青木 重誠(あおき しげまさ、1893年〈明治26年〉3月1… 青木 重誠(あおき しげまさ、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1943年〈昭和18年〉6月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸士25期首席・陸大32期優等。 石川県金沢市本多町出身。金沢城内に駐屯する歩兵第7聯隊・青木織之助歩兵中尉の長男として生れる。父は旧加賀藩士で、略歴に神奈川県平民、足柄下郡真鶴町出身とあるがこれは誤りである。織之助は日清戦争に従軍し、1895年1月11日陣中にて没した。享年28。妻は「いと」で、1947年7月5日没。 石川県師範学校附属小学校、金沢第二中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)741名中を首席で卒業。
藤縄 清治(ふじなわ せいじ、1893年3月12日 - 19… 藤縄 清治(ふじなわ せいじ、1893年3月12日 - 1967年4月22日)は、明治から昭和にかけての政治家。 1893年3月12日、新潟県中頸城郡潟町村大字土底浜(現・上越市大潟区土底浜)に、酒造家の藤縄正朔、妻ミカの次男として生まれる。女6人男3人の9人兄弟である。姉には、女子裁縫学校を創設し初代校長となった藤縄ヒサ、改称し、高田実科女学校(共に学校法人古川学園上越高等学校)二代校長となった古川フジなどがいる。藤縄家は代々土底浜の漁師であったが、正朔の代から酒造業を始めた。正朔は、晩酌のかたわらに藤縄たちを呼び、「人間、生を受けたからには、自ら働き、自らの手で業を興せ。決して人に頼ってはならない。
岩田 藤七(いわた とうしち、1893年3月12日 - 19… 岩田 藤七(いわた とうしち、1893年3月12日 - 1980年8月23日)は、ガラス工芸家。東京・日本橋生まれ。岩田久利は子。岩田糸子は久利の妻、イワタルリは孫。
矢野 峰人(やの ほうじん、1893年3月11日 - 198… 矢野 峰人(やの ほうじん、1893年3月11日 - 1988年5月21日)は、日本の詩人、英文学者。本名は矢野禾積(かづみ)。 1893年、岡山県津山市で生まれた。久米北条郡大倭村(現・津山市西部)出身。幼時に父母と死別し、母方の祖母、叔父に育てられた。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)在学中、文学雑誌『文章世界』『秀才文壇』などに盛んに投稿。同級生に片岡鉄兵、中山巍、上級生に出隆らがいて親交があった。第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部に進学。英文科で上田敏、厨川白村の教えを受けた。 卒業後は、第三高等学校教授に就いた。1935年、学位論文『アーノルドの文学論』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。
鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3… 鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3月9日 - 1975年(昭和50年)4月24日)は、日本の工学者、アイヌ文化研究者。著書には橋梁や構造力学など力学関係のものが多い。北海道帝国大学、九州大学、防衛大学校などで教授を務めた。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)に生まれる。父は岡崎藩士で画家の鷹部屋荘一郎。1899年(明治32年)4月4日、岡崎町立連尺尋常小学校(現・岡崎市立連尺小学校)に入学。1903年(明治36年)、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)に入学。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学すると、毎日のように暗くなるまでテニスの練習を行ったという。
松沢 竜雄(まつざわ たつお、1893年(明治26年)3月9… 松沢 竜雄(まつざわ たつお、1893年(明治26年)3月9日 - 1970年(昭和45年)1月25日)は、日本の内務官僚、朝鮮総督府官僚、弁護士。 山形県飽海郡北平田村(現在の酒田市)出身。第四高等学校を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学法学部独法科を卒業した。三井物産に入社するが、1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格し、内務属となる。島根県美濃郡長、同八束郡長、島根県事務官、岡山県事務官、千葉県書記官・学務部長、福井県書記官・警察部長、群馬県書記官・経済部長を歴任。1936年(昭和11年)、朝鮮総督府に転じ、農林局農務課長、総督官房外事部長を経て、1940年(昭和15年)に専売局に就任。
