若杉 要(わかすぎ かなめ、1883年(明治16年)7月9日… 若杉 要(わかすぎ かなめ、1883年(明治16年)7月9日 - 1943年(昭和18年)12月9日)は、日本の外交官。駐アメリカ合衆国公使。 熊本県出身。1883年(明治16年)7月9日熊本市寺原町に生まれる。1900年(明治33年)熊本市立商業高校入学、1903年(明治36年)熊本市立商業高校(校名変更により熊本県立商業高校)7期生卒業。1906年(明治39年)、東亜同文書院を3期生卒業し、外務書記生試験に合格した。1911年(明治44年)、オレゴン州立大学を卒業し、さらに1914年(大正3年)にはニューヨーク大学を卒業した。1917年(大正6年)、外交官及領事官試験に合格し領事官補となった。
内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977… 内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977年9月19日)は、フランス文学者、評論家、翻訳家、エッセイスト。
木村 久一(きむら きゅういち、1883年7月5日 - 19… 木村 久一(きむら きゅういち、1883年7月5日 - 1977年2月28日)は、日本の教育学者、百科事典編集者である。 山形県生まれ。1913年、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、麻布中学校、青山女学院、早稲田大学などの教壇に立った。早教育の提唱者であり、『早教育と天才』(木村久一 1917)の著がある。島中雄三を介して下中弥三郎を知り、1931年、請われて平凡社に入り、『世界大百科事典』の編集長に就いた。一説に、英単語の encyclopedia を「百科事典」と訳したのは木村である。同百科事典全28巻を完結させた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鷲野 米太郎(わしの よねたろう、1883年(明治16年)7… 鷲野 米太郎(わしの よねたろう、1883年(明治16年)7月2日 - 1937年(昭和12年)4月3日)は、日本の衆議院議員(実業同志会→国民同志会→立憲政友会)。実業家。弁護士。 高知県安芸郡吉良川村(現在の室戸市)に楠武三郎の長男として生まれ、鷲野繁馬の養子となった。1909年(明治42年)、東京高等師範学校を卒業し、小学校訓導、台湾総督府国語学校助教諭、同中学校教諭を歴任した。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、京都府属となった。高等文官試験に合格し、愛宕郡長、京都市助役を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回、第18回でも再選された。
堀田 正昭(ほった まさあき、1883年(明治16年)7月1… 堀田 正昭(ほった まさあき、1883年(明治16年)7月1日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使、駐スイス公使、駐イタリア大使。 検事・法学者堀田正忠の長男として東京府に生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験に合格した。外交官補としてフランス、中華民国に勤務した。公使館三等書記官、大使館二等書記官、同一等書記官、外務書記官・大臣官房人事課長などを歴任し、その間に中国・ドイツ・イタリアに勤務した。1926年(大正15年)、外務省欧米局長に就任。1931年(昭和6年)、駐チェコスロバキア公使となり、1934年(昭和9年)に駐スイス公使に転じた。
真藤 慎太郎(眞藤 愼太郎、しんどう しんたろう、1883年… 真藤 慎太郎(眞藤 愼太郎、しんどう しんたろう、1883年(明治16年)7月1日 - 1971年(昭和46年)1月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。玄洋社社員。 福岡県福岡区(現福岡市)で回船問屋・真藤利吉の長男として生まれる。福岡県立福岡中学校を卒業後、玄洋社に所属。中国大陸で活動し、日本の対ロシア帝国政策に着目してロシア語を習得。日露戦争開戦後、通訳として従軍した。 その後、カムチャツカ半島沿岸などの北洋漁業で財を築いた。1926年6月、日魯漁業(現マルハニチロ)の取締役に就任。その他、日魯漁業副社長、東洋製罐取締役、函館水産販売取締役、函館製網船具取締役、樺太共同漁業取締役、台湾殖産工業取締役、北千島水産社長、函館定温倉庫社長、北千島鱈漁業社長、北海道護謨社長、北日本漁業社長、東都冷蔵社長、函館公海漁業取締役、輸出鱈協会理事長、中央水産業会副会長、西部瓦斯顧問などを務めた。
小野寺 有一(おのでら ゆういち、1883年(明治16年)7… 小野寺 有一(おのでら ゆういち、1883年(明治16年)7月1日 – 1965年(昭和40年)1月4日)は、衆議院議員。岩手県釜石市長。 岩手県東磐井郡黄海村(藤沢町を経て現在の一関市)出身。岩手県巡査となり、普通文官試験に合格して、1909年(明治42年)より岩手県警部を務めた。その後、宮城県警部に転じ、角田警察署長、石巻警察署長、塩釜警察署長、高等保安警務課長を歴任。1921年(大正10年)に警視に昇進し、仙台警察署長に就任した。その後、伊具郡長となった。 1928年(昭和3年)より釜石町長を務め、1937年(昭和12年)に市制施行されると初代市長に就任した。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受けて出馬し、当選を果たした。
