山本 利寿(山本 利壽、やまもと としなが、1896年〈明治… 山本 利寿(山本 利壽、やまもと としなが、1896年〈明治29年〉11月3日 - 1991年〈平成3年〉12月28日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)、衆議院議員(2期)。参議院功労議員表彰。 1896年島根県生まれ。1923年に関西学院大学文学部社会学科卒業後、コロンビア大学に留学し、1929年大学院修了。 関西学院大学で講師を務めた後、1943年マライ半島において陸軍司政官。戦後はシンガポール戦犯裁判所通訳、日本で浜田進駐軍首席通訳、1947年島根県議会議員。 1949年には第24回衆議院議員総選挙島根県全県区で民主党から出馬し、初当選。以後通算2期務める。 1958年には、第4回参議院議員通常選挙島根県選挙区補欠選挙で自由民主党から立候補し、初当選。
岩崎 隆弥(いわさき たかや、1896年11月2日 - 19… 岩崎 隆弥(いわさき たかや、1896年11月2日 - 1983年6月2日)は、日本の実業家。三菱財閥のオーナー・岩崎家の一員で、三菱合資会社社長を務めた岩崎久弥の次男。 東京府(現:東京都)出身。 1909年に東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1915年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1921年に東京帝国大学工学部を卒業。1922年英国グラスゴー大学に留学。 1926年の帰国後三菱製紙に入社。1943年三菱瓦斯(現在の三菱瓦斯化学とは別会社)の会長、1944年三菱製紙の会長に就任。 太平洋戦争後の1947年、財閥解体政策により、父久弥、兄彦弥太、弟恒弥と共に財閥家族に指定され、三菱傘下企業の全役職を辞任。
手島 伝(てじま つたえ、1896年(明治29年)11月2日… 手島 伝(てじま つたえ、1896年(明治29年)11月2日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。福岡県門司市助役。 福岡県浮羽郡田主丸町(現在の久留米市)出身。1920年(大正9年)、早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、1922年(大正11年)11月に高等試験に合格した。1923年(大正12年)宮城県属となり、以後、同柴田郡長、青森県商工水産課長を歴任。1928年(昭和3年)に退官するが、1930年(昭和5年)に宮崎県学務課長・社会課長として復帰。その後、香川県農林課長・官房主事、茨城県農林課長、静岡県農務課長、同教育課長・社会課長、青森県書記官・経済部長を経て、1939年(昭和14年)に愛媛県経済部長に就任した。
座間 美都治(ざま みつじ、1896年〈明治29年〉11月2… 座間 美都治(ざま みつじ、1896年〈明治29年〉11月2日 - ?)は、日本の歴史学者。神奈川県相模原市地域の郷土史家として知られる。神奈川県師範学校本科卒業。神奈川県商工実商学校教諭、相模原市立旭中学校校長、相模原市史編纂委員等を歴任。 現在の神奈川県相模原市南区に出生。1974年(昭和49年)の『相模原の歴史』を初めとして複数の郷土史書を著し、『相模原市史第7巻』を著述した。 1980年(昭和55年11月2日)の84歳の折、教え子や有志により相模原市麻溝台字はの原1894番地に肖像が建設された。敷地提供者は座間末治嗣子及び座間功。同像は1989年(平成元年)道路拡幅のため相模原市南区下溝3256-9に移された。
中野 銀郎(なかの ぎんろう、1896年11月1日 - ?)… 中野 銀郎(なかの ぎんろう、1896年11月1日 - ?)は、日本の郷土史家、柔術家である。号は剣堂。 1896年11月1日(明治29年)に三重県花野木村大字下之庄に生まれる。 15歳の春に眼病に罹り一年ほど半盲人同様の身となる。失明は免れたが極端な乱視となり右耳も聞こえなくなった。また後年の柔道修行の際に左耳を負傷したことにより聴力を失った。 1917年(大正6年)に帝國尚武會に入り野口潜龍軒より神道六合流を学ぶ。 帝國尚武會の神道六合流における段位は1920年5月(大正9年)に初段、1921年9月(大正10年)に二段、1923年1月(大正12年)に三段となっている。 1922年(大正11年)4月に上京し早稲田大学政治経済科に入学するが、1923年(大正12年)帰省中に関東大震災が起きる。
永田 菊四郎(ながた きくしろう、1895年(明治28年)1… 永田 菊四郎(ながた きくしろう、1895年(明治28年)11月29日 - 1969年(昭和44年)9月18日)は、長崎県平戸出身の民法学者。法学博士。弁護士。日本大学第5代総長、同名誉総長。 日本における知的財産権、工業所有権法の権威であり、親族法や相続法の著名な研究でも知られている。民法学研究の為に28歳の時に単独渡独し、当時の日本人にとっては至難の業とされた海外での博士号を取得(博士論文は、ドイツ語論文『登記簿と工業所有権保護の役割』B5判、127ページ)した。総長就任後は、日本大学付属高等学校(日本大学明誠高等学校.長崎日本大学高等学校)の設立に尽力、日大紛争の収束に努めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
