小笠原 二三男(おがさわら ふみお、1910年〈明治43年〉… 小笠原 二三男(おがさわら ふみお、1910年〈明治43年〉4月12日 - 1977年〈昭和52年〉7月5日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 岩手県遠野市出身。1930年(昭和5年)岩手県師範学校専攻科を卒業した。 小学校教員を20年間勤めた。戦後、労働運動に加わり全日本教員組合協議会副委員長に就任。日本教職員組合が結成され書記長に就任し、さらに同副委員長に就任。その他、日本教育会常務理事、教育刷新審議会委員、日本教育会館専務理事、日本社会党中央執行委員などを務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で岩手県第1区に社会党公認で出馬して次点で落選。1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に出馬して当選し、1956年(昭和31年)7月の第4回通常選挙でも再選され、参議院議員に連続2期在任した。
伊藤 一(いとう はじめ、1910年(明治43年)4月11日… 伊藤 一(いとう はじめ、1910年(明治43年)4月11日 - 1974年(昭和49年)9月26日)は、日本の政治家、内務官僚。1947年4月6日から1971年4月30日まで、24年の長きに渡って一宮市長を務めた(第5代-第10代)。一宮市名誉市民。 愛知県愛知郡鳴海町(現・名古屋市緑区)に生まれた。愛知県立一宮中学校(現・愛知県立一宮高等学校)卒業。1930年(昭和15年)3月、旧制第八高等学校卒業。1932年(昭和7年)10月、高等試験行政科試験に合格。1933年(昭和8年)に東京帝国大学法学部法律学科を卒業すると同時に内務省に入省し、地方事務官・厚生事務官・内務事務官を経験。陸軍司政官としてスマトラ島に渡り、ランボン州やパレンバンで産業部長を務め、現地で太平洋戦争終戦を迎えた。
井手 俊郎(いで としろう、1910年4月11日 - 198… 井手 俊郎(いで としろう、1910年4月11日 - 1988年7月3日)は、日本の脚本家。息子はプロ野球・元中日ドラゴンズ選手の井手峻。筆名(併用)=権藤利英、三木克巳。 佐賀県北波多村徳須江出身。祖父・井手豊助は1890年(明治23年)の公選で初代北波多村長となり、父の金次郎は政友会を北波多村に建て村議となった。生家は質店を営み、現存する当時の店舗兼住宅建物は2019年に国の登録有形文化財に登録されている。 旧制佐賀県立唐津中学(現・佐賀県立唐津東中学校・高等学校)を経て、官立東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部意匠科)を卒業する。 商業美術家としてパピリオ化粧品、アサヒビール、婦人画報社などの宣伝部嘱託を務めた。
児玉 政吉(こだま まさきち、1910年(明治43年)4月1… 児玉 政吉(こだま まさきち、1910年(明治43年)4月10日 - 1987年(昭和62年)10月27日)は、日本の政治家。秋田県鹿角市長。位階は従五位。 秋田県鹿角郡柴平村(のち花輪町、現・鹿角市)出身。1925年、柴平村立平本尋常高等小学校卒。1935年、三菱金属鉱業尾去沢鉱業所に入る。戦後、日本社会党に入り、1947年、尾去沢町議会議員に当選、3期務める。1959年、尾去沢町長に当選。鹿角市に合併するまで4期務めた。この間、鹿角郡町村会長、秋田県町村会副会長を務めた。1972年に鹿角市が発足、市政執行者となった。1976年、鹿角市長に立候補し、現職の阿部新を破って当選する。1980年に再選を目指したが、元市長の阿部新に敗れた。
葛野 辰次郎(くずの たつじろう、1910年(明治43年)4… 葛野 辰次郎(くずの たつじろう、1910年(明治43年)4月10日 - 2002年(平成14年)3月27日)は、アイヌ語・アイヌ文化の伝承者。 北海道日高管内・静内郡静内町字東別(現・日高郡新ひだか町)に生まれ育つ。祖父は和人(青森県むつ市田名部出身)、祖母はアイヌ。父・小天(民族名 Kocinpauk)と母・タク(民族名 ukaecure)の8人兄弟の末子として生まれる。つる夫人(1912-1989)は和人だが、幼児期より静内町東静内のアイヌに育てられ、アイヌ語もよくできた。アイヌ語で育ったが、小学校は和人と同じ学校であったため日本語を学んだ。和人との交流が深まるにつれ、日本語中心の生活になり、アイヌ語はあまり使わなくなった。
白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006… 白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006年10月30日)は、日本の漢文学者・東洋学者。学位は文学博士(京都大学)。立命館大学名誉教授、名誉館友。福井県福井市出身。 1923年、福井市の順化尋常小学校(現・福井市順化小学校)を卒業後、大阪市に移り弁護士・広瀬徳蔵(大阪府会議員を経て立憲民政党代議士)の事務所に住み込みで勤務しながら、成器商業学校夜間部(現・大阪学芸高等学校)に通う。この時期に廣瀬の蔵書を読み漁り漢籍に親しみ独学していった。1930年、京阪商業学校(現・大阪府立芦間高等学校)卒業。 立命館大学専門学部国漢科(夜間)を1936年に卒業。在学中より立命館中学校教諭も務め、1941年には立命館大学法文学部漢文学科に入学。
