田中 正巳(たなか まさみ、1917年6月12日 - 200… 田中 正巳(たなか まさみ、1917年6月12日 - 2005年8月5日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員、参議院議員。北海道出身。正三位勲一等旭日大綬章。 函館中学、官立新潟高等学校を経て東京帝国大学法学部卒業。1955年、第27回衆議院議員総選挙に初当選(旧北海道3区)。1974年、三木武夫内閣の厚生大臣として初入閣。衆議院予算委員長に就任したが、1979年の第35回衆議院議員総選挙で落選し、1980年に参議院全国区に転出。1992年まで2期務めた。 1987年、勲一等旭日大綬章受章。 2005年8月5日、肝臓癌のため東京都北区の病院で死去。享年88。
小口 禎三(おぐち ていぞう、1917年6月10日 - 20… 小口 禎三(おぐち ていぞう、1917年6月10日 - 2006年11月11日)は、日本の映画プロデューサー。岩波映画製作所創業者の1人で、初代代表取締役社長を務めた。 長野県岡谷市出身。長野県諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京写真専門学校(現在の東京工芸大学)を卒業した。1938年、東宝映画(現在の東宝)に入社した。その後日本映画社を経て、1949年に中谷宇吉郎、吉野馨治、小林勇、羽仁進らとともに中谷研究室プロダクション(のちの岩波映画製作所)を設立した。同社は設立当初から社長ポストが空席であったが、1968年に岩波映画製作所代表取締役社長に就任し、その後会長、相談役を歴任した。
金堀 一男(かなほり かずお、1917年6月10日 - 没年… 金堀 一男(かなほり かずお、1917年6月10日 - 没年不詳)は、日本の警察官僚。 金堀卯太郎の三男として福岡市に生まれる。1935年福岡県中学修猷館、1937年3月旧制福岡高等学校文科乙類を経て、1941年3月東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 東大在学中の1940年に高等試験行政科に合格し、卒業後、内務省に入省したが、2週間足らずで海軍に入隊し、海軍経理学校を出て、重巡洋艦妙高に乗り込み戦地へ赴き、その後海軍陸戦隊庶務主任、病院船主計長から、山本五十六元帥の麾下に入り、トラック島、ラバウル、ウェーク島、サイパン島と転戦、終戦時は少佐まで累進している。 戦後、内務省に復職し、栃木県岩手県の各県本省調査局、総理庁官房勤務の後、1948年3月国家地方警察福岡県本部警備部長兼警備課長となり、佐賀県警察隊長、九州管区警察局公安部長、福島県警本部長、1960年7月鹿児島県警本部長、1963年2月警察庁警備局参事官、1965年3月静岡県警本部長を経て、1966年2月兵庫県警本部長に就任。
廣川 治(ひろかわ おさむ、1917年〈大正6年〉6月9日 … 廣川 治(ひろかわ おさむ、1917年〈大正6年〉6月9日 - 2011年〈平成23年〉1月5日)は、日本の通商産業技官、地質学者。元通商産業省工業技術院地質調査所地質部主任研究官、元JICA(国際協力機構)特別顧問。 新潟県中蒲原郡大江山村大字直り山(現 新潟市江南区直り山)出身。1935年(昭和10年)3月に新潟中学校を卒業、1939年(昭和14年)3月に新潟高等学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に東京帝国大学理学部地質学科を繰上卒業。 1942年(昭和17年)1月に商工省地質調査所に技手として入所、2月に太平洋戦争に応召、陸軍に入隊、1945年(昭和20年)8月に終戦、最終階級は陸軍中尉。
洪 範憙(ホン・ボミ、朝鮮語: 홍범희、1917年6月8日ま… 洪 範憙(ホン・ボミ、朝鮮語: 홍범희、1917年6月8日または6月18日 - 1972年2月27日または2月28日)は、大韓民国の官僚、政治家、教育者。槐山郡郡守、内務部次官、制憲・第4代韓国国会議員。 本貫は豊山洪氏(朝鮮語版)。号は逸谷。漢字表記は洪範熹とも。 日本統治時代の江原道原州郡または慶尚北道善山郡出身。京城京北中学校を経て、1935年に京城第二高普、1937年に普成専門学校法科、1941年に中央大学法学部卒。1945年に高等文官試験行政科に合格した後、1946年に原州に育民館を設立し、館長を務めた。朝鮮食糧営団忠清北道支部勤務を経て、1948年の初代総選挙で国会議員に当選し、国会交通逓信委員会常任委員会で活動した。
