廣瀬杲(ひろせ たかし、1924年6月22日 - 2011年… 廣瀬杲(ひろせ たかし、1924年6月22日 - 2011年12月30日)は、日本の仏教学者(真宗学)。大谷大学名誉教授。同大学学長を歴任。 京都市生まれ。1953年大谷大学文学部真宗学専攻卒業。1960年大谷大学講師、1961年助教授、1965年教授、1980-1986年学長を務め、1990年退職、名誉教授となる。
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廣瀬杲(ひろせ たかし、1924年6月22日 - 2011年… 廣瀬杲(ひろせ たかし、1924年6月22日 - 2011年12月30日)は、日本の仏教学者(真宗学)。大谷大学名誉教授。同大学学長を歴任。 京都市生まれ。1953年大谷大学文学部真宗学専攻卒業。1960年大谷大学講師、1961年助教授、1965年教授、1980-1986年学長を務め、1990年退職、名誉教授となる。
椿 啓介(つばき けいすけ、男性、1924年6月21日 - … 椿 啓介(つばき けいすけ、男性、1924年6月21日 - 2005年8月18日)は、日本の菌類学者。不完全菌の分類体系を、分生子形成様式に基づいて構築した。東京都出身。 1924年(大正13年)6月21日に東京に生まれ、幼少期を一時北海道函館市で過ごした他は東京で育った。1948年(昭和23年)3月に東京農業大学農学部農芸化学科を卒業した。卒業研究ではカビの生産物を扱ったが、カビそのものへの関心を強め、卒業後は研究の主軸をこちらに移していった。 その年の4月にカビ、酵母のジーンバンク活動を行っていた財団法人長尾研究所に入所し、不完全菌類の研究を開始。ここでは主任研究員にまでなり、また1959年(昭和34年)8月には、1954年から1958年にかけて発表した、不完全菌の分類体系に関する一連の論文に基づき、広島大学から理学博士の学位を授与された。
青木 正夫(あおき まさお、1924年6月20日 - 200… 青木 正夫(あおき まさお、1924年6月20日 - 2007年8月7日)は、日本の建築学者、建築家。九州大学名誉教授。 1924年(大正13年)6月20日、山口県都濃郡富田町で生まれた。生家は裕福な地主であった。1932年に徳山中学を卒業し、同年4月に旧制広島高等学校へ入学。1934年9月、東京帝国大学第一工学部建築学科へ進学。大学では吉武泰水に師事。1948年3月に東京大学を卒業し、その際には辰野金吾賞を受賞。その後は同大学に進み、1953年3月に特別研究生前後期課程を満期退学。 1953年8月に、東北大学工学部助手に就任。翌1954年4月に講師昇格。九州大学に建築学科が新設されることとなり、1956年9月より九州大学工学部助教授となった。
大木 正興(おおき まさおき、1924年6月20日 - 19… 大木 正興(おおき まさおき、1924年6月20日 - 1983年6月10日)は、日本の音楽評論家。 東京府または千葉県出身。1947年、東京帝国大学文学部美学科卒業。1951年、来日したヴァイオリニスト・ユーディ・メニューインの批評でデビュー。『音楽芸術』「東京新聞」「毎日新聞」で演奏批評を担当し、ラジオ・テレビの音楽番組の解説を務めた。跡見学園女子大学教授。子も音楽批評家の大木正純(1945- )。
鎌田 博夫(かまた ひろお、1924年6月19日 - 201… 鎌田 博夫(かまた ひろお、1924年6月19日 - 2013年8月6日)は、日本のフランス文学者。東北大学名誉教授。 東京生まれ。大阪外国語大学フランス語科卒、1949年京都帝国大学文学部仏文科卒業、関西大学講師、1952年大阪市立大学講師。1968年東北大学文学部助教授、1970年教授、1988年定年退官、名誉教授、弘前大学人文学部教授、石巻専修大学理工学部教授。 フランス共和国教育功労章(シュヴァリエおよびオフィシェ)受章。2002年、勲三等旭日中綬章受章。
柳谷 謙介(やなぎや けんすけ、1924年〈大正13年〉6月… 柳谷 謙介(やなぎや けんすけ、1924年〈大正13年〉6月19日 - 2017年〈平成29年〉11月18日)は、日本の外交官。 外務事務次官(第21代)、オーストラリア国駐箚特命全権大使、外務審議官、外務省大臣官房長、外務省情報文化局長などを歴任した。 東京府出身。学生時代は学徒出陣のため海軍に召集され、短期現役海軍主計科士官(12期)を志願し、1944年(昭和19年)9月、海軍経理学校に入学し1945年(昭和20年)に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 その後、1948年(昭和23年)東京大学法学部を卒業。同年、外交官領事官採用試験に合格。外務省入省後、フランス、パキスタン、イギリスなどで勤務し、1959年(昭和34年)からは北東アジア課首席事務官を5年間務め、1965年(昭和40年)の日韓国交正常化への交渉を支えた。