マキノ 登六(マキノ とうろく、1910年4月8日 - 19… マキノ 登六(マキノ とうろく、1910年4月8日 - 1932年6月7日)は、日本の俳優である。本名は林 喜一郎()、マキノ家の人間ではない。当初は片岡 十六()を芸名とし、マキノ 十六()、嵐寛寿郎プロダクションでは片岡 市太郎()と名乗った。 1910年(明治43年)4月8日、京都市に生まれる。下京区中立売通猪熊通下ルの京都市立聚楽小学校(1997年に西陣中央小学校に統合されて廃校)を卒業、旧制東山中学校に在学、天然色活動写真を経て、1923年(大正12年)に牧野省三のマキノ映画製作所に入社した。まだ13歳のときであった。 「マキノ・プロダクション」設立後の1926年(大正15年)には、井上金太郎のオリジナル脚本による監督作『喧嘩日記』で、主演のマキノ正唯(のちのマキノ正博)の友人役を、「片岡十六」名義で、滝沢憲(のちの映画監督滝沢英輔)や玉木潤一郎(のちの映画プロデューサー)とともに演じている。
斯波 四郎(しば しろう、1910年4月7日 - 1989年… 斯波 四郎(しば しろう、1910年4月7日 - 1989年4月29日)は山口県阿東町(現:山口市)出身の作家で、本名は柴田 四郎である。
岡田 広(岡田 廣、おかだ ひろし、1910年(明治43年)… 岡田 広(岡田 廣、おかだ ひろし、1910年(明治43年)4月6日 - 2005年(平成17年)7月10日)は、日本の政治家。参議院議員(3期、自由民主党)。軍恩連盟全国連合会理事長。 現在の栃木県矢板市出身。1936年(昭和11年)東京帝国大学文学部教育学科を卒後、石黒奨学資金研究員。翌年陸軍に召集され、宇都宮輜重兵第14連隊に入営し、1938年(昭和13年)より日中戦争に出征。1940年(昭和15年)、招集解除となり、石黒忠篤農林大臣秘書官。 1941年(昭和16年)に再招集され、同年7月より関特演により宇都宮にて新規編成された独立自動車第38大隊の第4中隊長に任ぜられる。8月の編成完結をもって満州牡丹江、台湾基隆を経て太平洋戦争後は南方戦線に投入され、フィリピン攻略戦に参加、翌年ニューブリテン島ラバウルに派遣され、1943年(昭和18年)8月19日、中隊将兵180名とともにニューアイルランド島ラトブに分遣。
木村 武千代(きむら たけちよ、1910年〈明治43年〉4月… 木村 武千代(きむら たけちよ、1910年〈明治43年〉4月5日 - 2000年〈平成12年〉11月28日)は、昭和期の官僚、政治家。衆議院議員(6期)。位階は正四位。 香川県大川郡津田町(現さぬき市)で生まれた。1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部を卒業。高等試験行政科試験に合格し拓務省に入省。外務省に移り外務書記生となりメキシコ公使館などで勤務。その後、陸軍中野学校を卒業し、陸軍大尉に進み除隊した。 三土忠造代議士の秘書を経て、大映に入社。永田雅一の社長秘書、外国部長などを務めた。東瀝青建設取締役も務めた。 1963年(昭和38年)、第30回衆議院議員総選挙に旧香川1区から自由民主党公認で出馬し初当選。
春名 好重(はるな よししげ、1910年4月5日 - 200… 春名 好重(はるな よししげ、1910年4月5日 - 2004年6月27日)は、書の研究家、国士舘大学名誉教授。 岡山県生まれ。東京帝国大学文学部国文学科卒業。国士舘大学教授・文学部長を務めた。日本書道史を研究。本名・斎藤秀雄。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
木村 武夫(きむら たけお、1910年4月3日 - 1986… 木村 武夫(きむら たけお、1910年4月3日 - 1986年12月29日)は、日本史学者、社会事業学者。栄照寺住職。 京都市生まれ。別名・武応。1933年京都帝国大学文学部国史学科卒。大阪経済大学助教授、教授、龍谷大学教授、神戸女子大学教授、種智院大学教授。
白石 敏夫(しらいし としお、1910年(明治43年)4月2… 白石 敏夫(しらいし としお、1910年(明治43年)4月2日 - 1995年(平成7年)11月5日)は、日本の政治家。埼玉県三郷市長(初代 - 第3代)。 埼玉県北葛飾郡八木郷村(のち東和村、現・三郷市)出身。1935年、報知新聞社に入る。その後、満州国に渡り、満州国協和会中央本部に勤務する。間もなく帰国し、1943年、東和村会議員となる。議員を一時辞めて、出版業に従事する。 1957年、三郷村議会議員となり、のち同村助役に就任する。 1967年、三郷町長に当選、 町長2期目の1972年、三郷町の単独市制施行により、 初代の三郷市長となる。1975年、初めての市長選挙で再選(通算3選・4期)。
