横田 清蔵(よこた せいぞう、1886年4月7日 - 196… 横田 清蔵(よこた せいぞう、1886年4月7日 - 1964年6月11日)は、日本の政治家。元衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1907年、千葉県師範学校卒業。千葉県会議員、同議長、飯岡町(現在の旭市)長、千葉県町村長会長、飯岡信用購買販売組合長、千葉県農業会監事、飯岡町農業会長、飯岡農業協同組合長を歴任した。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において千葉県から日本自由党公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。次の1947年の第23回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1964年死去。
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榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年〈明治19年〉4月… 榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年〈明治19年〉4月7日 - 1935年〈昭和10年〉4月19日)は、日本の婦人運動家。大正デモクラシーの時期の京都で、市民的な女性運動が盛んになった際に、その中心となって諸運動の連携に尽力した人物である。山形県鶴岡出身、明治女学校専攻科卒業。従兄弟に聖書学者の黒崎幸吉がいる。 1886年(明治19年)に誕生した。東京の明治女学校卒業を経て、熊本女学校や東京女子商業学校など、日本各地の女学校に教員として勤めた。兄の仕事の関係で、満州でも教鞭をとった。 1919年(大正8年)7月、当時の京都大学教授の厨川白村の勧めで、厨川の妻や中外日報記者ら女性たちと共に、知的階級女性による文化団体「京都PL会」を結成した。
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石丸 梧平(いしまる ごへい、1886年4月5日 - 196… 石丸 梧平(いしまる ごへい、1886年4月5日 - 1969年4月8日)は、日本の宗教家、小説家。 大阪府生まれ。号を梅外。茨木中学校(現茨木高等学校)卒。早稲田大学高等師範部歴史地理科卒業後、教員となる。その後小説など執筆活動を始め、青年に対する教育的・啓蒙的なものを多く書いた。雑誌『人生創造』を刊行し、花園大学客員教授などを務めた。川端康成は若いころ梧平の影響下にあった。妻の石丸喜世子も評論家として活動した。
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服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4… 服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本の詩人・歌人・国語学者。 東京市日本橋区浜町の旧松山藩主久松家邸内で生まれた。愛媛県士族・服部嘉陳の長男。父の嘉陳は松山藩士・藤野正久の次男で、服部家を継いだ。 1889年(明治22年)に父の故郷である松山に移る。その後間もなく父が病没したため、叔父藤野漸の下で養育される。松山中学校を卒業後、1904年(明治37年)に再び上京して早稲田大学に入学。1908年(明治41年)、大学部文学科英文学科を卒業。同級生に北原白秋・三木露風・若山牧水・土岐善麿などがいた。中学時代から雑誌『少年世界』『中学世界』などに新体詩を投稿していたが、早大進学によって詩壇での活動はより活発になる。
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平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1… 平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1986年2月21日)は、日本の児童文学翻訳家。デンマーク文学者。アンデルセンの研究で知られる。
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大宮 庫吉(おおみや くらきち 1886年(明治19年)4月… 大宮 庫吉(おおみや くらきち 1886年(明治19年)4月1日 - 1972年(昭和47年)1月19日)は、大正・昭和時代の日本の実業家。寳酒造を日本有数の酒造会社にした宝酒造中興の祖。愛媛県宇和島市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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首藤 今四郎(すとう いましろう、1886年〈明治19年〉4… 首藤 今四郎(すとう いましろう、1886年〈明治19年〉4月 - 1970年〈昭和45年〉4月7日)は、日本の政治家。大分県日田市長。 大分県大分郡戸次町(現在の大分市)生まれ。1907年(明治40年)、大分県巡査となった。1914年(大正3年)、文官普通試験に合格し、大分県警部となった。1915年(大正4年)、日田警察署長となった。その後、臼杵、四日市(現・宇佐署)、別府の各署長を歴任した。1924年(大正13年)、宇佐郡長となる。1928年(昭和3年)10月3日、日田郡日田町長に就任。1935年(昭和10年)、大分県会議員となる。1936年(昭和11年)10月2日に町長を退任した。県議在任中の1940年(昭和15年)日田市が発足、翌1941年(昭和16年)3月18日に初代日田市長に就任した。