姫野 好治(ひめの こうじ、1924年6月18日 - 没年不… 姫野 好治(ひめの こうじ、1924年6月18日 - 没年不明)は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)。 1950年5月11日の対東急フライヤーズ戦で、塩瀬盛道に生涯唯一の打席で本塁打を打たれた投手である。 大分工業から社会人野球の星野組、明電舎を経て、1949年に大映スターズへ入団。 独特のフォームのサイドスローであり、カーブや高速シュートを武器に1年目の1949年から9勝を挙げ、2年目の1950年も8勝を挙げる。特に球が走っている時だけ直球を決め球とする、普段は技巧派の投手である。 1951年9月9日にはサヨナラボークを記録している。1952年には36試合に登板し、13勝で初の2桁勝利を記録。
芦野 宏(あしの ひろし、1924年6月18日 - 2012… 芦野 宏(あしの ひろし、1924年6月18日 - 2012年2月4日)は、日本のシャンソン歌手、声楽家。本名:羽鳥廣。
瀬川 昌久(せがわ まさひさ、1924年〈大正13年〉6月1… 瀬川 昌久(せがわ まさひさ、1924年〈大正13年〉6月18日 - 2021年〈令和3年〉12月29日)は、日本の評論家。評論対象は、音楽(特にジャズ)、映画、ミュージカルと幅広い。日本ポピュラー音楽協会名誉会長。『月刊ミュージカル』(ミュージカル出版社)元編集長。 東京府出身。学習院初等科、中等科、高等科、東京帝国大学法学部を通じて三島由紀夫と交流があった。 1944年(昭和19年)、学徒出陣となり海軍に入営。1945年(昭和20年)の敗戦後は引揚者の輸送任務を行う氷川丸に乗務。乗組員らを慰労するため日本劇場にて公演していたバンドを船内に招いてジャズコンサートを行った。 1950年(昭和25年)東京大学法学部卒業後、富士銀行に入行する。
阪田 清春(さかた きよはる、1924年6月17日 - 19… 阪田 清春(さかた きよはる、1924年6月17日 - 1987年11月4日)は、兵庫県出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。弟の阪田正芳、阪田芳秀もプロ野球選手である。1950年の登録名は阪田清治。
芝 哲夫(しばてつお、1924年〈大正13年〉6月17日 -… 芝 哲夫(しばてつお、1924年〈大正13年〉6月17日 - 2010年〈平成22年〉9月28日 )は、日本の化学者。専門は天然物有機化学、生物有機化学。大阪大学名誉教授。理学博士。 1924年6月17日、広島県尾道市にて生まれた。1946年に大阪帝国大学理学部化学科を卒業後、1949年に同大学院理学研究科の旧制度を修了した。1959年に大阪大学から理学博士号を取得した。論題は『グルタミン酸ペプチドの研究』である。1950年に大阪大学理学部の助手に着任し、1960年にアメリカ国立衛生研究所に留学した。1962年に大阪大学理学部の助教授に着任し、1971年に同大学の教授に昇進した。 1982年に「生体機能解明のためのペプチド、糖に関する有機合成研究」で第34回日本化学会賞を受賞し、細菌毒素の研究で知られる。
伊藤邦衛(いとう くにえ、1924年6月16日 - 2016… 伊藤邦衛(いとう くにえ、1924年6月16日 - 2016年9月29日)は、日本の造園家・作庭家・環境デザイナー。広島県出身。 1947年、東京農業大学農学部造園学科を卒業し、清水建設入社、設計部に配属。1963年に独立し、伊藤造園設計事務所創立。東京農業大学講師、日本造園修景協会常務理事、日本造園学会理事を歴任。 北の丸公園池他一連の造園設計で、日本造園学会賞計画設計作品部門受賞。1989年第11回日本公園緑地協会北村賞受賞。1994年園芸文化賞受賞。