小川 正太郎(おがわ しょうたろう、1910年4月1日 - … 小川 正太郎(おがわ しょうたろう、1910年4月1日 - 1980年10月27日)は、大正末期から昭和初期にかけて活躍した日本の野球選手、新聞記者。当時史上屈指の好投手として、またアマチュア球界の要職を務め、日本の野球人気の高揚に貢献した。 大会初の連続優勝など当時中学球界随一の強豪であった和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)在学中の5年間で8度甲子園の全国大会に出場した。快速球と「2階から落ちるような」と喩えられたカーブを武器に1926年(大正15年)夏第12回全国中等学校優勝野球大会の準決勝で8連続奪三振を記録。正太郎が達成した この記録は桐光学園・松井裕樹が更新するまで86年間破られなかった。
丸山 鉄雄(まるやま てつお、1910年(明治43年)4月1… 丸山 鉄雄(まるやま てつお、1910年(明治43年)4月1日 - 1988年(昭和63年)12月26日)は日本の芸能プロデューサー・音楽評論家。東京府出身。
石賀 修(いしが おさむ、1910年4月1日 - 1994年… 石賀 修(いしが おさむ、1910年4月1日 - 1994年10月17日)は、日本の高校教諭、翻訳家、平和運動家。キリスト教徒。筆名イシガオサム。 福岡県出身。旧制福岡高等学校、東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。クエーカー、無教会主義のキリスト教に共鳴。療養生活中に、エスペラントとスウェーデン語を学ぶ。1934年、良心的兵役拒否者の支援などをしている平和主義国際組織「戦争抵抗者インターナショナル」WRIに加入し、1943年、良心的兵役拒否を実行。戦後は、国立療養所星塚敬愛園での勤務生活を経て、筑陽学園高等学校教諭。平和運動や人権活動の傍ら、セルマ・ラーゲルレーヴの作品を翻訳した。
小沢 栄一(おざわ えいいち、1910年4月1日 - 198… 小沢 栄一(おざわ えいいち、1910年4月1日 - 1986年1月6日)は、日本史学者。東京学芸大学名誉教授。 1938年東京文理科大学卒。1959年「十九世紀日本啓蒙史学の研究」で東京教育大学文学博士。東京学芸大学助教授、教授、75年定年退官、名誉教授、國學院大學教授。
甘露寺 忠長(かんろじ ただなが、1909年〈明治42年〉4… 甘露寺 忠長(かんろじ ただなが、1909年〈明治42年〉4月29日 - 1937年〈昭和12年〉3月24日)は、明治時代から昭和時代にかけての華族。伯爵甘露寺受長の嗣子。位階は従五位。 1909年(明治42年)4月29日、甘露寺受長の長男として誕生する。母は北白川宮能久親王第一王女の満子女王。姉に績子、壽子がいる。 1929年(昭和4年)5月15日、20歳で従五位に叙爵された。 1930年(昭和5年)3月28日、旧制学習院高等科文科丙類を卒業した。同年4月3日、京都帝国大学経済学部に入学した。 1933年(昭和8年)3月30日、学士試験に合格したことにより京都帝国大学を卒業した。 1937年(昭和12年)3月24日、卒去した。
金 意俊(キム・イジュン、キム・ウィジュン、朝鮮語: 김의준… 金 意俊(キム・イジュン、キム・ウィジュン、朝鮮語: 김의준、1909年4月28日または1916年2月19日 - 1985年2月14日)は、大韓民国の裁判官、検察官、弁護士、政治家。第2・3・4代韓国国会議員。本貫は延安金氏(朝鮮語版)。 京畿道驪州郡出身。京城第一高普、明治大学法科卒、高等考試司法科合格。検察庁春川支院検事、ソウル地方法院判事、ソウル高等法院判事、驪州支院長を経て政界入りし、国会議員3期、国会法制司法委員長、高等考試委員、国連総会オブザーバー韓国代表、自由党中央党宣伝部長・党務委員を務めた。 5・16軍事クーデター以降は政界を引退し弁護士として活動したが、脳卒中が発病してからは子供たちがいるアメリカに移住した。
村岡 重夫(むらおか しげお、1909年(明治42年)4月2… 村岡 重夫(むらおか しげお、1909年(明治42年)4月26日 - 1980年(昭和55年)7月25日は、日本の経済学者・地方公務員。専門は、北海道経済論・経済政策。札幌短期大学教授・同学長を歴任。 大阪市南区生まれ(父金三郎、母須恵長男)。1931年(昭和6年)官立大阪外国語学校卒業。南満州鉄道に入社。満州国産業部勤務を経て、満州国興安総省に入省。昭和16年山本清と婚姻。1945年終戦とともに北海道に引き揚げ。その後、北海道庁に入庁。1955年北海道庁総務部総合企画開発本部係長。札幌短期大学非常勤講師(~1969年)。1962年北海道立総合経済研究所(北海道庁研究機関)主任研究員。1969年札幌短期大学商学科教授。
