岡路 市郎(おかじ いちろう、1913年(大正2年)8月11… 岡路 市郎(おかじ いちろう、1913年(大正2年)8月11日 - 2003年(平成15年)4月11日)は、日本の心理学者・俳人。専門は教育心理学。元・北海道教育大学学長。 滋賀県出身。1946年広島文理科大学 (旧制)心理学科卒。その後、1947年北海道大学法文学部助教授、1950年同法経学部助教授を経て、1952年(昭和27年)北海道学芸大学助教授に就任。1959年(昭和34年)同教授。1975年(昭和50年)北海道教育大学7代学長。1983年(昭和58年)北海道教育大学退官。同名誉教授。北星学園大学文学部教授。1988年(昭和63年)北星学園大学定年退職。駒澤大学保育専門学校招聘講師(1992年まで))。
齋藤 美洲(さいとう びしゅう、1913年8月10日 - 1… 齋藤 美洲(さいとう びしゅう、1913年8月10日 - 1997年8月26日)は、英文学者、東京教育大学名誉教授。 東京文理科大学卒。東京教育大学助教授、教授、1977年定年退官、名誉教授。大妻女子大学教授も務めた。 1997年8月26日、肺炎のため死去。
黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991… 黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991年12月7日)は、日本の数学者・数学教育者。 愛知県名古屋市出身。1937年大阪帝国大学理学部卒。東京物理学校教授として上京後、電波科学専門学校(後の東海科学専門学校)の設立に尽力した。1951年に遠山啓らと数学教育協議会を立ち上げた。1953年から北海道大学教育学部助教授、教授を歴任した。1970年に専修大学経営学部教授となった.1984年定年。第7代日本科学史学会会長であった。
北井 正雄(きたい まさお、1913年8月7日 - 1937… 北井 正雄(きたい まさお、1913年8月7日 - 1937年8月7日)は、草創期のプロ野球選手。阪急の初代エース。投手。島根県出身。
浜田 敦(はまだ あつし、1913年〈大正2年〉8月6日 -… 浜田 敦(はまだ あつし、1913年〈大正2年〉8月6日 - 1996年〈平成8年〉9月21日)は、日本の日本語学者。京都大学名誉教授。 浜田耕作の子として京都に生まれる。 1939年に京都帝国大学文学部卒。新村出に師事。戦後に大阪市立大学助教授となるが、1956年に京都大学文学部助教授となり、1969年より国語学主任教授を1977年まで務めた。 1996年に心不全のため死去。 国語学で扱う主要テーマはほぼ全て網羅していたが、中心は上代日本語・中古日本語・中世日本語であった。音韻に関しては、その歴史的変遷を辿ることによって、日本語の音韻の歴史を明らかにするという方向であり、音韻体系そのものではなく、音韻体系の外側にあった音(あるいは体系の外側に生まれてきた音)について綴った。
岡田 一幸(おかだ かずゆき、1913年8月6日 - 198… 岡田 一幸(おかだ かずゆき、1913年8月6日 - 1982年1月24日)は、日本の経営者。北海道出身。 1936年に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、同年に日本石油に入社。1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務を経て、1976年6月に副社長に就任し、1978年6月に社長に昇格した。1980年から相談役を務めた。 1982年1月24日肝不全のために死去。68歳没。
洪 淳熙(ホン・スニ、朝鮮語: 홍순희、1913年8月5日 … 洪 淳熙(ホン・スニ、朝鮮語: 홍순희、1913年8月5日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の産業組合幹部、教育者、政治家。第4代韓国国会議員。 本貫は南陽洪氏。実業家・社会運動家で親日派の洪鍾轍(朝鮮語版)は父、元国会議員の洪永杓(朝鮮語版)は甥(弟の息子)。 日本統治時代の全羅北道(現・全北特別自治道)高敞郡出身。明治大学法科卒。高敞産業組合常務理事、高敞面協議会議員、高敞郡学校評議会員、高敞東中学校理事、高敞女子中学校理事、高敞産業組合長、全北人事処長署理、民主党高敞乙区党委員長・政策委員・中央委員を務めた。1958年の第4代総選挙で民主党の候補として国会議員に当選し、対自由党闘争の闘士として活動したが、在任中に自由党に移籍したため非難を受けた。
