鈴木 鎮一(すずき しんいち、1898年10月17日 - 1… 鈴木 鎮一(すずき しんいち、1898年10月17日 - 1998年1月26日)はドイツで学んだとされる日本のヴァイオリニスト。スズキ・メソードの創始者であり、世界的には音楽教育家および教育学の理論家として著名で、その教育理論は、日本よりも欧米で、とりわけアメリカ合衆国で高く評価されている。
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鈴木 鎮一(すずき しんいち、1898年10月17日 - 1… 鈴木 鎮一(すずき しんいち、1898年10月17日 - 1998年1月26日)はドイツで学んだとされる日本のヴァイオリニスト。スズキ・メソードの創始者であり、世界的には音楽教育家および教育学の理論家として著名で、その教育理論は、日本よりも欧米で、とりわけアメリカ合衆国で高く評価されている。
三木 鉄夫(みき てつお、1898年10月16日 - 197… 三木 鉄夫(みき てつお、1898年10月16日 - 1979年4月18日)は、日本の機械工学者・航空工学者。大阪府立大学・大阪工業大学名誉教授。工学博士(大阪大学)。元大阪帝国大学工学部航空学科創設者・教授。関西の航空工学研究の第一人者の一人。弟は衆議院議員を務めた三木喜夫。 専門は、航空工学・飛行機設計、流体力学・機械構造力学。 兵庫県姫路市出身。1923年東北帝国大学卒業後、愛知時計電機航空機部門(のちの愛知航空機)で海軍関係の飛行機の設計製作に携わる。同社とドイツのハインケル社の提携により、ドイツ留学を経験。日本語による航空工学の著書第1号として、1932年「航空工学」(太陽堂)を出版(のちの第2号は川西航空機・小野正三より出版)。
細川 政之助(ほそかわ まさのすけ、1898年(明治31年)… 細川 政之助(ほそかわ まさのすけ、1898年(明治31年)10月15日 - 1990年(平成2年)4月18日)は、日本の商工官僚、実業家、弁理士。細川特許事務所長。 富山県人・細川次郎左衛門の二男。1924年、東京帝国大学法学部政治科を卒業。商工省に入る。特許局事務官、鉱山監督局書記官等を経て、大阪鉱山監督局長、技術院審判部長等を歴任。 退官後日本金属常務専務を経て1947年、日本歯科機材社長に就任。趣味はゴルフ、旅行。宗教は仏教。東京在籍で、住所は東京大田区田園調布、同区北千束。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田浦 直蔵(田浦 直藏、たうら なおぞう、1898年(明治3… 田浦 直蔵(田浦 直藏、たうら なおぞう、1898年(明治31年)10月15日 - 1965年(昭和40年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、長崎県議会議長。 長崎県北松浦郡平村(平町、宇久町を経て現佐世保市宇久町)で、田浦甚吉の二男として生まれる。1916年(大正5年)長崎県水産講習所(現長崎県立長崎鶴洋高等学校)を卒業した。 1916年、長崎県農林技手となる。1924年(大正13年)長崎県漁業組合連合会が設立され同会主事に就任。1932年(昭和7年)長崎水産商事(株)を設立して取締役社長に就任。上海支店を設け、その他、長崎魚市場取締役、グランドサービス取締役なども務めた。
岩内 とみゑ(いわうち とみえ、1898年(明治31年)10… 岩内 とみゑ(いわうち とみえ、1898年(明治31年)10月15日 - 1986年(昭和61年)3月26日)は、日本の社会運動家である。旧姓は和田。夫は同じく社会活動家の岩内善作。 山梨県東山梨郡加納岩村(現在の山梨市)に生まれ、幼年期に小学校を中退し製糸工場の女工として活動する。1917年(大正6年)に単身上京し、亀戸にあったセルロイド工場の女工として活動した。同工場に勤務中にキリスト教に受洗し、1921年(大正10年)には日暮里で同教の社会事業団体であった愛隣団の診療所の看護婦として活動を始める。 1927年(昭和2年)には日本労働党傘下の全国婦人同盟の結成に携わり、その幹事も務めた。また後に社会大衆婦人同盟の幹事も務め、中間派の無産婦人運動の指導に尽力した。
三田 一也(みた かずや、1898年10月13日(明治31年… 三田 一也(みた かずや、1898年10月13日(明治31年)- 1998年6月3日(平成10年))は日本の元船員、元海軍軍人(予備将校)、元海上保安官。最終階級は、海軍では海軍中佐。海上保安庁では警備救難監(海上保安官の最高位)、海上保安庁次長。日本海事検定協会会長、日本海洋会副会長を歴任。又、戦後、海上自衛隊復活を討議した「Y委員会」の主要メンバー。一貫して再軍備には反対の立場を取った。埼玉県羽生市出身。埼玉県立不動岡中学校(後の埼玉県立不動岡高等学校卒業)。 1922年(大正11年)に東京高等商船学校航海科74期生(後の東京商船大学、現東京海洋大学)を首席で卒業し、御前講義した卒業論文は、東京海洋大学の越中島会館の中に保存されている。