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近藤 守蔵(こんどう もりぞう、1885年〈明治18年〉4月… 近藤 守蔵(こんどう もりぞう、1885年〈明治18年〉4月30日 - 1942年〈昭和17年〉)は、日本の俳人、弁護士。鳥取県弁護士会副会長。 鳥取県気高郡美穂村大字下味野(現・鳥取市)出身。近藤寛次郎の長男。近藤家は分家筋で、美穂村にて代々農業を営む。1904年に鳥取一中を卒業。1908年に第一高等学校を卒業。 1912年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。東京有楽町で弁護士開業。父親がやっていた朝鮮忠清北道の農場経営を手伝うため朝鮮にわたり、傍ら京城で法律事務所を開く。 忠清北道官選道評議員に選ばれる。1929年に郷里の鳥取に帰り、西町で弁護士事務所を開設する。 「鳥取県下法曹界の第一人者」と評される。
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儀峨 徹二(ぎが てつじ、1885年(明治18年)4月29日… 儀峨 徹二(ぎが てつじ、1885年(明治18年)4月29日 - 1965年(昭和40年)1月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。儀峨秀霊の二男として生まれる。小浜中学卒業を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。歩兵第67連隊付などを経て、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業した。 1915年(大正4年)8月、参謀本部付勤務となり、1917年(大正6年)3月、陸軍委託学生として東京外国語学校専修科(英語)を修了。その後、参謀本部付、参謀本部員、陸軍省軍務局課員、陸軍航空部員を歴任。
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瀬戸山 兼斌(せとやま けんびん、1885年(明治18年)4… 瀬戸山 兼斌(せとやま けんびん、1885年(明治18年)4月29日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。旧姓は加藤。 加藤里志の三男として鹿児島県大島郡東方村(現・瀬戸内町古仁屋)に生まれ、瀬戸山瀬助の養子となる。1904年(明治37年)大島郡古仁屋村外12箇村立戸長役場に奉職し、学務係および衛生係主任を務めたのち、1905年(明治38年)渡台し、澎湖庁雇として通信事務員となり、1910年(明治43年)2月、府通信手に進んだ。 ついで基隆郵便局勤務に転じ、府属秘書課勤務、台北州勤務、台北州海山郡守、高雄州旗山郡守、新竹州中壢郡守を歴任し、1932年(昭和7年)3月、退官する。
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菊池 寛実(きくち ひろみ、通称:かんじつ、1885年〈明治… 菊池 寛実(きくち ひろみ、通称:かんじつ、1885年〈明治18年〉4月28日 - 1967年〈昭和42年〉3月12日)は日本の実業家であり投資家。戦前は辰ノ口炭鉱、三友炭鉱、高萩炭鉱などを創業し、戦後は帝国石油などに関係した。 栃木県那須郡健武村(現・那珂川町)出身。東京法学院中退後、田中正造の書生をしながら岩崎清七や竹内明太郎の知遇を得る。明治42年(1909年)に鬼怒川での水力発電事業に加わるが程なく浅野総一郎によって買収され、その売却益を元に常磐炭田の辰ノ口炭鉱・三友炭鉱を買収。第一次世界大戦の好景気もあって水郷汽船の経営にも進出したが、世界恐慌の影響をもろに受けて昭和8年(1933年) に破産。
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飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年〈明治18年〉4月26… 飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年〈明治18年〉4月26日 - 1962年〈昭和37年〉10月3日)は、山梨県出身の日本の俳人。本名、飯田武治(いいだ たけはる)。別号に山廬(さんろ)。高浜虚子に師事、山梨の山村で暮らしつつ格調の高い句を作り、村上鬼城などとともに大正時代における「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍した。俳誌「雲母」を主宰。四男の飯田龍太も俳人であり、飯田家を継ぎ蛇笏の没後に「雲母」主催を継承した。句集に『山廬集』(1932年)、『椿花集』(1966年)、ほかに随筆集なども多数。 山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現笛吹市境川町小黒坂)に生まれる。飯田家は名字帯刀を許された旧家で、大地主である。
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成瀬 無極(なるせ むきょく、1885年4月26日 - 19… 成瀬 無極(なるせ むきょく、1885年4月26日 - 1958年1月4日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。京都帝国大学名誉教授。本名は清。 東京根岸生まれ。東京帝国大学独文科卒。1908年京都帝国大学講師、1919年助教授、1930年教授、1931年日本ゲーテ協会を創立。1945年4月定年退官、名誉教授。 ドイツ文学の研究、翻訳のほか、劇作、評論、随筆などで活躍した。18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動「シュトルム・ウント・ドラング」を「疾風怒濤」と訳した人物とも言われる。 息子はドイツ史学者の成瀬治。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