杉原祥造(すぎはらしょうぞう、1883年〈明治16年〉7月 … 杉原祥造(すぎはらしょうぞう、1883年〈明治16年〉7月 - 1926年〈大正15年〉2月)は、日本の刀剣研究家。長年行方不明になっていた数珠丸恒次を再発見した人物として知られる。 1883年(明治16年)7月、兵庫県尼崎市にて生まれる。当初は歯科医を志して大阪にある歯科医院の書生となり、次いで東京にある歯科医専へ進学する。1902年(明治35年)春、19歳の頃に海軍水路部技師を務める傍ら刀剣研究を行っていた神津伯と出会ったことがきっかけで日本刀に魅せられ、歯科医専を中退して刀剣研究に没頭していった。 1918年(大正7年)には國學院大學で刀剣の講義を毎月行なうなど、刀剣研究家として活動するようになる。
高橋 親吉(たかはし しんきち、1883年(明治16年)7月… 高橋 親吉(たかはし しんきち、1883年(明治16年)7月 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 大分県出身。1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格した。1912年(大正元年)、台湾総督府属となり、同事務官、専売局事務官、高雄州知事などを歴任し、1927年(昭和2年)には殖産局長に就任した。その後、台北州知事となり、1929年(昭和4年)に退官した。
小九紋竜 梅吉(こくもんりゅう うめきち、1883年(明治1… 小九紋竜 梅吉(こくもんりゅう うめきち、1883年(明治16年)7月 - 1943年(昭和18年)7月29日)は、兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)出身の大坂相撲の元力士。第11代時津風親方。本名は岡田 作次郎(おかだ さくじろう)。最高位は小結。入門当時は若紋竜、後年は九紋竜、妨の四股名で取った。 大坂相撲の年寄名跡の時津風部屋に入門し、1906年(明治39年)に入幕、1908年(明治41年)1月場所では小結に昇進したが負け越し、6月場所では平幕に下がり、四股名を九紋竜に改めた。 博打好きで借金を重ね、喧嘩も繰り返し、人を騙すなど素行が悪い事から、1909年(明治42年)1月場所の前に、親方から「世の中の妨げばかりするので、四股名を妨(さまたげ)に改めろ」と言われ、「妨 四郎盛足」に改名した。
近藤 銕次(こんどう てつじ、1882年(明治15年)7月2… 近藤 銕次(こんどう てつじ、1882年(明治15年)7月29日 - 1951年(昭和26年)7月26日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。電気化学工業(現デンカ)社長、貴族院勅選議員。 東京府本郷区本郷弓町二丁目21(現東京都文京区本郷)で、官僚・近藤鎮三の二男として生まれる。12歳で父を亡くし母の手で養育された。1904年(明治37年)台湾協会学校(現拓殖大学)を卒業。1905年(明治38年)2月、三井物産に入社し台北支店に配属され、支店長の藤原銀次郎と出会う。その後、本店営業部受渡主任に転じたが、上司との関係などにより、1916年(大正5年)2月に退社し、明正社常務取締役に就任し、また、度量衡器販売の藤沢商会を設立して店主となった。
浜 平右衛門(濱、はま へいえもん、1882年(明治15年)… 浜 平右衛門(濱、はま へいえもん、1882年(明治15年)7月27日 - 1949年(昭和24年)4月25日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。幼名は小太郎。 浜佐太郎の長男として、茨城県新治郡石岡町(現在の石岡市)に生まれる。1898年(明治31年)1月、家督を相続し、改名する。実業界にて石岡電気、鹿島参宮鉄道、北浦電気、太田製糸、常南電気、北総電気の各社長、常磐銀行、石岡銀行、水戸電気鉄道の各取締役など重役を歴任。ほか、茨城県醤油醸造組合、同信用組合の各組合長を務めた。 地方政界においては、石岡町会議員、同消防組頭、産業組合中央金庫評議員などを歴任した。
大蔵 公望(おおくら きんもち、1882年(明治15年)7月… 大蔵 公望(おおくら きんもち、1882年(明治15年)7月23日 – 1968年(昭和43年)12月24日)は、日本の鉄道官僚。貴族院男爵議員。南満州鉄道理事。 陸軍中将・男爵大蔵平三の三男として東京府で生まれる。1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。渡米してミズーリ・パシフィック鉄道、タイドウォーター鉄道などに勤務。1908年(明治41年)に帰国して鉄道院に入り、静岡駅助役、新橋運輸事務所長、運輸局貨物課長、神戸鉄道管理局運輸課長、西部鉄道管理局運輸課長などを歴任した。父の死去に伴い、1911年(明治44年)9月20日、男爵を襲爵。1919年(大正8年)に南満州鉄道に転じ、運輸部次長を経て理事に就任し、計画部長・殖産部長・地方部長を兼ねた。
