白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年(明治44年)7… 白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年(明治44年)7月15日 - 1982年(昭和57年)10月23日)は、日本の実業家。 日本高周波鋼業元取締役会長。神戸製鋼所元常務取締役。日本発条・尼崎製釘所(現・アマテイ)元各取締役。鋼材倶楽部・日本鉄鋼輸出組合(現・日本鉄鋼連盟)各元理事。 福島県会津若松市出身。衆議院議員を務めた白井新太郎の四男として生まれる。 祖父の白井五郎太夫は林安定とともに藩大砲隊頭を務め、鳥羽・伏見の戦いで討死した。なお父・新太郎の先妻は盛岡藩家老のち外交官の南部次郎(東政図)の次女・恵子、後妻は湯長谷藩の藩主家当主内藤政潔の叔母・董子である。また、兄(父・新太郎の養子)の白井龍一郎は加波山鉄道社長などを務めた実業家であり、龍一郎の妻は子爵山内豊健の姉で、幕末の土佐藩主山内容堂の孫にあたる。
重信 常喜(しげのぶ つねき、1911年7月15日 - 20… 重信 常喜(しげのぶ つねき、1911年7月15日 - 2006年4月16日)は、日本のフランス文学者、詩人。 東京生まれ。1935年東京帝国大学文学部仏文科卒、千葉大学講師、助教授、教授、1975年定年退官、名誉教授、日本大学法学部教授、1982年定年。没後、従四位。
金 善太(キム・ソンテ、朝鮮語: 김선태、1911年7月15… 金 善太(キム・ソンテ、朝鮮語: 김선태、1911年7月15日または8月2日または8月8日 - 1978年11月29日または12月29日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の法曹、政治家、大学教員。第3・4・5代韓国国会議員。 本貫は金陵金氏(朝鮮語版)。別名は逸松、日本名は金澤善太。 全羅南道莞島郡郡外面生まれ、本籍地は忠清南道公州郡。1927年に莞島郡外普通学校を卒業、中学2年生の時にこっそりと海南郡で家の牛を売り、そのお金でソウルに上京した。中東中学校、儆新学校、京城法政学校を経て1936年に日本大学専門部法科に編入、1939年3月に卒業した。同年に高等文官試験司法科に合格した後、光復までは全州・清州・清津で地方法院の判事を務めた。
羽田野 伯猷(はたの はくゆう、1911年7月13日 - 1… 羽田野 伯猷(はたの はくゆう、1911年7月13日 - 1985年1月9日)は、日本の仏教史学者。東北大学名誉教授。日本学士院賞受賞。 愛知県三河国出身。1933年第四高等学校卒業。1936年東北帝国大学法文学部卒業、文学士。1939年大日本帝国陸軍歩兵少尉。1941年大日本帝国陸軍中尉。大日本帝国陸軍大尉として満州で従軍したのち、1944年東北帝国大学着任。1951年東北大学助教授。1955年日本学士院賞受賞。1959年から東北大学教授を務め印度学第二講座を担当した。1960年東北大学文学博士。1975年退官。勲三等旭日中綬章。指導学生に磯田熙文東北大学名誉教授など。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
須藤 俊男(すどう としお、1911年(明治44年)7月12… 須藤 俊男(すどう としお、1911年(明治44年)7月12日 - 2000年(平成12年)4月12日)は、日本の鉱物学者・地球科学者。専門は粘土鉱物学。理学博士。位階は正四位。 1911年、新潟県生まれ。東京帝国大学理学部鉱物学科を卒業した。卒業後は、母校の東京帝国大学講師、助教授を経て、1948年より東京教育大学理学部教授となった。1975年に定年退官し、名誉教授となった。2000年死去。死没日付をもって従七位から正四位に進階した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
田中 睦夫(たなか むつお、1911年(明治44年)7月10… 田中 睦夫(たなか むつお、1911年(明治44年)7月10日 - 1978年(昭和53年)7月22日)は、日本の英文学者。和洋女子大学教授。専門はイギリス小説で、日本におけるサマセット・モーム研究の第一人者だった。 鹿児島県谷山村(現・鹿児島市)上福元出身。1918年(大正7年)谷山男子尋常小学校入学。1924年(大正13年)鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制、現鹿児島県立甲南高等学校)入学、1929年(昭和4年)卒業。1930年(昭和5年)青山学院英語師範科入学。同科卒業。1934年(昭和9年)私立福山中学校(旧制、現鹿児島県立福山高等学校)教諭、1939年(昭和14年)東京府立第七中学校(旧制、現東京都立墨田川高等学校)教諭、1946年(昭和21年)東京都立第三中学校(旧制、現東京都立両国高等学校・附属中学校)教諭。
