池田 源太(いけだ げんた、1899年4月18日 - 199… 池田 源太(いけだ げんた、1899年4月18日 - 1995年11月18日)は、日本の日本文化史学者、奈良教育大学名誉教授。 大分県宇佐市生まれ。1932年京都帝国大学文学部国史科卒業。西田直二郎に師事。京都市立第一商業学校、京都府立第一中学校教諭、龍谷大学講師、橿原文庫主事。1949年、奈良学芸大学教授、奈良教育大学教授。1961年、「歴史の始源と口誦伝承」で京都大学文学博士。1963年、定年退官、名誉教授、龍谷大学教授。1978年、勲三等瑞宝章を受章。
大久保 謙(おおくぼ けん、1899年4月18日 - 198… 大久保 謙(おおくぼ けん、1899年4月18日 - 1986年3月26日)は、日本の実業家。三菱電機代表取締役社長や、日本電機工業会会長、日本兵器工業会会長、日本電子機械工業会会長などを歴任した。正四位勲二等旭日重光章。 栃木県出身。1921年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)機械科卒業。1924年東北帝国大学工学部電気工学科卒業、三菱電機入社。姫路工場長、営業部長を経て、1954年取締役事業部長に昇格。 1964年から三菱電機社長を務め、兵器事業の強化にあたった。1965年藍綬褒章受章。 1970年三菱電機会長。1971年蔵前工業会理事長。日本電機工業会会長、日本兵器工業会会長、日本電子機械工業会会長も歴任。
小池 政恩(こいけ せいおん、1899年4月18日 - 19… 小池 政恩(こいけ せいおん、1899年4月18日 - 1963年12月20日)は、日蓮宗僧侶、衆議院議員(1期)。息子は三島市長の小池政臣、孫は衆議院議員の小池政就。 静岡県出身。1929年法政大学文学部英法科を卒業後、日蓮宗布教院で教学を学ぶ。沼津市の住本寺住職、三島市猛通寺住職、宗会議員を歴任した後に本山玉沢妙法華寺貫首に晋山。三島高等実科女学校で教鞭も執った。宗教活動のほか社会福祉活動にも力を注ぎ、境内に老人福祉施設「玉沢昭寿園」を作った。1959年、社会福祉法人静岡恵明学園の理事長に就任。 政治家としては第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から静岡県選挙区で立候補し当選した。
小川 勝次(おがわ かつじ、1899年(明治32年))4月1… 小川 勝次(おがわ かつじ、1899年(明治32年))4月16日 - 1988年(昭和63年)9月7日)は、新潟県高田市(現・上越市)出身のスキー選手・指導者。第3代全日本スキー連盟会長。 1911年、郷里でレルヒ少佐の講習会を見学して以来、スキーに親しむようになる。旧制高田中学校を経て、1923年早稲田大学商学部卒。中学・大学を通じクロスカントリースキーの選手として活躍し、1923年の第1回全日本スキー選手権大会にも出場している。大学卒業後、安田銀行(現・みずほ銀行)に入行し、1937年まで勤務。この間、1923年に大日本体育協会のスキー部員となり、さらに1925年に全日本スキー連盟が設立されると常務委員となる。
松澤 靖介(松沢、まつざわ やすすけ、1899年(明治32年… 松澤 靖介(松沢、まつざわ やすすけ、1899年(明治32年)4月16日 - 1959年(昭和34年)6月8日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員(1期)、医学博士。 山形県北村山郡長瀞村(東根町を経て現東根市または河北町)で、松澤幾太郎(後年、敬之と改名)の長男として生まれる。1926年(大正15年)北海道帝国大学医学部を卒業した。同年、同大学附属病院で勤務した。 1934年(昭和9年)至誠堂病院第4代病院長に就任。その他、山形県保険医指導委員長、同県社会保険審査会審査委員長、日本医師会代議員、同理事、第2代山形県医師会長、山県市医師会長、秋田鉄道医会副会長、山形県医療機関整備審議会会長、国民健康保険審査会委員長、山形県教育委員会委員長、都道府県教育委員会連絡協議会副会長、山形県打毬会会長などを務めた。
川俣 清音(川俣 淸音、かわまた せいおん、1899年(明治… 川俣 清音(川俣 淸音、かわまた せいおん、1899年(明治32年)4月15日 - 1972年(昭和47年)12月7日)は、大正、昭和期の社会運動家、農民運動家、政治家。衆議院議員(8期) 1899年4月15日、北海道余市郡余市町に生まれる。1923年(大正12年)早稲田大学を卒業する。大学在学中から農民運動に参加し、1924年(大正13年)秋田県で日本農民組合(日農)支部を組織する。日農では中央委員を務め、小坂銅山争議では、加藤勘十、浅沼稲次郎、三輪寿壮らとともに現地に赴き争議を指導する。 1930年(昭和5年)地方無産党から衆議院選挙に立候補するものの落選。1936年(昭和11年)社会大衆党から衆議院議員に初当選する。
吉野 せい(よしの せい、1899年〈明治32年〉4月15日… 吉野 せい(よしの せい、1899年〈明治32年〉4月15日 - 1977年〈昭和52年〉11月4日)は、日本の文筆家。 福島県石城郡小名浜町(現・福島県いわき市)に生まれる。旧姓は若松。少女時代から文学に親しみ、雑誌や新聞に短歌や短編を投稿する。尋常高等小学校高等科を卒業後、独学で小学校准教員検定に合格し、1916年から2年ほど小学校に勤務する。このころ平で牧師をしていた山村暮鳥に出会い、文学の指導などを受ける。また鹿島村(現・いわき市鹿島町)の八代義定の書斎「静観室」に通い多くの書を読む。 1921年(大正10年)3月、詩人の三野混沌(本名:吉野義也)と結婚、原稿や日記をすべて焼いて、好間村(現・いわき市好間町)北好間の菊竹山で開墾生活に入る。