美馬 昇(みま のぼる、1917年(大正6年)6月8日 - … 美馬 昇(みま のぼる、1917年(大正6年)6月8日 - 1995年(平成7年)4月27日)は、日本の教育者。学校法人生光学園創立者。徳島県徳島市出身。藍綬褒章受章。 名東郡国府町中村(現在の徳島市国府町中)に生まれる。1929年(昭和4年)、三重実業学校教員養成所(現在の三重大学)を卒業。1933年(昭和8年)に地元である国府町中村に美馬学習塾を設立。 1941年(昭和16年)より徳島県立商業学校(現在の徳島県立徳島商業高等学校)で教務を務める。1945年(昭和20年)に徳島市中吉野町に生光商業学院を創立し、後の学校法人生光学園の基礎をかためる。 1995年(平成7年)4月27日、77歳で没する。
成田 友三郎(なりた ともさぶろう、1917年6月6日 - … 成田 友三郎(なりた ともさぶろう、1917年6月6日 - 1989年10月17日)は、青森県青森市出身のプロ野球選手、政治家。 青森中学校から専修大学へ進学も中退。仙台鉄道局から青森林友を経て1936年に東京巨人軍へ入団。選手としての才能はなかったが、何となく好感のもてる選手だった。1938年秋季頃に体調を崩し、療養に努めたが同年で退団。 1974年に青森市議会へ自由民主党から出馬し当選。4期議員を務めた。
森 義視(戸籍名:義己、もり よしみ、1917年〈大正6年〉… 森 義視(戸籍名:義己、もり よしみ、1917年〈大正6年〉6月6日 - 1977年〈昭和52年〉3月8日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員、奈良県橿原市長。 奈良県高市郡鴨公村大字高殿(現橿原市高殿町)出身。1935年(昭和10年)奈良県立畝傍中学校(現奈良県立畝傍高等学校)を卒業した。 大阪大丸に入社。兵役に就き陸軍大尉に昇進。 1946年(昭和21年)労動運動に参画。奈良県労働組合総連合初代事務局長、同県全労協初代事務局長、同県山林組合書記長、同県地方労働委員、奈良総評初代専従副議長同事務局長、同県中小労連委員長などを歴任。その他、女子大附属小・中・高育友会長、奈良県陸上競技協会副会長を務めた。
中島 河太郎(なかじま かわたろう、1917年6月5日 - … 中島 河太郎(なかじま かわたろう、1917年6月5日 - 1999年5月5日)は、日本のミステリー文学評論家、アンソロジスト、国文学者。本名は、中嶋馨(なかじま かおる)。日本推理作家協会第7代理事長。日本ミステリー文学大賞受賞者。和洋女子大学元学長・名誉教授。江戸川乱歩の薫陶を受けた推理小説研究の第一人者で、推理小説に加え国文学・民俗学の書誌学者としても知られる。別名に小城魚太郎、石羽文彦、玉井一二三。 鹿児島県鹿児島市生まれ。鹿児島県立第一鹿児島中学校、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学文学部国文科で中世説話文学を専攻する。旧制中学時代から兄の影響で「新青年」を読み始め、探偵小説に親しむ。
齋藤 真成(さいとう しんじょう、1917年〈大正6年〉6月… 齋藤 真成(さいとう しんじょう、1917年〈大正6年〉6月5日 - 2019年〈令和元年〉11月19日)は、日本の僧、洋画家、元・真正極楽寺(真如堂)第53世貫主、元・京都教育大学教授、元・成安女子短期大学講師、愛知県名古屋市出身。
金井 南龍(かない なんりゅう、1917年6月5日 - 19… 金井 南龍(かない なんりゅう、1917年6月5日 - 1989年2月27日)は、日本の宗教家、易者、治療師、画家。「神理研究会」創設者で、月刊誌『さすら』の編集発行人。本名、金井三吉。筆名、金井久蜘蛛(くくも)。「一人一宗」を提唱した。 1917年(大正6年)、群馬県北甘楽郡福島町星田(現・富岡市)に生まれる。父・谷五郎は福島町の町長だった。生まれつき霊能があり、日常的に神霊との交流があったという。20歳で近衛師団に召集され、皇居や御用邸の警備にあたる。22歳で満州に出征。ノモンハンの戦闘(1939年)に参加したが、途中で肺結核に罹患し兵役免除となる。 1947年(昭和22年)、30歳で自動車販売会社を興す。
鈴木 秀雄(すずき ひでお、1917年6月4日 - 2015… 鈴木 秀雄(すずき ひでお、1917年6月4日 - 2015年8月21日)は、日本の大蔵官僚。 父・鈴木商店(味の素の前身)第2代社長鈴木忠治と母マスの七男として神奈川県三浦郡葉山村に生まれる。 大蔵入省後まもなく短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、1940年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。1942年3月、主計大尉に進む。1945年5月、海軍主計少佐に昇進して終戦を迎えた。戦後、B級戦犯容疑者として逮捕された。裁判では検事から死刑を求刑され、禁固15年の判決が下る。長い拘禁状態の後、サンフランシスコ講和条約の直前に仮釈放された。この間に公職追放も受けた。 釈放後は大蔵省に復職。
