三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月2… 三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月29日 - 1981年〈昭和56年〉2月25日)は、日本の海軍軍人。海兵38期・海大22期。最終階級は海軍中将。 広島県佐伯郡高田村(能美町を経て現:江田島市)で生まれる。広島一中を経て、1910年(明治43年)7月、海軍兵学校38期を3位/149名の好成績で卒業。1912年(大正元年)12月、戦艦「金剛」乗組。1913年(大正2年)7月、巡洋艦「宗谷」乗組。同年12月、海軍中尉に進級、水雷学校普通科学生。1914年(大正3年)5月、砲術学校普通科学生。12月、巡洋艦「阿蘇」乗組。1916年(大正5年)2月、駆逐艦「杉」乗組。 1916年、海軍大尉に進級。
永井 照雄(ながい てるお、1888年(明治21年)8月29… 永井 照雄(ながい てるお、1888年(明治21年)8月29日 - 1942年(昭和17年)1月4日)は、朝鮮総督府官僚。 広島県豊田郡吉名村(現在の竹原市)出身。1917年(大正6年)に鹿児島高等農林学校を卒業し、朝鮮総督府営林廠に勤務した。1923年(大正12年)、京都帝国大学経済学部を卒業し、朝鮮総督府属となる。1925年(大正14年)に高等試験行政科に合格。咸鏡北道学務課長、同視学官、慶尚南道地方課長、同産業課長などを歴任した。1932年(昭和7年)、木浦府尹に就任し、1933年(昭和8年)に仁川府尹に転じた。在任中の1941年(昭和16年)12月20日に仁川神社で行われた戦捷奉告祭に風邪で40度の高熱がありながら参加、帰宅後に急性肺炎を併発、1942年(昭和17年)1月4日に死去、53歳。
勝田 信(かつた しん、1888年 <明治21年> 8月29… 勝田 信(かつた しん、1888年 <明治21年> 8月29日 - 1989年 <平成元年> 9月16日)は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1911年に東京高等商業学校専攻部銀行科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1944年2月に鹿児島興業銀行(のちの鹿児島銀行)頭取に就任し、1960年5月には相談役に退いた。鹿児島商工会議所会頭も務めた。 1956年5月に黄綬褒章を受章し、1965年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1989年9月16日、心不全のために死去。101歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
難波 清人(なんば きよと、1888年(明治21年)8月28… 難波 清人(なんば きよと、1888年(明治21年)8月28日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の政治家、新聞記者。 岡山県上道郡平井村(現・岡山市)出身。中学時代は柔道で鍛えていて喧嘩っ早く、岡山中学校、関西中学校、金川中学校を喧嘩で退校処分となり、最終的には京都の中学校に進んだ。1913年、明治大学法律科卒業。中外商業新報(現日本経済新聞)経済市場部長、金川中学校理事長などを経て、1926年の土居通憲辞職に伴う補欠選挙で犬養毅の支援を受けて衆院議員に当選。昭和会や立憲政友会に所属。 1927年(昭和2年)、清瀬一郎を殴打するなど議会乱闘事件に関与したとして公務執行妨害、傷害の容疑で起訴。
井上 麗三(いのうえ れいぞう、1888年8月28日 - 1… 井上 麗三(いのうえ れいぞう、1888年8月28日 - 1953年12月30日)は、日本の俳優、脚本家、映画監督、映画プロデューサーである。井上 麗吉(-れいきち)とも名乗った。新派、無声映画の俳優から監督へと転身、活動写真資料研究会、マキノ映画製作所での作品を残す。 1888年(明治21年)8月28日、広島市大手町(現在の同市中区)に生まれる。同県立の旧制中学校を中退したのち、当時日本の植民地であった台湾に渡る。事業に失敗して帰国、東京で新派の俳優になる。 1921年(大正10年)、32歳のときに松竹キネマに入社、新派出身の岩田祐吉、関根達発とともにヘンリー・小谷監督、栗島すみ子主演の映画『虞美人草』に出演、続いて同監督の『電工と其妻』に主演の岩田、栗島、そして新派出身の岡本五郎とともに出演した。
岸田 久吉(きしだ きゅうきち、1888年8月25日 - 1… 岸田 久吉(きしだ きゅうきち、1888年8月25日 - 1968年10月4日)は、日本の動物学者。 研究の範囲は哺乳類から節足動物にいたる広範な分野におよび、晩年にいたるまで研究を続けた。 哺乳類については「樺太の哺乳動物相」(鳥獣集報. vol. 17 no. 2: 241-282. 1960年3月)、「千島群島の哺乳動物相」(鳥獣集報. vol. 17 no. 2: 283-306. 1960年3月)などを発表している。哺乳類学者としては、エゾオオカミ・キタキツネ・エゾナキウサギ・ホンシュウジカ等の命名をおこなっている。また、日本人初の哺乳類図説『哺乳動物図解』を刊行した。 農林技官として農業害虫やその駆除に貢献したが、それ以上に岸田の関心は陸上節足動物の中で人の関心を持たれない分野に集中し、クモ目やダニ目、ザトウムシなどの日本における先駆者である。
