玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6… 玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6月30日) - 1906年(明治39年)9月25日)は、日本のジャーナリスト、教育家、冒険家。札幌農学校でドイツ語教授を務めた後にシベリアを単身横断してドイツに渡り、月刊誌『東亜(Ost-Asien)』を刊行するなどジャーナリストとして活動した。また、在留日本人の面倒をよくみたことから「私設公使」の異名をとった。 周防国光井村(現・山口県光市光井)で「銘酒玉川」を醸造していた造り酒屋に生まれる。 山口黒城塾、広島県中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、上京し獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)に通う。同時に、遠い親戚で幼い頃から兄のように慕っていた原田貞介(後に工学博士。
斎藤 宇一郎(さいとう ういちろう、慶応2年5月18日(18… 斎藤 宇一郎(さいとう ういちろう、慶応2年5月18日(1866年6月30日) - 大正15年(1926年)5月10日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会→革新倶楽部)、農業指導者。三男の憲三はTDKの創業者。 出羽国由利郡平沢町(現在の秋田県にかほ市)に斎藤茂介(茂助)の長男として生まれる。生家は旗本仁賀保氏の家老格の家柄であった。1890年(明治23年)、帝国大学農科大学を卒業し、一年志願兵として近衛歩兵第4連隊に入隊した。1892年(明治25年)12月20日、予備役陸軍少尉に任ぜられ、翌年に後備役となった。日清戦争がおきると召集され、海城まで従軍し、中尉に昇進した。
高楠 順次郎(たかくす じゅんじろう、1866年6月29日(… 高楠 順次郎(たかくす じゅんじろう、1866年6月29日(慶応2年5月17日) - 1945年(昭和20年)6月28日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の仏教学者・インド学者。号は「雪頂」。 東京帝国大学(東京大学の前身)文学部教授、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長、東洋大学学長。 1866年(慶応2年)、備後国御調郡篝村(現三原市八幡町篝)の農家・沢井家に7人兄弟の長男として生まれた。幼いころから祖父に漢籍を習ったが、旧家とはいえ進学するだけの余裕はなく、14歳で小学校教員として働き始めた。その後、近隣出身で当時西本願寺を代表する学僧であった日野義淵(足利義山の子)や是山恵覚等の助力もあって、1885年に西本願寺が京都に創設したばかりの普通教校(現・龍谷大学)に21歳で入学した。
武藤 金吉(むとう きんきち、慶応2年5月15日(1866年… 武藤 金吉(むとう きんきち、慶応2年5月15日(1866年6月27日) - 昭和3年(1928年)4月23日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(8期、立憲政友会)。族籍は群馬県平民。 上野国山田郡休泊村(現在の群馬県太田市)出身。武藤房吉の長男。英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業した。東奥日報創刊とともに記者となり、自由民権を主張した。1899年(明治32年)には自ら「実業新聞」を創刊した。また蚕糸業の発展に尽力し、帝国蚕糸株式会社専務取締役、大日本蚕糸会評議員などの職に就いた。その他山保毛織株式会社社長、群馬県農工銀行取締役などを歴任した。 1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
渡辺 香墨(わたなべ こうぼく、本名:渡辺 助治郎(わたなべ… 渡辺 香墨(わたなべ こうぼく、本名:渡辺 助治郎(わたなべ すけじろう)、1866年6月27日(慶應2年5月27日) - 1912年(大正元年)12月28日)は、日本の法律家、俳人。 正岡子規の門人で、台湾俳壇の基礎を作った一人。 1866年(慶應2年5月27日)、常陸国稲敷郡君原村に生まれる。1886年(明治19年)に東京法学校(現・法政大学)卒業し、裁判官となる。1894年(明治27年)、正岡子規の門人となる。1898年(明治31年)に新潟県の裁判所に赴任し、新潟県における新派俳人の草分けとして活動、子規から『著き進歩を現したる者』として『東京に五城あり、越後に香墨あり、大阪に青々あり』とし、『香墨は漸を追ふて進む者基礎既に堅し』と評されている。
東郷 慎十郎(とうごう しんじゅうろう 慶応2年5月12日(… 東郷 慎十郎(とうごう しんじゅうろう 慶応2年5月12日(1866年6月25日) - 昭和5年(1930年)4月20日)は日本の実業家・篤志家。湘南地域の学校や教育施設などに多額の寄付を行い、地域の教育に多大な貢献をした。特に鎌倉町の図書館設立に当たっては、建設費の寄付・図書千冊の寄贈を行い、中心的な役割を果たした。