菅谷 北斗星(すがや ほくとせい、1895年11月27日 -… 菅谷 北斗星(すがや ほくとせい、1895年11月27日 - 1962年1月21日)は、日本の将棋観戦記者の草分け。本名は菅谷 要。 栃木県栃木市出身。県立栃木中学校卒業後、慶應義塾大学部理財科にはいるも中退。早稲田大学英文科卒業。大衆文藝を志す。 菊池寛の紹介で、当時将棋観戦記で活躍していた大崎熊雄の助手となる。1927年、将棋観戦専門記者として読売新聞に入社。この時筆名として「北斗星」を採用。1937年の坂田三吉・木村義雄の京都南禅寺決戦を始め、多くの観戦記・随筆を手がけた。 一方で将棋史研究にも手をそめ、関連するエッセイを多数発表している。
真崎 長年(まさき ながとし、1895年(明治28年)11月… 真崎 長年(まさき ながとし、1895年(明治28年)11月26日 - 1965年(昭和40年)11月3日)は、日本の内務官僚。官選佐賀県知事。 長崎県出身。真崎雄四郎の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1921年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し茨城県属となる。 以後、内務属、山口県警視・保安課長、青森県学務部長、岩手県書記官・学務部長、愛知県学務部長、大分県書記官・警察部長、宮崎県総務部長、福島県総務部長、大阪府学務部長などを歴任。 1940年4月、佐賀県知事(「佐賀県知事一覧」参照)に就任。1941年3月、朝鮮総督府学務局長に転任し、1942年10月まで在任。
大野木 秀次郎(おおのぎ ひでじろう、1895年11月25日… 大野木 秀次郎(おおのぎ ひでじろう、1895年11月25日 - 1966年3月4日)は、日本の政治家。 京都府宇治郡山科村(現京都府京都市山科区)生まれ。大野木繁太郎の次男。清和中学校(現立命館高等学校)を経て、立命館大学経済科中退。 洛東織物工場社長を経て、1946年貴族院多額納税者議員に当選。翌1947年には第1回参議院議員通常選挙京都府選挙区に日本自由党より出馬し当選。以後通算当選4回。在任中は、サンフランシスコ講和条約の首席全権代理、参議院自由党議員会長、自民党京都府議連初代会長(連続4期)などを務めた他、第3次吉田内閣第3次改造内閣および第5次吉田内閣で国務大臣を務めるなど国政の要職を歴任した。
小林 和一(こばやし わいち、1895年(明治28年)11月… 小林 和一(こばやし わいち、1895年(明治28年)11月25日 - 1968年(昭和43年)6月1日)は、日本の政治家、地方公務員。第5代福山市長。 広島県福山町(現・福山市地吹町)に生まれる。1915年(大正4年)、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。深安郡書記、大阪北区職員を勤めたあと、関西法律学校(現・関西大学)に入り、同校を卒業した。 1919年(大正8年)7月、福山市は大水害に見舞われる。帰郷を決意し、福山市役所に奉職。庶務課長、税務課長、収入役などを歴任した。 1939年(昭和14年)1月、助役に選任される。小林壽夫市長の懐刀と言われた。1944年(昭和19年)9月26日、三菱鉱業取締役会長などを務めた三谷一二が第6代市長に就任。
松田 恒次(まつだ つねじ、1895年11月24日 - 19… 松田 恒次(まつだ つねじ、1895年11月24日 - 1970年11月15日)は、大阪府大阪市出身の実業家。 東洋工業(現マツダ)3代目社長。実父は東洋工業創始者の松田重次郎、息子にマツダ4代目社長の松田耕平。自身から孫の松田元と3代続けて広島東洋カープオーナーである。 1895年、大阪市の天満橋筋で鉄工所を営んでいた父松田重次郎、母千代の長男として生まれる。重次郎が造船技術者として呉や佐世保など各地の海軍工廠で勤務したため、幼少期は大阪で祖母に育てられていた。 重次郎と同様に機械好きで、学校から帰ると重次郎の経営する鉄工所で手伝いをしていた。1911年、大阪市立工業学校に入学、野球部に入った。
寺田 雅雄(てらだ まさお、1895年(明治28年)11月2… 寺田 雅雄(てらだ まさお、1895年(明治28年)11月23日 - 1988年(昭和63年)4月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。小浜中学校(現福井県立若狭高等学校)卒業を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。1921年(大正10年)4月から翌年10月までシベリア出兵に従軍。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を首席で卒業し歩兵第36連隊中隊長に就任した。 陸軍省軍務局付勤務、同局課員、イギリス駐在、参謀本部員などを務め、1936年(昭和11年)8月、歩兵中佐に昇進。1937年(昭和12年)10月、第10軍参謀に発令され日中戦争に出征。
蠟山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - … 蠟山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - 1980年5月15日)は、日本の政治学者・行政学者・政治家。お茶の水女子大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在である。 新潟県刈羽郡鵜川村で蝋山政次郎と母寛子(衆議院議員・牧口義方の二女)の長男として生まれる。父は1872年8月に蝋山政右衛門の長男として生まれ、同家8代目の当主であった。祖父政右衛門が群馬県高崎市歌川町で蝋山酒造を経営していたため同地で育つ。父は上州銀行や上州信託、高崎倉庫株式会社の取締役をはじめ、上州電気鉄道株式会社の監査役を務めるなど群馬県経済界の重鎮であった。 1913年3月に県立高崎中学校、1917年7月に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に進学。