面高 正俊(おもだか まさとし、1913年8月4日 - 19… 面高 正俊(おもだか まさとし、1913年8月4日 - 1985年12月28日)は、日本の歴史学者。鹿児島大学名誉教授。専門は西洋史で、門割制度など薩摩藩についての研究もおこなった。 鹿児島県の加世田生まれ。加世田武田(川辺郡加世田村武田、川辺郡加世田町武田、加世田市武田、南さつま市加世田武田)出身。1931年旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)卒業、1935年旧制第七高等学校造士館文科卒業、1938年東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。神奈川県史跡調査員となるが、戦争に応召され負傷し療養中に終戦。母校の旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校とその後身鹿児島県甲南高等学校で教諭を務めた後、1949年鹿児島大学鹿児島師範学校教授に就任。
中村 登(なかむら のぼる、1913年8月4日 - 1981… 中村 登(なかむら のぼる、1913年8月4日 - 1981年5月20日)は、東京府東京市下谷区上根岸(現東京都台東区根岸)出身の映画監督。 歌舞伎作者榎本虎彦の次男として誕生。父と死別後、母は清元の家元と再婚、花柳界に育つ。1936年に東京帝国大学文学部英文科を卒業後、松竹蒲田から移転し間もない松竹大船撮影所(第1期)に助監督として入社。斎藤寅次郎、島津保次郎、吉村公三郎に師事。1941年に文化映画『生活とリズム』で監督デビュー。戦後、オールスター映画『我が家は楽し』(1951年)が出世作となる。 1960年代に入り、『紀ノ川』などの文芸大作に手腕を見せ、松竹大船を支える巨匠として活躍した。『古都』、『智恵子抄』で2度のアカデミー外国語映画賞にノミネートされた。
武藤 一雄(むとう かずお、1913年8月2日 - 1995… 武藤 一雄(むとう かずお、1913年8月2日 - 1995年6月27日)は、日本の宗教哲学者。京都大学名誉教授。キェルケゴールを専門とした。 1913年、長崎県長崎市で生まれた。京都帝国大学文学部に進学し、田辺元に師事した。 1946年、第三高等学校教授に就いた。1950年、京都大学教養部助教授となり、1957年に文学部助教授に配置換え。1962年、学位論文『神学と宗教哲学との間』を京都大学に提出して文学博士号を取得。同年11月に同教授昇格。1977年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は関西学院大学教授として教鞭を執った。同大学を退任後は、龍谷大学教授を務めた。
岩松 茂輔(いわまつ もすけ、1913年8月2日 - 200… 岩松 茂輔(いわまつ もすけ、1913年8月2日 - 2008年2月26日)は、日本の経営者。日立運輸、東京モノレール各社長を務めた。愛知県出身。 1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に日立製作所に入社した。常務、専務を経て、1979年に日立運輸東京モノレール副社長に就任し、翌年に社長に昇格した。1981年に子会社として東京モノレールが設立した際には、日立運輸、東京モノレール各社長に就任した。 2008年2月26日死去。94歳没。
古沢 太穂(ふるさわ たいほ、1913年(大正2年)8月1日… 古沢 太穂(ふるさわ たいほ、1913年(大正2年)8月1日 - 2000年(平成12年)3月2日)は、俳人。本名は古沢 太保(ふるさわ たもつ)。「道標」主宰、新俳句人連盟会長、現代俳句協会顧問を歴任。第12回多喜二・百合子賞受賞。 富山県上新川郡大久保町(現・富山市)生まれ。生家は料理屋兼芸妓置屋。幼くして父を失い、一家は東京から横浜へ。法政大学商業学校(現在の法政大学中学校・高等学校)を経て、1938年、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)専修科ロシヤ語学科卒業。その後結核のため療養生活に入る。療養所で俳句を勧められ、1940年、「馬酔木」を購読。のち加藤楸邨の「寒雷」創刊とともに参加。
山田 正男(やまだ まさお、1913年8月1日 - 1995… 山田 正男(やまだ まさお、1913年8月1日 - 1995年)は日本の都市計画家。土木技術者。1930年代から1970年代の30年以上にわたり、東京都の道路計画の策定などに携わった。戦後の首都高速道路・東京外環自動車道の立案・設計に積極的に関与し、一時は「山田天皇」と呼ばれるほどの権勢を誇った。東京都建設局長・東京都首都整備局長・首都高速道路公団理事長などを歴任。 今日の東京の自動車専用道路網構築の立役者とも言え、東京都市計画史上では石川栄耀に次いで重要な人物とみなされている。 1937年、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、4月から内務省都市計画東京地方委員会に勤務した。当時の上司は石川栄耀だった。
