太宰 施門(だざい せもん、1889年〈明治22年〉4月1日… 太宰 施門(だざい せもん、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、日本のフランス文学者。京都大学名誉教授。名前の読み方は「しもん」あるいは「よしかど」とされることもある。 岡山県倉敷市児島出身。旧制岡山県立岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1907年に旧制第一高等学校へ進学、1910年、同校を卒業する。1913年東京帝国大学文学部卒。1919年第一高等学校教授在職中にフランス留学を命ぜられ、1920年出発、1921年京都帝国大学文学部助教授に任ぜられ、1923年帰国し着任、京都帝大に仏文研究室を開設。1931年オノレ・ド・バルザック「人間喜劇」の研究で文学博士、論文の題は「ラ、コメヂ、ユメーヌの研究」。
雪沢 千代治(雪澤 千代治、ゆきざわ ちよじ、1889年(明… 雪沢 千代治(雪澤 千代治、ゆきざわ ちよじ、1889年(明治22年)4月1日 - 1970年(昭和45年)2月20日)は、日本の内務官僚、政治家。府県知事、衆議院議員。 長崎県西彼杵郡雪浦村(現在の西海市)出身。雪沢梅太郎の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入り静岡県属となる。 以後、岩手県理事官、兵庫県警視、内務事務官、新潟県書記官・学務部長、内務省土木局港湾課長、大臣官房都市計画課長などを歴任。 1937年6月、岩手県知事に就任。以後、熊本県・愛知県・京都府の各知事を歴任。1944年4月、愛媛県知事兼四国地方行政協議会長となる。
猿谷 吉太郎(さるや きちたろう、1889年〈明治22年〉4… 猿谷 吉太郎(さるや きちたろう、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1987年〈昭和62年〉3月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1889年(明治22年)群馬県碓氷郡松井田町五料(現・安中市松井田町五料)に生まれる。旧制安中中学校(現・群馬県立安中総合学園高等学校)、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校第22期卒業。1935年(昭和10年)12月に陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所長に就任し、1937年(昭和12年)3月1日に陸軍砲兵大佐進級と同時に陸軍造兵廠名古屋工廠熱田製造所長に着任した。同年10月25日に兼陸軍造兵廠名古屋工廠高蔵製造所長となり、1939年(昭和14年)9月に陸軍造兵廠名古屋工廠立川兵器製造部長に転じた。
久山 知之(くやま ともゆき、1889年〈明治22年〉4月1… 久山 知之(くやま ともゆき、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1968年〈昭和43年〉2月3日)は、日本の政治家、実業家、著述業。衆議院議員(岡山県第一区選出、当選6回)。岡山県会議員。 岡山県久米郡大井西村(現・津山市)に生まれた。久山茂樹の長男。1909年、家督を相続した。早稲田大学に学び、中退した。中国民報社に勤務し、記者となった。岡山県交通互助会長、高信銀行支店長、同支配人、久山工業所長、西美鉄道、美作電化工業各会社重役を務めた。 1919年、岡山県会議員に当選。1928年、衆議院議員に当選(6期連続当選)。立憲政友会に所属した。立憲政友会総務を務めた。1937年6月、第1次近衛内閣で司法政務次官に任ぜられ、1939年1月、退任した。
21代 木村 庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ… 21代 木村 庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ、1889年4月1日 - 1970年11月25日)は、大相撲の立行司。所属部屋:伊勢ノ海→井筒→双葉山道場・時津風。風貌から「蔣介石庄之助」と通称されている。 長野県更級郡塩崎村(現長野市)出身。本名:樽田→竹内重門。祖父、父(湊崎)ともに東京相撲の力士で、廃業後も浦風部屋の地方世話人(巡業の世話)をしていた。そのため幼少の頃に父の力士時代からの知人であった伊勢ノ海部屋所属の年寄・6代山響の養子となり、1897年、わずか8歳で初土俵を踏んだ。初名は3代式守与之吉で、20代庄之助が兄弟子である。1913年1月場所8日目に青白房(十両格)に昇格。
藤田 定市(ふじた さだいち、1889年〈明治22年〉4月1… 藤田 定市(ふじた さだいち、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉9月3日)は、日本の実業家。フジタ工業(現・フジタ)会長。広島県知事をつとめた藤田雄山は孫。 広島県賀茂郡中黒瀬村字大多田(現・東広島市黒瀬町)の農家に生まれる。藤田次助の三男。1910年12月、21歳の頃、兄の一郎とともに広島市台屋町で土木建築請負業を始める。 土木建築請負業を営む。1916年、「藤田組」を名乗り、兄の一郎が組長に、定市が副組長になる。1944年、藤田組社長に就任。1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、定市は自宅で家屋の下敷きとなり、重傷を負う。1962年、藤田組会長に就任。
