むの たけじ(本名:武野 武治、1915年1月2日 - 20… むの たけじ(本名:武野 武治、1915年1月2日 - 2016年8月21日)は、日本のジャーナリスト。太平洋戦争従軍記者としての経験・反省から、戦後に反戦・平和を訴え続けた。 新聞『たいまつ』を創刊。農村・農業の進路、出稼ぎ問題、農民運動の在り方、地方文化やサークル活動について追求し、「自分の言葉に自分の全体重をかける」記事を書き続けた。 秋田県仙北郡六郷町(現:美郷町)の小作農民の家に生まれる。県立横手中学校(現:秋田県立横手高等学校)で教師を務めていた石坂洋次郎 に、国語・作文・修身を教わった。1932年に東京外国語学校(現:東京外国語大学)西語部文科(文学)に入学。親の仕送りで学生生活を続けることが難しくなったので、1学年を終わったところで外務省の書記生になろうとしたが「満18歳では若すぎる」との理由で願書は却下された。
石田 博英(いしだ ひろひで、1914年(大正3年)12月1… 石田 博英(いしだ ひろひで、1914年(大正3年)12月12日 - 1993年(平成5年)10月14日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等、勲章は旭日大綬章。衆議院議員(14期)。通称は名を音読みした「バクエイ」。所属した自由民主党では1969年から1971年まで党内派閥の二日会を率いた。 政務では労働大臣(第14・17・18・22・23・39代)、運輸大臣(第47代)、内閣官房長官(第16・17代)を、衆議院では議院運営委員長(第6代)などを歴任した。 政界引退後の晩年および死後に、ソビエト連邦のスパイであったことを指摘する情報が複数発見されたが、立件されなかった(後述)。 秋田県山本郡二ツ井町(現能代市)で生まれ、大館市で育つ。
佐藤 鉄章(さとう てっしょう、1914年1月9日 - 19… 佐藤 鉄章(さとう てっしょう、1914年1月9日 - 1990年3月20日)は、日本の小説家、古代史家。 秋田県大館市生まれ。本名・有次郎。1941年文部省中等教員検定合格。秋田県下で教育生活を送る傍ら、執筆をつづけ、1949年「北方文芸」主宰、1955年「奥羽文学」を興して主幹となる。1970年上京。息子に佐藤有文。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
谷藤 正三(たにふじ しょうぞう、1914年1月6日 - 2… 谷藤 正三(たにふじ しょうぞう、1914年1月6日 - 2004年6月3日)は、日本の建設官僚。元北海道開発事務次官。工学博士(京都大学、1949年)(学位論文「路盤に関する土質力学的研究」)。秋田県河辺郡浜田村(のちの秋田市)出身。
渡辺 喜恵子(渡邊 喜惠子、わたなべ きえこ、1913年(大… 渡辺 喜恵子(渡邊 喜惠子、わたなべ きえこ、1913年(大正2年)11月6日 - 1997年(平成9年)8月8日)は日本の小説家。本名は木下喜惠子。秋田県出身者として初めて、直木賞を受賞した。 秋田県仙北郡檜木内村(後の西木村、現:仙北市)生まれ。2歳の時、父・栗生沢米太郎が鷹巣町(現:北秋田市)に木材工場を創業し転居する。能代高等女学校(現:秋田県立能代北高等学校)卒業後の1931年(昭和6年)に上京。1935年(昭和10年)、画学生・渡辺茂との結婚のため広島へ転地する。しかし、1939年(昭和14年)、25歳のときに夫が病死。1942年(昭和17年)、亡き夫のことを綴った短編小説集『いのちのあとさき』を刊行し創作活動に入る。
三浦 淳史(みうら あつし、1913年11月1日 - 199… 三浦 淳史(みうら あつし、1913年11月1日 - 1997年10月13日)は、日本の音楽評論家。秋田市生まれ。イギリス音楽の第一人者として知られた。 父は北海道帝国大学工学部で冶金学の教授を務めていた。札幌第二中学校(現札幌西高等学校)で伊福部昭、佐藤忠良らと知り合う。北大予科在学中の1934年、伊福部らと共に「新音楽連盟」を結成する。当時に映画『慕情』のモデルとなるイアン・モリソン(映画ではマーク・エリオット)に英語のてほどきを受ける。その後“落第”して東北帝国大学に転じる。1940年、同大学法文学部を卒業する。ここでは村岡典嗣による日本思想史の講義を受講したという。北大予科在学中から音楽誌『月刊楽譜』に「札幌楽信」等を寄稿、戦後音楽誌の復活に伴い、音楽ジャーナリズムで活躍するようになった。
山崎 五郎(やまざき ごろう、1913年(大正2年)9月8日… 山崎 五郎(やまざき ごろう、1913年(大正2年)9月8日 - 1976年(昭和51年)4月6日)は、昭和期の労働官僚、政治家。参議院議員(2期)。 秋田県山本郡上岩川村(琴丘町上岩川を経て現三種町上岩川)で生まれる。1932年(昭和7年)秋田県立能代中学校(現秋田県立能代高等学校)を卒業した。 秋田県庁に入庁。内務省に転じ、戦後は厚生省労政局勤務、労働省労政局労働組合課長、公共企業体等労働委員会事務局長、中央労働委員会事務局長などを歴任した。 1967年(昭和42年)1月の第31回衆議院議員総選挙で秋田県第1区から自由民主党公認で出馬して落選。1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙で秋田県地方区から自民党公認で出馬して初当選。
