工藤 忠(くどう ちゅう、初名は工藤 鉄三郎(くどう てつさ… 工藤 忠(くどう ちゅう、初名は工藤 鉄三郎(くどう てつさぶろう)、のち満洲国執政溥儀から「忠」名を与えられて、戸籍上も工藤忠に改名。明治15年(1882年)12月10日 - 昭和40年(1965年)12月18日)は、明治、大正、昭和期におけるアジア主義者の大陸活動家及び満州国の政治家。満州国の侍衛長。最終階級は満州国侍衛処長、宮内府顧問官。
青森県:158人
工藤 忠(くどう ちゅう、初名は工藤 鉄三郎(くどう てつさ… 工藤 忠(くどう ちゅう、初名は工藤 鉄三郎(くどう てつさぶろう)、のち満洲国執政溥儀から「忠」名を与えられて、戸籍上も工藤忠に改名。明治15年(1882年)12月10日 - 昭和40年(1965年)12月18日)は、明治、大正、昭和期におけるアジア主義者の大陸活動家及び満州国の政治家。満州国の侍衛長。最終階級は満州国侍衛処長、宮内府顧問官。
苫米地 義三(とまべち ぎぞう、1880年〈明治13年〉12… 苫米地 義三(とまべち ぎぞう、1880年〈明治13年〉12月25日 - 1959年〈昭和34年〉6月29日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。運輸大臣(第8代)、内閣官房長官(第3代)、衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、サンフランシスコ講和会議全権委員。 1880年(明治13年)12月25日、青森県上北郡相坂村(藤坂村を経て現在の十和田市)に生まれる。父の金次郎は村の評議員で、明治22年の市町村制施行時は、藤坂村の第1期村会議員にも選ばれた地域の有力者だった。一方で北海道開拓に並々ならぬ関心を抱いており、翌1890年(明治23年)には全財産を担保にして土地を買い、後志国磯谷郡南尻別村大谷地(現在の北海道蘭越町大谷地)に移り住んだ。
工藤 十三雄(くどう とさお、1880年(明治13年)5月1… 工藤 十三雄(くどう とさお、1880年(明治13年)5月16日 – 1950年(昭和25年)12月17日)は、衆議院議員(政友本党→立憲政友会)、ジャーナリスト。 弘前市出身。東京帝国大学法科大学独法科を中退後、時事新報の記者となった。東洋拓殖株式会社嘱託を経て、郷里で陸奥日報社や弘前新聞社の経営にあたった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。6期連続当選を果たした。その間、平沼内閣で鉄道政務次官を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。 その他、石川島飛行機製作所顧問を務めた。
葛原 運次郎(くずはら うんじろう、1880年〈明治13年〉… 葛原 運次郎(くずはら うんじろう、1880年〈明治13年〉 - 1945年〈昭和20年〉12月)は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県南津軽郡田舎館村長、弘前市長。 青森県南津軽郡豊蒔村(現在の田舎館村豊蒔)出身。東奥義塾から第二高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進む。1905年(明治38年)文学部講師嘱託となり、市村瓚次郎の助手として満州へ渡る。帰朝後は、東奥義塾教師、千葉県成田中学校長など全国各地の校長を歴任し、1926年(大正15年)大館中学校から弘前中学校の第14代校長となる。 1931年(昭和6年)同校生徒の「嶽温泉籠城ストライキ」の責任を取り、翌春校長を辞職。1940年(昭和15年)田舎館村長となり、1942年(昭和17年)7月には弘前市長に就任した。
菊池 良一(きくち りょういち、1879年(明治12年)10… 菊池 良一(きくち りょういち、1879年(明治12年)10月1日 - 1945年(昭和20年)2月25日)は、大正から昭和前期の日本の実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。中国通(支那通)として知られた。天文学者・一戸直蔵の義弟。 青森県中津軽郡弘前城下(現弘前市)で、旧弘前藩士の政治家・菊池九郎、久満子の長男として生まれる。東奥義塾、第二高等学校を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業した。 青年時代から中国問題に関心を持ち、中国で貿易商を営み、日支商事会社長、山口商事取締役、東海漁業取締役などを務めた。その後、新聞記者、弁護士となる。また、合資会社ボルネオ物産商会代表者に就任した。
2代 佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、前名・嘉造、1879… 2代 佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、前名・嘉造、1879年〈明治12年〉5月27日 - 1961年〈昭和36年〉10月21日)は、日本の商人(呉服商)、青森県多額納税者、政治家(貴族院多額納税者議員)、実業家、銀行家。青森銀行頭取。津軽鉄道顧問。「布嘉」佐々木家3代目。 青森県北津軽郡五所川原村(五所川原町を経て現五所川原市)に生まれる。佐々木眞平の長男。初代・佐々木嘉太郎の孫。早逝した2代目の跡を継ぐ。呉服商を営む。1915年(大正4年)、五所川原町会議員に当選。 1918年(大正7年)には青森銀行頭取を兼ねて佐々木銀行を設立した。呉服屋稼業から金融業へと「布嘉」の看板を掛けかえた。ほか、陸奥鉄道社長、津軽鉄道取締役などを歴任した。
