九重 年支子(ここのえ としこ、1904年〈明治37年〉8月… 九重 年支子(ここのえ としこ、1904年〈明治37年〉8月11日 - 2002年〈平成14年〉8月13日)は、日本の発明家、実業家。簡易織り機である「九重手織り機」の発明、その普及と織物制作に努めたことや、婦人発明家協会の創立で知られ、日本の女性発明家の草分けとも呼ばれる。東京府深川区(後の東京都江東区)出身。本名、坂野 敏子。東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)専攻科卒業。 1904年(明治37年)シンガーミシン裁縫女学院設立者の父秦敏之と女学院院長母利舞子の間に生まれる。6歳下の妹はニットデザイナーの秦万紀子。東京女子高等師範学校付属高女・専攻科英語科卒業、翌年建築技師坂野秀雄と結婚。
森 桂一(もり けいいち、1904年8月10日 - 1988… 森 桂一(もり けいいち、1904年8月10日 - 1988年3月16日)は、洋画家、美術教育者。 岐阜県恵那市生まれ。号・林人子。1928年東京美術学校卒。同年帝展初入選。1952年千葉大学教育学部教授、1970年定年退官、名誉教授。1975年千葉明徳短期大学学長、81年退任、名誉学長。1974年勲三等旭日中綬章受勲。
蛯原 徳夫(えびはら とくお、1904年8月10日 - 19… 蛯原 徳夫(えびはら とくお、1904年8月10日 - 1988年8月4日)は、フランス文学者。生涯にわたりロマン・ロラン研究・翻訳を行った。 東京生まれ。1934年法政大学文学部仏文科卒業。1965年名古屋大学文学博士(「ロマン・ロランの思想的原理」)。1953年大阪市立大学文学部助手、54年助教授、58年教授、68年定年退任、名誉教授、青山学院大学教授、聖徳学園短期大学教授を歴任した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
中野 勝義(なかの かつよし、1904年(明治37年)8月1… 中野 勝義(なかの かつよし、1904年(明治37年)8月10日-1960年(昭和35年)11月16日)は、日本の実業家。全日本空輸創立の中心的人物であった。 1904年(明治37年)8月10日、北海道上川郡東旭川村に中野光造の次男として生まれる。旭川中学校を経て、1924年(大正13年)法政大学予科に入学し、1930年(昭和5年)に法政大学法文学部仏法科を卒業する。 朝日新聞に入社し、日本学生航空連盟理事などを務め、法政大学による軽飛行機『青年日本号』の訪欧飛行(1931年)、朝日新聞による『神風号』の訪欧飛行(1937年)の実現に尽力した。1940年(昭和15年)、大日本飛行協会参与に就任し、1942年(昭和17年)に朝日新聞を退社し、大日本飛行協会常任参与・庶務部長に就任。
古賀 了(こが さとる、1904年(明治37年)8月8日 -… 古賀 了(こが さとる、1904年(明治37年)8月8日 - 1997年(平成9年)5月5日)は、昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、佐賀県佐賀郡久保田町長、久保田町名誉町民。位階は従五位。 佐賀県 佐賀郡久保田村久富(久保田町久富を経て現佐賀市久保田町久富)で、古賀銀三郎、トクの長男として生まれる。1917年(大正6年)久保田村立新田尋常小学校卒業。1921年(大正10年)佐賀県立佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)4年を修了し、佐賀高等学校に入学。1924(大正13年)同校を卒業し、東京帝国大学経済学部に入学。1928年(昭和3年)同大経済学部を卒業。 卒業後、久留米歩兵第48連隊に入隊し、1929年(昭和4年)に除隊して農業に従事した。
武見 太郎(たけみ たろう、1904年8月7日 - 1983… 武見 太郎(たけみ たろう、1904年8月7日 - 1983年12月20日)は、日本の医師である。日本医師会会長、世界医師会会長を歴任した。
澤瀉 久敬(おもだか ひさゆき、1904年8月7日 - 19… 澤瀉 久敬(おもだか ひさゆき、1904年8月7日 - 1995年2月26日)は、日本の哲学研究者。大阪大学名誉教授。専門はフランス哲学。 1904年、三重県伊勢市で生まれた。京都帝国大学文学部に入学し、哲学科で九鬼周造に師事した。1929年に卒業。1935年、フランス政府招聘留学生として渡仏。 1938年に京都帝国大学講師となり、1941年に大阪帝国大学講師に転じた。1954年、大阪大学文学部教授に昇格。1960年、学位論文『医学概論』を大阪大学に提出して医学博士号を取得。1968年、大阪大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、南山大学教授を務めた。1986年、日本学士院会員に選出された。