黒田 寿男(くろだ ひさお、1899年4月14日 - 198… 黒田 寿男(くろだ ひさお、1899年4月14日 - 1986年10月21日)は、日本の農民運動家、政治家、弁護士。1948年結成の労働者農民党の初代主席。元衆議院議員。 岡山県津高郡金川村(のち御津郡金川村→金川町→御津町、現・岡山市北区)出身。第六高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。在学中に新人会で活動し、学生連合会を結成、委員長となる。法曹資格を得て後は自由法曹団で労働運動・農民運動を支援。労農党、労農派に参加した。1929年(昭和4年)には東京無産党を結成して書記長に就任、翌年に全国大衆党に合流した。 1936年(昭和11年)に行われた第19回衆議院議員総選挙に岡山県第1区から全国農民組合の支援を受けて出馬。
権藤 花代(ごんどう はなよ、1899年(明治32年)4月1… 権藤 花代(ごんどう はなよ、1899年(明治32年)4月13日 - 1961年(昭和36年)11月3日)は、唱歌「たなばたさま」作詞者・童謡詩人。本名は権藤はなよ。結婚前は伊藤はなよの旧姓で作品を発表、結婚後はペンネーム権藤はな子を使っていた。2008年頃までは、「権藤花代」という漢字名が使用されていたが、その後は本名の「権藤はなよ」が一般的になっている。実兄の伊藤生更はアララギ派の歌人であり、短歌結社「美知思波」を創立している。 1899年(明治32年)山梨県北巨摩郡穴山村(現・韮崎市穴山町)に、父・伊藤友重(ともじゅう)、母・やよの次女として生まれる。 1919年(大正8年)山梨県師範学校(現・山梨大学)を卒業。
村田 五郎(むらた ごろう、1899年〈明治32年〉4月11… 村田 五郎(むらた ごろう、1899年〈明治32年〉4月11日 - 1982年〈昭和57年〉3月24日)は、日本の内務官僚。官選群馬県知事、情報局次長。 愛知県出身。実業家・村田義教の長男として生まれる。台北中学、第八高等学校を経て、1923年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年5月、内務省に入り富山県警部として警察部警務課に配属された。 以後、富山県氷見郡長、東京府内務部農林課長、同学務部社会課長、同知事官房主事兼秘書兼文書課長、東京府工業組合監督官、大分県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同庁官房主事、厚生省体力局体育課長、内務秘書官・警保局外事課長、福岡県総務部長、内務省地方局振興課長、兼平沼騏一郎国務大臣付秘書官、内務事務官・警保局保安課長などを歴任。
吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)… 吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)4月9日 - 1981年(昭和56年)5月23日)は、編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・反戦運動家・ジャーナリスト。昭和を代表する進歩的知識人。『君たちはどう生きるか』の著者として、また雑誌『世界』初代編集長としても知られている。岩波少年文庫の創設にも尽力した。明治大学教授、岩波書店常務取締役、日本ジャーナリスト会議初代議長、沖縄資料センター世話人などの要職を歴任した。
肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 … 肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 - 1981年(昭和56年)2月24日)は、日本の歴史学者。東京教育大学文理科教授を経て、東京教育大学名誉教授。日本古代史の重鎮であった。茨城県久慈郡大子町出身。従三位勲三等旭日中綬章。 茨城県久慈郡大子町生まれ。茨城県立下妻中学校、東京高等師範学校を卒業後、福岡県立東筑中学校、長野師範学校で教鞭をとる。1927年(昭和2年)京都帝国大学史学科(国史科専攻)卒業。同大学院入学。1932年(昭和7年)より東京文理科大学(後の東京教育大学)講師となり、1933年(昭和8年)同大助教授、1943年(昭和18年)同大教授。1946年(昭和21年)公職追放。
小山 元一(こやま もとかず、1899年(明治32年)4月8… 小山 元一(こやま もとかず、1899年(明治32年)4月8日 - 1973年(昭和48年)12月22日)は、日本の政治家。三郷村会議員、三郷村長(2期)、高田市議会議員(2期)、高田市長(2期)、上越市長(1期)。 新潟県中頸城郡三郷村(高田市を経て、現在の上越市)出身。1927年明治大学政経学科卒。1934年三郷村会議員となり、1947年まで務め、同年4月三郷村長に就任した。三郷村長は高田市に合併されるまでの1955年まで務め、同年5月に高田市議会議員に当選し、2期務めた。1963年高田市長選挙に立候補して当選、2期務めた。在職中、高田市は隣接の直江津市との合併が成立し、1971年に上越市が発足し、初代市長に就任した。