鳴海 文四郎(なるみ ぶんしろう、1877年(明治10年)1… 鳴海 文四郎(なるみ ぶんしろう、1877年(明治10年)10月1日 - 1933年(昭和8年)2月28日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、醸造家。鳴海醸造店第4代当主。衆議院議員(2期)。幼名は明治郎。 青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)出身。同郡浅瀬石村(現黒石市)の鳴海久兵衛家の分家で屋号は久〇(きゅうまる)といい、中町で1808年(文化5年)から代々酒造業を営んだ。江戸時代は稲村屋を名乗っていた。別家・鳴海理兵衛の長男として生まれ、のち3代鳴海文四郎の養嗣子となった。 黒石町会議員などを経て、1917年(大正6年)4月の第13回衆議院議員総選挙では青森県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。
中野 浩(なかの こう、1876年(明治9年)6月3日 -… 中野 浩(なかの こう、1876年(明治9年)6月3日 - 没年不明)は日本の政治家。青森県青森市長。 青森県中津軽郡弘前に生まれる。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、明治大学法科を卒業する。卒業後は台湾総督府官吏となったが、風土病により短期間で辞職した。その後は、時事新報、東京毎日新聞の各記者を経て、東京市に入り、赤坂(1920年4月から1925年8月まで)、深川(1925年8月1日から1926年8月7日まで)の各区長を務めた。 1926年、青森市長に就任。在任中に東津軽郡滝内村と造道村の一部を編入。練兵場の移転と青森港の拡張問題には苦慮した。1930年に市長を退任。東京に戻り、碑衾町最後の町長(1931年10月17日から1932年9月30日まで)を務めた後に淀橋(1932年10月1日から1933年11月2日まで)、板橋(1933年11月から1934年6月まで)の各区長を務めた。
小泉 辰之助(こいずみ たつのすけ、1875年〈明治8年〉1… 小泉 辰之助(こいずみ たつのすけ、1875年〈明治8年〉12月24日 - 1936年〈昭和11年〉5月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家。衆議院議員。 青森県東津軽郡幸畑村(筒井村、筒井町を経て、現在の青森市)に生まれる。函館中学校を卒業し、警官、陸奥日報記者を経て、日月新聞を主宰後、政治家に転身する。1905年(明治38年)東平内村長となり、1909年(明治42年)まで在職。1907年(明治40年)には東津軽郡会議員、同議長を経て、1915年(大正4年)東津軽郡選挙区から青森県会に立候補し当選し、再選後議長に就任した。 県議に3選後の1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では青森県第5区から政友本党所属で出馬し当選するが、選挙後の訴訟に敗れて失格した。
工藤 鉄男(工藤 鐵男、くどう てつお、1875年8月5日 … 工藤 鉄男(工藤 鐵男、くどう てつお、1875年8月5日 - 1953年6月16日)は、大正・昭和期の日本の政治家。行政管理庁長官(第3代)。衆議院議員(7期)。参議院議員(1期)。 青森市出身。日本大学法学部を卒業後、二六新報、日本新聞にて記者を務める。日露戦争では従軍記者を務め、日露戦争後は日比谷焼打事件に連座したこともある。 その後ロンドン大学に学び、日大歯科医専講師などを経て青森に帰郷し、普選運動を展開する。1924年の第15回衆議院議員総選挙に憲政会から立候補し、青年団体などの支持を集め初当選する。以後通算当選7回。戦前は憲政会・立憲民政党に所属し、1931年の第2次若槻内閣で文部参与官、1938年の第1次近衛内閣にて厚生政務次官を歴任する。
佐々木 亀吉(ささき かめきち、1875年〈明治8年〉1月1… 佐々木 亀吉(ささき かめきち、1875年〈明治8年〉1月13日 - 1950年〈昭和25年〉)は、日本の政治家、実業家。青森県北津軽郡五所川原町会議員。五所川原通運、木造合同運送各社長。佐々木銀行監査役。津軽鉄道社長、青森県議会議員佐々木啓二の祖父。 青森県北津軽郡五所川原町平井町の人。峰五郎の長男。初代佐々木嘉太郎の甥。分家する。 西北運送業界の先駆者。初代日通五所川原支店長。宗教は禅宗。趣味は謡曲。住所は青森県北津軽郡五所川原町(現五所川原市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
原田 藤次郎(はらだ とうじろう、1874年(明治7年)10… 原田 藤次郎(はらだ とうじろう、1874年(明治7年)10月21日 - 1948年(昭和23年)1月5日)は、明治時代後期から大正時代の政治家、銀行家。衆議院議員。 原田佐治郎の長男として、青森県西津軽郡森田村(現・つがる市森田町)に生まれる。農業を営む傍ら青森県農工銀行取締役を歴任する。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で青森県第4区から立憲政友会所属で出馬して当選し、2期務めた。 在任中は五能線の五所川原以西の延伸に尽力し、1924年(大正13年)には陸奥森田駅まで列車が走るようになり、翌年には鰺ケ沢まで、1934年(昭和9年)には深浦まで開通した。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)までは西津軽郡土淵堰、悪水路の両水利組合議員を務め、農業水利の改善に尽くした。