蝋山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - … 蝋山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - 1980年5月15日)は、日本の政治学者・行政学者、政治家、お茶の水女子大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在である。
神山 嘉瑞(こうやま かずい、1895年(明治28年)11月… 神山 嘉瑞(こうやま かずい、1895年(明治28年)11月21日 - 1971年(昭和46年)4月8日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・神山郡昭の二男として生まれる。父の隠居に伴い、1932年(昭和7年)8月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年、鉄道省に入省し鉄道局書記に就任。以後、鉄道属、鉄道局副参事、東京鉄道局千葉運輸事務所長、鉄道省輸送実費調査委員会幹事などを務めた。 1940年(昭和15年)11月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日まで一期在任した。
唐川 安夫(からかわ やすお、1895年〈明治28年〉11月… 唐川 安夫(からかわ やすお、1895年〈明治28年〉11月19日 - 1977年〈昭和52年〉7月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福山中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、さらに1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 野砲兵第1連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、イタリア駐在、陸軍兵器本廠付、陸軍重砲兵学校教官、参謀本部員を経て、1938年(昭和13年)6月から翌年3月まで大本営謀略課長を務めた。イタリア大使館付武官、参謀本部欧米課長、参謀本部謀略課長を歴任し、日中戦争に第13軍参謀長として出征。
平塚 運一(ひらつか うんいち、1895年11月17日 - … 平塚 運一(ひらつか うんいち、1895年11月17日 - 1997年11月18日)は、島根県八束郡津田村(現松江市)出身の版画家。勲三等瑞宝章受章(1977年)、松江市名誉市民(1989年)。 1895年(明治28年)11月17日、島根県八束郡津田村(現松江市)に生まれた。島根県立松江商業学校に入学したが、1913年(大正2年)に中途退学し、松江市役所に勤務。石井柏亭の洋画講習会がきっかけとなり、1915年(大正4年)に上京してデッサンに励み、さらに版画技術を会得。1916年(大正5年)には、二科展に版画作品が入選し、日本美術院展には油彩作品と水彩画作品が入選した。1917年(大正6年)に帰郷して結婚し、公立小学校の図画教員となった。
中西 悟堂(なかにし ごどう、1895年(明治28年)11月… 中西 悟堂(なかにし ごどう、1895年(明治28年)11月16日 - 1984年(昭和59年)12月11日)は、日本の野鳥研究家で歌人・詩人、天台宗僧侶。文化功労者。日本野鳥の会の創立者。本名は富嗣、悟堂は法名。他に筆名として赤吉(しゃくきち)。 「野の鳥は野に」を標語に自然環境の中で鳥を愛で、保護する運動を起こした。「野鳥」や「探鳥」は悟堂の造語。 1895年(明治28年)、石川県金沢市長町に生まれ、富嗣と命名される。祖父は加賀藩士。父親は海軍軍楽隊教官だったが、悟堂の生後まもなく病死し、母は長崎の実家に帰ったまま行方不明となり、父の兄で中西家十代の当主元治郎(悟玄)の養嗣子となる。3歳頃より四書五経を学び千字文を書写する。
杉本 勝次(すぎもと かつじ、1895年11月14日 - 1… 杉本 勝次(すぎもと かつじ、1895年11月14日 - 1987年1月2日)は日本の政治家。衆議院議員、福岡県知事などを務めた。 福岡県福岡市出身。1914年、中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)卒業。1921年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。 九州帝国大学、福岡高校、福岡女子専門学校の各講師、西南学院専門学校(現・西南学院大学)校長を経て、1946年4月、戦後初の衆議院議員総選挙に福岡1区から社会党所属で出馬し当選、1期務める。1947年4月から2期、福岡県知事を務めて石炭政策を推進した。福岡県知事の任期満了後に両派社会党の推薦で福岡市長選に出馬するが保守系現職の小西春雄に敗れて落選、翌1956年3月から久留米市長となる。