兵頭 精(ひょうどう ただし、1899年4月6日 - 198… 兵頭 精(ひょうどう ただし、1899年4月6日 - 1980年4月23日)は、日本で最初に飛行機操縦士免許を取得した女性である。愛媛県北宇和郡好藤村東仲(後の鬼北町)の出身。 四姉妹の末娘として生まれる。精が11歳の時、父が脳溢血のため53歳で亡くなる。子供の頃から英才で知られ、高等小学校卒業後に松山市の済美高等女学校(後の済美高等学校)3年に編入。亡父の林太郎が空に憧れ、飛行機の設計図を書いていたことを知った精もまた空に憧れてパイロットを志した。同校を卒業後、周囲から医師や教師を勧められた精は1919年(大正8年)1月に次姉の譲留と共に家を出る。そして大阪で薬剤師見習いを始めたものの、同年11月15日に上京。
瀬戸 直一(せと なおいち、1899年4月6日 - 1990… 瀬戸 直一(せと なおいち、1899年4月6日 - 1990年2月16日)は、日本の経営者。長野県出身。 1922年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に日出紡織に入社。 1941年に大和紡人絹(のちの大和紡績)に転じ、1948年に取締役に就任し、1952年に常務、1955年に専務を経て、1962年に副社長に就任し、1963年には社長に昇格。1974年6月に会長を経て、1977年6月には相談役に就任した。 1967年10月に藍綬褒章を受章し、1974年5月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年2月16日心不全のために死去。90歳没。
尾原 勝吉(おばら かつきち、1899年 <明治32年> 4… 尾原 勝吉(おばら かつきち、1899年 <明治32年> 4月5日 - 1981年 <昭和56年> 3月6日)は、日本の指揮者、ヴァイオリニスト。 島根県簸川郡久木村(現、出雲市斐川町美南)に生まれる。父の甚四郎は華道・池坊の宗匠、兄の定次郎は高等女学校の図画教師という芸術一家で育つ。幼少期から音楽を好み、5歳で横笛を吹きこなして周囲を驚かせた。一方、大社中学校(現・島根県立大社高等学校)に進学後はスポーツにも万能で、野球部の主将として、1917年(大正6年)の第3回全国中等学校優勝野球大会に出場し勇名を馳せた。 1919年(大正8年)、同中学校を卒業し明治大学商学部へ入学。在学中の同年、宮内庁音楽部の山井基清にヴァイオリンの手ほどきを受け習得する。
武野 藤介(たけの とうすけ、1899年4月3日 - 196… 武野 藤介(たけの とうすけ、1899年4月3日 - 1966年7月25日)は、日本の小説家。本名は武野真寿太。 岡山市生まれ。岡山中学校在学中、回覧雑誌などを作り文学に没頭。二度落第し、中学卒業に7年かかる。1919年上京、編入試験を受けて早稲田大学予科入学、ロシア文学科に進んだが、1923年中退。新聞記者、雑誌記者となり、文壇ゴシップやコントが評判となる。 戦時下は時局的な小説を書いたが、戦後1950年頃から『あまとりあ』などカストリ雑誌の常連となり、以後艶笑小説を専らとする。小説に「嘘」「ぬれつばめ」、ゴシップをもとにした「文壇余白」「武野藤介風流文学自選集」などがある。
関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ、1899年4… 関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ、1899年4月3日 - 1919年6月16日)は、日本の洋画家。 1899年、福島県西白河郡大沼村(現白河市)に屋根葺き職人の父のもとに生まれた。1908年、前年に発った父を追い上京、深川区東町に移る。江東区立東川小学校の同級生に伊東深水がおり、伊東の紹介で1914年に東京印刷株式会社に就職。そこでオスカー・ワイルドの作品を読み、ワイルドの思想に触れた。 1913年頃から絵画の勉強をはじめ、数ヶ月だけ太平洋画研究所に通ったものの、ほぼ独学で絵画を習得する。1915年、会社を辞めた関根は長野県へ放浪し、洋画家の河野通勢と出会う。同年10月、「死を思ふ日」が第2回二科展に入選。
有賀 鉄太郎(ありが てつたろう、1899年4月1日 - 1… 有賀 鉄太郎(ありが てつたろう、1899年4月1日 - 1977年5月25日)は、日本のプロテスタント神学者、教会史・教理史学者。 1899年、大阪府で生まれ、東京で育った。東京府立一中で学び、在学中の1917年に日本基督同胞教会原宿教会で受洗。一中を卒業後は同志社大学神学部に入学。卒業論文はシュライアマハーの宗教本質論に関するものであった。卒業後、1922年から1925年までニューヨークのユニオン神学校に留学し、修士号を取得。修士論文のテーマはトレルチの宗教本質論であった。 1925年に帰国し、翌1926年に同志社大学文学部神学科の講師に就任。1930年、文学部神学科教授に昇格。1931年より中国燕京大学客員教授。