大立 廉(おおだて れん、明治22年(1889年)4月 - … 大立 廉(おおだて れん、明治22年(1889年)4月 - 昭和42年(1967年)4月)は、日本の技術者、政治家。元米子製鋼所長。元成実村会議員。 鳥取県西伯郡成実村(現在の米子市)の農家に生まれた。唯次郎の長男。 米子中学(現在の米子東高校)を経て明治44年(1911年)大阪高等工業学校卒業。米子製鋼所に迎えられ、生涯ここにとどまって、技術の研究開発につとめ、製鋼業の基盤を確立した。 大立が所長になったのは、坂口豊蔵所長が没した昭和5年(1930年)頃からと思われる。そのころから、新持馨(中国電力の重役)、今井兼文(今井書店の会長)の二人と親交を結び、謡、碁、旅行などの清遊を楽しんでいる。 戦後、大立は野に帰って百姓を始めた。
中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 -… 中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 - 1967年12月20日)は、日本の登山家、山岳画家。 川端玉章、岡田三郎助、藤島武二に師事した。 東京府浅草区出身。東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。実業家の加賀正太郎は中学・高商の同級生で友人。 近代登山の黎明期に北アルプスなどに登り、小島烏水らと赤石山脈の初縦走を行うなどした。針ノ木岳の命名者、クモマツマキチョウの発見者でもある。 また、本郷絵画研究所で絵画を学び、1936年には足立源一郎らと日本山岳画協会を設立した。1950年日本山岳会名誉会員。 晩年は日本登山史の執筆を行っていたが、1965年、図書館への行き帰りの際、タクシーに撥ねられ断筆となり、1967年に阿佐ヶ谷の自宅で死去した。
宮崎 武吉(みやざき ぶきち、1888年〈明治21年〉4月2… 宮崎 武吉(みやざき ぶきち、1888年〈明治21年〉4月29日 - 没年不明)は、日本の弁護士(大阪弁護士会所属)、税理士、弁理士、歌人。旧姓・井上。お笑いタレント椿鬼奴の祖父。 大阪府大阪市西区出身。3代目、井上嘉助の息子。宮崎良平の養子となる。 1897年、9歳の時に父が亡くなると親戚のいる京都の乾物店に丁稚奉公に出される。丁稚奉公をしながら高等小学校を卒業する。夜学の学習塾にも通う。31歳にして京都帝国大学に入学する。 1922年、京都帝国大学経済学部を卒業。高等試験行政科に合格し、直ちに京都府庁に入り、内務部社会課兼庶務課に勤務する。 山口県庁電気局庶務課長となり、1930年3月に職を辞し、同年5月に弁理士登録、同年9月に計理士登録。
冨山 保(とみやま たもつ、1888年4月28日 - 197… 冨山 保(とみやま たもつ、1888年4月28日 - 1972年12月12日)は、日本の工学者。電気化学専攻。横浜高等工業学校校長を経て、初代横浜国立大学学長や、第9代電気化学協会会長を務めた。正三位勲二等瑞宝章。 茨城県水戸市出身。水戸市橦木町士族。1909年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)電気科電気化学分科研究修了卒業。1913年東北帝国大学理科大学特待学生選定。1914年東北帝国大学理科大学化学科卒業。明治専門学校(のちの九州工業大学)教授、横浜舎密研究所主任等を経て、1926年東洋窒素工業取締役。1928年東北帝国大学理学博士。1929年松尾鉱業顧問。1935年横浜高等工業学校校長に就任。
達ノ矢 源之助(だてのや げんのすけ、1888年4月27日 … 達ノ矢 源之助(だてのや げんのすけ、1888年4月27日 - 1945年11月10日)は、現在の山形県長井市出身で千賀ノ浦部屋・芝田山部屋・出羽海部屋に所属した力士。本名は梅津 源之助。5代君ヶ濱。176cm、94kg。最高位は東前頭2枚目。 1904年5月、元大関大達の千賀ノ浦部屋から梅川の四股名で初土俵。間もなく師匠が亡くなって芝田山部屋(当時の師匠は3代芝田山(最高位幕下の松ヶ枝))に移籍。入幕を目前にしてこれまた師匠が亡くなったため出羽海部屋に移籍。1915年1月新入幕。立ち合いからの突っ張り一本の相撲で幕内を通算13場所務めたが、この間、1917年5月に達ノ矢と改名している。1921年5月引退し、その後は自身との稽古中の負傷が元で死亡した元小結大ノ川の年寄名跡である君ヶ濱を5代目として襲名し、その遺族の扶養を引き受けた。
矢野 晋也(やの しんや、1888年〈明治21年〉4月25日… 矢野 晋也(やの しんや、1888年〈明治21年〉4月25日 - 1948年〈昭和23年〉3月2日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員(立憲政友会)。 鳥取県西伯郡米子町道笑町(現在の米子市)出身。矢野市郎兵衛の三男あるいは六男。矢野藤十郎の弟。鳥取県立米子中学校を卒業後、1906年(明治39年)より『東京日日新聞』記者となった。そのかたわら早稲田大学政治経済科で学び、1910年(明治43年)に卒業した。 その後『中央新聞』を経て、1911年(明治44年)に二六新報社に入社し、社会部長を務めた。1917年(大正6年)に政治部長に転じ、1924年(大正13年)に社長の秋田清が辞任すると、後任の社長に就任した。
上原 政兵衛(うえはら まさべえ、旧姓・松島、1888年〈明… 上原 政兵衛(うえはら まさべえ、旧姓・松島、1888年〈明治21年〉4月25日 - 没年不明)は、日本の商人(原皮毛皮貿易商)、実業家。 福島県西白河郡白河町(現白河市)生まれ。製革業・肥料毛皮貿易商などを営む松島瀧右衛門の四男。1910年、先代上原ゆきの入夫となる。家督を相続する。原皮毛皮貿易商を営む。 1938年、紺綬褒章を賜る。上原商事会長、日本毛皮革、富士製革工業、天津大興物産各社長、日本原皮常務を歴任し、1946年に大興物産社長に就任する。 趣味は骨董。宗教は真宗。墓所は同宗の浅草今戸の本龍寺。住所は東京市本郷区向ヶ丘弥生町、文京区駒込林町、浅草区今戸町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