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岡田 素臣(おかだ そしん、1885年4月26日 - 193… 岡田 素臣(おかだ そしん、1885年4月26日 - 1934年3月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県、現在の大垣市出身。1910年、東京慈恵医院医学専門学校(現・東京慈恵会医科大学)卒。東京慈恵病院、東京病院、佐世保海軍共済会病院に勤務する。のち陸軍三等軍医となる。大垣市議、同副議長、岐阜県議、同副議長、同参事会員を歴任し、また大垣市医師会幹事、西濃鉄道、大垣土地各(株)取締役を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において岐阜2区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1934年死去。
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高倉 徳太郎、(たかくら とくたろう、1885年4月23日 … 高倉 徳太郎、(たかくら とくたろう、1885年4月23日 - 1934年4月3日)は、日本基督教会の神学者、牧師。植村正久の後継者。 京都府何鹿郡綾部町字南西町101番地に生まれる。父は高倉平兵衛、母はさよ。平兵衛の養蚕の仕事による不在と、夫のキリスト教信仰のために、母さよは夫と子供を棄てた。そのとき徳太郎は5歳だった。 1903年9月金沢の四高(現金沢大学)に入学し、西田幾多郎の三々塾に入り、1906年6月卒業。「最も愛すべきものは自己なり」と書いた。 綾部の日本組合基督教会牧師の次女内田光恵に恋愛感情を持ち、結婚を考えるようになる。この少女は綾部一の麗貌だった。やがて婚約式を挙げたが、裕福な商家の長男で秀才の誉れ高く、外交官、政治家としての将来を嘱望されていた高倉が、立身出世の望みを捨てて牧師になろうとしたとき、貧乏牧師の妻にはさせないという光恵の母から婚約を破棄された。
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西山 勉(にしやま つとむ、1885年4月18日 - 196… 西山 勉(にしやま つとむ、1885年4月18日 - 1960年9月21日)は日本の銀行家、外交官。満州中央銀行総裁、終戦連絡中央事務局次長等を務めた後、戦後 GHQにより公職追放を受ける。追放解除後は初代駐インド大使を務めた。高知県出身。
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本田 英作(ほんだ えいさく、1885年(明治18年)4月1… 本田 英作(ほんだ えいさく、1885年(明治18年)4月18日 - 1948年(昭和23年)10月4日)は、衆議院議員(立憲民政党→日本自由党)、弁護士。 長崎市出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。司法官試補を経て、鹿児島地方裁判所や長崎地方裁判所で判事を務めた。退官後は弁護士事務所を開業し、長崎市会議員を3期、長崎県会議員を2期務めた。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回・第20回でも再選された。 戦後の1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選。第23回でも再選された。その間、第1次吉田内閣で外務政務次官に就任した。
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富安 風生(とみやす ふうせい、1885年(明治18年)4月… 富安 風生(とみやす ふうせい、1885年(明治18年)4月16日 - 1979年(昭和54年)2月22日)は、日本の俳人。本名は謙次。高浜虚子に師事。逓信省に勤めながら俳誌「若葉」を主宰。温和な作風で知られた。愛知県出身。 愛知県八名郡金沢村(現在の豊川市金沢町辺り)生まれ。豊橋町立豊橋尋常中学時習館、第一高等学校、東京帝国大学法科大学卒業。卒業後は逓信省に入り、のち逓信次官。1912年に平塚の杏雲堂で療養。 俳句をはじめたのは遅く、1918年、34歳のとき福岡貯金支局に支局長として赴任した時期に吉岡禅寺洞の手引きを受けたことに始まる。翌年に福岡に来た高浜虚子に接し、「ホトトギス」に投句。同年に本省に転勤。
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岡田(永代) 美知代(おかだ(ながよ) みちよ、1885年(… 岡田(永代) 美知代(おかだ(ながよ) みちよ、1885年(明治18年)4月15日 - 1968年(昭和43年)1月19日)は、明治期から昭和期の小説家、雑誌記者。田山花袋の小説『蒲団』のヒロイン、横山芳子のモデルとして知られる。 広島県甲奴郡上下町(現・府中市上下町)に、備後銀行頭取などを務めた地元の有力者であった岡田胖十郎の長女として生まれる。第一高等学校・明治大学で教鞭を取り、草創期の駿台高等豫備學校講師だった岡田實麿は兄。妹萬寿代は、北海道帝国大学教授や庄原市長を務めた八谷正義に嫁いだ。クリスチャンの家であった。 1898年(明治31年)9月神戸女学院に入学。佐々城信子が同時期に通っており、面識があった。
