福地 信世(ふくち のぶよ、1877年7月15日 - 193… 福地 信世(ふくち のぶよ、1877年7月15日 - 1934年5月22日)は、日本の地質工学者、舞踏作家。
7月生まれ:10,459人
福地 信世(ふくち のぶよ、1877年7月15日 - 193… 福地 信世(ふくち のぶよ、1877年7月15日 - 1934年5月22日)は、日本の地質工学者、舞踏作家。
図師 兼弐(ずし けんじ、旧字:圖師兼貳 1877年(明治1… 図師 兼弐(ずし けんじ、旧字:圖師兼貳 1877年(明治10年)7月15日 - 1954年(昭和29年)10月15日)は、日本の衆議院議員。福岡県八幡市長。農商務官僚。 宮崎県臼杵郡北浦村(現在の延岡市)出身。1900年(明治33年)に日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格した。関東州民政署属を経て、1906年(明治39年)に農商務省山林属となった。同年、林務官となり、以後熊本大林区署経理課長、広島大林区署庶務課長、山林事務官、高知大林区署林務課長、熊本大林区署林務課長、青森大林区署林務課長、東京大林区署林務課長を歴任した。1920年(大正9年)に退官した後も農商務省嘱託を務めた。
暁烏 敏(あけがらす はや、1877年〈明治10年〉7月12… 暁烏 敏(あけがらす はや、1877年〈明治10年〉7月12日 - 1954年〈昭和29年〉8月27日)は、日本の、真宗大谷派の僧侶・宗教家。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて、加賀の三羽烏という。 1877年(明治10年)、石川県石川郡出城村字北安田(現:白山市北安田)の真宗大谷派の明達寺に長男として生まれる。父の暁烏依念(えねん)は説教使として知られた人物であった。母の千代野も、清貧に甘んじた夫に尽くし、敏の教育に熱心な母であった。 1887年(明治20年)、父依念と死別。
喜谷 六花(きたに りっか、1877年(明治10年)7月12… 喜谷 六花(きたに りっか、1877年(明治10年)7月12日 - 1968年(昭和43年)12月20日)は、日本の俳人。曹洞宗華嶽山梅林寺住職、28世慈門良哉大和尚、曹洞宗権大教師。東京府出身。 1877年(明治10年)に浅草区(現在の東京都台東区東部)浅草馬道で生まれる。16歳で曹洞宗の僧籍に入り、曹洞宗高等学林(現在の駒澤大学)や哲学館(現在の東洋大学)に学び、1897年(明治30年)に下谷区(現在の台東区西部)の梅林寺住職となる。そのころから俳句を詠み始め、日刊紙『二六新報』の中村楽天が主宰する「二六吟社」同人になったのを皮切りに『ホトトギス』や『日本俳句』などに定形俳句を投句、やがて河東碧梧桐の新傾向俳句に傾倒し、碧梧桐の門人となる。
高松 正道(たかまつ まさみち、1877年(明治10年)7月… 高松 正道(たかまつ まさみち、1877年(明治10年)7月9日 - 昭和14年(1939年)9月3日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→純正国民党)、ジャーナリスト。 堺県丹南郡野田村(現在の大阪府堺市東区)出身。文学寮高等科(現在の龍谷大学)を卒業。中央公論社、中央新聞社、大阪朝日新聞社の記者を経て、大阪新聞通信社の社長を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に立憲国民党から出馬し、当選を果たした。その後、普通選挙を主張し、党議に敗れて離党した。 その他、大阪府立憲青年会幹事長、河泉農業組合長などを務めた。
寺岡 平吾(てらおか へいご、1877年(明治10年)7月7… 寺岡 平吾(てらおか へいご、1877年(明治10年)7月7日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 山形県出身。村会議員・寺岡儀一の五男として生れる。荘内中学校を経て、1899年(明治32年)12月、海軍兵学校(27期)を卒業し、1901年(明治34年)1月、海軍少尉任官。日露戦争では第1艇隊艇長として出征した。 1905年(明治38年)9月、「扶桑」水雷長となり、海兵教官、「厳島」・「常磐」の各水雷長、軍令部出仕などを経て、1910年(明治43年)3月、東郷平八郎大将付副官に就任。翌年3月、「鞍馬」分隊長に着任し、横須賀予備艦隊副官、海軍省人事局員、「比叡」副長などを歴任。
世良 静一(せら せいいち、1877年(明治10年)7月6日… 世良 静一(せら せいいち、1877年(明治10年)7月6日 - 1950年(昭和25年)2月19日)は、日本の衆議院議員。検事。弁護士。 広島県比婆郡本村(現在の庄原市)出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補として浦和地方裁判所に勤務した。翌年3月、陸軍理事試補に転じ、7月に同理事・留守第1師団法官部員となり、9月に退官した。その後は弁護士を開業した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1917年(大正6年)からは検事となり、宇都宮地方裁判所検事、新潟地方裁判所検事、静岡区裁判所検事、山田区裁判所検事を歴任した。
尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2… 尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2日 ‐ 1965年(昭和40年)9月19日) は、日本の実業家・政治家。衆議院議員。 愛媛県温泉郡松山(現松山市)で愛媛県士族・尾崎敬正の長男として生まれた。年少のころは文学者を志していた。愛媛県尋常中学校(のち松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。さらに同大学院で経済学、財政学を研究した。官界を志望していたが実業界に転じた。 三井銀行に入行し、調査課長、部長を歴任。中国興業(中日実業)公司設立の際に三井銀行から出向して専務取締役に就任。その他、浦口土地組合代表、中国綿業取締役、中日銀行取締役、東洋拓殖理事、朝鮮鉄道監事を務めた。
佐々木 芳照(ささき ほうしょう、1877年(明治10年)7… 佐々木 芳照(ささき ほうしょう、1877年(明治10年)7月1日 - 1952年(昭和27年)6月27日)は、日本の僧、政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県諸県郡、のちの宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。京都本願寺文学寮本科で学ぶ。語学研究及び状況視察のため、シンガポール、オランダ領東インド、パリに留学する。帰国後、本願寺派摂護寺で布教活動に従事する。都城天竜幼稚園、日州学院を創立する。摂護寺住職、本願寺派本願寺執行所に出仕し、本願寺台湾別院輪番兼台湾開教教所賛事を経て、本願寺アメリカ合衆国開教総長となる。帰国後、内務省道府県感化院教諭となる。その後、宮崎県慎修学校(現・宮崎県立みやざき学園)校長に就任する。
古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)… 古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)は、日本の教育者。 福岡県山門郡沖端村(後の柳川町、柳川市の一部)出身で、古賀生三の子。同じく沖端村(柳川)出身の詩人北原白秋の親友であったといわれている。中学伝習館(現:福岡県立伝習館高等学校)、1899年7月第五高等学校文科を経て、1902年7月東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 青森県立八戸中学校教諭を経て、長崎県立島原中学校校長、埼玉県立川越中学校校長、埼玉県立熊谷中学校校長を歴任。1924年から1930年まで鹿児島県立第二鹿児島中学校校長。在任中に鹿児島県議会を説得し、第二鹿児島中学校校舎の鉄筋コンクリート造新校舎への建て替えに尽力。
名島 嘉吉郎(なしま かきちろう、1877年〈明治10年〉7… 名島 嘉吉郎(なしま かきちろう、1877年〈明治10年〉7月 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、鳥取県の大地主。米子商工会議所顧問。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)出身。名島嘉吉郎の長男。1909年、家督を相続し、前名・庄三郎を改め襲名する。砂糖、醤油、肥料商並金銭貸付業を営む。 銀行会社の重役であり、中国興業銀行頭取、博愛病院代表取締役、山陰貯蓄銀行、米子ガス各取締役、名島合名会社代表社員をつとめる。 宗教は浄土宗。趣味は囲碁、盆栽。住所は米子市博労町1丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1… 中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1968年12月1日)は日本の思想家、実業家。日本初のヨーガ行者で、天風会を創始し心身統一法を広めた。本名は中村三郎(なかむらさぶろう)。
北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日… 北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日 - 昭和24年(1949年)12月21日)は、明治から昭和にかけて活動した洋画家。 岐阜県厚見郡北一色村(現在の岐阜市北一色)の香厳寺に、北淳心と房衛の次男として生まれる。幼少期には両親が読経を教えようとしても覚えず、絵ばかり描いていたという。1889年(明治22年)東京で女学校の教員をしていた姉を頼って上京、同郷の山本芳翠と合田清らによって設立された生巧館画塾に入る。蓮蔵は芳翠の書生をしていたと後に回想しており、また時に「芳翠二世」を名乗り、蓮蔵と芳翠を「親戚」とする同時代資料もある(真偽不明)ことから、両者は単なる画塾の師弟にとどまらない深い関係にあったようだ。