小幡 重一(おばた じゅういち、1888年4月24日 - 1… 小幡 重一(おばた じゅういち、1888年4月24日 - 1947年9月15日)は、物理学者。
高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月2… 高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月20日 - 1947年(昭和22年)3月18日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において司令長官職を歴任した海軍中将である。 福島県出身。相馬中学を経て1908年(明治41年)、海軍兵学校36期を卒業。席次は入校時192名中5番。在校中2学年とも学術優等章を授与され、191名中10番で卒業した。同期に南雲忠一、沢本頼雄、清水光美らがいる。 高橋は海軍砲術学校を修了した砲術専攻士官で、戦艦「石見」砲術長を務めた。海軍大学校17期を卒業後、2年間英国に駐在している。ロンドン海軍軍縮会議では随員を務め、帰国後は海軍省副官となる。会議後の帝国議会では海軍政務次官経験者が海軍造艦政策に対する追求を行ったが、艦政本部での経験を活かし、海相安保清種を補佐した。
風戸 元愛(かざと もとちか、1888年(明治21年)4月2… 風戸 元愛(かざと もとちか、1888年(明治21年)4月20日 - 1975年(昭和50年)9月22日)は、日本の政治家。元茨城県水戸市長(2期)。 千葉県出身。東京商科大学卒業。茨城県農工銀行頭取を経て、水戸市会議員になり、議長に就任する。議長在職中の1946年、市会から水戸市長に推され、就任する。翌1947年の市長選挙に立候補し、当選する。しかし、同年公職追放となり、半年で市長の座を追われることになった。
土師 盛貞(はし もりさだ、1888年(明治21年)4月19… 土師 盛貞(はし もりさだ、1888年(明治21年)4月19日 - 1946年(昭和21年)1月10日[要出典])は、朝鮮総督府官僚。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町出身。1914年(大正3年)に高等文官試験に合格し、翌1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。石川県警部、同警視、和歌山県日高郡長を務めた。1920年(大正9年)、朝鮮総督府事務官に転じ、全羅南道警察部長、京畿道警察部長、逓信局海事課長、海員審判所長、殖産局商工課長・商工奨励館長を歴任した。1931年(昭和6年)、専売局長となり、翌年に平安北道知事に転じた。1935年(昭和10年)からは慶尚南道知事を務め、1937年(昭和12年)に退官した。
岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次、1888年(… 岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次、1888年(明治21年)4月18日 - 1927年(昭和2年)11月20日)は、日本の歌人、編集者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県薩摩郡宮之城村湯田(現在のさつま町)に生まれる。川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)に進学、今井白楊と同窓となり文学を志し、「秀才文壇」などに投稿。第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)を経て、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。東大では尾上柴舟に学んだ。 短歌雑誌『車前草』を創刊。編集者として『桜草』や、橋田東聲主宰の『珊瑚礁』など、他の短歌雑誌でも活躍、のちに『水甕』を創刊し、同誌に専念する。 1916年、出版社「莫哀社」を起こすも事業に失敗し、翌年には明治製糖に入社して台湾に渡る。
伊藤 恭一(いとう きょういち、1888年(明治21年)4月… 伊藤 恭一(いとう きょういち、1888年(明治21年)4月15日 - 1950年(昭和25年)3月16日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員。 岐阜県恵那郡付知村(付知町を経て現中津川市付知町)で、伊藤文弥の三男として生まれる。付知小学校卒業後、検定試験で准教員の資格を得て郷里の学校で教員を務め、1910年(明治43年)3月、岐阜県師範学校を卒業した。 加納小学校訓導に就任。以後、付知小学校訓導、同校長、岐阜県視学、岐阜市白山小学校長、同市徹明小学校長などを歴任。さらに、白山商工実修学校長、徹明商業青年学校長、岐阜県教員購買組合監事、同県国民学校長会副会長、大日本教育会岐阜県支部参与などを務めた。
岸本 鹿子治(きしもと かねじ、1888年(明治21年)4月… 岸本 鹿子治(きしもと かねじ、1888年(明治21年)4月14日 - 1981年(昭和56年)1月1日)は、大日本帝国海軍の軍人。海兵37期。最終階級は海軍少将。酸素魚雷と特殊潜航艇(甲標的)の開発を成功させた。実兄は岸本信太海軍中将(海軍機関学校10期)。岳父は豊辺新作陸軍中将。 岡山県出身。岡山一中を経て海軍兵学校(37期)を卒業。席次は179人中23番。岸本は海軍大学校乙種学生、海軍水雷学校高等科、同特修科を修了した水雷専攻の士官で、「夕暮」駆逐艦長、「長良」水雷長、「霧島」水雷長、海軍水雷学校教官、呉海軍工廠魚雷実験部員、第九駆逐隊司令などを歴任した。 他に、第五戦隊参謀、海軍兵学校教官、第三艦隊参謀、連合艦隊参謀などを経て、1930年(昭和5年)12月1日、海軍大佐に進級。