李 相佰(イ・サンベク、1904年8月6日 - 1966年4… 李 相佰(イ・サンベク、1904年8月6日 - 1966年4月14日)は、朝鮮(大韓帝国)に生まれ、日本および大韓民国で活動した歴史学者・社会学者、バスケットボール選手・指導者。 早稲田大学に留学、日本における黎明期の大学バスケットボール選手となり、スポーツ理論・競技技術の普及や、スポーツ組織の結成・運営に大きな足跡を残した。戦後の韓国においてもスポーツ界の重鎮として活動、国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めた。学生バスケットボールの日韓対抗戦である李相佰盃に名を残している。また、学者としてはソウル大学校教授を務め、歴史学・社会学に業績を残している。号は想白(サンベク/상백、発音は本名と同じ)、百無一斎。
坂本 泰良(さかもと たいら、1904年(明治37年)8月6… 坂本 泰良(さかもと たいら、1904年(明治37年)8月6日 - 1982年(昭和57年)9月6日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(6期)。中央大学名誉教授。衆議院功労議員表彰。日本社会党熊本県支部連合会会長。 1970年4月の春の叙勲で、勲二等に叙され旭日重光章を受章する。 1982年9月6日、死去。78歳没。同月10日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正四位に叙された。
細田 徳寿(ほそだ とくじ、1904年8月5日 - 1991… 細田 徳寿(ほそだ とくじ、1904年8月5日 - 1991年3月25日)は、内務省官僚、大分県知事(1945年 - 1947年、1947年 - 1955年)。官選も含めると第37・39・40代、公選のみでは初代・第2代にあたる。 茨城県水戸市出身。旧制水戸中学校(現在の水戸第一高校)、旧制水戸高等学校を経て、東京帝国大学法科政治学科を卒業。1928年に内務省入省。厚生省医務課長、警視庁保安衛生部長、陸軍司政官、内務省河川課長、内閣総理大臣秘書官等を経て、1945年10月27日に大分県知事に発令された。 1947年3月14日には、地方自治法施行にともなう県知事選挙への出馬のため県知事を辞職。この後、選挙までの約1ヶ月は和久田鉄雄が第38代県知事に短期間発令されている。
橋本 明治(はしもと めいじ、1904年(明治37年)8月5… 橋本 明治(はしもと めいじ、1904年(明治37年)8月5日 - 1991年(平成3年)3月25日)は、昭和期の日本画家、日本芸術院会員、日展常務理事、文化勲章受章者。 1904年に橋本太一郎、トメ夫妻の長男として島根県那賀郡浜田町(現・浜田市田町)に生まれる。祖父の市太郎は絵画や俳諧を愛好しており、明治はこの祖父の強い感化を受けて成長した。1917年(大正6年)に浜田町立松原尋常小学校を卒業した後に高等科へと進み、1920年(大正9年)には島根県立浜田中学校へ入学した。通信教育によって日本画を学び、中学4年となる1923年(大正12年)、妹をモデルとして描いた「ガラシャ婦人像」を島根県展に初めて出品し、入選を果たした。
伊東 俊夫(いとう としお、1904年(明治34年)8月5日… 伊東 俊夫(いとう としお、1904年(明治34年)8月5日 - 1991年(平成3年)7月6日)は、愛知県出身の日本の解剖学者、医学博士。 1956年(昭和31年)、群馬大学医学部で教授として務めていた際に発見した伊東細胞の発見者として名高い。 慶應義塾大学を卒業し、慶應義塾大学にて助教授を務め、東京女子医学専門学校(現:東京女子医科大学)で教授を務める。その後は前橋医科大学、群馬大学、帝京大学にて教授を務める。 1956年に群馬大学医学部で教授を務めていた際に、肝臓を構成する微小組織で、ディッセ腔に存在する線維芽細胞の1つである伊東細胞を発見する。なお、伊東が発見報告した際の名称は「脂肪摂取細胞」であった。
大山 功(おおやま いさお、1904年8月5日 - 1993… 大山 功(おおやま いさお、1904年8月5日 - 1993年8月)は、日本の演劇評論家。 岡山市生まれ。1932年早稲田大学文学部演劇学科卒、『藝術殿』『東宝』『日本演劇』『演劇界』などの雑誌編集のかたわら演劇評論を行う。1945年戦災で山形県へ疎開。 文筆活動を続け、1974年『近代日本戯曲史』で第6回河竹賞受賞。山形県嘱託。