大江宏(おおえ ひろし、1913年(大正2年)6月14日 -… 大江宏(おおえ ひろし、1913年(大正2年)6月14日 - 1989年(平成元年)3月3日)は、日本の建築家。 モダニズムと日本の伝統様式とを決して融合することなく「混在併存」させた建築意匠で知られる。また、教育者として法政大学建築学科の礎を築き、多くの後進を育成した。主な作品に法政大学、香川県立丸亀武道館、普連土学園、国立能楽堂など。日本芸術院会員。勲三等旭日中綬章叙勲。秋田県秋田市生まれ。 父の大江新太郎は明治神宮造営技師を務め、日光東照宮の修理、および明治神宮宝物殿、神田明神の設計を手がけた建築家。長男の大江新は建築家・法政大学名誉教授。
岩澤 正二(いわさわ まさじ、1913年4月25日 - 20… 岩澤 正二(いわさわ まさじ、1913年4月25日 - 2007年5月16日)は、日本の実業家。住友銀行副頭取や、マツダ会長を務めた。 現在の秋田県大館市出身。大館中学校(現秋田県立大館鳳鳴高等学校)、小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を経て、1938年3月、東京商科大学(現一橋大学)卒業。大学同期の小林政夫、坪井東、小泉明、横山宗一らと同期会を結成。4月に住友銀行(現三井住友銀行)に入社するも歩兵第17連隊に応召し満州に駐屯。甲種幹部候補生に合格後、1940年に少尉任官し、連隊旗手を拝命。1941年春の召集解除後に復職し、1944年に本店調査部勤務となるが、同年再召集され秋田鉱山専門学校の配属将校となり、勤労動員の引率で東北・北海道各地の鉱山を回った。
畑福 俊英(はたふく としひで、1913年1月31日 - 1… 畑福 俊英(はたふく としひで、1913年1月31日 - 1981年5月23日)は、秋田県出身のプロ野球選手(投手。右投右打)、野球指導者。 横手中学から専修大学を経て、1934年に大日本東京野球倶楽部(翌1935年より東京巨人軍)結成へ参加しプロ入り。日本プロ野球最初のリーグ戦(日本職業野球連盟)を開始した1936年7月3日の対大東京戦に先発登板し6イニングを1失点に押さえて巨人球団史上初の公式戦勝利投手となった。1937年以降は新設したイーグルス(1940年途中より黒鷲軍、1942年より大和軍)へ移籍。1937年に春季・秋季シーズン合わせて32敗を喫しているが、これはプロ野球記録とされている中山正嘉の29敗(1940年。
塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日… 塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日 - 1994年(平成6年)1月8日)は、日本の実業家。羽後銀行頭取、北都銀行初代会長。 塩田団平の次男として、秋田県平鹿郡雄物川町(現:横手市)に生まれる。 秋田県立秋田中学校、慶應義塾大学法学部卒業後、第百銀行(後に三菱銀行に吸収合併、現在の三菱UFJ銀行)に入行。21年あまり在籍し品川支店次長等を歴任する。 1958年には、羽後銀行に転じ、その後頭取に昇格する。頭取在任時には、本店の横手市から秋田市への移転や本店新館の建設、さらにはオンラインシステムの導入、店舗網の整備等、経営の近代化を推進した。1988年には代表取締役会長に退き、1993年に秋田あけぼの銀行との合併で誕生した北都銀行会長に就任した。
オリエ 津阪(オリエ つさか、1912年12月24日 - 2… オリエ 津阪(オリエ つさか、1912年12月24日 - 2003年)は、日本の俳優。松竹少女歌劇の男役スターとして、1930年代のレビュー・ブーム期に同じ松竹の水の江瀧子や宝塚少女歌劇の小夜福子、葦原邦子らと共に「男装の麗人」として人気を博した。松竹歌劇の黄金時代を築いた人物として水の江と並び称される。松竹退団後は劇団主宰などを経て1950年代初頭まで映画にも出演。その後は日本舞踊の師匠となり表舞台からは退いた。 1912年、秋田県秋田市下米町に添田浩道、貞夫妻の長女(一人娘)として生まれる。本名は添田テフ。後に「順真(よしみ、『よし美』とも)」と改めている。1921年に東京府王子区中野に移り住み、以後同地で育った。
石田 東四郎(いしだ とうしろう、1912年8月 - 200… 石田 東四郎(いしだ とうしろう、1912年8月 - 2009年6月25日) は、日本の陸軍軍人。太平洋戦争終結から48年目の1993年、中国河南省南召県から帰国した。 1912年8月、秋田県平鹿郡増田町土肥館(現在の横手市)に生まれる。1929年、満17歳で陸軍に志願し秋田歩兵第17連隊に配属された。1936年、一時除隊し、秋田県庁に勤務する。 1937年、輜重特務兵として再召集され第10師団架橋材料中隊(通称成谷部隊、長:成谷兵輔輜重兵少佐)監視隊に属しており、皆川字右衛門工兵少尉指揮のもと、黄河の渡河作戦に従事したことが美談として報じられている。中国河南省封丘に渡り、宣撫官として秋田部隊で情報収集任務に従事する。