伊東 岩男(いとう いわお、1888年(明治21年)8月24… 伊東 岩男(いとう いわお、1888年(明治21年)8月24日‐ 1966年(昭和41年)12月23日) は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、北郷町名誉町民。旧姓・関山。 宮崎県南那珂郡、のちの北郷村(北郷町を経て現日南市)で関山宗被の二男として生まれた。1906年(明治39年)宮崎県立農学校(現宮崎県立宮崎農業高等学校)を卒業した。1918年(大正7年)南那珂郡油津町(現日南市)の伊東スマエ(先代善衛門長女)の入夫となり家督を相続した。 南那珂郡農会技手を経て、北郷村会議員、南那珂郡会議員を務め、1923年(大正12年)宮崎県会議員に選出され4期在任した。この間、県会では県当局に迎合せず堂々と論戦を行った。
野村 無名庵(のむら むめいあん、1888年8月23日 - … 野村 無名庵(のむら むめいあん、1888年8月23日 - 1945年5月25日)は、日本の落語評論家。
勝 精(かつ くわし、1888年〈明治21年〉8月23日 -… 勝 精(かつ くわし、1888年〈明治21年〉8月23日 - 1932年〈昭和7年〉7月10日)は、日本の華族、実業家。爵位は伯爵。旧姓は徳川(とくがわ)。 1888年(明治21年)8月23日、徳川慶喜の十男として生まれる。母は新村信で、石工の望月宗兵衛のもとに預けられた。1892年(明治25年)2月8日、勝海舟は嫡子小鹿が早世したため、慶喜の子を孫娘の婿養子に迎えて伯爵の家督を譲ろうと考えた。勝は慶喜の七男・慶久を養子にと望んだが、慶喜は「あれは当家の嗣子であるので」といって断り、末男の精を養子に出したという。慶喜・家達に精との養子縁組を申し入れ、同年2月14日、父の慶喜は精の養子入りを承諾した。
柳井 平八(やない へいはち、1888年(明治21年)8月2… 柳井 平八(やない へいはち、1888年(明治21年)8月22日- 1945年(昭和20年)2月15日)は、大日本帝国の陸軍省建築技師。最終階級は高等官一等。靖国神社『遊就館』や陸軍大臣宇垣一成邸、閑院宮載仁親王別邸の設計をした。岡山県井原市出身。 1888年(明治21年)8月22日、岡山県小田郡堺村(現:井原市)の柳井儀三郎の次男として出生。この後、備中成羽藩士である柳井勝太郎の長女・志保と結婚する。1902年(明治35年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。同期には、同志社大学教授になる中島重や俳優の加藤精一がおり、先輩には、藤岡郊二がいた。特に、藤岡郊二は、後に陸軍省で柳井の上司となる薬師寺主計の第六高等学校・東大時代の友人であり、藤岡郊二邸は薬師寺によるアール・デコ建築が取り入れられており、柳井の建築にも影響を与えることになる。
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年〈明治21年〉8月2… 小島 三郎(こじま さぶろう、1888年〈明治21年〉8月21日 - 1962年〈昭和37年〉9月9日)は、日本の医師。学位は、医学博士。東京帝国大学教授、国立予防衛生学研究所長を歴任。岐阜県各務原市出身。
岡部 常(おかべ つね、1888年8月21日 - 1968年… 岡部 常(おかべ つね、1888年8月21日 - 1968年1月29日)は、日本の司法官僚、弁護士、政治家。参議院議員(1期)。 東京都出身。1914年東京帝国大学法科卒。翌年司法属となり、司法書記官や各地の刑務所長を務める。さらに九州行刑管区司令、関東行刑管区長を経て、弁護士、刑務協会顧問を歴任する。 1947年の第1回参議院議員通常選挙において全国区から立候補して当選した。会派は緑風会に所属し、国会内では法務委員長を務めた。参議院議員は1期務め、1953年の第3回参議院議員通常選挙には緑風会公認で出馬したが辞退した。 1966年春の叙勲で勲二等瑞宝章受章(勲三等からの昇叙)。 1968年1月29日死去、79歳。
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8… 樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8月20日 - 1970年〈昭和45年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルビン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。 第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認めたとされ、これは「ヒグチ・ルート」と呼ばれたと言われる。[ヒグチ・ルート]からはかつて「2万人を救出した」と喧伝されたこともあったが、実態は不明な部分も多い。 太平洋戦争中、アッツ島の戦いにおいて樋口の命によりアッツ島守備隊は玉砕、その後の南方諸島で続発する日本軍守備隊玉砕の引き金となった。
中嶋 太郎(なかしま たろう、1888年〈明治21年〉8月1… 中嶋 太郎(なかしま たろう、1888年〈明治21年〉8月19日 - 1973年〈昭和48年〉3月16日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)、諫早市長。位階は正五位。勲三等瑞宝章綬章。 長崎県出身。1914年(大正3年)早稲田大学専門部政治経済科卒。コロンビア大学大学院に留学し、記者として二六新聞社などで勤務する。その後、1947年(昭和22年)、諫早市長選挙に立候補して当選。同年4月8日、初代公選市長となった。市長在任中は市立中学の開校、市役所機構の再編、自治体警察の設置、諫早球場の開場など市制改革に追われた。1951年(昭和26年)に再選。翌1952年(昭和27年)4月3日に退任した。第25回衆議院議員総選挙において長崎1区から改進党で立候補したが落選。