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池田 平作(いけだ へいさく、1885年(明治18年)4月1… 池田 平作(いけだ へいさく、1885年(明治18年)4月12日 - 1935年(昭和10年)9月21日)は、大正・昭和期の日本海軍の軍人。連合艦隊主計長、海軍経理学校教官、横須賀鎮守府軍需部長などを歴任した。最終階級は海軍主計少将。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校に学ぶ。静岡中学時代は野球部に所属した。東京帝国大学法科大学卒業。 1911年7月、中主計任官、経理学校乙種学生。1912年3月、浪速乗員、7月、横須賀水雷団付、10月、第2駆逐隊付、12月、横須賀水雷団付。1913年4月、第1駆逐隊付、8月、主計長心得。12月、大主計、嵯峨主計長。1915年2月、佐世保経理部第1兼第2課員。1917年2月、第2特務艦隊司令部付。
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正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年… 正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日)は、日本の警察官・内務官僚、実業家、政治家。読売新聞社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。 読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、読売中興の祖として大正力(だいしょうりき)と呼ばれている。 読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したためにプロ野球の父と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したためにテレビ放送の父と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために原子力の父とも呼ばれる。
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井上 登(いのうえ のぼり、1885年〈明治18年〉4月10… 井上 登(いのうえ のぼり、1885年〈明治18年〉4月10日 - 1971年〈昭和46年〉7月26日)は、日本の最高裁判所判事。千葉県出身。 井上義行の息子として生まれる。1913年(大正2年)3月に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1917年(大正6年)に判事となる。1926年(大正15年)、東京地方裁判所部長時代に、ジュネーブで開催された第八回国際労働会議に政府代表顧問として参加。1927年(昭和2年)12月に東京控訴院判事、1933年(昭和8年)に大審院判事、1937年(昭和12年)に司法省の初代調査部長となる。1939年(昭和14年)から再び大審院判事を務め、在官中は慶応、明治、専修大学で民事法を講義した。
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戸田 正三(とだ しょうぞう、1885年4月9日 - 196… 戸田 正三(とだ しょうぞう、1885年4月9日 - 1961年11月20日)は、日本の衛生学者、京都大学名誉教授、金沢大学初代学長、医学博士。実用的な衛生学の樹立をめざし研究した人物として知られ、食生活、服装、住宅、上下水道などを日本の風土に適した形で普及させることを目指した。戸田式開襟シャツの発明者としても知られる。 兵庫県朝来郡中川村生まれ。旧制兵庫県立豊岡中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1910年に京都帝国大学医科大学を卒業。1912年から4年間欧米各国(独英仏米)に留学。1916年、京都帝国大学教授(衛生学担当)に就任。1923年、雑誌『国民衛生』を創刊。関東大震災後の1925年、東京市保健局長を兼務して復興に尽力。
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渡辺 七郎(渡邊 七郎、わたなべ しちろう、1885年(明治… 渡辺 七郎(渡邊 七郎、わたなべ しちろう、1885年(明治18年)4月8日 - 1933年(昭和8年)4月26日)は、大正・昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 会計検査院長・渡邊昇の長男として生まれる。父の死去に伴い、1913年(大正2年)12月10日、子爵を襲爵した。 1915年(大正4年)慶應義塾大学部法律科を卒業。1921年(大正10年)大日本武徳会商議員に就任した。 1924年(大正13年)3月8日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで3期在任した。 1933年(昭和8年)に七郎が没した後は、長男の武宣が襲爵。さらに1938年(昭和13年)に武宣が没すると、弟の武治が襲爵した。
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谷口 三郎(たにぐち さぶろう、1885年(明治18年)4月… 谷口 三郎(たにぐち さぶろう、1885年(明治18年)4月7日 - 1957年(昭和32年)8月13日)は、大正から昭和時代の土木工学者、内務技監。 広島県佐伯郡五日市村(現広島市佐伯区五日市町)に生まれた。1909年(明治42年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、北海道庁に入り、小樽、留萌の築港工事を担当する。1915年(大正4年)内務省に転じ、1918年(大正7年)大阪土木出張所勤務を発令され、10余年に渡り淀川改修工事に従事した。1934年(昭和9年)土木局第一技術課長、1936年(昭和11年)東京土木出張所長を経て、1939年(昭和14年)に内務技監となり、1942年(昭和17年)に退官した。