志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 194… 志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 1946年1月17日)は、日本の国文学者・俳人。学位は、文学博士(1937年)(学位論文「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」)。元東洋大学教授。連歌俳諧研究、説話研究、歌謡研究、辞典の編纂など、多方面に業績を残した。 富山県上新川郡出身。旧姓は藤井。俳号は素琴。富山中学校[要出典]、第四高等学校を経て[要出典]、1903年東京帝国大学文学部国文科卒。第六高等学校教授、1925年旧制成蹊高等学校教授、東洋大学教授。1937年「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」で文学博士の学位を取得。日本で初めて俳文学によって文学博士の学位を取得した[要出典]。
永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月… 永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月23日 - 1943年(昭和18年)9月17日)は、兵庫県三原郡長田村(現:南あわじ市倭文長田)出身の日本の官僚、政治家、俳人、随筆家。第18代官選三重県知事、第8代・第14代東京市長、第4代拓殖大学学長、貴族院勅選議員。廣田内閣の拓務大臣、阿部内閣の鉄道大臣を歴任。俳名・筆名は永田 青嵐(ながた せいらん)で、多くの著書や句集を残している。 長男は自由民主党衆議院議員の永田亮一。 初代倭文村村長を務めた永田実太郎の次男として出生。弟に京都市土木局長、横浜市電気局長を務めた永田兵三郎がいる。 三原高等小学校卒業後、進学校の1つだった姫路中学校を受験するが不合格となる。
北沢 楽天(きたざわ らくてん、1876年7月20日 - 1… 北沢 楽天(きたざわ らくてん、1876年7月20日 - 1955年8月25日)は明治から昭和にかけて活躍した日本の漫画家、日本画家である。本名は保次(やすじ)。楽天は『時事漫画』や『東京パック』等の新聞や雑誌を中心として、多数の政治風刺漫画や風俗漫画の執筆で活躍した。 楽天は日本初の職業漫画家とみなされる事もあり、その漫画の人気は、現代における「漫画」という用語が広く一般に普及するのに多大な影響を与えた(最初に、西洋の「カートゥーン」の訳語として「漫画」という用語を使用したのは今泉一瓢である。楽天は、「コミック」の訳語として「漫画」という用語を最初に使用した)。また、戦前に発行された『楽天全集』は、幼少期の手塚治虫に影響を与えた作品の一つとして特筆される。
兒玉 秀雄[注 1](児玉秀雄、こだま ひでお、明治9年(1… 兒玉 秀雄[注 1](児玉秀雄、こだま ひでお、明治9年(1876年)7月19日 - 昭和22年(1947年)4月7日)は、日本の政治家、貴族院議員、官僚、伯爵。
児玉 秀雄(旧字体: 兒玉 秀雄、こだま ひでお、1876年… 児玉 秀雄(旧字体: 兒玉 秀雄、こだま ひでお、1876年〈明治9年〉7月19日 - 1947年〈昭和22年〉4月7日)は、日本の政治家、貴族院議員、官僚、伯爵。 山口県出身で陸軍大将児玉源太郎の嫡男。千葉県の佐倉英学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)から東京府尋常中学校(後に府立一中を経て現在の東京都立日比谷高等学校)入学、同期に渋沢元治など。 旧制第二高等学校を経て、1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、大蔵省入省。 同年11月、文官高等試験合格。主に理財局や、臨時煙草製造準備局などを経て、1905年(明治38年)2月、大本営御用掛。日露戦争において遼東守備軍司令部付、満洲軍総司令部付を経て、同年9月、煙草専売局事務官兼大蔵書記官に復帰。
中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日 - 1… 中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日 - 1942年9月4日)は、日本の数学者、学校教授。 1876年7月、石川県で士族の中川富三と、きくの間に生まれ、1895年7月3日に第四高等学校第二部理科を卒業。1897年7月10日東京帝国大学理科大学数学科で特待生を勝ち得て、1898年に卒業した。 1898年(明治31年)8月13日、第二高等学校教授を任ぜられた。1899年9月5日、高等官七等で高等師範学校教授に任命された。 1901年11月16日、文部科学省外国留学生として、日本を発ち、ドイツに留学した。1905年2月27日に帰国した。 1904年11月25日、東京帝国大学理科大学助教授に任命された。
長尾 景徳(ながお かげのり、1876年(明治9年)7月15… 長尾 景徳(ながお かげのり、1876年(明治9年)7月15日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。台湾総督府官僚。 山形県米沢市出身。1903年(明治36年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補を経て、1905年(明治38年)より台湾総督府法院の判官となった。高等法院勤務を経て、1918年(大正7年)に台湾総督府法務部長に就任した。1921年(大正10年)に退官した後は弁護士を開業。台北弁護士会会長や台湾瓦斯株式会社監査役を務めた。