佐々木 吉蔵(ささき きちぞう、1912年3月10日 - 1… 佐々木 吉蔵(ささき きちぞう、1912年3月10日 - 1983年1月23日)は、日本の陸上競技選手。 秋田県鹿角郡小坂村(現在の小坂町)に生まれる。1929年に大館中学校(現在の秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業し、小坂鉱山花岡支社に入社し、明治神宮大会の男子100mで優勝する。 翌年、東京高等師範学校に進み、日本陸上競技選手権大会の男子200mで優勝し、ついで1931年には一般対抗学生選手権の4×100mリレーの学生チームの第2走者として、41秒6で当時の日本記録を樹立した。 1932年ロサンゼルスオリンピック代表に選ばれたが、怪我のために辞退した。つづく1936年ベルリンオリンピックでは男子100メートルに出場した。
阿部 竹松(あべ たけまつ、1912年(明治45年)3月7日… 阿部 竹松(あべ たけまつ、1912年(明治45年)3月7日 - 1973年(昭和48年)4月13日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 秋田県雄勝郡で生まれる。北海道上川郡和寒村(現和寒町)に家族と共に移住。1923年(大正12年)和寒尋常高等小学校を卒業。その後、秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を中退した。 農民運動にかかわった後、1937年(昭和12年)三菱鉱業(現三菱マテリアル)に入社し大夕張砿業所(三菱大夕張炭鉱)保安係となる。1945年(昭和20年)大夕張炭鉱労働組合の結成に参画し副委員長となる。日本社会党北海道連の結成に加わる。1947年(昭和22年)大夕張炭鉱労組委員長に就任し、同年、夕張市議会議員となる。
日本民謡名人位 ・初代浅野 梅若(あさの うめわか、1911… 日本民謡名人位 ・初代浅野 梅若(あさの うめわか、1911年 - 2006年8月4日、本名・浅野 保二(あさの やすじ))は、秋田県秋田市出身の日本の民謡歌手、三味線奏者。 秋田県由利郡大正寺村神ケ村(後に、河辺郡大正寺村、河辺郡雄和村、河辺郡雄和町を経て、現在は秋田市雄和神ケ村)生まれ。「民謡王国・秋田」を確立させた。秋田民謡界のみならず、日本民謡界の大御所であった。日本民謡梅若流梅若会の初代宗家。 1962年に内弟子として迎え、民謡日本一となった二代目浅野梅若(旧名・浅野和子)は養女(1973年より)であり、梅若流梅若会の現宗家。2代目梅若の夫は、梅若芸能企画の代表者で、梅若流大師範、秋田県民謡協会公認教授、三味線・尺八奏者の梅若梅貢、その長女は同じく大師範、秋田県民謡協会公認助教授の浅野江里子、同長男は同名取大師範、秋田県民謡協会公認助教授で梅貢の直弟子に当たる三味線奏者の梅若鵬修である。
大滝 重直(おおたき しげなお、1910年11月5日 - 1… 大滝 重直(おおたき しげなお、1910年11月5日 - 1990年7月4日)は、日本の小説家。 秋田県生まれ。1929年秋田県立本荘中学校卒。秋田魁新報記者を務めたのち、島木健作に師事。1937年から満洲に渡り現地農村を調査。1942年「解氷期」で大陸開拓文学賞受賞。1990年、前立腺癌のため死去。
阿部 秋生(あべ あきお、1910年 <明治43年> 10月… 阿部 秋生(あべ あきお、1910年 <明治43年> 10月24日 - 1999年 <平成11年> 5月24日)は、日本の国文学者。中古文学専攻。文学博士(論文博士・1959年)(学位論文『源氏物語研究序説』)。東京大学名誉教授。1983年勲二等瑞宝章受章。位階は正四位。妻は国文学者の阿部俊子。 秋田県秋田市生まれ。旧姓青柳。樺太で育つ。第一高等学校、東京帝国大学国文科卒、同大学院を1937年に退学、国民精神文化研究所助手を務める。 1943年、一高教授、1950年、東京大学教養学部助教授、1959年、東京大学教養学部教授。『源氏物語研究序説』で同年、文学博士の学位を取得。1966年、東京大学教養学部長。
小沢 三千雄(おざわ みちお、1910年10月23日 - 2… 小沢 三千雄(おざわ みちお、1910年10月23日 - 2006年2月6日)は、日本の元松川事件特別弁護人、元松川事件対策協議会事務局長。 秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市)の医師の次男。妻、尊子との間に二男一女を儲ける。長男は元千葉県松戸市議会議員の小沢暁民。 横手中学時代に文学サークル「幌馬車」を通じて社会主義に目ざめ、戦前は小作争議の指導者として知られた。 第二次世界大戦前から農民運動や社会運動などに関わり、戦後は秋田県の日本共産党幹部として労働運動に関わった。1949年(昭和24年)8月に福島県の東北本線松川駅付近で発生した列車転覆事故、いわゆる松川事件では、国鉄労働組合や東芝労組組合員の日本共産党員20名が逮捕。
児玉 政吉(こだま まさきち、1910年(明治43年)4月1… 児玉 政吉(こだま まさきち、1910年(明治43年)4月10日 - 1987年(昭和62年)10月27日)は、日本の政治家。秋田県鹿角市長。位階は従五位。 秋田県鹿角郡柴平村(のち花輪町、現・鹿角市)出身。1925年、柴平村立平本尋常高等小学校卒。1935年、三菱金属鉱業尾去沢鉱業所に入る。戦後、日本社会党に入り、1947年、尾去沢町議会議員に当選、3期務める。1959年、尾去沢町長に当選。鹿角市に合併するまで4期務めた。この間、鹿角郡町村会長、秋田県町村会副会長を務めた。1972年に鹿角市が発足、市政執行者となった。1976年、鹿角市長に立候補し、現職の阿部新を破って当選する。1980年に再選を目指したが、元市長の阿部新に敗れた。