大谷 一二(おおたに いちじ、1912年8月31日 - 20… 大谷 一二(おおたに いちじ、1912年8月31日 - 2007年11月23日)は、兵庫県出身のサッカー選手、実業家。サッカー元日本代表。東洋紡績会長・名誉顧問。サッカー記者の大谷四郎は実弟。 内海紡績常務取締役を務めた大谷恭助の次男として生まれる。兵庫県立第一神戸中学校では右近徳太郎とコンビを組み全国制覇を達成。兵庫県立神戸高等商業学校を卒業後に鐘紡に入社するが1年で退社して、1934年に神戸商業大学(現神戸大学)に入学。同大学ではサッカー部を創設して、関西学生リーグで優勝を果たした。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など3試合に出場して1得点を上げた。
手塚 勝巳(てづか かつみ、1912年8月31日 - )は、… 手塚 勝巳(てづか かつみ、1912年8月31日 - )は、日本の元俳優、スーツアクター。元プロ野球選手。
立花 保夫(たちばな やすお、1912年8月31日 - 19… 立花 保夫(たちばな やすお、1912年8月31日 - 1984年5月13日)は、日本の経営者。トピー工業社長、会長を務めた。岩手県出身。 1936年に東京商科大学を卒業。東芝、八幡製鉄での勤務を経て、1965年10月にトピー工業常任顧問に就任し、同年11月副社長を経て、1968年11月には社長に就任。1977年6月に会長を経て、1980年7月には相談役に就任。 1977年4月に藍綬褒章を受章。 1984年5月13日前立腺腫瘍のために死去。71歳没。
堀内 民一(ほりうち たみかず、1912年8月30日 - 1… 堀内 民一(ほりうち たみかず、1912年8月30日 - 1971年8月15日)は、日本の文学博士、元名城大学教授。専攻は国文学古代と近代詩歌。 奈良県北葛城郡河合町出身。國學院大學文学部国文学科卒。折口信夫に師事。万葉に関する著書を出版し、それらの業績を讃えられ奈良県文化賞を受賞した。他にも國學院大學の卒業者から優秀な研究業績をあげた者に授与される三矢博士記念賞も受賞した。また地元の学校河合町立河合第一小学校や河合町立河合第一中学校の校歌も作詞した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
須甲 鉄也(すこう てつや、1912年8月30日 - 199… 須甲 鉄也(すこう てつや、1912年8月30日 - 1998年4月19日)は、日本の動物学者。専門は甲殻類の発生学や、河川の生態学(特に環境破壊による動物相の年代的遷移)。 長野県長野市出身。東京文理科大学卒業。1938年理学博士。1941年埼玉師範学校教授、1964年埼玉大学文理学部教授、教養部教授、学生部長、教育学部長から1978年名誉教授、1980年から1987年まで学長。 国立大学協会教養課程特別委員会長、天然記念物北海道犬保護会長、埼玉県環境アセスメント会長、さいたま緑のトラスト協会理事、埼玉県立自然博物館協会長など多数の役職を歴任した。勲二等旭日重光章。 著書には「動物発生学実験法」、「大学教養生物学」などがある。
孫 基禎(そん きてい、ソン・ギジョン、1912年8月29日… 孫 基禎(そん きてい、ソン・ギジョン、1912年8月29日 - 2002年11月15日)は、日本統治時代の朝鮮の新義州近郊出身のマラソン選手。1936年ベルリンオリンピックではアジア地域出身で初めてマラソンで金メダルを獲得した。大韓民国建国後は韓国の陸上チームのコーチや陸連会長を務めた。 当時の平安北道新義州府新義州(現在の朝鮮民主主義人民共和国新義州市)付近の町で育つ。 実家は雑貨店を営んでいたが、家計は貧しく、冬に周囲の子供たちが鴨緑江で興じるスケートの靴を買ってもらうことができなかった。そのため、普通学校(内地の尋常小学校に相当)の頃から走ることに興味を抱いて、通学などで足袋を履いて走り、高学年になると自ら練習を考案して走っていたという。
渡辺 明正(わたなべ あきまさ、1912年8月26日 - 2… 渡辺 明正(わたなべ あきまさ、1912年8月26日 - 2007年8月7日)は、フランス文学者、京都大学名誉教授。 1935年東京帝国大学文学部仏文科卒。1963年京大教養部教授。1975年フランス教育功労章オフィシエ受章。1976年定年退官。 1985年、勲三等旭日中綬章を受章。2007年8月7日、肺炎のため死去。歿日付で従四位。