神田 重雄(かんだ しげお、1874年(明治7年)4月22日… 神田 重雄(かんだ しげお、1874年(明治7年)4月22日 - 1947年(昭和22年)12月6日)は、日本の政治家。青森県八戸市の2代目~4代目市長。八戸港の修築に尽力した。八戸市では岩岡徳兵衛と並んで名市長と讃えられる。 実弟に、毎日新聞社の主筆や東京本社代表取締役を務めた神田五雄がいる。 三戸郡湊村(現在の八戸市)に移住した斗南藩士の家に生まれる。 16歳から20歳までの間、郵便局を経営していた伯父を頼って根室に移り住み、学問を修め、伯父の下で働いた。 1894年に地元へ戻った後は湊尋常小学校教員を経て、1896年に湊村役場に勤め始める。1897年9月神戸で開かれた水産博覧会で、漁網の出展に携わったことをきっかけに長谷川藤次郎の影響を受けて、本格的に漁業に携わるようになった。
平山 為之助(ひらやま ためのすけ、1874年(明治7年)1… 平山 為之助(ひらやま ためのすけ、1874年(明治7年)1月29日 - 1960年(昭和35年)3月18日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会)、豪農、篤農家、実業家。五所川原銀行頭取。津軽鉄道社長。松木屋呉服店社長。陸奥銀行、佐々木銀行、青森貯蓄銀行、松木屋呉服店、津軽酒造各取締役。鳴海銀行監査役。 青森県北津軽郡栄村(現・五所川原市)生れ。平山雄太郎の長男。東奥義塾及び慶應義塾に学んだ。農業を営んだ。村会議員、青森県会議員同参事会員、衆議院議員に挙げられた。陸奥鉄道社長、国有化後に津軽鉄道の初代社長。 青森県北津軽郡栄村(現・五所川原市大字湊)にある平山為之助の住居は、1769年(明和6年)建立の古民家で、「旧平山家住宅」として国の重要文化財に指定され保存されている。
近藤 喜衛(こんどう ひろえ、1871年11月23日(明治4… 近藤 喜衛(こんどう ひろえ、1871年11月23日(明治4年10月11日)- 1961年(昭和36年)2月24日)は、日本の政治家。青森県八戸市の初代市長。 1871年(明治4年)に旧八戸藩士の家に生まれる。八戸高等小学校から研成学舎に入り、卒業後は小学校の教員となり、その後は教員をしながら東京専門学校に通った。その後、中退した。帰郷後に八戸の小学校の校長となった。1889年(明治22年)に八戸青年会に入会。1894年(明治27年)に八戸青年会を脱会し、政治団体「北辰会」を結成した。1907年(明治40年)5月、八戸町助役となり間もなく町長に就任したが、同年9月16日に停職となった。1908年(明治41年)に地元紙「奥南新報」を創刊した。
津島 源右衛門(つしま げんえもん、1871年8月3日〈明治… 津島 源右衛門(つしま げんえもん、1871年8月3日〈明治4年6月17日〉 - 1923年〈大正12年〉3月4日)は、日本の政治家、実業家、青森県多額納税者、資産家。衆議院議員(青森県郡部選出、当選1回)。貴族院議員。族籍は青森県平民。 小説家太宰治の父である。孫は俳優の津島康一、小説家の津島佑子、小説家の太田治子、曾孫は政治家の津島恭一、政治家の津島淳、劇作家の石原燃などがいる。 青森県西津軽郡木造村(現つがる市)の松木家に、8代目七右衛門の四男として生まれる。旧名は永三郎。1888年、北津軽郡金木村(現五所川原市)の津島家の婿養子となる。1892年、「源右衛門」と改名。農業、商業を営む。 金木銀行設立の議が起ると率先して尽力する。
宇野 勇作(うの ゆうさく、1871年6月2日(明治4年4月… 宇野 勇作(うの ゆうさく、1871年6月2日(明治4年4月15日) - 1940年(昭和15年)10月8日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 陸奥弘前藩領津軽郡上十川村(青森県南津軽郡六郷村を経て現黒石市)に生まれる。南黒地方屈指の大地主。南津軽郡立中学校を卒業し、産馬、リンゴ園、酒造業、運送業などを営む。1915年(大正4年)青森県会議員に当選。1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙では青森県第3区から立憲政友会公認で出馬し、鳴海文四郎を700票余上回り当選する。 1927年(昭和2年)六郷村長となり、1932年(昭和7年)9月には青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、同月29日から1939年(昭和14年)9月28日まで在任した。
長内 則昭(おさない のりあき、1869年4月23日(明治2… 長内 則昭(おさない のりあき、1869年4月23日(明治2年3月12日) - 1937年(昭和12年)5月17日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 長内泰民の子として陸奥弘前藩領西津軽郡穂積村(青森県西津軽郡稲垣村を経て現つがる市)に生まれる。東奥義塾を経て弘前公立病院附属医学校に入る。1885年(明治18年)同校閉校に伴い東京慈恵医学専門学校に入学するが、政治家を志し中退し新聞記者となる。その後、北海道に渡り材木商を始めるが挫折し、帰郷する。また、日清戦争に従軍した。 1899年(明治32年)稲垣村助役、1903年(明治36年)郡議から青森県会議員に転じ、1906年(明治39年)第3代稲垣村長に就任する。