小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 -… 小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 - 1956年4月26日)は、日本の洋画家。秋田県出身。 秋田県仙北郡六郷町(現美郷町)の素封家の家に生まれる。小西忠兵衛(5代。幼名は正治。号は交和)の長男。弟は六郷町郵便局長の宗吉。正太郎が生まれた当時の小西家の主な資産は、小作米500俵、町内に3,300平方メートルの敷地、山林5ヘクタールと記録され、六郷町下では第二の資産家であった。六郷小学校から秋田県立秋田中学校を経て1895年(明治28年)東京美術学校予科に進んだ。翌年日本画の本科に進んだが、このころ洋行を終えて帰国した黒田清輝が西洋画科の初代教授として美術学校に赴任するとたちまちその影響を受け、西洋画に転じて黒田に師事した。
上塚 周平(うえつか しゅうへい、1876年(明治9年)7月… 上塚 周平(うえつか しゅうへい、1876年(明治9年)7月12日 - 1935年(昭和10年)7月6日)は、日本のブラジル移民功労者。「ブラジル移民の父」と称される。 熊本県下益城郡赤見村(現・熊本市南区城南町赤見)の上塚家の本家(ほんいえ)に生まれる。済々黌高等学校、旧制第五高等学校(現・熊本大学)を経て、1907年(明治40年)3月に東京帝国大学法科を卒業する。 同年11月、皇国殖民会社の社長を務める水野龍がブラジルサンパウロ州農務局と日本移民輸送契約を調印。翌年の1908年(明治41年)、代議士の江藤哲蔵の推薦により周平はブラジル行第1回移民の輸送監督兼会社代理人として170家族・792人を率いて移民船・笠戸丸に乗船、4月28日に神戸港を出航する。
椎尾 弁匡(しいお べんきょう、1876年7月6日 - 19… 椎尾 弁匡(しいお べんきょう、1876年7月6日 - 1971年4月7日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶・政治家。大正大学学長・大本山増上寺法主などを歴任。三康文化研究所の初代所長。 1878年、名古屋円福寺住職椎尾順位の五男として生まれ、13歳で得度。東京帝国大学文学部を恩賜の銀時計組で卒業後、宗教大学(後の大正大学)・日本大学・早稲田大学などで仏教学の講義を担当。1913年に東海中学校校長となり、1922年に仏教運動として共生(ともいき)運動を始める(英語の呼称は1923年に考案した。英: the Philosophy of Symbiosis)。1915年(大正4年)、東京帝国大学に学位論文を提出して文学博士号を取得 1926年に大正大学教授に就任、同学学長を3度経験する(第6代・第9代・第14代)。
木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 … 木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 - 昭和17年(1942年)11月29日)は、明治から昭和初期の日本画家。横山大観、下村観山、菱田春草らと共に、岡倉覚三(天心)のもとで日本画の近代化に努めた。 明治9年(1876年)7月、茨城県笠間市に木村信義の長男・信太郎として誕生。父は元笠間藩士で、廃藩後に笠間銀行(現・常陽銀行)を設立し頭取となり、明治45年(1912年)4月には笠間電気株式会社の設立と共に社長に就任している。2歳の頃から地元の南画家・桜井華陵に師事。12歳頃には「武山」の号を用いており、この号は笠間のシンボルとも言える佐白山・山上の別称「阿武山(おたけ)」に由来する命名される。
麻生 イト(あそう いと、1876年〈明治9年〉7月3日 -… 麻生 イト(あそう いと、1876年〈明治9年〉7月3日 - 1956年〈昭和31年〉7月20日)は、広島県尾道市出身の実業家・慈善家。麻生 以登とも。教育分野・社会インフラ事業・文化事業などに私財を投じた。因島の麻生旅館主。侠客「因島の女親分」として、勝新太郎主演のヒット映画『悪名シリーズ』で唯一実名で出てくることで知られる。原作の小説『悪名』(今東光)には実在した親分衆が数名登場する。 尾道十四日町、現在の十四日元町から長江のあたりで煙草屋あるいは宿屋を営んでいた麻生家の三女として生まれる。小学校を卒業後、神戸に養女に出される。これ以降しばらくイトの詳細はわかっておらず、関西で住み込み女中や工事現場の事務員、また北海道に移り住んでいたなど、転々としていた。
玉置 良直(たまき よしなお、1876年7月2日 - 193… 玉置 良直(たまき よしなお、1876年7月2日 - 1934年9月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 奈良県出身。十津川村会議員、同村長、吉野郡会議員、同議長、奈良県会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、大和山林会評議員となる。 泊園書院(現・関西大学)を経て東京専門学校(現・早稲田大学)で学び、1920年の第14回衆議院議員総選挙において奈良5区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1934年に死去した。