伊藤 大輔(いとう だいすけ、1898年〈明治31年〉10月… 伊藤 大輔(いとう だいすけ、1898年〈明治31年〉10月13日 - 1981年〈昭和56年〉7月19日)は、日本の映画監督、脚本家である。時代劇映画の基礎を作った名監督の一人であり、「時代劇の父」とも呼ばれる。 1898年(明治31年)10月13日、愛媛県宇和島市に中学校教師の父・朔七郎と母・寿栄の息子として生まれる。 1911年(明治44年)、旧制松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)に入学。この時に雑誌『白樺』の影響を受けて、同窓の伊丹万作、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌『楽天』を発行。文才のある伊藤が文章を書き、画才のあった伊丹が挿絵を描き、中村、重松らと文筆を競った。中学卒業後、父逝去のため進学を諦め、呉海軍工廠に製図工として勤務する。
山之内 二郎(やまのうち じろう、1898年(明治31年)1… 山之内 二郎(やまのうち じろう、1898年(明治31年)10月13日 - 1980年(昭和55年)6月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1898年(明治31年)に鹿児島県で生まれた。陸軍士官学校第32期、陸軍大学校第40期、東京帝国大学法学部卒業。1939年(昭和14年)1月16日に陸軍省軍務局課員に就任し、8月1日に朝鮮軍参謀に転じた。1941年(昭和16年)3月1日に陸軍大佐に進級し、10月15日に第6師団参謀長(第11軍)に就任し、日中戦争に出動。1943年(昭和18年)6月11日に東部軍司令部附となり、11月10日に軍需省軍需官に就任した。 1945年(昭和20年)3月1日に陸軍少将に進級し、免陸軍省整備局御用掛となり、中部軍管区参謀副長兼第15方面軍参謀副長に就任した。
寺坂 源雄(てらさか もとお、1898年10月12日 - 1… 寺坂 源雄(てらさか もとお、1898年10月12日 - 1991年11月5日)は、日本の医学者、日本薬理学会会長。東北大学医学部名誉教授。朝鮮総督府京城医学専門学校教授。 宮城県古川市(現・大崎市古川)に生まれる。宮城県古川高等学校卒業。東北大学医学部卒業。
山住 克己(やまずみ かつみ 、1898年10月11日 - … 山住 克己(やまずみ かつみ 、1898年10月11日 - 1986年2月19日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。
渋沢 信一(しぶさわ しんいち、1898年10月11日 - … 渋沢 信一(しぶさわ しんいち、1898年10月11日 - 1983年7月15日)は、日本の外交官。外務事務次官。
田中 豊(たなか ゆたか、1898年10月11日 - 196… 田中 豊(たなか ゆたか、1898年10月11日 - 1969年2月5日)は、愛媛県出身の大蔵官僚。大蔵次官、宝酒造社長、日本勧業銀行副総裁。 第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部に入学。東京帝大在学時はア式蹴球部に所属した。 1923年に大学を卒業して大蔵省に入省。銀行局に配属。主税局国税課長、理財局長を経て、太平洋戦争中の1944年に主税局長に就任。1945年2月24日に大蔵次官に就任したが、津島壽一の大蔵大臣辞任に伴って同年4月に退任した。 戦後の1945年9月より日本勧業銀行の副総裁を務めたが、公職追放により副総裁を辞任し、弁護士を開業した。1951年、宝酒造社長に就任し、1965年に相談役となった。
佐藤 善一郎(さとう ぜんいちろう、1898年10月10日 … 佐藤 善一郎(さとう ぜんいちろう、1898年10月10日 - 1964年3月23日)は、日本の政治家。衆議院議員、福島県知事などを務めた。 1898年(明治21年)、福島市出身。信夫農学校(現・福島県立福島明成高等学校)卒業。1937年(昭和12年)に旧・清水町の町長に就任。福島県議を経て、第二次世界大戦後は公職追放される。1952年(昭和27年)、福島県経済連の初代会長に就任し、財政を立て直した。また、同年から衆議院議員に2期連続で当選。1957年(昭和32年)、自由民主党を離党し、農協・日本社会党の地盤を獲得して福島県知事選挙に立候補し当選。福島県知事在任中に、福島第一原子力発電所の大熊町への建設を決定した。