大木 金次郎(おおき きんじろう、1904年(明治37年)8… 大木 金次郎(おおき きんじろう、1904年(明治37年)8月3日 - 1989年(平成元年)8月3日)は、日本の教育者、経済学者、経済学博士。青山学院大学第11代院長、青山学院理事長。 1904年8月3日、山梨県甲府市に生まれる。1922年3月、甲府商業学校を卒業し、校長の推薦により同年4月に朝鮮銀行に就職する。同年10月、同行大邱支店在勤中にF.H.スミスから洗礼を受け、さらにクリスチャンだった支店長の薦めにより、1925年に青山学院高等学部商科に無試験入学する。1929年3月に卒業した後、同年6月に同学院の留学生として渡米し、アメリカのオハイオ・ウェスリアン大学経済学部に留学し、その卒業後さらにコロンビア大学大学院で経済政策を専攻してマスター・オブ・アーツの学位を取得する。
藤井 斉(ふじい ひとし、1904年〈明治37年〉8月3日 … 藤井 斉(ふじい ひとし、1904年〈明治37年〉8月3日 - 1932年〈昭和7年〉2月5日)は、日本の海軍軍人。海兵53期卒。五・一五事件を起こした海軍青年士官の指導者で革命児と称された人物であり、また、日本海軍搭乗員最初の戦死者の一人である。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1904年〈明治37年〉8月3日、長崎県平戸に生れる。本籍は佐賀県。 父は炭鉱主であったが事業に失敗し、藤井は祖父、次いで親族の山口半六に引き取られ養育を受けた。山口は孫文の革命運動に協力した人物であり、藤井は大きく影響を受けたといわれる。 佐賀中学を卒業するにあたり、山口は藤井に外交官を勧めたが、海軍士官の道を選ぶ。
小山 寛二(こやま かんじ、1904年8月3日 - 1982… 小山 寛二(こやま かんじ、1904年8月3日 - 1982年11月27日)は、熊本県八代市出身の小説家。 八代中学校卒業。早稲田大学中退。クロポトキンの影響を受け、アナキズム、左翼運動家の道を歩むが、1928年(昭和3年)、転向する。 三上於菟吉に師事し、大衆文学などを執筆した。作品に、1934年(昭和9年)に映画化された「明暦名剣士」、宮崎滔天を主人公とした「波浪の歌」、細川忠興の妻ガラシャを描いた「細川ガラシャ」、「曠野の父」、「風雲万里」、「江南碧血記」などがある。 随筆雑誌「騒友」主宰。1982年(昭和57年)、東京にて没した。
今村 武雄(いまむら たけお、1904年8月2日 - 199… 今村 武雄(いまむら たけお、1904年8月2日 - 1993年8月6日)は、日本のジャーナリスト、経済学者。 東京生まれ。1929年慶應義塾大学経済学部卒。報知新聞社に入り、日本経済新聞で論説委員、東京商工会議所理事、慶大新聞研究所教授、1970年定年、奥州大学教授、富士大学教授。女子学院理事長。
直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2… 直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2005年9月30日)は、日本の画家、禅僧、俳人。 岡山県赤磐郡(現:赤磐市)生まれ、兵庫県の淡路島で育つ。本名は正。大阪美術学校卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。南画の第一人者。社団法人日本南画院会長・理事長、現代南画協会理事長、財団法人青少年文化研修道場理事、守口市美術協会会長、青玲社主宰、黄檗宗国清寺住職、俳誌「早春」選者などを務める。洲本市名誉市民、守口市名誉市民、南あわじ市名誉市民。 52歳の時、「自然の実相が禅」との柴山全慶老師(当時)の言葉に触れ、禅に傾倒。以来、老師の提唱は欠かさず聞いた。また当時の村瀬玄妙黄檗宗元管長とも幼馴染みで、臨済宗黄檗宗の僧籍をもつ。
杉 勇(すぎ いさむ、1904年8月1日- 1989年11月… 杉 勇(すぎ いさむ、1904年8月1日- 1989年11月25日)は、日本の歴史学者、東京教育大学名誉教授。専攻は古代オリエント史。 1904年、大阪で生まれた。東京帝国大学文学部西洋史学科で学び、1927年に卒業。 卒業後は東京教育大学助教授に就いた。後に教授昇格。1968年に東京教育大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は明治大学教授、跡見学園女子大学教授を務めた。1989年に死去。死去と同時に正四位受勲。
渡部 肆郎(わたなべ しろう、1904年(明治37年)8月 … 渡部 肆郎(わたなべ しろう、1904年(明治37年)8月 - 1963年(昭和38年)12月14日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡北道知事。 渡部春吉の二男として愛媛県温泉郡に生まれる。1926年(大正15年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し、朝鮮総督府に奉職する。逓信事務官保険運用課長、拓務書記官管理局地方課長、殖産局商工、物資調整、鉱務各課長、企画部第二物資調整第一課長、総督官房文書課長兼国勢調査課長を経て、1942年(昭和17年)10月、司政局地方課長に就任した。のち咸鏡北道知事に任じた。