西村 清則(にしむら きよのり、1924年〈大正13年〉6月… 西村 清則(にしむら きよのり、1924年〈大正13年〉6月15日 - 2003年〈平成15年〉2月5日)は、日本の政治家、実業家、教育者。鳥取県議会議員(日本社会党)。米子友好貿易代表取締役。日本中国友好協会鳥取県西部支部長。 鳥取県西伯郡夜見村上谷(現・米子市夜見町)に生まれる。武則の長男。米子中学校(現・米子東高校)を卒業、鳥取師範学校に入学。1945年、広島に野砲兵として入隊、6月に甲種幹部候補生として高知に行き、原爆の被災を免れる。 終戦後帰郷し、富益国民学校に勤務する。教員組合運動が盛んとなり、竹中栄、安田貞栄(のちの境港市長)らと共に運動に参加する。1947年に弓ヶ浜中学校に、1949年に美保中学校に、1954年に米子一中に転勤する。
川村 正喜(かわむら まさき、1924年6月15日 - 20… 川村 正喜(かわむら まさき、1924年6月15日 - 2019年1月16日)は、日本の実業家。 福岡県に生まれる。1942年、福岡県中学修猷館を経て、1948年、京都大学法学部を卒業し日本発送電に入社。 1951年、電気事業再編により九州電力に引き継がれ、1975年5月経理部長、1979年6月取締役東京支社長、1983年6月取締役常務を経て、1987年6月代表取締役副社長に就任。1991年から1995年にかけて九電産業・九電運輸の各社長、1993年から1996年にかけて福岡タワー社長を務める。 1998年福岡証券取引所理事長に就任。2004年5月に退任する。
笹山 幸俊(ささやま かずとし、1924年〈大正13年〉6月… 笹山 幸俊(ささやま かずとし、1924年〈大正13年〉6月15日 - 2011年〈平成23年〉12月10日) は、日本の政治家、土木技術者。位階は正四位。勲等は勲一等。 神戸市都市計画局長、神戸市助役、神戸市長などを歴任した。 神戸市役所にて都市計画局次長や都市計画局計画部長、都市計画局長を歴任し、1981年12月に神戸市助役に就任した。1989年、市役所内の派閥を大きく二分した熾烈な神戸市長選挙では、同じく神戸市助役だった宮岡寿雄を破り初当選を果たし、以後、3期12年間に渡って神戸市長を務めた。 市長在任中に発生した兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災で神戸市は大きな被害を受けたため、その復興に尽力した。
富岡 素敬(、1924年〈大正13年〉6月15日 - 201… 富岡 素敬(、1924年〈大正13年〉6月15日 - 2011年〈平成23年〉12月20日)は、日本の特撮映画撮影監督。東京都出身。 1947年(昭和22年)、青山学院大学経済学部を卒業し真持映画に入社。16ミリフィルムの技術現像を研究。 1948年(昭和23年)、東横映画に入社。撮影助手を務める。 1950年(昭和25年)、円谷特殊技術研究所に所属。 1954年(昭和29年)、東宝撮影所の撮影助手として入社。映画『ゴジラ』の撮影に参加する。 1961年(昭和36年)、『モスラ』で特殊撮影係に就任。 1966年(昭和41年)、特撮映画のメインカメラマンとなる。 1976年(昭和51年)、東宝映像美術を退社。
長島 甲子男(ながしま かねお/きねお、1924年6月14日… 長島 甲子男(ながしま かねお/きねお、1924年6月14日 - )は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。
長 幸男(ちょう ゆきお、1924年(大正13年)6月14日… 長 幸男(ちょう ゆきお、1924年(大正13年)6月14日 - 2007年(平成19年)1月30日)は、日本の経済学者。 東京出身。東京帝国大学経済学部卒。妻は武田清子。高崎市立短期大学助教授、専修大学助教授、教授、1970年東京外国語大学教授。1985-1989年学長。1993年多摩大学教授。1999年秋、勲二等瑞宝章受勲。 大塚久雄の影響を受け、近代日本の経済思想史、金融論を研究、東洋経済新報社刊の『石橋湛山全集』を編纂した。
久徳 重盛(きゅうとく しげもり、1924年6月14日 - … 久徳 重盛(きゅうとく しげもり、1924年6月14日 - 2002年8月11日)は日本の小児科・精神科医師、医事評論家。 名古屋大学講師、愛知医科大学教授を経て久徳クリニック院長を勤め、人間形成医学研究所長も務めた。「母原病」という言葉を同名著書によって広めたとされる。 1924年6月14日、愛知県名古屋市に生まれる(出身地を大阪府高槻市とする文献もある)。 1949年、名古屋大学医学部卒業。 1950年、名古屋大学小児科学教室入局。 1951年、名古屋第一赤十字病院小児科勤務。 1955年、名古屋大学に復帰。 1959年、名古屋大学医学部附属病院分院小児科長。同年に名古屋大学の医学博士となった。