福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25… 福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25日 - 1994年〈平成6年〉11月20日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事、日本芸術院会員などを務めた。名前については「こうそん」と音読みされることも多い。 保守派の文士であり、進歩的文化人を批判した『平和論にたいする疑問』(1955年)は、戦後思潮の転換点となる。討議倫理が戦後民主主義を軸とする進歩派にも影響を与えるなど、戦後日本を代表する思想家。 また、同時期には『ハムレット』(1955年)をはじめとするシェイクスピア戯曲の翻訳、演出を開始する。新劇を日本の近代化問題の象徴的な弱点と捉え、演劇の革新に取り組んだ。
村上 三島(むらかみ さんとう、本名 村上 正一、むらかみ … 村上 三島(むらかみ さんとう、本名 村上 正一、むらかみ まさかず、1912年(大正元年)8月25日 - 2005年(平成17年)11月20日)は、日本の書家。勲三等旭日中綬章受章者。文化勲章受章者。「現代書道の巨匠」と呼ばれている。贈従三位(没時叙位)。
田中 元(たなか はじめ、1912年〈大正元年〉8月24日 … 田中 元(たなか はじめ、1912年〈大正元年〉8月24日 - 1953年〈昭和28年〉8月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 北海道函館区(現函館市)で生まれる。北海道庁立函館中学校(現北海道函館中部高等学校)を経て、1939年(昭和14年)東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)を卒業した。興亜院嘱託となり、同技手、在北京大使館技手、同技師を歴任した。 その後、日本興行取締役、函館ミツワ商会取締役会長、大洋貿易社長、函館ドック顧問などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で北海道第3区から民主自由党所属で出馬して初当選。第25回総選挙で自由党所属で出馬するも次点で落選。
斉藤 晋一(さいとう しんいち、1912年8月24日 - 1… 斉藤 晋一(さいとう しんいち、1912年8月24日 - 1985年10月6日)は、日本の経営者。住友ゴム工業3代目社長を務めた。新潟県栃尾市(現:長岡市)出身。 1936年に東京商科大学を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1962年11月に取締役に就任し、1964年に常務、1969年5月に専務を経て、1971年5月に副社長に就任。1974年8月に住友ゴム工業社長に就任し、1980年3月に会長に就任。 1978年5月に藍綬褒章を受章。 1985年10月6日肝不全のために死去。73歳没。
宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 … 宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 - 1986年(昭和61年)12月11日)は、昭和時代に活躍した日本の歌人。位階は正五位。本名は宮肇(はじめ)。 長岡中学在学中から作歌をはじめる。1932年に上京、翌年北原白秋を訪ねて門下に入る。1935年、白秋主宰の歌誌「多磨」の創刊に参加。日中戦争に応召し、中国を転戦した体験が、歌集『山西省』(1949年)に結実した。1953年には「多磨」の流れをくむ歌誌「コスモス」を創刊、主宰した。ながらく勤めた製鉄会社を辞して歌作と著作に専念し、74歳で死去。 一生活者の真実の声を響かせた誠実な歌風が特色。歌集に、『日本挽歌』(1953年)、『多く夜の歌』(1961年)、『濁石馬』(1975年)など、エッセイに、『埋没の精神』(1955年)、『西行の歌』(1977年)など。
片山 桃史(かたやま とうし、1912年8月23日 - 19… 片山 桃史(かたやま とうし、1912年8月23日 - 1944年1月21日)は、兵庫県出身の俳人。本名・隆雄。 黒井村(現・丹波市春日町)生まれ。酒屋の次男。旧制柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)を卒業後、鴻池銀行(三菱東京UFJ銀行の前身)に入行。俳句は旧制中学在学中よりはじめ、「鬼灯」誌で西山泊雲に師事、「ホトトギス」を経て、1935年に日野草城の「旗艦」創刊に同人参加。1937年8月応召、中国大陸にて従軍しながら戦地で詠んだ前線俳句を本国に送り「旗艦」に発表した。1940年帰国、句集『北方兵団』(三省堂 俳苑叢刊)を刊行。1941年に再度応召し、東部ニューギニアで戦死した。戦後、宇多喜代子が遺稿などを集め、1984年に『片山桃史集』を編集刊行している。