中鉢 常正(なかばち つねまさ、1895年〈明治28年〉11… 中鉢 常正(なかばち つねまさ、1895年〈明治28年〉11月14日 - 1978年〈昭和53年〉11月19日)は、日本の経営者。東京都出身。位階は正五位。 1919年に慶應義塾大学法科を卒業。古河鉱業での勤務を経て、1934年に古河電気工業に転じ、1949年に取締役に就任し、1955年3月に常務を経て、1957年2月に日本ゼオン副社長に就任し、1960年5月には社長に昇格。1962年11月には相談役に就任。 1971年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1978年11月19日心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
小川 莚喜(おがわ のぶき、1895年(明治28年)11月1… 小川 莚喜(おがわ のぶき、1895年(明治28年)11月12日 - 1944年(昭和19年)2月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 1895年(明治28年)、高知県高岡郡高石村用石(現土佐市)で生まれた。1915年(大正4年)高知県立第一中学校(現:高知県立高知追手前高等学校)を卒業後、1918年(大正7年)11月、海軍兵学校(46期)を卒業。 海軍水雷学校高等科を経て、駆逐艦「灘風」、重巡洋艦「高雄」「五十鈴」「衣笠」、戦艦「霧島」などの水雷長兼務分隊長、駆逐艦「水無月」「夕霧」「白雪」「白雲」などの艦長、巡洋艦「天龍」「筑摩」の副長、第5駆逐隊司令などを歴任。 太平洋戦争開戦当時は、第12駆逐隊司令としてマレー上陸作戦、ジャワ島上陸作戦、ジャカルタ沖海戦などに参加。
中村 四郎(なかむら しろう、1895年(明治28年)11月… 中村 四郎(なかむら しろう、1895年(明治28年)11月12日 - 1989年(平成元年)2月3日)は、日本の内務・警察官僚。官選徳島県知事。 鹿児島県肝属郡新城村(現在の垂水市)新城で、中村思無邪の四男として生まれた。鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、1918年7月、第七高等学校造士館第一部甲類(英法)を卒業。1920年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1921年4月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年8月、内務省に入省し三重県属、内務部地方課勤務となる。同年12月、休職し一年志願兵として歩兵第23連隊に入隊。1922年11月に満期除隊。 1923年4月、三重県内務部学務課兼社寺兵事課兼農商課勤務となる。
本多 市郎(ほんだ いちろう、1895年(明治28年)11月… 本多 市郎(ほんだ いちろう、1895年(明治28年)11月11日 - 1959年(昭和34年)4月5日)は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員、行政管理庁長官(第4・10代)、地方自治庁長官(第2代)、自治庁長官(第2代)。位階は正三位、勲等は勲二等。 長崎県南高来郡南有馬町(現南島原市)に、農業・本多福四郎の長男として生まれる。長じて上京し、両国税務署員として働きながら、1925年中央大学法科を卒業する。上京時の下宿先では小澤佐重喜と起居を共にしていた。 関東大震災が起きると、復興局に勤務する傍ら、深川区(現在の江東区北西部)の自宅に法律無料相談所を開いて罹災者の相談に乗り、地元住民の信望を集めていった。
柳井 恒夫(やない ひさお、1895年(明治28年)11月6… 柳井 恒夫(やない ひさお、1895年(明治28年)11月6日 - 1981年(昭和56年)7月21日)は、大正・昭和期の外交官、弁護士。 東京 で医師・柳井貴三の二男として生まれる。1913年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業、第一高等学校を経て、1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。 1919年7月、外務省に入省し外務属として電信課に配属された。同年10月、高等試験外交科試験に合格。以後、シャム、フランス、ベルギー、ブラジル、外務省アジア局第一課などで勤務した。1931年1月、領事に任じられ奉天在勤となり満州事変に遭遇した。以後、アジア局第三課長、東亜局第三課長、兼東亜局第二課長、ドイツ大使館一等書記官、同参事官、ジュネーヴ総領事兼国際会議帝国事務局次長、興亜院経済部長などを歴任。
江辺 清夫(えべ きよお、1895年(明治28年)11月5日… 江辺 清夫(えべ きよお、1895年(明治28年)11月5日 - 1950年(昭和25年)1月11日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、川崎市長。 山形県南置賜郡南原村猪苗代町(現米沢市)出身。旧米沢藩士・江辺信次(小学校長、郡視学、南原村長)、いよ夫妻の長男として生まれる。1914年3月、山形県立米沢中学校を卒業。第二高等学校を経て、1920年7月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格し逓信省に入省。1921年、内務省に転じ山梨県属・地方課兼学兵課勤務となる。 以後、山梨県西山梨郡長、山梨県警視・警察部警務課長兼巡査教習所長、同保安課長、山口県地方事務官・産業課長、同商工水産課長、同学務課長、富山県書記官・学務部長、山形県書記官・警察部長、三重県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、神奈川県経済部長などを経て、1939年4月、兵庫県総務部長に就任。