青園 謙三郎(あおぞの けんざぶろう、1917年〈大正8年〉… 青園 謙三郎(あおぞの けんざぶろう、1917年〈大正8年〉6月3日 - 1993年〈平成5〉3月2日)は、福井県の郷土史研究家、実業家。位階は従五位。身をマスコミ業界に置きながら、生涯にわたり郷土の歴史を研究した。郷土史に関する著作が多くある。 1963年(昭和38年)4月、個人蔵の紙本著色柴田勝家像を発見した。 特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡の保存には、金沢大学法文学部教授・井上悦夫の奔走と福井県教育委員会の迅速な対応があったが、その際、青園も関係していた。すなわち1970年(昭和45年)8月18日、井上が農業構造改造事業の工事で遺構が破壊されていることを発見し、その夜当時福井テレビ副社長であった青園を通じて、須知邦武副知事に工事中止を申し入れたのである。
橋本 鉄男(はしもと てつお、1917年6月2日 - 199… 橋本 鉄男(はしもと てつお、1917年6月2日 - 1996年10月11日)は、滋賀県の民俗学者、地方史研究者。 滋賀県高島郡今津町(現高島市)生まれ。のち安曇川町(同)在住。1939年、関東局立旅順師範学校卒業。満洲・滋賀県で公立小・中学校の教諭、教頭、校長。滋賀県文化財保護審議会委員・副会長。 旅順師範学校在学中に柳田國男の著作に接し民俗学に開眼。戦後教職の傍ら県内での民俗調査を開始、再興直後の民間伝承の会や近畿民俗学会の会員となり成果を投稿、高島郡内の大将軍信仰の報告で柳田の激励を受ける。1959年、滋賀県臨時文化財専門員として木地屋の生活伝承の記録作成のため、「木地屋の本貫地」と称された永源寺町(現東近江市)蛭谷・君ヶ畑をはじめとして県内の木地屋伝承地の調査を実施、君ヶ畑では新たに「氏子狩帳」多数を確認した。
松本 正雄(まつもと まさお、1917年(大正6年)6月1日… 松本 正雄(まつもと まさお、1917年(大正6年)6月1日 - 1986年(昭和61年)10月20日)は、日本の建築家・土木技術者、政治家。郷里である富山県小矢部市の市長を4期14年務めた。市長としては「メルヘン建築」の建設で知られる。 1917年(大正6年)、富山県西礪波郡東蟹谷村平桜(現在の小矢部市平桜)に生まれる。砺波中学校(現在の富山県立砺波高等学校)、第四高等学校を経て、東京帝国大学に進む。 東京帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入省。重要河川の改修工事に携わる。建設省北陸地方建設局長在任中の1969年(昭和44年)には、集中豪雨による富山大橋の橋桁沈下に対応した。同年、建設省を退官。
澁谷宗光(しぶやむねみつ 1917年6月 - 1974年9月… 澁谷宗光(しぶやむねみつ 1917年6月 - 1974年9月)は、日本の国語教育学者、日本語学者。 専門は、国語教育、国語学、江戸・明治期の歌学。荷田在満、小山田与清、八田知紀などの歌人について研究の研究著書もある。昭和30年代に国語教育史学会を西原慶一、古田拡、渡辺茂、岩島公など組織し、活動した。
西川 辰美(にしかわ たつみ、本名同じ、1916年(大正5年… 西川 辰美(にしかわ たつみ、本名同じ、1916年(大正5年)6月30日 - 1971年(昭和46年)3月7日)は、日本の昭和期に活動した漫画家。東京府東京市南葛飾郡(現・東京都葛飾区)出身。
苫米地 俊博(とまべち としひろ、1916年6月30日 - … 苫米地 俊博(とまべち としひろ、1916年6月30日 - 2010年10月20日)は、日本の実業家。三菱商事副社長、米国三菱商事社長、三菱自動車工業副会長、国際大学理事長、ニューヨーク日本商工会議所会頭などを歴任した。 北海道小樽市出身。1941年東京商科大学(現一橋大学)卒業、三菱商事入社。大学在学中、日米学生会議に参加し、宮澤喜一(のちに内閣総理大臣)、奈良靖彦(のちに駐カナダ大使)、山室勇臣(のちに三菱銀行副頭取)らと交遊を持った。財閥解体後、奈良らとともに、野間省一講談社社長の協力を得て貿易会社・飛鳥(「奈良」から「飛鳥」を連想して命名)を設立し、宮澤の弟宮澤泰(のちに駐西ドイツ大使)なども参画したが、1年で倒産した。