平賀 周(ひらが しゅう、1882年(明治15年)7月21日… 平賀 周(ひらが しゅう、1882年(明治15年)7月21日 - 1957年(昭和32年)9月12日)は、日本の政治家、弁護士、内務官僚。衆議院議員(1期)、官選石川県知事(官選第30代)。 千葉県出身。平賀藤右衛門の二男として生まれる。第二高等学校を卒業。1908年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業して内務省に入省し秋田県属となる。 以後、茨城県事務官、奈良県警察部長、警察講習所教授、兼内務省参事官、宮城県警察部長、山形県内務部長、大分県内務部長、大阪府内務部長、内務監察官などを歴任。 その後退官し弁護士となり、国技館取締役、日本大学大阪分校教授兼学監も務めた。
今園 国貞(國貞、いまその / いまぞの くにさだ、1882… 今園 国貞(國貞、いまその / いまぞの くにさだ、1882年(明治15年)7月20日 - 1950年(昭和25年)5月2日)は、日本の国文学者、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・今園国映の長男として生まれる。父の死去に伴い、1893年(明治26年)5月12日、男爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1912年7月、東京帝国大学文科大学文学科(国文学)を卒業。1928年(昭和3年)歌会始講頌となり、以後、同読士、同奉行、御歌所参候、東京女子大学教授などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで4期在任した。
辛島 浅彦(からしま あさひこ、1882年(明治15年)7月… 辛島 浅彦(からしま あさひこ、1882年(明治15年)7月17日 - 1965年(昭和40年)10月15日)は、日本の実業家。東洋レーヨン会長や、人絹絹統制会会長を務めた。藍綬褒章受章。 大分県生まれ。1905年第五高等学校工学部(現熊本大学工学部)卒業、芝浦製作所入社。1910年三井物産ロンドン支店詰。三井物産名古屋支店長代理等を経て、1927年東洋レーヨン常務取締役滋賀工場長に就任。 1933年からは東洋レーヨン専務取締役として経営にあたり業績の急成長を実現した。1937年東洋レーヨン会長。1942年人絹絹統制会会長。 1944年国策パルプ工業社長。1946年山陽パルプ取締役。1949年日本貿易会長、山陽パルプ監査役、大日本印刷監査役。
寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1… 寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1969年2月5日)は、日本の理論物理学者・数学者。日本学士院会員、東京帝国大学名誉教授。学位は理学博士(1917年・東京帝国大学)。東北帝国大学教授、東京帝国大学教授、同総長事務取扱、同理学部長、同地震研究所所長、同航空研究所所長、逓信省高等逓信講習所所長、千葉工業大学学長、電気通信大学学長などを歴任。著書『自然科学者のための数学概論』は応用数学の名著として名高い。 1882(明治15)年7月15日、米沢藩士寺澤兵吉の次男として、現在の山形県米沢市上矢来町に生まれる。 興譲尋常高等小学校から米沢中学興譲館入学。後に上京し、1902年、大成中学校卒業。
伊東 喜八郎(いとう きはちろう、1882年(明治15年)7… 伊東 喜八郎(いとう きはちろう、1882年(明治15年)7月15日 - 1977年(昭和52年)3月30日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 大分県玖珠郡野上村(現在の九重町)出身。伊東孝市の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。1907年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し埼玉県属となる。 以後、埼玉県警部、富山県事務官、福井県警察部長、宮崎県警察部長、静岡県警察部長、滋賀県内務部長などを経て、福岡県内務部長に就任。 1922年9月、信太時尚前知事の死去に伴い富山県知事に就任。伏木港第二期築港工事、東岩瀬港第一期改修工事、氷見漁港修築工事などを推進。
藤森 良蔵(ふじもり りょうぞう、1882年7月15日 - … 藤森 良蔵(ふじもり りょうぞう、1882年7月15日 - 1946年11月22日)は、日本の教育者。 長野県諏訪郡上諏訪村(現・諏訪市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1899年長野師範学校に入学するが、一年で理不尽な退学処分を受ける。1903年東京物理学校(現・東京理科大学)数学撰科修了。長野商業学校(現・長野県長野商業高等学校)教諭、保科百助の私塾保科塾教師、青森県立木造中学校(現・青森県立木造高等学校)教諭、正則英語学校(現・正則学園高等学校)教師を経て、立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)教諭。藤森塾を設けて受験数学を指導。1910年『幾何学 考え方と解き方』 を刊行し、当時の代表的な参考書としてベストセラーとなった。