菊池 武徳(きくち たけのり、1867年8月22日(慶応3年… 菊池 武徳(きくち たけのり、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1946年(昭和21年)2月11日)は、ジャーナリスト、政治家。息子はジャズピアニストの菊池滋弥。 1887年(明治20年)4月に慶應義塾別科を卒業。ただちに『時事新報』の記者となり、1892年(明治25年)に『朝野新聞』に移りのちに社長。次いで雑誌『演芸画報』『新世紀』社長に就任し、自然主義派の小説家を排して村井弦斎の小説を掲載。1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙に青森県弘前市から出馬し、1915年(大正4年)まで、第10回総選挙を除き衆議院議員(4期)。 又新会の創立に参加し、代表幹事。のちに立憲政友会に移る。
小田桐 政信(おだぎり まさのぶ、慶応2年10月5日〈186… 小田桐 政信(おだぎり まさのぶ、慶応2年10月5日〈1866年11月11日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月)は、明治から昭和時代戦前の実業家、政治家。青森市会議長。 青森県士族の小田桐伊三郎の長男として生まれ、1897年(明治30年)家督を継ぐ。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を卒業し、1895年(明治28年)青森警察署に出仕する。 青森製材製柾社長、青森製氷・函館運送社・青森運送合同・運送相互保証各取締役、青森薪炭監査役などを歴任し、のち推挙され青森市参事会員となる。ほか、1941年(昭和16年)8月に青森県会議員に当選した。のち青森市会議長在任中に死去した。
白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - … 白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - 1915年4月11日)は、日本の政治家 、教育者。 白鳥家は、代々庄屋を務め、弘前藩主津軽家から苗字帯刀を許された家柄であった。2代藩主津軽信枚の生母・栄源院(津軽為信の側室。白鳥長久の娘とも。堀越城代・白取伊右衛門の妹。弘前藩家老職・白取瀬兵衛信次は甥にあたる)の生家の分家で、白鳥長久の末裔 という。白鳥氏は津軽家に仕えた後、「白鳥」を「白取」と改め、明治維新後に再び「白鳥」と改めた。 白鳥鴻彰は元治元年3月25日に津軽郡荒川村(現:青森市荒川)に、 白鳥慶一・いそ夫妻の長男として生まれる。幼名は初太郎または八太郎。 父・慶一は明治11年(1878年)に府県会規則が公布され、明治12年(1879年)3月県会の開催が決まると第1回の青森県会議員選挙に立候補、当選。
石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(18… 石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(1863年9月13日) – 昭和13年(1938年)9月12日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 弘前に生まれ、東奥義塾を卒業した。1889年(明治22年)、弘前市会議員となり、1891年(明治24年)には中津軽郡会議員となった。1896年(明治29年)、青森県会議員に選出され、1903年(明治36年)には議長に就任した。1907年(明治40年)、県会議長に再選され、弘前市会議長も兼ねた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1期務めた。1913年(大正2年)、再び市会議員となり、さらに1918年(大正7年)・1922年(大正11年)・1934年(昭和9年)の3度、弘前市長に選出された。
平山 浪三郎(ひらやま なみさぶろう、1862年12月19日… 平山 浪三郎(ひらやま なみさぶろう、1862年12月19日〈文久2年10月28日〉 - 1922年〈大正11年〉8月16日)は、日本の政治家(貴族院議員)、実業家、資産家、篤農家、青森県多額納税者、青森県の大地主。族籍は青森県平民。 陸奥国津軽郡五所川原村(現・青森県五所川原市)出身。平山助六の長男。1903年、家督を相続。農業を営む。 1917年(大正6年)青森県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年1月18日から1918年9月28日まで務めた。 五所川原銀行頭取、陸奥鉄道、五所川原銀行、青森県農工銀行各取締役などを務めた。 津軽地方の一大地主で、多額納税者である。住所は青森県北津軽郡五所川原町。
3代 加藤 宇兵衛(かとう うへえ、1862年1月27日(文… 3代 加藤 宇兵衛(かとう うへえ、1862年1月27日(文久元年12月28日) - 1929年(昭和4年)8月22日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。大地主。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(3期)。 造酒屋「沢成 (さわなり、屋号・沢屋)」の2代・加藤成之助の長男として、陸奥黒石藩領津軽郡黒石上町(青森県南津軽郡黒石町を経て現黒石市)に生まれる。1890年(明治23年)から青森県会議員に5回、1902年(明治35年)から衆議院議員に3回当選する。さらに1906年(明治39年)には青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、翌年1月18日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