安藤 狂四郎(あんどう きょうしろう、1893年〈明治26年… 安藤 狂四郎(あんどう きょうしろう、1893年〈明治26年〉3月8日 - 1982年〈昭和57年〉2月14日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。 大分県大分郡松岡村出身。地主・安藤勝市の四男として生まれる。大分中学、第五高等学校を経て、1918年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。同年11月、内務省に入り、新潟県属として内務部学務課に配属された。 1919年4月、新潟県警部・警察部警務課長に就任。以後、内務省衛生局保険課勤務、鹿児島県出水郡長、栃木県内務部農商課長、同庶務課長兼地方課長、東京府内務部庶務課長、岩手県書記官・警察部長、内務書記官・警保局高等課長、東京府書記官・学務部長、静岡県書記官・内務部長、東京府書記官・内務部長などを歴任。
小倉 強(おぐら つよし、1893年3月7日 - 1980年… 小倉 強(おぐら つよし、1893年3月7日 - 1980年2月23日)は、日本の建築家、建築史家。東北大学名誉教授。東北地方の民家についての調査を精力的に行ったことで知られ、仙台の歴史的建造物の保存にも影響を与えた。 1893年(明治26年)、宮城県仙台市で実業家・歌人の小倉長太郎(小倉茗園)の八男として生まれる。1916年(大正5年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。大学では、高橋貞太郎、小林政一らと同期であった。 1921年、東京府営繕技師となる。平和記念東京博覧会(1922年)の設計を担当。1922年、東北帝国大学技師に採用される。1929年、仙台高等工業学校教授に着任準備のため文部省在外研究員としてドイツ留学。
影佐 禎昭(かげさ さだあき、1893年(明治26年)3月7… 影佐 禎昭(かげさ さだあき、1893年(明治26年)3月7日 - 1948年(昭和23年)9月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県沼隈郡柳津村(後の松永市柳津町、現・福山市柳津町)に生まれる。幼名は亨(陸大学生時代に禎昭に改名)。影佐家は代々、広島浅野藩士の家系。 小学校を卒業後、姉の住んでいた大阪に出て、大阪府立市岡中学校を経て1914年、陸軍士官学校を優等卒業(26期)。1917年、陸軍砲工学校高等科第23期を優等で卒業。1923年、陸軍大学校優等卒業(35期)。大尉時代の1925年4月から1928年3月まで東京帝国大学政治科で学んだ学究肌。その後、参謀本部付として中国と深く関わり、陸軍部内でも中国通として一際目立つ存在となった。
土屋 伝作(つちや でんさく、1893年〈明治26年〉3月7… 土屋 伝作(つちや でんさく、1893年〈明治26年〉3月7日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。税理士。 山梨県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学農科大学獣医学実科を卒業。朝鮮に渡って逓信書記となり、1921年(大正10年)に高等試験行政科に合格した。黄海道内務部学務課長、咸鏡南道内務部学務課長、同地方課長、平安南道地方課長、全羅北道財務部長、黄海道警察部長、全羅南道警察部長を歴任した。1932年、総督官房外事課勤務となり、新京、奉天に駐在した。咸鏡北道内務部長を経て、1934年に釜山府尹に就任し、さらに大邱税務監督局長に転じた。 退官後、朝鮮金融組合連合会理事・事業部長を務めた。戦後は、税理士を開業し土屋税理会計事務所長を務めた。
山本 勇(やまもと いさむ、1893年(明治26年)3月6日… 山本 勇(やまもと いさむ、1893年(明治26年)3月6日 - 1964年(昭和39年)4月23日)は、日本の電気工学者。東京工業大学教授、明治大学教授、電気通信大学学長、千葉工業大学顧問などを歴任。
高橋 元吉(たかはし もときち、1893年〈明治26年〉3月… 高橋 元吉(たかはし もときち、1893年〈明治26年〉3月6日 - 1965年〈昭和40年〉1月28日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の詩人である。書店・煥乎堂社長。 1893年(明治26年)3月6日、書籍商を営む高橋常蔵、志づの次男として群馬県前橋市曲輪町に生まれる。3歳の時母を喪う。桃井尋常小学校を卒業後、前橋中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)に入学。1910年(明治43年)前橋中学校を卒業後上京し神田の三省堂機械標本部へ入社。この頃尾崎喜八との交流が始まる。前橋へ帰郷後、父の書店煥乎堂で店員として働きながらメーテルリンクの翻訳などを行う。 1915年(大正4年)頃、武者小路実篤との交遊が始まり、のちに柳宗悦、千家元麿、岸田劉生、長与善郎らと交わる。