三田 隆(みた たかし、1924年6月13日 - 1961年… 三田 隆(みた たかし、1924年6月13日 - 1961年1月1日)は、日本の俳優である。本名は国木田 篤夫(くにきだ あつお)。旧芸名は木田 篤夫(きだ あつお)、重光 彰(しげみつ あきら)、重光 彬。 1924年6月13日、東京府東京市(現在の東京都)に小説家国木田独歩の長男であり、詩人・映画作家の国木田虎雄の子として生まれる。 小学生時代の1938年、木田篤夫という芸名で東京発声映画製作所が製作した阿部豊監督映画『太陽の子』に、不良少年を教化する農園に収容される少年役で映画デビュー。ただし日本映画データベースでは、本名で出演としている。その後、日本大学専門部芸術科美術課程で商業美術を専攻して卒業後、東和商事映画部に入社する。
上野 他一(うえの たいち、1924年6月10日 - 201… 上野 他一(うえの たいち、1924年6月10日 - 2015年5月4日)は、日本の経営者。クラレ社長を務めた。大分県大分市出身。 1958年に九州帝国大学法文学部を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。 1972年11月に取締役に就任し、1975年5月には専務に就任した。 1978年5月にクラレに転じ、同年6月に専務に就任し、1981年6月に副社長に就任し、1982年10月には社長に昇格した。1990年6月から相談役に就任した。 2015年5月4日前立腺がんのために死去。90歳没。
玉城 逸夫(たまき いつお、1924年6月10日 - 200… 玉城 逸夫(たまき いつお、1924年6月10日 - 2008年8月31日)は、京都府京都市出身の日本の土木・地球物理学者。大阪工業大学名誉教授。理学博士(京都大学)。物理探査学会元理事・名誉会員。勲三等瑞宝章受章。 専門は、地球物理学・地震工学、測量学、土木地質学・地学/地すべり学。 1950年京都大学理学部地球物理学科卒業。京都大学第1期特別研修生となり、修了後、1954年大阪工業大学に着任、工学部にて土木工学教育・研究を担当。1962年京都大学より論文「地震活動度と地殻構造の結びつき : 特に日本地域について」で理学博士の学位を取得。同年、大阪工業大学教授に就任。1965年同大学中央研究所所属となる。
川端 要壽(かわばた ようじゅ、1924年6月10日 - 2… 川端 要壽(かわばた ようじゅ、1924年6月10日 - 2013年3月14日)は、文芸・相撲評論家、小説家。 岐阜県出身。のち東京府南葛飾郡小岩町(現・東京都江戸川区)に移る。小岩町立下小岩尋常小学校(現・江戸川区立下小岩小学校)に入る。尋常小学校では後の横綱栃錦とは同級生だった。その後横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)を卒業する。数々の職業遍歴を経て、1969年から東京都板橋区の三和化学に勤務した。競馬を好む。
岸中 士良(きしなか しろう、1924年(大正13年)6月9… 岸中 士良(きしなか しろう、1924年(大正13年)6月9日 - 1994年(平成6年)5月12日)は、立川市長(3期)。医学博士。 石川県出身。1949年(昭和24年)日本医科大学卒。1958年(昭和33年)に立川市で岸中外科医院を開業する。1975年(昭和50年)の立川市長選挙に立候補して当選し、3期務めた。1987年(昭和62年)に引退した。1994年死去。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
勝又 武一(かつまた ぶいち、1924年6月9日 - 201… 勝又 武一(かつまた ぶいち、1924年6月9日 - 2014年1月8日)は、日本の政治家。本名は、勝又 武一(かつまた たけいち)。参議院議員(1期、日本社会党)。 静岡県富士市出身。横浜市立経済専門学校(現横浜市立大学)卒業。民間会社勤務を経て、学校教諭となり、静岡県教組委員長などを歴任。1977年、参議院静岡選挙区から日本社会党公認で出馬し初当選。参議院逓信委員長などを務めたが、1983年に、体調不良のため1期で政界引退。 1994年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。 2014年1月8日、肺炎のため富士市の病院で死去、89歳没。死没日をもって正五位に叙される。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