小山田 政弘(こやまだ まさひろ、1903年〈明治36年〉8… 小山田 政弘(こやまだ まさひろ、1903年〈明治36年〉8月30日 - 1990年〈平成2年〉1月23日)は、日本の政治家。鹿児島県姶良郡蒲生町長(第10代、3期)。元は旧制鹿児島二中教諭を長く務めた教育者。 鹿児島県姶良郡蒲生村(後の蒲生町、姶良市の一部)生まれ。1922年3月鹿児島県立加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)卒業。1926年3月東洋大学国文科卒業。鹿児島実業学校(現鹿児島実業高等学校)、鹿児島和洋裁縫女学校(現鹿児島城西高等学校)勤務を経て、鹿児島県立第二鹿児島中学校(鹿児島二中、現鹿児島県立甲南高等学校)で国語・漢文の教諭を1927年8月31日から約20年間務める。1947年4月重富村立重富中学校初代校長に就任。
照山 岩男(てるやま いわお、1903年8月30日 - 没年… 照山 岩男(てるやま いわお、1903年8月30日 - 没年不詳)は、日本のゴルフ選手、ゴルフコース設計者、ゴルフ場支配人。九州初のプロゴルファー、学士プロゴルファー第2号(村上伝二に次ぐ)である。 福岡市出身。父が筑豊の炭鉱王伊藤伝右衛門の会社の支配人をしていた関係で、伝右衛門の妻・伊藤白蓮(燁子)とともに、別府市の伊藤別荘(伝右衛門が白蓮のために建設したとされる)に一時滞在していたが、その間に、のちに白蓮事件を起こす宮崎龍介と白蓮が、1920年1月31日に初めて別府の楠港で出会った場に、ただ一人白蓮に連れられて立ち会っている。地域情報誌「月刊アドバンス大分」の1974年の記事において「その朝、別府桟橋まで宮崎を迎えに行く燁子(あきこ)に同行したが、黄八丈の袷に縫紋の羽織を着た燁子の姿をまぶしいまでに覚えている」と語っている。
野田 稲吉(のだ とうきち、明治36年(1903年)8月29… 野田 稲吉(のだ とうきち、明治36年(1903年)8月29日 - 平成9年(1997年)9月29日)は、日本の応用化学者。名古屋大学名誉教授、三重大学名誉教授(元学長)。 山梨県出身。1927年東京帝国大学応用化学科卒業。1929年東京工業大学講師、1930年助教授を経て、1941年名古屋帝国大学教授、1961年年名古屋大学工学部長、1967年三重大学学長。1953年年フルブライト・プログラム交換教授として渡米した。天然雲母の不足から合成雲母の研究と試作をおこない、透明大型の結晶の製造に成功し、その特性を解明した。1973年勲二等旭日重光章受章。 妻のうめは甲野棐の二女。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
岩本 常次(いわもと つねじ、1903年 <明治36年> 8… 岩本 常次(いわもと つねじ、1903年 <明治36年> 8月28日 - 1993年 <平成5年> 10月8日)は、日本の経営者。北海道電力社長を務めた。位階は従三位。 兵庫県出身。開成中学校や第一高等学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、同年に上毛電力に入社。片品川水系の丸沼発電所などの水力発電所の建設に携わる。 日本発送電への統合後は藤波収建設局長の下で九州や北海道での土木部長を務め、戦後は藤波の推薦を得て1951年9月に北海道電力に転じ理事・土木部長となり、1952年11月に取締役に就任。常務、副社長を経て、1966年5月に社長に就任した。1974年5月に会長に就任し、1983年6月に取締役相談役を経て、1985年6月から相談役を務めた。
八木 佐吉(やぎ さきち、1903年(明治36年)8月28日… 八木 佐吉(やぎ さきち、1903年(明治36年)8月28日 - 1983年(昭和58年)12月15日)は、昭和期の出版人、作家。丸善の歴史を代表する大番頭。 1903年(明治36年)東京府生まれ。1916年(大正5年)、麹町小学校を卒業し丸善に入社。洋書ストック係、出版企画課長、取締役洋書管理部長、丸善「本の図書館」館長などを歴任し、同社の“生き字引”と呼ばれた。また、自然科学書協会の目録や「学鐙」の編集のほか、和洋書籍の目録・編集を広く手掛け、洋古書の第一人者といわれる。
