山本 悌二郎(やまもと ていじろう、1870年2月10日〈明… 山本 悌二郎(やまもと ていじろう、1870年2月10日〈明治3年1月10日〉- 1937年〈昭和12年〉12月14日)は、日本の政治家、実業家。農林大臣。外務大臣の有田八郎は弟。号は二峯。 佐渡国(後の新潟県佐渡郡、現・佐渡市)に、漢方医・山本桂の二男として生まれる。1882年(明治15年)に上京し、一時期二松学舎に在籍した後、獨逸学協会学校(現:獨協中学・高等学校)に転校しドイツ語を学ぶ。1886年(明治19年)に同校を卒業後、宮内省給費生としてドイツに留学し、経済学・農芸化学を学ぶ。1894年(明治27年)、帰国後は宮内省御料局嘱託、第二高等学校教授、日本勧業銀行鑑定課長を経て、1900年(明治33年)には台湾製糖(三井製糖の前身企業の一つ)設立に参画し常務取締役支配人となる。
金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年… 金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年2月10日〉 - 1937年〈昭和12年〉6月1日)は、日本の哲学者・思想・文芸評論家。 本名は金子 馬治(うまじ)。 1870年、長野県小県郡赤坂村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)を経て、1893年東京専門学校(現早稲田大学)卒業後、]母校講師となる。 『早稲田文学』1898年2月に評論「所謂社会小説」を発表した。1903年ドイツに留学し、ライプツィヒ大学、ベルリン大学、ハイデルベルク大学で学んだ。帰国後の1907年より早稲田大学教授となり、哲学、心理学、美学を講義した。同大学文学部長、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館長、常務理事を務めた。
杉山 四五郎(すぎやま しごろう、1870年2月6日〈明治3… 杉山 四五郎(すぎやま しごろう、1870年2月6日〈明治3年1月6日〉- 1928年〈昭和3年〉6月13日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系府県知事、衆議院議員。 越後国蒲原郡島潟村出身。大庄屋役・小川右平太の四男[要出典]として生まれ、1894年(明治27年)に大蔵省官吏・杉山叙(松本藩士・杉山叙主の次男[要出典]。明治維新後官界に入り、丸亀税務監督局長を務めた)の養子となる。開成中学、第一高等学校を経て、1894年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年8月、内務省に入り、愛知県属として内務部第一課長に発令された。1895年(明治28年)11月、高等文官試験行政科試験に合格した。 1896年(明治29年)1月、内務属となり土木局に配属された。
大崎 二六郎(おおさき にろくろう、明治3年〈1870年〉2… 大崎 二六郎(おおさき にろくろう、明治3年〈1870年〉2月6日 - 大正14年〈1925年〉7月20日)は、日本の政治家。新潟県長岡市出身。21歳で入東谷村(現、新潟県長岡市)の村長となり、30歳で県会議員に当選。村長となること三期、県会議員当選4回、郡会議員当選3回、政治家として活躍した。大崎家十四代当主。 大崎二六郎は、大崎彦助の長男として明治3年(1870年)2月6日、新潟県古志郡来伝村(現、新潟県長岡市来伝)で生まれる。父・彦助は、旧長岡藩家老・河井継之助の従者であり、長岡藩領来伝村の割元(大庄屋)であった。幼少の頃は、祖父・津右衛門邦常と起居を共にし、大いにその感化を受けた。 二六郎は、歌人(俳号は「梅渓」)として、また、尺八の名手としても活躍し、小学校のピアノ開きに六段や越後獅子の曲を琴と合わせて演奏した。
吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 19… 吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 1943年1月5日)は、日本の教育者、元広島文理科大学学長。
中西 用徳(なかにし もちよし、1870年2月1日(明治3年… 中西 用徳(なかにし もちよし、1870年2月1日(明治3年1月1日) - 1935年(昭和10年)12月9日)は、明治から昭和時代初期の司法官。大審院部長判事。 中西用亮の子としてのちの三重県に生まれる。普通学を修めたのち1892年(明治25年)法科大学に入り、1895年(明治28年)同大を卒業し法学士の称号を得た。1897年(明治30年)栃木区裁判所検事に任じ、同年判事に転じた。浦和地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、同部長判事を経て、1902年(明治35年)東京控訴院判事に就任する。その後、東京、大阪各控訴院部長判事、京都、大阪各地方裁判所所長、長崎控訴院長を歴任し、1928年(昭和3年)大審院部長となった。
志々目 藤彦(ししめ ふじひこ、1870年2月1日(明治3年… 志々目 藤彦(ししめ ふじひこ、1870年2月1日(明治3年1月1日)- 1927年(昭和2年)6月7日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、鹿児島県会議長。政治活動に全財産を用いた「井戸塀政治家」として知られた。 薩摩国揖宿郡、のちの鹿児島県揖宿郡喜入村(喜入町を経て現鹿児島市)で、志々目真幸の長男として生まれる。1879年(明治12年)1月、家督を相続した。普通学、和漢学を修め、1892年(明治25年)明治法律学校(現明治大学)を卒業した。農業を営む。 1897年(明治30年)鹿児島県会議員に選出され、同参事会員、同副議長を務め、1908年(明治41年)11月、県会議長となった。
柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1… 柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1869年2月28日) - 昭和11年(1936年)8月10日)は、日本の教育家、社会事業家。千葉県出身。 日中問題の権威で東亜同文会設立の功労者であるとともに、目白中学の創設からその実質的な校長職務を歴任した。さらに衆議院議員(1912年 - 1920年)として日中関係と私学教育の改善に功績を残した。 1869年1月、柏原七兵衛の子として千葉県成田市寺台の農家に生まれる。1893年、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。 1895年、朝鮮国政府農商務省の招聘により渡韓し駐日朝鮮政府公使館顧問となり帰国。 1896年、東京専門学校の講師となり、支那研究会を組織。
諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1… 諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1月15日〉 - 1954年〈昭和29年〉)は、武蔵国児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)出身の実業家。西武鉄道の取締役や日本煉瓦製造の会長などを務めた。 中山道で最大の宿場町であった本庄宿(明治22年より児玉郡本庄町)の出身。東諸井家10代目当主である諸井泉衛(1830-1885)は五男二女を授かり、四朗はその四男として生まれた。1900年(明治33年)に東京帝国大学を卒業し、京釜鉄道会社に入社。会計課長となるが、鉄道の国有化にともない退社する(1908年)。東亜製粉会社を組織し社長に就任するも、1925年(大正14年)日本製粉会社と合併してこの会社は消失。
三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明… 三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明治2年〉2月25日 - 1935年〈昭和10年〉7月)は、宝飯郡形原村(現・蒲郡市)出身の眼科医・実業家。妻は東三河地方初の女医である三浦こう。 1869年(明治2年)2月25日に宝飯郡形原村(現・愛知県蒲郡市)に生まれた。旧制宝飯中学校を卒業すると、1890年(明治23年)に医術開業試験に合格し、順天堂医院の佐藤泰然博士や須田博士に師事した。東京ではスワン石鹸会社を設立するなどしている。 やがて故郷の形原村に戻ると村岡こうと結婚し、1892年(明治25年)には形原村に三浦こうとともに愛明堂医院を開業した。三浦こうの義兄である小川平吉が鉄道大臣となると、奥飛騨温泉郷の平湯温泉の開発に尽力したが、平湯温泉への鉄道の敷設は実現しなかった。
佐々木 飛吉(ささき とびきち、明治2年1月15日(1869… 佐々木 飛吉(ささき とびきち、明治2年1月15日(1869年2月25日) - 昭和28年(1953年)5月23日)は、明治から昭和にかけて北海道静内郡静内町に居住したアイヌ。アイヌ協会の創立メンバーで、アイヌ文化伝承者であった。 東静内アザミの沢出身で、同地に住んだアイヌ名はOperikun、オペリクン、オペレクン・テクンアレ、ペイレン。opは海でカジキマグロを獲るのに使うホコであり、それを使うのが上手と言うこと、「ホコ使い上手」を意味するオッㇷ゚エリクンが転訛したものという。 アイヌ語に優れ、パルンクル(雄弁家)であった。静内地方でも著名な首長、長老であり、戦前・戦後を通し多くの著名人が訪れた。
柵瀬 軍之佐(さくらい ぐんのすけ、1869年2月24日(明… 柵瀬 軍之佐(さくらい ぐんのすけ、1869年2月24日(明治2年1月14日) - 1932年8月28日)は、日本の政治家。元立憲民政党衆議院議員(6期)。台湾を中心とした植民地事業で財を成した企業家であり、32社の経営に関わった。 岩手県西磐井郡中里村(現:一関市)出身。1889年英吉利法律学校(現:中央大学)卒。山梨日々新聞主筆、東京毎日新聞編集長などを経て、大倉組台湾支店支配人、合名会社柵瀬商会を設立した。1910年の第10回衆議院議員総選挙で初当選。以来6回当選。加藤高明内閣と第1次若槻内閣で商工政務次官を務めた。
青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日〈明治2年1… 青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 没年不詳)は、日本の逓信・内務官僚。官選奈良県知事、山口県下関市長。族籍は山口県平民。正五位、勲四等。 周防国大島郡東安下庄 (現・山口県大島郡周防大島町)で青木東輔の二男として生まれる。 1895年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省に入省し郵便為替貯金書記兼逓信属となり通信局に配属された。 逓信事務官、郵便為替貯金管理所為替課長、通信事務官、逓信大臣秘書官兼逓信事務官、新潟郵便電信局長などを歴任。1899年6月、内務省に転じ宮城県参事官に就任。以後、群馬県書記官、同県事務官・第一部長、三重県事務官・第一部長、大阪府事務官・第一部長兼第三部長、同府内務部長などを歴任。
蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年… 蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 1939年〈昭和14年〉4月6日)は、日本の政治家、弁護士、会社役員。衆議院議員(鹿児島県第一区選出、当選6回)。族籍は鹿児島県平民。鉄道政務次官、鉄道会議議員、南洋拓殖設立委員、薩摩製糸取締役などを務めた。 薩摩国日置郡田布施村(のち鹿児島県日置郡金峰町、現在の南さつま市)出身。鹿児島県平民・瀬戸川利右衛門の長男で、1876年、先代次郎の養子となった。元より富裕ではない家庭であったため、少年時代より人生の苦を味わわされた。14歳の時小学校の先生となり其の報酬として地所三段五畝歩を贈られた。 17歳の時の1886年、大阪に出て、大阪開成中学館、三一学校で学んだ。
岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、旧姓:石尾、1869年2… 岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、旧姓:石尾、1869年2月22日 〈明治2年1月12日〉 - 1939年9月23日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の洋画家、版画家である。女性像を得意とし、日本的な感覚の洋画に秀作を残し、現存する作品のほぼ半分を風景画が占める。第1回文化勲章を受章。東京美術学校(現:東京藝術大学)教授。現在の佐賀県佐賀市八幡小路生まれ。族籍は東京府平民。 1869年、肥前佐賀藩の石尾家に生まれる。士族・石尾孝基の三男。幼名は芳三郎。1887年、岡田政蔵の養子になり、家督を相続する。二松学舍、成立学舎、東洋英和学校等に学ぶ。 父とともに幼くして上京し、麹町の鍋島侯邸内で暮らした。
堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1… 堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1941年4月14日)は日本の作詞家、教育者。名前は「しゅうあん」と音読される場合もある。号は鹿峡(ろくきょう)。 明治2年1月8日(西暦1869年2月18日)、尾張国丹羽郡善師野村(現在の愛知県犬山市)に生まれる。犬山城下稲置村の丹羽葉栗第一番高等小学校を卒業した後、尋常小学校の教員手伝いを経て1891年(明治24年)に上京、東京国語伝習所(大成高等学校の前身校)で上田萬年に師事して国文学を学んだ。 卒業後は長野県や北海道、香川県、愛媛県で旧制中学校や高等女学校の教員を務め、特に香川・愛媛の両県で校歌や市町村歌を多数作詞した。旧制三豊中学校(現在の香川県立観音寺第一高等学校)の校長職に在った1921年(大正10年)、大阪市が3代目市庁舎落成を記念して公募した「大阪市歌」で応募作が一等入選する。
青柳 信五郎(あおやぎ しんごろう、1869年2月17日(明… 青柳 信五郎(あおやぎ しんごろう、1869年2月17日(明治2年1月7日)- 1914年(大正3年)11月22日)は、明治期の地主、政治家。衆議院議員。 越後国三島郡河根川村(新潟県三島郡王寺川村大字河根川を経て現長岡市河根川町)で、大地主・農業、青柳逸庵の五男として生まれる。漢学を修めた。1884年(明治17年)に英学を修め大学予備門に進んだが、家庭の事情で勉学を断念し1890年(明治23年)に帰郷した。 大寺川村会議員、三島郡会議員、新潟県会議員などを務めた。自由主義を標榜し、立憲政友会が組織されると入党して新潟県支部幹事に就任し、党勢の拡大に尽力した。1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙に新潟県郡部から政友会所属で出馬して初当選。
土田 万助(萬助、つちだ まんすけ、1869年2月16日(明… 土田 万助(萬助、つちだ まんすけ、1869年2月16日(明治2年1月6日)- 1942年(昭和17年)6月15日)は、明治から昭和時代の大地主、篤農家、林業家、政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 出羽国平鹿郡、のちの秋田県平鹿郡館合村(大雄村を経て現横手市)で土田吉治の長男として生まれ、土田彦七の養子となる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て秋田師範学校に進学したが中退して帰郷した。1905年(明治38年)養父の隠居により家督を相続した。 1900年(明治33年)館合村農会を設立し、科学農法を導入し米の品質改良に尽力。1905年(明治38年)に計画された区画整理事業を推進し、1917年(大正6年)までに450ヘクタールが完成した。
菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2… 菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2年1月6日)– 1946年(昭和21年)12月18日)は、日本の大蔵官僚・政治家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。 仙台藩士・郡長、菅原通実の長男として生まれる。仙台中学、第一高等学校を経て、1895年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵省に入省し大蔵属となり、主税局に配属された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1895年11月、横浜税関倉庫課長に就任。以後、沖縄県収税長、司税官・熊本税務管理局、税務監督官・主税局内国税課、函館税務管理局長、丸亀税務管理局長、神戸税務管理局長、神戸税務監督局長、大蔵書記官・主税局内国税課長、主税局長などを歴任。
塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1… 塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1月3日) - 1913年(大正2年)2月1日)は、日本の詩人、国文学者、翻訳家。本名・正男。 兵庫県豊岡市出身。豊岡藩士の子。1886年(明治19年)7月、第一高等中学校に入学。1892年(明治25年)7月、第一高等中学校文科を卒業。同月、東京帝国大学に入学。 1895年(明治28年)7月、東京帝国大学文科大学国文科卒。落合直文に師事。同年『帝国文学』の創刊とともに編集委員となり、擬古文で名を知られた。詩人として新体詩の普及に貢献する一方で、国文学者としても活躍。 1895年(明治28年)9月、立教学校(現・立教大学)の教授に就任し、国文国語を講じた。
堀江 正三郎(ほりえ しょうざぶろう、1869年2月12日(… 堀江 正三郎(ほりえ しょうざぶろう、1869年2月12日(明治2年1月2日) - 1934年(昭和9年)10月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1889年、東京高等工業学校卒。京橋区議、東京府議、同市部会議員、同議長となる。千代田護謨、東京製靴、東京商船各(株)専務取締役、原安商会、秋葉商店、茨城鉄道、大谷石材鉄道、栗山電燈、稲敷電気各(株)取締役社長などを務める。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において茨城3区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。在職中の1934年10月に死去した。
大池 鎌次郎(おおいけ かまじろう、1869年2月7日(明治… 大池 鎌次郎(おおいけ かまじろう、1869年2月7日(明治元年12月26日)- 1959年(昭和34年)5月1日)は、明治から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員、愛知県会議長。 尾張国丹羽郡古知野村(愛知県丹羽郡古知野町を経て現江南市古知野町)で、代々酒造業を営む大池家当主・大池與平の息子として生まれる。 愛知県生糸製造同業組合組長、興益銀行取締役、愛知製絹社長、丹羽郡酒造家組合盛昌組組長、古知野銀行取締役などを務めた。1916年(大正5年)10月、名古屋株式取引所一般取引員となり力商店を開設した。 1893年(明治26年)以降、古知野町会議員、学務委員、学校組合議員、勧業諮問会員、丹羽郡会議員、同参事会員、同徴兵参事員、道路組合会議員などを務めた。
高嶺 朝教(たかみね ちょうきょう、1869年2月6日(尚泰… 高嶺 朝教(たかみね ちょうきょう、1869年2月6日(尚泰21年12月25日) - 1939年(昭和14年)1月12日)は、沖縄県出身の実業家、政治家。同県選出初の衆議院議員の一人。向氏高嶺家十一世。唐名は向承徳。 首里山川村(現那覇市首里山川町)で、高嶺家十世・高嶺朝長(唐名は向善継)の長男として生まれる。1882年に第1回県費留学生として上京し、学習院、慶應義塾で学ぶ。 1893年9月、尚順、太田朝敷らと協力して『琉球新報』を創刊。1900年、尚家の出資を元に沖縄銀行の設立に参画して頭取に就任。1909年、第1回沖縄県会議員選挙に出馬して当選し、初代県会議長に就任。同年6月28日から1912年5月20日まで務めた。
三宅 花圃(みやけ かほ、1869年2月4日(明治元年12月… 三宅 花圃(みやけ かほ、1869年2月4日(明治元年12月23日) - 1943年(昭和18年)7月18日)は、明治時代の小説家、歌人。著書『藪の鶯』は、明治以降に女性によって書かれた初の小説。 姓は田辺、本名は竜子。花圃と号す。本所番場町に住む旧幕臣で元老院議員の父・田辺太一、母・己巳子(きみこ)の長女に生まれる。戸籍では10月5日生まれ。竜子は8歳で麹町小学校に入学したが、その後、跡見花蹊の跡見女学校に学び、ついで桜井女学校、明治女学校と次々と学校を変ったのち、最後に、森有礼の理想によって女子の最高学府として設立された一つ橋の東京高等女学校(現・お茶の水女子大学)専修科に入学、1889年(明治22年)に卒業した。
各務 鎌吉(かがみ けんきち、1869年2月3日(明治元年1… 各務 鎌吉(かがみ けんきち、1869年2月3日(明治元年12月22日) - 1939年(昭和14年)5月27日)は、明治から昭和にかけての日本の実業家。三菱財閥系の東京海上火災保険などの社長・会長をはじめ、三菱財閥の要職を務めて三井財閥の池田成彬とともに内外より重んじられ貴族院議員を務めた。その業績は、「損害保険業界の父」といわれ、国際的にも世界保険殿堂に日本人として初めて選出。大正8年(1919年)ICC(国際商業会議所)の設立メンバー(アトランティック通商会議日本国代表)。 美濃国方県郡安食村(現在の岐阜県岐阜市)の農家の次男として生まれた。父省三は西南戦争勃発の1877年に駅逓寮(のちの郵便局)の下級官吏として勤務した関係で上京したが、鎌吉が中学生のころに辞めて京橋で葉茶屋を始めた。