清水 逸平(しみず いっぺい / いつへい、1895年(明治… 清水 逸平(しみず いっぺい / いつへい、1895年(明治28年)11月5日 - 1983年(昭和58年)2月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、狭山市名誉市民。入間川ゴム創業者。 1895年(明治28年)、長野県小県郡上田町(現:上田市)で生まれた。日本大学専門部法律科で学んだ。 東北銀行倉庫部支配人、大和ゴム製作所第二工場長、日本工業工場長、入間川ゴム取締役社長、新潟ゴム取締役社長、同会長、扶桑商事取締役会長、日本東部ゴム工業組合理事、日本ゴム工業組合連合会医療用品部長、東京鑑識化学研究所顧問、全国商工会連合会副会長などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で埼玉県第二区に民主自由党所属で出馬して当選。
菊池 武範(きくち たけのり、1895年11月5日 - 19… 菊池 武範(きくち たけのり、1895年11月5日 - 1975年5月14日)は、日本の実業家。タイガー魔法瓶創業者。同社会長を務める菊池嘉人は長男、同社長を務める菊池嘉聡は孫に当たる。 愛媛県西宇和郡三島村皆江(のちに三瓶町、現・西予市)に生まれる。生家は皆江で村長を務めた庄屋であった。12歳の時に父が事業に失敗、さらに脳内出血で病臥するに至り、小学校高等科を中退することを余儀なくされた。 その後、従姉妹の夫が経営するメリヤス製造所(大阪市西区)の店員見習いとなり、この時期に簿記学校に通学した。また、大阪に出て間もない1910年、伊藤喜商店が輸入した魔法瓶を船場で目撃し、以来その商品としての可能性に着目した。
畠山 重勇(はたけやま じゅうゆう、1895年(明治28年)… 畠山 重勇(はたけやま じゅうゆう、1895年(明治28年)11月3日 - 1978年(昭和53年)10月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、秋田県北秋田郡比内町長、同町名誉町民。位階は従五位。 秋田県南秋田郡扇田村(扇田町、比内町を経て現大館市比内町扇田)で生まれる。1914年(大正3年)秋田県立大館中学校(現秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業。 大葛産業取締役社長、同会長、北秋田郡木炭同業組合長、炭谷鉱山経営、扇田通運取締役社長、秋田県木炭取締役、北秋通運取締役、秋田県木材取締役、秋田県燃料商業組合理事長、東北木材興業専務取締役、同社長などを務めた。 政界では、扇田町会議員を務め、1939年(昭和14年)から1949年(昭和24年)まで秋田県議会(県会)議員に3期在任し、同参事会員も務めた。
大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - … 大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - 1973年2月17日)は、日本の経営者。川崎製鉄会長を務めた。二女の夫は三菱レイヨン社長を務めた永井弥太郎。 岡山県岡山市出身。1920年に京都帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に第一銀行に入行。1947年に取締役を経て、翌年には常務に就任した。 1953年に川崎製鉄会長に就任。当時川崎製鉄は千葉製鉄所の建設中だったが、当時の日本銀行総裁・一万田尚登がこの方針に懐疑的で、メインバンクの第一銀行に対し人員の派遣を含むバックアップ体制の確立を求めていたため、第一銀行が大森を会長に送り込んだ背景がある(この際大森は岡田貢助を伴うことを求めたため、岡田も同社財務部長として出向した)。
久 琢磨(ひさ たくま、1895年11月3日 - 1980年… 久 琢磨(ひさ たくま、1895年11月3日 - 1980年10月31日)は、日本の武道家。大東流合気柔術の継承者である。 1895年、高知県安芸郡佐喜浜村(現・室戸市)出身。大阪の成器商業学校(現在の大阪学芸高等学校・附属中学校)を卒業後、神戸高等商業学校に入学(第13回生)。神戸高商では相撲部のキャプテンを務め、関西学生相撲大会で優勝するなどした。 1919年(大正8年)に神戸高商を卒業し、鈴木商店に入社。鈴木商店と深い関係がある高知商業学校(現在の高知商業高等学校)の校友となり、職務の間に同校をたびたび訪れて相撲部のコーチを務めた。鈴木商店内には「高商派」(神戸高商出身者)と「土佐派」(高知県出身者、とくに高知商業出身者)の派閥があり、久はその双方に属し得る立場であったが、金子直吉の側近を自負した久は土佐派の中核となって行動し、台湾銀行からの金子退陣要求に対して強い抵抗を示した。