榎並 正一(えなみ しょういち、1912年 <大正元年> 8… 榎並 正一(えなみ しょういち、1912年 <大正元年> 8月23日 - 1990年<平成2年> 2月6日)は、日本の経営者。バンドー化学の社長・会長を務めた。位階は正五位。父はバンドー化学創業者の榎並充造で、正一は次男である。 兵庫県神戸市出身。1935年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本毛織に入社した。1938年12月に阪東調帯護謨(現在のバンドー化学)に転じた。1942年12月に副社長に就任し、1962年5月には社長に昇格した。1977年6月には会長に就任した。 神戸薬科大学理事長、日本経営者団体連盟理事、神戸商工会議所副会頭なども歴任した。 1983年4月に勲三等瑞宝章を受章した。
大田 正一(おおた しょういち、1912年〈大正元年〉8月2… 大田 正一(おおた しょういち、1912年〈大正元年〉8月23日 - 1994年〈平成6年〉12月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は大尉。特攻兵器桜花の発案者。終戦後に逃亡を図りその後も正体を隠して3人の子をもうけ生きながらえた。 1912年8月23日山口県熊毛郡室津村(現・上関町)に生まれる。名古屋で育ち、高等小学校卒業後、1928年(昭和3年)6月海軍普通科電信術練習生を志願して呉海兵団に入団。 1932年(昭和7年)4月、第20期偵察練習生に採用され、半年課程後に艦上攻撃機の「偵察員」になる。海軍では、操縦員以外で航法、通信、爆撃、射撃、写真撮影、観測などの任務を行う飛行機搭乗員を一括して「偵察員」と呼んでおり、兵曹、水兵の中から募集した「操縦練習生」(略して操練)、「偵察練習生」(略して偵練)の教育を行っていた。
秋本 正(あきもと ただし、1912年(大正元年)8月21日… 秋本 正(あきもと ただし、1912年(大正元年)8月21日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 兵庫県揖保郡に生まれる。明石中学校、第三高等学校を経て、1933年(昭和8年)4月、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、1935年(昭和10年)10月、高等試験行政科に合格。1936年(昭和11年)3月、同大を卒業し、台湾総督府警務局保安課に奉職する。1939年(昭和14年)7月、台南州新営郡守となり、府事務官警務局保安課勤務を経て、陸軍司政官に転出した。
菱沼 五郎(ひしぬま ごろう、1912年〈大正元年〉8月20… 菱沼 五郎(ひしぬま ごろう、1912年〈大正元年〉8月20日 - 1990年〈平成2年〉10月3日)は、日本の政治家(茨城県議会議員、同議長)、実業家、テロリスト。別名は小幡五朗。 茨城県那珂郡前渡村にて農業徳松の三男として生まれ、水戸勤王の遺風を学んで成長した。上京後は自動車の助手を経て岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)に進学。1929年(昭和4年)10月、同校業務課を卒業し、翌1930年(昭和5年)、東武東上線池袋駅に就職するつもりが、紅緑色盲のため鉄道業務に致命的であると判断されて就職できなかった。失意の中、大洗町の護国堂にいた井上日召のもとに通う。 1930年(昭和5年)、ロンドン軍縮条約をめぐって統帥権干犯問題が起きると、日本国民党(委員長・寺田稲次郎、書記次長・鈴木善一)がその抗議行動のために結成しようとした決死隊に参加。
安藤 正一(あんどう しょういち、1912年8月20日 - … 安藤 正一(あんどう しょういち、1912年8月20日 - 1995年3月22日 )は日本の歯科医師、歯学者。 東京出身。1930年、旧制日本大学中学校(現・日本大学第一高等学校)卒業、1934年日本大学専門部歯科卒業。1964年、日本大学歯学部歯科放射線学講座第3代教授。1973年から1977年まで日本大学歯学部付属歯科病院長。 日本歯科放射線学会会長、総務理事、日本歯科医学会副会長などを歴任した。 1995年3月22日、心筋梗塞のため死去。
菱沼 五郎(ひしぬま ごろう、1912年8月20日 - 19… 菱沼 五郎(ひしぬま ごろう、1912年8月20日 - 1990年10月3日)は、日本の政治運動家、殺人者、テロリスト、超国家主義者、政治家。別名は小幡五朗。