衛藤 即応(衞藤即應、えとう そくおう、1888年4月14日… 衛藤 即応(衞藤即應、えとう そくおう、1888年4月14日 - 1958年10月13日)は、日本の仏教学者・曹洞宗僧侶。学位は、文学博士。駒澤大学総長(1953年就任)。近代曹洞宗の宗学の確立に尽力。号は不喚。 大分県宇佐郡駅館村(現:宇佐市)出身。雲栖寺・雪洞明につき得度、心月院(兵庫県)にて弘津説三に嗣法して大応寺(山口県)住職となる。1904年曹洞宗大学(現:駒澤大学)、1912年京都帝国大学文学部印度哲学科卒業。曹洞宗大学教授として1921-24年英国、フランス、ドイツに学び、帰国後に駒澤大学教授。1928年京都市安泰寺住職。1937年学寮「道憲寮」を創立。 1944年「宗祖としての道元禅師」で京都大学より文学博士の学位を取得。
飯村 五郎(いいむら ごろう、1888年(明治21年)4月1… 飯村 五郎(いいむら ごろう、1888年(明治21年)4月13日 - 1946年(昭和21年)5月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、弁護士。 茨城県筑波郡真瀬村(現在のつくば市)出身。飯野茂吉の二男として生まれ、1910年(明治43年)に茨城県会議長飯村忠七の婿養子となった。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学を卒業後、一年志願兵制度によって陸軍三等主計に任じられた。退役後は弁護士を開業した。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。その間、米内内閣で厚生参与官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会を結党にも参加している。
渡辺 義介(渡邊、わたなべ ぎすけ、1888年4月12日 -… 渡辺 義介(渡邊、わたなべ ぎすけ、1888年4月12日 - 1956年1月6日)は、日本の経営者。日本製鐵・八幡製鐵(現・日本製鉄)社長。 新潟県西蒲原郡弥彦村出身。日本石油会社支配人・渡辺忠の二男として生まれ、新潟県立柏崎中学校、第四高等学校を経て、1915年東京帝国大学法科大学経済学科卒。同年文官高等試験行政科試験に合格、農商務省に入る。官営八幡製鉄所に勤務を経て、商工省に戻り、鉱山局鉱政課長を歴任する。 1934年に日本製鐵が発足すると八幡製鉄所に戻り、所長となった。その後、1942年には北支那製鉄社長に就任、鉄鋼統制会理事長も務めた。1945年、日本製鐵社長となり、鉄鋼統制会会長に就任した。
恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1… 恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1972年4月18日)は、日本の植物学者。旧姓は小山。 長野県北佐久郡大井村(現・小諸市)に生まれる。小諸義塾に通い、島崎藤村から国語を学ぶ。1906年(明治39年)、恩田重信の養子となる。第一高等学校を経て1916年東京帝国大学理学部植物学科卒業、同大学院中途退学。在学中は三好学の指導を受けた。水産講習所(現・東京海洋大学)非常勤講師を経て、1923年(大正12年)明治薬学専門学校教授となり、第一高等学校講師を経て明治薬科大学の初代学長となる。牧野富太郎に師事し、木本植物を研究した。
堺 武志(さかい たけし、1888年(明治21年)4月10日… 堺 武志(さかい たけし、1888年(明治21年)4月10日 - 1955年(昭和30年)3月1日)は、日本の医師。政治家。宮城県石巻市長。旧姓白坂。 宮城県栗原郡若柳町(現・栗原市)の白坂家に生まれる。仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に入り、在学中に堺家の養子となる。卒業後は牡鹿病院の内科長に就任し、その後石巻市で医院を開業した。戦時中は警防団副団長、防空委員を務めた。 終戦後の1946年(昭和21年)3月石巻市長の岩崎孫八が公職追放の対象となるため市長を辞職。後継の市長をこれまで通り市会で推薦することも検討されたが、新しい時代を迎えて一部の市民が首長の公選制を検討していたことから「公選によって市長を選ぼう」という機運が高まり、市内で市民大会が開催された。
藤ノ川 雷五郎(ふじのかわ らいごろう、1888年4月10日… 藤ノ川 雷五郎(ふじのかわ らいごろう、1888年4月10日 - 1966年2月22日)は、現在の新潟県上越市出身で伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は飯田 繁治。14代春日山。174cm、94kg。最高位は西関脇。 1908年1月初土俵、1913年5月十両昇進。1917年5月入幕し、前頭2枚目で迎えた1919年春場所において横綱栃木山に勝利、生涯唯一の金星を獲得した。この場所は5勝5敗の成績だったが、同年5月に関脇昇進。しかし10戦全敗に終わってこの関脇が現役唯一の三役経験となり、以降は三役に戻る事無く前頭の上位と下位を往来している。 1925年1月に引退し14代春日山を襲名。しかしこの頃辺りから伊勢ノ海一門の勢いに翳りが見られ、1946年に伊勢ノ海一門が消滅すると14代春日山は同年11月に部屋を閉じて弟子を全て立浪部屋に譲渡移籍。
亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1… 亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1973年3月16日)は、元浄土真宗の僧侶(住職)で、後にキリスト教(プロテスタント)に改宗して牧師になった人物。日本基督教団富山新庄教会を設立した。 1888年(明治21年)富山県新庄町(現、富山市荒川)の浄土真宗大谷派正願寺の住職の息子として生まれた。親鸞の直系である蓮如から、18代の末裔である。 十七代目住職である父が2歳の時、山崩れのため大水が出て、家族は助かったが、寺は流され無一文になった。父は無理をして新庄町に寺を再建したが、借金を負い、檀家も少なくなって生活は貧しかった。 僧侶となる教育を受けて、富山中学校卒業後、第四高等学校 (旧制)で、倫理の時間に西田幾多郎よりキリスト教の説明を聞いたが、その時はよくわからず仏教の信仰を熱心に求めていた。
道面 豊信(どうめん とよのぶ、1888年4月9日 - 19… 道面 豊信(どうめん とよのぶ、1888年4月9日 - 1981年3月8日)は、日本の実業家。元味の素社長。広島県広島市仁保島本浦(現南区本浦)出身。 広島商業卒業後渡米。オハイオ北部大学、コロンビア両大学で学ぶ。サンミット神崎商店支配人を経て、1918年、味の素の前身・鈴木商店に入社。1935年、同店の外国課長で帰国するまで米国に在勤し、製品の米国市場売り込み、及び原料買い付けなどに手腕を発揮した。1940年取締役、その後1945年、終戦直後の常務時代には、GHQの要請でDDTの製造に協力、これが同社戦後再建の原動力となった。1947年専務を経て1950年、戦後初めて同族以外から同社4代目社長に就任。
早川 三郎(はやかわ さぶろう、1888年 <明治21年> … 早川 三郎(はやかわ さぶろう、1888年 <明治21年> 4月8日 - 1973年 <昭和48年> 4月19日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、警視総監。位階は正四位。 神奈川県出身。地主・早川耕造の三男として生まれる。東京府立三中、第六高等学校を経て、1915年5月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年8月、内務省に入り宮崎県属となる。 1916年9月、宮崎県警視を兼務。以後、宮崎県東諸県郡長、同県理事官、埼玉県理事官、同県地方課長、同県視学官、香川県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長などを歴任。
高橋 隆篤(たかはし たかあつ、1888年(明治21年)4月… 高橋 隆篤(たかはし たかあつ、1888年(明治21年)4月8日 - 1951年(昭和26年)9月24日)は、日本の陸軍軍人、獣医師。最終階級は陸軍獣医中将。 秋田県出身。小学校教員・高橋隆忠の長男として生まれる。郁文館中学校(現郁文館中学校・高等学校)、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学農科大学獣医学科を卒業。1915年(大正4年)2月、獣医少尉に任官し野砲兵第16連隊付となる。1916年(大正5年)12月、陸軍獣医学校に乙種学生として入校した。 1918年(大正7年)9月、伝染病研究所勤務となり、1919年(大正8年)4月、獣医中尉に昇進。1920年(大正9年)9月、獣医学校教官に就任し、臨時検疫所員、獣医学校副官兼教官、イギリス駐在、獣医学校教官を務め、1925年(大正14年)8月、三等獣医正に進級し獣医学校付となる。
若松 平治(わかまつ へいじ、1888年(明治21年)4月8… 若松 平治(わかまつ へいじ、1888年(明治21年)4月8日 - 1973年(昭和48年)4月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県薩摩郡、のちの下東郷村(川内市を経て現薩摩川内市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1936年(昭和11年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、福知山連隊区司令官に就任し、1938年(昭和13年)に歩兵第45連隊長に転じた。 1939年(昭和14年)8に陸軍少将に進級し、歩兵第30旅団長に就任した。1941年(昭和16年)3月に独立混成第16旅団長に転じ、日中戦争に出動、汾陽に駐屯し、治安警備に当たった。1942年(昭和17年)2月3日に予備役に編入された。
安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1888年(明治21年)… 安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1888年(明治21年)4月7日 - 1915年(大正4年)3月6日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。 試験飛行中に搭乗機が墜落し他の乗員二人とともに殉職したが、安達らの殉職は海軍搭乗員の日本国内における殉職としては最初の事例となった。最終階級は海軍大尉。 医師安達玄杏の五男として現在の愛媛県内子町に生まれる。松山中学を経て海軍兵学校36期に進んだ。36期の入校試験は2649名の志願者に対し正規合格者は192名(他に補欠合格者8名)で、安達の席次は200名中39番、卒業時は191名中67番であった。1910年(明治43年)1月、少尉任官。 前年の8月には臨時軍用気球研究会が発足し、空の軍事利用について研究が始まった。