池野 成一郎(いけの せいいちろう、1866年6月25日(慶… 池野 成一郎(いけの せいいちろう、1866年6月25日(慶応2年5月13日) - 1943年(昭和18年)10月4日)は日本の植物学者、理学博士、東京帝国大学名誉教授。日本の植物形態学の先駆者平瀬作五郎のイチョウの精子の発見に続いてソテツの精子を発見した。 最後の堺奉行を務めた旗本池野好謙(山城守、通称は勇一郎)の子として、江戸駿河台の屋敷で生まれた。開成学校、大学予備門から帝国大学理科大学植物学科に入学し、1890年(明治23年)に同校を卒業。翌年に帝国大学農科大学助教授に就任、留学先の帝政ドイツなどの大学の教授にも就任。 平瀬作五郎のイチョウの研究に協力し、平瀬は1896年(明治29年)にイチョウの精子を発見した。
島崎 猪十馬(しまざき いそま、1866年6月24日(慶応2… 島崎 猪十馬(しまざき いそま、1866年6月24日(慶応2年5月12日)- 1952年(昭和27年)3月21日)は、自由民権運動家・歴史家、自由民権運動高知旧各社記念会・世話人。板垣伯銅像記念碑建設同志会理事。 慶応2年5月12日(1866年6月24日)、土佐藩士・島崎善七の次男として、高知城下に生まれる。 明治10年(1877年)10月5日、高知県土佐国高知市第八大区四小区築屋敷38番地より高知市小高坂村越前町22番屋敷(現・高知市桜馬場)に転住。 高知市九反田の旧開成館に開校した立志学舎に学び、同年12月、自由民権運動の少年結社「活動舎」に加盟し、のち「嶽洋社」の活動に加わる。 明治15年(1882年)3月25日、高知第一中学校高等科(現・高知県立高知追手前高等学校)を卒業。
宍戸 俊治(ししど しゅんじ、1866年6月24日〈慶応2年… 宍戸 俊治(ししど しゅんじ、1866年6月24日〈慶応2年5月12日〉- 1925年〈大正14年〉5月19日)は、三河国碧海郡上重原村(現・愛知県知立市)出身の医師。 慶応2年5月12日、三河国碧海郡上重原村(現・愛知県知立市)の旧家である宇都宮家に生まれ、後に刈谷藩の藩医の家系である宍戸家の養子となった。1882年(明治15年)12月に東京大学予備門に入学し、1889年(明治22年)6月に第一高等中学校(予備門の改称後の名称)を卒業すると、1893年(明治26年)11月に東京帝国大学医学部を卒業した。 その後東京帝国大学の大学院で病理学を学び、恩師に病理学者の三浦守治などがいる。1895年(明治28年)7月に養父の宍戸隆一が死去したことで郷土に戻り、宍戸家を継いで宍戸療院を開業させた。
小池 仁郎(こいけ にろう、慶応2年5月7日(1866年6月… 小池 仁郎(こいけ にろう、慶応2年5月7日(1866年6月19日) - 1936年(昭和11年)1月24日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟)、水産業者。愛称にポロニシパ、ヤソの小池。 越後国中頸城郡潟町村字小舟津(現在の新潟県上越市大潟区)出身。酒造業兼漁業の小池太一郎、やをの四人兄弟の三男として生まれる。長兄は夭折した。幼少期は越後高田藩の松下武次郎から漢文を学んだ。1877年(明治10年)に叔父の小池仁兵衛の養子となった。1879年(明治12年)に新潟師範学校速成科高田支場を卒業し、小学校教員となったが[要出典]、翌年根室に渡った。 別当賀にて林業に従事したのち、酒販業を経て、勉学を兼ねて根室の天杉商店で働く。
中村 俊清(なかむら としきよ、1866年6月18日(慶応2… 中村 俊清(なかむら としきよ、1866年6月18日(慶応2年5月6日) - 没年不詳)は、日本の政治家。初代室蘭市長。 近江国滋賀郡堅田(のち滋賀県滋賀郡堅田村→堅田町、現・大津市)出身。山梨県警部から北海道庁に転じ、室蘭、釧路の各警察署長となる。その後、警視となるが、1906年に官職を辞任。室蘭に移る。1910年室蘭支庁選出の道会議員となる。1915年室蘭町長に当選。1918年区制施行により、室蘭区長となる。1922年市制施行により、市長臨時代理者を経て、初代室蘭市長となる。市長は1929年まで務め、病気のため退任した。 市長在職中はワシントン海軍軍縮条約により、造船の発注の減少や製鋼所の事業縮小、製鉄所の減産など市況の低迷により、失業者が続出した。
今村 力三郎(いまむら りきさぶろう、1866年6月14日(… 今村 力三郎(いまむら りきさぶろう、1866年6月14日(慶応2年5月2日 ) - 1954年(昭和29年)6月12日)は、日本の弁護士であり、元裁判官。専修大学第5代総長。 信濃国(現長野県)下伊那郡上飯田村(現飯田市)に生まれる。旧姓は蜂谷であったが、今村家の養子となって今村姓を名のった。この養子縁組は兵役を逃れるためであった。1884年に上京し、伴正臣大審院(現最高裁判所)判事の玄関番をしながら、1886年に専修学校法律科(現専修大学法学部)に入学する。1888年、在学中に代言人試験(現司法試験)に合格して、専修学校を首席で卒業し、1889年から弁護士としての活動を開始した。1894年から1898年に裁判官として任官した後、1954年に没するまで在野法曹として、民事および刑事の多岐にわたる事件を扱い活躍した。
下田 菊太郎(しもだ きくたろう、1866年6月14日(慶応… 下田 菊太郎(しもだ きくたろう、1866年6月14日(慶応2年5月2日) - 1931年(昭和6年)12月26日)は、日本の建築家。秋田県出身。 アメリカ合衆国の建築設計事務所での勤務後、横浜に建築事務所を開設した。昭和初期の官庁建築等に広く用いられた帝冠様式を初めて提案したことでも知られる。当時の建築界では異色の存在で、自ら「建築界の黒羊」と称した。 1866年、佐竹藩士・下田藤右衛門(幼名、勇助。後に順忠)の次男として、秋田県角館町(現仙北市)に生まれた。1871年(明治4年)一家で秋田市に転居。明治13年(1880年)秋田師範学校中学予備科に入学したが、1882年(明治15年)6月に中途退学して上京、工部大学校入学を志した。