青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日… 青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日 - 1911年(明治44年)3月25日)は日本の洋画家。
加勢 清雄(かせい きよお / かせ きよお、1882年〈明… 加勢 清雄(かせい きよお / かせ きよお、1882年〈明治15年〉7月13日 - 1971年〈昭和46年〉11月24日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事。 現在の山形県米沢市出身。加勢清隆の二男、あるいは三男。第一高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に入省し秋田県警視となる。 以後、秋田県事務官、新潟県事務官、埼玉県警察部長、新潟県警察部長、愛知県内務部長、福岡県書記官・内務部長、北海道庁土木部長などを歴任。 1926年9月、宮崎県知事に就任。日向カボチャの宣伝を行った。1927年5月、高知県知事に転任。
白井 柳治郎(しらい りゅうじろう、1882年〈明治15年〉… 白井 柳治郎(しらい りゅうじろう、1882年〈明治15年〉7月12日 - 1966年〈昭和41年〉3月22日)は、日本の教育者。北海道でアイヌへの差別意識が根強かった明治時代において、差別意識に真っ向から立ち向かい、数々の教育改革に取り組んだ。同様にアイヌのために尽力した教育者である吉田巖と共に「アイヌ教育の父」とも呼ばれる。茨城県真壁郡関本町(後の筑西市)出身。 染物業との兼業農家の二男として誕生。地元の農学校を卒業後、農業の教師を志し、1900年(明治33年)、当時の農業教員養成学校としては最高学府である東京帝国大学農科大学付属農業教員養成所に入所した。 同年5月、東京のキリスト教青年会館で、北海道旧土人教育会主催による演説会に参加し、ハワイでの伝道から帰ってきたアイヌ救済運動家・小谷部全一郎の、アイヌについての講演を聞いた。
堀部 久太郎(ほりべ きゅうたろう、1882年(明治15年)… 堀部 久太郎(ほりべ きゅうたろう、1882年(明治15年)7月9日 – 1941年(昭和16年)2月5日)は、衆議院議員(国民同志会)。彦根町長。 滋賀県犬上郡彦根町(現在の彦根市)出身。1908年(明治41年)、早稲田大学政治経済科を卒業。一年志願兵として陸軍三等主計に任じられた。彦根町会議員を経て、彦根町長を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
永井 準一郎(ながい じゅんいちろう、1882年(明治15年… 永井 準一郎(ながい じゅんいちろう、1882年(明治15年)7月7日 - 1955年(昭和30年)2月21日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。憲政会系官選大分県知事、千葉市長。 千葉県長狭郡北風原村(吉尾村、長狭町を経て現鴨川市)出身。永井謙蔵の長男として生まれる。第二高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、樺太庁事務嘱託となる。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し鳥取県属となる。 以後、高知県警部、同警視・警務課長、同巡査教習所長、宮城県伊具郡長、同県栗原郡長、高知県警察部長、新潟県警察部長、徳島県内務部長などを歴任し、1924年7月、大阪府警察部長に就任。
熊木 捨治(くまき すてじ、1882年〈明治15年〉7月2日… 熊木 捨治(くまき すてじ、1882年〈明治15年〉7月2日 - 1953年〈昭和28年〉5月)は、日本の教育者・文部官僚。 新潟県出身。新潟県立中学校を経て、1907年(明治40年)に早稲田大学文学部哲学科を卒業し、さらに1910年(明治32年)に京都帝国大学文科大学哲学科選科を修了した。同年より京都府立第二中学校教諭嘱託を務め、1916年(大正5年)に京都府女子師範学校教諭となった。京都府立第二中学校教諭、京都府立桃山中学校校長を経て、1927年(昭和2年)に文部省督学官に就任し、図書監修官を兼ねた。1941年(昭和16年)、高岡高等商業学校校長となり、1943年(昭和18年)に大阪第一師範学校校長に転じた。
山崎 甚五郎(やまざき じんごろう、1882年(明治15年)… 山崎 甚五郎(やまざき じんごろう、1882年(明治15年)7月2日 - 1927年(昭和2年)6月19日)は日本の電気化学者、教育者。兵庫県多紀郡丸山村(現丹波篠山市)で誕生。苛性ソーダの電解法による製造方法を開発し大規模工業化への飛躍的な途を拓いた。粘土などからアルミナ(酸化アルミニウム)を製造する方法を発明した。山梨高等工業学校(現山梨大学工学部)の初代校長。 日本で苛性ソーダの電解法による製造法を開発し、苛性ソーダ工業を飛躍的に発展させた。粘土や明礬石などの国産原料よりアルミニウムの元となるアルミナ(酸化アルミニウム)を製造する方法を発明した。山梨高等工業学校(現山梨大学工学部)の創設に携わり、初代校長として高等技術教育に力を注いだ。