山口 茂(やまぐち しげる、1893年(明治26年)3月5日… 山口 茂(やまぐち しげる、1893年(明治26年)3月5日 - 1974年(昭和49年)8月21日)は、日本の経済学者。金融論、経済学史等を専攻した。一橋大学名誉教授。 神奈川県高座郡大和村(現・大和市)の地主の家に生まれる。暁星中学校を経て、1917年東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。1919年同校専攻部卒業。1921年から東京商科大学(現・一橋大学)附属商学部専門部助教授を務め、三浦新七、上田貞次郎のプロゼミに参加。1922年から銀行論の講義を担当し、佐野善作、高垣寅次郎の指導を受けた。1925年からイギリス、ドイツ帝国、フランス共和国、アメリカ合衆国に留学し、1927年に帰国すると東京商科大学助教授を兼任。
佐藤 幸徳(さとう こうとく、1893年(明治26年)3月5… 佐藤 幸徳(さとう こうとく、1893年(明治26年)3月5日 - 1959年(昭和34年)2月26日)は、日本の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は中将。 山形県出身。陸士25期、陸大33期。インパール作戦において、軍司令官の牟田口廉也中将と対立し、作戦途中に師団長による独断退却を行ったことで知られる。 山形県に生まれた佐藤は、鶴岡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)から仙台陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業。さらに1921年(大正10年)に陸軍大学校を卒業。陸軍参謀本部勤務や部隊勤務などを経る。 1930年(昭和5年)から2年間を陸軍参謀本部の戦史課で過ごす。この戦史課勤務時代に、小磯國昭や東條英機などの「統制派」に属する人物と多く交際し、橋本欣五郎とともに桜会の規約作成にも関与した。
佐藤 保太郎(さとう やすたろう、1893年3月5日 - 1… 佐藤 保太郎(さとう やすたろう、1893年3月5日 - 1977年3月7日)は、日本の地理学者、教育者、教育学者。第二次世界大戦直後の学習指導要領改訂などに携わり教育界の発展に寄与した。奥州大学(現富士大学)教授を歴任。
黒川 武雄(くろかわ たけお、1893年3月5日 - 197… 黒川 武雄(くろかわ たけお、1893年3月5日 - 1975年3月8日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。虎屋15代当主、参議院議員(3期)、厚生大臣(第19代)。旧姓は福田。 熊本県出身。製菓業、虎屋・黒川家の養子となる。第一高等学校を経て、1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、第一銀行に入社。1919年(大正8年)、家業に専念し虎屋店主、さらに同会長を務め、東京和生菓子商工業協同組合理事長、全国生菓子協会会長となる。 1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙に東京地方区で日本自由党から出馬し当選。のち自由党、自由民主党に所属。第3回、第5回参議院議員通常選挙で再選され3期務め、1965年(昭和40年)7月、第7回参議院議員通常選挙には出馬せず引退した。
大岬 伝左衛門(おおみさき でんざえもん、1893年3月5日… 大岬 伝左衛門(おおみさき でんざえもん、1893年3月5日 - 1926年12月23日)は、大正時代の力士。二十山部屋所属。本名は川浪 伝左衛門。青森県北津軽郡三好村(現五所川原市)出身。最高位は西十両筆頭。 1910年元横綱小錦の二十山部屋一行が五所川原で巡業を行った際、同郷の十三ノ浦の勧めで入門。翌1911年2月場所「清水川」の四股名で初土俵を踏む。順調に出世し、1914年1月場所から「大岬」に改名した。1917年1月場所新十両。この場所は1勝しかできず翌場所幕下に落ちたが、4勝1敗と勝ち越し十両復帰を果たした。1919年1月場所西十両4枚目まで躍進。この場所勝ち越して千秋楽に勝って星を増やせば入幕確実だったが、対戦相手の綾川と引き分けた。
高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3… 高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、茨城県出身の日本の俳人・医師。学位は、医学博士。高浜虚子に師事。虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践、簡潔で即物的な写生句で頭角を現し、山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称された。「芹」主宰。本名:高野与巳(よしみ)。 1893年、茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。農家の長男で、小学校卒業まで利根川とその支流小貝川に囲まれた美しい田園地帯で育った。1905年、新潟県長岡市に住む叔父のもとに寄宿し新潟県立長岡中学校に入学。第一高等学校を経て、1913年に東京帝国大学医学部に入学。