城 英一郎(じょう えいいちろう、1899年(明治32年)4… 城 英一郎(じょう えいいちろう、1899年(明治32年)4月1日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵47期。最終階級は海軍少将。 1899年(明治32年)4月1日、熊本県熊本市東坪井町26番地に蚕糸業を営む城喜又と梅の4人兄弟姉妹の長男として生まれる。県立熊本中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第31期)を受験し、双方に合格している。1916年(大正5年)8月31日、海軍兵学校47期に151名中28位の成績で入校。1919年(大正8年)10月9日、海軍兵学校を成績順位115名中第28位で卒業、海軍少尉候補生となる。 1923年(大正12年)12月1日海軍大尉進級。
福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977… 福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977年3月13日)は日本の経済学者・社会科学者。大阪経済大学、旧制大阪商科大学、大阪市立大学の学長を歴任。学位は経済学博士(大阪商科大学)。大阪市立大学名誉教授。 愛知県出身。第八高等学校を経て1922年京都帝国大学経済科卒、同大学院に進学、河上肇に師事した。1925年、福島高等商業学校(現・福島大学経済学部)教授。1929年に旧制大阪商科大学助教授に就任し1933年教授、経済学原論やドイツ語を講じた。戦後は学制改革に伴い1949年に大阪商科大などを母体に発足した大阪市立大学経済学部教授。翌1950年からは前年に急逝した黒正巌に代わり大阪経済大学の学長(第2代)も務めた(-1960年)。
深見 義一(ふかみ ぎいち、1899年4月1日 - 1972… 深見 義一(ふかみ ぎいち、1899年4月1日 - 1972年12月7日)は日本の経営学者、商業学者。一橋大学名誉教授。 マーケティング、小売政策、通信販売、切符制度研究等の先駆者とされる。 第1回日本商業学会賞受賞。元社団法人流通問題研究協会会長。 東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部卒業後、名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部)で教鞭をとったのち、東京商科大本科に入学し、1929年に同大学学部卒業。首席卒業生総代。同期に高橋泰蔵一橋大学名誉教授がいる。 大学で内池廉吉に師事し、内池の「市場論」を継ぐ。語学に堪能で、英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語に通じ、大学を卒業した1929年から1935年までアメリカ合衆国、ドイツ、イタリアに留学した。
永井 浩(ながい ひろし、1899年(明治32年)4月 - … 永井 浩(ながい ひろし、1899年(明治32年)4月 - 1960年(昭和35年)8月3日)は、日本の内務・文部官僚。官選熊本県知事。 青森県出身。永井武彦の長男として生まれる。第六高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し東京府属となる。 以後、地方警視、復興局事務官、滋賀県書記官・学務部長、石川県書記官・警察部長、愛知県書記官・学務部長、厚生省書記官などを歴任。1939年、文部省に転じ、同省書記官、東京美術学校校長事務取扱、専門学務局長を経て、学徒動員局長となる。 1946年1月、前任の平井章が公職追放で辞任したことに伴い熊本県知事に就任したが、同年7月、永井自身も公職追放となり知事を辞した。
板倉 乾(いたくら けん、明治32年(1899年)4月 - … 板倉 乾(いたくら けん、明治32年(1899年)4月 - 昭和58年(1983年)4月4日)は日本の実業家。元鳥取缶詰社長。元境港商工会議所副会頭。元鳥取県貿易振興会顧問。元境港水産加工団地顧問。 鳥取缶詰会長板倉周二の岳父。鳥取缶詰社長板倉良多の祖父。 鳥取県米子市西町出身。 大正10年(1921年)早稲田大学卒業後、合資会社板倉商店代表社員、鳥取合同缶詰社長を経て昭和29年(1954年)鳥取缶詰社長に就任。昭和57年(1982年)同社会長に就任。 県貿易振興会会長、日本いわし・あじ缶詰輸出水産業組合理事長などを歴任。
山脇 巌(やまわき いわお、1898年4月29日 - 198… 山脇 巌(やまわき いわお、1898年4月29日 - 1987年3月8日)は、戦前から戦後にかけて活躍した建築家、写真家。日本大学の名誉教授。バウハウスを日本へ紹介し、造形理論を教育に導入。日本のデザイン教育の方向に重要な役割を果たした。 1898年4月29日、藤田家の三男として長崎県対馬で生まれる。 1926年、東京美術学校 図案科第二部(建築科)卒業後、横河工務所に入所。横河工務所に入った頃から写真撮影を始める。また、舞台美術にも関心をもち、新興美術グループ「単位三科」にも同人として参加。 裏千家の茶人・山脇善五郎の娘で当時、東京女高師附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)生の山脇道子(1910-2000)とお見合い結婚し、山脇家の養子となる。