稲葉 俊太郎(いなば しゅんたろう、1882年(明治15年)… 稲葉 俊太郎(いなば しゅんたろう、1882年(明治15年)7月1日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。愛知県瀬戸市長。 長崎県西松浦郡、のちの佐賀県西松浦郡大岳村(波多津村を経て現伊万里市)で、稲葉三郎の長男として生まれた。1916年(大正5年)家督を相続した。 1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1911年(明治44年)に高等文官試験に合格した。北海道拓殖銀行に入行したが、1912年(明治45年)広島県警部に転じ、以後、同警視、同理事官、青島守備軍民政部事務官、関東庁警務官、同事務官、神奈川県事務官、香川県警察部長、宮城県警察部長を歴任した。 1924年(大正13年)に休職となるが、1927年(昭和2年)に広島県書記官・警察部長として復帰し、山梨県書記官・内務部長、愛知県書記官・内務部長を務めた。
黒河内 四郎(くろかわち しろう/くろこうち しろう、188… 黒河内 四郎(くろかわち しろう/くろこうち しろう、1882年(明治15年)7月 - 1960年(昭和35年)6月3日)は、日本の鉄道省官僚、土木工学者(工学博士)。鉄道省工務局長を最後に退官し、東京高速鉄道技師長として現在の銀座線新橋、渋谷間の開通に貢献。第31代土木学会会長、初代日本保線協会会長。 福島県士族香川源左衛門の次男として若松町に生まれ、同士族黒河内源治の養子となる。1901年(明治34年)会津中学を卒業。大島破竹郎が同級生である。二高を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学を卒業。席次は29名中3番である。 逓信省鉄道作業局に入り、生涯にわたる鉄道への関わりが始まる。1915年(大正4年)に米国留学し、帰国後は工務局保線課に配属され、保線業務、軌道の改善に努めた。
大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1… 大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1920年1月20日)は、日本の俳人・俳論家。福島県相馬郡中村町(現在の相馬市)生まれ。本名・績(いさお)。 祖父は儒学者の神林復所で父は漢学者で漢詩人の大須賀筠軒。福島尋常中学校(現在の福島県立安積高等学校)、宮城県第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)から第二高等学校(現在の東北大学)を経て東京帝国大学文科大学国文科卒業。卒業後は教員として中学、高等女学校で教えたのち、若くして東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授に就任した。東大卒で学者一族の家系という毛並みの良さと文才を評価され、早くから新傾向俳句の旗手として嘱望された。『海紅』の河東碧梧桐に師事、同じ旧制二高出身(ただし碧梧桐は中退)で才能も評価された乙字に対し碧梧桐の期待は高かったが、海紅堂事件に端を発する海紅同人同士の内部対立により1915年5月に離脱。
長井 真琴(ながい まこと、1881年〈明治14年〉7月28… 長井 真琴(ながい まこと、1881年〈明治14年〉7月28日 - 1970年〈昭和45年〉8月8日)は、日本の仏教学者。学位は、文学博士(東京帝国大学)。福井県丹生郡殿下村(現福井市)出身。浄土真宗高田派勝鬘寺の長井真応住職の長男。真向法創始者長井津、海軍少将長井満は実弟。長男に仏教学者長井真先、四女に鎌倉女子大学学園主松本紀子、次男に東京大学名誉教授長井善見。姪孫に仏教学者佐々木閑。 日本におけるパーリ語仏典研究の草分けと評される。1924年(大正13年)、高楠順次郎らとパーリ語仏典の律の注釈書『サマンタパーサーディカー』の校訂に着手し、30年をかけて完成させている。NHKのパーリ語のラジオ講座も担当した。
小山内 薫(おさない かおる、1881年〈明治14年〉7月2… 小山内 薫(おさない かおる、1881年〈明治14年〉7月26日 - 1928年〈昭和3年〉12月25日)は、明治末から大正・昭和初期に活躍した日本の劇作家、小説家、演出家、批評家、詩人。 日本の演劇界の革新にその半生を捧げた"新劇の父" 。 1909年に「自由劇場」を、1924年に土方与志らと「築地小劇場」を設立し、新劇運動に尽力した。戯曲に『第一の世界』(1920年)、『息子』(1922年)などがある。また、1919年に松竹本社理事兼松竹蒲田撮影所撮影総監督となり、1920年松竹キネマ俳優学校校長、松竹キネマ研究所設立を通して、トーキー(発声映画)が登場する日本映画黎明期に深く関わった。 1881年(明治14年)7月26日、広島陸軍衛戍病院長・小山内建の二男として後の広島市細工町(現在の大手町一・二丁目付近)に生まれた。
荒川 真郷(あらかわ まさと、1881年(明治14年)7月2… 荒川 真郷(あらかわ まさと、1881年(明治14年)7月25日 - 1951年(昭和26年)10月26日)は、日本の陸軍軍人、政治家。衆議院議員、陸軍少将。 熊本市出身。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。1903年(明治37年)2月12日、歩兵少尉に任官。その後、日露戦争・済南事件に従軍した。1928年(昭和3年)8月10日、歩兵大佐に昇進し富山連隊区司令官に就任。1931年(昭和6年)8月1日、歩兵第21連隊長に転じた。1933年(昭和8年)8月1日、陸軍少将に進級し待命となり、同年8月30日、予備役に編入された。 その後、熊本県選挙粛正地方委員、九州司法保護事業聯盟評議員、熊本県社会教育協会副会長、帝国在郷軍人会熊本市聯合分会長などを務めた。