中尾 幸雄(なかお さちお、1895年11月3日 - 199… 中尾 幸雄(なかお さちお、1895年11月3日 - 1998年10月4日)は、日本の経営者。ゼネラル石油社長を務めた。愛媛県南宇和郡愛南町出身。 1920年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1947年7月にゼネラル物産(のちのゼネラル石油)に転じ、1948年4月に取締役に就任し、1953年4月に副社長を経て、同年11月から1967年11月までに社長を務めた。1961年5月から1963年5月までに石油連盟会長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章した。 1998年10月4日心不全のために死去。102歳没。
守屋 精爾(もりや せいじ、1895年(明治28年)11月2… 守屋 精爾(もりや せいじ、1895年(明治28年)11月2日 - 1943年(昭和18年)5月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・梶田。 岡山県出身。梶田寿平の五男として生まれ、守屋弁之助の養子となる。岡山第一中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第11連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業。陸士生徒隊付、山砲兵第11連隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した。 1931年(昭和6年)3月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を務め、1932年(昭和7年)8月、砲兵少佐に進級。
中松 澗之助(なかまつ かんのすけ、1895年(明治28年)… 中松 澗之助(なかまつ かんのすけ、1895年(明治28年)11月1日 - 1973年(昭和48年)3月20日)は、日本の弁護士、弁理士。日本弁護士連合会会長、日本弁理士会会長、国際工業所有権保護協会日本部会(現日本国際知的財産保護協会)会長。 1895年(明治28年)11月出生。中松盛雄の長男。1921年(大正10年)3月、京都帝国大学法学部英法科を卒業し東京帝国大学大学院に入り産業法を専攻。弁護士・弁理士資格を取得し、1946年(昭和21年)には、父・盛雄が開設した中松特許法律事務所の代表となる。 1963年(昭和38年)に、国際工業所有権保護協会日本部会の第2代会長に就任。日本国際知的財産保護協会では、その功績を記念して1996年(平成8年)にAIPPI中松記念スカラーシップ(中松澗之助スカラーシップ)を設けている。
池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月… 池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月1日 - 1988年(昭和63年)9月26日)は、倉敷市出身の日本画家。本名は池田 昇一。長男は同じく画家の池田道夫。 岡山県浅口郡乙島村(現・倉敷市玉島乙島)に生まれる。紡績会社の技師であった父親の転勤に伴い大阪市に転居。幼少より画才があり、1910年(明治43年)大阪の松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学ぶ。1914年(大正3年)第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が入選する。わずか18歳での入選が話題となり天才少年画家として名声を得る。 1919年(大正8年)京都市に移り竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入門し日本画に転向する。同年に第1回帝展に「南郷の八月」が入選。
岡本 謹平(おかもと きんぺい、1895年(明治18年)11… 岡本 謹平(おかもと きんぺい、1895年(明治18年)11月1日 - 1973年(昭和48年)10月12日)は、昭和期の政治家・薬剤師。愛知県碧海郡刈谷町長(1948年~1950年)、刈谷市長(1950年~1955年)。 1895年(明治18年)11月1日、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市広小路)に生まれた。旧制千葉医学専門学校薬学科(千葉大学の前身)を卒業して薬剤師となり、大日本帝国陸軍薬剤官少尉を経て、1914年(大正3年)に刈谷町に岡本薬局を開業した。1941年(昭和16年)から1948年(昭和23年)まで区長を務めた。 1947年(昭和22年)に学制改革が行われると、碧海郡刈谷町では学校建設の資金が問題となり、1948年(昭和23年)9月には石原平一郎町長が辞任する騒動となった。
柳沢 徹隆(やなぎさわ てつりゅう、1894年(明治27年)… 柳沢 徹隆(やなぎさわ てつりゅう、1894年(明治27年)11月30日 - 1972年(昭和47年)9月9日)は、日本の政治家。新潟県直江津市(現・上越市)長(2期)。 新潟県中頸城郡直江津町(のち直江津市、現・上越市)に生まれる。1921年、東京帝国大学法学部卒。1929年、直江津町会議員となり、1947年、同議長となる。1954年、直江津町の市制施行により直江津市議会となり、初代議長となる。1955年、直江津市長選挙に立候補し、当選する。市長は1962年まで2期務めた。 このほか公民館長や消防団長、上越医療連合会会長、南部海区漁業調査委員会会長、新潟県漁業調査委員会副会長なども歴任した。