堀口 功(ほりぐち いさお、1888年8月18日 - 196… 堀口 功(ほりぐち いさお、1888年8月18日 - 1964年2月17日)は、日本の政治家。岡山県玉島市(現・倉敷市)長。 岡山県浅口郡阿賀崎村(のち玉島町→玉島市、現・倉敷市)出身。旧制岡山中学校(現・岡山県立朝日高等学校)、金川中学校(後、岡山県立金川高等学校、現在廃校)を経て、1918年、早稲田大学政治経済学科卒。同年、高等文官試験行政科に合格する。福岡県属、同官房主事、地方課長、兵庫県地方、議事各課長、沖縄、広島、高知、千葉各県の学務部長、宮城、鹿児島各県の経済部長、福井県の総務部長を歴任し、1939年に退官した。退官後は神戸製鋼所総務部長などを経て、1951年、玉島町長に就任。翌年1月、玉島町の市制施行に伴い、玉島市長となった。
石山 徹郎(いしやま てつろう、1888年8月18日 - 1… 石山 徹郎(いしやま てつろう、1888年8月18日 - 1945年7月30日)は、国文学者。 秋田県雄勝郡生まれ。1914年東京帝国大学国文科卒。卒業論文で初めて現代文学を扱ったとされる夏目漱石論を書く。同年広島で中学校教師、1915年退職して万朝報記者となる。1918年「新しき村」会員。1920年北海道帝国大学予科講師、のち教授。1923年松江高等学校教授。1924年大阪府女子専門学校教授。1943年11月退職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鍋井 克之(なべい かつゆき、1888年8月18日 - 19… 鍋井 克之(なべい かつゆき、1888年8月18日 - 1969年1月11日)は、日本の洋画家。 大阪府出身。旧姓は田丸。東京美術学校卒。1915年「秋の連山」で二科賞。フランスなどに留学後、1923年二科会会員となり、1924年小出楢重、黒田重太郎らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。1947年二紀会の結成に参加。1950年「朝の勝浦港」などで芸術院賞受賞。1964年浪速芸術大学教授。宇野浩二と親しくその挿絵を多く描いた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年〈明治21年〉8月1… 佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年〈明治21年〉8月18日 - 1963年〈昭和38年〉9月14日)は、20世紀の日本で活躍した彫刻家。 福島県相馬郡中村町(現相馬市)出身、本名・清蔵。1888年宮彫り師の家に生まる。幼い頃から木彫の技術を学ぶ。1905年、17歳で「われ世界第一の彫刻家たらんと祈りき」と上京。翌年山崎朝雲に師事、1913年に朝山の号を貰い独立。30歳で結婚。大森にアトリエを構える。1914年日本美術院同人。院展に出品を続けた後、1922年(大正13年)官費留学により2年間フランスに渡り、アントワーヌ・ブールデルに師事する。 1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する。
赤土 正強(赤土 正强、しゃくど まさたけ、1888年(明治… 赤土 正強(赤土 正强、しゃくど まさたけ、1888年(明治21年)8月16日 - 1944年(昭和19年)3月11日)は、日本の内務官僚、足利市長。 奈良県北葛城郡下田村(現在の香芝市)出身。天王寺中学校を経て、第四高等学校を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。内務省に入省し滋賀県属となる。 以後、滋賀県警視、同県神崎郡長、同野洲郡長、鳥取県理事官・視学官、京都府理事官・産業部長、山梨県書記官・警察部長、奈良県書記官・内務部長、愛媛県書記官・内務部長、福島県書記官・内務部長、長崎県書記官・総務部長などを歴任。 1937年7月8日、依願免本官となり退官した。
蔵原 敏捷(くらはら としかつ、1888年8月15日 - 1… 蔵原 敏捷(くらはら としかつ、1888年8月15日 - 1945年8月7日)は、日本の官僚、政治家。元和歌山県知事。衆議院議員(3期)。官僚としては内務省の警察関連部門で長く勤めた。 熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身。小川尋常小学校、熊本県立八代中学校(1906年3月卒業)、第五高等学校(1909年7月卒業)を経て、1913年7月に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 大学卒業後の1913年10月に高等文官試験に合格した。以後は内務省官僚となる。1914年8月に大阪府警察部警部、1916年12月から同警視を務めた後、1922年6月に東京府理事官に異動し、その直後から欧米に約1年3か月出張した。