大谷 米太郎(おおたに よねたろう、1881年7月24日 -… 大谷 米太郎(おおたに よねたろう、1881年7月24日 - 1968年5月19日)は、日本の実業家、稲川部屋所属の元大相撲力士。四股名は鷲尾嶽。太平洋戦争前は「鉄鋼王」と称された。戦後の一時期は菊池寛実、南俊二とともに「日本の三大億万長者」と並び称された。ホテルニューオータニ創業者。 富山県西礪波郡正得村(現・小矢部市)水落集落出身。 貧農の家庭に長男として生まれ、31歳になるまで一家を養うために農家の小作として使われる生活を送った。31歳の時、僅かな金(20銭)を親から借りて裸一貫で上京したが、保証人もいない単身田舎から出てきた男にまともな仕事は見つからず、日雇人夫となっていた。 やがて力自慢でならしていた米太郎に稲川部屋から声がかかり、大相撲力士となる。
松井 房治郎(まつい ふさじろう、1881年(明治14年)7… 松井 房治郎(まつい ふさじろう、1881年(明治14年)7月23日 - 1937年(昭和12年)12月10日)は、朝鮮総督府官僚。 京都府愛宕郡岩倉村(現在の京都市左京区)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学を卒業。大蔵省を経て、朝鮮総督府で財務部長や税関長を務め、全羅南道内務部長、慶尚南道内務部長、京畿道内務部長、京城府尹を歴任し、1929年(昭和4年)に咸鏡南道知事に就任した。 1930年(昭和5年)に退官した後は、朝鮮米穀倉庫株式会社社長、朝鮮郵船株式会社取締役、朝鮮農会副会長などを務めた。
高木 繁(たかぎ しげる、1881年7月20日 - 1946… 高木 繁(たかぎ しげる、1881年7月20日 - 1946年11月27日)は、明治-昭和時代前期の日本の医学者。泌尿器科学における日本のパイオニア。九州帝国大学医学部泌尿器科を設立し、初代教授となる。1933年皆見省吾と雑誌「皮膚と泌尿」を創刊。皮膚疾患治療剤グリテールを開発した。また、江戸末期の浮世絵師、歌川国芳に注目し、その作品を収集。息子である高木健太郎が繁の遺志を継ぎ、健太郎の妻の節子が平成12年に「高木繁浮世絵コレクション」として約530点を名古屋市博物館に寄贈。『名古屋市博物館資料図版目録二』に全作品が掲載されている。 下山順一郎(日本最初の薬学博士、東京大学教授、私立薬学校:現東京薬科大学の創立者、初代校長)と母志満の長男として、東京都神田区新石町に生まれる。
岡村 金蔵(おかむら きんぞう、1881年7月17日 - 没… 岡村 金蔵(おかむら きんぞう、1881年7月17日 - 没年不明)は、日本の工学者。 オイルシェール(油母頁岩)から含有される石油を採取する方法を発明した。この発明を実施しつつあった南満洲鉄道株式会社撫順炭鉱の1938年の生産量は、粗油14万5千トン(重油8万5百トン)に達した。1939年の日本の十大発明家の1人に選出されている。 1906年に京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。その後、八幡製鉄所に入る。1910年に京都市技師を経て、1913年に南満洲鉄道株式会社に入る。1928年に撫順炭鉱臨時製油工場建設事務所長となり、同社の研究所長、化学課長を歴任した。1934年に退社した。
松山 茂(まつやま しげる、明治14年〈1881年〉7月14… 松山 茂(まつやま しげる、明治14年〈1881年〉7月14日 - 昭和12年〈1937年〉12月29日)は、大正・昭和期の日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。長崎・平戸出身。 旧平戸藩士・松山雲八の五男。私立尋常中学猶興館より海軍兵学校に入学。海兵30期を187名中74位で卒業。30期の首席は百武源吾大将。同期8名の中将の中では156位の重岡信治郎中将、99位の湯地秀生中将に次ぐハンモックナンバー下位のスタート。「松島」での遠洋航海を終えて「磐手」乗組が初任地。日露戦争をそのまま「磐手」のクルーとして経験し、蔚山沖海戦・日本海海戦に参加。蔚山沖海戦後の明治38年(1905年)1月12日、中尉に進級している。
細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 -… 細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 - 1968年6月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県多可郡松井庄村(現・多可町)生まれ。1907年、早稲田大学商科卒。農業の傍ら、松井庄村議、多可郡議、同参事会員、兵庫県参事会員となる。また、松井庄商事(株)専務理事、多可郡工業会長、兵庫県播州織工業組合、工業組合中央会、商工組合中央会各理事、兵庫県織物組合連合会、同県織物統制組合各理事長を歴任した。 1923年9月25日の兵庫県会議員選挙に多可郡選挙区から立候補して、当選した。しかし、1924年4月11日に失職した。その後、1927年9月25日に返り咲いた。1931年、1935年、1939年の選挙にも当選した。