佐々木 定道(ささき さだみち、1911年7月10日 - 2… 佐々木 定道(ささき さだみち、1911年7月10日 - 2006年3月26日)は、日本の経営者。富士重工業社長を務めた。鳥取県出身。 1937年に京都帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に日産自動車に入社。 1960年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1973年11月に副社長に就任。1978年10月に富士重工業社長に就任し、1985年6月に会長を経て、1987年6月から相談役を務めた。 1975年11月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2006年3月26日肺炎のために死去。94歳没。
佐藤 良邦(さとう よしくに、1911年7月10日 - 19… 佐藤 良邦(さとう よしくに、1911年7月10日 - 1991年9月21日)は、日本の実業家。東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の社長を務めた。 東京都出身。佐藤信四郎の二男。1936年、早稲田大学文学部を卒業。日本経済新聞社の前身である中外商業新報に入社し、整理部、社会部、工業部各記者、通信、社会各部長、大阪支社編集長、編集局次長、総務部長、工務局長を経て、1959年2月に取締役に就任し、1965年4月には常務大阪本社代表に就任した。1972年3月に退任し、同年4月に東京12チャンネル副本部長、1973年4月に本部長を経て、株式会社に改組したのち同年11月から1975年10月まで社長を務めた。
吉田 五郎(よしだ ごろう、1911年7月9日 - 1994… 吉田 五郎(よしだ ごろう、1911年7月9日 - 1994年3月8日)は、日本の法学者。専門は民法。第8代目八幡大学(現・九州国際大学)学長。 1911年、関東州大連生まれ。兵庫県出身の実父は幼少時に漢学を学んだ後に満州に渡った人物で、豪商として財を成していた。旧制大連一中より旧制山口高等学校に入学。1931年(昭和6年)、京都帝国大学法学部に入学。末川博教授の薫陶を受け民法・労働法を学んだ。1933年に京都帝国大学で滝川事件が起こった際には、時の文部大臣鳩山一郎に面会を強要し上京。強烈な抗議文をつきつけた法学部数名の中に吉田五郎の名があった。この抗議文は当時の新聞にも掲載された。1934年、京都帝国大学法学部を卒業。
由利 聖子(ゆり せいこ、1911年7月8日 - 1943年… 由利 聖子(ゆり せいこ、1911年7月8日 - 1943年2月)は、日本の児童文学作家。本名、鈴木 富美子。 1929年(昭和4年)、東京府立第三高等女学校卒業。第三高女在学中から少女向け雑誌「少女の友」に投稿する。1932年(昭和7年)頃から同誌に短編を発表。また、ミス・マミコのペンネームで「少女画報」誌に作品を発表。 「少女の友」の姉妹誌「新女苑」では丘 文子のペンネームを使用した。 『モダン小公女』……「少女画報」1934年1月~12月連載 新泉社 1935年 戦後版は偕成社1948年 『チビ君物語』……「少女の友」 1934年12月~ 1936年12月連載。単発あり。 実業之日本社 正編1939年 続編1941年 戦後版は東和社1948年 続編は『小さいお母さん』と改称。
藤田 五郎(ふじた ごろう、1911年7月8日 - 1997… 藤田 五郎(ふじた ごろう、1911年7月8日 - 1997年1月31日)は、日本のドイツ語学者、東京外国語大学名誉教授。 東京都生まれ。1931年武蔵高等学校卒業、東京帝国大学法学部入学、1935年同文学部独文科卒業、大学院進学、副手、1936年武蔵高校教授、1938年広島高等学校教授、1942年東京外国語学校教授、東京外国語大学助教授、1956年教授、1973年定年退官、麗澤大学教授、1982年退職。
三谷 栄一(みたに えいいち、1911年7月8日 - 200… 三谷 栄一(みたに えいいち、1911年7月8日 - 2007年8月29日)は、日本の国文学者(中古文学)。学位は、文学博士(國學院大學・論文博士・1961年)。子息は日本文学者の三谷邦明。 1935年、國學院大學国文科卒業、1944年、青森師範学校教授、1949年、弘前大学教授、1950年、山梨県立図書館長、1953年、実践女子大学教授。1961年、「民族文学の成立に関する基盤的研究」で國學院大學より文学博士号取得、1987年、実践女子大を定年退職、名誉教授。2003年、勲三等瑞宝章受章。 平安朝の物語文学を中心として研究。特に狭衣物語についての業績がある。