大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869… 大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869年2月1日〉 - 1931年〈昭和6年〉3月2日)は、日本の美学者、東京帝国大学教授(文学博士)。日本における学術的な美学の創設者とされる。夏目漱石との交友でも知られる。旧姓・小屋。 明治元年(1869年)上野国勢多郡木瀬村大字笂井(現・群馬県前橋市笂井町)に、小屋宇平治(卯平治/宇兵衛)の次男として生まれる。兄・右兵衛は木瀬村長を務めた。笂井小学校を経て、1884年(明治17年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業。旧制第一高等学校を経て、1891年(明治24年)に帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科を卒業。大学院で美学を専攻する。
久木田 叶(くきた かのう、1868年2月29日(慶応4年2… 久木田 叶(くきた かのう、1868年2月29日(慶応4年2月7日)- 1963年(昭和38年)12月29日)は、明治から昭和前期の政治家。衆議院議員(1期)、枕崎市名誉市民。旧姓・鮫島。 薩摩国川辺郡鹿籠郷鹿籠村(南方郷鹿籠村、鹿児島県川辺郡南方郷鹿籠村、西鹿籠村、東南方村、枕崎町を経て現枕崎市西鹿籠)で、鮫島強右衛門の三男として生れ、久木田キヨの養子となり1884年(明治17年)家督を相続した。造士館を中退し、1892年(明治25年)東京法学院卒。農業を営む。 川辺郡会議員を務め、1903年(明治36年)鹿児島県会議員に選出され、1919年(大正8年)9月まで在任し、同参事会員も務めた。枕崎港の築港、枕崎高等女学校(現鹿児島県立枕崎高等学校)の開設などに尽力した。
佐藤 啓(さとう ひらく、1868年2月29日(慶応4年2月… 佐藤 啓(さとう ひらく、1868年2月29日(慶応4年2月7日) - 1941年(昭和16年)4月21日)は、戦前日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟)、山形県西山村長。 出羽国村山郡西山村(現在の山形県西村山郡西川町)に佐藤里治(衆議院議員)の子として生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科を卒業後、山形日報の経営にあたった。 西山村長、山形県会議員を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、山形民報社長、羽陽銀行(山形銀行の前身の一つ)取締役、三山電気鉄道取締役を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
高橋 辰次(たかはし たつじ、1868年2月27日(慶応4年… 高橋 辰次(たかはし たつじ、1868年2月27日(慶応4年2月5日) - 1959年(昭和34年)1月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 山形県出身。西置賜郡時庭村(現長井市)にて井上代造の長男として生まれる。1884年、山形県師範学校卒。高橋家に養嗣子として入る。小学校訓導、大塚村(現・川西町)議会議員、同村長、山形県会議員、同参事会員、地方森林会議員を務める。また、第百二十五銀行、置賜製糸(株)各取締役、宮内製糸(株)社長、山形信用購買販売利用組合連合会長となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において山形県郡部から立憲政友会公認で立候補してトップ当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では山形4区から立候補して再選する。
村上 直次郎(むらかみ なおじろう、1868年2月26日(慶… 村上 直次郎(むらかみ なおじろう、1868年2月26日(慶応4年2月4日) - 1966年(昭和41年)9月17日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の歴史学者。文学博士。帝国学士院会員、勲一等瑞宝章受章。日欧通交史、日本・東南アジア関係史の権威。 豊後玖珠(大分県玖珠町)出身。1878年(明治11年)から1884年(明治17年)の6年間を同志社英学校に学び、同余科(神学科)卒業後は東京府に移る。第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学文科大学史学科を卒業。その後東京帝国大学講師、東京外国語学校(現:東京外国語大学)校長、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)校長、台北帝国大学文政学部長、上智大学第4代学長などを歴任。
小泉 節子(こいずみ せつこ、慶応4年2月4日〈1868年2… 小泉 節子(こいずみ せつこ、慶応4年2月4日〈1868年2月26日〉- 昭和7年〈1932年〉2月18日)は、小泉八雲の妻。日本に関する八雲の著述を支えた。戸籍上の名前は小泉 セツだが、本人は節子の名を好んだ。 出雲松江藩の家臣小泉家の二女として生まれ、親戚の稲垣家の養女となる。子供の頃に稲垣家が没落して節子は11歳から生家の機織会社で織子として働いた。18歳の時に婿養子を迎えて結婚したが、夫は貧しさに耐えられず出奔し大阪に移る。22歳で正式に離婚し小泉家に復籍する。家計を支えるため松江の英語教師として赴任したラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)の家の住み込み女中となり、のちに結婚した。八雲の日本語の理解を助けるとともに、幼少時から物語が好きだったこともあって日本に関する八雲の著述を支えた。