金光 鑑太郎(こんこう かがみたろう、明治42年(1909年… 金光 鑑太郎(こんこう かがみたろう、明治42年(1909年)4月26日 - 平成3年(1991年)1月10日)は、金光教の四代金光様。書家、歌人、文化人、教育者。雅号は碧水(へきすい)。金光図書館を創設し、初代図書館長。昭和26年から平成2年まで、日本図書館協会顧問。昭和48年から平成2年までボーイスカウト日本連盟顧問。 明治42年4月26日、今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光攝胤とキクヨ(佐藤範雄の娘)の長男。父金光攝胤の死に伴う金光教教主選挙で、昭和38年7月9日二代目金光教主に就任、信奉者からは四代金光様と呼ばれた。 平成3年1月10日死去。死後は長男の金光平輝(こんこうへいき)が、教主に選出された。
相原 茂(あいはら しげる、1909年4月25日 - 199… 相原 茂(あいはら しげる、1909年4月25日 - 1993年12月8日)は、日本の経済学者。 静岡県出身。旧制一高を経て東京帝国大学経済学部卒。第一高等学校教授、1949年東京大学教養学部助教授、教授、1963-1966年教養学部長、1969年定年退官、名誉教授、信州大学教授、1975年定年。
増田 三男(ますだ みつお、1909年(明治42年)4月24… 増田 三男(ますだ みつお、1909年(明治42年)4月24日 - 2009年(平成21年)9月7日)は、埼玉県出身の彫金家。人間国宝(重要無形文化財保持)。 埼玉県北足立郡大門村(のち美園村、浦和市、現さいたま市)に生まれる。文展などへの出品のほか、埼玉県立浦和高等学校でも美術講師として勤務した。浦和高校時代は美術部に入部し、2歳下の高田誠と親交が深く、卒業後も恩師である福宿光雄を囲って「連穂会」を開いていた。
杉 柾夫(すぎ まさお、1909年4月24日- 1975年1… 杉 柾夫(すぎ まさお、1909年4月24日- 1975年1月11日)は、日本の漫画家、政治家。本名:杉浦 茂。 1909年、京都市左京区に生まれる。桃山中学校を卒業。1908年生まれの同姓同名の漫画家杉浦茂は同い年である。杉が上京して漫画家として活動する前から、杉浦は田河水泡門下で漫画家デビューし少年少女向けで活動していた。杉は杉浦と相談した結果、「杉柾夫」のペンネームを用いて漫画家活動を開始することにした。杉は子供向け漫画の杉浦とジャンルを住み分けるために、政治漫画や左翼系の風刺漫画の執筆を中心に活動し、また朝日や読売等の新聞にも風刺漫画を連載した。1931年にはプロレタリア美術家同盟(ヤップ)に加入し、その後はヤップの後身である日本プロレタリア文化連盟(コップ)で活動した。
富永 次郎(とみなが じろう 1909年4月23日 - 19… 富永 次郎(とみなが じろう 1909年4月23日 - 1969年7月14日)は、日本の美術評論家。 東京本郷に生まれる。富永太郎は兄、富永三郎は弟。1925年(大正14年)12月旧制成城第二中学校4年のとき、兄太郎死去。1927年(昭和2年)富永太郎詩集を没後出版。旧制成城高等学校で大岡昇平や古谷綱武と知り合い、1929年(昭和4年)4月、同人雑誌『白痴群』創刊時に、同人として参加。同誌は、編輯人を河上徹太郎が務め、村井康男とその門下生たち、中原中也が創作や翻訳を寄せるものであった。京都帝国大学文学部美学科卒業。1940年(昭和15年)小説『黄昏暦』を出版。そのほかに美術書、こども向けの美術案内書の著作がある。
鈴木 朝英(すずき ともひで、1909年(明治42年)4月2… 鈴木 朝英(すずき ともひで、1909年(明治42年)4月23日 - 2000年(平成12年)9月11日)は、日本の教育学者。北海道大学名誉教授、元市立名寄短期大学学長。位階は正四位。 埼玉県熊谷市出身。1933年(昭和8年)東京帝国大学文学部卒業。同文学部助手。東京府豊島師範学校(現東京学芸大学)助教授。同教授を経て、1948年北海道大学教育学部助教授、1950年同教育学部教授。1973年(昭和48年)北海道大学停年退官。同名誉教授。市立名寄短期大学学長に就任。1977年(昭和52年)市立名寄短期大学退官。札幌商科大学人文学部人間科学科招聘教授(~1983年(昭和58年))。2000年死去。死没日付をもって正四位に叙された。
勝又 俊教(かつまた しゅんぎょう、1909年4月22日 -… 勝又 俊教(かつまた しゅんぎょう、1909年4月22日 - 1994年2月18日)は、日本の学僧・仏教学者。大正大学名誉教授。 1909年、新潟県で生まれた。東京大学文学部印度哲学科で学び、修了。 東洋大学教授。大正大学教授。1960年、学位論文『仏教における心識説の研究』を東洋大学に提出して文学博士号を取得。1978年、第22代大正大学学長に就任。同大学を退職し、名誉教授となった。 宗門においては、真言宗豊山派総本山長谷寺第79世能化。真言宗長者。千葉市広徳院住職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