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藤野 繁雄(ふじの しげお、1885年(明治18年)4月7日… 藤野 繁雄(ふじの しげお、1885年(明治18年)4月7日 - 1974年(昭和49年)3月17日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(3期)。 長崎県南高来郡神代村(国見町を経て現雲仙市)で藤野小三の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京高等農学校(現東京農業大学)を卒業した。 長崎県農林主事、同県産業組合連合会長、同県生活物資配給統制組合連合会長、同県農業会長、同県指導農業協同組合連合会長、全国農業会監事、家の光協会理事、全国指導農業協同組合連合会理事・監事、全国土地改良協会理事・監事、全国農業協同組合監事協議会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で長崎県地方区から無所属で出馬して当選。
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ジョージ・マサ (George Masa として知られた飯塚… ジョージ・マサ (George Masa として知られた飯塚正治(本名:遠藤章二)、1885年4月6日 - 1933年6月21日)は、日本で生まれアメリカで活躍した実業家。大判カメラ写真家、山岳写真家。グレートスモーキー山脈の国立公園指定に尽力したことで知られる。東京都出身。 東京の地主、高橋家の次男として生まれる。母は出産後、死去。幼少期に静岡市の弁護士遠藤靖の養子となった。1903年(明治36年)、静岡県立静岡中学校卒業。静岡中学在学中は、明治35年に校内で作られた親睦グループ両道倶楽部で活動した。倶楽部内で野球の腕を上げると野球部に入部するなど、両道倶楽部は静中野球部の選手育成の苗圃の役割も果たしていた。
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小笠原 三九郎(おがさわら さんくろう、1885年(明治18… 小笠原 三九郎(おがさわら さんくろう、1885年(明治18年)4月5日 - 1967年(昭和42年)12月13日)は、昭和期の日本の政治家、実業家。商工大臣(第26代)、農林大臣(第15代)、通商産業大臣(第7代)、大蔵大臣(第57代)、衆議院議員(6期)。西尾市名誉市民。 経済人としては華南銀行専務、日本貿易振興会、財団法人東京連合防火協会、南方農林協会各会長、極洋捕鯨(現・極洋)社長・取締役・相談役・監査役、太平洋海運社長・会長・相談役などを務めた。 愛知県幡豆郡、のちの室場村(現西尾市)に、父小笠原長左衛門と母せいの間に誕生。三男三女の末子であった。室場尋常小学校、西尾高等小学校に入学。
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大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 19… 大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 1967年3月6日)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の技術者・実業家・政治家。刈谷町会議員、愛知県会議員、刈谷町長、衆議院議員を務めた。刈谷市名誉市民。かんばん方式などの「トヨタ生産方式」を築いた大野耐一は息子。 1885年(明治18年)4月5日、愛知県碧海郡刈谷町緒川町(現・刈谷市八幡町6丁目78番地)にて旧刈谷藩士の大野介蔵の長男として生まれた。介蔵は刈谷城本丸隅の十朋亭を隠居家としており、1936年(昭和11年)には十朋亭を刈谷町に売却している。 刈谷町立亀城小学校を中途退学。兵庫県立神戸中学校(のちの兵庫県立神戸高等学校)を経て、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)窯業科を卒業。
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原田 淑人(はらだ よしと、1885年4月5日 - 1974… 原田 淑人(はらだ よしと、1885年4月5日 - 1974年12月23日)は、日本の考古学者。東大教授。浜田耕作・島村孝三郎とともに東亜考古学会を設立。「日本近代東洋考古学の父」と呼ばれる。 東京神田に生まれる。白鳥庫吉の下で東洋史を学び、1908年(明治41年)に東京帝国大学文科大学史学科を卒業した。原田の学生時代には考古学を講じる講師は文科大学にはおらず、原田の卒業論文は「明代の蒙古」という文献学的研究であった。大学院進学後は、中国の風俗史や服飾史に方向を転じる。目の疾病により、文献研究に困難を生じたからという。豊富な漢籍の知識を考古遺物および遺跡の分析研究に生かした原田独特の考古学はここから始まった。
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宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年(明治18年)4月5… 宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年(明治18年)4月5日 - 1962年(昭和37年)3月29日)は、日本の歌人。本名は大四郎(だいしろう)。 石川啄木夫人・石川節子の妹の夫。啄木の生前から啄木一家を物心両面にわたって支え、啄木の死後も墓碑建立、「啄木を語る会」を発足させるなどの実績がある。 新潟県北蒲原郡荒川村で宮崎竹四郎の長男として生れる。郁雨の祖父が没して竹四郎が継いだ頃には、借金を抱えて没落していた。 郁雨が2歳の頃に竹四郎は家と田畑を債権者に譲って松前に渡り、母と共に母の実家に預けられる。1889年(明治22年)春[要出典]、父とともに宮崎一家は函館に移住した。竹四郎は「浜かせぎ」や日雇いなどでしのぐ苦しい生活が続いたが、醸造業で成功、「金久(かねきゅう)」を屋号とする味噌製造所の経営者となった。