若嵐 武(わかあらし たけし、1924年6月9日 - 没年不… 若嵐 武(わかあらし たけし、1924年6月9日 - 没年不明)は、長野県北佐久郡岩村田町(現・同県佐久市)大字長土呂出身で西岩部屋(入門時は若松部屋)に所属した大相撲力士。本名は東城 武(とうじょう たけし)。現役時代は、最高位は西前頭18枚目(1951年1月場所)。現役当時の体格は180cm、84kg。得意手は右四つ、吊り、上手投げ。 16歳の時に上京し、若松部屋(後、西岩部屋に改称)へ入門。1941年1月場所で初土俵(前相撲)翌5月場所で新序・翌1942年1月場所で序ノ口に昇進した。 生まれついての近視であり、それ故に相手から離れての取り口が困難であった。長身の割に細身で、右四つからの吊りや投げを得意とした。
渡辺 仁治(わたなべ としはる、1924年6月6日 - 20… 渡辺 仁治(わたなべ としはる、1924年6月6日 - 2009年4月7日)は、日本の陸水学者。元奈良女子大学教授。日本珪藻学会名誉会長。 旧制京都府立第三中学校(現・京都府立福知山高等学校)を経て、1948年3月に金沢高等師範学校生物科を卒業する。1949年3月からは奈良女子高等師範学校文部教官、1952年3月から奈良女子大学付属高校・中学校教諭となり、1965年3月まで務める。 一方、研究活動では1953年1月より京都大学理学部大津臨湖実験所の院外研究者となる(1963年3月まで)。この間、1961年7月に京都大学より理学博士号を取得した。 1965年4月より奈良女子大学理学部助手となる。その後、1972年2月に同大学助教授、同年3月に金沢大学教養部教授。
成瀬 悟策(なるせ ごさく、1924年6月5日 - 2019… 成瀬 悟策(なるせ ごさく、1924年6月5日 - 2019年8月3日)は、日本の臨床心理学者、臨床心理士。医学博士。九州大学名誉教授、元吉備国際大学教授。日本リハビリテイション心理学会名誉理事長、日本臨床動作学会名誉会長。正四位。 岐阜県生まれ。東京高等師範学校を経て、1950年に東京文理科大学心理学科を卒業後、1951年から1953年まで東京文理科大学助手、1953年から1962年まで東京教育大学助手・講師、1962年から1988年まで九州大学教育学部助教授、同教授。1988年、臨床心理士第1号(日本臨床心理士資格認定協会)。1989年から1993年まで九州女子大学・九州女子短期大学の学長を務める。
吉川 経夫(きっかわ つねお、1924年6月4日 - 200… 吉川 経夫(きっかわ つねお、1924年6月4日 - 2006年8月31日)は、日本の法学者。法政大学名誉教授(刑法)。京都府京都市出身。長男の純は弁護士。弟の進三は同志社大学教授。 刑法学説の位置づけとしては、自由主義的でありながら、法律の権威を守ることも重視する、大場茂馬以来の後期旧派(後期古典派)の系譜に属する。 2006年8月31日19時、膵臓がんのため東京都内の自宅で死去。82歳没。
堀 敏一(ほり としかず、1924年6月3日- 2007年5… 堀 敏一(ほり としかず、1924年6月3日- 2007年5月29日)は日本の東洋史学者。明治大学名誉教授、東洋文庫研究員。『世界史の基本法則』の唐代担当、『均田制の研究』など西嶋定生と共に東京学派を代表する研究者として活躍し、退任後は『漢の劉邦-ものがたり漢帝国成立史』など一般向けの著書を多く出した。
上原 賢六(うえはら けんろく、1924年(大正13年)6月… 上原 賢六(うえはら けんろく、1924年(大正13年)6月3日 - 1980年(昭和55年)9月14日)は昭和期の作曲家。兄は同じく作曲家の上原げんと。 青森県つがる市出身。東洋音楽学校卒業。1945年(昭和20年)、召集され満州へ出征。シベリア抑留を経験し、帰国後、兄上原げんとのもとで作曲を学ぶ。後に作曲家になる船村徹と知り合い、共にバンドの仕事をするなどして、1953年(昭和28年)テイチクレコードの専属作曲家になる。主に石原裕次郎とコンビを組み、「俺は待ってるぜ」、「錆びたナイフ」、「赤いハンカチ」などを作曲した。1980年(昭和55年)9月14日心臓疾患にて死去。56歳没。墓所は東京都の小平霊園。
小川 善治(おがわ よしはる、1924年6月2日 - 198… 小川 善治(おがわ よしはる、1924年6月2日 - 1987年7月29日)は、千葉県千葉市出身のプロ野球選手(投手)。 千葉商業から明治大学へ進学。1945年11月に新設球団セネタースから勧誘を受けるが、固辞して大学に残る。1946年には母校の千葉商業で監督を務めている。1948年の大学卒業に当たって、明治大学の同期で東急フライヤーズ(セネタースの後身)に所属していた清水喜一郎から東急入団の勧誘を受けるが、小川は再び固辞して小口工作所に入社した。 1949年に大映スターズのスカウト・小林次男の勧誘を受けて入団。カーブ、ドロップ、スライダー、シュートを武器に2年目に二桁となる12勝を挙げた。1954年と1955年にも2桁勝利を記録し、大映の先発陣の柱として活躍した。