宇野 利泰(うの としやす、1909年4月21日 - 199… 宇野 利泰(うの としやす、1909年4月21日 - 1997年1月6日)は、日本の翻訳家。日本文芸家協会、日本推理作家協会、各会員。 本名、太田 稔治(おおた としじ)。ペンネームは、江戸川乱歩の土曜会で知り合った翻訳家阿部主計が、タバコの「Union Leader」をもじって命名したもの。書籍によっては、太田 稔(おおた みのる)、多田 雄二(ただ ゆうじ)などの別名義を用いることもあった。 東京市神田区生まれ。実家は太田鉄工所を経営し、裕福な一家に生まれ育つも、宇野の代で工場は人手に渡っている。旧制武蔵高等学校を経て、1932年東京帝国大学独文科卒。 田園調布(4の70)の自宅の隣人は石坂洋次郎であり、海外推理小説に詳しかったことから江戸川乱歩の知遇を得、雑誌『宝石』(岩谷書店)の創刊に貢献。
仙石 永博(せんごく ながひろ、1909年4月20日 - 2… 仙石 永博(せんごく ながひろ、1909年4月20日 - 2001年1月20日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。大阪府大阪市出身。位階は従四位。 1934年に東京帝国大学法学部法科を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1956年5月に取締役に就任し、1961年3月に常務、1966年11月に専務を経て、1970年11月には社長に就任。1976年6月に会長、1981年6月に取締役相談役を経て、1983年6月に相談役に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1974年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2001年1月20日肺炎のために死去。91歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
武ノ里 武三(たけのさと たけぞう、1909年4月20日 -… 武ノ里 武三(たけのさと たけぞう、1909年4月20日 - 没年不明)は、青森県五所川原市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は吉崎 武三。最高位は東前頭14枚目(1943年1月場所)。173cm・94kg。得意技は左四つ、寄り。 1926年1月場所に初土俵を踏んで以降順調に出世し、東幕下5枚目で迎えた1930年10月場所で幕下優勝し、翌1931年1月場所に十両に昇進。しかし当場所は体調不良により4勝7敗と振るわず、翌5月場所も全休したため幕下に陥落。その直後の1932年1月の春秋園事件で天竜・大ノ里らと行動を共にし協会を脱退、翌年設立の関西角力協会に参加した。 関西角力協会では幕内で活躍、松ノ里、中ノ里とともに「大ノ里門弟三羽烏」と言われていた。
宮崎輝(みやざき かがやき、1909年(明治42年)4月19… 宮崎輝(みやざき かがやき、1909年(明治42年)4月19日 - 1992年(平成4年)4月17日)は、昭和・平成期の企業経営者。旭化成中興の祖と呼ばれた。勲一等瑞宝章受章。没後従三位追贈。吾妻町名誉町民及び延岡市名誉市民。 長崎県南高来郡山田村(現:雲仙市吾妻町)出身。長崎県立島原中学校に入学、同中学時代は市内の曹洞宗の禅寺晴雲寺で5年間寄宿生活を送った。第五高等学校を経て東京帝国大学法学部英法科卒業後、日本窒素肥料(現:チッソ)に入社。旭ベンベルグ絹糸(後の旭化成工業、現:旭化成)に配属となる。 総務課長、東京事務所長を経て38歳で取締役に選任。延岡工場で起きた労働争議の解決に尽力し、その手腕が認められる事となった。
菅 忠道(かん ただみち、1909年4月18日-1979年1… 菅 忠道(かん ただみち、1909年4月18日-1979年11月20日)は、児童文学研究家。 東京生まれ。父は陸軍軍人。1927年福岡県中学修猷館、1930年第五高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部教育学科中退。学生時代から東大セツルメントなどの児童文化運動に関わり、1936年保育問題研究会に参加し、事務局長格の仕事をする。1936-42年岩波書店の雑誌『教育』の編集に参加。1937年からは教育科学研究会生活教育研究部会に所属、その傍ら同じ頃から同研究会の校外教育研究会に参加し、児童文学に取り組む立場から校外の子どもの生活や教育活動を研究した。幼児教育を研究対象とすることから、保育問題研究会と教育科学研究会の双方をつなぐ役割を果たす。
南部 知伸(なんぶ とものぶ、1909年4月18日 - 没年… 南部 知伸(なんぶ とものぶ、1909年4月18日 - 没年不明 )は、日本の経営者。 大阪府大阪市出身。1934年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に阪神電気鉄道に入社。1957年4月に阪神百貨店常務に就任し、専務を経て、1963年11月に社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1990年6月には相談役に就任。1985年12月には大阪商工会議所副会頭に就任。 1981年11月に勲四等旭日小綬章を受章。