松原 至大(まつばら みちとも、1893年3月3日 - 19… 松原 至大(まつばら みちとも、1893年3月3日 - 1971年3月15日)は、日本の童話作家・翻訳家。 千葉県千葉市辰州町出身。別姓・村山。 1910年千葉県立千葉中学校卒。 1915年早稲田大学文学部英文科卒。 1916年頃より少女小説を書く。 1918年東京日日新聞(現・毎日新聞)に入り、「小学生新聞」編集長を務める。 1926年童話作家協会創立に参加した。 1954年に制定された、母校である千葉県立千葉高等学校(旧千葉県立千葉中学校)の校歌を作詞している。
帰山 教正(かえりやま のりまさ、1893年3月1日 - 1… 帰山 教正(かえりやま のりまさ、1893年3月1日 - 1964年11月6日)は、日本の映画理論家、映画監督、脚本家である。 日本映画界に革新をもたらした人物であり、日本最初の映画評論誌『キネマ・レコード』を創刊した後、舞台の模写的作品に過ぎない旧来の日本映画の革新を目指して、純映画劇運動を提唱。理論書『活動写真劇の創作と撮影法』を発表して、女優の起用、活動弁士の廃止、映画技法の使用などを主張。映画藝術協會を設立して自ら映画製作を行ってその理論を実践した。 1893年(明治26年)3月1日、東京市麹町区麹町四番町に、父・信順と母・トキの長男として生まれる。父の信順は東京府立第一中学校の化学教師だった。
大矢 省三(おおや しょうぞう、1893年3月1日 - 19… 大矢 省三(おおや しょうぞう、1893年3月1日 - 1962年1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。 1893年三重県志摩郡(後の阿児町、現志摩市)生まれ。1912年、大阪府に転居。大阪府立西野田職工学校卒業。 1926年、社会民衆党入党。1929年、大阪市会議員に此花区選挙区から当選。1945年、日本社会党結成に参加 1946年、第22回衆議院議員総選挙大阪府1区初当選。以後連続8期務める。 1948年、芦田内閣労働政務次官。1955年、衆議院地方行政委員長。1960年、民主社会党(後の民社党)結成に参加。1962年1月19日、衆議院議員在任中に大阪府大阪市の大阪市立桃山病院において死去、68歳。
上山 英三(うえやま えいぞう、1893年〈明治26年〉3月… 上山 英三(うえやま えいぞう、1893年〈明治26年〉3月1日 - 1981年〈昭和56年〉11月29日)は、日本の銀行家。台湾銀行頭取、全国相互銀行協会会長などを務めた。日貿信名誉顧問。大日本除虫菊取締役。 和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)出身。1917年3月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。大蔵省に入り、日本銀行監理官・銀行局検査課長・為替局長などを歴任し1937年、日本興業銀行理事に挙げられた。 日仏銀行取締役、商工組合中央金庫理事に選任された。1942年に台湾銀行副頭取に転じ、1944年に頭取に推され、1945年に退任する。1962年、歌会始の召人を務めた。 上山家は和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)の蜜柑農家である。
今 純三(こん じゅんぞう、1893年(明治26年)3月1日… 今 純三(こん じゅんぞう、1893年(明治26年)3月1日 - 1944年(昭和19年)9月28日)は、日本の銅版画家。銅版画の技法研究にほぼ独力で取り組み、昭和初期における日本の銅版画の普及に関与した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
都家 文雄(みやこや ふみお、1893年3月1日 - 197… 都家 文雄(みやこや ふみお、1893年3月1日 - 1971年5月4日)は大正・昭和期の漫才師。本名・苗村 正次。 世相を槍玉に上げては、とんちんかんな難癖を付ける「ぼやき漫才」の創始者。 滋賀県三上山の麓に生まれる。父は興行師だったとされる。落語家を志し、1912年に桂三路(後の2代目三遊亭圓若)門下で桂歌路を名乗る。同年、神戸新開地・千代廼座で初舞台。落語家時代は、端席で出ることが多かった。24歳のときに、のちに相方となる静代と結婚。 大正に入ると、上方落語は凋落期に入った。当時の落語家は所属事務所から漫才師への転身をすすめられる事例が多かった。歌路も例外ではなく、1921年に「都家文雄」に改名し、漫才師に転身。