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本居 長世(もとおり ながよ、1885年(明治18年)4月4… 本居 長世(もとおり ながよ、1885年(明治18年)4月4日 - 1945年(昭和20年)10月14日)は、日本の作曲家。数々の童謡で知られる。晩年は長豫と称した。 1885年(明治18年)東京府下谷区御徒町(現:東京都台東区)に生まれる。血の繋がりは無いが、国学者として著名な本居宣長の和歌山学党6代目に当たる。 母は並子、父は本居家の婿養子である国学者の雨宮干信(ゆきのぶ)。生後1年で母と死別。並子の死後、婿養子であった父は本居家に馴染めず、やむなく家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎に育てられる。祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、1902年(明治35年)東京音楽学校予科に入学。
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安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 192… 安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 1924年7月23日)は、日本の評論家。 秋田県北秋田郡(現・北秋田市)生まれで、中学までは能代市で育つ。父正治は元長府藩士で、阿仁鉱山の高級機械工を経て、東雲の精錬所に勤務した。弟には歌人の安成二郎、福原信三の秘書を務めた安成三郎がいる。 大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)時代は正岡子規選の新聞「日本」に投稿した。また校長排斥ストライキの首謀者として無期停学の処分を受けるが、県知事にかけ合って最終的に校長に辞表を書かせた。 高等工業学校への進学を望んでいた父の願いに背き、作家を志して早稲田大学文学部英文科へ進学。日露戦争の真っ只中であり、文学者の中に反戦気運が広がっていた。
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藤岡 兵一(ふじおか ひょういち、1885年〈明治18年〉4… 藤岡 兵一(ふじおか ひょういち、1885年〈明治18年〉4月2日 - 1957年〈昭和32年〉1月5日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事、浜松市長。 石川県出身。藤岡明郷の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岐阜県属となる。 以後、岐阜県事務官、山口県事務官、同理事官、静岡県理事官、鳥取県警察部長、群馬県警察部長、宮城県警察部長、広島県警察部長、内務事務官兼内務書記官などを歴任。 大正12年(1923年)9月、高知県知事に就任。在任中の同年12月5日、高知城公園内の板垣退助銅像が建立され、退助令孫・板垣守正の手により除幕されている。
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玉ノ川 脇太郎(たまのかわ わきたろう、1885年4月2日 … 玉ノ川 脇太郎(たまのかわ わきたろう、1885年4月2日 - 1924年11月20日)は、現在の東京都あきる野市(当時は神奈川県)出身で佐渡ヶ嶽部屋、伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は加藤 脇太郎。9代佐渡ヶ嶽。164cm、79kg。最高位は西前頭17枚目。 1903年1月初土俵、1911年6月十両昇進。またこの時から二枚鑑札。1915年6月に入幕したが、在位2場所に終わり、その後は十両に低迷して最後は幕下に陥落し、1918年5月引退した。年寄専任となったが、若くして亡くなった。小兵であり、もぐらなければ相撲にならなかった。
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城所 國三郎(きどころ くにさぶろう、1885年(明治18年… 城所 國三郎(きどころ くにさぶろう、1885年(明治18年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月9日)は、日本の政治家。第5代八王子市長。東京府会議員、八王子市議(2期)。 1885年(明治18年)4月1日 - 神奈川県西多摩郡五日市町(現東京都あきる野市)の旧家である馬場家の次男として生まれる。幼くして両親が死去、祖父母に引き取られる。五日市勧能学校を卒業後1906年(明治39年)の時に八王子の商家城戸家の養子となる。 1917年(大正6年)11月3日八王子町会議員であった養父荘治郎の跡を継ぎ八王子市会議員選挙に立候補当選。京王電気軌道の誘致運動を起こし2期目に当選した後玉南電気鉄道株式会社を設立商議員に就任するなど八王子への鉄道乗り入れを推進する。