藤井 清(ふじい きよし、1909年4月17日 - 1998… 藤井 清(ふじい きよし、1909年4月17日 - 1998年10月6日)は、日本の歌人・国文学者。 福井県鯖江市生まれ。1939年広島文理科大学史学科卒。仙台の宮城県立第一高等女学校(現在の宮城県宮城第一高等学校)をふりだしに、宇都宮、福井など各地の高校、大学で教え、1969年退職。 1932年『国民文学』に入会し、松村英一に師事する。のち編集委員・選者。1978年「高樹会」会員となり、合同歌集「高樹」に参加。千代國一編集の歌誌「国民文学」の選者を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
杉浦 六右衛門(すぎうら ろくえもん、8代目、1909年4月… 杉浦 六右衛門(すぎうら ろくえもん、8代目、1909年4月16日 - 1995年5月28日)は、日本の経営者。小西六写真工業(現在のコニカミノルタ)社長、会長を務めた。東京都出身。 1934年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に小西六写真工業に入社。 1941年に社長に就任し、1968年4月までに務めた。 1955年に紺綬褒章を受章。 1995年5月28日肺炎のために死去。86歳没。
中村 實(なかむら みのる、1909年 <明治42年> 4月… 中村 實(なかむら みのる、1909年 <明治42年> 4月16日 - 1978年 <昭和53年> 10月20日)は、日本の経営者。静岡銀行頭取を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 静岡県浜松市出身。1930年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に三十五銀行(のちの静岡銀行)に入行。 1958年10月に取締役に就任し、1961年に常務、1970年4月に専務を経て、1973年11月から1978年6月までに頭取を務めた。 1978年10月20日内臓障害のために死去。69歳没。死没日付をもって正五位に叙され、勲三等瑞宝章を追贈された。
森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 -… 森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 - 1989年(平成元年)6月14日)は、兵庫県出身の児童文学作家・教育者。代表作は知的障害のある青年と地域との交流を描いた『じろはったん』。 1909年(明治42年)、兵庫県養父郡大蔵村宮田(現・朝来市和田山町)で、酒類販売業を営む父の次女として生まれた。1924年(大正13年)に大蔵尋常高等小学校高等科から兵庫県明石女子師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身のひとつ)に進学し、1928年(昭和3年)に明石女子師範学校を卒業した後、南谷尋常小学校の教員となり、その後養父尋常小学校に転任となった。 この頃に兄の友人であり後に結婚する森種樹との文通が始まり、1932年(昭和7年)に結婚した。
千葉 皓(ちば こう、1909年4月15日 - 1984年1… 千葉 皓(ちば こう、1909年4月15日 - 1984年1月20日)は、昭和時代(戦前から戦後)の日本の外交官。位階は正三位。 米国サンフランシスコに生まれ、1922年に帰国する。第二高等学校文科甲類を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業後、外交官試験に合格し、同年11月に外務省へ入省する。英国勤務を経て、東亞局に勤務する。1942年中国在勤。戦後、一時大蔵省に勤務するが、1947年終戦連絡中央事務局連絡官、1948年会計課長に復帰した。1952年メキシコ在外事務所所長、同年4月同国大使館参事官。1954年2月サンパウロ総領事。 1955年4月欧米局長、1957年4月欧米局長を経て、同年12月メキシコ大使に任ぜられる。
上原 小枝(うえはら さえ、1909年 <明治42年> 4月… 上原 小枝(うえはら さえ、1909年 <明治42年> 4月13日 - 1996年 <平成8年> 8月20日)は、日本の経営者。大正製薬社長、会長を務めた。静岡県下田市出身。位階は従五位。 夫は大正製薬社長、参議院議員などを歴任した上原正吉。正吉との間には実子は無く、そのため実兄の次男である上原昭二を養子に迎えている。 1955年7月に大正製薬取締役に就任し、1962年9月に副社長を経て、1965年6月には社長に就任。1966年9月に副社長、1973年5月に副会長、1981年6月に会長。当時は政治活動等で多忙な正吉に代わり、大正製薬の経営を実質的に采配しており、一部では「ゴッドマザー」とも称された。