村瀬 玄(むらせ げん、1881年(明治14年)7月12日 … 村瀬 玄(むらせ げん、1881年(明治14年)7月12日 - 1963年(昭和38年)5月6日)は、日本の会計学者。元東京商科大学(現・一橋大学)附属商学専門部教授。日本会計学会発起人。 愛知県出身。1899年愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)卒業、同校嘱託教員。1903年東京高等商業学校(現・一橋大学)附属商業教員養成所卒業。1923年ペンシルベニア大学ウォートン・スクール卒業、MBA(経営学修士)。 熊本県立商業学校(現・熊本県立熊本商業高等学校)教諭時代の教え子に、のちに同僚になる堀潮がいた。小倉市立小倉商業学校(現・福岡県立小倉商業高等学校)校長を経て、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)教授在任中、1921年から1924年までイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国に留学。
松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7… 松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7月9日 - 1938年(昭和13年)3月2日)は、大正・昭和初期にかけて活動した日本画家。本名は輝夫。 播磨北部の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家・松岡家に産まれた。父は松岡操。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。他に3人の兄がいたが夭折し、成人したのは映丘を含め5人で、これが世にいう「松岡五兄弟」である。 幼少時に長兄の鼎に引き取られ、利根川べりの下総中部の布川町(現在の茨城県北相馬郡利根町)に移った。
綾浪 源鋭(あやなみ げんえい、1881年7月6日 - 19… 綾浪 源鋭(あやなみ げんえい、1881年7月6日 - 1927年10月27日)は、現在の青森県青森市出身で追手風部屋に所属した力士。本名は一戸 源逸。8代湊川。179cm、101kg。最高位は東関脇。 6代高砂の遺弟子。1900年5月序ノ口、1909年1月十両昇進、1910年1月新入幕。幕下時代に日露戦争に従軍し、金鵄勲章功六級と勲八等白色桐葉章を授与された。後に土俵入りで化粧廻しに勲章をつけて人気を博した。1911年2月に横綱梅ヶ谷と引き分け、1912年5月関脇昇進。1915年5月には新鋭栃木山を破っているが1916年1月引退し、8代湊川を襲名。湊川部屋を再興し、綾錦や楢錦を育てた。 二所ノ関部屋を率いた玉錦が若い頃に酒で暴れて立場を悪くした時、綾浪は親身になって玉錦を庇って救った。
須藤 新吉(すどう しんきち、1881年〈明治14年〉7月4… 須藤 新吉(すどう しんきち、1881年〈明治14年〉7月4日 - 1961年〈昭和36年〉12月21日)は、日本の哲学者、論理学者、心理学者。第一高等学校名誉教授。 新潟県中蒲原郡能登村(現 新潟市南区能登)出身。1901年(明治34年)3月に新潟中学校を卒業、1905年(明治38年)7月に第三高等学校を卒業、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専修)を卒業。 1908年(明治41年)10月から1910年(明治43年)7月まで、浦和中学校に嘱託教師として勤務。1909年(明治42年)9月から1914年(大正3年)7月まで、東京帝国大学文科大学大学院で心理学を研究(「リズムノ生理心理的研究」)。
張 忠一(ちょう ただかず、1881年7月3日 - 没年不詳… 張 忠一(ちょう ただかず、1881年7月3日 - 没年不詳)は、日本の鉄道技術者。 山口県士族張至誠の長男として生まれる。1901年福岡県立中学修猷館を経て、1908年7月東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。 四日市製紙、富士製紙などに勤務した後、1912年鉄道院の技手となり、鉄道技師に進み、鉄道大臣官房研究所兼経理局第二課勤務を経て、1929年鉄道大臣官房研究所第一科長に就任。1935年5月退官する。
大八木 喬輔(おおやぎ きょうすけ、1881年7月 - 没年… 大八木 喬輔(おおやぎ きょうすけ、1881年7月 - 没年不詳)は、日本の陸軍法務官、弁護士。 福岡県遠賀郡底井野村(現・中間市)に生まれる。1900年福岡県中学修猷館、1904年7月第一高等学校独法科を経て、1907年7月京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 卒業後、直ちに志願兵として小倉歩兵第14連隊に入隊し三等主計に任官。1909年東京第1師団軍法会議法務官、次いで岡山第17師団軍法会議法務官、1912年台湾総督府軍法会議法務官、1916年青島守備軍軍法会議法務官兼青島守備軍法院裁判官、1920年小倉第12師団軍法会議法務官を歴任し、軍事法務上の一大権威と称されるが、1925年官を辞し、小倉市で弁護士を開業。