鈴木 強平(强平、すずき きょうへい、1898年〈明治31年… 鈴木 強平(强平、すずき きょうへい、1898年〈明治31年〉4月28日 - 1969年〈昭和44年〉3月3日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 群馬県前橋市連雀町(現・本町)で、鈴木留太郎の長男として生まれる。群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、慶應義塾大学部理財科に進んだが、父の病により帰郷して家業を継承した。 1934年(昭和9年)群馬林業社長、全国燃料組合理事組合長に就任。その他、群馬県木炭連合会長、同燃料林産組合長、全国燃料組合連合会副理事長、前橋商工会議所商業部長、群馬県商工倶楽部理事長、全国燃料会館副理事長、前橋文化服装学院(現前橋文化服装専門学校)理事、日本燃料機社長、鈴木商会社長などを務めた。
佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年〈明治31年〉4月2… 佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年〈明治31年〉4月28日 - 1928年〈昭和3年〉8月16日)は、大正・昭和初期の洋画家。大阪出身で、短い画業の大半を戦間期のフランス(仏国)に渡ってパリのモンパルナス等で過ごし、パリで客死した。作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画などもある。 佐伯は1898年(明治31年)、大阪府西成郡中津村(現:大阪市北区中津二丁目)にある光徳寺の男4人女3人兄弟の次男として生まれた。
小菅 芳次(こすげ よしじ、1898年(明治31年)4月28… 小菅 芳次(こすげ よしじ、1898年(明治31年)4月28日 - 1961年(昭和36年)9月16日)は、日本の内務・警察官僚。官選香川県知事、台湾総督府交通局総長。 愛知県出身。小菅佐吉の四男として生まれる。第六高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し埼玉県属となる。 以後、警視庁事務官、同警視、内務事務官、警視総監官房調停課長、工場監督官、広島県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、東京府総務部長などを歴任。 1942年1月、香川県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1945年1月、最後の台湾総督府交通局総長に転じ終戦を迎えた。
太田 辨次郎 (弁次郎)(おおた べんじろう、1898年4月… 太田 辨次郎 (弁次郎)(おおた べんじろう、1898年4月27日 - 1981年〈昭和56年〉11月11日)は、日本の実業家、歌人。 四代目太田清蔵のニ男として、福岡県に生まれる。実兄は五代目太田清蔵。1917年福岡県立中学修猷館、1921年7月第五高等学校経済科を経て、1924年7月東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。 卒業後、博多湾鉄道汽船に入社し、副支配人となる。1926年6月、第一徴兵保険(東邦生命保険の前身)に転じ、取締役経理部長、1946年4月専務、1954年6月副社長を経て、1961年5月、兄五代目太田清蔵から引き継ぎ、東邦生命保険社長に就任。1977年6月同会長となる。九州勧業、箱根カントリー倶楽部、芝パークホテル、帝国ホテル、西日本鉄道の取締役も務めた。
福井 康順(ふくい こうじゅん、1898年4月27日 - 1… 福井 康順(ふくい こうじゅん、1898年4月27日 - 1991年1月21日)は、日本の仏教学者、中国学者。元大正大学学長、早稲田大学名誉教授。天台宗の僧籍を持ち、日光山輪王寺内にある唯心院の住職を経て、妙法院の門跡となる。 1898年(明治31年)、長野県小県郡長久保新町(現長和町)で生まれた。父は町役場に勤める公務員で、母は寺院の生まれであった。1910年に日光の輪王寺で得度。早稲田大学文学部哲学科で学び、1924年に卒業。同大学大学院に進み、津田左右吉に師事した。 1928年(昭和3年)に大正大学文学部講師に着任。翌1929年には文学部講師に昇任。1932年から1934年まで中国に留学。
内田 吐夢(うちだ とむ、1898年4月26日 - 1970… 内田 吐夢(うちだ とむ、1898年4月26日 - 1970年8月7日)は、日本の映画監督。本名:内田 常次郎。 内田作品は近年では海外でも2005年のロッテルダム映画祭で特集上映されるなど、再評価が始まっている。 妻芳子は新聞記者碧川企救男の三女、映画カメラマン碧川道夫の妹。映画監督の内田一作は長男、元東映生田スタジオ所長の内田有作は次男。浮世絵研究家の内田千鶴子は次男有作の妻である。翻訳家の松田銑は甥。