渡辺 昭(わたなべ あきら、慶応2年5月1日(1866年6月… 渡辺 昭(わたなべ あきら、慶応2年5月1日(1866年6月13日) - 1940年(昭和15年)5月5日)は、衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)、弁護士。 陸奥国(福島県)田村郡三春町出身。1889年(明治22年)に英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業。1891年(明治24年)、弁護士試験に合格し、翌年に京都市で事務所を開いた。1914年(大正3年)には京都弁護士会長に選ばれている。 1903年(明治36年)、京都府会議員、参事会員に選ばれ、翌年には京都市会議員に当選した。市会では1909年(明治42年)に議長に選ばれており、教育や公共事業のために尽力した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
藻寄 鉄五郎(鐵五郎、もより てつごろう、1866年6月13… 藻寄 鉄五郎(鐵五郎、もより てつごろう、1866年6月13日(慶応2年5月1日)- 1935年(昭和10年)9月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 能登国珠洲郡北方村(石川県珠洲郡上戸村字北方を経て現珠洲市)で、医師・藻寄行蔵の五男として生まれた。父から医師となるべく学業の指導を受け、1885年(明治18年)上京して東京大学医学部に入学。20歳頃から星亨に私淑して政界を目ざし、医学部を退学して星の指導を受けた。 1891年(明治24年)に帰郷し上戸村助役に就任。同年7月、珠洲郡会議員に当選し2期在任。同年10月、石川県会議員に選出され2期在任した。1896年(明治29年)北陸新聞社社長に就任し1897年(明治30年)まで在任した。
石谷 伝四郎(石谷 傳四郎、いしたに でんしろう、1866年… 石谷 伝四郎(石谷 傳四郎、いしたに でんしろう、1866年6月12日(慶応2年4月29日)- 1923年(大正12年)12月19日)は、明治から大正期の実業家、政治家。鳥取県平民。鳥取県多額納税者。 因幡国智頭郡、のちの鳥取県智頭郡智頭村(八頭郡智頭村を経て現智頭町)に生まれる。石谷伝九郎の長男。石谷家は智頭四軒衆と呼ばれた素封家のひとつで、山林経営によって江戸時代の大庄屋から智頭の筆頭地主となった豪家。 慶應義塾を卒業し、家業を継いだ。町会議員、県会議員となって活躍した。 1898年(明治31年)には衆議院議員に初当選し、その後も2回再選された。1903年(明治36年)春、日本美術院長の岡倉天心が智頭町にある豊乗寺の国宝調査に訪れた際、国米泰石の技量の高さを岡倉天心に示したところ、国米泰石は岡倉天心に招かれて日本美術院に入ることとなった。
中村 四郎兵衛(なかむら しろうべえ、1866年6月11日(… 中村 四郎兵衛(なかむら しろうべえ、1866年6月11日(慶応2年4月28日) - 1930年(昭和5年)5月15日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 遠江国豊田郡、のちの静岡県豊田郡井通村(磐田郡井通村、豊田村、豊田町を経て現磐田市)に生まれる。浜松町会議員、同評議員、浜松市会議員、同参事会員、静岡県会議員、同議長を歴任したほか、浜松商業会議所議員、浜松瓦斯常務取締役、静岡県消防組連合会常議員を務めた。 1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では静岡県第2区から政友本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
神頭 勝弥(神頭 勝彌、こうず かつや、1866年6月10日… 神頭 勝弥(神頭 勝彌、こうず かつや、1866年6月10日(慶応2年4月27日) - 1941年(昭和16年)8月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従三位勲二等功三級。 信濃国水内郡檀田村(長野県長野市)に神頭三太夫の三男として生まれ、1910年(明治43年)分家する。1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。1899年(明治32年)陸軍大学校第13期卒業。 1912年(大正元年)9月に陸軍歩兵大佐・高知連隊区司令官、1913年(大正2年)8月に歩兵第28連隊長、1916年(大正5年)3月に第3師団参謀長、1917年(大正6年)5月に中支那派遣隊司令官を経て、同年8月に陸軍少将に進級。
浅野 斧山(あさの ふざん、1866年6月7日<慶応2年4月… 浅野 斧山(あさの ふざん、1866年6月7日<慶応2年4月24日> - 1912年6月1日)は、日本の僧侶、仏教学者。名古屋市天年寺第16世、曹洞宗大学林教授などを歴任。号は打睡庵。 名古屋南鍛冶屋町の浅野束穂の三男に生まれる。1879年、洗月院三世の天珠について得度。それ以来、白鳥鼎三、鷹林冷生に12年間にわたり随侍。1885年、法持寺の天珠の下で立身。1889年、天珠の室に入って嗣法。1891年、永平寺で転衣出世。1893年、天年寺に首先住職した。 1899年、曹洞宗大学林(現: 駒澤大学)卒業。内地留学生となり、京都・浄土宗専門学院長の大鹿感成に倶舎論、唯識、因明などを学ぶ。その後、東大寺戒壇院長老の上田照遍に華厳、天台の講義を受ける。