國光 鉄太郎(くにひかり てつたろう、1910年1月10日 … 國光 鉄太郎(くにひかり てつたろう、1910年1月10日 - 1985年8月22日)は、楯山部屋、伊勢ヶ濱部屋に所属した元大相撲力士。13代濱風、8代谷川、6代君ヶ濱。本名は奥山 鐵太郎。現在の秋田県由利本荘市出身。171cm、84kg。最高位は東十両2枚目。 現在の由利本荘市の玉ノ池「光風園」で相撲を取っていたが、同郷の清瀬川敬之助(のち5代伊勢ヶ濱)にスカウトされ、その内弟子として、楯山部屋に入門し、1929年3月初土俵を踏んだ。四股名は師匠の8代楯山の元の四股名の国ノ音の国と、光風園の光から。故郷の有力者、須藤善一郎が命名した。1935年1月十両昇進、十両を通算で10場所務め、1941年1月引退し、13代濱風を襲名、主に師匠伊勢ヶ濱の秘書役を務めた。
佐々木 宗一郎(ささき そういちろう、1910年 - 199… 佐々木 宗一郎(ささき そういちろう、1910年 - 1997年12月20日)は秋田県横手市出身の洋画家。
田中 健吉(たなか けんきち、1909年(明治42年)12月… 田中 健吉(たなか けんきち、1909年(明治42年)12月22日 - 1955年(昭和30年)1月13日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員。 秋田県北秋田郡上川沿村(現大館市)で生まれる。 早くから労農運動に加わり、1930年、阿気村争議で検挙され懲役8ヵ月となるなど、何度も服役した。横手町会議員、秋田県会議員、同参事会員を務めた。 戦後、日本社会党に入党し、同党秋田県支部連合会長、同党中央委員、秋田県地方労働委員、同県農地改革推進協議会長、日本農民組合秋田県連合会長、同組合中央委員などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に秋田県選挙区から出馬して当選。第23回総選挙で秋田県第二区から出馬して再選され、衆議院議員を連続二期務めた。
石山 権作(權作、いしやま ごんさく、1909年(明治42年… 石山 権作(權作、いしやま ごんさく、1909年(明治42年)5月25日 - 1968年(昭和43年)8月20日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 秋田県秋田市手形字大沢で生まれる。1924年(大正13年)中通尋常高等小学校高等科を卒業した。 東北パルプ(現日本製紙)に入社。1948年(昭和23年)東北パルプ労働組合委員長に就任し、秋田市議会議員、秋田県労働組合会議議長、同顧問、秋田県労働金庫(現東北労働金庫)理事長、同顧問、全国紙パルプ労働組合連合会中央執行委員会、日本社会党秋田県本部委員長などを務めた。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙で秋田県第1区から社会党左派公認で出馬して次点で落選。
佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年4月3日 - 19… 佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年4月3日 - 1986年12月13日)は、日本の政治家、官僚。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(9期)、科学技術庁長官・通商産業大臣を歴任した。 秋田県河辺郡河辺町(後の秋田市)生まれ。秋田中学(後の秋田県立秋田高等学校)時代は野球部員として甲子園出場の経験がある。1933年東京帝国大学経済学部を卒業後、南満州鉄道に入社し、調査部に配属される。その後興亜院に転じ、ここで大蔵省出身の大平正芳、農林省出身の伊東正義らと知り合い、第二次世界大戦後も「九賢会」と称する会合を持って交流を深めた。以後企画院、大東亜省、内閣調査局にて調査官を歴任した。 戦後の1947年、経済安定本部に転じ、初代経済復興計画室長として、傾斜生産方式による政策の遂行に辣腕を振るった。
三船 留吉(みふね とめきち、1909年(明治42年)2月1… 三船 留吉(みふね とめきち、1909年(明治42年)2月10日 - 1983年(昭和58年)1月7日)は、日本の社会運動家、実業家。日本共産党員でありつつ、特別高等警察(特高)のスパイとして活動した。「小林多喜二を売った男」として知られている。 秋田県由利郡川内村(現由利本荘市)生まれ。1928年頃に上京し、旋盤工として働きながら、1930年10月、全国労働組合同盟(全労)亀戸分会に加入、東京・下町の労働運動に参加した。やがて非合法の組合運動に接近する中で、検挙・拘留を繰り返し、1930年頃警視庁特高課毛利基直属のスパイとなった。 1931年6月15日、コミンテルン上海出張所(極東部)組織部長イレール・ヌーランとその妻が上海租界警察に逮捕されるという「上海ヌーラン事件」を誘発した。