君島 興一(きみじま こういち、1898年10月10日 - … 君島 興一(きみじま こういち、1898年10月10日 - 1971年1月3日)は、日本の経営者。茨城県出身。 1922年に小樽高等商業学校を卒業し、同年に川崎汽船に入社。1946年11月に取締役に就任し、専務を経て、同年12月に社長に就任。1950年8月に川崎重工業専務に就任し、1963年6月から1965年2月まで副社長を務めた。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1971年1月3日心筋梗塞のために死去。72歳没。
松井 正夫(まつい まさお、1898年〈明治31年〉10月1… 松井 正夫(まつい まさお、1898年〈明治31年〉10月10日 - 1956年〈昭和31年〉11月17日)は、日本の有機化学者、文部官僚。元文部省学校教育局大学教育課長、新潟高等学校の最後の校長、新潟大学理学部初代学部長。位階は正三位。 新潟県新潟市学校町通2番町(現 新潟市中央区学校町通2番町)の判事・松井郡治の長男として出生。 1916年(大正5年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第二高等学校を卒業、1922年(大正11年)3月に東京帝国大学理学部化学科を卒業。 1922年(大正11年)6月に山口高等学校教授に就任、11月から1924年(大正13年)3月まで陸軍に入隊のため山口高等学校を休職、1931年(昭和6年)12月から1933年(昭和8年)9月まで化学の研究のためドイツやアメリカに留学。
三橋 八次郎(みつはし はちじろう、1898年〈明治31年〉… 三橋 八次郎(みつはし はちじろう、1898年〈明治31年〉10月10日 - 1984年〈昭和59年〉12月27日) は、大正から昭和期の農業技術者、政治家。参議院議員(1期)。 青森県北津軽郡飯詰村(現五所川原市)の農家に生まれた。農村生活の向上を目指して、1921年(大正10年)東京農業大学高等科を卒業。さらに、1924年(大正13年)東京帝国大学農学部農学科第1部全科目選科を修了した。 1924年、愛媛県産業技手となり県立農事試験場(現:愛媛県農業試験場)に配属された。以後、農業技師、農事試験場長、県経済部農業改良課長兼農事試験場長、農事講習所長などを務めた。30年間、愛媛県下の農家の指導に従事し、県農業祭を考案し、農作物の品種改良などに尽力した。
矢島 恭介(やじま きょうすけ、1898年10月10日 - … 矢島 恭介(やじま きょうすけ、1898年10月10日 - 1979年11月11日)は、 帝室博物館調査官、歴史学者。 1898年に長野県に生まれる。1925年、早稲田大学文学部を卒業。同年 帝室博物館勤務。1938年、帝室博物館鑑査官。1954年、東京国立博館考古課長。1961年、同館退職。 1979年から東京芸術大学、明治大学、国学院大学、立教大学講師、文化庁文化財保護審議会専門委員をつとめた。 1972年、勲四等瑞宝章。
日淳(にちじゅん、1898年(明治31年)10月10日 - … 日淳(にちじゅん、1898年(明治31年)10月10日 - 1959年(昭和34年)11月17日)は、日蓮正宗の僧侶。大石寺第65世法主。姓は堀米。竜谷阿闍梨。院号は信乗院。道号は泰栄。 1898年(明治31年)、長野県伊那市坂下町、堀米暦太郎の次男として誕生。幼名は寿万男(すまお)。10歳で父と死別。1911年(明治44年)、伊那市信盛寺の当時の住職、岡田道篤のもとへ得度し、諦栄と名乗ったが、のちに大石寺第57世日正に師僧変更し道号を泰栄(たいえい)と改名。 1922年(大正11年)6月には神奈川教会所担任教師に、同年12月に大石寺百貫坊住職となり、その後、京都・住本寺住職取り扱い、東京中野教会(後の昭倫寺)主管(信盛寺住職兼任)、東京・常泉寺住職を歴任。
市村 今朝蔵(いちむら けさぞう、1898年10月8日 - … 市村 今朝蔵(いちむら けさぞう、1898年10月8日 - 1950年6月9日)は、日本の政治学者、地主。日本女子大学教授、早稲田大学教授を歴任。日本女子大学理事、森村学園理事、明星学園理事長等を歴任。 長野県北佐久郡東長倉村(現・軽井沢町)出身。雨宮敬次郎の妻の末弟・市村藤吉の子。旧制上田中学第15回卒業。早稲田大学政経学部卒。1923年4月、山岡製紙工場の娘・きよじと結婚。大山郁夫に師事、友人の我妻栄とシカゴ大学に学び、1925年帰国。次女信江は建築家・三輪正弘の妻、三女の令子は我妻洋の妻となる。軽井沢の大地主で、別荘地を開拓し、近衛文麿から雨宮荘を譲り受けた。 欧米遊学後、日本女子大学教授、早稲田大学講師を務める。