岩上 夫美雄(いわかみ ふみお、1898年(明治31年)4月… 岩上 夫美雄(いわかみ ふみお、1898年(明治31年)4月25日 - 1986年(昭和61年)12月28日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選秋田県知事。 東京府出身。岩上照雄の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し内務属となる。 以後、山梨県理事官、大阪府工場監督官、奈良県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長、警視庁警務部長、北海道庁総務部長などを歴任。 1940年7月、秋田県知事に就任。戦時下の体制整備に尽力。1943年7月に知事を退任。同年に退官し、大日本産業報国会常務理事となる。
岡島 美行(おかじま よしゆき、1898年4月25日 - 1… 岡島 美行(おかじま よしゆき、1898年4月25日 - 1967年9月19日)は、日本の経営者。奈良県出身。 1921年に東京商科大学専攻科を卒業し、同年に日本綿花に入社。1945年6月に取締役に就任し、1947年に専務を経て、1951年11月には社長に昇格した。1960年11月から1965年5月までに会長を務めた。 1959年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1967年9月19日肝硬変のために死去。69歳没。
須田 銓造(すだ せんぞう、1898年(明治31年)4月24… 須田 銓造(すだ せんぞう、1898年(明治31年)4月24日 - 没年不明)は、昭和時代前期の公吏。東京市赤坂区長、日本橋区長、浅草区長。 須田勝三郎の二男として大阪市に生まれる。1923年(大正12年)京都帝国大学経済学部を卒業し東京市に奉職する。同市商工課勤務、神田、江東各青果市場勤務、中央卸売市場企画課長、同監理課長を務めた。その後、赤坂区長、日本橋区長、浅草区長を歴任した。
杉山 新樹(すぎやま しんじゅ、1898年4月23日 - 1… 杉山 新樹(すぎやま しんじゅ、1898年4月23日 - 1974年2月16日)は、日本の画家、愛知学芸大学(現・愛知教育大学)教授。教育者として西三河美術界に功績を残した。 愛知県額田郡矢作町(現・岡崎市矢作町字西河原)に生まれる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)在学中、留年した尾崎士郎と同級になった。1916年(大正5年)、同校卒業。 1923年(大正12年)、東京美術学校卒業。岡崎に戻り、1925年(大正14年)に近藤孝太郎、山本鍬太郎らとともに「我々の会」を作り、洋画の展覧会を開き新人の育成に努める。1944年(昭和19年)まで春台会に所属した。同年、旺元会に出品。また、岡崎市立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)や愛知県岡崎師範学校で教鞭をとった。
三林 隆吉(みばやし りゅういち、1898年4月19日 - … 三林 隆吉(みばやし りゅういち、1898年4月19日 - 1977年2月7日)は、日本の産婦人科学者。京都大学医学部附属助産婦学校第4代校長を歴任。 基靭帯基底部に浸潤した子宮癌に対する超広汎性子宮全摘術や、子宮癌の放射線治療に回転照射術式を考案した。 石川県で生まれる。旧制第四高等学校を経て、1923年(大正12年)に京都帝国大学医学部を卒業する。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)の講師を務め、1926年(大正15年) に助教授となる。1929年(昭和4年)医学博士を修める。1930年(昭和5年)ドイツに留学する。 帰国後、1936年(昭和11年)に新潟医科大学産婦人科の第4代教授となる。1938年(昭和13年)、京都帝国大学教授に転任。
鈴木 清(すずき きよし、1898年4月17日 - 1967… 鈴木 清(すずき きよし、1898年4月17日 - 1967年1月16日)は、日本の解剖学者、医師。専門は組織学。鈴木鍍銀法の発明者としても知られる。 1898年04月17日、兵庫県津名郡洲本町常盤町425番地(兵庫県淡路島津名郡洲本町(現洲本市)で生まれた。1923年3月、大阪医科大学(現 大阪大学医学部)を卒業。 大学卒業後は、新潟医科大学助手に就任。1926年07月19日より、京城帝国大学医学部助教授・医学部勤務となった。1926年09月13日、朝鮮総督府医学専門学校講師に就任し、解剖学第二講座を分担する。 1933年11月08日、解剖学研究のために1年6ケ月間、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカへ留学派遣される。
山錦 善治郎(やまにしき ぜんじろう、1898年4月17日 … 山錦 善治郎(やまにしき ぜんじろう、1898年4月17日 - 1972年5月27日)は、大阪府大阪市大淀区(現在の北区)出身で出羽海部屋所属の元大相撲力士。本名は山田 善次郎(やまだ ぜんじろう)。最高位は東関脇。現役時代の体格は173cm、107kg。 魚屋の次男に生まれ、関西大学専門部に進んで学生相撲で活躍、大学を中退して同郷の横綱大錦卯一郎を慕って出羽海部屋に入門した。四股名の山錦は本名と大錦の名から一文字ずつ取ったものである。1917年5月場所に初土俵を踏む。その後1922年1月場所に十両に昇進して2場所で通過、1923年1月場所で新入幕を果たす。 1927年10月場所で自己最高位の関脇に昇進したのをはじめ常に幕内上位で活躍、前頭5枚目で迎えた1930年5月場所では3日目に新大関玉錦に初黒星をつけると10日目に横綱宮城山も破り11戦全勝で平幕優勝を果たし、同時に平幕全勝優勝の第1号となった。