森 茂生(もり しげお、1865年6月18日(慶応元年5月2… 森 茂生(もり しげお、1865年6月18日(慶応元年5月25日)- 1929年(昭和4年)8月22日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、三重県桑名郡桑名町長。幼名・栄次郎。 伊勢国桑名郡矢田村(三重県桑名郡益生村大字矢田、桑名町を経て現桑名市矢田)で、森純次郎の二男として生まれる。慶應義塾で学んだ。1889年(明治22年)6月に家督を相続した。 政界では、益生村会議員、町村組合会議員、桑名郡会議員、同参事会員、同議長、三重県会議員(1890年-1902年)、同参事会員、同副議長、桑名町長などを務めた。1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(三重県郡部、中正倶楽部)で初当選。
尾見 浜五郎(おみ はまごろう、1865年6月18日(慶応元… 尾見 浜五郎(おみ はまごろう、1865年6月18日(慶応元年5月25日)- 1932年(昭和7年)1月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 常陸国真壁郡吉間村(茨城県真壁郡村田村、明野町を経て現筑西市)出身。尾見家は代々吉間外15郷の割元名主を務め、農業を営む。村田村会議員、同村長、真壁郡会議員、同郡農会長となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から無所属で立候補して当選した。1908年(明治41年)第10回総選挙と1912年(明治45年)第11回総選挙は不出馬。1915年(大正4年)第12回総選挙では立憲政友会公認で立候補したが落選。1917年(大正6年)第13回総選挙で再選。
小泉 又一(こいずみ またいち、慶応元年5月20日(1865… 小泉 又一(こいずみ またいち、慶応元年5月20日(1865年6月13日) - 大正5年(1916年)5月16日)は、日本の文部官僚・教育者。族籍は兵庫県士族。位階および勲等は正四位・勲四等。 兵庫県姫路市出身。姫路藩士で藩校の教官の小泉吉善と母ふさ(同藩士の白倉直記の三女。天保14年12月生)の長男として生まれる。弟に海軍少将の小泉武三がいる。姫路中学校を経て、1887年(明治20年)に東京高等師範学校を卒業。沖縄県尋常師範学校教諭、沖縄県学務課長心得、沖縄県尋常師範学校校長補、徳島尋常中学校教諭、福岡県尋常師範学校教諭、同教頭、同校長、和歌山県第一尋常中学校校長を歴任した。1899年(明治32年)、東京高等師範学校教授・同附属小学校主事に転じ、1905年(明治38年)からは同附属中学校主事も兼ねた。
宮崎 民蔵(みやざき たみぞう、慶応元年5月20日(1865… 宮崎 民蔵(みやざき たみぞう、慶応元年5月20日(1865年6月13日) - 昭和3年(1928年)8月15日)は、明治・大正期の社会運動家。号は巡耕。後に中華民国を建国することとなる孫文を支援した熊本県荒尾市の宮崎家の本家筋当主。 肥後国玉名郡荒尾村(現熊本県荒尾市)出身。兄の八郎、弟の弥蔵・寅蔵(滔天)とともに「民権兄弟」として知られる(特に民蔵・弥蔵・寅蔵を「宮崎三兄弟」と呼ぶこともある)。 宮崎政賢・左喜夫妻の六男に生まれるが、兄・八郎が西南戦争で戦死し、他の兄も既に没していたため、1880年(明治13年)に民蔵が16歳で宮崎家の当主となる。 八郎と同様に自由民権運動の影響を受けて上京し、中江兆民の仏学塾に入ったものの、病気のため帰郷する。
村上 鬼城(むらかみ きじょう、慶応元年5月17日〈1865… 村上 鬼城(むらかみ きじょう、慶応元年5月17日〈1865年6月10日〉 - 1938年〈昭和13年〉9月17日)は日本の俳人、司法代書人。本名は村上 荘太郎(むらかみ しょうたろう)。 明治義塾法律学校中退。正岡子規に書を送り、「ホトトギス」創刊後は俳句、写生文を投稿。飯田蛇笏らと並び、大正期前半の「ホトトギス」を支えた。貧窮の境涯に根ざした諦観を詠んだ句が多い。句集に『鬼城句集』(1917年)など。 鳥取藩士、小原平之進の長男として江戸小石川に生まれるが、8歳の時、群馬県高崎市に移り住み、11歳の時に母方の村上家の村上源兵衛の養子となり村上姓を名乗る。 明治17年(1884年)に東京へ行き、軍人を志したが耳疾のために断念し、明治法律学校(明治大学の前身)で法学を学びながら、司法代書人(司法書士の前身)となった。
斯波 与七郎(與七郎、しば よしちろう、1865年6月9日(… 斯波 与七郎(與七郎、しば よしちろう、1865年6月9日(慶応元年5月16日)- 1932年(昭和7年)5月8日)は、明治から昭和初期の大地主、農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 播磨国加東郡西村(兵庫県加東郡河合村大字西村を経て現小野市)で豪農、斯波家11代・斯波喜の長男として生まれた。父の死去に伴い1893年(明治26年)10月に家督を相続した。 1895年(明治28年)6月、加東郡所得税調査委員に就任。1896年(明治29年)2月、兵庫県会議員に選出され、同年8月、加東郡会議員に就任した。 1897年(明治30年)7月の貴族院多額納税者議員選挙で互選され、同年9月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