山本 茂一郎(やまもと もいちろう、1898年(明治31年)… 山本 茂一郎(やまもと もいちろう、1898年(明治31年)10月8日 - 1978年(昭和53年)5月13日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。 陸士31期、陸大38期(優等)。参議院議員(2期)。 和歌山県出身。農業・製糸業山本亀吉の四男として生まれる。五條中学校卒を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官され、歩兵第38連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を優等で卒業した。 1928年(昭和3年)3月、陸軍省整備局付勤務、整備局課員、イギリス駐在などを経て、1933年(昭和8年)3月、陸軍兵器本廠付に発令され、ジュネーブ軍縮会議日本全権団随員となる。
岡野 衛士(おかの もりと、1898年(明治31年)10月8… 岡野 衛士(おかの もりと、1898年(明治31年)10月8日 - 1976年(昭和51年)8月25日)は山口県山口市出身の実業家。大阪証券取引所理事長などを務めた。
岡本 素光(おかもと そこう、1898年10月8日 - 19… 岡本 素光(おかもと そこう、1898年10月8日 - 1978年8月22日)は、日本の宗教哲学者、仏教学者、博士(文学)。第6代駒澤大学総長。曹洞宗の僧侶。 鳥取県東伯郡出身。号は天室。1911年(明治44年)鳥取桂養寺の渡辺月俊について得度。1924年(大正14年)曹洞宗大学、1931年に駒澤大学仏教学科卒業。同年に駒澤大学の講師、1936年に新設の道憲寮寮監を兼務。1941年、駒澤大学教授に就任。1961年『大乗起信論における「存在」の研究』で博士号(文学、駒澤大学)を取得。 1964年駒澤大学北海道教養部初代部長・駒澤大学附属岩見沢高等学校初代校長。1965年岩見沢駒澤短期大学初代学長。
佐分 眞(さぶり まこと、1898年(明治31年)10月8日… 佐分 眞(さぶり まこと、1898年(明治31年)10月8日 - 1936年(昭和11年)4月23日)は、大正期昭和期に活躍した日本の洋画家。レンブラントの影響を受け写実主義に傾倒した堅実な画風を築いた。 愛知県名古屋市西区園井町(現・中区錦)に、資産家で第6代一宮町長の佐分慎一郎の庶子として生まれる。母・田中たまは元芸者で、佐分との結婚前に有栖川宮熾仁親王との間にイクという名の娘をもうけていた。叔父・田中徳次郎は中部電力の前身会社を興す。愛知県立第一中学校在学中の1914年、複雑な家庭事情に悩み、自殺しようと家出するも三浦三崎で見つかる。 1915年に上京して郁文館中学校に転校、また川端画学校夜間部でも学ぶ。
伊藤 廉(いとう れん、1898年(明治31年)10月7日 … 伊藤 廉(いとう れん、1898年(明治31年)10月7日 - 1983年(昭和58年)1月24日)は、日本の洋画家。 愛知県名古屋市出身。本名読みは「きよし」。愛知一中卒業、明治大学文学部中退、東京美術学校西洋画科卒業。1927年ヨーロッパに渡りジョルジュ・ルオーに師事。帰国後、二科展で二科賞を受賞。1930年里見勝蔵らと独立美術協会を興す。1943年国画会会員。1954年東京藝術大学教授。1962年定年退官、名誉教授、愛知県立芸術大学教授。
本多 顕彰(ほんだ あきら/けんしょう、1898年10月7日… 本多 顕彰(ほんだ あきら/けんしょう、1898年10月7日 - 1978年6月30日)は、日本の英文学者、評論家、浄土真宗の僧侶。法政大学名誉教授。 愛知県名古屋市の寺院に生まれ、自らも僧籍を有した。本名・けんしょう。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を経て、1923年東京帝国大学文学部英文科卒。九州帝国大学講師、旧制福岡高等学校教授、東京女子高等師範学校教授を経て、1933年から1966年まで法政大学教授を務めた。その後、駒沢大学、実践女子大学、武蔵野女子大学の教授を歴任。シェイクスピア、ロレンスなど英文学の翻訳・研究に加え、近代日本文学など広範な評論活動をおこなった。 夏目漱石、親鸞に関する著作のほか、エッセイストとしても長年執筆を行い、学内事情を暴露した『大学教授』や『歎異抄入門』はベストセラーとなった。
河村 良介(かわむら りょうすけ、1898年10月7日 - … 河村 良介(かわむら りょうすけ、1898年10月7日 - 1993年7月29日)は、日本の経営者。日本クレジットビューロー(のちのJCB)社長を務めた。山口県出身。 1922年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に山口銀行(のちの三和銀行)に入行。1945年9月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1957年5月に監査役に就任。1961年1月に日本クレジットビューロー(のちのJCB)社長に就任し、1970年に会長を経て、後に相談役を務めた。 1958年(昭和38年)11月10日、「世界貝類展」が開催されていた国立科学博物館に昭和天皇が行幸。河村は貝類標本収集家としての一面もあり、説明員の一人として加わった。