松本 雅明(まつもと まさあき、1912年8月20日 - 1… 松本 雅明(まつもと まさあき、1912年8月20日 - 1993年12月29日)は、東洋史学者。学位は、文学博士(東京大学・1961年)。熊本大学名誉教授。1984年勲二等瑞宝章受章。 熊本県生まれ。1936年東京帝国大学文学部東洋史卒。1961年「詩経における新古の層および思惟展開の径路に関する研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。熊本大学法文学部助教授、文学部教授、1978年定年退官、名誉教授。 1984年勲二等瑞宝章を受章。
沼田 次郎(ぬまた じろう、1912年8月19日 - 199… 沼田 次郎(ぬまた じろう、1912年8月19日 - 1994年6月29日)は、日本の歴史学者、日本史学者。東京大学名誉教授(史料編纂所元所長)。洋学史、日蘭交渉史が専門で、日蘭学会理事長も務めた。 熊本県熊本市出身(出生地は和歌山県)。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1932年第五高等学校 (旧制)卒業、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。東京大学史料編纂所に入り、1954年助教授、1965年教授に就任し、1971年から1973年に所長を務める。1973年から1983年まで東洋大学文学部教授。そのほか、1980年から1983年に日蘭学会理事長。勲三等旭日中綬章受章。
多田 裕計(ただ ゆうけい、1912年8月18日 - 198… 多田 裕計(ただ ゆうけい、1912年8月18日 - 1980年7月8日)は、日本の小説家・俳人。福井県福井市出身。 旧制福井中学校、旧制第二早稲田高等学院、早稲田大学文学部仏文科卒業。横光利一に師事し、石塚友二らと交流する。高等学院時代は、八木義徳、辻亮一、中村八朗らと同人誌「黙示」を創刊。 1940年より上海へ渡り、上海中華映画に勤務、1941年、『大陸往来』に寄せた「長江デルタ」で第13回芥川賞受賞。 1945年福井に疎開するが空襲にあい、三国町(現坂井市)に移住し、三好達治らと交流を持つ。 1947年福井県社会教育委員を務め、福井県文化協議会の設立に参加。「蛇師」で大衆文芸懇話会賞佳作。
磯崎 叡(いそざき さとし、1912年8月16日 - 199… 磯崎 叡(いそざき さとし、1912年8月16日 - 1997年6月19日)は日本の鉄道官僚、第6代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1969年-1973年)。永井岩之丞の孫。 作家・三島由紀夫の父・平岡梓は従兄にあたる。 磯崎と親交があった作家の阿川弘之より命名されたニックネームは「ダッコちゃん」。 東京府東京市本郷区丸山町(現在の東京都文京区千石)で海軍の造船技官であった磯崎清吉と鐘(永井岩之丞二女)の次男として生まれる。名前は当時父が艤装に関わっていた巡洋戦艦『比叡』から一文字取られた。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業後、1935年、鉄道省に入省。
田島 直人(たじま なおと、1912年(大正元年)8月15日… 田島 直人(たじま なおと、1912年(大正元年)8月15日 - 1990年(平成2年)12月4日)は、日本の男子陸上競技選手。1936年ベルリンオリンピック金メダリスト。位階は正五位。 大阪府において出生。その後、父の郷里である山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に戻り、岩国尋常高等小・旧制岩国中学(山口県立岩国高校の前身)に進学。兄・田島元も三段跳の日本チャンピオンになったことのあるジャンパーで、旧制広島一中時代の織田幹雄と親交があり岩国中学に来てよく一緒に練習した。この兄と織田の影響で三段跳を始めた。 山口高校(山口大学の前身)を経て京都帝国大学経済学部(現京都大学)を卒業する。 1932年、ロサンゼルスオリンピックに出場し、走幅跳で6位入賞。
亀田 得治(かめだ とくじ、1912年〈大正元年〉8月14日… 亀田 得治(かめだ とくじ、1912年〈大正元年〉8月14日 - 1994年〈平成6年〉3月14日)は、日本の弁護士、政治家。北海道旭川市生まれ。日本社会党の参議院議員、日本社会党大阪府連合書記長、全国革新懇代表世話人を務めた。 生まれてすぐ、家族が石川県に引っ越したため、少年時代を金沢市で過ごす。金沢の第四高等学校に進学。後に日本社会党委員長となる成田知巳と同じクラスで、成績は1、2位を競い合った。2人とも東京帝国大学法学部に合格。社会運動を行っていた賀川豊彦と出会い、キリスト教の洗礼を受けた。賀川牧師のもとで、当時、治安維持法違反で保釈中だった岩本りえと出会い、結婚する。戦時中は弁護士として小作争議などを担当した。
