土井 辰雄(どい たつお、1892年12月22日 - 197… 土井 辰雄(どい たつお、1892年12月22日 - 1970年2月21日)は、大正・昭和期の日本のカトリック教会高位聖職者。洗礼名はペトロ。日本人初の東京大司教かつ、日本人初の枢機卿。 宮城県仙台市出身。1902年4月21日に洗礼を受ける。仙台第一中学(現・宮城県仙台第一高等学校)・第二高等学校(旧制)卒業後、ローマのウルバノ大学に留学し、神学・哲学の学位を得て帰国。1921年5月1日に司祭叙階。宮城県、岩手県の教会にて司牧活動の後、在京ローマ教皇使節秘書を務めていた。 パリ外国宣教会によって司牧されていた東京大司教区が1937年に邦人教区として独立した時、初代邦人大司教として東京教区長に任命され、1938年2月13日にジャン・アレキシス・シャンボン大司教の手により司教叙階を受けた。
浜田 三郎(はまだ さぶろう、1892年12月21日 - 1… 浜田 三郎(はまだ さぶろう、1892年12月21日 - 1973年11月10日)は、日本の彫刻家。 北海道函館市出身。1918年(大正7年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科本科塑造部を卒業した。1926年(大正15年)の第7回帝展に「母」が初入選した。1927年(昭和2年)に斎藤素巌らの構造社に参加した。1932年にロサンゼルスオリンピックの芸術競技の造形種目に参加した。 1944年(昭和19年)から神奈川県湘南中学、1950年(昭和25年)から茅ケ崎高校で教鞭をとった。 1964年(昭和39年)に「楽人」で日展の菊華賞を受賞し、1966年(昭和41年)に日展会員となった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
三田 了一(みた りょういち、1892年12月19日 - 1… 三田 了一(みた りょういち、1892年12月19日 - 1983年5月29日)は、日本の昭和期に活動したムスリム(イスラム教徒)であり、指導者。宗教家。ムスリム名はウマル。山口県下関市の出身。イスラミックセンタージャパン元顧問。関西学院大学、北九州大学元中国語講師。 1972年に、ムスリムの手による初めてのコーランの日本語訳を出版(1982年改訂版出版)したことで知られる。この翻訳は、世界初の公認翻訳として承認されている。 1892年、山口県下関市に生まれ、1916年、山口高等商業学校(現・山口大学経済学部)を卒業。その後、南満州鉄道に就職して中国大陸に渡り、現地のムスリムとの交流を経てイスラム教へ改宗する。
後藤 鍬五郎(ごとう くわごろう、1892年12月19日 -… 後藤 鍬五郎(ごとう くわごろう、1892年12月19日 - 1976年2月27日)は、愛知県海東郡七宝村(現在のあま市)出身のコンクリート造形師。 最初に鉄筋で骨組みを製作し、隙間にコンクリートを流し込んだ後、表面に漆喰などを塗って仕上げる手法を取った。約40体のコンクリート像の製作に携わっており、聚楽園大仏などが代表作とされる。 1892年(明治25年)、愛知県海東郡七宝村(現在のあま市)に生まれた。両親はろうそくや線香などを製作しており、別院の御用商人だった。1900年(明治33年)に三蔵尋常小学校(名古屋市立栄小学校の前身のひとつ)に入学し、1904年(明治37年)に第六高等小学校(名古屋市立栄小学校の前身のひとつ)に入学し、1906年(明治39年)に第六高等小学校を卒業した。
岩崎 民平(いわさき たみへい、1892年〈明治25年〉12… 岩崎 民平(いわさき たみへい、1892年〈明治25年〉12月18日 - 1971年〈昭和46年〉6月29日)は、日本の英語学者・辞書編纂者。東京外国語大学名誉教授。 1892年、山口県都濃郡富田村(現:周南市)で生まれた。1910年、山口県立徳山中学校(現:山口県立徳山高等学校)を卒業。東京外国語学校に進学し、1913年に卒業。 卒業後は東京府立第四中学校教諭となったが、再び東京帝国大学に入学し、1922年に卒業。 1922年、東京外国語学校(のちの東京外国語大学)教授に就いた。1932年刊行の岡倉由三郎編『新英和大辞典(初版)』(研究社)の改訂にあたり、中心となって作業に当たった。続いて1941年刊行の『簡約英和辞典』(研究社)を編纂。
増田 連也(增田、ますだ れんや、1892年〈明治25年〉1… 増田 連也(增田、ますだ れんや、1892年〈明治25年〉12月16日 - 1965年〈昭和40年〉8月22日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(3期)、群馬県会議長。 群馬県邑楽郡伊奈良村岩田(現板倉町)で、増田甚平、あさ夫婦の三男として生まれる。増田家は伊奈良村の名主を代々勤めた家系で、増田長盛の後裔を称した。群馬県立太田中学校邑楽分校(現・群馬県立館林高等学校)を経て、第四高等学校に入学したが2年で中退した。 1914年(大正3年)まで『満洲日報』の政治記者として、満洲、中国、シベリアなどを視察した。帰国後、実業界で活躍。合同砂利株式会社、合同土木株式会社を設立して利根川・思川の砂利採取事業を経営した。