山本 達雄(やまもと たつお、1911年7月7日 - 199… 山本 達雄(やまもと たつお、1911年7月7日 - 1999年12月6日)は、日本の経営者。札幌テレビ放送社長、会長を務めた。福島県出身。 1930年に関東商業学校を卒業。北海道炭礦汽船での勤務を経て、1965年に取締役に就任。1968年に札幌テレビ放送専務に就任し、1971年5月に副社長を経て、1973年5月に社長に就任。1988年4月に社長の座を伊坂重孝に譲り、自らは会長に就任。 1986年11月に勲三等旭日中綬章を受章 1999年12月6日肺炎のため札幌市の病院で死去。88歳没。
久米 愛(くめ あい、1911年〈明治44年〉7月7日 - … 久米 愛(くめ あい、1911年〈明治44年〉7月7日 - 1976年〈昭和51年〉7月14日)は、日本初の女性弁護士の一人。日本の女性運動において指導的な役割を果した。旧姓・藤原。慶應義塾大学法学部教授の藤原守胤は実兄。 1911年、大阪府にて出生。夕陽丘高等女学校[要出典]、津田英学塾(現・津田塾大学)、明治大学専門部女子部を経て、1936年に明治大学法学部に入学。大学2年の時に結婚し、久米姓となる。 1938年に高等文官試験司法科試験に合格し、中田正子、三淵嘉子と共に日本初の女性弁護士となる。 1946年、明治大学短期大学教授に就任し、1966年まで務める。 1950年、GHQの招待によりアメリカへ視察旅行する。
橋岡 俊平(はしおか しゅんぺい、改姓名・岡本曠三(おかもと… 橋岡 俊平(はしおか しゅんぺい、改姓名・岡本曠三(おかもと こうぞう)、1911年7月7日 - 1978年8月7日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ベルリンオリンピックバンタム級日本代表。法政大学卒業。大阪府大阪市出身。 1936年、全日本選手権にバンタム級で優勝を収めた。 同年、ベルリンオリンピックにバンタム級の日本代表として出場し、1回戦にポイント勝ちを収め、2回戦でポイント負けとなった。 日本アマチュアボクシング連盟副会長、関西、近畿、大阪府各アマチュアボクシング連盟各会長を務めた。 1978年8月7日、急性肺炎と腎不全のため67歳で死去した。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。
三輪 福松(みわ ふくまつ、1911年7月6日 - 1998… 三輪 福松(みわ ふくまつ、1911年7月6日 - 1998年10月10日)は、日本の西洋美術史学者。 静岡県生まれ。旧制静岡県立榛原中学校、旧制第二高等学校を経て、1938年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。同大学附属図書館、同大学医学部図書室を経て、1949年東京大学助教授となる。1953年からイタリア政府給費留学生としてフィレンツェ大学文学部に学ぶ。1959年多摩美術大学教授、1963年慶應義塾大学講師、1972年東京学芸大学教授、1975年弘前大学教授、1980年群馬県立女子大学教授。1985年から1989年まで清春白樺美術館館長を務めた。
野口 冨士男(のぐち ふじお、1911年7月4日 - 199… 野口 冨士男(のぐち ふじお、1911年7月4日 - 1993年11月22日)は、日本の小説家。戸籍名は平井冨士男。日本文芸家協会理事長。 東京市麹町区生まれ。1913年に両親が離婚。慶應義塾幼稚舎では同級生に岡本太郎、藤山一郎がいた。慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学文学部予科に進むが留年、1930年に文化学院文学部へ転校する。1933年、文化学院卒業。 卒業後は紀伊国屋出版部で『行動』の編集に当たった。1935年、紀伊国屋出版部の倒産にともなって、都新聞社に入社。昭和10年代、『あらくれ』『現代文学』などの同人雑誌に執筆する。1936年から1937年まで河出書房に勤務。1938年、母方の籍に入って平井姓となる。
近衛 敏明(このえ としあき、1911年7月3日 - 没年不… 近衛 敏明(このえ としあき、1911年7月3日 - 没年不明)は、日本の俳優。北海道岩見沢市出身。本名は柿崎 敏一、旧芸名は近江敏明。趣味は音楽鑑賞。 早稲田大学経済学部卒業。 1934年、松竹蒲田撮影所に入り、同年の『会社員閣下』で主演する。誠実な青年役で注目を集めた。また、松竹の看板スターだったが、1935年に松竹を退社した藤井貢が主演していた『若旦那』シリーズに藤井の跡を継いで主演した。1930年代半ばから清水宏監督などのメロドラマで主役を演じたが、次第に脇役に回っていった。本人も「脇役のほうに持ち味があると自他ともに認めた」と語っている。1937年頃に上原謙、夏川大二郎、徳大寺伸と第八芸術(=映画)にちなんだ研究会「8クラブ」を結成し、毎月、演劇や音楽関係の有識者を呼んで、講演会を開いていた。