横田 豊秋(よこた とよあき、1903年8月27日 - 19… 横田 豊秋(よこた とよあき、1903年8月27日 - 1936年8月28日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優である。本名同じ。撮影助手、撮影技師、助監督、監督、脚本家を経て、映画スターになった稀有な人材である。脚本家・俳優としての名は宇留木 浩(うるき ひろし)である。 1903年(明治36年)8月27日、東京市麹町区内幸町1-5(現在の千代田区内幸町1-5、現在の千代田区立内幸町ホールのあたり)に生まれる。父は弁護士、2歳下の妹は新劇から映画女優となった細川ちか子(本名・横田冬)である。 当時の私立エリート校・芝区芝公園の正則中学校(現在の正則高等学校)在学中、不良仲間の江川宇礼雄と知り合い、1920年(大正9年)に横浜の大正活動映画(大活)の俳優となった江川の影響で、映画界に入るべく、同校卒業後、進学せずに1921年(大正10年)、17歳のときに日活向島撮影所に入社、撮影助手となる。
中内 正利(なかうち まさとし、1903年8月25日 - 1… 中内 正利(なかうち まさとし、1903年8月25日 - 1985年10月15日)は、英語学者。 大阪市生まれ。1925年大阪市立高等商業学校(現大阪公立大学)卒業、横浜正金銀行入行、大阪支店勤務。36-45年マニラ、ニューヨーク、リオデジャネイロ、青島の各支店に勤務。39年ニューヨーク市立大学で英語学を学ぶ。46年横浜正金銀行大阪支店、47年東京銀行に移行し、48年東京本店勤務。58年定年退職、60年早稲田大学専任講師、66年教授、74年定年退職。75―84年日本実用英語学会会長。84年名誉会長。墓所は小平霊園(13区2側)。
辰巳 佐太郎(たつみ さたろう、1903年〈明治36年〉8月… 辰巳 佐太郎(たつみ さたろう、1903年〈明治36年〉8月25日 - 1990年〈平成2年〉1月25日)は、日本の政治家。大阪府東大阪市の初代の市長(1期)。合併前の布施市の最後の市長(第8代、1期)。大阪府議会議長(第52代、第55代) 大阪府出身。1931年(昭和6年)、中央大学卒業。1937年(昭和12年)、布施市の発足により、市会議員となる。太平洋戦争後の1951年、大阪府議会議員に転じる。以後、連続3期。1963年、布施市長に就任した。この間、布施商業会議所会頭、自由民主党布施支部長や、自民党大阪府連選対副委員長も務めた。 1967年、布施市は河内市と枚岡市と合併し、東大阪市が発足。
青木 秀夫(あおき ひでお、1903年(明治36年)8月25… 青木 秀夫(あおき ひでお、1903年(明治36年)8月25日 - 2001年(平成13年)1月27日)は、日本の内務・厚生官僚。最後の官選新潟県知事。 栃木県出身。水戸高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し山口県属兼社会局属、地方事務官となる。 以後、内務省社会局勤務、鹿児島県社会課長、三重県教育課長、同工場課長、地方警視、岡山県警察部保安課長兼工場課長、神奈川県警察部保安課長、奈良県書記官・警察部長、厚生省傷兵保護院補導課長、同省生活課長、同母子課長、軍事保護院総務課長、東北総監府官房主幹、内務省調査官、同大臣官房調査課長などを歴任。
芳川 周二(よしかわ しゅうじ、1903年8月25日 - 1… 芳川 周二(よしかわ しゅうじ、1903年8月25日 - 1992年3月3日)は、日本の銀行家。関西相互銀行(現在の関西アーバン銀行)社長を務めた。広島県広島市出身。 1926年に山口高等商業学校を卒業し、同年に住友銀行に入行。1958年10月に関西相互銀行専務に就任し、1968年4月には社長に就任。1973年11月に取締役相談役と明光証券社長に就任し、1978年12月に会長を経て、1982年3月から取締役相談役を務めた。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲五等双光旭日章を受章した。 1992年3月3日急性心筋梗塞のために死去。88歳没。
矢野 登(やの のぼる、1903年8月25日 - 1993年… 矢野 登(やの のぼる、1903年8月25日 - 1993年4月17日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。 栃木県那須郡烏山町(現那須烏山市)出身。1921年栃木県立小瀬農学校卒。1938年三共日産自動車(株)を創立。ほか三共物産(株)、(株)東武宇都宮百貨店、日産プリンス栃木販売(株)を創立。代表取締役などに就任した。この他宇都宮商工会議所副会頭や栃木県石油協同組合理事長を歴任。1968年の第8回参議院議員通常選挙に栃木県選挙区から自由民主党公認で立候補して初当選。第2次田中内閣で通商産業政務次官を務めた。1974年7月の第10回参議院議員通常選挙で落選。同年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。