飯干 晃一(いいぼし こういち、1924年〈大正13年〉6月… 飯干 晃一(いいぼし こういち、1924年〈大正13年〉6月2日 - 1996年〈平成8年〉3月2日)は、日本の作家。元読売新聞社会部記者。タレントの飯干恵子(現:飯星景子)は娘。映画『仁義なき戦い』シリーズの原作者として知られる。 大阪府出身。旧制大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)卒業後、旧制第七高等学校(現在の鹿児島大学)卒業、1950年京都大学法学部(現在の京都大学大学院法学研究科・法学部)卒業。 読売新聞勤務時は社会部副編集長であったが、「現場に出られないとつまらん」と会社を辞め、『山口組三代目』を執筆し、それまでになかった切り口で広島ヤクザ抗争の内部を克明に描いた『仁義なき戦い』を週刊サンケイに連載し反響を得る。
鳥山 英雄(とりやま ひでお、1924年6月 - )は日本の… 鳥山 英雄(とりやま ひでお、1924年6月 - )は日本の物理学者、理学博士、植物生理学、生体電位と地震前兆学の国際権威学者。日本現役活動している最長老の生物生理学者の一人、生物理学評論家、東京女子大学名誉教授。 1949年3月北海道大学理学部植物学科卒業。1950年4月東京女子大学文理学部助手。その後専任講師、助教授を経て、1962年4月教授。1959年12月理学博士(旧制)。1969〜1970年米国オハイオ大学客員教授。1986〜1991年国際研究センター“BeforeDay”(防災科学研究所、在ナポリ)の客員研究員。
海部 八郎(かいふ はちろう、1923年6月29日 - 19… 海部 八郎(かいふ はちろう、1923年6月29日 - 1994年6月28日)は、実業家・元日商岩井副社長。ダグラス・グラマン事件の中心人物。 実家は東京都文京区小石川にあり、東京高等師範学校附属中学校か東京府立第一中学校、東京府立第四中学校への進学を希望していたという。 父は、元は師範学校の英語教師で、その後、浅野物産の幹部になり、高給取りだったため海部の家庭の生活水準はかなり高かったという。海部の中学時代、友人が20銭、50銭という小遣いしかもっていなかったのに対して、海部は5円、10円の札ビラをきったというエピソードがある。 中学時代は国語、漢文、地理、歴史といった文系科目が得意で、中でも英語の成績は抜群だった。
益田 勝実(ますだ かつみ、男性、1923年〈大正12年〉6… 益田 勝実(ますだ かつみ、男性、1923年〈大正12年〉6月29日 - 2010年〈平成22年〉2月6日)は、日本の国文学者。古代文学専攻。元・法政大学文学部教授。 山口県下関市で、父繁蔵、母コフジの次男として生まれる。兄1人、姉3人の末っ子であった。 家の学問として漢文を教わるチャンスがあって、小学校の終わりごろから 『十八史略』や『日本外史』を読まされていた。旧制山口県立下関中学校時代には、西洋哲学を専攻したい夢があり3年の時から下関バプテスト教会の末崎富彌牧師にギリシャ語を習い始める。 1941年3月に下関中学校を卒業して、4月から下関市立養治国民学校助教として勤めながら、中等教員検定試験合格を目指す。
杉村 新(すぎむら あらた、1923年6月28日 - 202… 杉村 新(すぎむら あらた、1923年6月28日 - 2025年3月1日)は、日本の地震学・地球物理学者。火山フロント(火山前線)の概念を初めて導入した人物で、上田誠也とともに弧状列島の火山、地震、テクトニクス研究を進めた。 東京府に生まれる。父は東京文理科大学学長の杉村欣次郎。祖父は外交官の杉村濬。伯父も外交官の杉村陽太郎[要出典]。 旧制静岡高等学校を経て、東京帝国大学理学部地質学科に進学、1947年に卒業した。同年、東京大学助手となる。 1961年、「日本及びその附近における地球物理学的岩石学的諸現象の帯状配列」で理学博士の学位を東京大学より取得する。 1974年に神戸大学理学部教授となる。