千田貞季(せんだ さだすえ 1892年12月16日 - 19… 千田貞季(せんだ さだすえ 1892年12月16日 - 1945年3月8日)は、大日本帝国陸軍の軍人。栄典は従四位勲二等功四級。士候26期。栗林忠道大将とは同期。
武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15… 武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 日中戦争、対米交渉、フィリピン戦などに従事。一夕会メンバー。統制派だったが後に東條英機との対立で逆に皇道派の山下奉文の部下に配属された。第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判でA級戦犯に問われ、南方戦線での虐殺事件にも関わっていたことで処刑された。 1892年(明治25年)12月15日、熊本県上益城郡白水村(現・菊陽町)に父・定治、母・加野の間に四人兄弟の次男(兄1人姉2人)として生まれる。武藤家は代々藩医をしていた士族の家系で、地主であった。
古閑 健(こが たけし、1892年(明治25年)12月11日… 古閑 健(こが たけし、1892年(明治25年)12月11日 - 1984年(昭和59年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身。徳島県警部・古閑巌彦の二男として生まれる。中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊付となる。1914年(大正3年)8月から12月まで青島の戦いに出征。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、陸軍兵器本廠付(作戦資材整備会議調査班)、陸軍技術本部付兼軍務局課員を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。
美田 千賀蔵(みた ちがぞう、1892年(明治25年)12月… 美田 千賀蔵(みた ちがぞう、1892年(明治25年)12月10日 - 1945年(昭和20年)7月下旬(戦死日不明))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鳥取県岩美郡牧谷村牧谷(現・岩美町)で、同村の素封家である沢田家の番頭の長男として産まれる。鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に進学する。 1912年12月1日、士官候補生として歩兵第55連隊(佐賀市)に入隊し、1年後の1913年12月1日に陸軍士官学校に入校した。1915年5月25日の卒業後は見習士官として原隊復帰後、同年12月25日付で歩兵第56連隊(久留米市)付として歩兵少尉に任官する。 歩兵第56連隊時代の1917年9月15日に陸軍戸山学校に入校した。
小滝 辰雄(おだき ときお、1892年〈明治25年〉12月9… 小滝 辰雄(おだき ときお、1892年〈明治25年〉12月9日 - 1964年〈昭和39年〉5月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。顕八(あきわ)に改名。 長野県埴科郡南条村(現坂城町)出身。1914年(大正3年)早稲田大学政治経済科卒。1916年(大正5年)同大学英法科、1915年(大正4年)明治大学英法科卒。下谷区議、東京市会議員となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において東京8区から憲政会公認で立候補したが落選。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において東京2区から立憲民政党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙で落選。
上野 伊三郎(うえの いさぶろう、1892年(明治25年)1… 上野 伊三郎(うえの いさぶろう、1892年(明治25年)12月9日 - 1972年(昭和47年)5月23日)は、建築家。ブルーノ・タウトとの関係で知られる。 1892年京都府生まれ。祖父は京都の宮大工、父・伊助は上野工務店を経営していた。宮大工の修業をしていたが東京へ出て、早稲田大学高等予科理工科を経て早稲田大学理工学部建築学科で学び、1922年(大正11年)に卒業。ドイツのシャルロッテンブルク工科大学、オーストリアのウィーン大学へ留学し、ヨーゼフ・ホフマンのウィーン工房に入所(1924年)。ここで所員の工芸家・リチ(Felice Lizzi Rix、1893年 - 1967年)と出会い、結婚する。
徐 成達(ソ・ソンダル、朝鮮語: 서성달、1892年12月7… 徐 成達(ソ・ソンダル、朝鮮語: 서성달、1892年12月7日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 ソウル出身。日本大学法科卒。三・一運動に参加したあと中国に亡命したが、帰国途中に逮捕・収監された。その後は青年党大会、新幹会などの幹部として活躍し、親日15団体による自治要求宣言運動や朴春琴を中心とした11同盟に参加した(その活動を破壊するために参加したとも言われる)。解放後は大韓独立促成国民会高陽郡支部長、国青ソウル市参謀、朝鮮国旗奉賛会長、民族代表者大会代議員、韓国民主党中央執行委員などを歴任した。
