浅野 信二郎、浅野 進二郎、浅野 象二郎(あさの しょうじろう)ほか、表記の揺れがある。 東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川地区)に生まれる。 新劇を志し、開校された新国劇付属演劇研究所に第1期生として入所、澤田正二郎(1892年 - 1929年)らの指導を受け、1923年(大正12年)8月に同所を卒業している。同研究所の同期には草間実、根本淳、第2期生には金平軍之助らがいた。まもなく関東大震災を経験し、1924年(大正13年)には、水谷竹紫、初代水谷八重子らが同年に設立した第二次芸術座に参加する。
鈴木 隆夫(すずき たかお、1904年2月27日 - 198… 鈴木 隆夫(すずき たかお、1904年2月27日 - 1980年12月16日)は、日本の官僚、国会職員。法学博士。第二次世界大戦後、55年体制の成立期において衆議院事務総長を務めた。その退職後は、第2代国立国会図書館長となり、また、味の素株式会社の経営に携わった。 宮城県伊具郡角田町(角田市の前身)の医師の家に生まれる。宮城県立白石中学校、旧制弘前高等学校を経て、東北帝国大学法文学部卒業。在学中、高等文官試験司法科(1929年)・行政科(1930年:首席と伝えられる)に合格した。1931年、内務省に入省して警視庁に配属されたが、同年、守衛副長として衆議院事務局に転じ、守衛(後の衛視)の教育に当たる。
杉 捷夫(すぎ としお、1904年2月27日 - 1990年… 杉 捷夫(すぎ としお、1904年2月27日 - 1990年12月10日)は、日本のフランス文学者。東京大学名誉教授。 新潟県柏崎市出身。旧制柏崎中学・旧制三高を経て、1926年東京帝国大学仏文科卒業。高千穂高等商業学校(現高千穂大学)、立教大学、東北帝国大学で教えた後、1949年から東京大学教養学部教授、56年文学部教授。1964年に定年退官後は立教大学教授、1968年、東京都立日比谷図書館長となり、土岐善麿以来13年ぶりの文化人館長として話題になった。1976年日本学士院会員。 プロスペル・メリメやギ・ド・モーパッサンの翻訳で知られ、その多くが岩波文庫等に入って読み継がれた。研究者としては『フランス文芸批評史』などの著書がある。
一瀬 直行(いちのせ なおゆき、1904年2月27日-197… 一瀬 直行(いちのせ なおゆき、1904年2月27日-1978年11月14日)は、日本の詩人、小説家。 東京府東京市浅草区浅草吉野町一丁目(現在の東京都台東区今戸一丁目)生まれ。大正大学中退。在学中より詩作を発表。1938年「隣家の人々」で第7回芥川賞候補。
殿田 孝次(とのだ こうじ、1904年2月27日 - 194… 殿田 孝次(とのだ こうじ、1904年2月27日 - 1949年8月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 石川県金沢市出身。1927年早稲田大学法律科卒業。アメリカのセントローレンス大学に留学し、政治学を学んだ。その後、帝国通信社政治部記者となり、渡米。帰国後は読売新聞政治部記者として、国際外交評論家となる。その後、中国に渡り、日本大使館上海事務所、中国銀行、交通銀行、物資統制審議委員会上海事務所、全国経済委員会顧問室各嘱託となる。帰国後は広瀬豊作大蔵大臣秘書官(大蔵省嘱託)、国民政府行政院顧問、外務省嘱託などを歴任した。 1942年の翼賛選挙に郷里の石川1区から無所属(非推薦)で出馬し、落選。
新井 耕吉郎(あらい こうきちろう、1904年〈明治37年〉… 新井 耕吉郎(あらい こうきちろう、1904年〈明治37年〉2月26日 - 1946年〈昭和21年〉6月19日)は、日本の農業技師。群馬県利根郡東村園原(現在の沼田市利根町園原)出身(昭和42年に勲五等瑞宝章叙勲)。 日本統治下の台湾において紅茶の栽培に尽力したことで知られる。その紅茶各種の研究・普及活動で台湾紅茶産業の発展に大きく寄与したことから「台湾紅茶の父」または「台湾紅茶の祖」と呼ばれている。 1921年、旧制沼田中学校(現在の群馬県立沼田高等学校)を卒業後、1925年、北海道帝国大学農学部農学実科を卒業。一年志願兵(幹部候補生)として歩兵第59連隊(宇都宮)で軍隊生活を送る。満期除隊後の1926年に台湾に渡り台湾総督府中央研究所平鎮茶業試験支所に助手として赴任。
小渕 光平(小淵 光平、おぶち みつへい、1904年〈明治3… 小渕 光平(小淵 光平、おぶち みつへい、1904年〈明治37年〉2月26日 - 1958年〈昭和33年〉8月26日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。長男は群馬県中之条町長の二代目小渕光平、次男は第84代内閣総理大臣の小渕恵三。 1904年(明治37年)、群馬県吾妻郡伊参村(現・中之条町)に農業兼糸繭商を営む小渕新平・きち夫婦の長男として生まれる。父が病弱であったことから少年時代から家計を助けた。1921年(大正10年)中之条実業補習学校卒。 1923年(大正12年)に父が死去。1925年(大正14年)に東村に所在した碓氷社の工場を手に入れ、製糸工場の経営を始める。1928年(昭和3年)に中之条町伊勢町に工場を移転、光山社小渕製糸所を設立した。