林 学洙(イム・ハクス、朝鮮語: 임학수、1911年7月3日… 林 学洙(イム・ハクス、朝鮮語: 임학수、1911年7月3日 - 1982年6月21日)は、日本統治時代の朝鮮及び朝鮮民主主義人民共和国の詩人。 号は岳伊(アギ、악이)。本籍は全羅南道順天市金谷洞。本名は林 岳伊(イム・アギ、임악이)。ただし、系図には林 栄沢(イム・ヨンテク、임영택/林榮澤)と記載されており、そのほか別名は林 乃洪(イム・ネホン)である。 全羅南道順天市出身。京城第一高等普通学校(現・京畿高等学校)を経て京城帝国大学英文科卒業。 以後、培花女子高等学校などで教員を務めながら詩作。ホメーロスの『イーリアス』を韓国に初めて紹介するなど、翻訳文学者としても活動した。また、朝鮮文人協会の発起人と幹事を務め、戦線への慰問に参加した。
半田義之(はんだ よしゆき、1911年7月2日 - 1970… 半田義之(はんだ よしゆき、1911年7月2日 - 1970年8月1日)は、日本の小説家である。神奈川県横浜市保土ヶ谷出身。 旧制前橋中学(現群馬県立前橋高等学校)中退後、国鉄の職員として働く傍ら、同人誌に創作を発表する。「文藝首都」の1939年6月号に掲載した「鶏騒動」で第9回芥川龍之介賞を受賞した。受賞後は国鉄を退職し、菊池寛が編集長だった「日本映画」の記者となる。 戦後は日本共産党に入党。国鉄の労働運動に参加し、日本共産党系の『民主文学』などに小説を発表したが、1970年に59歳で自殺した。
位野木 益雄(いのき ますお、1911年 <明治44年> 7… 位野木 益雄(いのき ますお、1911年 <明治44年> 7月2日 - 2000年 <平成12年> 2月15日)は、日本の裁判官、弁護士。 専門は、民事。主に行政事件を担当。元福岡高等裁判所長官。位階は正三位。 香川県三豊郡観音寺町(現 観音寺市観音寺町)出身。旧制香川県立三豊中学校、 旧制松山高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科卒業。 1935年(昭和10年)東京帝国大学卒業。司法官試補を経て、1936年(昭和11年)判事任官。1937年(昭和12年)京都地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事、1942年(昭和15年)東京民事地方裁判所判事を務める。 東京民事地方裁判所判事時に「労音入場税問題」では、入場税を支払えと全国に先駆けて判決したことで知られている。
鳥居 久靖(とりい ひさやす、戸籍名 鶴美、1911年7月1… 鳥居 久靖(とりい ひさやす、戸籍名 鶴美、1911年7月1日 - 1973年7月1日)は、日本の中国語学者・中国文学者。元天理大学教授。 愛知県八名郡石巻村(現豊橋市嵩山町)の農家の二男として生まれる。1927年、県から学資補助を受けながら愛知県岡崎師範学校(現愛知教育大学)本科一部に進学。1932年、豊橋市内の学校に奉職するも、1935年、県に頼んで南満洲鉄道株式会社奉天教育研究所に出向。ここで中国語と出会い、中国語を専攻する。1939年に一時帰国し、結婚。1940年、新京(現長春市)の新京商業学校で教鞭を執る。1942年、帰国して天理外国語学校(現天理大学)教授となる。そのかたわら、立命館大学法学部に在籍し、1944年に卒業した。
鏡川 四郎(かがみかわ しろう、1911年7月1日 - 没年… 鏡川 四郎(かがみかわ しろう、1911年7月1日 - 没年不明)は、高知県香美郡野市町(現香美市)出身で、二子山部屋に所属した元大相撲力士。本名は西山 四郎。最高位は十両12枚目。 同郷の元前頭の土州山役太郎の二子山部屋に入門。1928年10月に初土俵を踏む。1941年1月十両に昇進。十両は3場所つとめたが、いずれも大負けして勝ち越すことができなかった。1945年11月で廃業した。
小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1… 小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1976年11月25日)は、日本の戦前期に活動した流行歌歌手・声楽家である。北海道小樽市出身。別名、金色仮面・小林伸江。 東京府立第七高等女学校(現・東京都立小松川高等学校)卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に入学。卒業後、新宿ムウランルウジュで初舞台を踏む。 その後、松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団、水の江滝子やオリエ津阪の相手役を務め、1936年に退団するまで、「タンゴローザ」「ウィンナワルツ」「蝶々夫人の幻想」等、多くの歌劇に出演する。 松竹楽劇部入部と同時に日本ビクター蓄音器株式会社に入社し「金色仮面」(ゴールデン・マスク)という芸名で音盤界デビューを果たした。