宮寺 敏雄(みやでら としお、1892年(明治25年)3月3… 宮寺 敏雄(みやでら としお、1892年(明治25年)3月31日 - 1968年(昭和43年)8月1日)は、昭和時代に活動した日本の実業家。大同電力取締役、揖斐川電気工業(現・イビデン)社長などを務めた。静岡県出身。 宮寺敏雄は1892年(明治25年)3月31日、宮寺昇作の次男として生まれた。出身は静岡県沼津市。沼津中学校を経て慶應義塾大学部理財科に進み、1915年(大正4年)卒業。親戚に銀行家が多かったため周囲から三井銀行への就職を勧められたがこれを断り、日本陶器に入るため名古屋市へ赴く。しかし同社への入社が叶わなかったため、福澤桃介に面会して彼が経営する電力会社名古屋電灯株式会社に入社することとなった。
野坂 参三(のさか さんぞう、1892年〈明治25年〉3月3… 野坂 参三(のさか さんぞう、1892年〈明治25年〉3月30日 - 1993年〈平成5年〉11月14日)は、日本の政治家、共産主義者。衆議院議員(3期)、参議院議員(4期)。コミンテルン(共産主義インターナショナル)日本代表、日本共産党の第一書記、議長、名誉議長などを務めたが、大粛清時代に同志の山本懸蔵らをNKVDに讒言密告して死刑に追いやっていたことが最晩年になって発覚し、日本共産党から除名された。初名は小野 参弎(おの さんぞう)。中国では岡野 進や林 哲とも称した。ペンネームは野坂鉄嶺、野坂鉄など。 山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弎と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。
金光 弥一兵衛(かなみつ やいちひょうえ、1892年3月30… 金光 弥一兵衛(かなみつ やいちひょうえ、1892年3月30日 - 1966年12月25日)は、日本の柔術家、柔道家(講道館9段・大日本武徳会柔道教士)。 柔術各派や大日本武徳会にて柔道を修行して明治神宮競技大会柔道競技優勝という実績を残す傍ら、大正期から昭和初期にかけ旧制第六高校において柔道を指導し弟子たちと共に膝十字固や三角絞を生み出すなど高専柔道の発展に大きく貢献し、寝技の大家としてその名を知られた。 岡山県岡山市の出身。かつて岡山藩では池田家が起倒流を、分家の天城池田家が竹内流を公式の柔術として採用し互いに技を競い合った関係で岡山の地には両流派が根付いており、金光は少年時代より起倒流を岸本重太郎に、竹内流を今井行太郎に学んだ。
石黒 岩太(いしぐろ いわた、1892年(明治25年)3月3… 石黒 岩太(いしぐろ いわた、1892年(明治25年)3月30日 - 1951年(昭和26年)10月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
石田 栄熊(いしだ えいぐま、1892年(明治25年)3月3… 石田 栄熊(いしだ えいぐま、1892年(明治25年)3月30日 - 1969年(昭和44年)8月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級 鹿児島県、現在の鹿児島市出身。陸軍士官学校第27期、陸軍大学校第39期卒業。1938年(昭和13年)に陸軍歩兵大佐進級と同時に留守第7師団参謀長に任官された。1939年(昭和14年)に陸軍兵器廠附となり、1941年(昭和16年)に陸軍少将に進級。 1942年(昭和17年)に第3野戦鉄道司令官となり、太平洋戦争に出動。1943年(昭和18年)2月3日に第4特設鉄道司令官、8月6日に第2鉄道監を兼任し、1944年(昭和19年)に南方軍野戦鉄道司令官に転じる。
志賀 勝(しが まさる、1892年3月29日 - 1955年… 志賀 勝(しが まさる、1892年3月29日 - 1955年8月1日)は、日本のアメリカ文学者。 愛媛県宇和島市出身。関西学院高等学部文科英文学科卒業、のち母校教授、戦後は関西学院大学英文科主任教授を務めた。早くからアメリカ文学に注目し、病気に苦しみながら著作、翻訳多数を上梓した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
落合 甚九郎(おちあい じんくろう、1892年(明治25年)… 落合 甚九郎(おちあい じんくろう、1892年(明治25年)3月28日 - 1971年(昭和46年)11月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 栃木県出身。栃木中学校(現栃木県立栃木高等学校)卒業を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第59連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1928年(昭和3年)8月、陸士付となり、さらに同教官を務め、1929年(昭和4年)8月、歩兵少佐に昇進。1930年(昭和5年)2月、応聘により支那出張となり北京陸軍大学教官に就任。1931年(昭和6年)3月、第7師団司令部付となり、歩兵第26連隊付、支那駐屯軍司令部付を経て、1934年(昭和9年)8月、歩兵中佐に進み第2師団参謀に就任。