中川原 貞機(なかがわら ていき、1876年(明治9年)7月… 中川原 貞機(なかがわら ていき、1876年(明治9年)7月2日 - 1948年(昭和23年)6月9日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。 青森県三戸郡扇田村(浅田村を経て現在の五戸町)に生まれる。東京法学院を卒業後、家業を継ぎ、五戸産馬組合員、青森県産馬連合会役員を歴任し、多くの優良馬を育成する。1924年(大正13年)五戸産馬組合長の時、皇太子の乗用馬「ミヨシ」号を納める。その後、馬政局から産馬功労者として表彰を受けた。1925年(大正14年)浅田信用組合を創立し、組合長として経営に当たった。ほか、五戸銀行監査役、泉山銀行、五戸電気各取締役などを歴任した。 1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙では青森県第1区から立憲政友会所属で出馬し、当選。
合田 平(ごうだ ひとし、1876年〈明治9年〉7月 - 1… 合田 平(ごうだ ひとし、1876年〈明治9年〉7月 - 1934年〈昭和9年〉10月24日 )は、大正・昭和期の医師(軍医)。大日本帝国陸軍軍医総監。 新潟県中頸城郡高田町(現・上越市)出身。代々高田藩医を務める合田家六代当主、合田義宜の長男として1876年に生まれる。旧制新潟県立高田中学校、旧制第一高等学校、を経て、1902年3月東京帝国大学医科大学を卒業。陸軍二等軍医に任官する。[要出典] 東京衞戍病院勤務後に、東京帝国大学医学部大学院で学んだ。 近衛師団軍医部長、陸軍省医務局衛生課長、東京第一衞戍病院長を歴任した後、1925年に陸軍軍医監、1928年に陸軍軍医学校長、同年に陸軍省医務局長、1931年に陸軍軍医総監となる。
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31… 柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の官僚、民俗学者。 東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を卒業して農商務省(現在の経済産業省・農林水産省)官僚となり、貴族院書記官長(現在の衆議院事務総長/参議院事務総長に相当)まで昇り詰めた。退官して約20年を経た1946年(昭和21年)に枢密顧問官に補され、枢密院が廃止されるまで在任した。 日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。出版物等においては、常用漢字体による「柳田 国男」という表記も使用される。 「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。
箭内 亙(やない わたり、1875年〈明治8年〉7月17日 … 箭内 亙(やない わたり、1875年〈明治8年〉7月17日 - 1926年〈大正15年〉2月10日)は、日本の東洋史家、東京帝国大学教授。号は尚軒。モンゴル史研究に業績を残した。次男は歴史学者の箭内健次。 福島県西白河郡泉崎村出身。1889年(明治22年)福島県立安積中学校に入学、1894年(明治27年)3月卒業の後、仙台市の第二高等学校を経て、東京帝国大学文科卒。1907年に第一高等学校講師となる。1908年満州朝鮮歴史地理調査部部員となり、白鳥庫吉の指導で調査にあたる。1910年(明治43年)に教授となる。1919年(大正8年)東京帝大東洋史学科助教授、ついで1925年から教授を務めた。 1926年2月10日、胃潰瘍のため死去する。
高橋 龍太郎(たかはし りゅうたろう、1875年(明治8年)… 高橋 龍太郎(たかはし りゅうたろう、1875年(明治8年)7月15日 - 1967年(昭和42年)12月22日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、大日本麦酒社長、高橋ユニオンズオーナー、日本サッカー協会会長(第3代)。 ビール製造技術者から経営者となり、「日本のビール王」とも称される。 愛媛県喜多郡内子村(現内子町)生まれ。旧制松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、脚気の治療のための転地を兼ねて新設された第三高等学校(現京都大学)工学部機械工学科に転校、1898年に卒業する。 高等学校卒業後、大阪麦酒(後の大日本麦酒、現・アサヒグループホールディングスおよびサッポロホールディングス)に入り、1898年から6年間ドイツに留学して醸造技術を学び、帰国後は製造責任者としてビール造りに携わる。
青木 亮貫(あおき りょうかん、1875年(明治8年)7月1… 青木 亮貫(あおき りょうかん、1875年(明治8年)7月15日 - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、医師。 滋賀県甲賀郡、のちの水口村(水口町を経て現甲賀市水口町)に、士族隠岐貢の五男として生まれ、青木亮運の養子となった。大阪府立高等医学校(現在の大阪大学医学部)で内科と精神科を学び、1904年(明治37年)に卒業した。卒業後は大阪府立高等医学校病理教室助手兼大阪府立病院医員となり、日露戦争に従軍した。その後、日本赤十字社医員を経て、社団法人水口病院院長となった。 1915年(大正4年)に滋賀県会議員に当選し、1926年(大正15年)には水口町長に選ばれた。