山本 清二郎(やまもと せいじろう、1910年 <明治43年… 山本 清二郎(やまもと せいじろう、1910年 <明治43年> 7月30日 - 1995年 <平成7年> 12月12日)は、日本の検察官。最高検察庁次長検事、大阪高等検察庁検事長。位階は正三位。 愛知県出身。1933年、中央大学法学部卒業、銀行員を経て、1935年に検事任官。戦後の公職追放によって、塩野季彦らを大御所とする戦前からの主流であった思想検事系列の一掃と共に、東京地検特別捜査部長(1953年11月9日-1955年10月3日)に。東京地検次席検事に田中萬一、主任検事に河井信太郎と主だったポストには中央大学出身者が占めた。その後も河井らと昭和電工事件、造船疑獄、共和製糖事件、日通事件などの主だった政界汚職に従事した。
赤松 貞明(あかまつ さだあき、1910年(明治43年)7月… 赤松 貞明(あかまつ さだあき、1910年(明治43年)7月30日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。日中戦争、太平洋戦争の撃墜王。 1910年(明治43年)7月30日高知県土佐郡秦村(現高知市)で測候所長の子として生まれる。中学海南学校を卒業し、1928年(昭和3年)6月佐世保海兵団に入隊、四等水兵。1929年(昭和4年)大村航空隊所属の柴田武雄中尉の従兵となる。柴田によれば、赤松は外出しては酔って暴れ、そのたびに柴田がもらい下げにいったという。1931年(昭和6年)6月、第17期操縦練習生。教官は源田実大尉。1932年(昭和7年)3月、同修了。その後、大村航空隊、空母「赤城」、「龍驤」、「加賀」に配属。
関口 恒五郎(せきぐち つねごろう、1910年7月29日 -… 関口 恒五郎(せきぐち つねごろう、1910年7月29日 - 1988年11月3日)は、昭和時代の日本の柔道家、関口病院院長。全日本学生柔道連盟会長などを歴任[要出典]。講道館八段。父は関口孝五郎、兄は関口林五郎。
田中 文雄(たなか ふみお、1910年7月29日 - 199… 田中 文雄(たなか ふみお、1910年7月29日 - 1998年1月6日)は、日本の経営者。王子製紙社長、会長を務めた。 長野県南佐久郡平賀村(現佐久市)出身。旧制野沢中学を経て、1935年に九州帝国大学農学部林学科を卒業し、同年に王子製紙に入社した。1956年に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1968年に社長に就任。社長在任中は、北日本製紙、日本パルプ工業との合併を実現させ、紙パルプ業界の国際化に尽力した。1981年に会長に就任し、1989年から取締役相談役を務めた。1982年には病気療養中の市村修平社長に代わり、社長を一時代行した。 1979年から1987年までに日本経営者団体連盟副会長を務め、1981年には日本製紙連合会会長に就任した。
井伊 直愛(いい なおよし、1910年(明治43年)7月29… 井伊 直愛(いい なおよし、1910年(明治43年)7月29日 - 1993年(平成5年)12月2日)は、日本の水産学者・政治家。旧彦根藩主井伊家の第16代当主。農学博士(東京大学・論文博士・1961年)(学位論文「極東海域におけるアミ科の分布に関する研究」)。滋賀大学経済学部講師、彦根市長。彦根市名誉市民。滋賀県出身。 幕末の大老井伊直弼の曾孫にあたる。 伯爵井伊直忠の庶子。生母は東京の斎藤ふく。 海軍軍人志望だったが体格に自信がなく、また当時の軍を支配していた藩閥を嫌って学問の道に進み、東京帝国大学農学部水産学科から同大学院に学ぶ。専門はアミ類で、約50種の新種を発見した。東大農学部嘱託、文部省資源科学研究所や滋賀県水産試験場、滋賀大学経済学部講師などを歴任した。
今日泊 亜蘭(きょうどまり あらん、1910年(明治43年)… 今日泊 亜蘭(きょうどまり あらん、1910年(明治43年)7月28日 - 2008年(平成20年)5月12日)は、日本の小説家、SF作家。本名は水島 行衛(みずしま ゆきえ)。「今日泊」以外のペンネームに水島多樓(みずしま たろう)、水島太郎、璃昴(りぼう)、紀尾泊世央(きおどまり ぜお)、今日泊蘭二、宇良島多浪(うらしま たろう)、園兒(えんじ)、志摩滄浪(しま そうろう)など。日本SF界の最長老として知られた。代表作は、日本SFの古典としても知られる『光の塔』。