吉田 幸一(よしだ こういち、1909年4月12日 - 20… 吉田 幸一(よしだ こういち、1909年4月12日 - 2003年1月9日)は、日本の国文学者、書誌学者、出版人、古典籍蒐集家。東洋大学名誉教授。 学位は、文学博士(東洋大学・論文博士・1961年)(学位論文『和泉式部日記の基礎研究』)。日本古典文学の叢書「古典文庫」を個人事業として編纂・発行したことなどで知られる。 1909年(明治42年)4月12日、静岡県静岡市に生まれる。1930年(昭和5年)4月東洋大学文学部国文学科入学、1933年(昭和8年)7月卒業。並行して東京外国語学校支那語専修科(夜間)で中国語を学ぶ。吉田は恩師として藤村作と久松潜一の名を挙げている。 会社勤務、小学校代用教員を経て、1939年(昭和14年)4月、静岡県立浜松商業学校・同工業学校嘱託(中国語担当)。
淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年〈明治42年〉4月… 淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年〈明治42年〉4月10日 - 1998年〈平成10年〉11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。 約32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説の締め括りに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」と強調して言う独特の語り口から全国的に有名になり、「ヨドチョーさん」「ヨドさん」「サヨナラおじさん」等と呼ばれる程に多くの視聴者に親しまれてきた。 兵庫県神戸市(兵庫区)西柳原町にて芸者置屋の跡取り息子として父・又七、母・りゅうのもとに生まれる。実母は、父の本妻の姪にあたった。長く病身で、自分に子ができないことを悔いた本妻が、妾として姪を夫に推薦したのだった。
三橋 富治男(みつはし ふじお、1909年〈明治42年〉4月… 三橋 富治男(みつはし ふじお、1909年〈明治42年〉4月10日 - 1999年〈平成11年〉5月2日)は、日本の東洋史学者。位階は従四位。 東京出身。慶應義塾大学文学部東洋史学科卒。外務省調査部嘱託、明治大学助教授を経て、千葉大学文理学部助教授、教授となる。1975年定年退官、名誉教授となる。トルコ史が専門。1999年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
村田 重治(むらた しげはる、1909年〈明治42年〉4月9… 村田 重治(むらた しげはる、1909年〈明治42年〉4月9日 - 1942年〈昭和17年〉10月26日)は、日本の海軍軍人。海兵58期。南太平洋海戦で米空母「ホーネット」攻撃後に戦死した。二階級特進により最終階級は海軍大佐。 1909年(明治42年)4月9日、長崎県南高来郡島原村新馬場に父円の次男として生まれる。村田家は士族で、祖父・重太郎は戊辰の役に兵士として参加している。重治の幼少時代は、成績は小学校、中学校ともに優秀だが、控えめで口数も少なくどちらかと言うと目立たなかったが、相撲と剣道は強かった。中学時代の渾名は「ガジ」であり、当時の級友によれば「決してガジガジの性格から来たものではなく、背が低くてがっしりしていたので、その感じから自然と“ガジ”という渾名が付いたものと思う」という。
信夫 清三郎(しのぶ せいざぶろう、1909年4月8日 - … 信夫 清三郎(しのぶ せいざぶろう、1909年4月8日 - 1992年10月10日)は、日本の政治学者・歴史学者。日本政治学会理事長。名古屋大学名誉教授。 外交官で国際法学者の信夫淳平の三男として、父の任地である韓国の仁川で生まれる。信夫韓一郎(新聞記者、元朝日新聞社代表取締役専務)は兄。1934年、九州帝国大学を卒業し、マルクス主義的な立場から在野で日本近代史の研究を行う。唯物論研究会に所属し、1938年には治安維持法違反容疑で、特別高等警察に逮捕されたこともある。 1943年9月に出版した『ラッフルズ――イギリス近代的植民政策の形成と東洋社会』(日本評論社)は、発売一週間で内務省により敵国のイギリスを褒めているという理由で発売禁止の処分を受けた。
伊沢元美(いざわ もとよし、1909年4月8日 - 2004… 伊沢元美(いざわ もとよし、1909年4月8日 - 2004年10月31日)は、日本近代文学研究者。 東京生まれ。1933年東京帝国大学文学部国文科卒。36年同大学院修了(旧制)。島根大学法文学部助教授、教授、1974年定年退官、名誉教授、鶴見大学女子短期大学部教授。主として俳句を研究した。