西松 三好(にしまつ みよし、1898年 <明治31年> 1… 西松 三好(にしまつ みよし、1898年 <明治31年> 10月6日 - 1971年 <昭和46年> 10月22日)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。位階は従四位。 新潟県出身。1922年に京都帝国大学工学部土木学科を卒業し、1926年12月に西松組(のちの西松建設)に入社。1936年に代表幹事を経て、1937年10月に副社長に就任し、1947年5月には社長に昇格。 1956年に藍綬褒章を受章し、1968年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1971年10月22日、急性心筋梗塞のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
政岡 憲三(まさおか けんぞう、1898年〈明治31年〉10… 政岡 憲三(まさおか けんぞう、1898年〈明治31年〉10月5日 - 1988年〈昭和63年〉11月23日)は、日本のアニメーション作家、アニメ監督、演出家。大阪府出身。日本のアニメ黎明期において多大な貢献をしたことから「日本のアニメーションの父」「日本動画の父」と評される。 1898年(明治31年)、大阪府に生まれる。 1917年(大正6年)、京都市立美術工芸学校卒業。黒田清輝の元で学ぶ。 1925年(大正14年)、マキノプロダクションに入社。 1926年(大正15年)、京都市下加茂に吞平プロダクション(個人映画プロダクション)を設立。『貝の宮殿』を自主制作。 1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所に入社。
原田 準平(はらだ じゅんぺい、1898年10月5日 - 1… 原田 準平(はらだ じゅんぺい、1898年10月5日 - 1992年4月7日)は、日本の鉱物学者。理学博士(東京帝国大学)。 神奈川県横浜市生まれ。1924年、東京帝国大学理学部卒業。1925年、熊本高等工業学校教授・第五高等学校教授。1929年、欧州の大学留学。1931年に北海道帝国大学理学部の地質学鉱物学教室創設とともに同助教授となり、1932年、同理学部教授。1939年 東京帝国大学 理学博士 「本邦産硼素鉱物の研究」。1947年北海道大学理学部教授。 1958年、理学部長。1962年に定年退官。北海道大学名誉教授。同年、新設の旭川工業高等専門学校校長となり、1970年に退職。1972年、旭川工業高等専門学校名誉教授。
増田 甲子七(ますだ かねしち、1898年(明治31年)10… 増田 甲子七(ますだ かねしち、1898年(明治31年)10月4日 - 1985年(昭和60年)12月21日)は、昭和戦後期の政治家。吉田茂の側近として、運輸大臣、労働大臣、内閣官房長官、自由党幹事長などを歴任。
高木 松吉(たかぎ まつきち、1898年(明治31年)10月… 高木 松吉(たかぎ まつきち、1898年(明治31年)10月4日 - 1965年(昭和40年)12月9日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 福島県双葉郡広野村(現広野町)で生まれる。1922年(大正11年)中央大学法律科を卒業。弁護士となり、報知新聞法律相談所長に就任した。 1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福島県第3区から民主自由党公認で出馬して当選。その後、第27回総選挙まで連続4回当選した。1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙では落選した。この間、運輸大臣秘書官、裁判官訴追委員会代理委員長、第3次吉田内閣・法務政務次官、衆議院行政監察特別委員長、日本民主党全国委員会副委員長、同代議士会副会長、日本交通公社法律顧問などを歴任した。
久慈 次郎(くじ じろう、1898年〈明治31年〉10月1日… 久慈 次郎(くじ じろう、1898年〈明治31年〉10月1日 - 1939年〈昭和14年〉8月21日)は、昭和初期にアマチュア野球で活躍した日本の野球選手(捕手)。 函館のクラブチーム・函館太洋倶楽部で活躍したが、試合中に送球を頭に受け死亡した。 岩手県盛岡市出身(青森県青森市生まれ)。盛岡中学を卒業後、早稲田大学商科に進学。身長5尺9寸(約179cm)の恵まれた体格と強肩の持ち主で、在学中からリーダーシップを発揮。また、野球部監督の飛田穂洲に心酔し、「一球入魂」を座右の銘としていた。既に大学時代にはまだプロ入りすらしていなかった段階にも拘らず「捕手の神様」と評された。 1922年(大正11年)大学卒業後は北海道函館市の函館水電に入社、同社に勤めながら函館太洋倶楽部(函館オーシャン)でプレーした。