小山 正孝(おやま まさたか、1916年〈大正5年〉6月29… 小山 正孝(おやま まさたか、1916年〈大正5年〉6月29日 - 2002年〈平成14年〉11月13日)は、日本の詩人・中国文学者。「四季」「山の樹」「文学館」同人。関東短期大学教授。丸山薫賞受賞。 盆景家小山潭水の次男として、東京青山に生まれる。府立四中を経て、旧制弘前高等学校に進み、本格的に文学を志す。 高等学校時代に、杉浦明平の紹介で立原道造と知り合い、強い影響を受け、詩作を始める。したがって、初期には岩野泡鳴から立原へと発展したソネット形式を多用した、独自の世界を描いた抒情詩を多く作った。が、後には、散文的要素が強い哲学的、幻想的な世界を構築したり、日常に潜む危機を描いていった。また、初期から晩年まで、その詩の中心的課題は、「愛」であった。
村上 孝太郎(むらかみ こうたろう、1916年(大正5年)6… 村上 孝太郎(むらかみ こうたろう、1916年(大正5年)6月29日 - 1971年(昭和46年)9月8日)は、日本の大蔵官僚、政治家。参議院議員(1期)。位階は従三位、勲等は勲二等。 本籍地は愛媛県越智郡宮窪村(宮窪町を経て現・今治市)。東京で村上常太郎の長男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校)、旧制第一高等学校を経て、1939年(昭和14年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝大在学中の1938年(昭和13年)10月、高等試験行政科試験に合格。卒業後は大蔵省に入省。配属先は専売局長官官房書記兼大臣官房文書課。神戸税関総務部長、神戸税関業務部長兼税関長官房主事を経て1942年(昭和17年)1月、大蔵事務官・理財局勤務となり第四艦隊司令部付が発令されラバウルに赴任。
太田 辰夫(おおた たつお、1916年〈大正5年〉6月29日… 太田 辰夫(おおた たつお、1916年〈大正5年〉6月29日 - 1999年〈平成11年〉1月31日)は、日本の中国語学者・中国文学者。 東京生まれ。東京外国語学校支那語科卒、1961年「現代中国語文法の歴史的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。神戸市外国語大学助教授、教授、1982年名誉教授、京都産業大学教授。1999年、肺炎のため死去。死没日付をもって勲六等単光旭日章を追贈された。 呉承恩を『西遊記』の作者ではないとする立場にたって、中国古典文学大系版の『西遊記』の翻訳にたずさわった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
梁瀬 次郎(やなせ じろう、1916年〈大正5年〉6月28日… 梁瀬 次郎(やなせ じろう、1916年〈大正5年〉6月28日 - 2008年〈平成20年〉3月13日)は、日本の実業家。位階は従四位。勲等は勲二等。 梁瀬自動車株式会社社長、株式会社ヤナセ社長、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任した。 東京府出身の実業家である。父親・梁瀬長太郎が設立したヤナセグループの経営を引き継ぎ、自動車輸入の最大手企業に発展させた 。アメリカ車の販売に寄与したとして、2004年に日本人としては本田宗一郎や豊田英二らに続く5人目となる米国自動車殿堂入りを果たした。『自動車を斬る』(実業の日本社)など著書多数。 1916年生まれ、東京府出身である。1923年に関東大震災が発生し、父の郷里である群馬県碓氷郡豊岡村(現高崎市)に避難した。
武田 隆夫(たけだ たかお、1916年6月26日 - 198… 武田 隆夫(たけだ たかお、1916年6月26日 - 1986年10月11日)は、日本の経済学者、東京大学名誉教授。マルクス経済学専攻。 長野県小県郡西塩田村(現上田市)出身。気象台勤務の父の転勤で旧制台北第一中学校、台北高等学校を経て、1939年東京帝国大学経済学部卒。大内兵衛に師事。東京大学助教授、1952年教授。1967年学部長。1977年定年退官、名誉教授、東京経済大学教授。地方財政審議会長。
坂野 正高(ばんの まさたか、1916年6月26日 - 19… 坂野 正高(ばんの まさたか、1916年6月26日 - 1985年7月10日)は、日本の歴史学者。専門は、中国政治外交史。 1916年、ニューヨーク市生まれ。東京帝国大学法学部卒業。東京帝国大学東洋文化研究所助手(1942年 - 1948年)、東京都立大学講師・助教授・教授(1948年 - 1962年)、東京大学法学部教授(1962年 - 1976年)、国際基督教大学教授(1976年 - 1985年)を務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大庭 忠男(おおば ただお、1916年6月24日 -2012… 大庭 忠男(おおば ただお、1916年6月24日 -2012年12月26日 )は、日本の翻訳家。 佐賀県三養基郡北茂安町(現みやき町)生まれ。日本大学高等師範部英語科卒業。極東国際軍事裁判国際検察部翻訳顧問、米国映画字幕翻訳、米国ニュース日本語版監修、英米推理小説翻訳などを行う。エラリー・クイーン、シドニィ・シェルダン、コリン・デクスターなどを多く翻訳。1999年唯一の著書で、ポツダム宣言受諾後も戦争が続いた件について記した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