楠瀬 熊治(くすのせ くまじ、慶応元年5月15日(1865年… 楠瀬 熊治(くすのせ くまじ、慶応元年5月15日(1865年6月8日) - 昭和8年(1933年)6月17日)は、日本の海軍軍人、火薬学者。最終階級は海軍造兵中将従三位工学博士。東京帝国大学名誉教授。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)に沢村辰吾の三男として生まれ、楠瀬好静の養子となった。1891年(明治24年)に東京帝国大学工科大学火薬学科を卒業した後、フランスに留学した。1894年(明治27年)に帰国後、海軍少技士となった。1904年(明治37年)、造兵少監となり、翌年に造兵監督官としてイギリスに出張。1907年(明治40年)、造兵中監に昇進し、翌年に帰国。1911年(明治44年)、造兵大監となり、下瀬火薬製造所長、造兵廠火薬部長、海軍大学校教官などを務めた。
宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応… 宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応元年5月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉4月6日)は日本の寄生虫学者、衛生学者。九州帝国大学教授。 信濃国更級郡西寺尾村(現・長野市松代町西寺尾)に松代藩士祐筆の宮入敬長の三男として生まれる。1890年東京帝国大学医科大学を卒業。1895年第一高等学校教授。1900年、内務技師として日本薬局方調査会の幹事を務め、1902年、ドイツのフリードリヒ・レフラー教授の下へ留学する。 帰国後1904年に京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)衛生学の初代教授に就任し、翌年医学博士の学位を得る。1912年九州帝国大学医学部衛生学第一講座担任に就任。
富士川 游(ふじかわ ゆう、慶應元年5月11日〈1865年6… 富士川 游(ふじかわ ゆう、慶應元年5月11日〈1865年6月4日〉 - 昭和15年〈1940年〉11月6日)は、日本の医学者・医学史家。旧姓は藤川、幼名は充人。安芸国沼田郡長楽寺村(後に安佐郡に編入、現:広島県広島市安佐南区長楽寺)出身。 医師・藤川雪の子に生まれる。雪は医師であるとともに和歌・漢詩にも優れ、1872年の壬申戸籍作成時に「藤川」を佳字である「富士川」と改名している。 1879年、藩校浅野学校(現:修道中学校・高等学校)から広島県立中学(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に転学を経て1887年、広島医学校(現:広島大学医学部)卒業。同級に尼子四郎らがいた。上京し明治生命保険の保険医となる。
中山 南加(なかやま なか、慶応元年5月10日(1865年6… 中山 南加(なかやま なか、慶応元年5月10日(1865年6月3日) - 昭和25年(1950年)3月)は、幕末から昭和時代前期にかけての華族女性。結婚後は嵯峨 南加。名前は仲子とも。中山忠光の娘。母は恩地トミ。嵯峨公勝の妻。 父・忠光の同母姉・慶子は明治天皇の生母であり、南加は明治天皇の従妹にあたる。 父・忠光が暗殺された半年後の慶応元年(1865年)5月10日(もしくは11日)、長府城下(下関市長府)の江尻半右衛門邸で生まれる。長州藩内の対立に巻き込まれ、身の危険があった母娘は住居を転々とする逃亡生活を送る。 毛利氏は支藩の長府藩が明治天皇の叔父となる忠光を殺害した事を憂慮し、遺児である南加を探し出した。
二宮 熊次郎(にのみや くまじろう、1865年6月3日(慶應… 二宮 熊次郎(にのみや くまじろう、1865年6月3日(慶應元年5月10日)- 1916年(大正5年)12月17日)は、明治時代から大正時代にかけて活動した日本の新聞記者である。「孤松」「震堂」「画美人楼主人」といった号を用いた。 現在の愛媛県宇和島市に生まれる。父は宇和島藩士だった。宇和島に設置された「南予変則中学校」に学んだ。 15歳の時、藩校明倫館の助教となる。1883年(明治16年)に朝野新聞に入社。 1888年(明治21年)から1892年(明治25年)までドイツへ留学する。帰国後に山縣有朋の支援で内務省嘱託となり、日清戦争時には戦地で山縣の秘書も務めた。 内藤鳴雪の勧めで俳諧に進み、「孤松」は俳号として使用したものである。
石井 泰助(いしい たいすけ、1865年6月3日(慶応元年5… 石井 泰助(いしい たいすけ、1865年6月3日(慶応元年5月10日) - 1931年(昭和6年)7月11日)は、明治から大正時代の政治家。神奈川県橘樹郡川崎町長、川崎市長。神奈川県多額納税者。 先代の材木商・石井泰助の長男として神奈川県橘樹郡川崎町(現・川崎市川崎区)にて生まれ、1891年(明治24年)8月、家督を相続し、幼名「泰次郎」を改め「泰助」を名乗る。石井家は、代々「吹田屋」を号し材木商を営んだ地元の名士。吹田屋は、1876年(明治9年)に石井材木店と改称し、さらに同年、石井合名会社となる。 川崎町会議員、川崎町助役を経て、川崎町長を3期務める。1901年(明治34年)橘樹郡会議員に当選。
杉田 盛(すぎた さかり、元治元年5月27日(1864年6月… 杉田 盛(すぎた さかり、元治元年5月27日(1864年6月30日) - 1934年(昭和9年)3月6日)は、戦前日本の開業医。幼少期を沼津で過ごし、上京して医学を修め、神戸・丹後・隠岐島・盛岡で病院院長を歴任し、横浜、大森に医院を構えた。号は東江・峯州医生・梅所・槑翁。杉田玄白4世孫。 元治元年(1864年)5月27日江戸浜町山伏井戸に杉田玄端の五男として生まれた。幼名は鶴五郎。明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い、両親・兄杉田武と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移った。明治2年(1869年)沼津で親戚杉田廉卿が病没すると、祖父の命でその跡を継いだ。 父に『三字経』『大統歌』『大学』『孝経』『論語』で漢学、『ウイルソン・リーダー』『ミッチェル(ロシア語版)地理書』で英学、母に習字を学んだ。