紀 俊忠(きい としただ、1892年(明治25年)12月5日… 紀 俊忠(きい としただ、1892年(明治25年)12月5日 - 1970年(昭和45年)1月22日)は、大正から昭和期の技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・今園。 男爵・今園国映の二男として生まれ、男爵・紀俊秀の養子となる。養父の死去に伴い、1940年(昭和15年)11月1日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)京都帝国大学理工科大学機械科を卒業。三井鉱山に入社。1936年(昭和11年)石炭液化工業の視察のためドイツに出張。1937年(昭和12年)満州合成燃料錦州工場の設計・建設に従事。1942年(昭和17年)朝鮮飛行機製作所長に就任。1944年(昭和19年)日本人造石油取締役に出向した。
国生義夫(こくしょう よしお、1892年12月4日 – 19… 国生義夫(こくしょう よしお、1892年12月4日 – 1976年6月16日)は、鹿児島県出身の実業家。明治乳業の元社長・元会長。 鹿児島市の貧しい家庭に生まれる。鹿児島市立松原小学校、鹿児島県立第二鹿児島中学校、鹿児島高等農林学校農学科卒業。農林学校在学中より牛乳や乳製品について研究し、1917年には農商務省による海外実業練習生に選抜され渡米。現地で4年間、酪農について研修を受ける。 帰国後の1923年、東京菓子(現・明治製菓)に入社、1955年には明治乳業社長に就任し、以後会長まで務めた。 著書に「わが乳業記」(1969年、明治乳業刊)がある。 藍綬褒章及び勲三等旭日中綬章を受章。 1976年6月16日、心筋梗塞のため東京慈恵会医科大学附属病院で死去。
阿部 時一 (あべ ときいち、1892年(明治25年)12月… 阿部 時一 (あべ ときいち、1892年(明治25年)12月4日 -1957年(昭和32年)10月17日)は、日本の地方政治家。初代岩手県一関市長。 岩手県西磐井郡一関町(現・一関市)生まれ。1921年慶應義塾大学部理財科卒。卒業後は第三銀行に就職したが、間もなく退職した。帰郷し、1929年一関町会議員。その傍ら『磐井毎夕新聞』を発行。同紙は後に合併により『岩手日日新聞』となる。1938年保証責任西磐井郡北部販売組合連合会専務理事となるが、翌年退任。その後は一関町助役となる。 1947年一関町長に当選。翌1948年市制施行により一関市長に就任する。一関市は市制施行の年を挟みカスリン台風、アイオン台風の被害を大きく受け、多数の死者、行方不明者を出した。
川口 清健(かわぐち きよたけ、1892年(明治25年)12… 川口 清健(かわぐち きよたけ、1892年(明治25年)12月3日 - 1961年(昭和36年)5月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲二等。 高知県高知市西町出身。川口清俊陸軍中佐・母スガの息子として生まれる。高知一中(城東中学)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。当時は陸軍一といわれるほどの「ショーネン」(美少年)であった[要出典]。参謀本部付勤務を経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 歩兵第8連隊中隊長、参謀本部付勤務、第4師団参謀、台湾軍参謀、陸軍重砲兵学校教官、陸軍省軍務局課員、陸軍省副官、支那駐屯軍参謀、第4師団司令部付(外事主任)、東京湾要塞参謀、北支那方面軍司令部付(宣伝部長)などを経て、1937年(昭和12年)11月、陸軍大佐に進級。
渡辺 政人(わたなべ まさんど、1892年(明治25年)12… 渡辺 政人(わたなべ まさんど、1892年(明治25年)12月3日 - 1975年(昭和50年)2月27日)は、日本の実業家・慈善家。宮城県出身。故郷の登米の地域へ様々な形での寄付や支援を行い続けた。 宮城県登米郡登米町(現登米市)日根牛五郎峯地区の農家である渡辺徳兵衛・かの夫妻の次男(5人兄弟の末子)として出生する。15歳の時には兄がいた台湾へ渡って働いたり、工手学校(現・工学院大学)で建築を学んだりした後、1918年(大正7年)3月に明治大学商科を卒業。同年4月より台湾銀行東京支店で働き始めるも、その5か月後に『中外商業新報』の白石元治郎の特集記事を読んだことをきっかけに、日本鋼管(現JFEスチール、JFEエンジニアリング)へ入社する。
岩仲 義治(いわなか よしはる、1892年(明治25年)12… 岩仲 義治(いわなか よしはる、1892年(明治25年)12月3日 - 1947年(昭和22年)2月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鳥取県出身。鳥取中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第40連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業し歩兵第40連隊中隊長に就任した。 陸軍歩兵学校教官を経て、1927年(昭和2年)12月から1928年(昭和3年)4月まで、陸軍自動車学校で甲種学生として学んだ。以後、歩兵第59連隊大隊長、歩兵学校教官、教育総監部課員、第8師団参謀、第7師団参謀、陸軍戦車学校教官などを務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に昇進。