土方 与志(ひじかた よし、1898年(明治31年)4月16… 土方 与志(ひじかた よし、1898年(明治31年)4月16日 - 1959年(昭和34年)6月4日)は、日本の演出家。伯爵を継いだが剥奪された。築地小劇場を拠点に新劇運動を興した。東京生まれ。本名は久敬(ひさよし)。 東京市赤坂区表町(現・東京都港区赤坂)に生まれた。祖父久元は土佐藩出身で、維新後は宮内大臣・宮中顧問官・枢密顧問官・國學院大學学長などを務めて伯爵を授けられた。父久明は陸軍大尉だったが、何らかの事情で精神に異常をきたして療養中、与志が生まれて間もない1898年7月15日に拳銃で自殺している。母は加藤泰秋の三女・愛子。 土方は中学時代に友田恭助と子供芝居一座である南湖座を作り、演劇活動を始めている。
崔 瑗浩(チェ・ウォノ、朝鮮語: 최원호、1898年4月16… 崔 瑗浩(チェ・ウォノ、朝鮮語: 최원호、1898年4月16日 - 1980年2月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の公務員、政治家。第2・5代韓国国会議員。 漢字表記は崔援浩とも。 慶尚南道金海郡(現・釜山広域市江西区菉山洞)出身。私立普成中学校、中央大学理科専門部、中央大学商科卒。日本統治時代には金海青年会会長、女子夜学会・労働夜学会設立者、衡平社員、洛東江工事促進期成会代表、金海郡洛東江河口地域海水防止会委員を歴任した。解放後は朝鮮開拓株式会社社長、韓国民主党慶南道党部副委員長、国民会金海郡支部副委員長、大韓民族青年団金海郡団部委員長、大同青年団慶南道団部後援会会長、金海農場長、金海産業組合理事、慶南帆船組合長、民主国民党慶尚南道党委員長、民主党慶尚南道党最高委員、慶尚北道商工局長を務めた。
大木 喜福(おおき のぶとみ、1898年(明治31年)4月1… 大木 喜福(おおき のぶとみ、1898年(明治31年)4月16日 - 1972年(昭和47年)11月20日)は、日本の教育者、政治家。貴族院伯爵議員。旧姓・徳川。 男爵・徳川厚の二男として生まれ、伯爵・大木遠吉の養子となる。1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部を卒業。養父の死去に伴い、1926年(大正15年)6月15日に伯爵を襲爵した。 大学卒業後、三井銀行に入行。1929年(昭和4年)東工学園理事長に就任し、1931年(昭和6年)東京工業学校を設立し校長となり、校名変更後の東京高等工科学校の校長も務めた。1967年(昭和42年)日本工業大学を設立し理事長に就任。 1940年(昭和15年)11月30日、補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
田中 忠夫(たなか ただお、1898年4月13日 - 197… 田中 忠夫(たなか ただお、1898年4月13日 - 1978年12月1日)は、岡山県出身の教育者。 1898年4月13日 岡山県小田郡旧小田町(現・矢掛町)に生まれた。 岡山県立矢掛中学(現・岡山県立矢掛高等学校)卒。 1918年7月 第三高等学校 (旧制)卒。 1923年3月 東京帝国大学経済学部卒。 1923年4月 松山高等商業学校教授。 1930年 - 1932年ドイツ留学。 1934年10月 松山高等商業学校第三代校長に就任。 1944年3月 松山高等商業学校が松山経済専門学校へ名称変更することに伴い松山経済専門学校校長就任。 1947年2月 占領政策の教員適格条項に触れ同校校長辞任。
磯崎 辰五郎(いそざき たつごろう、1898年4月12日 -… 磯崎 辰五郎(いそざき たつごろう、1898年4月12日 - 1990年8月10日 )は、日本の法学者。専門は、憲法・行政法。法学博士。[要出典]大阪大学名誉教授。 香川県三野郡下高瀬村(現:三豊市三野町)出身。香川県立三豊中学校、第六高等学校を経て、京都帝国大学法学部卒業。 京都帝国大学では、佐々木惣一に憲法学および行政法学の指導を受ける。以後、佐々木惣一と研究を共にする。佐々木惣一の著書『日本国憲法論 改訂版』(有斐閣、1952年)および『日本國行政一般法論』(有斐閣、1952年)のはしがきでは、佐々木は磯崎に対して執筆の支援および長年の貢献について感謝を記している。 また、1945年(昭和20年)11月に佐々木惣一が内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、箱根の奈良屋旅館で大石義雄と共に憲法改正草案「佐々木憲法草案」の作成を行っている。
中村 隆一(なかむら りゅういち、1898年4月12日 - … 中村 隆一(なかむら りゅういち、1898年4月12日 - 1992年6月27日)は、日本の経営者。日立金属社長を務めた。 山口県出身。松田忠治の六男として生まれ、芳治の養子となる。弟は元衆議院議員の林佳介。1926年に京都帝国大学法学部を卒業。 藤田銀行での勤務を経て、1928年に戸畑鋳物(のちの日立製作所)に転じ、1947年に取締役に就任し、1955年に常務を経て、1956年に日立金属初代社長に就任し、1971年2月には会長に就任。1977年6月からは相談役を務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1968年に勲三等瑞宝章を受章。 1992年6月27日、肝不全のために死去。94歳没。