倉林 育四郎(くらばやし いくしろう、1912年8月14日 … 倉林 育四郎(くらばやし いくしろう、1912年8月14日 - 没年不明 )は、日本の経営者。武田薬品工業社長を務めた。 埼玉県児玉郡児玉町出身。1937年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、同年に武田薬品工業に入社。1966年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1976年6月に副社長に就任し、1981年6月には社長に昇格した。武田一族以外では初の社長で、米国への工場進出などの国際化の推進とバイオテクノロジーの研究開発に力を入れた。1986年6月から相談役を務めた。 日本化学工業協会常務理事、関西化学工業協会常任理事、経済団体連合会評議員、関西経済連合会常任理事なども歴任した。 1986年4月には勲二等瑞宝章を受章した。
雀部 高雄(ささべ たかお、1912年8月14日 - 196… 雀部 高雄(ささべ たかお、1912年8月14日 - 1967年6月19日)は、日本の金属工学者。日本の製鉄技術の発展に尽力した。 1912年8月14日に東京で生まれる。東京帝国大学卒。八幡製鉄所を経て、1952年に千葉工業大学金属工学科教授に就任。1961年には東京大学生産技術研究所教授に就任。 1961年5月 東京大学 工学博士 論文は「塩基性平炉精錬に関する研究 」。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
関根 正雄(せきね まさお、1912年8月14日 - 200… 関根 正雄(せきね まさお、1912年8月14日 - 2000年9月9日)は、キリスト教無教会主義の伝道者、聖書学者。 1912年、東京で生まれた。東京帝国大学法学部および文学部で学んだ。大学在学中の18歳の時に内村聖書研究会のペテロ組に入会を許され、内村鑑三の薫陶を受けた。 大学卒業後、1939年から1945年までドイツに留学。旧約の神についての論文を提出して神学博士号を取得。 1949年、塚本虎二から独立し、キリスト教伝道に従事。1962年、学位論文『イスラエルの思想と言語:特にギリシアの思想、言語との対比における』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。1964年、東京教育大学教授に就いた。
後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937… 後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937年7月28日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(一塁手)。
後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937… 後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937年7月28日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(一塁手)。 神戸市立第一神港商業学校(現・神戸市立神港高等学校)在学中に甲子園に2回出場(春2回〔1929年、1930年〕)。チームの2連覇に一塁手として貢献。自身も1929年春の大会で、打撃賞と塁打賞を受賞した。第一神港商卒業後は慶應義塾大学に進むも中退し、立命館大学に転校して卒業。立命館大学時代のチームメイトに青柴憲一(後に巨人)、村川幸信(後に大東京)がいる。 1936年、名古屋軍の結成に参加し、そのまま入団。堅実な打撃と守備で、草創期の名古屋軍を支えた。4番高橋吉雄の後の5番打者を打つことが多かった。
本山 亨(もとやま とおる、1912年(大正元年)8月11日… 本山 亨(もとやま とおる、1912年(大正元年)8月11日 - 2002年(平成14年)4月2日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。新潟県出身。 1936年(昭和11年)に京都帝国大学法科を卒業。すぐに弁護士となり、以来名古屋で弁護士生活を送り、名古屋弁護士会会長も経験した。保守・タカ派といわれ、愛知県人事委員長の時は数千人に及ぶ春闘の処分強行を主張し、民事の企業代理人として女子の若年制では「生理休暇も取り上げ、深夜労働もさせるか、労働基本法も見直しや必要」とも強調していた。 1977年(昭和52年)8月26日に最高裁判事に就任。日弁連の推薦ではなく、藤林益三最高裁長官による意向によって決定された(ただし、この機会以前に日弁連から最高裁判事候補として推薦を受けた経験はある)。