3代辰馬 悦蔵(たつうま えつぞう、前名・寛爾、1892年〈… 3代辰馬 悦蔵(たつうま えつぞう、前名・寛爾、1892年〈明治25年〉12月2日 - 1980年〈昭和55年〉8月17日)は、日本の酒造家・実業家・慈善家。兵庫県多額納税者。辰馬悦蔵商店社長。北辰馬家第三代当主。紺綬褒章を多数回受章。 兵庫県西宮市出身。先代辰馬悦蔵の長男。1917年、家督を相続し前名・寛爾を改め襲名した。1918年、京都帝国大学史学科卒業。 酒造業を営み、銘酒白鷹の醸造元として知られたが、1929年、酒造業の全般を株式会社辰馬悦蔵商店に移して自らその社長となり、経営に努めた。後これを退き、その取締役となった。1976年、辰馬考古資料館設立。 3代悦蔵は京都帝国大学に学び、家業の酒造のかたわら、考古学の研究と考古資料の収集に努めた。
小菅 小之助(こすげ このすけ、1892年〈明治25年〉12… 小菅 小之助(こすげ このすけ、1892年〈明治25年〉12月2日 - 没年不明)は、日本の実業家。東京急行電鉄取締役。 東京市出身。小菅利八の長男。1917年、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 1925年、家督を相続する。鬼怒川水力電気取締役兼技師長、小田急電鉄取締役兼技師長を経て、1942年に東京急行電鉄取締役。 宗教は神道。趣味は読書。住所は東京市本郷区菊坂町(現・東京都文京区本郷五丁目)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
下山 琢磨(しもやま たくま、1892年(明治25年)12月… 下山 琢磨(しもやま たくま、1892年(明治25年)12月1日 - 1957年(昭和32年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。下山筆八工兵大佐の長男として生まれる。東京府立四中、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を優等で卒業した。 1922年(大正11年)9月、陸士教官に就任し、1925年(大正14年)3月、ドイツ駐在に発令された。1927年(昭和2年)11月、教育総監部付となり、教育総監部課員に異動し、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。
吉川 末次郎(よしかわ すえじろう、1892年(明治25年)… 吉川 末次郎(よしかわ すえじろう、1892年(明治25年)12月1日 - 1976年(昭和51年)11月20日)は、大正末から昭和期のジャーナリスト、社会運動家、政治家、法学者。参議院議員(1期)。次男は元東映プロデューサー吉川進。 京都府京都市出身。吉川利兵衛の養子となる。京都薬学校(現京都薬科大学)卒を経て、1918年(大正7年)同志社大学政治科を卒業した。1920年(大正9年)から1922年(大正11年)にかけて欧米に留学し、コロンビア大学政経部大学院などで学んだ。ロイター通信記者、日米時報主筆、帝都復興院嘱託、東京市政調査会研究員などを務め、社会運動に従事した。 1926年(大正15年)社会民衆党創立に加わり、1927年(昭和2年)京都支部創立に伴い支部長に就任。
藤田 清(ふじた きよし、1892年(明治25年)12月?日… 藤田 清(ふじた きよし、1892年(明治25年)12月?日 - 1965年(昭和40年)7月28日)は、茨城県真壁郡新治村(協和村、協和町を経て、現在の筑西市)出身の軍人、新治村での地域の指導者及び考古学者である。考古学者としては在野の研究者であったが新治郡衙跡、新治廃寺の研究・発掘調査で重要な役割を果たした。 藤田の家は真壁郡新治村の古郡に在り、村で5指に数えられる大地主であった。藤田は茨城県立水戸農学校(現在の茨城県立水戸農業高等学校の前身)卒業後、1912年(大正元年)に宇都宮騎兵第18聯隊に一年志願兵として入営し、1914年(大正3年)12月には陸軍騎兵少尉に任官している。しかし、任官後まもなく除隊した。
宮内 初太郎(みやうち はつたろう、1892年(明治25年)… 宮内 初太郎(みやうち はつたろう、1892年(明治25年)12月 - 1957年(昭和32年))は、日本の建築家。 宮内建築事務所を創業した宮内半太郎の息子として神奈川県横浜市で生まれる。東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。 父の死去に伴い、1924年に建築事務所を受け継いだ。1935年に宮内組と改称、建築請負業を営む。 横浜市には今でも彼の手がけた多くの建築物が残る。