酒井 久三郎 (さかい きゅうさぶろう、1888年〈明治21… 酒井 久三郎 (さかい きゅうさぶろう、1888年〈明治21年〉8月15日 - 1958年〈昭和33年〉8月13日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(1期)、元山形県議会議員、元宮生村村長。位階は従六位。勲六等瑞宝章。 山形県宮生村金生(現上山市)出身。1903年に上山尋常高等小学校高等科卒業、1909年に東京神田森田簿記専修学校の商業銀行社会一般全科卒業。 1923年に宮生村消防組頭に就任、1929年宮生村村会議員に選出、1931年宮生村助役就任。 1932年に宮生村村長となった。 1934年に上山タクシー社長に就任。 1939年9月25日に山形県会議員に初当選。同年10月に参事会員。 戦後、公職追放となり、1946年12月1日に県会議員を辞職。
小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 19… 小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 1974年11月4日)は、日本の洋画家。主に風景画を手がけた。 1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。生まれつき、吃音があった。1908年、京都市立美術工芸学校卒業。日本画家の川北霞峰に師事し、号を「霞村」とする。1910年、京都市立絵画専門学校(現 京都市立芸術大学)に入学。在学中、第4回文展に入選。1913年、同校を卒業。1918年頃、日本画から洋画に転向し、鹿子木孟郎の画塾に通う。1922年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。1925年、第3回春陽会で春陽会賞を受賞。翌年も出品し、春陽会賞を受賞した。
小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月1… 小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月12日 - 1970年〈昭和45年〉11月5日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。海軍中将従二位勲一等侯爵。北白川宮家出身。皇族時代の名と身位は輝久王(てるひさおう)。 伊勢神宮大宮司の小松揮世久は孫にあたる。 北白川宮能久親王第4王子。長兄恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄延久王は夭折し、北白川宮家は三兄成久王が相続した。 1906年(明治39年)、一般受験を経て海軍兵学校第37期入校。入学時の席次は180人中122番(または166番)。同期生に井上成美大将、岩村清一・小沢治三郎・草鹿任一・桑原虎雄各中将など。 当時の皇族は天皇の許可により無試験で陸軍士官学校(及び陸軍幼年学校)や海軍兵学校に入校可能であったが、以前から海兵入学を希望していた輝久王は特別扱いを拒否し、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般試験を経て合格・入校した。
三浦 襄(みうら じょう、1888年(明治21年)8月10日… 三浦 襄(みうら じょう、1888年(明治21年)8月10日 - 1945年(昭和20年)9月7日)は、日本の実業家。第二次世界大戦時に日本の占領下にあったバリ島でインドネシア解放の大義を信じ民政部顧問として働いたが、日本の敗戦により解放の約束を果たせず、その責任を取り自決した。 1888年(明治21年)、日本基督一致教会の牧師一家の次男として仙台にて生まれる。秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)に進むも、在学中は、経済的状況の厳しさから牛乳配達のアルバイトをして過ごした。1905年(明治38年)、父のハワイ日本人教会赴任に伴い、東京都港区に引っ越し、明治学院普通部に編入。 やがて堤林数衛が商売と伝道を兼ねて設立した南洋商会への入会を決意すると、1908年(明治41年)、明治学院を中退し、1909年(明治42年)4月にジャワ島スマランに渡航。
後藤 守一(ごとう しゅいち、1888年(明治21年)8月1… 後藤 守一(ごとう しゅいち、1888年(明治21年)8月10日 - 1960年(昭和35年)7月30日)は、大正期から昭和期にかけての日本の考古学者。明治大学名誉教授。 神奈川県三浦郡田越村(現・逗子市)生まれ(鎌倉市生まれや、静岡県生まれとする資料もある)。沼津中学(現・静岡県立沼津東高等学校)、静岡師範学校を経て、東京高等師範学校地歴科を卒業。 1917年(大正6年)3月から1918年(大正7年)7月まで静岡県立静岡中学校で地歴の教諭を務めた後、1921年(大正10年)(1918年とする資料もある)から1940年(昭和15年)まで帝室博物館に勤務し、監査官を担当した。1927年(昭和2年)には博物館視察のためにヨーロッパに派遣された。