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木子 七郎(きご しちろう、1884年(明治17年)4月30… 木子 七郎(きご しちろう、1884年(明治17年)4月30日 - 1955年(昭和30年)8月24日)は、日本の建築家。 1884年(明治17年)、宮内省内匠寮技師の木子清敬の四男として京都に生まれる。木子幸三郎の弟である。1896年(明治29年)、高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。1901年(明治34年)、高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。 第四高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築科に入る。1911年(明治44年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。大林組設計部技師として来阪。1913年(大正2年)、大林組を退職し、木子七郎建築事務所を開設する。
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矢田部 美佐保(やたべ みさほ、1884年(明治17年)4月… 矢田部 美佐保(やたべ みさほ、1884年(明治17年)4月30日 - 没年不明)は、昭和時代前期の官吏。東京市江戸川区長、牛込区長。 矢田部一実の四男として島根県に生まれる。日本大学法科を卒業し、1912年(明治45年)東京市に奉職する。麹町区勤務、市庶務課、財務課、地理課勤務、広尾病院事務長を経て、1934年(昭和9年)6月30日、江戸川区長に就任。1936年(昭和11年)10月10月まで務めた。 ついで豊島病院、駒込病院各事務長、社会局保護課長を経て、1938年(昭和13年)12月24日、牛込区長に就任し、1940年(昭和15年)8月17日まで務めた。
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次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日… 次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日 - 1966年(昭和41年)4月9日)は、日本文学者。岡山県出身。田村剛の兄。
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田村 俊子 (たむら としこ、1884年(明治17年)4月2… 田村 俊子 (たむら としこ、1884年(明治17年)4月25日 - 1945年(昭和20年)4月16日) は、日本の小説家。別名、佐藤露英、佐藤俊子、本名、佐藤とし。東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)生れ。東京府立第一高等女学校卒業、日本女子大学校国文科中退。代表作は『木乃伊(みいら)の口紅』、『炮烙(ほうらく)の刑』など。官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た。没後、田村俊子賞が創設された。
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櫻澤千藏(さくらざわ せんぞう、1884年4月23日 - 1… 櫻澤千藏(さくらざわ せんぞう、1884年4月23日 - 1949年7月7日)は、日本の実業家。日東製粉(現・日東富士製粉)元社長。 埼玉県児玉郡東児玉村で生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、中央大学卒業。その後、北海タイムス記者となり活躍する。1908年、埼玉公論を主宰し埼玉公論社長となる。 1912年、松本米穀製粉会社に入社し支配人を経て、取締役となる。満州北支の治安回復とともに事業の大陸進出を進める中心人物となり日東製粉を、三大製粉会社といわれるまで成長させる。1948年、日東製粉社長となる。青柳製作所専務取締役。 郷里の埼玉県新井村に、農民武徳殿や農場を寄付し、熊谷市の小学校跡に児童公園をつくるなど篤行の紳士としても知られる。
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牧野 信之助(まきの しんのすけ、1884年4月23日 – … 牧野 信之助(まきの しんのすけ、1884年4月23日 – 1939年9月25日 )は、日本の歴史家。専門は日本中世の社会経済史。 福井県に生れる。1903年、福井県立武生中学校を卒業する。尋常高等小学校の代用教員を務めたのち、1906年、広島高等師範学校雇となり図書館に勤務し、内田銀蔵に師事するようになる。内田が京都帝国大学に転じると、牧野も1908年4月に京都帝国大学文科大学雇として国史研究室勤務となり、同年9月には助手となる。 1909年に京都帝国大学史学科選科に入学し、1912年に修了。同年10月に石川県立師範学校教諭となり、1916年に福井県史編纂主任になる。以後、滋賀県史編纂主任、堺市史編纂長、北海道史編纂長、大津市史編纂監修、福井県今立郡岡本村の村史編纂顧問などを務め、また1933年から京都帝国大学文学部講師も務めた。
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尾澤 虎雄(おざわ とらお、1884年4月22日 - ?)は… 尾澤 虎雄(おざわ とらお、1884年4月22日 - ?)は、日本の実業家。旧姓は倉澤(くらさわ)。姓の「澤」は「沢」の旧字体であるため、尾沢 虎雄(おざわ とらお)とも表記される。 株式会社尾澤組を経て片倉製糸紡績株式会社に勤務し、薩摩製糸株式会社専務取締役、松江片倉製糸株式会社監査役、尾澤組合名会社社員、長崎製糸株式会社専務取締役、佐賀県是蚕業株式会社専務取締役、株式会社富岡製糸所工場長、片倉製糸紡績株式会社片倉富岡製糸所工場長、朝鮮生糸株式会社取締役などを歴任した。 1884年4月22日、倉澤淸人の二男として長野県で生まれた。実業家である尾澤福太郞の長女と結婚することになり、それに伴い福太郞の養子となった。