二階堂 副包(にかいどう ふくかね、1923年6月28日 -… 二階堂 副包(にかいどう ふくかね、1923年6月28日 - 2001年8月23日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授、東京国際大学名誉教授。専攻は数理経済学。理学博士(東京大学、1961年)。 東京府生まれ。工業専門学校卒業後、東京物理学校を経て、旧制高等学校出身者以外にも門戸を開いていた東北帝国大学理学部数学科に入学した。ところが太平洋戦争末期に徴兵で東京の連隊に入隊し、首都防衛のための高射砲部隊に配属され、仙台に戻ることが困難となった。そのため日本の降伏後は、新たに旧制高等学校出身者以外にも門戸を開いた東京大学理学部数学科を卒業。 卒業後は大蔵省に入省するも、数カ月で退官し高等学校教員に転じ、のち母校東京理科大学から招かれて大学教員となった。
服部 文男(はっとり ふみお、1923年6月28日 - 20… 服部 文男(はっとり ふみお、1923年6月28日 - 2007年12月30日)は、日本のマルクス経済学者。東北大学名誉教授。 大阪府生まれ。父は服部英太郎。第二高等学校卒、父英太郎の予防拘禁で東京に移り、1949年東京帝国大学経済学部卒、1962年「マルクス主義の形成と発展」で東北大学経済学博士。1955年東北大学経済学部講師、1957年助教授、1970年教授、経済学部長、1986年定年退官、名誉教授、宮城学院女子大学教授。
林 忠雄(はやし ただお、1923年6月28日 - 1998… 林 忠雄(はやし ただお、1923年6月28日 - 1998年5月11日)は日本の自治官僚。 広島県出身。東京帝国大学法学部卒業。1947年後期採用で総理庁官房自治課に入る。その後、千葉県、愛知県、鳥取県などの地方勤務を経て、行政課長、総務課長、公務員部長、行政局長と、自治官僚としては行政畑を歩く。1978年9月1日に自治事務次官に就任。1979年10月15日に自治省を退官した後は、1980年の参院選や鈴木俊一東京都知事から東京都副知事の打診があったが、誘いを一切断り、自治医科大学理事長に就任し、1993年まで務めた。1995年、勲二等旭日重光章を受章。 ピアノ、バイオリン、チェロ、フルート等の趣味をこなす音楽家であった。
竹田 喜之助(たけだ きのすけ、大正12年(1923年)6月… 竹田 喜之助(たけだ きのすけ、大正12年(1923年)6月27日 - 昭和54年(1979年)9月5日)は、日本の人形師。本名は岡本 隆郎(おかもと たかお)。 1923年(大正12年)、岡山県邑久郡邑久町豊安(現・瀬戸内市邑久町)に生まれる。岡本家は呉服商の大店であり、隆郎は長男だった。邑久村尋常小学校(現・瀬戸内市立邑久小学校)、岡山第一中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を卒業後、旧制第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1943年(昭和18年)に東京帝国大学工学部航空工学科に入学。1950年(昭和25年)に東京大学第二工学部航空工学科を卒業。卒業と同時に人形芝居の結城孫太郎一座に弟子入りし、隆郎は結城糸城三(しきぞう)を名乗った。
石風呂 良一(いしぶろ りょういち、1923年6月27日 -… 石風呂 良一(いしぶろ りょういち、1923年6月27日 - 1985年5月12日)は、広島県出身のプロ野球選手。 広島県立忠海中学校卒業後、広島県内の運送会社のノンプロチーム(会社名不明)に所属。1949年11月に24歳で大阪タイガースへ入団。入団から間もない11月16日の対阪急戦(明石)でプロ初登板・初先発。初回から四球連発で痛打を浴び、1アウトもとれずに降板、4失点で敗戦投手となった。「カーブも投げらない者を先発させるとは」と内外から批判され、この先発起用が若林忠志監督退団の切っ掛けといわれる。この後、一軍で登板することはなく、1951年に引退した。このため、石風呂の通算防御率は、算出不可能(無限大)となっている。
久保田 晴寿(くぼた せいじゅ、1923年(大正12年)6月… 久保田 晴寿(くぼた せいじゅ、1923年(大正12年)6月26日 - 2004年(平成16年)8月31日)は、日本の薬学者。専門は薬品合成化学。 長野県上田市出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1946年京都帝国大学医学部薬学科卒業。1947年母校助手。1951年徳島大学薬学部助教授、1957年教授、1972年薬学部長を経て、1988年に徳島大学学長に就任し1991年に学長を退任。退任後の1992年に大阪薬科大学学長に就任、1995年に同大学学長を退任。1997年、勲二等旭日重光章受章。 1953年、京都大学薬学博士。論文名は「アセチレンとアンモニアの縮合に関する研究」。 2004年に急性呼吸不全のため徳島県小松島市の病院で死去。