松村 龍雄(まつむら たつお、1868年2月25日(慶応4年… 松村 龍雄(まつむら たつお、1868年2月25日(慶応4年2月3日) - 1932年7月18日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
山田 安民(やまだ やすたみ、前名・卯之吉、1868年2月2… 山田 安民(やまだ やすたみ、前名・卯之吉、1868年2月23日(慶応4年2月1日) - 1943年(昭和18年)4月13日)は、日本の実業家、薬剤師。族籍は奈良県平民。ロート製薬の創業者。私立奈良盲唖学校開設者。奈良県における障害児教育の先駆者。 姓は山田姓ではなく津村姓と異なってはいるが、津村重舎(津村順天堂創業者)、津村岩吉(津村敬天堂経営)は実弟。長男は山田輝郎(ロート製薬初代社長)。孫は山田安邦(元会長、輝郎の長男)、山田安廣(現・取締役兼アンズコーポレーション社長、輝郎の五男)。曾孫は山田邦雄(現・会長、安邦の長男)。 大和国宇陀郡池上村(のち奈良県宇陀郡伊那佐村池上、現・奈良県宇陀市)で、農家の父・安二郎と母・ナカの長男・卯之吉として生まれる。
尾竹 越堂(おたけ えつどう、1868年2月21日(慶応4年… 尾竹 越堂(おたけ えつどう、1868年2月21日(慶応4年1月28日) - 1931年(昭和6年)12月3日)は、明治から昭和期にかけての浮世絵師・日本画家。 多くの文献が誤っているが、姓の読みは「ODAKE(おだけ)」ではなく、「OTAKE(おたけ)」と濁らないのが正しい。 画号を国一(富山時代)、国弌、観月(大阪時代)とも称す。紺屋を営む尾竹倉松の長男として慶応4年1月28日(1868年2月21日)、越後国白根町(現在の新潟県新潟市)に生まれる。本名熊太郎。幼少のとき東京に出て四代目歌川国政に浮世絵を学んだと伝わる。明治18年(1885年)ごろから国雪と号して『新潟新聞』に挿絵を描き、明治22年(1889年)に富山に移ると、売薬版画、新聞挿絵、絵馬、押絵の下絵などを描いた。
丸山 豊治郎(まるやま とよじろう、慶応4年1月27日(18… 丸山 豊治郎(まるやま とよじろう、慶応4年1月27日(1868年2月20日) - 昭和8年(1933年)7月18日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。親戚は衆議院議員 大滝伝十郎、貴族院議員 大竹貫一。 越後国頸城郡武士村(現在の新潟県上越市)出身。慶應義塾に入学するが、徴兵により歩兵第16連隊に配属された。除隊後も日清戦争の際には補充員召集により従軍した。 その後、菅原村長、中頸城郡会議員、同参事会員を歴任した。また「高田日報」を創刊し、社長に就任した。 1912年、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。
内田 重成(うちだ しげなり、1868年2月18日(慶応4年… 内田 重成(うちだ しげなり、1868年2月18日(慶応4年1月25日)- 1965年(昭和40年)10月4日 )は、日本の裁判官、海軍法務官、政治家。最終階級は海軍法務中将。貴族院議員。旧姓は平井。山口県出身 長門国豊浦郡、のちの山口県豊浦郡内日村(現下関市 )で、清末藩士・平井貢蔵の二男として生まれ、1892年(明治25年)11月、下関市清末の内田護の養子となった。 関西法律学校(後の関西大学)、和仏法律学校(後の法政大学)卒業後、1890年(明治23年)12月、文官高等試験に合格。1891年(明治24年)1月、司法官試補に任官し千葉地方裁判所詰となる。以後、千葉区裁判所検事、弘前区裁判所判事、栃木区裁判所判事、前橋区裁判所判事を歴任。
岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年… 岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年1月21日〉- 1952年〈昭和27年〉10月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は正二位勲一等功三級。 田中義一内閣で海軍大臣を務めたのち、齋藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと大命降下を受けて内閣総理大臣に就任、岡田内閣では一時拓務大臣と逓信大臣を兼任している。二・二六事件で反乱軍に襲撃されたが、義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が身代わりとなり、奇跡的に難を逃れた。 総理退任後も重臣として度々枢機に与ったが、第二次世界大戦中は東条内閣打倒を自らの責務ととらえ倒閣運動を主導した。
丸山 嵯峨一郎(まるやま さがいちろう、慶応4年1月21日(… 丸山 嵯峨一郎(まるやま さがいちろう、慶応4年1月21日(1868年2月14日) - 昭和19年(1944年)2月5日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会→政友本党)、弁護士。 越後国魚沼郡馬場村(現在の新潟県十日町市)出身。1887年(明治20年)に第一高等中学校に入学し、1891年(明治24年)に卒業。同年、東京帝国大学法科大学に入学し、1894年(明治27年)に卒業した。卒業後は弁護士事務所を新潟市に開いた。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、第6回、第9回、第13回、第14回の計5回当選を果たした(第9回は補欠当選)。 その他、新潟商業会議所特別会員、新潟県弁護士会長、新潟県競馬倶楽部会長を務めた。