和久田 鐵雄(わくだ てつお、1904年(明治37年)2月2… 和久田 鐵雄(わくだ てつお、1904年(明治37年)2月25日 - 1990年(平成2年)4月26日)は、日本の内務・警察官僚、簡易裁判所判事、弁護士。最後の官選大分県知事。 静岡県出身。和久田半蔵の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1928年(昭和3年)京都帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し、1929年(昭和4年)新潟県警部となる。 以後、警視庁課長、警察講習所教授、岩手県経済部長、企画院第四部第一課長、宮城県部長・経済部長、広島県内務部長などを歴任。 1947年(昭和22年)3月、前任の細田徳寿が知事選に出馬のため辞任したことに伴い大分県知事に発令された。
小杉 勇(こすぎ いさむ、本名・小杉 助治郎、1904年2月… 小杉 勇(こすぎ いさむ、本名・小杉 助治郎、1904年2月24日 - 1983年4月8日)は、日本の映画俳優、映画監督。作曲家の小杉太一郎は息子。息子の妻は漫談家の山野一郎の娘。 宮城県石巻市に生まれる。石巻商業学校を卒業後、上京し、「日本橋白木屋百貨店」に就職する。しかし、1923年、日本映画俳優学校設立と同時に入学する。同期に八木保太郎、吉村廉、島耕二などがいる。 1925年、日活京都撮影所に入社する。当時の日活は看板スターであった鈴木傳明や岡田時彦などが去り、新しいスターを必要としていた。また、左翼思想の台頭などもあり、たくましさも兼ね備えた小杉が新しい時代を象徴する存在として注目された。
井上 白文地(いのうえ はくぶんじ、1904年2月24日 -… 井上 白文地(いのうえ はくぶんじ、1904年2月24日 - 1946年5月行方不明)は、福井県出身の俳人。 出生名・岸本久七。敦賀生まれ。1906年、報恩寺住職の養子となり、井上隆證(りょうしょう)と改称。法華寺学林、第三高等学校を経て、1928年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。その後関西大学、立命館大学などで講師として教鞭を取る。 俳句は高校時代にはじめ、「京鹿子」「ホトトギス」「馬酔木」に投句。京大三高俳句会を復興し「京大俳句」を平畑静塔らと創刊。時事的な句や評論を執筆。当時の句に、反戦的と思われる「往く人の母は埋れぬ日の丸に」(1937年)、「我講義軍靴の音にたゝかれたり」(1937年)等がある。
瀬下 耽(せじも たん、1904年(明治37年)2月24日 … 瀬下 耽(せじも たん、1904年(明治37年)2月24日 - 1989年(平成元年)9月5日)は、日本の探偵小説家。代表作に「欺く灯」「柘榴病」など。別名義に秘名生。本名は綱良(つなよし)。 ペンネームは、オスカー・ワイルドの耽美主義的な小説に惹かれていたことによる。 現在の新潟県柏崎市出身。慶應義塾大学法学部卒。 1927年(昭和2年)、雑誌『新青年』の懸賞に応募した「綱」(ロープ)が第二席に入りデビュー。以後、同誌を中心に短編を多く発表する。この間、「四本足の男」のみは秘名生名義で発表した。 1933年(昭和8年)の「罌粟島の悲劇」を最後にいったん文筆活動から離れるが、太平洋戦争後の1947年(昭和22年)に「手紙」を発表し復帰する。
佐島 敬愛(さじま よしなり、1904年〈明治37年〉2月2… 佐島 敬愛(さじま よしなり、1904年〈明治37年〉2月23日 - 1990年〈平成2年〉7月20日)は、日本の実業家。日本の民族学の初期を第16代日本銀行総裁の渋沢敬三とともに資金的に支えた。また、大日本帝国陸軍と国策を動かす仕事をし、第二次世界大戦後は知的人脈や優れた語学センスで、歴史の裏舞台で日本済の発展に心血を注ぐなど、スケールの大きな行動力からアジア版アラビアのロレンスと呼ばれる。 太平洋戦争前は岩畔豪雄(陸軍中野学校設立者)に協力し、国策会社「昭和通商」運営に深く関わる。また第三高等学校 (旧制)に今西錦司とともに山岳部をつくり、加藤泰安の就職に関与するなど、のちに京都大学が探検大学と呼ばれるような基礎となる多くの探検には佐島の影響があった。
安孫子 藤吉(あびこ とうきち、1904年2月22日 - 1… 安孫子 藤吉(あびこ とうきち、1904年2月22日 - 1992年4月6日)は、日本の農林官僚、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。山形県知事(公選第3-7代)、自由民主党参議院議員を務めた。 山形県寒河江市出身。旧制鎌倉中学(現:鎌倉学園)、旧制山形高校を経て、1929年 東京帝国大学法学部法律学科卒業後、農林省に入省(畜産局嘱託)。米穀局外地・内地課長、大臣官房会計課長、食糧管理局次長等を歴任。 1949年に初代食糧庁長官に就任。長官在任時にコメの統制撤廃を打ち出した吉田内閣の方針に強く反対して退官した。 退官後の1955年、三選を目指した村山道雄知事が繰り上げ辞任で選挙にのぞむことに県政界が反発。