市川 厚一(いちかわ こういち、1888年(明治21年)4月… 市川 厚一(いちかわ こういち、1888年(明治21年)4月6日 - 1948年(昭和23年)9月4日)は、日本の獣医学者で獣医病理学専攻。北海道帝国大学教授。茨城県桜川市東飯田出身。山極勝三郎と共に世界初の人工癌発生に成功する。 雨引村立雨引尋常小学校、東京府立一中を経て、1913年、東北帝国大学農科大学(のちの北海道帝国大学)卒業。卒業後、東北帝国大学の大学院に進み、東京帝国大学医学部教授・山極勝三郎の研究室の特別研究生となり、山極と共に世界初の人工癌発生に挑戦。1915年、人工癌(皮膚癌)発生に成功(兎の耳にコールタールを塗擦(塗布ではない)した実験)。当時の癌発生原因の「刺激説」「素因説」の二説のうち、前者の「刺激説」の有力な根拠となった。
高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年(明治21年)4… 高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年(明治21年)4月6日 - 1966年(昭和41年)7月31日)は、日本の画家。本名、高畠幸吉。 愛媛県宇和島市裡町に生まれ、京都市立美術工芸学校日本画科卒業。大正から昭和初期にかけて、華宵の絵は当時の少年少女の間で絶大な人気を得た。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。 1905年京都市立美術工芸学校を中退、1906年関西美術院に学び、上京して寺崎広業に師事した。当座は生活苦に喘いでいたが、1911年(明治44年)に「華宵」名義で発表した津村順天堂「中将湯」の広告画で一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画によるモダンな絵はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので、世間の注目を集めた。
秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 197… 秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 1977年1月16日)は、日本の美術史学者。金沢美術工芸大学名誉教授。専門は日本近世絵画史。 1888年、静岡県田方郡で三島大社宮司・秋山光條の子として生まれた。京都府立第一中学校、第六高等学校を経て、京都帝国大学法科大学に入学。しかし芸術への関心を断つことができず、同文科大学哲学科に転じ、美学美術史学を専攻した。1913年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院在学中より京都絵画専門学校などで美術史を講じた。1918年、図書頭兼帝室博物館総長・森鴎外の推挙により宮内省図書寮に奉職。1924年に宮内省御物管理委員、1926年に帝室博物館監査官となった。
草間 良男(くさま よしお、1888年4月3日 - 1968… 草間 良男(くさま よしお、1888年4月3日 - 1968年2月18日)は、日本の医学者。 長野県松本市に生まれる。1905年に渡米、1916年スタンフォード大学理学部、1920年同医学部を卒業し帰国。その間シカゴ大学で生理学、病理学を研究する。1921年慶應義塾大学衛生学教室に入り、1927年に助教授に就任。再渡米し、ロックフェラー財団奨学生としてジョンズ・ホプキンズ大学公衆衛生学課程修了。1929年に帰国し、1930年慶應義塾大学教授に就任。第二次世界大戦後GHQに協力して、インターン制度の導入等、医療制度・医学教育の改革に尽力した。1940年慶應義塾大学医学部予防歯科学研究所所長、1955年から1959年まで同大医学部長に就任。
山下 寿郎(やました としろう、1888年4月2日 - 19… 山下 寿郎(やました としろう、1888年4月2日 - 1983年2月2日)は、日本の建築家。昭和時代にかけて活躍。山形県米沢市出身。昭和の初めに事務所を設立して以米、幾多の建物設計のなかで霞ヶ関ビルやNHK放送センター等が代表的な作品である。その一方で建築施工に関する研究も続け、28年にわたり東京大学の講師として後進の指導にあたった。 幼少期は教育者であった父、新力から、米沢士族の子弟として、誇高く厳格な家庭教育を受けて成人した。叔父に当る山下源太郎海軍大将に深く私淑し、一生人生の師範として敬った[要出典]。上京の後、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に学び、1912年に卒業。
立汐 祐治郎(たてしお すけじろう、1888年4月2日 - … 立汐 祐治郎(たてしお すけじろう、1888年4月2日 - 1972年11月7日)は、青森県西津軽郡木造町(現つがる市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は長谷川 祐治郎。身長170cm、体重86kg。最高位は西前頭13枚目。立汐唯五郎は実弟。 浪ノ音健藏に見出され入門。1906年5月に初土俵を踏み、1910年6月十両昇進した。1911年10月、岐阜県内での巡業中に八甲山純司が締めていた化粧廻しを見て「そんな化粧廻しはみっともないぜ」と言ったのに対し、八甲山は「お前に言われる筋合いはない」と反論されたのに腹を立て、取組で土俵に上がった八甲山に剃刀を手にした立汐は土俵に乱入してその場で八甲山のマゲをつかんで切り落とし、さらに右腕に長さ10cmの切り傷を負わせるトラブルを起こした。
緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - … 緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - 1967年11月17日)は、日本の英文学者、教育者、鹿児島大学初代学長・名誉教授。旧制の第六高等学校教授、姫路高等学校第6代校長、第七高等学校第10代校長も歴任した。 福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)出身で、旧制福岡県立豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を卒業した。1910年、旧制第六高等学校(岡山大学の前身のひとつ)大学予科第一部乙類を卒業。1913年、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)英文学科を卒業。大学卒業後、旧制愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)、旧制愛媛県立西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)で教員を務める。
小河 虎彦(おがわ とらひこ、1888年〈明治21年〉4月1… 小河 虎彦(おがわ とらひこ、1888年〈明治21年〉4月1日 - 1975年〈昭和50年〉5月8日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・合屋。 大分県速見郡日出村(現日出町)で、合屋家次の二男として生まれ、弁護士・小河源一の養子となる。1911年(明治44年)明治大学法律科卒。司法官試補となり、弁護士の業務に従事する。山口地方裁判所所属弁護士会会長、山口県議となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において山口2区から立憲民政党公認で立候補したが落選した。1934年(昭和9年)の山口2区の補欠選挙で民政党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた。1936年(昭和11年)第19回総選挙で落選した。
江口 章子(えぐち あやこ、1888年(明治21年)4月1日… 江口 章子(えぐち あやこ、1888年(明治21年)4月1日 - 1946年(昭和21年)12月29日)は、歌人、詩人。北原白秋の2番目の妻。 大分県西国東郡香々地町(現豊後高田市)に旧家江口家の三女として生まれる。1901年(明治34年)、大分県大分郡大分町(現大分市)の大分県立大分高等女学校で学ぶ。 1906年(明治39年)に弁護士と結婚して大分町に在住する。しかし、1915年(大正4年)に離婚すると平塚雷鳥を頼って上京。1916年(大正5年)に千葉県南葛飾郡小岩村の借家で白秋と同棲を始める。1918年(大正7年)には白秋と入籍するも、1920年(大正9年)に離婚。 離婚後は大分に戻り、別府市の伊藤家別荘に逗留していた柳原白蓮を訪ねて身を寄せた後、西国巡礼に向かい、その帰途に大分市松岡の浄雲寺や木上の少林寺を訪れた。
岡田 幸三郎(おかだ こうさぶろう、明治21年(1888年)… 岡田 幸三郎(おかだ こうさぶろう、明治21年(1888年)4月 - 昭和47年(1972年))は日本の実業家。 小説家遠藤周作の妻順子の父。俳優岡田英次のおじ。フジテレビジョン代表取締役社長を務めた遠藤龍之介の外祖父。 千葉県海上郡銚子町(現銚子市)に生まれた。岡田幸吉の三男。 明治42年(1909年)長崎高商卒業。慶大理財科修業。 塩水港製糖入社。計算販売各課長、東京支店詰営業部長取締役を経て常務取締役に就任。 昭和14年(1939年)社長に挙げられ、塩水港パルプ、新栄産業、新日本食品工業、日立オーバーシーズ各社長、東台湾電力興業、花蓮港木材、日本砂糖工業社長、新興産業、満州製糖、北満産業各取締役、日本糖業連合会、糖業協会各理事を歴任す。
片岡 長正(かたおか ちょうせい、1887年4月28日 - … 片岡 長正(かたおか ちょうせい、1887年4月28日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元女形である。芸名の読みは「かたおか ちょうしょう」と表記されることもある。芸名を片岡 長生とするのは誤りである。本名は桑島 莊一郎(くわじま そういちろう)とされるが、桑島 長生(くわじま ちょうせい、くわじま ちょうしょう)、桑島 長正(読み同じ)、桑島 藏一郎(くわじま ぞういちろう)、幸島 喜一郎(こうじま きいちろう)の説もある。幼名は澤村 鶴松(さわむら つるまつ)。旧芸名は桑島 壯一郎(くわじま そういちろう)、久和島 壯一(くわじま そういち)、久和島 莊一(読み同じ)。旧劇を経て横田商会、日活京都撮影所に所属し、尾上松之助の相手役として活躍した名女形として知られる。
新村 忠雄(にいむら ただお、1887年(明治20年)4月2… 新村 忠雄(にいむら ただお、1887年(明治20年)4月26日 - 1911年(明治44年)1月24日)は、日本の社会主義者、アナキスト。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人で、計画の首謀者とも言われる。号は秋峰。 長野県埴科郡屋代町(現:長野県千曲市)の出身で生家は豪農だった。1897年(明治30年)に屋代小学校尋常科を卒業し、高等科に4年、補習科に1年ほど在学した。 郷里で信仰に疑問を持って無神論者となり、1903年(明治36年)に上京して幸徳秋水・堺利彦らが製作した平民新聞を愛読し、同年には日本メソジスト教会で受洗する。 1906年(明治39年)、新村はピョートル・クロポトキンの「無政府主義の哲学」を読んでアナキズムを知る。