毛利 可信(もうり よしのぶ、1916年6月22日 - 20… 毛利 可信(もうり よしのぶ、1916年6月22日 - 2001年4月17日)は、日本の言語学者、英語学者。大阪大学名誉教授。 東京生まれ。父は毛利八十太郎。旧制北野中学、旧制三高文甲を経て、1939年東京帝国大学文学部英文科卒、新京中学校教諭、1942年陸軍通訳として南方派遣第二十五軍司令部勤務。1947年神戸第一中学校教諭、1951年九州大学講師、1953年助教授、1961年大阪大学文学部教授、1964年「英語意味論研究」で阪大文学博士、1980年定年退官、名誉教授、大手前女子大学教授。1992年秋、勲二等瑞宝章受勲。1993年大手前女子大退職。
相馬 信夫(そうま のぶお、Aloysius Nobuo S… 相馬 信夫(そうま のぶお、Aloysius Nobuo Soma, 1916年6月21日-1997年10月6日)は、日本のカトリック教会聖職者。洗礼名は「アロイジオ」。カトリック名古屋教区第2代司教を務めた。 相馬又二郎と鈴子の三男として、東京市神田区で生まれた。祖父は専修大学創立者相馬永胤。1921年にカトリック神田教会で受洗し、1934年3月に浦和高等学校を卒業し、1941年3月に東京帝国大学理学部天文学科を卒業。さらに同大学院で学んだ。1942年に応召し、ニューブリテン島現パプア・ニューギニアのラバウルに出征。1946年に帰国。 1953年に東京カトリック神学院入学。1960年3月18日に東京教区司祭として叙階された。
佐口 透(さぐち とおる、1916年6月20日 - 2006… 佐口 透(さぐち とおる、1916年6月20日 - 2006年11月13日)は、日本の歴史学者。金沢大学名誉教授。東トルキスタンの研究で知られる。 1916年(大正5年)、石川県金沢市で生まれた。東京帝国大学で学び、卒業。 戦時期には民族研究所所員として岩村忍とともに敗戦直前の内モンゴルの西北研究所に出向。中国ムスリムの現地調査に従事した。 太平洋戦争後は富山大学助教授に就いた。1964年、学位論文『十八~十九世紀東トルキスタン社会史研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。1971年に金沢大学教授。摂南大学教授を務めた。 専門は東洋史で、モンゴル帝国から19世紀までの中央アジア、東トルキスタン、新疆のムスリム、回民の研究で知られる。
馬淵 辰郎(まぶち たつお、1916年6月20日 - 199… 馬淵 辰郎(まぶち たつお、1916年6月20日 - 1995年9月28日)は、日本の実業家。三菱石油(のちのENEOS)の社長や会長、石油連盟副会長を務めた。勲二等瑞宝章受章。 岐阜県出身。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。大学では排球部に所属し、のちに東京商科大学排球部監督も務めた。部の後輩に村井勉(元アサヒビール社長)、米倉功(元伊藤忠商事社長)、荒川和夫(元サッポロビール社長)、川勝堅二(元三和銀行頭取)などがいる。 三菱石油では経理畑を歩む。常務を経て、1978年、水島製油所原油流出事故で辞任した渡辺武夫前社長の後任として三菱石油社長に就任。約190億円の累積赤字を一掃したが、健康問題もあり、1983年に社長を退任し会長に就任。
佐々木 正五(ささき しょうご、1916年6月18日 - 2… 佐々木 正五(ささき しょうご、1916年6月18日 - 2014年11月20日)は、日本の海軍軍医(軍医大尉)、微生物学者、医学博士。慶應義塾大学名誉教授、東海大学名誉教授。東海大学医療技術短期大学学長。正七位(1945年)、勲二等瑞宝章(1994年)。 樺太の機関車を扱う商家に生まれた。1925年、慶應義塾幼稚舎入学。慶應義塾普通部卒業後、慶應義塾大学医学部予科修了、慶應義塾大学医学部本科卒業。1941年4月、慶應義塾大学医学部細菌学教室助手、5月に海軍二年現役軍医科士官となる。伊号第四潜水艦軍医長として真珠湾攻撃に参加し、詳細な日記を残した。1944年より陸上勤務。1945年に復員、慶應義塾大学医学部細菌学教室に戻り、小林六造に師事。