平野 光雄(ひらの みつお、1909年 - )は、時計史研究… 平野 光雄(ひらの みつお、1909年 - )は、時計史研究家。秋田県秋田市生まれ。小学校卒業後、鎌倉、東京に住む。1927年旧制鎌倉中学(現:鎌倉学園)卒。1931年東洋大学支那哲学科卒。株式会社第二精工舎嘱託。戦前からの時計収集家であり、戦後は『精工舎史話』などの社史をまとめる傍ら、1951年に発足した日本時計倶楽部の中心メンバーとして『時計文化』『日本時計倶楽部通信』などのガリ版刷機関誌を発行。時計に関する著書も多い。
内田武志(うちだ たけし、1909年 - 1980年12月3… 内田武志(うちだ たけし、1909年 - 1980年12月3日)は、日本の民俗学者。血友病で動けない体で研究を続け、菅江真澄研究の第一人者として知られる。柳田国男賞受賞者。 尾去沢鉱山碇発電所で働く修三とサトの二男・武として八幡平宮川村(現・秋田県鹿角市)に生まれる。大正12年(1923年)に鎌倉に転居したが関東大震災で家が全焼し、1年後に静岡へ転居、静岡商業学校に入学するも血友病を発病して退学。この頃蒲原有明の知遇を得て、柳田国男・渋沢敬三に師事し、昭和5年(1930年)に雑誌『⺠俗学』に「年中行事・鹿角郡宮川村地方」を発表、昭和11年には『鹿角方⾔集』を刊行した。 昭和20年、戦争により、親戚を頼って毛馬内に疎開し、江戸時代に東北の旅記録を残した菅江真澄の研究に没頭、翌年妹ハチとともに秋田市に転居し、柳田・渋沢の支援で「菅江真澄研究会」を設⽴。
大浪 妙博(おおなみ たえひろ、1908年9月1日 - 19… 大浪 妙博(おおなみ たえひろ、1908年9月1日 - 1985年7月7日)は、秋田県南秋田郡戸賀村出身で高島部屋に所属した力士。本名は石川 三治。187cm、101kg。最高位は東前頭3枚目。 1926年5月場所初土俵、1932年2月場所春秋園事件により幸運な十両昇進。十両では新十両の場所で8戦全勝優勝を果たすなど負け越しがなく、翌1933年1月に新入幕を果たした。連続6場所幕内を務めたのち、一度十両に陥落したが、再度十両優勝を果たしている(1936年1月場所)。1936年5月に再入幕、1940年1月場所には最高位である東前頭3枚目に進出、同年5月場所では横綱男女ノ川を倒して金星を獲得したが、翌1941年1月場所を全休してそのまま廃業した[要出典]。
上原 敏(うえはら びん、本名:松本 力治(まつもと りきじ… 上原 敏(うえはら びん、本名:松本 力治(まつもと りきじ)、1908年〈明治41年〉8月26日 - 1944年〈昭和19年〉7月29日)は、秋田県出身の歌手。 戦前に活躍した流行歌手で「妻恋道中」「裏町人生」などのヒット曲を持つが、第二次世界大戦で行方不明(のちに死亡認定)となった。最終学歴は専修大学卒業。 1908年(明治41年)に秋田県北秋田郡大館町(現:秋田県大館市)の商家「ネリヤ」で生まれる。旧制秋田県立大館中学校在学中からヴァイオリンに夢中になり、音楽の素養を身につけた。スポーツは野球を得意とし、専修大学商学部に入学後も東都大学野球連盟に選手として出場している。ポジションは投手で、1933年(昭和8年)春と1934年(昭和9年)春の東京五大学リーグ戦優勝に貢献し、4年生では主将を務めた。
平田 冨太郎(ひらた とみたろう、1908年5月22日 - … 平田 冨太郎(ひらた とみたろう、1908年5月22日 - 1995年3月20日)は、日本の社会学者。早稲田大学名誉教授。 秋田県横手市に生まれる。横手中学校(現・秋田県立横手高等学校)卒、早稲田第二高等学院卒、1931年早稲田大学政治経済学部卒。 1936年同助手、1938年講師、1941年助教授、1945年教授、1954-56年社会政策学会代表幹事、1964-66年社会政策学会代表幹事、1969-72年附属図書館長、1979年定年退任、名誉教授、日本社会事業大学学長・教授、86-92年日本生産性本部会長、91年退任、名誉教授、1955年「社会政策論研究 社会政策と資本主義との関連を中心として」で、経済学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。
海江田 譲二(かいえだ じょうじ、1908年3月1日 - 1… 海江田 譲二(かいえだ じょうじ、1908年3月1日 - 1986年4月11日)は、日本の俳優である。本名は上遠野 武史(かどの たけし)である。 1908年(明治41年)3月1日、秋田県北秋田郡大館町(現在の同県大館市)に上遠野武史として生まれる。 1930年(昭和5年)、同郷の映画監督・辻吉朗を頼って京都に移り、辻の所属する日活太秦撮影所に入社する。同年、辻監督による主演作『股旅しぐれ』で映画界にデビュー、つづいて大河内傳次郎が出演予定だった同監督の『大虚』の主演に急遽抜擢され、スターの道を歩み始める。1931年(昭和6年)、稲垣浩監督の『男達ばやり』で片岡千恵蔵と共演、翌1932年(昭和7年)には、辻監督の『沓掛時次郎』で主演する。