森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月… 森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月11日〉 - 1924年〈大正13年〉1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。前名は平吉。 上野国山田郡桐生本町(現・群馬県桐生市本町)に、町会議員を務めた森卯平の子として生まれる。先代の長次郞の養子となり、1878年(明治11年)12月、家督を相続する。桐生学校、群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。 1890年(明治23年)陸軍士官学校第1期卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科21番/103名で卒業している。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1894年(明治27年)中尉となり日清戦争に従軍。
狩野 直喜(かの なおき、1868年2月11日(慶応4年1月… 狩野 直喜(かの なおき、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1947年(昭和22年)12月13日)は、日本の中国学者。中国文学、中国哲学、敦煌学に業績を残す。京都帝国大学名誉教授。字は子温、号に君山、半農人がある。内藤湖南・桑原隲蔵と並ぶ京都学派東洋史学の創始者の一人。肥後国(現:熊本県)生まれ。 1868年(明治元年)狩野直恒の三男として熊本市京町に生まれる。竹馬の友に中国文学者の古城貞吉がいる。1879年(明治12年)、創設まもない同心学舎に入学し、明治17年に後身の済々黌を卒業。その後上京し、共立学校で英語・数学を学んだのち、大学予備門に入り1892年(明治25年)に卒業。東京帝国大学文科大学漢学科に入学。
樋口 典常(ひぐち のりつね、慶応4年1月18日(1868年… 樋口 典常(ひぐち のりつね、慶応4年1月18日(1868年2月11日) - 昭和21年(1946年)5月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、鉄道政務次官。 筑後国八女郡長峰村(現在の福岡県八女市)出身。1890年(明治23年)、東京法学院(現在の中央大学)法律科を卒業。福岡県会議員に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、台湾総督府評議会員、台湾農林株式会社社長、台湾製塩株式会社取締役を務めた。 1923年(大正12年)、衆議院補欠選挙に当選。第17回衆議院議員総選挙と第18回衆議院議員総選挙で再選され、その間に岡田内閣で鉄道政務次官を務めた。
阿部 房次郎(あべ ふさじろう、1868年2月11日(慶応4… 阿部 房次郎(あべ ふさじろう、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1937年(昭和12年)5月12日)は、日本の実業家、政治家。族籍は滋賀県平民。 近江国彦根(滋賀県彦根市)出身。辻兼三の長男。阿部家の養子となり、1896年(明治29年)に分家して一家を創立する。 1892年(明治25年)、慶應義塾正科を卒業。 1894年(明治27年)、近江銀行、1900年(明治33年)、近江精油取締役、1901年(明治34年)、阿部製紙(王子製紙の前身のひとつ)専務、1904年(明治37年)経営不振の金巾製織に専務として入り、再建に尽力する。その後金巾製織は1906年(明治39年)に大阪紡績と、1914年(大正3年)に三重紡績と合併して東洋紡績が発足、山辺丈夫社長の下で専務となった。
安藤 新太郎(あんどう しんたろう、1868年2月9日(慶応… 安藤 新太郎(あんどう しんたろう、1868年2月9日(慶応4年1月16日) - 1919年(大正8年)2月13日)は、日本の政治家、実業家。 播磨国明石郡、のちの兵庫県明石郡大久保村(大久保町を経て現明石市大久保町)出身。明治法律学校卒業。 庄屋橋本家から大久保宿本陣を務めた安藤家に養子入りし、当主となる。 1903年(明治36年)、衆議院議員に初当選した後、連続4期務め、第16回列国議会同盟会議などに参加した。 1905年に創設された辰馬本家汽船部に、辰馬本家と共に資金を出仕し取締役として経営に参画、1917年に辰馬本家酒造が創設された際には監査役を務めるなど、同族経営の辰馬財閥に於いて重きをなした。
堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) … 堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) - 昭和29年(1954年)10月31日)は、日本の教育学者、教育者、国文学者。鶴岡鷹匠町(現・鶴岡市)出身。萩邨と号する。国語漢文教育の権威として知られる。 慶応4年(1868年)、庄内藩士堀平太夫重道の長子として鶴岡鷹匠町に生れた。父は戊辰戦争に出陣して羽後羽根川で戦死したため、母の手ひとつで育てられた。明治18年(1885年)、西田川郡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に進み、1886年に卒業した。 同1886年、朝暘学校の授業生(代用教員)を命じられた。また、荘内英学会で子弟の教育に当たった。