林 古溪(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 … 林 古溪(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 - 1947年〈昭和22年〉2月20日)は歌人、作詞家、漢文学者、立正大学教授、東洋大学講師。本名は竹次郎。東京・神田出身。哲学館(現東洋大学)教育学部卒。 林羅山に連なる家系で、代々学者の家柄である。林家の次男として東京神田に生まれる。 幼少時代を神奈川県愛甲郡古沢村(現厚木市)で過ごし、古渓の筆名はこの古沢村から採ったという。 10歳の時に父を失って以来、池上本門寺に入って修行。さらに哲学館(現東洋大学)に入学すると国漢を学んだ。漢詩に非凡な才を見せたが、一方で新体詩のグループを作っては積極的に活動を始めた。卒業後、同校付属の京北中学校で国漢科教員となり、生徒たちから「達磨さん」と呼ばれて慕われたという。
馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956… 馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956年4月5日)は、日本のジャーナリスト・政治評論家・実業家。ジャパンタイムズや国民新聞などで自由主義擁護の論陣を張る。第二次大戦後、読売新聞社社長。 岡山県邑久郡長浜村奥浦(現・瀬戸内市牛窓町)に、代々庄屋を務めた馬場家の長男として生まれる。1892年、京都の第三高等学校予科に入学。1895年、三高予科を修了し、仙台の第二高等学校入学。東北学院で押川方義が行っていた聖書の講義に通い、メソジストとして洗礼を受ける。1896年、二高中退。1897年、安部磯雄を追って同志社神学校(現・同志社大学神学部)に入学するが、葛藤の末キリスト教と決別し、一年弱で中退。
景浦 直孝(かげうら なおたか、1875年(明治8年)7月1… 景浦 直孝(かげうら なおたか、1875年(明治8年)7月12日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、明治時代から昭和中期にかけての愛媛県の郷土史家。号は景浦稚桃。 愛媛県松山城下北夷子町72番戸(現松山市三番町2丁目1-3)に、士族景浦充孝の子として生まれる。1894年(明治27年)愛媛県立伊予尋常中学校(後の旧制松山中学校)を卒業。湯殿高等小学校訓導を経て、1901年(明治34年)に松山高等女学校(現松山南高校)の教諭となり、1926年(大正15年)の退職、1926年(大正15年)から1938年(昭和13年)までは北予中学校(現松山北高校)の教諭となる。 1910年(明治43年)愛媛県の公刊事業で、『愛媛県誌稿』の編纂が始まり、景浦は委員に委嘱される。
青山 禄郎(あおやま ろくろう、1875年(明治8年)7月6… 青山 禄郎(あおやま ろくろう、1875年(明治8年)7月6日 - 1940年(昭和15年)1月6日)は、日本の技術者、実業家。日本信号創業者。電信・無線・信号・電気事業の分野で幾つもの国家的重責を担った。日産自動車のダットサン(DAT)のAは青山に由来する。 1875年(明治8年)7月6日に岡崎で父・鈴山巌と母・智恵の間に生まれる。愛知県額田郡高等小学校卒業。静岡中学校を中退し、1891年(明治24年)9月に上京して東京郵便電信学校に転校した。1892年(明治25年)に青山家に養嗣子として入籍した。1893年(明治26年)に東京郵便電信学校を首席で卒業し、逓信技手に任ぜられ逓信省電務局に勤務した。
戸部 良祐(とべ りょうすけ、1875年7月6日 - 193… 戸部 良祐(とべ りょうすけ、1875年7月6日 - 1934年12月19日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員(1期)。 石川県出身。1900年、陸軍教導団歩兵科卒。のちに明治法律学校で学ぶ。日露戦争に従軍し、帰国後は小学校訓導、石川県立第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)助教諭心得、第四高等学校助教授となり、区長、七尾町助役、鹿島郡会議員、七尾町議、石川県議となる。また、能登部銀行監査役、七尾無尽(株)取締役社長、能登藁工品同業組合、鹿島郡蚕糸同業組合各組合長を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において石川2区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。
鹿島 精一(かじま せいいち、1875年(明治8年)7月1日… 鹿島 精一(かじま せいいち、1875年(明治8年)7月1日 - 1947年(昭和22年)2月6日)は、大正から昭和時代前期の土木工学者、実業家、政治家。鹿島組社長、土木学会会長、貴族院勅選議員。 旧盛岡藩士葛西晴寧、すえの長男として岩手県岩手郡上田村(現在の盛岡市上田)に生まれる。翌年父晴寧が死去し、家族は仁王村字下台(現在の盛岡市梨木町)母の実家出渕家に引き取られる。盛岡中学を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、逓信省鉄道作業局に出仕する。同年、鹿島組組長の鹿島岩蔵の長女と結婚し、養嗣子となり、鹿島組副組長に就任する。1912年(明治45年)養父の岩蔵の死去により、37歳にして3代目鹿島組組長となり、1930年(昭和5年)鹿島組を株式会社に改組し、初代社長に就任した。