薮田 東三(やぶた とうぞう、1916年6月16日 - 19… 薮田 東三(やぶた とうぞう、1916年6月16日 - 1986年8月3日)は、日本の経営者。滋賀県大津市出身。 1940年に京都帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年にトヨタ自動車工業に入社。 取締役を経て、1972年9月に常務に就任した。1977年3月に愛知製鋼副社長に就任し、1980年3月から社長を務めた。 1986年8月3日転移性肺腫瘍のために死去。70歳没。
山本 正淑(やまもと まさよし、1916年(大正5年)6月1… 山本 正淑(やまもと まさよし、1916年(大正5年)6月15日 - 2009年(平成21年)9月5日)は、日本の厚生官僚。高知県出身。厚生事務次官、日本赤十字社社長などを歴任した。 旧制高知高等学校を経て東京帝国大学を卒業後、1940年(昭和15年)厚生省に入省。 退官後は、医療金融公庫総裁、財団法人厚生年金事業振興団理事長を経て、1987年(昭和62年)4月1日から1996年(平成8年)10月まで第12代日本赤十字社社長を務めた。 2009年(平成21年)9月5日、脳出血のため東京都新宿区の病院で死去、93歳。
大橋 進(おおはし すすむ、1916年 <大正5年> 6月1… 大橋 進(おおはし すすむ、1916年 <大正5年> 6月13日 - 2003年 <平成15年> 12月10日)は、日本の弁護士、最高裁判所裁判官。位階は従三位。 東京都出身。1941年(昭和16年)に東京帝国大学法学部を卒業。1942年(昭和17年)に司法官試補となり、1944年(昭和19年)5月に大阪地裁を振り出しに裁判官生活に入ったが、間もなく海軍に召集されて海軍法務官となり、中尉で横須賀鎮守府軍法会議付きのとき終戦を迎えた。1946年(昭和21年)4月から東京地裁に勤務、ついで1949年(昭和24年)10月から法務府法制違憲第一局長補佐を2年余り勤め、再び東京地裁に戻った。 1954年(昭和29年)7月に弁護士に転じた。
伊藤鳳雲(いとう ほううん、1916年6月13日 - 200… 伊藤鳳雲(いとう ほううん、1916年6月13日 - 2001年9月19日)は、日本の書家。本名は伊藤弘三。かな書を中心に活動し、書作品「三吉野の歌」により日本芸術院賞を受賞した。田中塊堂に学び、日展を中心に活動した。 神奈川県秦野市に生まれた。大阪外国語大学インドネシア語部を卒業した。幼少期から書に親しみ、昭和28年に田中塊堂の門に入り、かなを学んだ。 成田山書道美術館によれば、1958年の日展初入選後に頭角を現した。1962年に日展特選・苞竹賞、1970年に日展第5科・菊華賞を受賞した。また、日本芸術院の歴代授賞者一覧では、平成元年度・第46回日本芸術院賞(第一部・書)を「書『三吉野の歌』に対し」受賞したことが確認できる。
堀 葦男(ほり あしお、1916年6月10日 - 1993年… 堀 葦男(ほり あしお、1916年6月10日 - 1993年4月21日)は、俳人。 東京都生まれ。東京大学経済学部卒。大阪商船勤務、のち社団法人日本綿花協会専務理事。俳句は岡本圭岳、伊藤消雪、下村槐太に師事。1953年、同じ槐太門の林田紀音夫らとともに「十七音」を創刊。関西の前衛俳句運動の推進者として金子兜太と並び称された。兜太の「海程」創刊に参加、同人会長を務める。俳誌では「火星」顧問も務めた。1962年、第10回現代俳句協会賞受賞。句集に『火づくり』『機械』『山姿水情』『朝空』『過客』など、評論集に『俳句二十章』がある。現代俳句協会全国幹事、同関西地区会議副議長、大阪俳人クラブ副会長、読売俳壇選者などを歴任。
長谷川 治(はせがわ おさむ、1916年6月9日 - 199… 長谷川 治(はせがわ おさむ、1916年6月9日 - 1993年5月10日[1])は、和歌山県出身の元プロ野球選手、高校野球監督。ポジションは投手。
長谷川 謙浩(はせがわ けんこう、1916年6月8日 - 1… 長谷川 謙浩(はせがわ けんこう、1916年6月8日 - 1994年11月12日)は、日本の実業家。川崎重工業社長、会長を務めた。福島県金山町中川出身。 1941年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に川崎重工業に入社した。海軍技術将校、大尉を経て、主に船舶設計を手掛け、1971年11月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1978年6月に専務、1980年6月に副社長を経て、1981年6月に社長に就任し、在任中は、造船不況で悪化していた業績の立て直しと1985年からの急激な円高の影響による経営再建に力を注いだ。1987年6月に会長に就任し、1992年から相談役を務めた。 政府の各種審議委員会委員や日本造船工業会会長や日本航空宇宙工業会会長や日本航空機開発協会理事長などを歴任した。