加藤 初夫(かとう はつお、1892年(明治25年)12月 … 加藤 初夫(かとう はつお、1892年(明治25年)12月 - 1975年(昭和50年))は、日本の内務官僚。官選福井県知事。 大分県出身。加藤栗太郎の長男として生まれる。1917年、明治大学法学部を卒業。1918年、内務省に入省し兵庫県属となる。1922年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、大分県直入郡長、同日田郡長、大分県・徳島県・鹿児島県各勤務、宮崎県書記官・学務部長、島根県書記官・学務部長、佐賀県総務部長、山口県総務部長、東京府書記官・学務部長などを歴任し、1941年、新潟県内政部長に就任。 1943年7月、福井県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1945年4月21日、依願免本官となり退官した。
秋山 門造(あきやま もんぞう、1891年(明治24年)12… 秋山 門造(あきやま もんぞう、1891年(明治24年)12月30日 - 1944年(昭和19年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵42期。太平洋戦争におけるクェゼリンの戦いで司令官として戦死した。死後特進により最終階級は海軍中将。 香川県豊田郡柞田村(現 観音寺市柞田町)出身。農家の秋山清五郎、イセの五男として生まれる。 中農だったが、厳しい家庭で、当時は機械化されておらず秋山も小さい頃から農業を手伝い、海兵時代も休暇の度に帰宅して農作業をしていた。 旧制香川県立三豊中学校(第7回)を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第26期)を受験し、双方に合格している。1911年(明治44年)9月11日海軍兵学校(第42期)に入校。
杵村 久蔵(きねむら ひさぞう、1891年(明治24年)12… 杵村 久蔵(きねむら ひさぞう、1891年(明治24年)12月28日 - 1938年(昭和13年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鳥取県米子市立町の農家に生まれた。父梅蔵は糺山のあたりで百姓をしていたという。 米子中学(現在の米子東高校)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官。さらに中尉のとき、陸軍大学校(32期)に入校。同校を優等で卒業、恩賜の軍刀組であった。アメリカ駐在を経験している。 少壮気鋭の尉官時代、皇族李王家の御付武官をつとめた。1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し、朝鮮軍隷下第20師団参謀長に任命される。
石田 幹之助(いしだ みきのすけ、1891年12月28日 -… 石田 幹之助(いしだ みきのすけ、1891年12月28日 - 1974年5月25日)は、日本の歴史学者、東洋学者。國學院大學や大正大学、日本大学などで教授をつとめた。芥川龍之介とは、一高同級生の友人だった。
小林 壬(こばやし おおい、1891年12月28日 - 19… 小林 壬(こばやし おおい、1891年12月28日 - 1985年12月31日)は、日本の経営者。広島県出身。 1913年に東北帝国大学専門部機械工学科を卒業し、同年4月に高田商会に入社。1920年9月に高砂熱学工業に転じ、1937年12月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1955年7月には社長に就任。1968年6月から会長を務めた。 1958年11月に黄綬褒章を受章し、1966年4月に勲五等瑞宝章を受章。
堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉1… 堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉9月5日)は、日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。 1891年(明治24年)12月25日、京都府京都市出身。 1910年(明治43年)、旧制京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)を卒業。西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。 1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校研究科修了。 1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選した。帝展第3回展では「調鞠図」で特選、第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。