小竹 無二雄(こたけ むにお、1894年11月30日 - 1… 小竹 無二雄(こたけ むにお、1894年11月30日 - 1976年9月18日)は、日本の化学者。大阪大学名誉教授、大阪市立大学名誉教授。元日本化学会会長。元日本学士院会員。帝国学士院賞受賞。 富山県出身。旧制・北海道廳立上川中學校(現・北海道旭川東高等学校)、旧制・第七高等学校造士館を経て、1920年東北帝国大学理学部化学科卒業、理化学研究所助手。1928年東北帝国大学理学博士。1932年大阪帝国大学理学部教授。1944年帝国学士院賞受賞。1946年食品化学研究所(現サントリー生命科学財団)理事長。1949年大阪市立大学理工学部教授、初代大阪市立大学理工学部長。1955年大阪大学名誉教授、大阪市立大学名誉教授。
上原 六郎(うえはら ろくろう、1894年〈明治27年〉11… 上原 六郎(うえはら ろくろう、1894年〈明治27年〉11月30日 - 1964年〈昭和39年〉2月3日)は、日本の地方官僚、政治家。北海道札幌市長、札幌観光協会長。位階は正四位。勲三等瑞宝章受章。 実家は札幌郡平岸村(現・札幌市豊平区平岸)のりんご農家。北海道庁属から内務省へ出向し、日本大学法科に学んだ。1920年(大正9年)卒業。帝都復興院事務官となり、主計課長、理事等を歴任。1937年(昭和12年)、東京市収入役となり、その後、1939年(昭和14年)に同市市民局長、1940年(昭和15年)に総務局長を歴任した。1945年(昭和20年)8月14日、札幌市長に就任。1946年(昭和21年)11月12日、札幌市長を退任した。
柴山 全慶(しばやま ぜんけい、1894年(明治37年)11… 柴山 全慶(しばやま ぜんけい、1894年(明治37年)11月30日 - 1974年(昭和49年)8月29日)は昭和期日本に活躍した臨済宗の禅僧。 愛知県葉栗郡浅井町に生まれる。室号は寒松軒、道号は文明。法諱は全慶、俗姓は柴山。花園大学・大谷大学教授を務めた。また8回に渡って渡米し、諸大学で禅学を講義した。1931年(昭和6年)に日本仏教エスペランチスト連盟を起こしたエスペランティストでもある。また、詩『花語らず』でも知られている。1959年(昭和34年)臨済宗南禅寺派管長(1959-1974)に就任し、管長在位のまま1974年遷化。世寿81。 父・悦太郎、母・いと、七人兄弟の次男として生まれ、幼名を真一といった。
浅野 七之助(あさの しちのすけ、1894年11月29日 -… 浅野 七之助(あさの しちのすけ、1894年11月29日 - 1993年3月6日)は、盛岡市出身のジャーナリスト。 アメリカ合衆国で新聞記者として活動し、第二次世界大戦後にアメリカから日本に対しておこなわれた難民救済事業である「ララ物資の父」と言われている。 郷土の先輩、原敬の書生となり、中央大学で学んだ後、1917年に東京毎夕新聞記者特派員として渡米、1924年から朝日新聞米国西部沿岸通信員を務めた。1946年、サンフランシスコの代表的邦字紙「日米時事」を発刊し、社長となる。在米日本人、日系人の権利擁護、拡張のための民権擁護協会、帰化権獲得同盟に参加した。 日米親善と在留邦人の地位向上に貢献したことで、1973年に勲三等瑞宝章を授与される。
小穴 隆一(おあな りゅういち、1894年11月28日 - … 小穴 隆一(おあな りゅういち、1894年11月28日 - 1966年4月24日)は、日本の洋画家、随筆家、俳人。俳号は一游亭。
平田 春一(ひらた はるいち、1894年11月28日 - 1… 平田 春一(ひらた はるいち、1894年11月28日 - 1973年12月7日)は、歌人。 岡山県吉野郡讃甘村(現・美作市)出身。旧姓・井波。若山牧水に師事。日本ペンクラブ会員で再建当初から尽力した。「創作」復刊後から選者として活躍、関西で「みなかみ会」「三土会」を主宰。歌集「象刻集」「留年」など12冊。1957年日本歌人クラブ推薦歌集(第3回)「象刻集」。大阪市・道頓堀の法善寺横丁に、織田作之助文学碑と並んで歌碑がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉… 松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉11月27日 - 1989年〈平成元年〉4月27日)は、日本の実業家、発明家、著述家。位階は正三位。 パナソニックホールディングスを一代で築き上げた経営者である。異名は「経営の神様」。その他、PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出した。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。 1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。家が松の大樹の下にあったところから松下の姓を用いたとする。 1899年頃、父が米相場で失敗して破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し、下駄屋を始めた。
平林 金吾(ひらばやし きんご、1894年(明治27年)11… 平林 金吾(ひらばやし きんご、1894年(明治27年)11月27日 - 1981年(昭和56年)12月29日)は日本の建築家。愛知県西春日井郡豊山村(現在の豊山町)出身。旧姓は安藤。 金吾は安藤喜代三郎・つね夫妻の三男として生まれ、その後母の姉の嫁ぎ先である平林家の養子となり東京に移住。芝中学を経て東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科卒業。その後入社した倉庫設計の会社で高橋貞太郎と出会う。この高橋の勧めでこの会社を退職し内務省明治神宮造営局技手として宝物殿の工事管理に従事、同完成後は高橋が勤務する宮内省に勤務。内務省在籍中の1918年、同僚だった岡本馨との連名で大阪府庁舎の建築設計競技(コンペ)に応募し、一等当選を果たす。