大澤 孝(おおさわ たかし、1910年7月26日 - 198… 大澤 孝(おおさわ たかし、1910年7月26日 - 1987年1月10日)は、日本の経営者。山梨県出身。 府立一中を経て、1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に鐘紡に入社。 1949年に鐘淵化学工業(現在のカネカ)に転じ、1956年11月に取締役に就任し、1962年2月に常務、1968年5月に専務を経て、1969年5月に副社長に就任し、1974年11月には社長に昇格。1978年11月に会長に就任し、1982年6月から相談役を務めた。 1987年1月10日脳梗塞のために死去。76歳没。
斎藤 栄治(さいとう えいじ、1910年7月26日 - 19… 斎藤 栄治(さいとう えいじ、1910年7月26日 - 1979年1月22日)は、日本のドイツ文学者。 1933年東京帝国大学独文科卒。戦後、1971年まで東京大学教養学部教授。ゲーテなどを専門とし、多くの翻訳書がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
高橋 邦雄(たかはし くにお、1910年〈明治43年〉7月2… 高橋 邦雄(たかはし くにお、1910年〈明治43年〉7月25日 - 1988年〈昭和63年〉8月26日)は、昭和期の地方公務員、政治家。参議院議員(1期)、群馬県副知事。 群馬県群馬郡車郷村富岡(箕郷町を経て現高崎市)で生まれる。旧制高崎中学、旧制松本高校を経て、1936年(昭和11年)京都帝国大学法学部を卒業した。 1936年、群馬県庁に入庁し総務部地方課に配属された。1937年(昭和12年)10月、充員召集令により歩兵第15連隊に入隊し1940年(昭和15年)1月に召集解除となったが、1941年(昭和16年)8月に再度充員召集を受けて東部38部隊に入隊し、1945年(昭和20年)4月に解除された。
大月 明(おおつき あきら、1910年7月25日 - 198… 大月 明(おおつき あきら、1910年7月25日 - 1987年2月16日 )は、日本の医学者。論文『から・あざーるニ関スル研究』で、博士(医学)の学位授与(主査:木村廉「微生物学」)。学位記宛先は、大阪府三島郡富田町(現・高槻市富田町)。現住所:不掲載。
阿部 九洲男(あべ くすお、1910年7月24日 - 196… 阿部 九洲男(あべ くすお、1910年7月24日 - 1965年11月2日)は、日本の俳優である。初期の芸名は春見 堅太郎(はるみ けんたろう)など、本名は伊東 石太郎(いとう いしたろう)である。 1910年(明治43年)7月24日、神奈川県横浜市寿町(現在の同県同市中区寿町)に「伊東石太郎」として生まれる。 満19歳を迎える1929年(昭和4年)、古海卓二監督の紹介で京都の市川右太衛門プロダクションに入社、「春見堅太郎」の芸名で、同年、城戸品郎監督の『髪』に出演、大貫三郎衛門役を演じる。市川右太衛門に師事する が、1931年(昭和6年)には関東に戻り、東京・巣鴨の河合映画製作社に移籍する。同年、村越章二郎監督の『清水の小政』に出演している。
山中 吾郎(やまなか ごろう、1910年(明治43年)7月2… 山中 吾郎(やまなか ごろう、1910年(明治43年)7月23日 - 1983年(昭和58年)6月2日)は、昭和期の教育者、地方公務員、政治家。衆議院議員。 和歌山県伊都郡名倉村(高野口町を経て現橋本市高野口町)出身。1933年(昭和8年)東京高等師範学校文科を卒業した。 山形県立山形中学校(現山形県立山形東高等学校)教諭、三重県師範学校教諭、京都府師範学校教諭などを歴任。1943年(昭和18年)7月、高等試験行政科試験に合格。1945年(昭和20年)岩手県庁に入庁。学務課長兼厚生課長、労働部長、教育部長を歴任し、1948年(昭和23年)岩手県教育委員会教育長に就任。その後、公共企業体等労働委員会地方調停委員、岩手大学講師、私立修紅短期大学助教授などを務めた。
久保田 収(くぼた おさむ、明治43年(1910年)7月22… 久保田 収(くぼた おさむ、明治43年(1910年)7月22日 - 昭和51年(1976年)12月7日)は、日本の歴史学者。専門は神道史。学位は、文学博士。 明治43年(1910年)、富山市に生まれる(本籍滋賀県)。昭和3年(1928年)静岡県立浜松第一中学校、昭和6年第六高等学校文科甲類を経て、昭和9年(1934年)に東京帝國大學文学部国史学科を卒業。在学中は平泉澄に学び、高弟として知られ終生師事した。朱光会の創立に関わり、また青々塾最初の入塾者の一人でもあった(いずれも平泉主宰)。 昭和10年に東京府立第九中学校教諭を経て、昭和13年(1938年)に、第七高等学校造士館教授となった。 帝大卒業後鹿児島に赴任するまでの間は、青々塾塾頭をつとめ、七高時代は集義塾を開くなどして、後進の指導にあたった。