佐々木 康(ささき やすし、1908年1月25日 - 199… 佐々木 康(ささき やすし、1908年1月25日 - 1993年9月13日)は、日本の映画監督。法政大学本科国文科中退後、松竹、東映、東映テレビプロダクションに属した。早撮りの名人として知られ、松竹時代は歌謡映画、東映時代は時代劇映画、東映テレビ時代はテレビ時代劇のヒット作を連発する。映画作品168本、テレビ作品500本弱を撮った、典型的なプログラムピクチャーの監督である。 1908年、秋田県平鹿郡沼館村(のち雄物川町、現・横手市)沼館の大地主の家に生まれる。山形県立新荘中学校時代に映画に興味を持ち、1929年法政大学在学中に清水宏の助監督として松竹に入社。清水の盟友の小津安二郎組に移り、1931年助監督の身分のまま『受難の青春』で監督デビュー。
佐貫 亦男(さぬき またお、1908年(明治41年)1月1日… 佐貫 亦男(さぬき またお、1908年(明治41年)1月1日 - 1997年(平成9年)6月28日 )は、日本の航空技術者、航空宇宙評論家、作家、エッセイスト。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)生まれ。秋田県立横手中学校(秋田県立横手高等学校の前身)卒業、1931年(昭和6年)に東京帝国大学工学部航空学科を卒業した。 東京帝国大学卒業後、軍命で日本楽器製造(現ヤマハ)に赴きプロペラの設計を行う。陸軍の九七式戦闘機を担当した。1941年に、ユンカース社からフルフェザー機構・圧縮木材製プロペラ技術導入のため、第二次世界大戦最中のドイツに出張する。 しかし同年6月に、独ソ戦開戦のためにドイツからソビエト連邦に直行するシベリア鉄道経由の帰路が絶たれ、1943年11月まで在独し、その後中立国を迂回する形で帰国した。
柴田 安子(しばた やすこ、1907年9月26日 - 194… 柴田 安子(しばた やすこ、1907年9月26日 - 1946年7月27日)は、日本の画家。旧姓最上。最上広胖の娘。 1907年、秋田県大曲市で生まれる。但し、父広胖は1900年より貴族院議員になってすでに東京麹町に邸宅を構えていたので東京生まれの可能性が高い。母か禰。幼名義枝。父の帰省に伴い、度々秋田県角間川の尋常高等小学校に一時編入した。 1919年、安子に改名。 1921年、鎌倉女学校入学。 1923年、震災後東京にもどり、千代田高等女学校に編入、在学中から松岡映丘に師事。 1931年に由利本荘市出身の東洋史学者柴田宜勝と結婚。 1938年には新美術人協会を設立。しかしその同年、甲状腺の異常が見つかり手術を行った。
小畑 達夫(おばた たつお、1907年7月7日 - 1933… 小畑 達夫(おばた たつお、1907年7月7日 - 1933年12月24日、満26歳没)は、日本の社会運動家である。日本共産党の党員。1933年(昭和8年)、共産党内で宮本顕治、袴田里見らにより「特高警察のスパイ」の容疑をかけられ、査問を受けていた最中に死亡した(日本共産党スパイ査問事件)。宮本や袴田はこれにより、治安維持法違反のほか、不法監禁致死罪および銃刀法違反の罪に問われた。 1907年(明治40年)、秋田県北秋田郡二井田村(現大館市)に教員の長男として生まれた。母を幼少時に亡くし、父は小学校5年生のときに死亡、実母の妹イクに育てられた。秋田県立大館中学校に進学。伯父に大杉栄の弟子がいて、影響を受け在学中から公然と天皇制を批判していた。
矢田 津世子(やだ つせこ、本名矢田ツセ、1907年(明治4… 矢田 津世子(やだ つせこ、本名矢田ツセ、1907年(明治40年)6月19日 - 1944年(昭和19年)3月14日)は、日本の小説家、随筆家。秋田県南秋田郡五城目町出身。はじめモダン派であったが純文学に転身し、1936年に小説『神楽坂』が第3回芥川賞候補に選ばれる。文章力と美貌を兼ね備えた女流作家として人気を集めた。坂口安吾が愛した女性として知られる。大和生命第5代社長の矢田不二郎は兄。 秋田県五城目町古川町(現在の同町下タ町)に、矢田鉄三郎(1866-1925)、チヱ(1869—1944)の四女として生まれる。父鉄三郎は秋田市に居住していたが、当時の五城目町長に請われて1898年に同町の助役に就任し、本籍ごと一家をあげて五城目町に移っていた。
根本 龍太郎(ねもと りゅうたろう、1907年5月25日 -… 根本 龍太郎(ねもと りゅうたろう、1907年5月25日 - 1990年3月19日)は、昭和期の日本の政治家。位階は正三位、勲一等旭日大綬章。 自由民主党衆議院議員。秋田県大曲市(現在の大仙市)出身。 秋田県立秋田農業学校(現秋田県立大曲農業高等学校)を経て、1932年京都帝国大学農学部農林経済学科卒業。満州国に渡り、役人を経て、建国大学の助教授を務めた。終戦で日本に引き上げ、1947年の第23回衆議院議員総選挙に旧秋田2区から秋田県民主党より立候補し当選する(当選同期に鈴木善幸・中曽根康弘・中山マサ・松野頼三・倉石忠雄・石田博英・園田直・櫻内義雄・中村寅太など)。 その後民主党に所属するが、炭鉱国管問題に反対し田中角栄、幣原喜重郎、原健三郎、佐々木秀世らと民主党を脱党し、吉田茂の自由党に入党する。
伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 19… 伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 1982年2月10日)は、秋田県秋田市千秋矢留町(旧上中城町)出身のプロ野球選手(捕手、一塁手)、監督。 日本プロ野球における選手兼任監督第1号である。 秋田中学(現・秋田県立秋田高校)時代は、捕手として2度の全国中等学校優勝野球大会(第8回大会、第10回大会)に出場した。慶應義塾大学では控え捕手に甘んじたが、社会人野球の東京倶楽部では慶大時代のチームメイトである宮武三郎らと共に活躍し、1931年に開催された第5回全日本都市対抗野球大会で優勝した。 全日本職業野球連盟が発足した1936年、大東京軍に入団すると、永井武雄監督解任の後を受けて選手兼任監督に就任したが、2勝27敗3分、勝率.069という惨憺たる成績を受けシーズン途中で解任された。
鈴木 清(すずき きよし、1907年4月29日 - 1993… 鈴木 清(すずき きよし、1907年4月29日 - 1993年2月18日)は、日本のプロレタリア作家、政治家。 秋田県平鹿郡旭村(現・横手市)出身。横手中学から山形高等学校へ進学するも社会運動にかかわって中退。 山形高校在学中に紺野与次郎らとともに社会主義運動に入る。その後上京し、東京合同労組書記などを経て職工になる。1929年、四・一六事件に連座し逮捕される。ほどなくして創作活動に入り、『監房細胞』(1931年)などの小説を著し、日本プロレタリア作家同盟の秋田支部を結成して活動した。作家同盟解散後も創作活動を続けたが、1940年には東北農業研究所を設立、農村での改良運動にかかわる。 第二次世界大戦後は政治活動も行い、1946年には旭村の村長職もつとめた。
深井 史郎(ふかい しろう、1907年4月4日 - 1959… 深井 史郎(ふかい しろう、1907年4月4日 - 1959年7月2日)は、日本のクラシック音楽の作曲家。 秋田県河辺郡新屋町(現在の秋田市新屋地区)に医者の三男として生まれる。秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を経て、1927年に旧制第七高等学校を卒業。中学校時代に、同校教諭の石田直太郎(同郷の音楽家、石田一郎の父)からレコードを聴かされたことが、西洋音楽と関わるきっかけとなり、主にストラヴィンスキー、ラヴェル、ファリャなどの影響を受ける。 当初は帝国大学理科を志すも、肺病を病んだため断念。療養後、東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)と帝国音楽学校に入学。学校に籍を置きながら菅原明朗に師事する。
伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 198… 伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 1985年11月18日)は、日本の洋画家。 秋田県鹿角郡小坂町出身。1931年東京美術学校西洋画科卒。藤島武二に師事した。1933年の第20回光風会展でK夫人賞を受け、1934年に光風会会員となった。1934年の第15回帝展に出品した「カルトン」が初入選した。1935年の第22回光風会展で初の光風特賞を受賞した。同年、第二部会展で特選、文化賞を受賞した。 1936年に猪熊弦一郎などとともに新制作派協会(後の新制作協会)を結成した。その後は、同協会の中心会員として活躍した。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に「フットボール」という作品を出品した。
鈴木 壽(すずき ひとし、1907年(明治40年)1月14日… 鈴木 壽(すずき ひとし、1907年(明治40年)1月14日 – 1970年(昭和45年)8月30日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。 秋田県南秋田郡北浦町(現男鹿市北浦)で生まれる。1926年(大正15年)秋田県師範学校を卒業し、さらに同校専攻科を1933年(昭和8年)に卒業した。1926年に小学校教員となり、1946年(昭和21年)高清水小学校長、1947年(昭和22年)高清水中学校長に就任。1946年、秋田県教職員組合が結成され初代委員長に就任し4期在任した。 1947年、秋田県議会議員に当選して連続3期在任した。1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙に秋田県地方区から日本社会党公認で出馬して初当選。
中村 常次郎(なかむら つねじろう、1907年 - 1980… 中村 常次郎(なかむら つねじろう、1907年 - 1980年7月16日)は、日本の経営学者。東京大学名誉教授。 秋田県秋田市出身。東京帝国大学経済学部卒、1954年「経営経済学の展開」で東京大学より経済学博士の学位を取得。福島高等商業学校教授を務め、1949-1951年福島大学の初代学長、東京大学経済学部教授となり、1968年定年退官、名誉教授、中央大学教授、創価大学教授を務めた。