本田 義英(ほんだ ぎえい、1888年〈明治21年〉8月10… 本田 義英(ほんだ ぎえい、1888年〈明治21年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉7月29日)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 京都出身。旧姓は桐山。幼名は伝次郎。1914年京都帝国大学文科大学印度哲学科卒。1929年京都帝大文学部講師、1934年「印度学方法論より観たる法華経」で文学博士、同年助教授、1935年教授。1948年定年退官、名誉教授、立正大学教授、稲沢女子短期大学(愛知文教女子短期大学)教授、印度文化研究所所長。京都の慈雲院、宝塔寺の住職をつとめた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8… 原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8日 - 1947年(昭和22年)5月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸士22期、陸大28期。 愛媛県鵜足郡土居村(香川県那珂郡丸亀町を経て現丸亀市土居町)で生まれる。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を卒業し陸軍士官学校に進んだ。 1927年(昭和2年)末、大使館附武官として中国大陸に赴任。1931年(昭和6年)8月から一年間南京にて同職をつとめ、この間、混合委員会共同委員として上海停戦協定に尽力した。 日中戦争開戦後、第35師団長、第27師団長として大陸に駐屯し、1939年(昭和14年)1月梁鴻志の懇請により中華民国維新政府の最高顧問に就任。
鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月… 鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月5日 - 1962年(昭和37年)9月6日)は、日本の内務・商工官僚、政治家、教育者、獣医師。立憲民政党所属の衆議院議員、貴族院多額納税者議員、初代品川区長。上條秀介らと共に昭和大学創設者の一人で、昭和大学理事長、文教大学及び文教大学学園理事長を務めた。 1888年(明治21年)8月5日に島根県邑智郡出羽村(瑞穂町を経て現邑南町)で有井常太郎の次男として生まれる。父は村の家畜市場の取締役を務め、幼少より神童と呼ばれた。1913年(大正2年)、東京帝国大学農科大学獣医学科卒業。1914年に荏原郡中延の地主・鏑木胤義の養子となり、いつの入夫となった。
柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3… 柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3日 – 1977年〈昭和52年〉9月15日)は、昭和期の宗教家、政治家。参議院議員(2期)。 東京府出身。中津中学校を修了した。 1935年(昭和10年)天理教校講師に就任。以後、天理教本部教学審議会委員長、同集会予算委員長、同東京教務支庁主事、同東中央分教会長、同文教部理事などを歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して初当選。1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して再選(補欠、任期3年)されたが、栃木県佐野市の投票所で候補者平林剛の所属政党名の誤記があったことにより、1954年(昭和29年)9月24日、最高裁判所の上告審判決により佐野市での選挙が無効となり、柏木を含めた6名が失格した。
尹 炳浩(ユン・ビョンホ、朝鮮語: 윤병호、1888年8月3… 尹 炳浩(ユン・ビョンホ、朝鮮語: 윤병호、1888年8月3日またはまたは1889年8月3日または1889年8月5日 - 1974年7月13日または7月14日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。第3代韓国国会議員。号は滄南。 慶尚南道南海郡出身、本籍は釜山府。普成専門学校経済科、早稲田大学政経科卒。1909年に大同青年団(のちの大韓青年団)を組織し、その後は独立運動のための秘密団体である白山貿易会社設立者、慶尚南道農林局長、原州蚕糸社長、第3代国会絶糧農家救護対策委員会委員長を務めた。 1974年7月13日、ソウル市永登浦区の自宅アパートで持病により死去。享年86。 1942年の朝鮮語学会事件により1年間投獄された。
富岡 正重(とみおか まさしげ、1888年8月2日 -196… 富岡 正重(とみおか まさしげ、1888年8月2日 -1968年6月)は、日本の光学技術者。富岡光学機械製作所(後の京セラオプテック)を創業したほか、光学設計のテキストを執筆、翻訳したことでも知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
古川 静夫(ふるかわ しずお、1888年(明治21年)8月1… 古川 静夫(ふるかわ しずお、1888年(明治21年)8月1日 - 1967年(昭和42年)5月27日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 鹿児島県日置郡日置村麓(現在の日置市日吉町日置)出身。古川直衛の三男として生まれた。第七高等学校造士館を首席で卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し静岡県警部となる。 以後、静岡県引佐郡長、同県磐田郡長、同県産業課長、熊本県学務課長、兵庫県学務課長、京都府学務課長、栃木県書記官・警察部長、福岡県学務部長、警視庁書記官・保安部長、同警務部長、同官房主事、神奈川県内務部長などを歴任。
迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 … 迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 - 1953年(昭和28年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 鹿児島県姶良郡、のちの加治木町(現姶良市)出身。陸軍経理学校第4期主計候補生として1910年(明治43年)5月24日に卒業した。1934年(昭和9年)6月28日に陸軍省経理局監査課長に就任し、8月1日に陸軍一等主計正に進級した。1937年(昭和12年)8月に第1軍経理部長に就任し、日中戦争に出動した。 1938年(昭和13年)7月に陸軍主計少将に進級し、1939年(昭和14年)8月に関東軍倉庫長に転じた。1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、12月1日に陸軍経理学校長に就任。
松崎 謙二郎(まつざき けんじろう、1888年〈明治21年〉… 松崎 謙二郎(まつざき けんじろう、1888年〈明治21年〉8月 - 没年不明)は、日本の官僚。愛知県経済部長。族籍は長野県士族。立教大学名誉教授松崎仁の父。 長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)に生まれる。長野士族・松崎雅人の長男。第一高等学校を経て、1916年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。1917年10月、文官高等試験に合格。1918年、北海道庁属となり、山梨県、警視庁、福島県各警視を経て鹿児島県理事官に任じられ、以来宮崎県視学官、静岡県書記官、鹿児島県書記官、愛媛県書記官・警察部長、島根、和歌山、三重各県書記官・内務部長を経て、1935年、愛知県書記官に任じ経済部長に補せられ、1937年、退官する。
6代上野 松次郎(うえの まつじろう、1887年〈明治20年… 6代上野 松次郎(うえの まつじろう、1887年〈明治20年〉8月31日 - 1954年〈昭和29年〉10月5日)は、日本の商人(油屋、肥料商)、政治家(貴族院議員)、栃木県多額納税者、実業家、銀行家。下野貯蓄銀行頭取。前名・順一。勲四等。 栃木県宇都宮市本郷町出身。上野松次郎の長男。1936年、父・松次郎の隠居により家督を相続し、翌1937年に6代目松次郎を襲名し、家業の肥料商を継承した。 また銀行、会社の重役であった。宇都宮商工会議所会頭、栃木県農工銀行頭取、下野貯蓄銀行頭取。また1925年(大正14年)に鹿沼銀行、宇都宮銀行、下野実業銀行、喜連川銀行、烏山産業銀行、今市銀行が合同して発足した下野中央銀行の頭取となった。
布 利秋(ぬの としあき、1887年(明治20年)8月30日… 布 利秋(ぬの としあき、1887年(明治20年)8月30日 ‐ 1975年(昭和50年)6月15日) は、大正から昭和期の海外特派員、著述家、政治家。衆議院議員。 愛媛県北宇和郡吉野村(吉野生村を経て現松野町)で、布岩太郎の二男として生まれた。1911年(明治44年)早稲田大学政治経済科を卒業。さらに同大文科で地理学を学んだ。のちワシントン大学文科、ロンドン大学文科でも学ぶ。 コーストタイムス旬刊雑誌社主幹、外務省特務通信員、中央新聞海外派遣員を務め、18年間で世界60数か国を旅行し、1933年(昭和8年)中央アジアで消息不明となるなど「世界漫遊家」と称された。また著述業にも従事した。 戦後、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に愛媛県全県区から出馬して当選。
中村 順平(なかむら じゅんぺい、1887年8月29日 - … 中村 順平(なかむら じゅんぺい、1887年8月29日 - 1977年5月24日)は日本の建築家。建築教育者。 大阪府大阪市生まれ。三男二女の末子。旧制天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)に進学。同校を経て、1910年に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)を卒業。曾禰達蔵・中條精一郎の曾禰中條建築事務所に入所する。1910年12月から大阪高槻工兵第四大隊第一中隊入営。1914年には東京大正博覧会第一会場の設計を委ねられ、また1919年には一ツ橋如水会館の設計を担当。1920年に、岩崎財団の助成をうけ、フランスに渡る。1921年、エコール・デ・ボザールに、33歳にして留学。クロモール&エクスペールのアトリエに所属。
李 範昇(イ・ボムスン、朝鮮語: 이범승、1887年8月29… 李 範昇(イ・ボムスン、朝鮮語: 이범승、1887年8月29日 - 1976年9月3日)は、日本統治時代の朝鮮の公務員、大韓民国の警察署長、弁護士、政治家、実業家。京城図書館(現・鍾路図書館(朝鮮語版))の設立者であり、初代楊州警察署長、初代京城府尹、第2・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 同じく第2代国会議員を務めた李肯鍾は甥。 忠清南道燕岐郡(現・世宗特別自治市)または漢城府出身。京都帝国大学(現・京都大学)法科卒、同大学院で奨学生として法制史の研究を行って修了。1921年に京城図書館(現・鍾路図書館(朝鮮語版))を設立し、1923年から民立大学期成準備会発起人、普成専門学校(現・高麗大学校)講師を務め、その後は親日団体の同民会で活動した。