足立 篤郎(あだち とくろう、1910年〈明治43年〉7月2… 足立 篤郎(あだち とくろう、1910年〈明治43年〉7月22日 - 1988年〈昭和63年〉8月14日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 科学技術庁長官(第28代)、農林大臣(第43代)、衆議院議員(12期)などを歴任。 静岡県周智郡山梨村(現袋井市)生まれ。掛川中学校(現静岡県立掛川西高等学校)、旧制静岡高等学校を経て、1934年、京都帝国大学法学部を卒業。南満洲鉄道に入社する。戦後は静岡県農業共済組合連合会会長などを経て、1949年の第24回衆議院議員総選挙で吉田茂率いる民主自由党公認で旧静岡3区から立候補し、初当選。以後当選12回。 自民党では佐藤栄作派-田中角栄派に所属。
岡本 虎二郎(おかもと とらじろう、1910年7月21日 -… 岡本 虎二郎(おかもと とらじろう、1910年7月21日 - 1998年5月29日)は、日本の実業家。月賦百貨店であった緑屋(現:クレディセゾン)の創業者である。 1910年(明治43年)7月21日に愛媛県今治市で、米穀商をしていた岡本繁満太の長男として生まれた。岡本家は後に一家で大阪に移り、岡本虎二郎は天王寺中学校に通っていたが1926年(大正15年)に父親が44歳で死亡し天王寺中学校を中退し大阪の中井洋紙店に奉公した。従兄で月賦販売店の丸共の銀座店の支店長であった辻田貞二に誘われ、1927年(昭和2年)に上京し、丸共銀座店に入店。 1935年(昭和10年)には独立し、義兄の立野究と共同で江戸川区小岩井に一軒の店を構えた。
清原 道壽(清原 道寿、きよはら みちひさ、1910年7月1… 清原 道壽(清原 道寿、きよはら みちひさ、1910年7月18日 - 2002年6月18日)は、日本の技術科教員、教育学者。東京工業大学名誉教授。 福岡県生まれ。1935年東京帝国大学文学部教育学科卒、滝野川区(現北区)立滝野川東高等小学校教師となり工業技術を教える。1943年治安維持法違反で逮捕投獄され、敗戦後45年釈放。目黒区立第六中学校で職業(技術科)を教える。1949年職業教育研究会(のちの産業教育研究連盟)を設立、代表。國學院大學教授、東京工業大学教授。71年定年退官、名誉教授、大東文化大学教授。83-84年学長。
大橋 棣(おおはし やすし、1910年7月17日 - 200… 大橋 棣(おおはし やすし、1910年7月17日 - 2004年9月9日)は大阪府出身のプロ野球選手、野球指導者(高校野球・社会人野球監督)。 旧制浪速中学校(現浪速高校)卒業後、関西大学に進学。強肩・好守の遊撃手として有名だった。その後、門司鉄道局に就職。門司鉄道局時代は、玉井栄など九州の選手の大阪タイガース・阪神軍入団に関わり、球団を側面からサポートした。 松木謙治郎が退団するときに阪神軍に助監督として入団するつもりだったが、阪神本社側の反対で選手として1942年10月登録された。翌1943年オフに退団。誰にでも食ってかかる事から「ケンカ大橋」の異名を持ち、ベンチではヤジ将軍として有名だった。
伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 20… 伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 2001年11月29日)は、日本の映画プロデューサー、労働運動家。日本映画演劇労働組合の初代委員長として、東宝争議を指揮した。本名伊藤 武男(いとう たけお)。 1910年(明治43年)7月17日、福井県に「伊藤武男」として生まれる。 東京に移り、早稲田大学に入学、同学を卒業後の1937年(昭和12年)、東宝映画(現在の東宝)に入社する。東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で、1942年(昭和17年)、渡辺邦男監督の『武蔵坊弁慶』で伊藤基彦とともに初めて「製作」に名を連ね、映画プロデューサーとなる。 第二次世界大戦終結の翌年、1946年(昭和21年)2月に東宝撮影所で東宝争議が起きる。
佐藤 正己(さとう まさみ、1910年(明治43年)7月16… 佐藤 正己(さとう まさみ、1910年(明治43年)7月16日 - 1984年(昭和59年)8月30日)は、日本の植物学者。理学博士(東京帝国大学・1942年)。茨城大学名誉教授。山形県東田川郡山添村(現・鶴岡市)出身。地衣類研究の権威として知られている。
石田 周三(いしだ しゅうぞう、1910年7月16日‐ 19… 石田 周三(いしだ しゅうぞう、1910年7月16日‐ 1985年6月20日)は、日本の動物生理学者。 東北帝国大学理学部卒。1956年「二枚介類における代謝型式」で理学博士。東北帝国大学浅虫臨海実験所、千葉大学文理学部助教授、教授、1974年定年退官、名誉教授。ダーウィンの『種の起原』を訳すなど啓蒙的著作・翻訳を行った。妻は西村伊作の長女の石田アヤ。娘は文化学院副院長を務めた立花利根(1937- )。