鍋島信太郎(なべしま のぶたろう、1892年3月28日 - … 鍋島信太郎(なべしま のぶたろう、1892年3月28日 - 1973年8月22日)は、日本の数学者・数学教育学者。 和歌山県橋本市出身。和歌山県師範学校予備科卒、東京高等師範学校卒、東京高等師範学校教授、1949年東京教育大学教授。1956年定年退官、日本数学教育学会名誉会員。
正木 亮(まさき あきら、1892年3月25日 - 1971… 正木 亮(まさき あきら、1892年3月25日 - 1971年8月22日)は、昭和期(戦前〜戦後)の監獄学・刑事政策の実践的法学者。戦後は死刑廃止の提唱者として日本における死刑廃止運動の中心的役割を担った。 広島県佐伯郡玖波村(現・大竹市玖波)出身。旧制三次中学校(のち三次高等学校)から第二高等学校を経て1918年、東京帝国大学法科大学法律学科(ドイツ法)卒。 大学在学中から牧野英一の教育刑論やトルストイの影響を受け、監獄の改善に強い関心を持つ。1916年(大正5年)1月1日、巣鴨監獄を参観。音羽の護国寺から田圃や雑木林を通り、はるか彼方に見える高い壁のそこに至るまでには一軒の農家さえなかったという。
佐藤 久喜(さとう ひさよし、1892年 <明治25年> 3… 佐藤 久喜(さとう ひさよし、1892年 <明治25年> 3月25日 - 1970年 <昭和45年> 8月11日)は、日本の経営者。三井金属鉱業元社長。位階は正五位。 熊本県出身。1917年に京都帝国大学採鉱冶金学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。 1945年に取締役に就任し、1947年に常務を経て、1950年には神岡鉱業(のちの三井金属鉱業)社長に就任し、1958年8月までに務めた。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1970年8月11日冠状動脈硬化症のために死去。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
御西山 政夫(おにしやま まさお、1892年3月25日 - … 御西山 政夫(おにしやま まさお、1892年3月25日 - 1978年8月30日)は、茨城県水戸市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は田中 正夫。第19代横綱・常陸山谷右エ門の従弟(甥とも伝わる)。170cm、92kg。最高位は東前頭6枚目。 1910年6月初土俵、1917年5月十両昇進。1918年5月新入幕したが、この場所途中休場してからは成績不振に陥り、一度は幕下まで転落した。なお、御西山の四股名は常陸山谷右エ門が若い時分に名乗っていたものである。 1923年1月に廃業し剣道家に転向した。
阿部 孝壮(あべ こうそう、1892年(明治25年)3月24… 阿部 孝壮(あべ こうそう、1892年(明治25年)3月24日 - 1947年(昭和22年)6月19日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 1892年3月24日、父・阿部周治、母・つる の五男として山形県東田川郡押切新田村(現・三川町)に生れる。実家は、味噌・醤油の醸造業を営む。荘内中学校を経て、1912年7月、海軍兵学校(40期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。第一次世界大戦では「八雲」乗組として青島攻略戦に参加した。1919年12月、海軍砲術学校高等科を卒業し、以後、砲術畑を歩む。 「山風」「秋風」の各砲術長、「陸奥」分隊長、「山城」「浅間」「長門」の各副砲長、海兵教官、「那珂」「足柄」「榛名」「日向」の各砲術長を歴任。
今村 等(いまむら ひとし、1892年〈明治25年〉3月23… 今村 等(いまむら ひとし、1892年〈明治25年〉3月23日 - 1979年〈昭和54年〉11月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。労働運動家。 熊本県玉名郡八嘉村(現:玉名市)出身。今村畑喜の長男として生まれた。小学校卒業後、炭鉱夫として働き、友愛会に入る。1920年(大正9年)香焼炭鉱争議を指導し、検挙され投獄される。出獄後の1929年(昭和4年)日本大衆党から長崎市会議員となる。その後は国家社会主義に転向し、長崎県会議員となる。1945年(昭和20年)8月、長崎市への原子爆弾投下により被爆し、長女が死亡した。 1946年(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙で長崎県から日本社会党公認で立候補して初当選。