並川 義隆(なみかわ よしたか、1898年(明治31年)4月… 並川 義隆(なみかわ よしたか、1898年(明治31年)4月11日 - 1975年(昭和50年)1月2日)は、日本の内務及び警察官僚。官選滋賀県知事。 京都府出身。並川栄慶の長男として生まれる。第三高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し大阪府属となる。 以後、地方警視・宮崎県警察部保安課長、徳島県警察部保安課長、地方事務官・秋田県農務課長兼知事官房秘書課長兼文書課長、奈良県地方課長、同勧業課長、福井県学務部長、岡山県学務部長、島根県総務部長などを経て、1939年4月、富山県総務部長となる。1940年4月、東京府書記官・経済部長に就任。
橋本 昂蔵(昻蔵、はしもと こうぞう、1898年(明治21年… 橋本 昂蔵(昻蔵、はしもと こうぞう、1898年(明治21年)4月10日 - 1970年(昭和45年)3月29日)は、日本の大蔵官僚、陸軍司政官、実業家。 鳥取県出身。第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科卒業。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科に合格し、1922年、大蔵省に入省(主計局属)。戦時中にはシンガポールへの赴任や南方軍、昭南軍で部長職なども務めた。戦後、公職追放された。退官後は理研鍛造会社で社長や会長などを務めた。墓所は多磨霊園。
佐生 正三郎(さしょう しょうざぶろう、1898年4月9日 … 佐生 正三郎(さしょう しょうざぶろう、1898年4月9日 - 1971年9月21日)は、日本の映画会社経営者、実業家である。東洋汽船、ユニヴァーサル映画東京支社、パラマウント映画支配人を経て、東宝映画取締役、映画配給社理事、東宝常務取締役、太泉スタヂオ専務取締役、新東宝初代社長、日米映画社長、新外映配給社長を歴任した。「配給の神様」の異名をとり、フリーブッキング制(自由配給制度)の立案者として知られる。 1898年(明治31年)4月9日、千葉県に生まれる。父の元治郎は、君津郡青堀町に所在した南総銀行の大貫支店長を務めていた。 早稲田大学理工学部(現在の早稲田大学理工学術院)を卒業し、東洋汽船に入社、文書課長を務める。
禹長春(ウ・ジャンチュン、우장춘、通名:須永 長春(すなが … 禹長春(ウ・ジャンチュン、우장춘、通名:須永 長春(すなが ながはる)、1898年4月8日 - 1959年8月10日)は、農学者(農学博士)、育種学者。 韓国農業の父と呼ばれる。 父は乙未事変(朝鮮国王王妃閔妃暗殺事件)に参加した軍人・禹範善。範善が日本に亡命し日本人女性・酒井ナカと結婚、日本で生まれたのが禹長春である。出生地については東京赤坂説と広島説がある。育ったのは広島県呉市である。父の範善は閔妃を暗殺したため、1903年11月24日、禹が6歳の時にかつて閔妃に仕えていた高永根に呉で暗殺された。 同じく父が親日派とされ日本に逃れてきた具鎔書(のちに初代韓国銀行総裁、第10代大韓民国商工部長官などを歴任)ら、酒井の下に送られてきた親日派の子女6人で日本で育ち、禹は、広島県立呉中学校(現広島県立呉三津田高校)を卒業。
東浦 庄治(ひがしうら しょうじ、1898年(明治31年)4… 東浦 庄治(ひがしうら しょうじ、1898年(明治31年)4月8日 - 1949年(昭和24年)9月2日)は、日本の農業指導者、政治家。参議院議員。三重県度会郡城田村中須(現伊勢市)出身。 自作農の家に生まれる。1923年、東京帝国大学経済学部を卒業。 当時ようやく本格的な農政運動を開始していた帝国農会(帝農)に入り、農政調査を行いながら農政論の提唱をする。 1936年、帝国農会に幹事として復帰。1943年の農業団体統合直前までは帝農を全国機関とする系統農会の事実上の指導者として活躍する。 終戦後は全国農業会副会長となる。政界に進出し、1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙で全国区に無所属で出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
加藤 清二郎(かとう せいじろう、1898年4月8日 - 1… 加藤 清二郎(かとう せいじろう、1898年4月8日 - 1982年9月24日)は、レストラン聚楽の創業者で、昭和時代に飲食業で成功した実業家。小さな洋食店から、第二次世界大戦までに数十店舗を抱える一大チェーングループに育て、「食堂王」とまで呼ばれた。 新潟県中蒲原郡白根町(現・新潟市南区)の商人の子として生まれる。小学校卒業後、新潟市の海産物屋「島二」に丁稚奉公に出る。実業雑誌を愛読し、安田善次郎の「学問より実地が大切」を拠り所に、3年間奉公する。年季を終えたあと志願兵となり、2年ののち除隊。相場に手を出して失敗し、親族・縁者に迷惑をかける。肩身の狭い実家住まいをしているとき、樺太の軍事占領によりひと儲けした商人が出ていることを知り、親に金を借りて24歳で樺太に渡ったものの、商機を逃し、当地で軍役夫となる。