榊田清兵衛(さかきだ せいべえ、元治元年5月26日(1864… 榊田清兵衛(さかきだ せいべえ、元治元年5月26日(1864年6月29日) - 昭和4年(1929年)10月10日)は、明治時代から昭和時代の政治家。仙北郡会議員、秋田県会議員を経て元衆議院議員(当選7回)。地方問題の解決と床次竹二郎内閣実現のために奔走した。 出羽国仙北郡大曲村(現秋田県大仙市大曲地区)に大地主・四世榊田清兵衛(長蔵)と由利町出身のさだの長男として誕生。幼名は清蔵。女ばかりの後の待望の男子となる。1874年(明治7年)に大曲小学校に入学後、まもなく父長蔵が亡くなり、家督相続し、家名の清兵衛をついだ。わんぱく少年だったが学問を好み、神沢繁(素堂)、黒沢利吉、高垣重明、岡田好成らに師事し、自宅向かいに講習義塾を設立した。
井上 仁郎(いのうえ にろう、1864年6月27日(元治元年… 井上 仁郎(いのうえ にろう、1864年6月27日(元治元年5月24日) - 1920年(大正9年)1月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 伊予国喜多郡新谷(現・愛媛県大洲市)の新谷藩士の家に生まれる。小学校時代の友人に井上要(のちの実業家、衆議院議員)がいた。陸軍士官学校(旧7期)に入り、1885年(明治18年)6月、陸軍工兵少尉任官。同期には宇都宮太郎・島川文八郎両大将や柴勝三郎中将らがいた。1887年(明治20年)に陸士を卒業。軍用鉄道研究のためドイツに派遣された。 日清戦争時には寺内正毅少将の副官を務めた。1904年(明治37年)3月、鉄道大隊長に就任し、日露戦争では大本営臨時軍用鉄道監督部長となった。
稲本 陽州(いなもと ようしゅう、本名:稲本治太郎、1864… 稲本 陽州(いなもと ようしゅう、本名:稲本治太郎、1864年(元治元年)6月25日 - 1947年(昭和23年)9月20日)は、教育者であり詩文作家である。特に漢文詩の世界では、関西に稲本陽洲ありと評判であった。現在の岡山県井原市出身。 1864年(元治元年)備中国後月郡山野上村(現在の岡山県井原市)の稲本重五郎の長男として生れる。幼い頃から岡山県議会議員の三村政太郎に漢学を学ぶ。地元の精徳尋常小学校を卒業し、教師証明書を受け15歳で精徳小学校の助教となった。1882年(明治15年)、19歳で岡山県小田郡星田小学校長となる。1886年(明治19年)には、日本の詩文作家における青年大家に挙げられ、全国でも名が知られていた。
高木 顕明(たかぎ けんみょう、1864年6月24日(元治元… 高木 顕明(たかぎ けんみょう、1864年6月24日(元治元年5月21日) - 1914年(大正3年)6月24日)は、真宗大谷派の僧侶。幸徳事件(大逆事件)の被告の一人である。 尾張国西春日井郡下小田井村(現・愛知県清須市)生まれ。尾張小教校(のちの旧制尾張中学、現在の名古屋大谷高等学校)修了。和歌山県新宮市浄泉寺12代住職。旧姓は山田、幼名は妻二郎。 日露戦争では日本でも数少ない非戦論者の一人であり、公娼制度にも反対し、次第に社会主義に接近していった。 1910年(明治43年)、幸徳秋水の談話会を浄泉寺で開催したことから幸徳事件(大逆事件)の関与を疑われ逮捕される。当初、死刑判決に処されたが、後に無期懲役に減刑された。
樋戸 次右衛門(ひわたし じうえもん、1864年6月22日(… 樋戸 次右衛門(ひわたし じうえもん、1864年6月22日(元治元年5月19日) - 1934年(昭和9年)10月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。後の揖宿郡頴娃町(現南九州市)生まれ。攻玉社、三田英学塾で学び、アメリカへ留学する。小学校教員、英語教師となり、頴娃村会議員、同助役、同学務委員、同農会長、鹿児島県会議員、同参事員を務める。また、農業を営み、鹿児島県茶葉組合連合会議所会頭、福徳生命保険(株)鹿児島出張所長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において鹿児島3区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党から立候補したが落選した。
粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(186… 粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(1864年6月21日) - 昭和11年(1936年)8月23日)は、日本の教育者。 陸奥国一関(現在の岩手県一関市)出身。新潟英語学校、新潟中学校を経て、文検に合格し1886年(明治19年)に中学師範各学校英語科教員免許状を受け、東京府中学校一等助教諭となった。翌年から第一高等中学校英語教員嘱託、1889年(明治22年)から第一高等学校教諭、1890年(明治23年)から第一高等学校教授を歴任した。東京時代の教え子に、夏目漱石、若槻禮次郎、本多光太郎らがいる。1892年(明治25年)、仙台の第二高等学校教授に転じ、土井晩翠、作家高山樗牛らを教導。