金 晋燮(キム・ジンソプ、朝鮮語: 김진섭/金晉燮、1903… 金 晋燮(キム・ジンソプ、朝鮮語: 김진섭/金晉燮、1903年8月24日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の評論家、随筆家、詩人、作家、ドイツ文学者、アナウンサー。 号は聴川(チョンチョン、청천/聽川)。 全羅南道木浦に生まれ。幼少期いっとき慶尚南道安東で過ごす。1927年に法政大学文学部独文科卒。1925年に文学評論家として登壇、以後随筆の大家として名を鳴らした。 解放後は京城放送局員、ソウル大学校中央図書館長、ソウル大学校・成均館大学校教授を歴任したが、自宅にいた際に北朝鮮に拉致され、以後消息不明。
久保田 円次(くぼた えんじ、1903年〈明治36年〉8月2… 久保田 円次(くぼた えんじ、1903年〈明治36年〉8月23日 - 1998年〈平成10年〉2月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(8期)、防衛庁長官、群馬県議会議員、伊勢崎市議会議員・同議長を務めた。群馬県出身。伊勢崎市名誉市民。 1903年(明治36年)、群馬県新田郡笠懸村大字阿左美(現・みどり市笠懸町阿左美)に、和三郎・ひでの三男として生まれる。生家は果樹の栽培などを行う農家だった。兄・茂一郎は後に伊勢崎商工会議所会頭を務めた。 笠懸村尋常高等小学校を経て、1923年(大正12年)栃木県立足利工業学校(現・栃木県立足利工業高等学校)を卒業。同年兄・茂一郎とともに久保田兄弟鉄工所を設立し、副社長に就任。
長谷 長次(はせ ちょうじ、1903年(明治36年)8月23… 長谷 長次(はせ ちょうじ、1903年(明治36年)8月23日 - 1977年(昭和52年)12月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。弁護士。 石川県出身。1926年東京高等工業学校電気化学科卒。司法官試補となり、検察官となる。 1937年の第20回衆議院議員総選挙で石川1区から立候補して当選する。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では非推薦で立候補して落選した。戦後第1回の1946年の第22回衆議院議員総選挙で石川県(全県1区)から立候補したが、次点で落選。翌1947年の第1回北海道知事選挙(1947年北海道庁長官選挙)で無所属で立候補したが落選した。1949年の総選挙と1950年の参院選に北海道から立候補したが、いずれも落選。
楠田 匡介(くすだ きょうすけ、1903年8月23日 - 1… 楠田 匡介(くすだ きょうすけ、1903年8月23日 - 1966年9月23日)は、日本の推理作家、時代小説家。 1903年8月23日、北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)に生まれる。本名は小松保爾(こまつ やすじ)。 高等小学校卒業後、中学校の代用教員や札幌郵便局の電信係を経て、1924年に樺太の恵須取町(現・ウグレゴルスク)に渡り、パルプ工場に勤務。1927年、北海道に戻る。1934年に上京し、さまざまな職業を転々とする。職も30件以上変えた経験があるという。 1938年に結婚し、能率研究所につとめ、明治大学などの講師をつとめる。1943年、千葉県市川市に転居(1941年頃から市川市真間に住んだとする文献もある)。
本多 嘉一郎(ほんだ かいちろう、1903年(明治36年)8… 本多 嘉一郎(ほんだ かいちろう、1903年(明治36年)8月23日 - 1980年(昭和55年)5月15日)は、日本の映画人、地方政治家。第4代調布市長を1962年(昭和37年)から1978年(昭和53年)までの4期16年にわたり務めた。 1903年(明治36年)、大分県(現在の杵築市)に生まれる。 20代の頃の本多は、東亜キネマ京都撮影所(等持院撮影所)の撮影部に在籍し、1930年(昭和5年)久保義郎監督、岡田静江主演の無声映画『一度はすべての女に』の撮影技師などを務めた。 1931年、東亜キネマの経営不振から同社の業務を代行するために発足した東活映画社に移籍した。京都の映画会社である東活映画社が、1932年(昭和7年)に東京地区に撮影所を新設しようとした際、東京へ調査に派遣したのが本多であった。
歌川 八重子(うたがわ やえこ、1903年8月22日 - 1… 歌川 八重子(うたがわ やえこ、1903年8月22日 - 1943年9月13日)は、日本の女優。本名、深川 政江[5]。
安里 積千代(あさと つみちよ、1903年8月22日 - 1… 安里 積千代(あさと つみちよ、1903年8月22日 - 1986年9月30日)は、八重山群島政府及び琉球政府の政治家。元衆議院議員(沖縄社会大衆党→民社党)。