勝又 春一(かつまた はるいち、1892年(明治25年)3月… 勝又 春一(かつまた はるいち、1892年(明治25年)3月21日 - 1964年(昭和39年)12月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。初代御殿場市長(3期)。 静岡県駿東郡御殿場町(現:御殿場市)出身。御殿場農業学校(現:静岡県立御殿場高等学校)を経て、1914年早稲田工手学校卒。卒業後は山梨県林業技士となり、その後は地元御殿場で土木・電気工事請負や畜産業を営んだ。 1932年の第18回衆議院議員総選挙に静岡2区から立憲政友会公認で立候補し初当選。次の1936年の第19回衆議院議員総選挙で再選。1937年の第20回衆議院議員総選挙では落選した。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では非推薦で立候補して当選した。
小池 四郎(こいけ しろう、1892年(明治25年)3月21… 小池 四郎(こいけ しろう、1892年(明治25年)3月21日 - 1946年(昭和21年)3月11日)は、日本の社会事業家、政治家。衆議院議員。 東京市神田区神田錦町(現東京都千代田区)で、書家・小池淡(学山)の四男として生まれる。1917年7月、東京帝国大学工学部採鉱学科を卒業。 卒業後、鈴木商店に入社。帝国炭業木屋瀬鉱業所長となり、1924年、社会運動に加わるため退社し、上京して出版社クララ社を立ち上げた。 1926年、社会民衆党の結成に加わり、中央執行委員、福岡県支部連合会会長を務めた。1932年2月、第18回衆議院議員総選挙に福岡県第四区から出馬して当選。同年5月、赤松克麿が結成した国家社会主義政党・日本国家社会党に参加し中央執行委員、組織部長、福岡県支部連合会会長に就任。
本郷 義夫(ほんごう よしお、1892年3月20日 - 19… 本郷 義夫(ほんごう よしお、1892年3月20日 - 1962年6月28日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。
松川 サク(まつかわ さく、1892年(明治25年)3月19… 松川 サク(まつかわ さく、1892年(明治25年)3月19日 - 1986年(昭和61年)11月29日)は、日本の実業家であり、相模ゴム工業の初代会長である。日本で初めてコンドームの開発と商品化に成功し、一代で相模ゴム工業を避妊器具のトップメーカーに育て上げた。 神奈川県愛甲郡小鮎村(現:神奈川県厚木市)に生まれる。旧姓は市野。父は祖父から受け継いだ製紙工場を経営していた。6人兄弟の3番目の次女として生まれる。幼少期から負けず嫌いのわんぱく娘であった。 実業補習学校を4年間修了後に東京で行儀見習いを経験し、その後、同年の松川儀良と結婚した。夫の勧めで、神奈川県一帯で横浜の長者町にて医療用酸素の卸売業を開始した。
片桐 茂(かたぎり しげる、1892年(明治25年)3月18… 片桐 茂(かたぎり しげる、1892年(明治25年)3月18日 - 1944年(昭和19年)4月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 香川県出身。旧制香川県立三豊中学校(第6回)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。 同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し、参謀本部に配属された。 1926年(大正15年)9月、朝鮮軍司令部付としてポグラニチナヤ特務機関長に就任。その後、参謀本部員、陸大専攻学生、陸大教官、陸士付、三笠宮附武官、陸軍騎兵学校教官、騎兵第27連隊長などを歴任。 1937年(昭和12年)8月、騎兵大佐に昇進。
林 柳波(はやし りゅうは、1892年〈明治25年〉3月18… 林 柳波(はやし りゅうは、1892年〈明治25年〉3月18日 - 1974年〈昭和49年〉3月27日)は、日本の童謡作詞家、詩人、薬剤師。本名は林 照寿(はやし てるひさ、旧字体: 林 照壽)。沼田市名誉市民。兄は陸軍獣医少将の林里二。作詞は1千編を超え、レコードに吹き込まれたものは500余りあるとされる。 1892年(明治25年)、群馬県利根郡沼田町材木町(現・沼田市)の農家・林菊三郎の三男として生まれた。父菊三郎は帰農はしていたものの階級は士族であったという。早くから雑誌へ童謡詩の投稿を行う文学少年だった。1905年(明治38年)沼田小学校高等科を卒業。県立前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)に学ぶが中退し、兄・里二を頼って上京。
両國 勇治郎(りょうごく ゆうじろう、1892年3月18日 … 両國 勇治郎(りょうごく ゆうじろう、1892年3月18日 - 1960年8月10日)は、秋田県仙北郡外小友村(旧:秋田県仙北郡南外村、現:秋田県大仙市)出身の大相撲力士。本名は伊藤 勇治郎(いとう ゆうじろう)(旧姓:西村)。最高位は東関脇。 まだ肌寒い1892年3月18日に秋田県仙北郡で生まれた。出身地である秋田県に入間川清藏一行が巡業に訪れた際に見出されてそのまま入門、両国国技館が開館した1909年6月場所で初土俵を踏んだ。小兵だが色白で均整のとれた筋肉質な体格は人気があり、さらに足腰の強さから稽古場では大錦卯一郎が相手でも勝てないほどだったという。この恵まれた体質と土俵度胸を生かして順調に出世すると、新入幕の1914年5月場所ではいきなり9勝1休の好成績を挙げ、幕内最高優勝を果たした。