工藤 善太郎(くどう ぜんたろう、1860年8月11日(万延… 工藤 善太郎(くどう ぜんたろう、1860年8月11日(万延元年6月25日) - 1932年(昭和7年)10月2日)は、明治から大正時代の政治家、地主、醸造家。衆議院議員(1期)。 のちの青森県南津軽郡大杉村(のち浪岡町、現在の青森市)に生まれる。地主で酒造業を兼業した。青森県師範学校卒業。1890年(明治23年)青森県会議員に当選し、通算5期14年在任したほか、1898年(明治31年)には県参事会員も務めた。ほか、大杉村会議員、南津軽郡会議員などを歴任した。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では青森県郡部から立憲政友会非公認で出馬し当選。1914年(大正3年)には政友会を脱党し、翌年の第12回総選挙では落選した。
6代 徳差 藤兵衛(とくさし とうべえ、1860年6月14日… 6代 徳差 藤兵衛(とくさし とうべえ、1860年6月14日(万延元年4月25日) - 1944年(昭和19年)10月19日)は、明治から昭和時代前期の政治家。衆議院議員(3期)。青森県東津軽郡筒井村長。 陸奥弘前藩領津軽郡原別村(青森県東津軽郡原別村を経て現青森市原別)の小笠原家に生まれ、筒井村(筒井町を経て現青森市筒井)の徳差家の婿養子となる。小学校教員、戸長、村連合会議員、学区会議員、同議長、学務委員、村会議員、東津軽郡会議員などを経て、1890年(明治23年)より青森県会議員を3期務めたのち1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。第6回、第7回総選挙でも当選し衆議院議員を3期務めた。
松下 賢之進(まつした けんのしん、1860年(万延元年) … 松下 賢之進(まつした けんのしん、1860年(万延元年) - 1930年(昭和5年))は日本の政治家。青森県弘前市長。 陸奥国津軽郡弘前に工藤秀三郎の次男に生まれる。後に松下長右衛門家を再興するため松下姓となる。青森県巡査から警部に進み、青森警察署長、警察部保安、衛生、警察の各課長を歴任。1899年、静岡県に移り警察に勤務し、間もなく山梨県の警察に勤務する。その後、山梨県北巨摩郡長となり、後に帰郷し、中津軽、三戸、南津軽の各郡長を務める。1921年、北海道に渡り、網走町長となった。1926年、憲政会から推されて弘前市長に就任した。市長は1930年まで務めた。
阿部 政太郎(あべ まさたろう、1859年12月24日(安政… 阿部 政太郎(あべ まさたろう、1859年12月24日(安政6年12月1日) - 1934年(昭和9年)10月4日)は、青森市長、衆議院議員(立憲政友会)。号は波城。 陸奥国南津軽郡浪岡村(現在の青森県青森市)出身。1878年(明治11年)、青森県師範学校予科を卒業し、小学校教員となった。ついで青森県医学校監事補、青森県御用掛を務めた。その後、官を辞して上京し、明治法律学校(現在の明治大学)で学んだ。 帰郷後、南津軽郡会議員に選出され、さらに青森県会議員に選出された。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。その後、1917年(大正6年)と1925年(大正14年)の2度青森市長に選出された。
竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年… 竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年3月21日) - 1929年(昭和4年)12月24日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、新聞経営者。衆議院議員(1期)。 弘前藩士・竹内多作の長男として弘前城下(現青森県弘前市)に生まれる。廃藩後、一家は南津軽郡浅瀬石村(現黒石市)へ移住する。ついで黒石町に住んだ。1877年(明治10年)召募巡査として西南戦争に参加し、その帰郷の際に政治家を志した。1886年(明治19年)黒石の政治結社益友会の常任書記に任じた。ほか、東津軽郡書記、戸長、山形村長、南津軽郡会議員、同参事会員などを歴任した。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では青森県郡部から出馬し当選。
佐藤 源蔵(さとう げんぞう、1857年11月20日(安政4… 佐藤 源蔵(さとう げんぞう、1857年11月20日(安政4年10月4日)- 1937年(昭和12年)1月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 陸奥国津軽郡畑中村(現在の南津軽郡田舎館村)に生まれる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を持つ大地主 佐藤治郎左衛門の長男。 その後、1889年(明治22年)の 町村制施行とともに田舎館村収入役に就任し、2期務める。1905年(明治38年)佐藤、田沢周助(田沢吉郎の父)、宮舘貞吉の提唱により信用組合を創立し、組合長に就任。衆議院議員の加藤宇兵衛や宇野清左衛門と共に、黒石銀行取締役や津軽銀行取締役などを歴任し、県内での銀行の普及に努めた。
伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9… 伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9月9日) - 1926年(大正15年)8月5日)は、日本の明治より大正期にかけての医師・政治家・思想家。現在の青森県出身で、青森県医師会会長や弘前市長、衆議院議員を歴任した。今東光の母方の伯父にあたる。 1857年(安政4年)旧暦9月9日の重陽節句の日に、現在の弘前市元長町において、津軽藩典医伊東家久・もと夫妻の次男として生まれる。幼名は滝次郎と称した。 1865年(慶応元年)、原子塾に入塾。後に黒滝学校に転じ、1868年(明治元年)藩校稽古館に入学。1871年(明治4年)藩命により英学修行を命じられ、英学塾(翌年東奥義塾と改名)に入塾。