二反長 音蔵(にたんちょう おとぞう、1875年(明治8年)… 二反長 音蔵(にたんちょう おとぞう、1875年(明治8年)7月1日 - 1951年(昭和26年)8月7日)は、日本の農民・農業技術者。阿片の材料となるケシの日本国内栽培に尽力した。「日本の阿片王」と称された。 大阪府三島郡福井村(現在の茨木市)の出身。旧姓は川端。 20歳頃よりアヘン材料となるケシの栽培に興味を示し、台湾総督府要人の後藤新平のバックアップを得ることに成功、福井村でケシ栽培をはじめる。以後ケシの栽培技術と品種の改良に努め、モルヒネ含有量が従来品種の数倍多い三島種を開発した。 昭和戦前期に日本は満州・朝鮮・内蒙古などの植民地・占領地でケシを栽培してアヘンを製造し、これが軍部の収入源となっていた。
田上 郷吉(たがみ さときち、1874年(明治7年)7月30… 田上 郷吉(たがみ さときち、1874年(明治7年)7月30日 - 1959年(昭和34年)7月7日)は日本の元船長。 一般社団法人日本海事検定協会初代会長。勲四等旭日小綬章受章者。 山口県佐波郡右田村に生まれる。 1894年(明治27年)7月 - 官立商船学校航海科に入学。在学中、英国に留学し約5年間にわたり同国帆船に乗船し、航海運用術及び先進各国の海運状況を研究した。 1899年(明治32年)7月 - 官立商船学校航海科卒業と同時に大阪商船株式会社に入社。累進して船長となる。 1906年(明治39年)10月 - 嘱望されて台湾総督府海事官に就任。同時に土木技術士を兼任した。この間に英国ロイド保険協会の台湾全島における海事鑑定人も委嘱された。
岩田 鳴球(いわた めいきゅう、本名:久太郎、 1874年(… 岩田 鳴球(いわた めいきゅう、本名:久太郎、 1874年(明治7年)7月30日 - 1936年(昭和11年)9月22日)は、日本の俳人。 石川県大聖寺町(現・加賀市)本町生まれ。1894年高等商業学校(現・一橋大学)中退。俳句を正岡子規、高浜虚子に学んだ。 三井物産に入社し、1905年から三井物産台湾支店長として台湾に赴任。初の台湾俳誌『相思樹』の選者となり、1906年から『相思樹』主筆。 三井物産専務理事を経て、1918年大本教に入信。総務や出版局(現・天声社)局長、大正日日新聞編集局長、第一天声社社長、統理補などを務めたが、大本事件で、1936年に獄死した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
生駒 粂蔵(生駒 粂造、いこま くめぞう、1874年7月22… 生駒 粂蔵(生駒 粂造、いこま くめぞう、1874年7月22日 - 1944年7月11日)は、明治後期から昭和前期の新聞記者、ジャーナリスト、評論家、翻訳家。報知新聞社調査部長や芸備日日新聞主筆兼編集長を務め、相撲記者の長老として、角界の批評、随筆等に活躍した。将棋界の発展にも貢献し、東京将棋連盟(現・日本将棋連盟)名誉顧問・評議委員を務めた。別名、翺翔(こうしょう、ごうしょう)。聖公会信徒。 1874年(明治7年)7月22日生まれ。1896年(明治29年)、東京・築地の立教大学卒業。 1899年(明治32年)、東京毎日新聞社に入社。明治35年、藝備(芸備)日日新聞主筆兼編集長を経て、報知新聞社に入社。
嵐 橘楽(あらし きらく、1874年7月18日 - 1922… 嵐 橘楽(あらし きらく、1874年7月18日 - 1922年3月)は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元子役である。嵐 橘樂と表記されることもある。また、芸名の読みは「あらし きつらく」と表記されることもある。本名は永田 長治郎(ながた ちょうじろう)。幼名は中村 成子(なかむら なるこ)、旧芸名は中村 鳥次郎(なかむら ちょうじろう)、嵐 喜樂(あらし きらく)。三代目中村翫雀、四代目嵐橘三郎門下の歌舞伎役者から横田商会、日活京都撮影所の旧劇俳優に転じ、子供芝居時代からの幼馴染みである尾上松之助を支える名脇役として活躍したが、志半ばで病没した。 1874年(明治7年)7月18日、大阪府大阪市南区久左衛門町(現在の同市中央区西心斎橋2丁目及び心斎橋筋2丁目辺り)に生まれる。
野田 義夫(のだ よしお、1874年(明治7年)7月15日 … 野田 義夫(のだ よしお、1874年(明治7年)7月15日 - 1950年(昭和25年)11月1日)は、日本の教育者。 福岡県八女郡下広川村(現在の広川町)出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1900年(明治33年)に文部属となり、広島高等師範学校教授、奈良女子高等師範学校教授、文部省督学官、大阪高等学校校長を歴任した。その間の1924年(大正13年)、文学博士号を受けた。 退官後、大阪高等女子職業学校(現在の英真学園高等学校)教授・名誉校長、羽衣高等女学校(現在の羽衣学園中学校・高等学校)校長を経て、1936年(昭和11年)から親和高等女学校(親和中学校・親和女子高等学校)校長を務めた。