渡辺 一太郎(わたなべ いちたろう、1909年(明治42年)… 渡辺 一太郎(わたなべ いちたろう、1909年(明治42年)4月6日 – 1991年(平成3年)1月22日)は、昭和期の内務・警察官僚、政治家。参議院議員、千葉県副知事。 東京府出身。日本大学専門部を経て、1934年(昭和9年)同大学法文学部を卒業した。1936年(昭和11年)長野県巡査に任官。1938年(昭和13年)10月、高等試験行政科試験に合格し、厚生省に入省。以後、徳島県農務課長、鹿児島県庶務課長、神奈川県商工課長、鳥取県警察部長、警察庁参事官、千葉県警察本部長、臨時行政調査会専門委員などを歴任。1963年(昭和38年)千葉県副知事に就任した。また、戦時中は陸軍司政官に転出した。 1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙に千葉県地方区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日… 狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日 - 1977年〈昭和52年〉3月10日)は、日本のジャーナリスト。毎日新聞社取締役、スポーツニッポン新聞社社長。 群馬県群馬郡古巻村八木原(現・渋川市八木原)に生まれる。旧制高崎中学校を経て、1932年(昭和7年)早稲田大学法学部を卒業。福田赳夫は高崎中学校の同級。 大学卒業後毎日新聞記者となる。東京裁判の取材ではキャップとして活躍。中部本社編集局長、印刷局長、東京出版局長、東京編集局長を歴任し、1965年(昭和40年)取締役に就任。中部本社代表、西部本社代表、常務取締役も務める。 1971年(昭和46年)よりスポーツニッポン新聞社社長、1975年(昭和50年)同会長。
浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 20… 浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 2000年12月25日)は、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)出身の版画家。 銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者となった。同じく版画家の南桂子は妻。本名は濱口 陽三(はまぐち ようぞう)だが、筆名としては新字体の「浜」を用いていた。 1909年(明治42年)4月5日、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)に生まれた。生家の濱口儀兵衛家はヤマサ醤油の創業家であり、陽三は濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛)の三男である。幼少時に一家で千葉県銚子市に転居した。 東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻科塑造部に入学したが、2年で退学しパリへ渡航した。
上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日 - 1979… 上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日 - 1979年2月13日)は、日本中央競馬会 (JRA) ・栗東トレーニングセンターに所属していた調教師。福岡県出身。養子に上田三千夫がいる。 1909年、福岡県小倉市北方(現・北九州市小倉南区北方)で生まれる。 1923年、福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)を中退し、1924年7月、小倉競馬倶楽部(小倉競馬場)の森文一厩舎に入門する。 1927年、騎手兼調教師免許を取得、小倉競馬場に厩舎を構え独立する。 1942年、騎手を引退。騎手成績1066戦160勝。 1946年、調教師免許を取得。 1951年10月14日、チャレンジカップのサチホマレで重賞初制覇。
佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年4月3日 - 19… 佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年4月3日 - 1986年12月13日)は、日本の政治家、官僚。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(9期)、科学技術庁長官・通商産業大臣を歴任した。 秋田県河辺郡河辺町(後の秋田市)生まれ。秋田中学(後の秋田県立秋田高等学校)時代は野球部員として甲子園出場の経験がある。1933年東京帝国大学経済学部を卒業後、南満州鉄道に入社し、調査部に配属される。その後興亜院に転じ、ここで大蔵省出身の大平正芳、農林省出身の伊東正義らと知り合い、第二次世界大戦後も「九賢会」と称する会合を持って交流を深めた。以後企画院、大東亜省、内閣調査局にて調査官を歴任した。 戦後の1947年、経済安定本部に転じ、初代経済復興計画室長として、傾斜生産方式による政策の遂行に辣腕を振るった。