牧村 史陽(まきむら しよう、本名は源三、1898年10月1… 牧村 史陽(まきむら しよう、本名は源三、1898年10月1日 - 1979年4月25日)は、大阪の郷土史家、方言研究家。大阪市生まれ。生粋のなにわっ子で、稀代の大町人学者と呼ばれた。 1898年10月1日、大阪船場の木綿問屋の長男に生まれる。大阪大倉商業学校卒業後、父の死を機に家業を別家に譲り、独力で郷土史関係の実地調査、記録作成に打ち込む。1948年から雑誌「大阪弁(全7巻)」を編集。1952年から郷土史研究グループ「佳陽会」を主宰。大阪の歴史、地理、演劇などを実証的に調査し、新聞や雑誌などに発表した。1978年大阪文化賞を受賞。「郷土史は足で書け」が持論。 1979年4月25日没。
坂本 良隆(さかもと よしたか、1898年10月1日 - 1… 坂本 良隆(さかもと よしたか、1898年10月1日 - 1968年5月21日)は、日本の指揮者、作曲家。 岩手県盛岡市出身。1921年ドイツに留学。1925年ベルリン音楽大学指揮科卒。パウル・ヒンデミット、シュタイン、ヴァルター・グマインドル、山田耕筰、信時潔らに師事。指揮者活動のほか作曲作品も多い。島根大学教授と大阪音楽大学講師を務めた。作曲とピアノの教え子に牛腸征司がいる。
犬飼 哲夫(いぬかい てつお、1897年10月31日 - 1… 犬飼 哲夫(いぬかい てつお、1897年10月31日 - 1989年7月31日)は、日本の動物学者。著書、研究論文等の名義はいずれも「犬飼哲夫」であるが、中学校卒業証書から学位記までの公文書では「犬飼哲男」と記載されている。 1897年、長野県に生まれる。北海道帝国大学農学部生物学科動物学分科に入学し、ヤツメウナギを研究対象とした発生学者の八田三郎(当初札幌農学校、東北帝国大学農科大学(北海道帝国大学農学部の前身)教授、北海道帝国大学農学部教授)の直系の弟子として、1920年代には発生生物学者であった。1930年頃に眼を痛め、これ以降は哺乳類を中心とした脊椎動物の応用動物学的な研究をおこなうようになる。
中野 操(なかの みさお、1897年10月30日 - 198… 中野 操(なかの みさお、1897年10月30日 - 1986年3月21日)は、日本の医師、医史学者、陸軍軍医。 京都府出身、京都府立医専卒。 1938年杏林温古会を設立、大阪赤十字病院に勤務後、周防町、阿倍野晴明通で開業した。戦後に大阪で開業した。 『増補医事年表』を編纂し、機関誌『医譚』を発行するなど、大阪の医学史研究につとめた。 中野は、1552年(天文21年)の『黄素妙論』や室町時代に遡る医学書、日本最古のオランダ文法書で蘭方医新宮涼庭(1787年 - 1854年)が写した1733年の『セウユリルスフラーカコンスト』、江戸時代大阪の医事年表など、日本医史学の比類ない歴史資料を蔵書しており、これらは2012年に13,461点が一括で大阪市の指定有形文化財となった。
川島 千代吉(かわしま ちよきち、1897年(明治30年)1… 川島 千代吉(かわしま ちよきち、1897年(明治30年)10月30日 - 1964年(昭和39年)11月14日)は、大正から昭和時代の政治家。公選初代北海道花咲郡歯舞村長。 北海道花咲郡珸瑤瑁村(現・根室市)に生まれる。高等尋常小学校を卒業後、昆布採取業、カニ漁業に従事する。1947年(昭和22年)歯舞村長選挙に民主党から出馬し、日本社会党の佐野信に圧倒的な大差をつけ当選した。その後、3期連続当選した。 3期目は、根室市への合併反対を貫いたものの村議会の反発にあい、1957年(昭和32年)10月の選挙で合併賛成派の竹村幸太郎に敗れ落選した。その後、1961年(昭和36年)根室市議会議員選挙に当選し、厚生常任委員長、総務常任委員などを務めた。
大塚 高信(おおつか たかのぶ、1897年10月29日 - … 大塚 高信(おおつか たかのぶ、1897年10月29日 - 1979年11月23日)は、日本の英語学者。関西学院大学教授・甲南大学教授・関西外国語大学教授・京都外国語大学教授を歴任。 岡山県生まれ。東京帝国大学英文科卒業。1930年、東京高等師範学校教授。第二次世界大戦後、関西学院大学教授、甲南大学教授、1968年、関西外国語大学教授、京都外国語大学教授。
庵原 順一(いはら じゅんいち、1897年10月28日 - … 庵原 順一(いはら じゅんいち、1897年10月28日 - 1958年5月24日) は、日本の水産学者。東京水産大学学長。 兵庫県高砂市出身。1919年水産講習所(現東京海洋大学)漁労科卒業。葛原冷蔵入社後、水産講習所練習船一等運転士、水産講習所助教授兼水産講習所技手、大日本帝国陸軍歩兵少尉を経て、1932年水産講習所教授。1958年東京水産大学(現東京海洋大学)学長。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