大河内信敬 (おおこうち のぶひろ、1903年 (明治36年… 大河内信敬 (おおこうち のぶひろ、1903年 (明治36年) 8月21日 - 1967年 (昭和42年) 12月1日) は、日本の画家。東京府東京市下谷区(現東京都台東区下谷)出身。物理学者・子爵の大河内正敏の次男。母は大河内信古の娘・一子。娘に女優の河内桃子がいる。号は清水丁三。 明治大学商科卒業。水彩画を板倉賛治、版画を小泉癸巳男、その他岡田三郎助や寺内萬治郎に師事。1933年、「画室の一隅」で第14回帝展に入選。1937年より1年間ヨーロッパに渡り、各地の美術を視察した。1940年、光風会会員となる。1947年、朝井閑右衛門らと新樹会を結成。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
久保 信(くぼ まこと、1903年8月19日 - 1991年… 久保 信(くぼ まこと、1903年8月19日 - 1991年6月29日)は、日本の男性フィギュアスケート選手(男子シングル)。北海道出身。明治大学政治経済学部卒。 第1回全日本選手権(1929年度)の優勝者である。 札幌商工会議所会頭を務めた久保兵太郎の三男として北海道に生まれる。札幌商業学校時代の1923年、日本スケート会(日本スケート連盟の前身の一つ)主催のフィギュアスケート選手権に出場。明治大学に入学し、1926年から1930年(1927年は中止)まで日本学生氷上競技選手権(インカレ)で4大会連続2位となる。同大会の1928年から1930年までの優勝者は、金子諭吉(慶大)であった。 1929年のフィギュアスケート選手権(日本スケート会主催)では、金子を抑えて優勝する。
菊池 栄一(きくち えいいち、1903年8月17日 - 19… 菊池 栄一(きくち えいいち、1903年8月17日 - 1986年8月25日)は、日本のドイツ文学者。東京大学名誉教授。 1903年、秋田県生まれ。秋田中学を経て、東京帝国大学ドイツ文学科を卒業。卒業後は第一高等学校教授となった。 太平洋戦争後の1949年、東京大学教養学部教授に着任。1955~57年ハンブルク大学客員教授。1962年、『イタリアに於けるゲーテの世界』を提出して文学博士号を取得。1963年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は日本大学教授として教鞭をとった。学界では、1980年より日本ゲーテ協会会長をつとめた。
内藤 雄(ないとう たけし、1903年(明治36年)8月17… 内藤 雄(ないとう たけし、1903年(明治36年)8月17日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人(海兵52期、海大36期卒)。太平洋戦争において艦隊参謀職を歴任した後、海軍乙事件で殉職。殉職による一階級昇進で最終階級は海軍大佐。 山形県出身。山形中学卒。海軍兵学校52期。席次は236名中6番。高松宮宣仁親王、入佐俊家、淵田美津雄らは同期生である。海軍大学校甲種36期。内藤は戦闘機の源田實と並び、爆撃機の内藤雄として知られ、樋端久利雄らとともに海軍爆撃術の体系化に功績があった。1939年(昭和16年)1月から10月まで独出張。第二次世界大戦勃発直後の独空軍は目覚しい活躍を見せていたが(電撃戦)、内藤は海上攻撃における問題点を指摘した。
千野 純次(ちの じゅんじ、1903年(明治36年)8月17… 千野 純次(ちの じゅんじ、1903年(明治36年)8月17日 - 1985年(昭和60年)1月21日)は、日本のヨットマン、歯科医師である。 神奈川県生まれ、東京歯科医専卒。横浜にて歯科医として活動し、その傍らで1932年(昭和7年)にヨットクラブの創立に携わった。 第二次世界大戦後は神奈川県ヨット協会および横浜ヨット協会の会長に就任し、ヨットマンの人材育成や操艇技術の向上に貢献する。この業績により1975年(昭和50年)に横浜市から体育部門における横浜文化賞を受賞した。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
辛島 驍(からしま たけし、1903年8月16日 - 196… 辛島 驍(からしま たけし、1903年8月16日 - 1967年4月27日)は、日本の中国文学研究者。 1903年、福岡県博多市で生まれた。1921年に福岡県立中学修猷館を卒業し、山口高等学校を卒業した。1928年、東京帝国大学文学部支那文学科を卒業。同年、京城帝国大学に赴任し、支那語学・支那文学講座を担当した。その後、助教授を経て、1939年に教授昇格。同年、博士論文『支那現代文学の研究』を東京大学に提出したが、太平洋戦争下の混乱の中で文学博士号授与は1946年となった。朝鮮半島赴任時には、延禧専門学校(現・延世大学校)校長も務めた。 戦後は昭和女子大学、相模女子大学教授などをつとめた。また、鎌倉文士とのつきあいもあり、鎌倉市図書館館長を務めた。