山本 薩夫(やまもと さつお、1910年7月15日 - 19… 山本 薩夫(やまもと さつお、1910年7月15日 - 1983年8月11日)は、日本の映画監督。鹿児島県出身。早稲田大学文学部独文科中退。 甥たち(兄山本勝巳の子)が、俳優の山本學、山本圭、山本亘で、自身の作品への配役も多い。息子の山本駿、山本洋も映画監督。 両親とも石川県小松市の出身(薩夫の本籍も石川県)。札幌農学校を中退して農商務省の官吏になった父が愛知県庁を振り出しに各地の県庁を転々とし、鹿児島県庁勤務時に薩夫が生まれた。名前もそこから付けられた。6人兄弟の末っ子で兄弟はそれぞれ別の土地で生まれた。薩夫が2歳になる前に父が愛媛県庁に転勤し、一家は愛媛県松山市に引っ越す。この時期に長兄の友人で、のちに共産党弾圧で獄死した重松鶴之助や俳人・中村草田男らの知遇を得る。
藤本 真澄(、1910年〈明治43年〉7月15日 - 197… 藤本 真澄(、1910年〈明治43年〉7月15日 - 1979年〈昭和54年〉5月2日)は、日本の映画プロデューサー。元東宝副社長、東宝映画初代社長。日本映画黄金期のヒット作を多数手掛けた東宝の看板プロデューサーである。 旧満州旅順生まれ。海軍軍医だった父の転任に伴い、長崎県佐世保市、対馬、広島県呉市、神奈川県横須賀市、京都府京都市、広島市で育ち1928年(昭和3年)、県立山口中学校卒業後2年浪人。少年期から映画に熱を上げ映画館に通いつめ「塚本靖」名で『キネマ旬報』に映画批評を投稿したりした。「塚本靖」名では東宝の新人時代、アイデアを出した数本の映画に原作者としてのクレジットがある。1934年(昭和9年)慶應義塾高等部在学中に三映社でアルバイトをして映画の宣伝を担当、ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』(1930年)やリーフェンシュタールの『青の光』(1932年)などを手掛けた。
香川 進(かがわ すすむ、1910年7月15日 - 1998… 香川 進(かがわ すすむ、1910年7月15日 - 1998年10月13日)は、昭和期・平成期の日本の歌人。 香川県多度津町出身。多度津中学校(現香川県立多度津高等学校)を経て、1934年神戸商業大学(現神戸大学)卒。在学中の1932年に白日社に入社し、前田夕暮に師事。口語自由律短歌を作る。 三菱商事に入社後、1935年に出張先で現地召集される。1945年友人と東亜交易創立。敗戦後の財閥解体の処理に関わる。1953年木下商店に入り、名古屋支店長や内外炉工業社長を歴任。 戦後は文語定型短歌へと回帰。1953年「地中海」を創刊、主宰。義兄にあたる米田登も参加。門下に小野茂樹、雨宮雅子がいる。1958年『湾』で第4回日本歌人クラブ推薦歌集(現日本歌人クラブ賞)受賞、1973年『甲虫村落』で第7回迢空賞受賞、1992年『香川進全歌集』で第15回現代短歌大賞受賞。
亀谷俊司(かめたに しゅんじ、1910年7月11日 - 20… 亀谷俊司(かめたに しゅんじ、1910年7月11日 - 2010年4月2日)は、日本の数学者。 東京に生れる。1936年東京帝国大学理学部卒業。45年「ハウスドルフ測度と一般化された容量に就いて其の函数論への応用二,三」で理学博士。多賀高等工業學校教授、東京女子高等師範学校教授、1949年お茶の水女子大学助教授、教授、1976年定年退官、名誉教授。99歳で没、没後正四位。
井上 幸治(いのうえ こうじ、1910年7月10日 - 19… 井上 幸治(いのうえ こうじ、1910年7月10日 - 1989年9月9日)は、日本の歴史学者。専攻は西洋史(近代フランス史)で、フランス史書・哲学などの翻訳・監修も多い。戦後の西洋史研究の基礎を築いた一人で、郷里の埼玉県で起きた秩父事件の先駆的研究や史料集成でも知られる。 1910年、埼玉県秩父郡大宮町(現・秩父市)で生まれた。旧制熊谷中学校から旧制浦和高等学校文科丙類(フランス語)に進学。浦和高校での友人に、後にジャーナリストになった柳沢恭雄(同級生)、警視総監になった原文兵衛(2年後輩)がいた。1930年3月に浦和高校を卒業、東京帝国大学文学部西洋史科に入学。1933年に同大学を卒業した。
信 欣三(しん きんぞう、1910年7月9日 - 1988年… 信 欣三(しん きんぞう、1910年7月9日 - 1988年12月26日)は、日本の俳優。本名は信 金蔵。1960年代半ばから1970年代半ばにかけては、信 欽三の芸名でも活動した。脚本家・小説家の筒井ともみは義理の姪。墓所は谷中霊園。 東京市出身。祖父の信大蔵は、旧尾張藩士で、幕府軍に参加し箱館戦争を戦ったが、敗れたため逃れたという。その後銀座尾張町にて洋酒、牛乳、氷屋の函館屋を開き、特に幕府顧問のフランス人より習ったアイスクリーム販売が名物であった。 銀座の泰明小学校、東京府立第一商業学校(現、東京都立第一商業高等学校)卒業。東京左翼劇場を経て、1933年に『河向ふの青春』で映画に初出演した。