西川 太治郎(にしかわ たいじろう、元治元年5月17日(18… 西川 太治郎(にしかわ たいじろう、元治元年5月17日(1864年6月20日) - 昭和17年(1942年)6月15日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、大津市長。 近江国浅井郡南浜村(現在の滋賀県長浜市)出身。同人社で学んだ後、1888年(明治21年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業した。卒業後、山梨日日新聞の記者となり、3年後に近江新報に主筆として招かれ、1896年(明治29年)には社長に就任した。その一方で、前田正名の地方産業振興運動に加わって全国を奔走。さらに農商務省の嘱託として、1898年(明治31年)に清の商工業を視察、1903年(明治36年)には北清やシベリアでの日本製品販売の調査を行った。
大石 熊吉(おおいし くまきち、元治元年5月13日(1864… 大石 熊吉(おおいし くまきち、元治元年5月13日(1864年6月16日) - 昭和20年(1945年)5月11日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。 佐賀藩士大石良英の二男として生まれる。藩校弘道館で学ぶが、東京に出て神田共立学校、大学予備門で学んだ。その後大隈重信の知遇を得、1884年(明治17年)に大隈の勧めでアメリカ合衆国のラトガース大学に留学した。ラトガーズ大学で学位を得た後、1889年(明治22年)にニューヨーク大学に入り、1892年(明治25年)に哲学博士号を得た。 帰国後は『報知新聞』記者や東京専門学校(現在の早稲田大学)講師を務めた。1897年(明治30年)、大隈が農商務大臣に就任するとその秘書官となり、翌年に大隈が内閣総理大臣に就任にすると秘書官となった。
佐竹 音次郎(さたけ おとじろう、1864年6月13日〈元治… 佐竹 音次郎(さたけ おとじろう、1864年6月13日〈元治元年5月10日〉 - 1940年〈昭和15年〉8月16日)は、明治・大正・昭和時代に日本・中国(当時の関東州を含む)・朝鮮・台湾で、主に児童の養育・救援に尽力した、日本の社会福祉活動家。藍綬褒章受章者。 1864年、土佐国幡多郡下田竹島(現在の高知県四万十市竹島)に、父宮村源左衛門、母佐雄の4男として生まれる。7歳のときに親戚の佐竹家に養子にやられたので名字は佐竹となるが、13歳のときに養父母の離婚により生家に戻って育つ。 1881年に村の小学校の助手となり、1886年に東京府下巣鴨尋常小学校長に就任するも1年後には校長を辞し、神田の明治法律学校(明治大学の前身)を経て、1890年に本郷湯島の医学専門学校済生学舎(日本医科大学の前身)に学んだ。
伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年… 伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年5月9日) - 1929年(昭和4年)5月14日)は鳥取県出身の医師。因幡病院(現:鳥取県立中央病院)初代院長。京都帝国大学名誉教授。 京都帝国大学医科大学外科学第二講座初代教授、京大付属病院長などを歴任した。特に外科医術を発展させ、数千の門下を育て、日本の医学に多大な貢献をする。さらに鳥取県の医療に多大な貢献をする。 伊藤隼三は、1864年に因幡国邑美郡御弓町(現:鳥取市御弓町)の鳥取藩士小林辰蔵の三男として生まれた。「鳥取藩史」第二巻に「御武器預并製造掛 小林辰三」と出てくるのが父である。1874年鳥取変則中学(鳥取県立鳥取西高等学校の前身)に遊学し頭脳明晰で、この頃から伊藤健蔵に認められ援助を受け、1878年中学4年生(15歳)で、東京大学予備門に入学するほどの秀才であった。
後藤 快五郎(ごとう かいごろう、元治元年5月9日(1864… 後藤 快五郎(ごとう かいごろう、元治元年5月9日(1864年6月12日) - 昭和2年(1927年)1月11日)は、日本の実業家、政治家。町会議員、郡会議員、県会議員。旧姓小林。山陰鉄道敷設最大の功労者である。 出雲国能義郡布部村宇波(現・島根県安来市)出身。広瀬の山村塾・県立松江中に学び、小学校教師を勤めた。 明治20年(1887年)鳥取・米子の名門商家後藤家の養子となる。養子のため当主が代々襲名する市右衛門を名乗ることはなかった。当時後藤家の経済はやや苦しかったが、為替倉庫業・質業などで次第に業績をあげた。刻煙草製造業も経営していたが、煙草専売法施行後、松江との競争に勝って岡山専売局の出張所誘致に成功し、その働きによって山陰の煙草元売捌権を得た。
降旗 元太郎(ふるはた もとたろう、元治元年5月7日(186… 降旗 元太郎(ふるはた もとたろう、元治元年5月7日(1864年6月10日) - 昭和6年(1931年)9月15日)は、日本の衆議院議員(憲政党→憲政本党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)。 信濃国筑摩郡本郷村(現在の長野県松本市)出身。郷里で漢学を学んだ後、慶應義塾に入学した。1882年、東京専門学校(現在の早稲田大学)に転入学し、1885年に同校邦語政治科を卒業した。卒業後は帰郷し、1886年に信陽日報(のち信濃日報)の社長となった。さらに本郷蚕種業組合組長・信濃蚕業伝習所長などの役職を歴任して、養蚕業の発展に貢献した。その他、出獄人保護院も設立している。 1888年、長野県会議員に選出され、1891年には信濃民党を組織した。