関 春茂(せき はるしげ、1857年5月8日(安政4年4月1… 関 春茂(せき はるしげ、1857年5月8日(安政4年4月15日) - 1939年(昭和14年)2月26日)は、日本の政治家。衆議院議員、青森県八戸町長。 八戸藩士・関彦市の息子として八戸城下で生まれる。1875年(明治8年)に蛇口胤親によって開設された八戸で初の英学校「開文舎」で学ぶ。翌年に陸奥国八戸光学会でギリシア正教の洗礼を受ける。1881年(明治14年)に明治天皇が八戸に巡幸した際には漢詩の祝詞を贈ったこともある。 1888年(明治21年)に青森県会議員に初当選、翌年に奈須川光宝らと自由党系の政治結社である八戸土曜会を結成した。1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙で青森県郡部から選出され、衆議院議員に1期在任した。
芹川 得一(せりかわ とくいち、1857年(安政4年) - … 芹川 得一(せりかわ とくいち、1857年(安政4年) - 1923年(大正12年)2月)は日本の政治家。青森県青森市長。 陸奥国津軽郡弘前で津軽藩士芹川高正の家に生まれる。東奥義塾に入り、キリスト教に入信する。卒業後は同塾の教師となった。1889年、弘前市発足後の弘前市会議員選挙に出馬して当選する。2年後の1891年の府県制施行後の青森県会議員選挙に出馬して当選し、連続5期務める。この間、県参事員も務めた。 1904年1月に青森市長に就任。在任中に青森港の外国貿易特別輸出港の指定に尽力、それが実現した。また、1908年に青森を発着とする青函連絡船が就航した。さらに上水道整備に着手した。 市長は1908年まで務め、退任後は第五十九銀行頭取に就任した。
樋口 喜輔(ひぐち きすけ、1856年8月11日(安政3年7… 樋口 喜輔(ひぐち きすけ、1856年8月11日(安政3年7月11日) - 1933年(昭和8年)11月10日)は、青森県出身の政治家、実業家。 安政3年(1856年)、南津軽郡浪岡村(浪岡町を経て現青森市)に山内伝三郎の三男として生まれた。 一代で財を築き、当時の市財界の指導的立場に立つとともに、町政・市政にも関与。 明治25年に町会議員に当選して以来、20年にわたって町会・市会議員を務め、明治43年には市会議長に就任。明治45年には衆議院に当選(政友会)。 この間、青森港第2期拡張工事、水道事業の開始などに尽力。 大正10年青森貯蓄銀行(のち,みちのく銀行)を設立,頭取となる。他に、第五十九銀行監査役,青森電灯取締役などもつとめた。
市田 兵七(いちた/いちだ ひょうしち、1856年4月29日… 市田 兵七(いちた/いちだ ひょうしち、1856年4月29日(安政3年3月25日) - 1914年(大正3年)5月29日)は、明治時代の政治家、銀行家。衆議院議員(2期)。 陸奥弘前藩領津軽郡木作新田(青森県西津軽郡木造町を経て現つがる市)に生まれる。近江国神崎郡市田村(滋賀県神崎郡竜田村、北五個荘村、五個荘町を経て現東近江市)を本拠とした市田家の子孫。1885年(明治18年)西津軽郡会議員に当選し、議長代行者を務める。1891年(明治24年)には青森県会議員となり、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙では工藤行幹の急死に伴う補欠選挙で当選した。第10回総選挙でも憲政本党の非公認で出馬し当選。
奈須川 光宝(なすがわ みつとみ、1855年9月2日(安政2… 奈須川 光宝(なすがわ みつとみ、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1926年(昭和元年)12月29日)は、日本の政治家。青森県八戸町長、衆議院議員。 八戸城下の八戸藩士川勝家の子として生まれる。1862年(文久2年)に奈須川光武の養子となる。八戸初の英学校である開文舎で英語などを学び、1875年(明治8年)に八戸小学校の教諭となる。 1885年(明治18年)に青森県会議員に初当選。1888年(明治21年)に県会副議長を務め、翌年に自由党系の政治結社である八戸土曜会を結成した。 1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に青森県第1区から出馬し当選。その後、第5回、第6回総選挙で当選し、衆議院議員を通算三期務めた。
小山内 鉄弥(おさない てつや、嘉永6年7月3日(1853年… 小山内 鉄弥(おさない てつや、嘉永6年7月3日(1853年8月7日) – 明治44年(1911年)11月23日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 津軽藩士小山内連司の子として弘前に生まれる。1868年(慶応4年)2月、海岸警備のため平舘に派遣され、翌年には箱館戦争に参加し、旧幕府軍と戦った。1877年(明治10年)、警視局に出仕し、三等少警部心得、警部補、二等警部を歴任したが、ほどなくして辞職した。辞職後は郷里に帰り、北津軽郡相内村に協就社という牧場を開いた。 1884年(明治17年)、県会議員に当選し、1889年(明治22年)には議長に就任した。日清戦争の際には第1師団司令部に属して視察に赴き、実際に戦闘にも参加した。