土田 伊右衛門(つちだ いえもん、1887年〈明治20年〉8… 土田 伊右衛門(つちだ いえもん、1887年〈明治20年〉8月27日 - 没年不明)は、日本の政治家、地主・家主。大阪府会議員。大阪市会議員。土田家9代目。 大阪府・土田忠蔵の長男。1906年、市岡中学卒業。1923年、家督を相続する。祖先伝来の多くの土地家屋を管理する。社会公共事業に心を注ぎ中津青年会を組織し、その副会長となり以降諸般に渉り尽くす。 数多の公職に就く。大阪府西成郡中津町助役となり、また同町会議員に当選する。中津町長に挙げられる。大阪市会議長、同副議長、大阪市公安委員長などをつとめる。 1928年、社会教育功労者として文部大臣より表彰される。大阪府参事会員として府政に力を致す。 趣味は碁、長唄、謡曲。
毛利 宮彦(もうり みやひこ、1887年(明治20年)8月2… 毛利 宮彦(もうり みやひこ、1887年(明治20年)8月25日 - 1957年(昭和32年)1月27日)は、日本の図書館学者、早稲田大学図書館員・講師。日本の図書館学の創成に大きく関わる草分けの1人であり、早稲田大学新図書館の設計図案を作成するなど図書館施設・設備にも高い関心を示した。 1887年8月25日、士族である毛利義保・鋺子の子として愛知県に生まれる。 1912年、早稲田大学大学部文学科英文学科第一部を卒業し、早稲田大学図書館の図書館員となる。1915年5月から1916年7月まで、図書館・大学研究室制度の研究のためにニューヨーク公共図書館附属ライブラリースクールに留学する。帰国した後、1916年10月9日から山形県山形市で開催された第11回全国図書館大会において「個人と公衆図書館」という演題で講演を行う。
助川 啓四郎(すけかわ けいしろう、1887年(明治20年)… 助川 啓四郎(すけかわ けいしろう、1887年(明治20年)8月23日 - 1943年(昭和18年)10月5日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、船引町長。 福島県田村郡片曾根村(現在の田村市)出身。1906年(明治39年)、早稲田大学専門部政治経済科卒業。1915年(大正4年)より、片曾根村長・福島県会議員・船引町長(片曾根村が町制施行し改称)を歴任した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙で補欠当選。以後、5回の当選回数を数えた。その間、第1次近衛内閣で農林参与官を務めた。 農政の専門家で、農村之青年社をおこして、雑誌「農村之青年」を発刊した。 1943年(昭和18年)、翼賛政治会、農林省、内務省共同の満鮮食糧事情調査団に一員として参加することとなり、加藤鯛一代議士や随行者とともに満州へ向けて出発。
田辺 譲(田邊 讓、たなべ ゆずる、1887年(明治20年)… 田辺 譲(田邊 讓、たなべ ゆずる、1887年(明治20年)8月21日 – 1952年(昭和27年)1月1日)は、大正から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員、山口県会議長、山口県美祢郡大嶺村長、同大嶺町初代町長。 山口県美祢郡大嶺奥分村(大嶺村、大嶺町を経て現美祢市大嶺町奧分)で、素封家・田辺誠民と辰(小沢正路の四女)の長男として生まれる。1909年(明治42年)山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業し、東京美術学校(現東京芸術大学)で学んだ。 郵便局長、大嶺酒造取締役社長、大嶺運送社長、秋吉洞自動車社長、有ノ木炭鉱社長、日本石灰工業所取締役社長、貯蔵食糧取締役社長、大嶺無煙炭礦取締役、山口県地方木材 (株) 理事、山口県山林会副会長、山口県耕地協会常務理事などを務めた。
伊達 徳次郎(だて とくじろう、1887年〈明治20年〉8月… 伊達 徳次郎(だて とくじろう、1887年〈明治20年〉8月20日 - 1959年〈昭和34年〉1月9日)は、大正から昭和時代の政治家。警察官。埼玉県川越市長。 千葉県安房郡北条村(北条町、館山北条町を経て、現館山市北条)に生まれる。伊達博・せいの六男で生家は仙台藩伊達家の末裔。1907年(明治40年)明治大学法学科を卒業し、1921年(大正10年)埼玉県高等課長、浦和署長、茨城県特高課長、再び浦和署長を歴任した。 埼玉県の商工課長を経て、1933年(昭和8年)川口町助役となる。1935年(昭和10年)には川越市長の橋本定五郎に請われ同市助役に就任。下水道整備を進めた。1939年(昭和14年)同市長となり、田面沢村の合併、都市計画事業などに尽力した。
天羽 英二(あもう えいじ、1887年〈明治20年〉8月19… 天羽 英二(あもう えいじ、1887年〈明治20年〉8月19日 - 1968年〈昭和43年〉7月31日)は、日本の外交官。 日独伊三国同盟締結時(1940年〈昭和15年〉9月25日)は駐イタリア特命全権大使。三国同盟に反対の立場の天羽は三国同盟締結直前(1940年〈昭和15年〉9月6日)に松岡外相によってイタリア特命全権大使の任を解かれ(いわゆる松岡旋風人事)、後任の駐イタリア特命全権大使として堀切善兵衛が選ばれた(1940年〈昭和15年〉9月30日に正式任命)。外務次官(近衞文麿内閣)や情報局総裁(東條英機内閣)を務め、戦後A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監され公職追放となった(のちに解除)。1945年(昭和20年)12月にA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監された天羽は遂に起訴されることなく3年後の1948年(昭和23年)12月に釈放された。