武井 大助(たけい だいすけ、1887年(明治20年)4月2… 武井 大助(たけい だいすけ、1887年(明治20年)4月25日 - 1972年(昭和47年)3月30日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍主計中将。昭和産業・安田銀行・文化放送の社長を務めた。1940年勲一等旭日大綬章受章。 現在の茨城県土浦市田村町で、武井松太郎の三男として生まれる。旧制土浦中学校(茨城県立土浦第一高等学校の前身)卒業後、明治37年(1904年)7月、東京高等商業学校予科(一橋大学の前身)に入学し、翌月、海軍主計学生となる。一橋では福田徳三に師事し千駄ヶ谷の福田邸での読書会にも参加した。しかし、緒方竹虎らとともに申酉事件のリーダーとしての責任をとり専攻部へは進まず、明治42年(1909年)に本科卒業後、海軍少主計に任官し海軍経理学校乙種で学ぶ。
今西 与三郎(いまにし よさぶろう、1887年4月25日 -… 今西 与三郎(いまにし よさぶろう、1887年4月25日 - 1962年9月23日)は、日本の経営者。 現在の大阪府大阪市出身。1912年7月に京都帝国大学法学科を卒業し、山下汽船に入社。外遊と大阪商船での勤務を経て、1918年に山下汽船に復帰した。 1917年に今西林三郎の次女と結婚し、養嗣子となる。 阪神電鉄では、堀啓次郎社長の下で、1924年10月に監査役に就任し、取締役を経て専務取締役を務め、山口覚二常務取締役らと実務を担った。1935年4月25日、堀社長、山口常務が辞任。今西が社長になり、石井五郎が専務取締役に、岡喜太郎が常務取締役に就任した。 同35年4月から1946年10月までの社長在任時には、阪神国道自動車を阪神傘下に収め、神戸乗り入れの地下線開業と梅田駅の地下化と三宮阪神ビルと梅田阪神ビルの竣工などを行った。
白城 定一(しらき さだいち、1887年〈明治20年〉4月2… 白城 定一(しらき さだいち、1887年〈明治20年〉4月25日 - 1978年〈昭和53年〉11月4日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県北宇和郡、のちの喜佐方村(吉田町を経て現宇和島市)で、白城清太郎の二男として生まれた。同郷の山下亀三郎を頼り、横浜石炭商会(のちの山下汽船)に入る。山下汽船(株)取締役、山下(名)理事、尼ヶ崎築港(株)監査役、阪神築港(株)取締役、白城(名)社長、日満鉱業(株)取締役、同社長、同会長、満州鉛鉱(株)副社長、満州鉱山(株)取締役、日満石膏(株)会長となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において愛媛3区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。
田原 和男(たはら / たわら[要出典] かずお、1887年… 田原 和男(たはら / たわら[要出典] かずお、1887年(明治20年)4月22日 - 1955年(昭和30年)1月27日)は、大蔵官僚、南洋庁長官。 東京府出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。大蔵省に入り、東京税務監督局関税部長、臨時議院建築局書記官・会計課長、銀行局事務官・北海道拓殖銀行監理官を歴任。1925年(大正14年)、京都市助役に就任した。1926年(大正15年)、第1次若槻内閣が成立すると内閣総理大臣秘書官に任じられた。1929年(昭和4年)より拓務書記官・内閣書記官、外務書記官を歴任し、ロンドン海軍軍縮会議では全権委員随員を務めた。 1931年(昭和6年)、拓務省殖産局長に就任し、さらに南洋庁長官に転じた。
北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう、1887年… 北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう、1887年〈明治20年〉4月18日 - 1923年〈大正12年〉4月1日)は、日本の皇族。階級は陸軍大佐。北白川宮能久親王の第3王子。北白川宮第3代当主。 1887年〈明治20年〉4月18日、北白川宮能久親王と正妃富子(伊達宗徳侯爵の次女)の唯一の子として誕生。1895年(明治28年)10月28日、父宮の薨去により8歳で北白川宮を継承。 1901年(明治34年)9月、久邇宮家の鳩彦王・稔彦王兄弟とともに、東京陸軍地方幼年学校に第5期生として入校。美少年であった成久王は一部の上級生から人気を集めた。陸軍では、その後、陸軍士官学校(20期)、陸軍大学校(27期)を卒業し陸軍砲兵大佐まで至る。
宮川 竹馬(みやがわ たけま、1887年4月18日 - 19… 宮川 竹馬(みやがわ たけま、1887年4月18日 - 1964年8月27日)は、昭和時代に活動した日本の実業家。高知県幡多郡入野村早咲(現・幡多郡黒潮町)出身。 旧制中村中学校(現・高知県立中村高等学校)を経て、東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科電気機械分科を1912年(明治45年)に卒業後、九州電灯鉄道(後の東邦電力)に入社。以後電力業界を歩み、1951年電気事業再編成により発足した四国電力株式会社の初代社長となる。また、その再編成案を松永安左エ門と協力してつくったことでも知られる。孫の坂間英気は、電力業界を経て、現在はサイバーセキュリティ企業の株式会社 AppGuardに勤務する。