4代 松木 彦右衛門(まつき ひこえもん、1851年(嘉永4… 4代 松木 彦右衛門(まつき ひこえもん、1851年(嘉永4年11月) - 1921年(大正10年)1月9日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 弘前城下松森町(弘前松森町を経て現弘前市松森町)で酒造業・松木家に生まれる。1867年(慶応3年)以降、弘前藩御用達となり、ついで松前商社頭取となった。1894年(明治27年)弘前両益銀行を創立し頭取に就任。1898年(明治31年)弘前銀行取締役を経て、のち第4代頭取となる。 そののち弘前電燈発起人筆頭を経て、1899年(明治32年)10月、青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年11月21日から務め、任期途中の1902年(明治35年)6月13日に辞職して、宮本甚兵衛にその職を譲った。
寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年… 寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年5月9日)- 1917年(大正6年)11月17日)は、明治期の教育者・政治家(立憲政友会所属)。勲四等。 弘前藩士の子。藩校「稽古館」で国学漢学を修めたのち、藩命により箱館でロシア正教会伝道者ニコライよりロシア語を学び、1869年(明治2年)には慶應義塾で政治学・法律学を修める。南部盛岡藩征討、箱館の乱、賊徒追討で軍功を挙げ藩主より金百を賜る。 その後、教育者として弘前英漢学校英学係、一等教授兼幹事、小学校教員、同校長を務める。また。政治家として土手町会議員、同学区会議員、郡町村連合会議員、同副議長、青森県会議員、同副議長、議長などを歴任。
源 晟(みなもと あきら、1850年(嘉永3年8月) - 1… 源 晟(みなもと あきら、1850年(嘉永3年8月) - 1918年(大正7年)9月29日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。弁護士。日本ハリストス正教会洗礼者(霊名パウェル)。衆議院議員(2期)。旧姓・河原木。幼名は滝蔵。 八戸藩士。祐筆を務めた河原木弥兵衛の九男に生まれる。藩学校で漢学や洋学を修めたのち明治維新前後は八戸藩学二等寮長となり、1871(明治 4)年5月に東京に遊学した。1872年(明治5年)壬申戸籍編成の時、八戸に伝わる義経伝説にちなんで、源晟と姓名を改める。 21歳で代言人となったのち、公娼廃止運動や救貧運動的な考えを持ちギリシャ正教に傾倒する。1876年(明治9年)陸奥国八戸光栄会を設置し関春茂や久保忠勝(のち鮫村長)らと共に沢辺琢磨より八戸初の洗礼を受ける。
本多 庸一(ほんだ よういつ、1849年1月7日(嘉永元年1… 本多 庸一(ほんだ よういつ、1849年1月7日(嘉永元年12月13日) - 1912年(明治45年)3月26日)は、日本のキリスト教伝道者・牧師・教育者・政治家。日本メソヂスト教会の初代監督。青森県弘前市生まれ。新島襄、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。 本多の先祖は、徳川家譜代の本多氏の流れを汲む。 弘前藩士、石高300石の本多八郎左衛門久元(1823年-1896年)と本多トモの長男として1848年(嘉永元年)に弘前城下在府町に生まれる。幼名を徳蔵と言った。祖父、東作久貞は藩の要職を歴任した人物であった。 1858年、10歳より弘前藩の藩校稽古館で漢書の素読、儒学を学んだ。
稲城 篤実(いなき あつみ、1849年(嘉永2年) - 19… 稲城 篤実(いなき あつみ、1849年(嘉永2年) - 1918年(大正7年))は、日本の政治家。青森県八戸町長。 八戸城下の下組町に生まれる。町村制が成立する直前に八戸町の戸長となり、1889年(明治22年)から1893年(明治26年)まで八戸町長を務める。 1894年(明治27年)からは青森県立八戸中学校(後の青森県立八戸高等学校)の書記となり、死去するまで務めた。 八戸町役場が発足した時に、戸長役場の職員がそのまま引き継がれた。町村制施行により、それまで三戸郡役所が受け持っていた学校の授業料徴収や町税徴収の事務が町役場に移管されたが、新制度への対応がスムーズに行われず、出納事務に不手際が続出する事態となった。
宮本 甚兵衛(みやもと じんべい、1848年(嘉永元年8月)… 宮本 甚兵衛(みやもと じんべい、1848年(嘉永元年8月) - 1932年(昭和7年)1月9日)は、明治から昭和時代初期の政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・小野。 小野七郎の長男として弘前城下桶屋町(弘前桶屋町を経て現弘前市桶屋町)に生まれ、のち先代宮本甚兵衛の養嗣子となる。幼少期は下学校に通い、13歳から17歳までは弘前東長町の丸金、荒関小間物店で見習奉公する。17歳の時独立し、弘前土手町に小間物店を開業。東京から品物を仕入れ、数年のうちに業績を大きく伸ばした。弘前市が発足すると第1回市会議員選挙に当選。ほか、中津軽郡町村連合会議員、弘前市参事会員、同市第4区会議員、同市所得税調査委員などを歴任した。
菊池 九郎(きくち くろう、1847年10月26日(弘化4年… 菊池 九郎(きくち くろう、1847年10月26日(弘化4年9月18日) - 1926年(大正15年)1月1日)は、日本の武士(弘前藩士)、教育者、官吏、政治家。東奥義塾創立者。新聞『東奥日報』創刊者。東津軽郡郡長、初代・第7代弘前市長、山形県知事、農商務省農務局長、衆議院全院委員長等を歴任。諱は武行。 「東奥の西郷隆盛」と言われ絶賛された。正五位勲四等旭日小綬章。 弘前藩(津軽藩士)・菊池新太郎の長男として弘前城下に生まれる。幼名は喜代太郎。 藩校・稽古館に学び、皇漢の学を修め、1864年(元治元年)より藩の勤務。藩校・稽古館で司監を務める。戊辰戦争に際して藩論が新政府支待に傾くと脱藩して庄内藩に向かう。