富安 保太郎(とみやす やすたろう、1864年6月9日(元治… 富安 保太郎(とみやす やすたろう、1864年6月9日(元治元年5月6日)- 1931年(昭和6年)10月26日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 筑後国山門郡吉開村(現・福岡県柳川市三橋町吉開)で、柳河藩士・富安昌太郎の長男として生まれる。東京法学院を卒業。 博多商業会議所特別議員、福岡県教育会副会長、瀬高銀行頭取、九州製油社長、博多築港社長、博多電気軌道取締役、九州電気軌道取締役、日本毛織取締役、九州土地信託取締役、九州林業取締役、日本電報通信社取締役、福岡日日新聞社社長(昭和3年8月25日~4年11月22日)などを務めた。 政界では、福岡県会議員、同参事会員、同副議長、同議長を歴任。
山田 鬼斎(やまだ きさい、1864年6月9日(元治元年5月… 山田 鬼斎(やまだ きさい、1864年6月9日(元治元年5月6日) - 1901年(明治34年)2月20日)は、日本の彫刻家である。鬼斎は号で本名は常吉。 越前の坂井郡(現在の福井県坂井市)に生まれる。実父は仏師であった事より、幼少の頃から彫刻を学んだ。明治維新後の1886年(明治19年)に同郷であった岡倉天心に同行して上京し、その後は天心と共に奈良にて寺院や神社に祀られている古仏の研究や宝物の調査に携わる。 後に高村光雲の助手となり、1890年(明治23年)には東京美術学校(現在の東京芸術大学)に雇われ1896年(明治29年)には同校の教授となり、彫刻の教鞭を執る。この頃に『平治物語』等、日本の歴史的な出来事をテーマにした同国の伝統彫刻の技を用いた西洋風の彫刻作品を制作し、1893年(明治26年)に開催されたシカゴ万国博覧会では鬼斎の作品が出品された。
岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年… 岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年5月4日〉- 1934年〈昭和9年〉3月23日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の文部官僚、政治家。号は恭堂。 旧制山口高等学校(山口大学の前身の一つ)校長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、文部次官・大臣、東洋大学学長、大日本報徳社社長、産業組合中央会会頭、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 遠江国佐野郡倉真村(現:掛川市)出身。東京府第一中学では、澤柳政太郎、狩野亨吉、松崎蔵之助、幸田露伴などが同期に当たる。大学予備門を経て、1887年(明治20年)7月、帝国大学文科大学哲学科(のちの東大文学部)卒業、大学院へ。 第二高等中学校教授を経て、1893年(明治26年)に文部省視学官。
高橋 義信(たかはし よしのぶ、1864年6月4日(元治元年… 高橋 義信(たかはし よしのぶ、1864年6月4日(元治元年5月1日) - 1929年(昭和4年)12月23日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員。 高橋敬吾の弟として、美濃国安八郡、のちの岐阜県安八郡川並村(現大垣市)に生まれる。1902年(明治35年)10月、分家する。漢学を修めた。また、日清戦争に従軍した。 上京し、下谷区会議員、同議長、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員を務めた。ほか、揖斐川電力監査役となった。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から選出された大熊三之助の刑確定に伴い実施された補欠選挙に出馬して当選。つづく第11回総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選した。
森本 清蔵(もりもと せいぞう、元治元年4月28日(1864… 森本 清蔵(もりもと せいぞう、元治元年4月28日(1864年6月2日) - 昭和8年(1933年)1月12日)は、日本の教育者。 兵庫県出身。1885年(明治18年)、神戸師範学校を卒業し、ついで1889年(明治22年)に東京高等師範学校を卒業した。愛知県師範学校教諭、同校長、徳島県師範学校教諭、福岡県師範学校校長、東京高等師範学校教授、大阪府師範学校校長を歴任。1904年(明治37年)、大阪府視学官に任じられた。1906年(明治39年)、文部省視学官となり、さらに奉天省教育顧問として清に招聘された。1908年(明治41年)に帰国後は愛知県の明倫中学校校長を務めた。その後、宮崎県立宮崎中学校校長に就任した。
唐辛 多喜弥(とうがらし たきや、1864年6月2日 - 1… 唐辛 多喜弥(とうがらし たきや、1864年6月2日 - 1944年6月27日)は、福岡県行橋市出身で雷部屋に所属した大相撲力士。本名は奥村 多喜弥(旧姓:宮原)。最高位は西前頭11枚目(1896年1月場所)。現役時代の体格は164cm、81kg。 唐辛という非常に珍しい四股名の持ち主だが、これは「小粒でもピリリと辛い」という意味が込められていたという。名付け親は彼を贔屓にしていた伊藤博文とも、黒田清隆とも伝わる。 当初は大坂相撲で取っていたが上京し、15代横綱梅ヶ谷に入門、1883年(明治16年)1月場所序二段付出で東京相撲の初土俵を踏んだ。十両には1889年(明治22年)1月場所に昇進、入幕は1894年(明治27年)5月場所のことだった。