宮下 健一郎(みやした けんいちろう、1892年(明治25年… 宮下 健一郎(みやした けんいちろう、1892年(明治25年)3月17日 - 1959年(昭和34年)5月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)、宮下民雄の長男として山形県米沢市福田町に生まれる。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1938年(昭和13年)、陸軍歩兵大佐に昇進。1941年(昭和16年)、陸軍少将に進級。1943年(昭和18年)6月、第32歩兵団長に就任し太平洋戦争に出征、中国で従軍した。独立歩兵第1旅団長、第1国境守備隊長を経て、1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み、翌月、第157師団長に着任し、青森県三本木(現在の十和田市)で本土決戦に備えたが、交戦することなく終戦を迎えた。
高原 美忠(たかはら よしただ、明治25年(1892年)3月… 高原 美忠(たかはら よしただ、明治25年(1892年)3月16日 - 平成元年(1989年)6月12日)は、日本の神道学者、神職。八坂神社名誉宮司、皇學館大学学長。 明治25年(1892年)3月16日、岡山県岡山市に喜三治・辰野の子として生まれる。明治44年(1911年)岡山県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)卒業、大正5年(1916年)神宮皇學館本科卒業。 和歌山県立農林学校(現在の和歌山県立南部高等学校)教諭、神戸市神港商業学校(現在の神戸市立神港高等学校)教諭を経て、大正12年(1923年)より日光東照宮禰宜。翌年、白山比咩神社宮司、昭和8年(1933年)函館八幡宮宮司、昭和11年(1936年)弥彦神社宮司。
田中 善内(たなか ぜんない、1892年(明治25年)3月1… 田中 善内(たなか ぜんない、1892年(明治25年)3月14日 - 1972年(昭和47年)5月17日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、佐賀県小城郡芦刈村長。 佐賀県小城郡芦刈村大字下古賀(芦刈町を経て現小城市芦刈町下古賀)で、田中慶蔵の孫として生まれる。1912年(明治45年)東京農業大学高等科を卒業。19120年(大正元年)家督を相続し農業を営む。 政界では、芦刈村収入役、同村長、同村会議員、佐賀県会議員、同副議長を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙で佐賀県全県区から日本自由党所属で出馬し当選し、衆議院議員に1期在任した。 その他、芦刈村農会長、小城郡水産会長、佐賀県水産業会長、芦刈村漁業協同組合長、佐賀県信用漁業協同組合連合会長、同県有明海漁業協同組合連合会長などを務め、水産業の振興に尽力した。
生田 春月(いくた しゅんげつ、1892年3月12日 - 1… 生田 春月(いくた しゅんげつ、1892年3月12日 - 1930年5月19日)は、日本の詩人。ハインリヒ・ハイネなど、外国文学の翻訳も多い。妻生田花世は平塚らいてう主宰の「青鞜」同人作家。本名は清平。 明治25年(1892年)3月12日、鳥取県西伯郡米子町(現米子市)に生まれる。家業は酒造業。明治36年(1903年)米子角盤高等小学校中退。生家の没落により進学できず、1908年、17歳の時に上京して生田長江の書生となり、文学とドイツ語を学ぶ。 1914年、生田花世と同棲を始める(事実婚)。大正6年(1917年)に最初の詩集『霊魂の秋』を刊行。美男子でロマンティックな詩を書く春月は、1920年から1923年にかけての『文章倶楽部』のアンケートでは夏目漱石を凌ぐ人気だった。
酒井 康(さかい やすし、1892年3月11日 - 1986… 酒井 康(さかい やすし、1892年3月11日 - 1986年8月1日)は、日本の陸軍軍人。第17師団長・留守第56師団長・陸軍兵器本部企画部長等を歴任し、階級は陸軍中将勲一等に至る。東京府出身。
高柳 光寿(たかやなぎ みつとし、1892年3月11日 - … 高柳 光寿(たかやなぎ みつとし、1892年3月11日 - 1969年12月1日)は、日本の歴史学者。高柳 光壽とも。自身で「髙柳」と署名しているものもある。國學院大學教授。大正大学教授。静岡県出身。専門は日本中世史、特に戦国時代史。足利尊氏研究、戦国史研究の権威。 静岡県敷知郡浜松町(現在の浜松市)に神主高柳喜一郎の長男として生まれる。1914年、國學院大學国史科を優等の成績で卒業。1916年に東京帝国大学史料編纂所に勤務、1926年には史料編纂官となって、『大日本史料』安土桃山時代の編纂を担当。また、1921年から1944年まで國學院大學教授を、1947年から1969年まで大正大学教授を兼任。