田中 銀次郎(たなか ぎんじろう、1868年2月4日〈慶応4… 田中 銀次郎(たなか ぎんじろう、1868年2月4日〈慶応4年1月11日〉 - 1937年〈昭和12年〉2月16日)は、北海道において開拓使廃止後の明治時代から昭和初期にかけて活躍した日本の建築技術者であり実業家。島根県松江市寺町出身。北海道の建設業、株式会社田中組の創立者。同じく北海道の建設業、伊藤組土建の創始者伊藤亀太郎と共に伊藤組の創立に深くかかわると共に、北海道建設業協会、札幌建設業協会、旭川建設業協会それぞれの設立にも携わり、北海道の民間建設業黎明期において重要な役割を果たした。 島根県意宇郡寺町(現 松江市寺町)で田中佐兵衛とヒデとの間に誕生。六男だったこともあり生活の活路を求め北海道に渡り25歳、伊藤亀太郎と出会い協力関係となる。
水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日〈慶応4… 水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日〈慶応4年1月10日〉- 1949年〈昭和24年〉11月25日)は、日本の内務官僚、政治家。勲等は勲一等。内務大臣、朝鮮総督府政務総監、文部大臣、貴族院議員などを歴任した。 江戸詰の秋田藩士水野立三郎の子として1868年2月3日(慶應4年1月10日)、江戸浅草鳥越町の秋田藩邸で生まれた。立三郎は秋田の出でなく埼玉の出で、江戸で取り立てられた武士である。立三郎は秋田藩主佐竹義堯の弟佐竹義諶(よしつま)に仕えた。佐竹義諶は秋田藩の支藩岩崎藩主で、1869年(明治2年)義諶(1870年死去)、13歳の佐竹義理(よしただ)が継いだ。 立三郎は戊辰戦争で官軍についた秋田藩のために、妻生後間もない水野と2人の姉を連れて現在の秋田県湯沢市岩崎に避難。
宮尾 舜治(みやお しゅんじ、1868年2月1日〈慶応4年1… 宮尾 舜治(みやお しゅんじ、1868年2月1日〈慶応4年1月8日〉- 1937年〈昭和12年〉4月3日)は、日本の官僚、外地行政官、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。新潟県出身。 越後国頸城郡広島村の名主・宮尾権九郎の長男として生まれた。父はこののち同村の助役となるが、この村は宮尾家の祖先が開いた地として知られていた。1881年(明治14年)、小島荷裳塾に入塾。1886年(明治19年)、第一高等中学校予科に入学、1889年(明治22年)には本科に進学する。下宿の隣家に寄寓していた神戸の瓦煎餅の職人が店の出資者を探しているとの話に興味を持ち、実家の父を説得して資金を出してもらい翌年11月には両国でせんべい屋「紀文堂」を開業したところ、これが大当たりとなって多忙を極めるようになり、そのため学校の方は欠席がかさんで1891年(明治24年)に本科2年を落第の憂き目に遭う。
安住 伊三郎(あずみ いさぶろう、1867年2月27日〈慶應… 安住 伊三郎(あずみ いさぶろう、1867年2月27日〈慶應3年1月23日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月31日)は、日本の実業家。安住大薬房社長。タイ王国名誉領事。幼名は猪之助。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住文四郎の二男。家が貧しかったため縄をない、自ら学資をつくる。 1897年、兄瀧蔵方より分れて一家を創立する。岡山県真島郡落合町の酒造家・木村良江に養われる。13歳の頃、鳳鳴社という塾に入り、進昇山に就き、漢籍を学ぶ。 1888年、22歳の頃に大阪の安東久次郎の薬舗の店員となり、5年後自ら独立して売薬業を営む。1893年、幼名猪之助に因む猪印のノミ取粉と安住蚊取り線香の製造販売を創める。
菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応… 菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応3年1月19日) - 1945年(昭和20年)2月3日)は、日本の教育者、歴史研究者。号は仙湖。正岡子規、秋山真之、夏目漱石らとの交友、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、衆議院議員も務めた。
中村 十作(なかむら じゅうさく、慶応3年1月18日(186… 中村 十作(なかむら じゅうさく、慶応3年1月18日(1867年2月22日) - 昭和18年(1943年)1月22日)は、越後国頸城郡稲増村(現在の新潟県上越市板倉区稲増)出身の宮古島における人頭税廃止に尽力した人物。 生家は代々庄屋をつとめる家系であった。東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後に海軍へと入隊し、1892年(明治25年)真珠養殖の事業を始めようと宮古島へと渡った。しかし、宮古島の島民たちは琉球王国の時代から続く重い人頭税に苦しみ、貧困を強いられていた。これを見かねた中村は精糖業技師として同じく宮古島を訪れていた城間正安とともに当時の沖縄県知事であった奈良原繁に人頭税の廃止を訴えた。