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山下 紅畝(やました こうほ、1884年〈明治17年〉4月2… 山下 紅畝(やました こうほ、1884年〈明治17年〉4月20日 - 1977年〈昭和52年〉10月25日)は、女流日本画家。日本画会会員。多くの日本画を描き残すと共に、多くの弟子を育成することで、郷里の香川県の日本画壇に貢献した人物である。本名は山下くら、または山下久良子。旧姓は中田。 香川県那珂郡丸亀葭町(現・丸亀市葭町)で誕生した。高松高等女学校(現・香川県立高松高等学校)を卒業後、女子高等教育への進学率が0.1%という時代にあって、東京女子高等師範学校へ進学。1906年(明治39年)に同校を卒業後に、奈良女子高等師範学校で教員として勤めた。 1907年(明治40年)、東京女子高等師範学校の研究課程技芸科に入学した。
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志喜屋 孝信(しきや こうしん、1884年(明治17年)4月… 志喜屋 孝信(しきや こうしん、1884年(明治17年)4月19日 - 1955年1月26日)は、日本の教育者、政治家。太平洋戦争後、アメリカ統治下の沖縄で、沖縄諮詢会委員長や初代沖縄民政府知事のほか、沖縄最初の大学である琉球大学の初代学長を務めた。 沖縄県中頭郡具志川(現・うるま市宮里)出身。1904年(明治37年)、旧制沖縄県立中学校(現・沖縄県立首里高等学校)卒業。1908年(明治41年)に広島高等師範学校(現・広島大学)を卒業する。在学中、内村鑑三の著書に影響を受ける。 最初は私立金光中学校、熊本県立鹿本中学校に勤務した後、沖縄県立第二中学校に赴任する。そして1924年(大正13年)に同校の校長に就任する。
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安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1… 安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1974年12月24日 )は、日本の歌人・歴史学者。
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大本 貞太郎(おおもと さだたろう、1884年〈明治17年〉… 大本 貞太郎(おおもと さだたろう、1884年〈明治17年〉4月18日 - 1944年〈昭和19年〉4月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。伊予鉄道(現伊予鉄グループ)7代社長。 愛媛県温泉郡本町(現松山市本町)出身。松山商業会議所議員、愛媛県会議員、同参事会員、同副議長となる。伊予新報社社長、伊予鉄道社長、伊予銀行取締役、(資)弘文社代表社員、松山商工会議所顧問を務める。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において愛媛1区(当時)から立憲政友会公認で立候補し当選。以来連続3回当選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には立候補せず引退した。1944年死去。
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亀井 茲常(かめい これつね、旧字体: 龜井茲常、明治17年… 亀井 茲常(かめい これつね、旧字体: 龜井茲常、明治17年(1884年)4月17日 - 昭和17年(1942年)5月2日)は、日本の華族、宮内官僚。亀井家第14代当主。爵位は伯爵。東京市渋谷区千駄谷町穏田に居住していた。衆議院議員亀井亜紀子は曾孫に当たる。 第13代当主亀井茲明の子として島根県鹿足郡津和野に生まれる。 1909年(明治42年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業、式部官に任じられ皇室の式典及び語学研究のため欧米を歴遊。1912年に帰国後、主猟官を兼ねた。 後に東宮侍従に任じられ、1921年(大正10年)には皇太子裕仁親王の海外巡遊に際し随行を命じられた。1929年(昭和4年)、官を辞す。
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十河 信二(そごう しんじ、1884年(明治17年)4月14… 十河 信二(そごう しんじ、1884年(明治17年)4月14日 - 1981年(昭和56年)10月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。愛媛県西条市長(在任1945年(昭和20年) - 1946年(昭和21年))、第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年(昭和30年) - 1963年(昭和38年))を務めた。「新幹線の父」と呼ばれた。西条市名誉市民第1号。 1884年(明治17年)愛媛県新居郡中村(中萩村、中萩町を経て、現在の新居浜市)に十河鍋作・ソウの二男として生まれる。1897年(明治30年)愛媛県尋常中学校東予分校(現在の愛媛県立西条高等学校)に入学した。卒業後、上京し受験準備のために正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に入学した。
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瀧 正雄(たき まさお 1884年(明治17年)4月14日 … 瀧 正雄(たき まさお 1884年(明治17年)4月14日 - 1969年(昭和44年)8月12日)は、日本の政治家、法学者。衆議院議員、貴族院議員をつとめ、近衛文麿の家老格の側近として知られた。
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