食満 南北(けま なんぼく、1880年(明治13年)7月31… 食満 南北(けま なんぼく、1880年(明治13年)7月31日 - 1957年(昭和32年)5月14日)は、明治から昭和にかけての歌舞伎作者、作家。本名は食満 貞二(けま ていじ)。 大阪府堺市の裕福な酒造家に生まれる。幼少のころから芝居や落語など芸道に通じ、上京後、早稲田大学に入学し坪内逍遥に師事した。また村上浪六に弟子入りしたり、さまざまな職を経て、1905年(明治38年) 4月、田村成義の紹介で歌舞伎座の福地桜痴の門人となり本名のまま見習い作者となる。翌年4月に関係者と揉めて帰阪し、三代目片岡我當に招かれて松嶋屋の座付き作者となる。 1909年(明治42年) からは初代中村鴈治郎の一座に加わり松竹に所属。
大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 … 大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 - 1943年1月18日)は、日本の実業家・社会事業家・慈善家。倉敷紡績および倉敷毛織(現・クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を歴任、大原財閥を築く。社会・文化事業にも熱心で、財団法人石井記念愛染園、倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所(現・大原記念労働科学研究所)、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補習学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立。 早稲田大学推薦校友。
田崎 仁義(たざき まさよし、旧名:義介、1880年〈明治1… 田崎 仁義(たざき まさよし、旧名:義介、1880年〈明治13年〉7月25日 - 1976年〈昭和51年〉1月30日)は、日本の経済学者。経済学博士。国士舘大学教授。大阪商科大学名誉教授。専門は中国古代経済史。 新潟県北蒲原郡大室村(現 阿賀野市大室)の田崎恒四郎の次男として出生。 1888年(明治21年)9月、8歳の時に父が亡くなると、水原町の豪農・佐藤家に奉公しながら苦学し、1896年(明治29年)に新潟中学校の2年に編入。 1900年(明治33年)3月に新潟中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に東京高等商業学校予科を卒業、1905年(明治38年)7月に東京高等商業学校本科を卒業、1907年(明治40年)7月に東京高等商業学校専攻部を卒業。
愛知 敬一(あいち けいいち、1880年〈明治13年〉7月2… 愛知 敬一(あいち けいいち、1880年〈明治13年〉7月25日 - 1923年〈大正12年〉6月23日)は、日本の物理学者。東北帝国大学理科大学物理学科教授を務めた。 1880年(明治13年)東京府生まれ。 東京帝国大学卒業。東京帝大講師、京都帝大助教授。ヨーロッパへの留学を経て、1911年(明治44年)に東北帝国大学理科大学(理学部)の教授に就任した。1912年には、総長推薦によって同大学から博士号(物理学)を授与された。 1922年(大正11年)のアルベルト・アインシュタイン訪日時には、神戸港に出迎え、仙台市公会堂で行われた講演会でも通訳を務めた。 1923年(大正12年)、食中毒(フグ毒による)により急死、42歳没。
牧野 一成(まきの かずしげ、1880年(明治13年)7月2… 牧野 一成(まきの かずしげ、1880年(明治13年)7月22日 - 1958年(昭和33年)9月25日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧丹後田辺藩主・牧野弼成の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1916年2月21日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、同大学科を修了。1915年、大礼使典儀官を務めた。 1921年2月、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1932年7月まで2期在任した。
深沢 友彦(ふかざわ ともひこ、1880年(明治13年)7月… 深沢 友彦(ふかざわ ともひこ、1880年(明治13年)7月20日 - 1970年(昭和45年)8月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。第10代八王子市長を務めた。 細川家の家臣である深澤家の長男として熊本県熊本区藪内町(現熊本市中央区上通町)に生まれる。熊本県立済々黌中学校を卒業後、1900年(明治33年)に陸軍士官学校(12期)卒業。1901年(明治34年)6月25日、陸軍歩兵少尉に任官。シベリア出兵では1924年(大正13年)10月にサガレン州派遣軍歩兵第一大隊長となる。 その後、熊本陸軍幼年学校長、熊本陸軍教導学校長、歩兵第45連隊長などを経て、1930年(昭和5年)12月、陸軍少将に進み歩兵第33旅団長に就任。