水谷 秀雄(みずたに ひでお、1891年(明治24年)12月… 水谷 秀雄(みずたに ひでお、1891年(明治24年)12月24日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 愛知県出身。1915年(大正4年)、広島高等師範学校英語科を卒業。1921年(大正10年)、高等試験行政科に合格し、翌年に京都帝国大学法学部法律科を卒業した。内務属、山形県置賜郡長、同産業課長、同庶務課長、長野県蚕糸課長、関東庁事務官、内務局地方課長、長官官房調査課長、同文書課長代理、警務局高等警察課長、同文書課長、関東局専売局長・大連民政署長を歴任。1935年(昭和10年)、群馬県書記官・学務部長となり、宮城県学務部長、福岡県学務部長、長野県総務部長を歴任した。 1941年(昭和16年)に退官した後、住宅営団参事・名古屋支所長を務めた。
清家 正(せいけ ただし、1891年12月23日 - 197… 清家 正(せいけ ただし、1891年12月23日 - 1974年11月19日)は、日本の教育者および機械設計製図の研究で知られる機械工学者である。愛媛県出身。 建築家で東京工業大学教授兼東京藝術大学教授を務めた清家清の父。労働経済学者で慶應義塾塾長や日本私立大学連盟会長を歴任した清家篤は孫。 1914年 東京高等工業学校(現東京工業大学)機械科を卒業後、芝浦製作所(現東芝)に入社。その後、自ら起業したり、他の企業に勤めたりした後、1923年、神戸高等工業学校(現神戸大学工学部)教授となる。1935年、東京府立電機工業学校校長となり、後に府立工業専門学校校長を併任し、1951年まで歴任。1949年、東京都立大学工学部長。
三木 宗策(みき そうさく、1891年〈明治24年〉12月2… 三木 宗策(みき そうさく、1891年〈明治24年〉12月22日 - 1945年〈昭和20年〉11月28日)は、日本の彫刻家。高村光雲の高弟である山本瑞雲の内弟子となる。第十回文展入選以来十二回まで続けて入選、第六回帝展で「不動」が特選となり以後無鑑査を経て1932年〈昭和7年〉帝展審査員となる。新しい造形精神に立脚した伝統木彫の確立に努めた。 三木宗策は福島県郡山市で、表装を生業とする三木宗次郎、ハルの二男として生まれた。明治29年(1896年)金透尋常小学校に入学、成績優秀で毎年のように級長を務め中学校進学を希望したが、父の同意が得られなかった。三木家の菩提寺である善導寺には阿弥陀如来像が座しており、幕末の戊辰戦争と明治期の火災で本堂が焼けた際に、本尊も損傷を受けておりその修復のために、山本瑞雲がおとずれていた。
上野 敬三(うわの けいぞう、1891年12月20日 - 1… 上野 敬三(うわの けいぞう、1891年12月20日 - 1985年9月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岩手県雫石町出身。県議・上野広成の三男として生まれる。盛岡中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校(41期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。航空術学生として学び、横須賀航空隊付、同教官、「三笠」乗組、佐世保航空隊分隊長、霞ヶ浦航空隊分隊長、同飛行隊長心得、大村航空隊飛行隊長、「鳳翔」航空長、霞ヶ浦航空隊飛行隊長、欧米出張、霞ヶ浦航空隊・「赤城」・「加賀」の各飛行長などを歴任。 さらに、海軍航空本部教育部員、「能登呂」艦長、霞ヶ浦航空隊副長、「蒼龍」艦長、大分航空隊・横須賀航空隊の各司令などを歴任し、1941年10月、海軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
松岡 一衛(まつおか かずえ、1891年(明治24年)12月… 松岡 一衛(まつおか かずえ、1891年(明治24年)12月20日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。嘉義市尹、台北市尹、台中州知事。 広島県出身。1916年(大正5年)、中央大学経済科を卒業し、拓殖局雇、同属となった。1919年(大正8年)、高等試験に合格。台中州地方課長・水利課長、台湾総督府中央研究所庶務課長、嘉義市尹、殖産局特産課長・附属茶検査所長・茶業伝習所長等を歴任。1933年(昭和8年)、台北市尹となり、1936年(昭和11年)には台中州知事となった。1939年(昭和14年)には殖産局長に就任し、営林署長、天然瓦斯研究所長を兼ねた。1941年(昭和16年)に退官した。退官後は台湾石炭社長に就く。
小島 洋々(こじま ようよう、1891年12月16日 - 没… 小島 洋々(こじま ようよう、1891年12月16日 - 没年不詳)は、日本の元俳優、元男性声優、元オペラ歌手である。本名は小島 正次(こじま まさじ)。浅草オペラ、新派を経て映画俳優に転向、戦前・戦中の新興キネマ、東宝映画東京撮影所、戦後の新東宝、東映東京撮影所で長く活躍したバイプレーヤーとして知られ、映画出演数は200本を超える。 1891年(明治24年)12月16日、東京府東京市下谷区御徒町(現在の東京都台東区)に生まれる。『日本歌劇俳優写真名鑑』(歌舞雑誌社)では、出生地は上記の通りだが、生年は「明治廿一年十二月十六日」(1888年12月16日)である旨が記されている。旧制埼玉県浦和中学校(現在の埼玉県立浦和高等学校)を経て旧制東京音楽学校(1952年廃止)に進学する。