高橋 義治(たかはし よしはる、大正5年(1916年)6月6… 高橋 義治(たかはし よしはる、大正5年(1916年)6月6日 - 昭和61年(1986年)7月16日)は、日本の実業家。全国朝日放送取締役、イ・アイ・イグループ代表取締役会長、日本教育テレビ(現テレビ朝日)取締役、慈悲庵、まどか保育園各理事[3]等を務めた。
山本 勝孝(やまもと かつたか、1916年6月6日 - 19… 山本 勝孝(やまもと かつたか、1916年6月6日 - 1991年4月7日)は、日本の経営者、銀行家。武蔵野銀行頭取を務めた。 東京都出身。1941年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、1942年1月に日本銀行に入行。1970年5月に武蔵野銀行常務に就任し、1976年6月に専務、1978年11月に副頭取を経て、1979年2月から1983年6月までに頭取を務めた。 1991年4月7日、急性心不全のために死去。74歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
壷井 宗一(つぼい そういち、1916年(大正5年)6月5日… 壷井 宗一(つぼい そういち、1916年(大正5年)6月5日 - 没年不明)は、日本の実業家。国鉄広報部長を経てJR東海の関連会社である中央リネンサプライ社長・会長・顧問となる。岡山県高梁市出身。 1916年(大正5年)岡山県高梁町(現:高梁市)に生まれる。1929年(昭和4年)に旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学した。同期には、宮原正吾、三宅真助がいた。1934年(昭和9年)同校を卒業して、1936年(昭和11年)に山口県にある旧制山口高等学校へ入学した。1939年(昭和14年)3月、同高校を卒業し、4月に東京商科大学(現:一橋大学)へ入学する。大学の研究室は、米谷ゼミナールに所属した。
野村 晋一(のむら しんいち、1916年6月3日 - 199… 野村 晋一(のむら しんいち、1916年6月3日 - 1991年11月10日)は、日本の獣医、競馬評論家。 福島県白河市出身。1941年東京帝国大学農学部獣医学科卒。農林省日高種馬牧場嘱託。 1956年「馬の肘関節及び肘関節の機構学的研究」で東京大学農学博士。東大農学部助教授、1966年教授、1977年定年退官、名誉教授。 1971年日本農学賞、読売農学賞受賞。1989年勲三等瑞宝章受章。
笠原 一男(かさはら かずお、1916年6月2日 - 200… 笠原 一男(かさはら かずお、1916年6月2日 - 2006年8月19日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。 長野県南佐久郡北牧村(現在の小海町)出身。笠原竜蔵・せきの長男。旧制千葉県立東葛飾中学校を経て、1938年に旧制新潟高等学校、1941年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業。 卒業後は東京帝国大学史料編纂所に勤務。翌年に応召。1947年に復員し、東京大学史料編纂所に復帰した。1960年に同助教授、1961年、東京大学教養学部助教授、1962年に「一向一揆の研究」により東京大学から文学博士の学位を取得。1966年に教授。 1977年に定年退官。発足間もない放送大学教授になり、1990年に退任して客員教授。
大谷 米一(おおたに よねいち、1916年6月1日 - 19… 大谷 米一(おおたに よねいち、1916年6月1日 - 1995年5月9日)は、日本の経営者。ニューオータニ社長、会長を務めた。大谷米太郎の三男として生まれ、叔父の大谷竹次郎の養子となった。長男は大谷和彦。 東京都出身。1939年に早稲田大学商学部を卒業。 1961年にニューオータニ取締役に就任し、副社長を経て、1973年5月には社長に就任し、1993年6月には会長に就任。 1987年11月には勲二等瑞宝章を受章。 1995年5月9日肺癌のために死去。78歳没。 日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主でもあり、勝負服の柄は桃、青袖、冠名には「キオイ」を用いた。主な所有馬にはオープン特別戦2勝のキオイドリームがいる。