袋一平(ふくろ いっぺい、1897年10月27日 - 197… 袋一平(ふくろ いっぺい、1897年10月27日 - 1971年7月2日)は、日本の翻訳家、映画評論家。 東京生まれ。1915年(大正4年)工手学校(wikidata)(現・工学院大学)化学学科卒業(第12回特待生)。 1922年東京外国語学校ロシア語科卒。ロシア語の和訳を専門とした。またソ連映画の研究家、日本山岳会会員。 翻訳対象はフィクションとノンフィクションの両分野にまたがる。 フィクションではアントン・チェーホフやマクシム・ゴーリキーなど近代ロシア文学もあるが、むしろ現代の小説やヴィタリー・ビアンキなど児童向け作品の翻訳が主体である。またアレクサンドル・ベリャーエフ、ゲオルギー・グレーウィッチらの作品を初めて邦訳するなど、ロシア(ソ連)SFの日本紹介に関して先駆的な役割を果たした。
中島 一郎(中嶋、なかじま いちろう、1897年(明治30年… 中島 一郎(中嶋、なかじま いちろう、1897年(明治30年)10月25日 - 没年不明)は、大正後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 熊本県菊池郡に生まれる。第一高等学校を経て、1921年(大正10年)4月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、大蔵省に入省し理財局属となる。翌年11月、高等試験行政科に合格。水戸税務署長、両国橋税務署長を経て、1929年(昭和4年)12月、台湾総督府に出仕。 財務局主計課長、台湾電力管理官、台湾官有財産評価委員会幹事、防衛委員会幹事、山地開発調査委員会幹事を経て、1939年(昭和14年)7月に嶺田丘造に代わり財務局長に就任した。1943年(昭和18年)退官した。
黄 朝琴(おう ちょうきん、1897年〈明治30年〉10月2… 黄 朝琴(おう ちょうきん、1897年〈明治30年〉10月25日 - 1972年〈民国61年〉7月5日)は台湾嘉義県塩水港(現:台南市塩水区)出身の政治家。 妹は日本統治時代の台南で有名な詩人、黄金川。 内地とアメリカ国際法を学んだ後、中華民国に渡って国民政府外交部に勤務した。台湾光復後は台湾省議会議長、中国国民党中央委員等を歴任し、省議会を20年近く主宰した。連震東、黄国書、林頂立らとともに1950年代の台湾政治を代表する「半山(中国語版)」の一人である。 東京やアメリカへの留学を経て政治学に親しみ、国民党の台湾統治の仲介役を務めた。 1897年10月25日、台湾嘉義県塩水港の裕福な家庭に生まれた。
三島 一(みしま はじめ、1897年10月24日 - 197… 三島 一(みしま はじめ、1897年10月24日 - 1973年10月12日)は、東洋史学者。東洋大学教授、二松學舍大学教授、明治大学教授、戦後に専修大学教授。専門は唐代寺院経済史。 1897年、実業家・三島桂のの長男として埼玉県で生まれた。幼少の頃は病弱な体質で、大森の小学校に入学したのは、9歳の時であった。東京府立第四中学校に入学したが、中学も2年遅れで卒業。同級生には羽仁五郎がいた。中学卒業の年は祖父・三島中州が没した年であり、また自身も病の床に就いたため第一高等学校の受験を失敗。第三高等学校に入学して学び、1920年に卒業。 東京帝国大学の東洋史学科に入学、池内宏および加藤繁の指導を受けた。
加瀬 俊一(かせ しゅんいち、1897年10月23日 - 1… 加瀬 俊一(かせ しゅんいち、1897年10月23日 - 1956年9月9日)は、日本の外交官。太平洋戦争終戦当時の駐スイス公使で、戦後西ドイツ大使を務める。 外務大臣秘書官や国連大使を務めた加瀬俊一(としかず)とは同姓同名の別人である。外務省内では彼と区別するため「大加瀬」と俗称されていた。 東京生まれ。早稲田中学校、第一高等学校から東京帝国大学に進む。東京帝大在学中の1920年に高等文官試験外交科試験に合格したために、大学を中退して外務省に入省する。外務省同期に阪本瑞男、鹿島守之助など。 1935年に欧亜局第一課長、1938年に在アメリカ合衆国日本国大使館の一等書記官となる。太平洋戦争開戦後の1942年にイタリア公使となった。