景浦 賢一(かげうら けんいち、1923年6月26日 - 没… 景浦 賢一(かげうら けんいち、1923年6月26日 - 没年不明)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、三塁手。
湊 俊一(みなと しゅんいち、1923年6月26日 - )は… 湊 俊一(みなと しゅんいち、1923年6月26日 - )は日本の俳優。声優。本名は湊谷 順平(みなとや じゅんぺい)。 秋田県平鹿郡で生まれる。慶應義塾大学経済学部卒業。大学在学中は演劇研究会で活動。大学卒業後は劇団創作座に参加。1952年、ラジオ東京放送劇団に入団。劇団内では寺島信子、嵯峨隆一とともに研究会を作り演技の勉強を続けた。その後はタレントエージェント、三木事務所、劇団東芸、天知プロ、ニューキャスターブロフに所属していた。 現代劇における科学者や上司役などが当たり役で数多くのドラマに出演。時代劇では主に家老や商人役などを演じた。声優としても草創期から吹き替えを中心に活躍。 社団法人映像コンテンツ権利処理機構においては不明権利者とされている。
市川 喜一(いちかわ きいち、1923年〈大正12年〉6月2… 市川 喜一(いちかわ きいち、1923年〈大正12年〉6月26日 - 2006年〈平成18年〉3月31日)は、日本の映画プロデューサー・元俳優である。俳優としての芸名は黒田潤。群馬県高崎市出身。妻は市川千恵子(旧姓・関千恵子、元女優)。 海軍予備学生として魚雷艇部隊に在籍した。1946年に早稲田大学法学部を卒業するとともに、黒田潤名義で、新人スターとして大映入りして、いくつかの作品に出演。デビュー作『いつの日か花咲かん』で共演した関千恵子と交際、後に結婚。 1952年に大映を退社してフリーとなる。シナリオ作家志望だった市川は、故郷の群馬県高崎市の交響楽団をモデルにした作品を構想して、今井正監督に売り込んで採用される。
岡澤 完治(おかざわ かんじ、1923年(大正12年)6月2… 岡澤 完治(おかざわ かんじ、1923年(大正12年)6月25日 - 1972年(昭和47年)6月27日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(2期、民社党)。位階は正五位、勲等は勲三等。 大阪府枚方市津田町生まれ。母親とは早くに死別した。 小学校卒業後、府立四條畷中学校に学ぶ。1945年(昭和20年)、陸軍士官学校卒業。 1946年(昭和21年)4月、京都大学法学部入学。卒業後、大学院に進学し国際法を専攻した。 1954年(昭和29年)、法曹界に入る。愛情と信頼を信条とし、進んで恵まれない人たちの弁護を引き受け、「庶民の岡沢、正義の岡沢」として知られた。 1959年(昭和34年)、大阪府議会選挙に際し、やがて第二の故郷となった大東市から日本社会党公認として立候補し、当選したが、これは、岡沢が庶民の中に親しく入っていった庶民性と行動力がその根底にあったからである。
鈴木一彦(すずき かずひこ、1923年6月25日 - 200… 鈴木一彦(すずき かずひこ、1923年6月25日 - 2000年)は、日本の日本語学者。山梨大学名誉教授。勲三等旭日中綬章受章。 東京出身。東京大学文学部国語国文科卒。東大文学部助手、山梨大学教育学部助教授、教授、学部長、1987年定年退官、名誉教授、東洋大学教授、1994年退職。1999年勲三等旭日中綬章受勲。専門は日本語文法。妻は国文学者の鈴木雅子(1928- )。
永利 友喜 (ながとし ともき 1923年6月24日 - 2… 永利 友喜 (ながとし ともき 1923年6月24日 - 2018年2月23日)は、東京都小金井市長(2期)。 1923年東京府に生まれる。日本大学法学部卒。卒業後は国鉄に入り、日本社会党東京都本部執行委員となる。 小金井市議会議員を2期務め、1971年市長に就任。 革新市政を行い、 ごみやし尿を収集する多摩清掃公社を直営化、 学校など30の市施設に各々3人配置の90人の準職員を配置などを行なった。 小金井市長を2期務め、1979年に市建設部長の星野平壽に市長を譲った。 2018年2月23日に94歳で亡くなった。
坪田 理基男(つぼた りきお、1923年6月23日 - 20… 坪田 理基男(つぼた りきお、1923年6月23日 - 2017年4月14日)は、日本の児童文学作家、児童文学研究者。「びわの実学校」同人。 東京生まれ。太平洋戦争時代は海軍に従軍。復員し、明治大学を卒業後、出版社に勤務。 児童文学作家、児童文学研究者である坪田譲治の三男。