崎山 正毅(さきやま せいき、1903年8月16日 - 19… 崎山 正毅(さきやま せいき、1903年8月16日 - 1995年)は、日本の翻訳家。 大阪生まれ。東京帝国大学英文科卒。NHK国際局長など。キャサリン・マンスフィールドなど英文学を翻訳した。
梁 柱東(ヤン・ジュドン、1903年8月16日〈太陰暦: 6… 梁 柱東(ヤン・ジュドン、1903年8月16日〈太陰暦: 6月24日〉 - 1977年2月4日)は、大韓民国の詩人、評論家、国文学者、英文学者、翻訳家、随筆家、教授。本貫は南海梁氏(済州梁氏)。号は无涯(ムエ、무애)。 京畿道開城に生まれた。幼児期をいっとき平壌で過ごし、長淵で育った。京城中東高等普通学校を経て渡日し、1928年に早稲田大学英語英文学科卒業。1919年に廉想渉と共同で『文芸公論』を発刊し、崇実専門学校(現・崇実大学校)教授を務め、1923年同人誌『金星』で文壇に登場した。1930年には詩集『朝鮮の脈拍』を出版した。その後、郷歌の研究をし、1942年に郷歌25首の解読を行った『朝鮮古歌研究』を出版した。
葉上 照澄(はがみ しょうちょう、1903年8月15日 - … 葉上 照澄(はがみ しょうちょう、1903年8月15日 - 1989年3月7日)は、哲学者、天台宗の僧侶、千日回峰行大行満大阿闍梨、大僧正。比叡山延暦寺長﨟で初代印度山日本寺竺主および世界連邦日本宗教委員会会長を務めた。世界平和のためには宗派を超えた宗教者の連帯が必要との持論から、世界宗教サミットを発起・開催した。 岡山県赤磐郡石生村原(現在の岡山県和気郡和気町原)の天台宗・元恩寺住職の葉上慈照の長男として生まれる。小学校一年の時、備前岡山藩主の池田家の寺である金剛山常住寺の弟子となる。1916年(大正5年)9月、岡山県立岡山中学校に進学、1920年(大正9年)第六高等学校 (旧制)の入学試験では数学で満点を取り、首席入学した。
伊藤 英三(いとう えいぞう、1903年(明治36年)8月1… 伊藤 英三(いとう えいぞう、1903年(明治36年)8月15日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、警察官僚。嘉義市尹。 広島県広島市稲荷町に生まれる。第六高等学校を経て、1927年(昭和2年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年12月、高等試験行政科に合格し、翌年5月、台北州巡査部長に任ぜられる。ついで台北州警部補、司獄官練習所教官、新竹州警務課長、台中州警務課長兼理蕃課長、同保安課長、高等警察課長を経て、台南州教育課長に転じ、高雄州地方課長を経て、1936年(昭和11年)10月、嘉義市尹に就任した。 翌年、台中州警務部長に転じた。その後、帰朝し、秋田県書記官・学務部長を経て、滋賀県警察部長に就任し、1943年(昭和18年)7月まで務めた。
富田 真雄(とみた まさお、1903年8月15日-1989年… 富田 真雄(とみた まさお、1903年8月15日-1989年9月25日)は、日本の薬学者。京都大学名誉教授、薬学博士。 東京府出身。東京帝国大学薬学科卒業。乙卯研究所主任研究員を経て、1940年京都帝国大学教授となり、有機薬化学講座を創設。塩基性天然有機化合物の研究を進めた。ビスコクラウリン型塩基の全合成を完成、欧米に先んじて必須の開裂反応を開発した。京都大学初代薬学部長に就任し、京都大学微量元素分析総合施設を創始した。日本学術会議会員、第30代日本薬学会会頭、京都薬科大学学長などを歴任した。著作に「製薬化学」がある。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
吉田洞介(よしだ どうすけ、1903年8月15日 - 198… 吉田洞介(よしだ どうすけ、1903年8月15日 - 1988年3月1日)は日本の大蔵官僚。神戸税関長、大阪財務局長、大阪証券金融社長、大阪証券代行社長、大阪証券代行会長などを歴任。 京都府京都市。東京帝国大学法学部法律学科在学中に高等試験行政科に合格。東京帝国大学法学部法律学科卒業。1926年4月 大蔵省入省。営繕管財局総務部兼主計局属。1928年7月 高松税務署長。1930年9月 静岡税務署長。1932年7月 淀橋税務署長。1933年6月 神田橋税務署長。1942年10月から1946年11月まで陸軍司政長官第25軍。1947年1月27日 神戸税関長。1947年5月20日 大阪財務局長。1949年6月1日 退官。