田中 敬吉(たなか けいきち、1897年(明治30年)10月… 田中 敬吉(たなか けいきち、1897年(明治30年)10月23日 - 1975年(昭和50年)1月13日)は、日本の機械工学者。第33期日本機械学会会長。東京帝国大学教授、千葉工業大学教授・学長、上智大学教授を歴任。東京帝国大学航空研究所で、航研機やA-26の開発に携わった。 三重県亀山市出身。第八高等学校を経て、1922年東京帝国大学機械科卒業。東京帝国大学航空研究所嘱託、助教授を務め、1929年「円錐座吸気弁の空気の流動研究(実験的研究・理論的研究)」により工学博士を取得。1930年航空原動機研究のため欧米を訪れた後、1933年教授となる。1939年より東京工業大学教授を兼任。1949年千葉工業大学学長、1957年名古屋大学教授、1961年上智大学教授・理工学部長。
井深 八重(いぶか やえ、1897年10月23日 - 198… 井深 八重(いぶか やえ、1897年10月23日 - 1989年5月15日)は日本の看護婦。台北生まれの湾生。父は衆議院議員をつとめた井深彦三郎。明治学院総理の井深梶之助は伯父。ソニーの創始者井深大とは遠縁にあたる。遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』のヒロインのモデルでもある。 八重が7歳の時に両親が離婚、母は八重を井深家に置いて去る。父・彦三郎も多忙なため伯父の梶之助に預けられ育つ。1910年、小学校を卒業して同志社女学校普通学部に入学。家族から離れた8年間の寄宿舎生活を始める。1918年、同志社女学校(現在の同志社女子大学)専門学部英文科卒業。長崎県立長崎高等女学校の英語教師となったが、1919年ハンセン病と診断されて神山復生病院に隔離入院。
古川 伝一(ふるかわ でんいち、1897年(明治30年)10… 古川 伝一(ふるかわ でんいち、1897年(明治30年)10月20日 - 1967年(昭和42年)1月7日)は、福島県勿来市(現・いわき市)長。 福島県石城郡鮫川村(のち植田町→勿来市、現・いわき市)出身。酒造業を営み、その傍ら、地方自治に参加し、福島県議会議員、植田町長、勿来市長を歴任した。植田町は1955年に合併により、勿来市となり、合併後の市長選挙に立候補して当選した。鮫川の水利開発に力を入れ、また、常磐地区の低品位石炭の利用を主張し、常磐共同火力発電所の開設を基礎づけた。勿来市長は1期務め、いわき市誕生後の1967年に死去した。
神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治3… 神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治30年)10月19日 - 1986年(昭和61年)7月27日)は、日本の医学者・教育者であり、日本赤十字武蔵野短期大学学長、日本赤十字常任理事、アジア病院連盟会長を務めた。また、日本病院協会会長として当時開業医中心の日本医師会に対抗した。岡山県高梁市出身。 1897年(明治30年)岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)神崎秀甫の三男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。
壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年〈明治30年〉10月1… 壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年〈明治30年〉10月18日 - 1975年〈昭和50年〉9月4日)は、日本の詩人。日本共産党員。 香川県小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)出身、早稲田大学に学ぶ。1920年代にはアナキズムの陣営に属し、『赤と黒』などに拠って詩作をはじめた。その後、共産主義に接近、プロレタリア文学の詩の分野で活躍した。1930年代には何度か投獄され、その後は小熊秀雄や村山知義たちと〈サンチョ・クラブ〉を結成し、風刺的な詩を作っていた。 1925年(大正14年)に作家の壺井栄と結婚。 戦後は新日本文学会の創立に参加し、発起人となる。しかし、戦後登場した武井昭夫や吉本隆明たち若手からは、戦時中の行動との差のために批判の対象にされた。
森口 淳三(もりぐち じゅんぞう、1897年(明治30年)1… 森口 淳三(もりぐち じゅんぞう、1897年(明治30年)10月17日 - 1975年(昭和50年)3月10日)は、昭和時代の政治家。衆議院議員。静岡県引佐郡気賀町長。大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 静岡県引佐郡気賀町(細江町を経て現浜松市浜名区)に生まれる。1917年(大正6年)浜松商業学校卒業。 陸軍歩兵中尉として支那事変に従軍した。気賀町長、静岡県会議員、同副議長を歴任。ほか、在郷軍人会郡連合分会長などを務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は、翼賛会政調幹事、内閣、農林兼務委員を歴任した。