福岡 隆(ふくおか たかし、1916年6月1日 - 2002… 福岡 隆(ふくおか たかし、1916年6月1日 - 2002年4月9日)は、日本の速記者・評論家。 広島県因島に生まれる。小学三年で父を亡くす。1929年上京して簿記学校で速記を学び、英語の学校を卒業。早稲田大学文学通信教育部修了。海軍学校暗号科を卒業した。田鎖綱紀の知遇を得る。1959年から9年間、松本清張の専属速記者となる。谷崎潤一郎の速記もした。日本速記協会副理事長。 2002年4月9日、脳梗塞のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
加藤 克巳(かとう かつみ、1915年6月30日 - 201… 加藤 克巳(かとう かつみ、1915年6月30日 - 2010年5月16日)は、昭和・平成期の歌人。 京都府綾部市生まれ。旧制埼玉県立浦和中学校在学中に短歌を作り始め、若山牧水系の歌誌「菁藻」(主宰:髙橋俊人)に入会。1933年、國學院大學予科入学、1935年、國學院大學国文科進学、折口信夫、武田祐吉らの薫陶を受ける。在学中に新芸術派短歌運動に加わり「短歌精神」を創刊。1936年、若手歌人の集まり「四月会」に参加。1937年、第一歌集『螺旋階段』を刊行。1938年、國學院大學卒業。 その後応召し、敗戦まで軍隊生活を経験する。戦後は浦和中学校の教諭に復帰。1946年、常見千香夫、大野誠夫らと「鶏苑」を創刊、近藤芳美、宮柊二らと「新歌人集団」を結成。
橋本 輝雄(はしもと てるお、1915年6月30日 - 20… 橋本 輝雄(はしもと てるお、1915年6月30日 - 2001年10月1日)は、日本の騎手、競走馬調教師。 1933年に騎手デビュー。太平洋戦争最中の1944年に「能力検定競走」として行われた東京優駿(日本ダービー)をカイソウで制したほか、1950年にはクモノハナに騎乗して皐月賞、日本ダービーのクラシック二冠を制した。騎手通算成績は1154戦154勝、うち八大競走3勝を含む重賞5勝。 1953年に調教師へ転身し、それぞれ菊花賞に優勝したコマヒカリ、アカネテンリュウ、中山大障害を4連勝し海外でも2勝したフジノオー、日本ダービー優勝馬メリーナイスなど数々の活躍馬を手掛けた。1993年に定年引退。調教師成績は日本中央競馬会が発足した1954年以降で通算7361戦931勝、うち八大競走・GI級競走4勝を含む重賞30勝。
島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 200… 島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 2005年11月3日)は、岡山県出身の会社役員、サッカー選手、第7代日本サッカー協会会長。 1928年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1933年に同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、石川馨(東京大学名誉教授)、中村光夫(文芸評論家)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。 旧制水戸高校(現・茨城大学)を経て、1936年に東北帝国大学法文学部に入学。1940年3月に大学を卒業して三菱重工業に入社した。1941年に太平洋戦争の召集を受けて従軍、1945年にシベリア抑留に遭い、1947年に帰国。
与謝野 道子(よさの みちこ、旧姓:坂内、1915年6月26… 与謝野 道子(よさの みちこ、旧姓:坂内、1915年6月26日 - 2000年10月31日)は、日本の評論家、随筆家。
岩永 博(いわなが ひろし、1915年6月26日 - 201… 岩永 博(いわなが ひろし、1915年6月26日 - 2010年11月9日)は、東洋史学者、法政大学名誉教授。 1915年、広島県生まれ。1939年東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業。法政大学助教授となり、教授昇進。1986年に法政大学を定年退任し、名誉教授となった。1963年より公益財団法人中東調査会常務理事を務めた。 2010年11月9日、心不全のため死去。
糸数 カメ(いとかず カメ、1915年6月26日 - 199… 糸数 カメ(いとかず カメ、1915年6月26日 - 1991年10月23日)は、沖縄民謡の歌手、舞踊家。 8歳の頃から玉城盛義に師事。 1958年に玉城流師範免許を取得し、1976年には糸和会を設立した。 戦後沖縄の民謡、舞踊界の先駆的存在として活躍した一方で、空手にも秀でていた。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。