5代淡谷 清蔵(あわや せいぞう、1846年11月11日(弘… 5代淡谷 清蔵(あわや せいぞう、1846年11月11日(弘化3年9月23日) - 1923年(大正12年)7月10日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、青森市長。幼名・清作。 陸奥国津軽郡青森(現青森県青森市)で、淡路島を祖とする呉服商「大世」の家に生まれる。成人となり家業に従事し、安方町組頭となる。1889年(明治22年)5月22日に清蔵と改名した。同年、青森町会議員に当選した。1891年(明治24年)、銀行に類似した「盛融会」(ため講)を創立。1892年(明治25年)にも町会議員に当選したが、1895年(明治28年)4月に辞職した。その後、商業会議所会頭、農工銀行取締役、青森電燈会社取締役、青森倉庫会社社長、青森貯蓄銀行専務取締役、青森銀行頭取、第五十九銀行取締役などを務めた。
大坂 金助(おおさか きんすけ、1845年11月26日〈弘化… 大坂 金助(おおさか きんすけ、1845年11月26日〈弘化2年10月27日〉 - 1925年〈大正14年〉3月12日)は、日本の政治家(貴族院議員、衆議院議員、青森市会議員)、青森県の大地主、醸造家、青森県多額納税者、資産家、実業家。青森商業会議所会頭。族籍は青森県平民。 陸奥国津軽郡蜆貝村(現・青森県青森市)出身。大坂彌吉の長男。漢学を修めた。幼くして両親と死別して孤児となった。一時ヤクザの世界に身を置いた。塩町に貸座敷・大金楼を開業した。のち酒造業、質屋を開いた。清酒醸造兼金銭貸付業を営んだ。 青森商業銀行、青湾貯蓄銀行、青森電燈会社、青森瓦斯会社などを設立した。青森商業銀行、青湾貯蓄銀行各頭取、青森電燈、青森倉庫、青森瓦斯各社長、青湾貯蓄銀行、歌舞伎座各取締役などをつとめた。
笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年… 笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年3月3日) - 大正4年(1915年)9月29日)は日本の探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代青森市長も務めている。 また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。 1845年(弘化2年)、陸奥国弘前在府町(現・青森県弘前市在府町)に、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれる。藩校稽古館(現・東奥義塾高等学校)で学んだ後、弘前藩・青森県に勤め、中津軽郡長も務めるなどしたが、1881年(明治14年)に辞職。
工藤 行幹(くどう ゆきもと、天保12年12月28日(184… 工藤 行幹(くどう ゆきもと、天保12年12月28日(1842年2月8日) – 明治37年(1904年)4月21日)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党)。 弘前藩士櫛引儀三郎(錯斎)の子として生まれ、幼名を峯次郎といった。19歳で同藩士工藤秀四郎の養子となり、姓名を改めた。戊辰戦争の際には、奥羽越列藩同盟のために奥羽諸藩を奔走したが、弘前藩が新政府軍に帰順すると、禁錮となった。しかしすぐに赦免され、参軍助役として秋田や水沢口で盛岡藩と戦い、盛岡に入城し、さらに箱館にも出陣した。 1869年(明治2年)、公議所書記に選ばれて上京。さらに民部省土木権少祐に任ぜられ、各地の河川の調査に赴き、土木権少祐、土木中属に昇進した。
初代佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、旧姓・中村、1841年… 初代佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、旧姓・中村、1841年8月1日〈天保12年6月15日〉 - 1914年〈大正3年〉12月3日)は、日本の商人(呉服商)、実業家、政治家(貴族院多額納税者議員)、青森県の大地主、青森県多額納税者。五所川原銀行頭取。族籍は青森県平民。勲四等。 陸奥国津軽郡金木村(現青森県五所川原市)の農家に生まれた。中村半治郎の長男。12歳のときに五所川原の呉服商に丁稚奉公。佐々木喜太郎の養子となった。1867年に分家し、一家を創立した。分家した嘉太郎が木綿と雑貨を扱うことにした店の屋号は「又古」だった。 1889年以降、北津軽郡会議員、県税調査委員等を務めた。1895年、津軽鉄道の設立に参画した。
白鳥 慶一(しらとり けいいち、1840年(天保11年8月)… 白鳥 慶一(しらとり けいいち、1840年(天保11年8月) - 1913年(大正2年)5月5日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 のちの青森県東津軽郡荒川村(現青森市)の地主の家に生まれる。16歳にして戸長となり、浦町組の組長を兼ねた。のち青森県会議員を4期務めた。ほか、同常置委員を務めた。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では青森県第1区から無所属で出馬し当選。自由党革新派に所属し、青森の中心街にあった監獄を荒川村に誘致するとともに柳町と同村間に道路を敷設するなど功績を残した。