對馬洋 弥吉(つしまなだ やきち、1887年8月19日 - … 對馬洋 弥吉(つしまなだ やきち、1887年8月19日 - 1933年2月16日)は、長崎県下県郡久和村(のち厳原町、現対馬市)出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は川上 弥吉(かわかみ やきち)。最高位は東大関。現役時代の体格は190cm、105kg。得意手は左四つ、吊り、上手投げ、小手投げ。 対馬の生まれで幼少時より背が高く、「半鐘泥棒」と言われてはからかわれていた。成人して地元の重砲隊に入隊したが体の大きさを見込んだ師団長が力士になることを勧め、除隊させてくれた。師団長の紹介状を手に角聖・常陸山を訪ね入門した。常陸山からは「タイシュウ(対州)」の愛称で呼ばれていた。
吉田 享二(よしだ きょうじ、1887年(明治20年)8月1… 吉田 享二(よしだ きょうじ、1887年(明治20年)8月18日 - 1951年(昭和26年)4月29日)は、日本の建築家。建築研究者、工業教育者。 建築材料学の権威で、建築材料協会会長、日本建築学会会長などを歴任した。各地の都市計画にも携わる。建築材料学のほか建築設備学の草創期において、その研究は学界や業界標となる。終始、早稲田大学・同高校での教職と運営にあたる。 1887年(明治20年)兵庫県美方郡生まれ、石川県士族で宮中顧問官の吉田醇一の養子となる。旧姓は宮脇。1912年(大正元年)に東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、早稲田大学理工学部建築学科に勤務。また母校の講師、早稲田大学助教授を経て1916年(大正5年)に同校教授。
坪内 士行(つぼうち しこう、1887年〈明治20年〉8月1… 坪内 士行(つぼうち しこう、1887年〈明治20年〉8月16日 - 1986年〈昭和61年〉3月19日)は、日本の演劇評論家、早稲田大学教授、戯曲家、振付師。女優・坪内ミキ子の父。 現在の愛知県名古屋市に生まれる。坪内逍遥の兄・義衛の三男で、逍遥に子がなかったため7歳のときに養子となった。旧制早稲田中学校を経て、1909年(明治42年)早稲田大学文学部英文科卒業。その後、ハーバード大学に留学して演劇を学び、1915年(大正4年)に帰国。翌年、留学中深い関係となったアメリカ人女性マッグラルド・ホームズが後を追って日本に来た。しかし逍遥は士行に娶合わせるつもりで鹿嶋清兵衛の娘のくにを養女にしており、この関係を許さなかった。
三村 起一(みむら きいち、1887年8月15日 - 197… 三村 起一(みむら きいち、1887年8月15日 - 1972年1月28日)は、日本の実業家。住友鉱業(現住友金属鉱山)初代社長、石油開発公団初代総裁などを歴任。 東京・銀座尾張町出身。実父の山口慎、養父の三村直ともに旧信濃上田藩士。第一高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に大阪の住友総本店に入社する。住友伸銅所勤務を経て、1919年(大正8年)~1921年(大正10年)欧米出張。1931年(昭和6年)住友伸銅鋼管取締役、1932年(昭和7年)住友別子鉱山常務、専務を経て、1941年(昭和16年)住友鉱業(現住友金属鉱山)初代社長兼住友本社理事。この間、住友機械製作(現住友重機械工業)、大日本産業報国会理事などの役員を兼務。
荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年〈明治20年〉8月… 荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年〈明治20年〉8月14日 - 1981年〈昭和56年〉3月6日)は、日本の社会主義者・労働運動家・政治家。また、作家・評論家。本名は荒畑 勝三(あらはた かつぞう)。 日本共産党および日本社会党の結党に参加するが離党し、1946年(昭和21年)から衆議院議員を務めた。主義主張の一貫した生涯は、日本社会主義運動の良心の軌跡とされている。 1887年(明治20年)8月14日に神奈川県横浜市永楽町にあった横浜遊廓の中で生まれ、幼少期を横浜市野庭(現・横浜市港南区)で過ごした。高等小学校を卒業後に外国人商館でボーイとして勤務しながらキリスト教に改宗し、ボーイを退職後は横須賀海軍工廠で勤務していた。
岩瀬 徳三郎(いわせ とくさぶろう、1887年8月11日 -… 岩瀬 徳三郎(いわせ とくさぶろう、1887年8月11日 - 1971年2月2日)は、日本の化学技術者、工学博士。東ソー及び東曹産業の創業者。 千葉県銚子市出身。1887年(明治20年)大地主、岩瀬利右衛門の三男として生まれる。1914年九州帝国大学工学部応用化学科卒業。同大学院へ進みアメリカへ留学。渡米の際の船で安野譲と知り合った縁で1918年に日本曹達工業(のちのトクヤマ)入社。同社取締役技師長、専務取締役を経て1935年東洋曹達工業(現東ソー)を設立し社長に就任。1940年「アンモニアソーダ工業用生石灰焼成に関する研究」で九州帝国大学工学博士の学位を取得。 妻・つね(1894年生)との間に徳郎、和子、義郎、秀郎、幹子、及び養子の寅四郎あり。