長坂 貞一(ながさか ていいち、1891年(明治24年)12… 長坂 貞一(ながさか ていいち、1891年(明治24年)12月15日 - 1969年(昭和44年)1月5日)は、日本の政治家。愛知県豊田市(挙母市)の市長を2期務めた。 愛知県碧海郡西端村(現・碧南市)出身。呉服屋を営む杉浦喜六の四男として生まれた。1909年(明治42年)、愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)卒業。小学校教員になったのち、1912年(大正元年)12月に農林省森林主事に任官。営林署技手として千葉、茨城、岐阜の各県に勤務し、1929年(昭和4年)に退職。 額田銀行勤務を経て、1933年(昭和8年)に挙母町役場の書記となる。トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)の誘致に参画し、庶務課長、振興課長などを務めた。
三井 道男(みい みちお、1891年〈明治24年〉12月13… 三井 道男(みい みちお、1891年〈明治24年〉12月13日 - 1970年5月11日)は主に昭和期に活動した建築家。江戸東京たてもの園の「田園調布の家」や滋賀武徳殿などの作品がある。 東京市生まれ。父はニコライ堂の司祭として知られる三井道郎である。1915年(大正4年)、早稲田大学理工学部建築学科を卒業後、斎藤久孝建築事務所に入所。翌年、司法省に入るが1年ほどで辞め、再び斎藤事務所に入所。 1921年(大正10年)11月、早稲田大学の恩師である岡田信一郎の事務所に入所する。当時はちょうど火災で焼失した歌舞伎座再建工事の設計が進んでいる時期であった。岡田事務所では歌舞伎座のほか、青山会館、東京府美術館、浅野図書館、府立化学工業学校、府立第一高等女学校、府立第一中学校、ニコライ堂修復、信濃町教会、虎屋、明治生命館(現存)、国民会館などの設計に関与した。
井野 碩哉(いの ひろや、1891年(明治24年)12月12… 井野 碩哉(いの ひろや、1891年(明治24年)12月12日 - 1980年(昭和55年)5月19日)は、日本の政治家、官僚。農林大臣(第20代)、拓務大臣、弾劾裁判所裁判長(第30代)、衆議院議員(1期)。戦後の公職追放解除後、参議院議員(3期)、法務大臣などを務めた。兄は満州国最高法院長の井野英一。
増山 正興(ましやま / ますやま まさおき、1891年〈明… 増山 正興(ましやま / ますやま まさおき、1891年〈明治24年〉12月12日 - 1939年〈昭和14年〉2月21日)は、明治から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・中川、旧名・興功。 男爵・中川興長の七男として生まれ、子爵・増山正治の養子となる。養父の隠居に伴い、1924年(大正13年)11月15日に子爵を襲爵した。 1919年(大正8年)7月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。 1901年(明治34年)侍従職出仕となる。以後、臨時帝室編修局書記、高松宮御用掛兼宮内省御用掛などを務めた。 1936年(昭和11年)1月18日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで在任した。
槇 智雄(まき ともお、1891年(明治24年)12月12日… 槇 智雄(まき ともお、1891年(明治24年)12月12日 - 1968年(昭和43年)10月3日)は、日本の政治学者。専門は、イギリス憲法史・政治制度史。防衛大学校名誉教授。保安大学校長・初代防衛大学校長、白梅学園短期大学学長を歴任。登山家の槇有恒は実弟。 宮城県仙台市出身。父は新潟県士族・槇武。父の仙台赴任中に生まれた。 1965年叙勲二等授瑞宝章。1968年賜銀盃一個、叙従三位。
佐藤 幸吉(さとう こうきち、1891年(明治24年)12月… 佐藤 幸吉(さとう こうきち、1891年(明治24年)12月12日 - 1978年(昭和53年)4月3日)は、日本の実業家。佐藤製薬創業者。孫は藤田雄山(広島県知事)の妻。 静岡県・清左衛門の四男。1910年、東京薬学校卒業。1915年、 東京市本郷区千駄木町(現在の東京都文京区弥生町一丁目)で佐藤製薬所を創業。1920年、分家した。1930年、社長に就任する。 1978年4月3日、老衰のため東京都神田神保町の神保院で死去、86歳。 趣味は旅行。宗教は真言宗。住所は東京市品川区大井関ヶ原町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
金 尚徳(キム・サンドク、김상덕、1891年12月10日また… 金 尚徳(キム・サンドク、김상덕、1891年12月10日または1892年12月10日 - 1956年4月28日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家である。号は令洲。 慶尚北道高霊郡苧田洞で小農の5男に生まれた。5歳の時に父の勧誘で書堂に入って、郷里で19歳の時まで漢学を学んだと言う。1912年4月慶尚北道高靈公立普通学校に入学したが翌年やめた。1915年京城府で儆新中学校に入学した。1917年には、16歳時に許嫁となった陜川郡出身の姜泰貞と結婚した。儆新中学校に通いながら、昼には大工で学費を稼ぎ、夜に勉強しながら、20代初盤の青年期を儆新中学校で過ごした。そしてキリスト教に接して新学問を学び、民族意識と抗日意識を培って、日本に渡り、近代的な新学問を学んで独立運動をすることを決心した。