川崎 九淵(かわさき きゅうえん、1874年7月11日 - … 川崎 九淵(かわさき きゅうえん、1874年7月11日 - 1961年1月24日)は能楽大鼓の名手。葛野流宗家代理・宗家預りを歴任し、能楽界初の人間国宝となった。また、理論面においても地拍子の法則性を発見するなどの功績を残した。本名・旧名利吉。 1874年7月11日、愛媛県温泉郡魚町(現在の松山市本町近辺)に生れる。幼時より当地で盛んだった喜多流の能を稽古し、松山東雲神社の奉納能において神童との評判を取る。後、師高橋節之助の勧めにより葛野流大鼓を東正親に師事。この方面でもすぐに才能を示し、1892年に来松した石井流宗家石井一斎によって後継者に乞われるほどであったという。 1899年、小学校の同級生であった高浜虚子の兄池内信嘉の勧めにしたがって上京、葛野流預りの津村又喜に師事した。
島崎 赤太郎(しまざき あかたろう、1874年〈明治7年〉7… 島崎 赤太郎(しまざき あかたろう、1874年〈明治7年〉7月9日 - 1933年〈昭和8年〉4月13日)は、日本の作曲家、音楽教育者であり、オルガン奏者である。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 東京の築地(入船)に生まれた。父親の熊次郎は大工棟梁であったが、1886年(明治19年)ごろ、一家をあげてクリスチャンとなった。この父親は1890年(明治23年)の内国勧業博覧会にオルガンを出品していた。赤太郎は東京音楽学校(現・東京藝術大学)入学後、専修部でルドルフ・ディットリヒ、小山作之助らの元で学び、1893年(明治26年)に卒業。そのまま母校の助教となり、1901年(明治34年)には昭憲皇太后御前演奏を行っている。
神田 左京(かんだ さきょう、1874年〈明治7年〉7月7日… 神田 左京(かんだ さきょう、1874年〈明治7年〉7月7日 - 1939〈昭和14年〉7月7日)は、日本の生物学者。ホタルの研究で知られる。 1874年(明治7年)7月7日、長崎県北松浦郡佐々村に生まれる。1901年(明治34年)4月、関西学院普通部および高等部を卒業。1901年4月から1907年(明治40年)7月まで東京市牛込区原町の成城学校の英語教師を務める。この頃は心理学を研究しており、1907年9月から1912年(明治45年)6月までアメリカ・マサチューセッツ州のクラーク大学(en:Clark University)に在学、心理学でマスター・オブ・アーツを取得する。 1912年、1913年、1914年(大正3年)の6月から9月の間はマサチューセッツ州のウッズホール臨海実験所で生物学の研究をする。
佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日… 佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日 - 1949年〈昭和24年〉6月3日)は、日本の劇作家・小説家・俳人。本名:洽六 1874年(明治7年)、現在の青森県弘前市親方町に、旧弘前藩士の父・弥六、母・支那(しな)の次男として出生。 父の佐藤弥六(1842年 - 1923年)は、幕末に福沢諭吉の塾(慶應義塾)で学び、帰郷して県会議員となり産業振興に尽力、また『林檎図解』『陸奥評話』『津軽のしるべ』などの著書も著し、森鷗外の作品「渋江抽斎」にも郷土史家として登場する、弘前を代表する人物だった。 1890年東奥義塾を中退、青森県尋常中学校(後の青森県立弘前中学校 現・弘前高校)に入学。
池田 敬八(いけだ けいはち、旧姓・赤坂、1874年(明治7… 池田 敬八(いけだ けいはち、旧姓・赤坂、1874年(明治7年)7月3日 - 1963年(昭和38年)3月23日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲民政党)、大蔵官僚、弁護士。カナモジ会理事。 三重県度会郡宇治山田町(宇治山田市を経て現在の伊勢市)出身。三重平民・赤坂敬二の三男、あるいは六男として生まれ、池田房明の養子となった。 1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。大蔵省専売局事務官、専売局参事、専売局長官官房監理課長などを経て、1917年(大正6年)からは印刷局長を務めた。 1928年(昭和3年)、退官。三重県第二区より第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
肥田 金一郎(ひだ きんいちろう、1874年7月2日 - 1… 肥田 金一郎(ひだ きんいちろう、1874年7月2日 - 1936年8月11日)は、日本の実業家。父・肥田昭作が採掘権を獲得した福島県高玉鉱山を経営する傍ら、福島県馬産の要職に携わる。日本中央競馬会(JRA)福島競馬場に連なる福島競馬倶楽部の公認開催権取得に功績を残し、また後には1908年の馬券禁止以来苦境に陥っていた千葉県中山競馬倶楽部の地位向上に尽くし、日本の最高障害競走・中山大障害を創設するなど、のちに中央競馬の主要場となる中山競馬場の礎を築いた。政治面では、安達郡高川村長や安達郡会議員を務めた。住所は牛込区市谷甲良町41であった。 1874年、東京市に生まれる。1892年、旧制学習院中等科を卒業し、福島県高玉鉱山に入社、1919年まで経営に携わった。