太田 理一(おおた りいち、1894年11月26日 - 19… 太田 理一(おおた りいち、1894年11月26日 - 1988年4月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1913年、長崎市立長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)卒。酒業を営む。島原町議、島原商工会評議員、金銭債務臨時調停委員となる。 1937年の第20回衆議院議員総選挙では長崎1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。1942年の第21回衆議院議員総選挙では非推薦で落選。1946年の第22回衆議院議員総選挙は長崎県(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補したが落選した。1949年の第24回衆議院議員総選挙は長崎1区から民主党公認で立候補したが落選した。
荘 清彦(しょう きよひこ、1894年11月25日 - 19… 荘 清彦(しょう きよひこ、1894年11月25日 - 1967年9月28日)は、日本の経営者。三菱商事社長を務めた。荘清次郎の次男。妻・花子は樺山資英の長女。 東京都出身。1920年に東京帝国大学経済学部を卒業し、三菱造船での勤務を経て、1932年に三菱商事に入社。機械部長、常務を経て、1948年に清光産業社長に就任し、1954年7月に三菱商事副社長に就任し、1960年7月には社長に昇格。1966年に会長に就任し、三菱重工業監査役、原子力産業会議評議員なども歴任。 1963年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1967年9月28日、心筋梗塞のためにで死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
原 彪(はら ひょう / たけし、男性、1894年(明治27… 原 彪(はら ひょう / たけし、男性、1894年(明治27年)11月24日 - 1975年(昭和50年)12月17日)は、日本の政治家、政治学者。衆議院副議長。本名は彪之助。 岡山県小田郡金浦村(現・笠岡市)に生まれる。岡山一中、第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。その後は文部省嘱託、鉄道省鉄道講習所講師、明治大学講師を経て、1928年法政大学教授に就任。政治学・政治史を講じていた。 学生時代より社会主義に共鳴し、1924年安部磯雄らと社会主義研究団体「日本フェビアン協会」を結成する。以後安部に付き従い、1932年安部を委員長とする社会大衆党が結成されると原も入党し中央執行委員になる。
徐 椿(ソ・チュン、서춘、日本名:大川慈種(おおかわ じしゅ… 徐 椿(ソ・チュン、서춘、日本名:大川慈種(おおかわ じしゅ)、大川豊注(おおかわ ほうちゅう)、1894年11月24日 - 1944年4月5日)は、日本統治時代の朝鮮の言論人(ジャーナリスト)。二・八独立宣言に参加した独立運動家だったが、後に親日言論人に変節した。号は五峰(오봉)。 平安北道定州の五山学校(五山高等学校の前身)を卒業し、日本に留学して、東京高等師範学校に学んだ。京都帝国大学在学中だった1919年、三・一運動の導火線となった東京における二・八独立宣言において(宣言に署名した)実行委員11人、逮捕された9人代表のひとりとして参加した。この事件で逮捕され、禁錮9か月を宣告されて、服役した。
岡田 捷五郎(おかだしょうごろう、1894年(明治27年)1… 岡田 捷五郎(おかだしょうごろう、1894年(明治27年)11月24日 - 1976年(昭和51年)10月2日)は東京芸術大学教授、建築家。建築家岡田信一郎の弟である。 東京美術学校図案科第2部(現東京芸術大学建築科)を卒業。病弱な兄・信一郎を補佐して設計に従事し、兄の逝去後は建築事務所を引き継ぎ、明治生命館、琵琶湖ホテルを完成させた。また、母校の東京美術学校建築科の講師となり、後に教授に就任。第2次世界大戦後は東京芸術大学教授。日本建築士会理事長などを務めた。 この間、吉村順三、宮脇檀らの後進を育成する。 妻は伊庭秀栄(東大医学部卒)の四女・春。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。
及川 豪鳳(おいかわ ごうほう、1894年11月23日 - … 及川 豪鳳(おいかわ ごうほう、1894年11月23日 - 1970年4月29日)は、日本の画家。本名は一(はしめ)。 岩手県江刺郡岩谷堂町中町(江刺市を経て、現在の奥州市)生まれ。南画を得意とした父窟堂の影響を受け、幼少期から書画に親しんだ。1924年、川端画学校(日本画)に入学。師匠から一雪と名乗るように勧められたが、自ら豪鳳と称した。在学中、両親と支援者の伯父を失い、1918年の卒業と同時に江刺に帰った。江刺で数多くの作品を残し、病床で「筆一貫」の書を残して死去した。 豪鳳は画の展示販売を好まず、依頼主の要望に応じて何でも描いた。画風は精緻と評され、江刺地域を中心に200点以上の作品が現存する。