滑川 道夫(なめかわ みちお、1906年11月3日 - 19… 滑川 道夫(なめかわ みちお、1906年11月3日 - 1992年12月13日)は、日本の教育者、教育学者。 秋田県湯沢市生まれ。生家は旧士族で父親は道太郎。両親ともに教師。教員準備場から秋田師範学校に進んだ。父の指導を受け自由律俳句に親しみ、俳号は三千夫。万葉研究家境田四郎教諭のもと、文学教育の重要性に目覚め、専攻科を卒業。秋田師範付属小学校の訓導時代の1930年『北方教育』を創刊し、生活綴方運動を展開し「東京綴方の会」に参加。1932年上京し成蹊学園訓導となり、日本大学卒業。また教育科学研究会言語教育部会に参加。戦後、1946年児童雑誌『銀河』創刊に参加、1957年成蹊学園教育研究所長、1966年東京成徳短期大学教授、東京教育大学教授として国語教育、児童文化を研究。
大野 一雄(おおの かずお、1906年〈明治39年〉10月2… 大野 一雄(おおの かずお、1906年〈明治39年〉10月27日 - 2010年〈平成22年〉6月1日)は、日本の舞踏家。モダンダンサー。マイム師、教育者。北海道函館市出身。 「ラ・アルヘンチーナ頌」「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮」 1906年10月27日、函館の弁天町に生まれた。家は北洋を漁場にする網元で、モダンな家庭であった。父はロシア語を話し、冬はカムチャッカ半島まで漁に出た。母はグラタンなどの西洋料理を得意とし、琴は六段の名手で、オルガンも弾いた。 ロシア正教会の幼稚園に通う。 1919年4月、旧制北海道庁立函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)に入学後、母方の秋田県の親戚白石家にあずけられる。
小畑 勇二郎(おばた ゆうじろう、明治39年(1906年)9… 小畑 勇二郎(おばた ゆうじろう、明治39年(1906年)9月19日 - 昭和57年(1982年)10月5日)は日本の政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。秋田県知事を連続6期24年務め、秋田県の発展に尽力した。 雑貨商の父勇吉、母シカの二男として秋田県北秋田郡早口村弥五郎沢(現・大館市)に生まれる。 大正13年(1924年)3月、旧制秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)を卒業。 大正14年(1925年)4月から小学校の代用教員を務め、昭和2年(1927年)10月から養父吉田季吉の世話で故郷の早口村役場の書記に7年間勤務する。この間、松尾好子と結婚する。 昭和14年(1939年)、秋田県庁に入庁。
門叶 宗雄(とが むねお、1906年5月8日 - 1969年… 門叶 宗雄(とが むねお、1906年5月8日 - 1969年12月4日)は、日本の内務・防衛官僚。官選最後の島根県知事、警視総監、防衛事務次官。旧姓・川村。位階は従三位。 秋田市出身。秋田藩士の川村宗治の二男として生まれ、母方の門叶家を継承した。奉天中学校、弘前高等学校 (旧制)を経て、1930年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1929年10月、高等試験行政科試験に合格。1930年5月、内務省に入り京都府警部補として警察部警務課に配属された。 1932年1月、京都府警察部特別高等警察課に勤務。以後、京都府属・内務部地方課勤務、佐賀県警察部特別高等警察課長、静岡県警察部刑事課長、内務事務官・警保局勤務、内閣情報部情報官、情報局第四部第一課勤務、内務大臣秘書官兼内務事務官、警保局警務官、山梨県書記官・警察部長、茨城県部長・経済部長、同県部長・警察部長、内務省警保局警務課長、同経済保安課長などを歴任し、終戦を迎えた。
八木 隆一郎(やぎ りゅういちろう、1906年4月17日 -… 八木 隆一郎(やぎ りゅういちろう、1906年4月17日 - 1965年5月12日)は、日本の劇作家・脚本家である。新派、新国劇、芸術座、前進座、井上正夫一座、移動演劇隊などあらゆる分野で上演され、映画化も多数なされた。 1906年(明治39年)4月17日、秋田県能代市の向能代の八木財吉・ふみの長男として生まれる。本名:八木財一郎。 3歳の時、両親の離婚で母ふみに連れられて函館に転居、7歳で函館幸尋常高等小学校に入学。13歳で庁立函館商業学校に入学、その翌年から文学活動を始める。仲間と同人誌を発行するとともに、1922年(大正11年)12月15日に創刊された「校友会雑誌」には、"八木小夜二"、"八木青萍子"のペンネームで詩や俳句を投稿する。
山本 時男(やまもと ときお、1906年2月16日 - 19… 山本 時男(やまもと ときお、1906年2月16日 - 1977年8月5日)は、日本の生物学者。名古屋大学名誉教授。理学博士(東京帝国大学、1936年)(学位論文「目高早期胚の律動性運動に関する研究」)。秋田県出身。祖父は秋田における自由民権運動の中心人物であった山本庄司、叔父(父時宜の弟)は砂防・植林技師の山本徳三郎。 メダカを主要な研究材料として選び、受精生理学、発生学を中心に多くの業績をあげ、受精波説を提唱した。1945年5月14日、第二次世界大戦の名古屋大空襲によって教室は全焼し、ほとんどすべての研究資料を失った。しかし、敗戦後、屈することなくメダカを用いて性分化の研究に新たに取り組んだ。