夢 虹二(ゆめ こうじ、1912年(大正元年)8月11日 -… 夢 虹二(ゆめ こうじ、1912年(大正元年)8月11日 - 1989年(平成元年)7月12日)は、埼玉県加須市出身の作詞家。主に童謡や歌謡曲の作詞を手がけた。本名「須永孝一郎」。 日本大学商学科中退。 古本で1円で買った北原白秋全集を読んだことが、作詞家を志すきっかけとなった。1955年にキングレコードの専属となり、代表作には、童謡「すうじのうた」「とんぼの中にぼくがいる」「北風こぞう」、歌謡曲「まつの木小唄」「ハマの女」、新民謡「わらび摘み唄」などがある。また、18年間日本童謡協会事務局長を務めた。1972年には「とんぼの中にぼくがいる」で日本作詩大賞童謡賞、1988年には第18回日本童謡賞特別賞を受賞。
守屋 多々志(もりや ただし、1912年(大正元年)8月10… 守屋 多々志(もりや ただし、1912年(大正元年)8月10日 - 2003年(平成15年)12月22日)は、岐阜県大垣市出身の日本画家。本名は守屋 正(もりや ただし)。元愛知県立芸術大学教授。文化功労者。文化勲章受章。 1912年(大正元年)、岐阜県大垣市船町の味噌たまり製造元「四代目孫八」の四男(11人兄弟の8番目)として生まれる。生後100日目、分家守屋貞吉(大垣市桐ヶ崎町の米穀商)へ養子に出される。1930年(昭和5年)、岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業。上京し、同郷の前田青邨に師事。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科に入学。在学中に特待生となる。
佐藤 文樹(さとう ふみき、1912年8月10日 - 198… 佐藤 文樹(さとう ふみき、1912年8月10日 - 1987年6月27日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。九州大学名誉教授。18世紀フランス文学が専門。 東京府東京市下谷区(現東京都台東区)生まれ。1937年東京帝国大学文学部仏文科卒、陸軍経理学校経理部嘱託。1938年東調布高等女学校教諭。1939年東大付属図書館嘱託、1944年陸軍通訳官。1948年東洋大学教授。1949年九州大学助教授、1955年教授。1962年「ペイザン・バルブニユとタンザイとネアダルネの初版刊行年」で東大文学博士。1963 - 1964年フランス政府招聘教授、第1回仏蘭西派遣教授団団長として渡仏。1968年九州大学退官、上智大学文学部教授。
北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 19… 北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。東京都立大学名誉教授。専門は近世日本史。 新潟県柏崎市生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、松本高等学校文科乙類を卒業 し、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。卒業論文は「徳川幕府直領の研究」。近世政治経済史を専攻し、1962年に「江戸幕府の権力構造」により東北大学から文学博士の学位を授与される。 1950年新潟大学助教授、1951年東京都立大学 (1949-2011)助教授、1959年同大学教授、同大学附属図書館長、1977年定年退官後は立正大学教授を務め、1983年退職。専門書のほか、一般向けの著書・編著を多く著した。
長松 太郎(ながまつたろう、1912年(大正元年)8月7日 … 長松 太郎(ながまつたろう、1912年(大正元年)8月7日 - 1978年(昭和53年)10月24日)は、広島市建設局長、広島市助役、広島ステーションビル社長を歴任した日本の都市計画家。造園家。日本公園緑地協会で沖縄国際海洋博海浜公園基本計画委員会委員長、広島市河岸緑地整備計画設計協議会委委員も委嘱。設計策定にあたった。豪放な性格で酒を好み周囲から慕われていたという。 父親は戦前日本の植物学者で学習院大学教授、東京海上火災保険社長、貴族院議員を務めた長松篤棐で、長男として生まれる。妻は古市六三の長女。母方祖父に古市公威。 学習院を経て1936年(昭和11年)東京帝国大学農学部を卒業し、内務省神社局に勤める。
鏡島 元隆(かがみしま げんりゅう、1912年8月6日 - … 鏡島 元隆(かがみしま げんりゅう、1912年8月6日 - 2001年2月19日)は、日本の仏教学者。道元・曹洞禅研究を研究。駒澤大学名誉教授。 静岡県生まれ。1935年、駒澤大学仏教学科卒。1961年、「道元禅師と引用経録の研究」で駒澤大学より文学博士の学位を取得。1942年駒澤大学予科講師、1949年佛教学部助教授、54年教授、総長を務め、1993年に退任、名誉教授。