堀内 利器(ほりうち りき、1891年12月10日 - 19… 堀内 利器(ほりうち りき、1891年12月10日 - 1942年5月8日)は、日本の発明家。 千葉県一宮町で一宮藩士であった堀内家に生まれる。第一高等学校時代には芥川龍之介の1年先輩であり、芥川は1914年と1916年の2度、堀内に誘われ一宮に滞在している。1918年に京都帝国大学理学部を卒業した。東京ミツワ化学研究所や大学の副手を経て、1920年に高砂香料株式会社創立に当たり懇望されて同社の研究部に入り、研究を行った。ここでは社長の甲斐荘楠香と協力し香料の発明製造を行った。 1928年に理学博士の学位を取得した。1937年時点では高砂香料の取締役兼技師長、早稲田大学の講師を務めていた。 高砂香料の専務を務めていた1942年5月に九州西南沖(南シナ海)で殉職した。
大幸 喜三郎(おおさち きさぶろう、1891年(明治24年)… 大幸 喜三郎(おおさち きさぶろう、1891年(明治24年)12月10日 - 1978年(昭和53年)12月9日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1891年(明治24年)に福井県で生まれた。陸軍士官学校第28期卒業。陸軍派遣学生として1921年(大正10年)4月に東京帝国大学工学部造兵学科を卒業した。1937年(昭和12年)に陸軍砲兵大佐に進級し、陸軍造兵廠大阪工廠検査課長に就任した。 1940年(昭和15年)4月に大阪陸軍造兵廠枚方製造所長を経て、同年12月に中将に進級し、仁川陸軍造兵廠長となった。1943年(昭和18年)に小倉陸軍造兵廠長に就任し、1944年(昭和19年)に陸軍中将に進級した。
加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1891年〈明治24年〉12月… 加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1891年〈明治24年〉12月10日 - 1969年〈昭和44年〉8月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。幼名・正雄。 愛知県宝飯郡前芝村(現豊橋市前芝町)で、先代加藤六蔵の長男として生まれた。農業を営み、前芝村長、愛知県議、同県山林会議員となり、前芝漁業協同組合長、豊橋市議、同議長、(株)三河海苔販売取締役社長を務める。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において愛知12区から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第17回衆議院議員総選挙において愛知5区から立憲民政党公認で立候補したが落選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で再選し、1932年の第18回衆議院議員総選挙では次点で落選した。
長谷川 潔(はせがわ きよし、1891年(明治24年)12月… 長谷川 潔(はせがわ きよし、1891年(明治24年)12月9日 - 1980年(昭和55年)12月13日)は大正・昭和期に活躍した日本の版画家。
小浜 八弥(おばま はちや、1891年(明治24年)12月8… 小浜 八弥(おばま はちや、1891年(明治24年)12月8日 - 1973年(昭和48年)4月6日)は、日本の農林官僚。官選静岡県知事、農林次官。旧姓・稲富。 佐賀県出身。稲富正六の二男として生まれ、小浜又吉の養子となる。第一高等学校を卒業。1917年3月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年4月、農商務省に入省し農商務属となり農務局に配属。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1918年7月、臨時産業調査局事務官・第一部勤務となる。以後、農務局事務官、農商務事務官、農林事務官、兼農林書記官・農務局副業課長、水産局漁政課長、農務局農政課長、大臣官房文書課長、農林省農務局長、内閣調査局調査官などを歴任し、1937年5月、農林省農務局長に再任された。
西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 -… 西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 - 1970年5月19日)は、文芸評論家・翻訳家・フランス哲学研究者、教育家。 秋田県生まれ。16歳の時一家で東京に移り、大成中学校をへて早稲田大学文学部英文科卒。1918年『早稲田文学』の編集に従事、評論、翻訳を行う。1924年、早大講師、立正大学教授、1942年豊南学園を設立し校長・理事長を務めた。トルストイ、ジャン=マリー・ギュイヨーの影響を受けた。